紅い霧は、生き物だった。
森の入り口に立った瞬間、それを確信した。霧が纏わりついてくる。湿っていて、粘ついていて、払おうとすればするほど深く絡みついてくる。呼吸するたびに喉を通り、肺の奥まで侵食してくるような感触があった。大気そのものが、何か禍々しいものに変質していた。
足を踏み入れながら、俺は口元を袖で覆った。気休めだとわかっていても、そうせずにはいられなかった。
視界が悪かった。
五歩先の木の輪郭が霞んでいた。幹と影の境界が溶け合い、森全体が水彩画のように曖昧な姿をしていた。足元は腐葉土に覆われていて、踏むたびに湿った音を立てた。草履の底を通して、冷たい水気が足裏に染み込んでくる。長距離を歩くためにできた履物ではない。すでに踵が擦れていた。
「方角もわからないな」
立ち止まって空を仰いだが、太陽の位置は読めなかった。紅い霧が光の方向ごと塗り潰していた。東西南北の感覚が消えていた。
記憶を探る。湖のほとり。霧の湖。その湖畔に建つ西洋風の館。それが紅魔館のはずだった。神社は高台にある。ならば地形に従って低いところへ降りていけば、いずれ平地に出る。川があれば辿ればいい。
単純すぎる方針だったが、他に手がかりがなかった。
俺は深く息を吸い、霧ごと肺に納めて、前を向いた。
静寂が、恐ろしかった。
鳥の声がしなかった。虫も鳴かなかった。風も吹かなかった。生き物の気配が、森から根こそぎ抜けていた。聞こえるのは自分の足音だけで、落ち葉を踏む音が、この静けさの中では必要以上に大きく響いた。自分の居場所を霧の中に撒き続けているような、落ち着かない感覚があった。
腰の御札を指で確かめた。
三日間、境内で練習を続けた。霊力を込めて投げれば、光りながら真っ直ぐ飛ぶ。動かない的なら、何度かに一度は当たるようになった。だが、それだけだった。実戦の経験はない。弾幕がどんなものかも、妖怪の速度がどれほどのものかも、身体で知らない。
知識と実感の間の、その溝がどれほど深いか。
考えると、少し足が重くなった。だから考えるのをやめた。進みながら考える。止まって悩む暇はない。
どれくらい歩いただろうか。時間の感覚が狂い始めていた。紅い霧は薄まらず、景色も似たり寄ったりで、同じ場所を巡回しているような錯覚が繰り返し襲ってきた。
その時だった。
世界が、暗くなった。
じわじわと、徐々に。まるで誰かが光の絞りを少しずつ絞っていくように。紅い霧がさらに濃くなったわけではない。これは別の暗さだった。光そのものが失われていくような、根源的な闇だった。
本能が鳴った。
危険だ、と。ここから離れろ、と。
御札を取り出した。霊力を込めると、淡い金色の光が灯った。数歩先まで照らせる程度の光だったが、それでも何もないよりはましだった。
「そーなのー?」
声が、した。
少女の声だった。明るく、軽く、まるで友人に話しかけるような無邪気な声。背筋に冷たいものが走った。御札を声の方向へ向ける。だが、暗闇が濃すぎた。何も見えなかった。
「誰だ。姿を見せろ」
声を低く保ちながら言った。怒鳴っても意味がないと思った。落ち着いた声の方が、まだ状況を把握できる。
「隠れてなんかいないもんー」
声が、耳元から聞こえた。
反射的に後ろへ跳んだ。着地と同時に御札を構える。暗闇の中から、人影が浮かび上がってきた。
小さかった。
黄色い髪。赤い瞳。白黒の洋服に、頭の赤いリボン。一見すれば、普通の少女だった。だがその周囲を、半径数メートルの完全な闇が包んでいた。光を通さない純粋な暗黒。それが少女の動きに従って揺れ動いていた。意思を持っているかのように。
「あなた、人間なの?」
少女は首を傾げた。子供が珍しいものを見つけた時のような動作だった。
「ルーミア…だな」
名前が口をついた。断片的な記憶の中にあった。一面ボス。闇を操る妖怪。比較的弱い部類、と知識では知っている。
だが、目の前の存在から感じる圧は、「弱い」という言葉とは合わなかった。
「あー、知ってるのー」
ルーミアは嬉しそうに言った。そして、続けた。
「お腹空いてたんだよー。ちょうど良かったー」
俺は、一拍の間を置いた。
「……食うつもりか、俺を」
「そーだよー。人間は美味しいんだよー」
あっけらかんとした声だった。晩飯のメニューについて話すような口調。罪悪感の欠片もない。
怒りが来た、とは少し違う。もっと冷えた何かが、胃の底に落ちてきた感覚だった。殺意でも憎悪でもなく、ただの食欲。それが、何より理解しがたかった。俺はこの少女にとって、牛や豚と区別のない、食料でしかない。
「それは、困る」
俺は言った。御札を構え直しながら。
