高度を上げるにつれて、空気が変わった。
薄くなった、というより、研ぎ澄まされた感覚があった。雪が横から吹きつけ、顔を叩く。睫毛に小さな氷がついた。霊力を全身に循環させ、身体を維持しながら、ひたすら上を目指した。
前方に、人影が見えた。
白い影だった。雪のような、純白の影が、こちらに向かって漂ってくる。急がない動きだった。時間を気にしていないかのように、優雅に。
俺と魔理沙は、即座に構えた。
影が近づいてきた。やがて、その姿がはっきりした。
女性だった。薄紫のショートボブの髪が風に揺れている。白いターバンのようなものを頭に巻き、首には白いマフラーをしていた。ゆったりとしたロングスカートにエプロンを重ねた装いで、左胸のあたりに四方向に矢印のついた銀色のブローチがある。瞳は薄紫で、俺たちを見ていた。その目は冷たく、しかしどこか楽しそうだった。
「何者だ」
俺は訊いた。警戒を解かずに。
「レティ・ホワイトロック」
女性は答えた。声は低く、艶やかで、冬の静寂を思わせる響きがあった。聞いているだけで、周囲の温度が下がるような声だった。
「冬の妖怪よ。冬の間だけ、この幻想郷に姿を現す。冬が始まれば目覚め、春が来れば消える。それが私という存在の宿命」
レティは俺たちを見た。観察するように。
「博麗霊夢と霧雨魔理沙ね。紅霧異変を解決した者たちとして、妖怪たちの間で話題になっているわ。スペルカードルールというものも、聞こえてきた」
レティは空を見上げた。雪が降り続ける、灰色の空を。その目には、満足そうな光が宿っていた。
「今年の冬は、長いわね。私にとっては、幸せな時間よ。冬が長ければ長いほど、私はこの世界にいられる。冬こそが私の命であり、すべてなのだから。冬がなければ、私は消える。文字通り、存在できない」
レティが、俺たちに視線を戻した。その目が、わずかに細められた。
「でも、聞こえてきたのよ。あなたたちの声が。異変を解決する、春を取り戻す、と」
レティの表情から、微笑みが消えた。冷たさが、増した。
「あなたたちは、この冬を終わらせようとしている。そうでしょう」
「ああ」
俺は答えた。
「春が来ない。幻想郷の秩序が乱れている。それを正すのが、博麗の巫女の役目だ」
「つまり、この冬を終わらせる」
レティが言った。静かに、だが重く。
「この、私にとっての至福の時間を。私が存在できる、貴重な時間を」
レティの周囲に、冷気が溢れ出し始めた。空気が凍りついていく。肌に触れる空気が、針のように刺す。息が白くなる。俺の肌に、うっすらと霜が降り始めた。
「それは、困るわ」
レティが、両手を広げた。
氷の結晶が出現した。美しい、完璧な六角形の結晶が、何百と何千と空間を埋め尽くした。一つ一つが異なる形をしていた。同じものは、一つもない。自然が生み出した、完璧な多様性だった。光を受けて輝き、それ自体が小さな光源のように見えた。
「冬を愛する者として、冬を守る者として、私があなたたちの相手をするわ」
氷の結晶が、動き始めた。意志を持っているかのように、俺たちに向かって集まってくる。
「引くわけにはいかない」
俺は言った。霊力を全身に巡らせながら。
「異変は解決しなければならない」
「同感だ」
魔理沙が八卦炉を構えた。
「冬は終わらせてもらう」
レティが微笑んだ。今度は、戦いを楽しむように。
「ならば、弾幕ごっこといきましょう。スペルカードルール、でしたか。面白いルールね。冬の美しさを、存分に見せられる」
レティが宣言した。
「寒符『リンガリングコールド』」
氷の結晶が、一斉に動いた。
美しい軌道を描いて、飛んでくる。螺旋を描き、波を描き、幾何学的なパターンを形成しながら。ひとつが右に弧を描けば、その隣が左に流れる。まるで川が分かれ、また合流するように。雪が吹雪く夜の、静かな美しさそのものだった。
俺は動いた。霊力で身体を動かし、結晶の間を縫う。紙一重で。結晶が頬を掠め、冷たさが肌を刺した。魔理沙も、箒を巧みに操り、信じられないような角度で方向転換して回避する。
見惚れそうになった。
レティの弾幕は、本当に美しかった。計算し尽くされた軌道。冬の静けさと厳しさと美しさを、すべて表現したかのような動きだった。だが美しいだけではない。結晶同士の間隔が絶妙だ。避けられるが、ギリギリだ。一つ避ければ、次が待っている。
「夢符『封魔弾』」
