空は、白かった。
雪が降り続けていた。暦の上では春になっているのに、世界は冬のままだった。冷たい風が顔を打ち、息が白く凍る。肌を刺すような冷気が、容赦なく全身を包んでいた。
それでも、俺と魔理沙は飛んだ。
霊力を足に込め、大気を蹴り、重力に逆らって上昇する。魔理沙は箒に乗り、魔力を込めて加速する。目的地は決まっていない。ただ、異変の手がかりを探す。春が来ない理由を、雪の空の中に探していた。
白い世界を切り裂くように進むと、妖精たちが現れた。
氷の妖精だった。小さな身体で、俺たちに向かってくる。光弾を放ち、氷の槍を投げ、冷気を撒き散らしながら。その目に、明確な敵意があった。普段の妖精にしては、随分と好戦的だった。
俺は御札を投げた。霊力を込めた三枚が、光りながら飛んでいく。妖精たちに当たり、爆発した。魔理沙が側面から弾幕を展開した。星型の光弾が、空を駆けた。妖精たちが散った。
だが、次々と現れた。
波のように。霧のように。どこから湧いてくるのかわからないほど、絶え間なく。この異変と、何か関係があるのかもしれない。あるいは、春が来ないことへの混乱が、妖精たちを荒立てているのかもしれない。
俺は動きながら、魔理沙の攻撃を横目で見ていた。
変わっていた。
以前と、明らかに違った。レーザーの威力が増している。弾幕の軌道が複雑で、精密だった。妖精が避けようとした先に、すでに弾が来ている。一手先を読んだような動きだった。戦い方そのものが、洗練されていた。
「前より強くなっているな」
俺は言った。御札を一枚投げながら。
「ん、ああ」
魔理沙は笑った。八卦炉を構えながら。その笑顔に、照れと自慢が混じっていた。
「炉を改造した。魔力の変換効率を上げて、出力を増やした。それだけじゃなく、魔法の理論を根本から学び直したんだ。光とは何か、熱とは何か、エネルギーがどう動くのか。そういうところから、一度全部解体して、組み直した」
魔理沙がレーザーを放った。
虹色の光線が空を貫き、妖精の群れを一掃した。残光が、白い雪の中に溶けていった。
「理論がわかると、魔法が自由になる。今まで使えなかった技が使えるようになるし、今まで思いつかなかった応用ができるようになる。感覚だけで使ってた時とは、全然違う」
「どこで学んだんだ。そんな魔導書、お前の家にあったか」
俺は訊いた。
魔理沙が、少し間を置いた。目が、わずかに逸れた。
「……盗んできた」
「どこから」
「紅魔館の図書館」
俺は少し間を置いた。パチュリーの図書館だ。あの薄暗い、天井まで本棚が続いていた場所。パチュリーが本を一冊一冊大切に扱っていた、あの場所。
「何冊だ」
「二十冊くらい、かな。まあ、返すつもりだし、借りてるだけだから」
「返しに行けよ。早めに」
「わかってる」
わかっていない口調だった。
その時、青い髪の妖精が前方に現れた。チルノだった。両手を広げて、俺たちの行く手を塞ぐように浮いていた。
「仲間をいじめて、許さないわ」
怒った顔で叫んだ。眉を吊り上げ、頬を膨らませて。氷弾が、何十発も放たれた。
魔理沙がレーザーで応じた。チルノが吹き飛んだ。あっけなく、遠くに消えた。
また、雪の中を進んだ。
しばらく飛んで、俺は何かに気づいた。
頬に、何かが触れた。
冷たくなかった。雪ではない。柔らかく、軽い。指先で受け取ると、それは花びらだった。桃色の、桜の花びらだった。繊細で、薄く、春の象徴だった。
この身体が、反応した。
霊力が、わずかに揺れた。桜の花びらを知っている、という感覚だった。春の空気を知っている、という感覚だった。俺自身の知識ではなく、この身体に染み込んでいる何かが、この花びらに応えていた。霊夢がここで過ごしてきた季節の記憶が、この身体の中に残っていた。
俺はその花びらを、しばらく見ていた。
上を見上げると、雪と桜の花びらが混じって降ってきていた。白とピンクが、矛盾したまま空から落ちてきていた。地上では雪しか降っていないのに、上空からは桜の花びらも落ちてくる。
「春が、上にある」
俺は言った。
「地上に来ていないだけで、どこかに春が存在している。この花びらが、上から降ってきている」
「じゃあ、上に行けば原因がわかるか」
「行ってみるしかない」
二人は、高度を上げ始めた。雪の中を、さらに上へ向かって。
その頃、紅魔館では。
図書館は、館の中でも比較的損傷が少なかった。パチュリーが張っていた結界が、フランドールの破壊をある程度防いでいたためだった。天井も壁も、大きく崩れてはいなかった。ただ、本棚の一角に、明確な空白があった。本が抜き取られた跡が、そこだけぽっかりと口を開けていた。
パチュリーは、その空白を見ていた。
長い時間、ただ見ていた。本が並んでいたはずの棚を。何百年もかけて集めた本の、なくなった場所を。
美鈴が呼ばれて入ってきた。廊下を小走りで来たらしく、息がわずかに乱れていた。背筋を伸ばして、緊張した顔で立った。
「パチュリー様、お呼びでしょうか」
「ええ」
パチュリーは本棚から目を離さなかった。
「異変解決後、魔理沙がここに来た。知っているわね」
「……はい」
「大量の魔導書が、なくなっている」
パチュリーはそこで振り向いた。その目に、怒りがあった。抑えようとしているが、抑えきれていない。声は静かだった。だからこそ、重かった。
「一冊一冊が、長い時間をかけて集めたものだった。珍しい言語で書かれたものも、絶版になったものも、この世に数冊しか残っていないものも。それが、なくなっている」
「……」
「なぜ、止めなかったの」
美鈴は、答えられなかった。
事実だった。異変解決後、美鈴は門番の仕事に戻っていた。館の修理の手伝いもしながら、本業である門番も続けていた。フランドールとの戦いで負った傷は、治療を受けてはいたものの、完全には回復していなかった。全身に疲労が残っていた。それでも、仕事だから立っていた。
ただ、立っていただけだった。
気づいた時には、眠っていた。
門の前で、直立したまま、眠っていた。どのくらいの時間が経っていたのかはわからない。目を覚ました時、魔理沙はすでに館から出てくるところだった。両腕に本を何冊も抱えて、にやりと笑いながら門をくぐっていった。
「あっ」
声を上げた時には、もう遅かった。魔理沙は箒に跨り、悠々と空へ飛び去っていった。
「すみません」
美鈴は言った。それしか言えなかった。頭を下げた。深く。
「謝罪では、本は戻らない」
パチュリーは言った。感情を押し込んだ、平坦な声で。
「取り戻してきなさい。一冊残らず。すぐに」
「必ず取り戻します…!」
美鈴はもう一度頭を下げた。それから、図書館を出た。
廊下を走りながら、美鈴は考えた。魔理沙がどこにいるか、見当がつかない。今日どこを飛んでいるのかも、わからない。ただ、探さなければならない。パチュリーの本を、取り戻さなければならない。
紅魔館を飛び出した。
雪の空に出た瞬間、冷気が全身を包んだ。走ってきた身体に、容赦なく刺さってきた。上着を持ってくればよかった、と思ったが、今はそれより魔理沙を探す方が先だ。
空を見渡した。白い雪の中を、魔理沙がどこかへ飛んでいる。
どこだ。
美鈴は、空へ飛び立った。