第十七話 白銀の春
「誰…!?」
俺は言った。
女性は、俺を見た。急がない目だった。フランドールを抱えたまま、静かに俺を見ていた。
「藍」
それだけ言った。名字も、素性も、何も言わなかった。ただ、その目が「今はそれだけだ」と言っていた。
「フランドールを、どうするつもりだ」
「害しない。ただ、落ち着かせる。この子には、今は休息が必要だ」
藍はフランドールを見下ろした。その目に、敵意はなかった。
「この子が外に出た以上、幻想郷との関わりは続く。力を持つ者が力のままに動けば、弱い者が傷つく。それを防ぐ仕組みが、この郷には必要だ」
「仕組み、とは」
「決闘の作法だ。力で決着をつけることを禁じるのではなく、力の使い方に形を与える。美しさを競い、技術を競い、命を奪わずに決着をつける。そういう作法を、幻想郷の文化として根付かせる。」
「俺が、それをやれということか」
「あなたが適任だ。博麗の巫女として、そのルールを作り、広める立場に」
藍は、空間の裂け目に向かって歩き始めた。
「明日の昼、博麗神社の境内にて、詳細を話し合おう」
それだけ言って、消えた。
静寂が残った。
「何だったんだ、あいつ…気味悪い」
魔理沙が呟いた。
「わからない」
俺は、藍が消えた場所を見ていた。
「でも、明日また来るらしい。…休ませてほしいんだけどなぁ。」
*****
翌日の昼時、藍は約束通り現れた。
音もなく、気配もなく。空間の一点が静かに歪んで、それから藍の姿が滲み出るように顕れた。昨日と同じ所作だった。この存在にとって、空間を割って出てくることは、人間が扉を開けるのと変わらないのかもしれない。
俺は境内で待っていた。
一晩、考えていた。眠らずに。ルールというものをどう形にするか。力だけで決まる戦いではなく、美しさと技術を競う戦いにするにはどうすればいいか。幻想郷の妖怪にも人間にも適用できる、公平な決闘の形とは何か。
それを、頭の中で何度も組み立て直していた。
「来たか」
「約束通りだ」
藍は簡潔に答えた。感情を込めずに。
二人は境内に向かい合って座った。
そこから、長い話し合いが始まった。
俺が提案し、藍が聞き、藍が修正し、俺が理解する。その繰り返しだった。一つ一つの文言を吟味し、矛盾がないか検証し、実際に運用できるかを確かめながら、言葉を積み上げていった。
太陽が動いた。影が伸びた。だが、二人は止まらなかった。
やがて、形が見えてきた。
決闘はスペルカードというものを使って行う。スペルカードには技の名前と意味を記す。美しい名前を、深い意味を。相手のスペルカードを破るか回避し続けるか、それで勝敗を決める。力だけでなく、技術と美しさで。命を奪うことは禁じられる。殺してはいけない。傷つけるのも、最小限に。ただの暴力ではなく、意味を持たせた戦いとして。
それこそ、スペルカードルールだった。
「……これで、いいだろう」
藍が言った。長い議論の末に。
「ああ。」
俺は頷いた。疲労を感じながらも。
藍が立ち上がった。去ろうとした。
「待て」
俺は言った。
藍が振り向いた。疑問の目で。
「一つだけ、訊きたいことがある」
間を置いた。訊くべきかどうか、一晩考えていた問いだった。
「八雲紫という存在について、何か知らないか」
その名前を口にした瞬間、藍の表情が変わった。わずかにだが、確かに。目が細められ、警戒が滲んだ。
沈黙があった。
風が境内を通り過ぎた。
「……紫様については、私の口から語ることはできない」
藍が言った。
「紫様?」
俺は聞き返した。
「お前は、八雲紫を知っているのか。それも、様付けで呼ぶほどに」
「あっ。」
藍の顔が、一瞬だけ固まった。口を滑らせた、という顔だった。
「お前は、八雲紫と関係があるのか。どういう関係だ。主従か。仲間か」
「それ以上は、訊かないでくれ」
藍が遮った。
「私は多くを語れない。語ることが、許されていない」
その目が、俺を見た。真剣な目で。
「ただ、一つだけ言える」
藍は続けた。言葉を選びながら。
「紫様は、幻想郷を見ている。常に、見ている。そして、必要な時に動く。それだけだ」
「八雲紫は、何者なんだ。なぜお前は語れない。何を隠している」
藍は、答えなかった。首を横に振った。
「いずれ、わかる時が来る。その時まで、待て」
それだけ言って、藍は消えた。
音もなく。気配もなく。
俺は一人、境内に残った。
八雲紫。
その名前が、頭に残った。藍はあの名前を「紫様」と呼んだ。主従関係だろう。では、藍の主である八雲紫とは何者なのか。
紫は、幻想郷を見ている。常に。
だが姿を現さない。直接は動かない。
なぜだ。
答えは得られなかった。問いだけが、積み重なった。
それから、異変のない日々が続いた。
紅霧異変が解決されてから、幻想郷は穏やかだった。人里は活気を取り戻した。作物が育ち、人々が笑い、子供たちが遊んだ。市場に人が溢れ、生活が戻った。
妖怪たちも、静かにしていた。
スペルカードルールが、少しずつ広まり始めた。まだ完全には浸透していないが、一部の妖怪が試し始めていた。
俺は日々を過ごした。神社の掃除をし、参拝者を迎え、異変がないか見回った。博麗の巫女としての、日常を。
魔理沙も、時々訪れた。新しい魔法の研究について話しながら、いつもと変わらない様子で。
フランドールは、まだ館にいると聞いた。暴れてはいない。レミリアと、少しずつ関係を築いているらしい。
咲夜も、あれから傷が癒え、紅魔館で働き続けていた。レミリアに仕え、メイドとして、職務を遂行していると聞いた。
平和な日々だった。
だが、季節は移ろう。
冬が、長かった。
例年より長かった。雪が降り、積もり、世界を白く染めた。骨身に染みる寒さが続き、人々は家に籠もった。
やがて、暦の上では春になった。立春を過ぎ、啓蟄も過ぎた。
だが、春は来なかった。
雪が、溶けない。寒さが、続く。花が、咲かない。桜の枝は裸のままだった。毎年、この時期には桃色の花弁が空を舞っているはずなのに。それがない。
おかしい。
明らかに、おかしかった。
その朝、俺は境内で雪を掃いていた。
「霊夢」
声がした。魔理沙だった。箒に乗って降りてきた。雪の上に着地した。その顔に、いつもの軽さがなかった。
「どうした」
「気づいてるか。春が、来ない」
「ああ」
俺は頷いた。同じことを、考えていた。
「もう春のはずだ。桜が咲くはずだ。でも、咲かない。雪も溶けない。自然な異常気象の範囲を超えている」
魔理沙は腕を組んだ。
「これは、異変だ」
「ああ」
俺は確信を持って同意した。
二人は顔を見合わせた。
異変解決。
また、始まるようだった。
俺は掃いていた箒を置いた。空を見上げた。雪が降っていた。終わりのない雪が、白く、静かに、幻想郷に降り積もっていた。
「行くか」
「ああ」
魔理沙が答えた。
二人は、空へ飛び立った。