俺は御札を何枚も投げた。霊力を込めた札が、光弾となって飛ぶ。金色の光が軌跡を描き、レティに向かって殺到する。レティは避けた。優雅に、舞うように。まるでダンスを踊っているかのように、身体を捻り回転し、光弾をすべて回避した。
「恋符『マスタースパーク』」
魔理沙が八卦炉から魔力を解放した。極太のレーザーが、空間を貫く。レティが横に飛んだ。瞬時に判断し、レーザーを避ける。だが、余波が掠めた。熱と光の波が、レティを叩いた。
レティが、わずかに顔を歪めた。すぐに冷気で身体を包み、熱を相殺した。
「強いわね、あなたたち」
レティが言った。そして、新しいスペルカードを宣言した。
「冬符『フラワーオブディセンバー』」
氷の花が出現した。
巨大な、氷でできた花が、空中に何輪も咲いた。透明で美しく、しかし致命的な花だった。その花が、花びらを散らし始めた。氷の花びらが、俺たちに向かって降り注いでくる。何千枚も。雪のように、桜のように、しかし遥かに鋭く。
魔理沙が広角に弾幕を張った。花びらを相殺するために。俺は御札を展開した。だが、数が多すぎた。一枚が、俺の腕を掠めた。凍るような痛みが走った。血が滲んだ。
止まらなかった。
俺はレティに向かって踏み込んだ。痛みを無視して、ただ前へ。距離を詰める。弾幕を掻い潜り、花びらを避けながら。魔理沙も同じように突進する。左右から、挟み撃ちにする。
レティが目を見開いた。予想外の行動だったようだ。
「霊拳『封魔撃』」
俺の拳がレティに迫った。レティが瞬時に氷の壁を作った。厚い、透明な氷の壁が。だが、霊力を爆発させると、壁が砕けた。ガラスのような音を立てて、粉々になった。レティが後退した。
魔理沙のレーザーが追った。レティが避けようとした。だが、角度が悪かった。レーザーがレティの肩を捉えた。
「——」
レティが吹き飛ばされた。身体が回転しながら落下した。しかし空中で体勢を立て直し、ゆっくりと降下して、雪の上に着地した。
レティはゆっくりと立ち上がった。
服が破れていた。肩の部分が焼けていた。それでも、その顔には穏やかな表情があった。
「参ったわ」
静かに言った。負けを素直に認めて。
「あなたたち、本当に強いのね」
レティは空を見上げた。雪が降り続ける空を。しばらく、その目が遠くを見ていた。勝負に負けた悔しさではなく、もっと遠いものを見ているような目だった。
「冬が終われば、私も消える」
レティは言った。独り言のように、しかし俺に向けるように。
「存在を、失う。でも、それでいい。また来年の冬に目覚める。それが私の時間の流れ方よ」
俺は、その言葉を聞いていた。
消える。でも、それでいい。
この幻想郷には、そういう存在がいる。春が来れば消え、冬が来れば戻る。消えることを嘆かず、ただ受け入れる。レティはそれを、当たり前のこととして話していた。
霊夢のことが、浮かんだ。
霊夢がここにいた。この身体で、この神社で、この幻想郷を守っていた。それが今、俺に変わっている。霊夢はどこへ行ったのか、まだわからない。だが、消えたことを「それでいい」と思っているかどうか、それも俺にはわからない。
レティのように、納得して消えたのだろうか。
それとも——。
「春は、あの上にあるわ」
レティが指差した。雲の向こうを。
「高度を上げれば上げるほど、桜の花びらが増えていくはずよ。それが、道標になる」
レティが、少しずつ薄れ始めた。
透明になっていく。輪郭が滲んで、雪景色に溶けていく。ゆっくりと、静かに。
「また来年、会いましょう。あなたたちのような強者と、また戦えることを楽しみにしているわ」
声だけが、しばらく残った。
それから、完全に消えた。痕跡すら、残さずに。ただ、雪だけが降り続けていた。
俺と魔理沙は、しばらく沈黙した。
「いい妖怪だったな」
魔理沙が言った。しみじみと。
「ああ。潔かった」
俺は頷いた。
雪の中に、まだレティの気配が残っているような気がした。冬の冷たさの中に、確かに生きていた存在の痕跡が。
消えることを受け入れて、それでも清々しく笑っていた妖怪の姿が、冬の空気の中に溶けていた。
俺は空を見上げた。レティが指差した方向を。
「行くぞ、魔理沙」
「ああ」
二人は、さらに上昇を始めた。高度を上げるにつれて、桜の花びらが増えていく。雪と混じって降ってくる。白とピンクが、混ざり合っていた。
雲の向こうに、春がある。
俺たちは、止まらなかった。