「まだここで終わるわけにはいかない。異変を解決するまでは」
宣言するような気持ちはなかった。ただ、事実を告げる気持ちで言った。
「あれー、逃げないのー」
ルーミアが不思議そうに首を傾けた。
「普通の人間は逃げるのにー。もしかして神社の巫女さん?」
巫女さん、という言葉が、胸のどこかに引っかかった。
ルーミアは霊夢を知っている。この身体の元の持ち主を知っている。その名前で俺を呼んでいる。
「……そうだ。巫女だ」
少しの間があった。言い切るのに、一瞬の抵抗があった。だが言った。これが今の俺の立場だから。
「来い」
両足を踏ん張り、重心を落とす。
瞬間、視界が消えた。
ルーミアが両手を広げた。それだけで、周囲が完全な闇に包まれた。御札の光が飲まれた。いや、光っているのかもしれないが、闇があまりにも濃くて届かなかった。自分の手すら見えなかった。
焦りが来た。本能的な、動物の焦りだった。
御札を投げた。方向もわからないまま、霊力を込めて放った。手応えがなかった。闇に消えた。
「無駄無駄ー。私の闇は光も音も飲み込むんだよー」
声が四方から来た。上から、下から、左右から。どこにいるかわからない。
止まれ、と自分に言った。
焦っても状況は変わらない。見えないなら、見えないなりの手がある。
目を閉じた。視界がなくても同じだったが、閉じることで意識が内側に向いた。身体の中を流れる霊力を感じた。温かいエネルギーが、心臓から全身へ巡っている。それを外へ向けた。レーダーのように、静かに放射した。
気配が、あった。
右斜め上。五メートルほど。浮いている。
「そこだ」
声に出さずに、放った。視覚ではなく霊力の感覚だけを頼りに。さっきより強く霊力を込めて。
「きゃっ!」
当たった。
だが、喜ぶ間もなかった。
「……よくもやったなぁ」
ルーミアの声が変わった。無邪気さが剥がれた。獣の剥き出しの怒りがあった。
「本気出すからねー!」
暗闇が、膨れ上がった。
圧迫感が全身を押した。空気が重くなった。呼吸が詰まった。深海の底に沈んでいくような、逃げ場のない重さが身体に乗ってきた。骨が軋んだ。
このままでは押し潰される。
御札を投げ続けるか。逃げるか。
どちらも、今は間に合わない。
その時、身体が先に動いた。
霊力が、溢れた。
制御できなかった。いや、制御しようとする前に、身体がそれを必要だと判断した。積み上がった力が、一点から崩れて広がっていくような感覚だった。壁が、内側から押し割れた。
熱かった。痛いとも違う、強い熱が全身を駆けた。皮膚の表面まで光が満ちるような感覚があった。
光が、爆発した。
眩い光が周囲に放射された。暗闇が、端から溶けていった。紅い霧に覆われた森が、木々が、地面が、順に戻ってきた。
「きゃあああ!」
ルーミアの悲鳴が響いた。
視界が完全に戻った時、ルーミアは地面に倒れていた。金髪が広がり、身体がぐったりとしていた。
俺は、しばらく動けなかった。
息が整わなかった。膝が笑いそうになった。それを堪えながら、倒れたルーミアを見た。胸が、規則正しく動いていた。生きていた。
安堵が来た。
来て、その直後に、奇妙な感覚が重なった。
俺はなぜ、この妖怪が生きていることに安堵しているのか。さっきまで俺を食おうとしていた相手に。
だが、それは正直な気持ちだった。ルーミアに悪意はなかった。ただ空腹だった。それだけで命を奪うのは違う、と思ったから、安堵した。そこに矛盾はない。
問題は、その安堵と、霊夢への罪悪感の、重さが釣り合っていないことだった。
ルーミアが倒れているのを見た時の胸の動きと、霊夢を思う時の後ろめたさ。前者は鮮明で、後者はどこか遠い。頭では理解しているのに、胸に届かない。
慣れていくのかもしれない、と思った。霊夢の顔に慣れたように。霊夢の声に慣れたように。霊夢の不在にも、いつか慣れて、当たり前になっていくのかもしれない。
それが、一番怖かった。
「……すまない、霊夢」
誰もいない森に向かって、呟いた。
立ち去ろうとした時、声がした。
「待てぇ……」
振り返ると、ルーミアが起き上がっていた。ふらふらと、膝を震わせながら。
「……まだやるか」
御札に手をかけた。だがルーミアは首を横に振った。
「違うよー。勝てない試合はつまらないもの」
それから、真剣な顔で俺を見た。さっきまでの無邪気さとは違う、真摯な眼差しだった。
「名前、教えてほしいのー。強い人の名前は、ちゃんと聞いておきたいもん」
「博麗霊夢だ」
言いながら、胸の奥がかすかに痛んだ。
「霊夢……へぇー」
ルーミアは首を傾げた。
「なんか、違うのかー」
「何が」
「雰囲気、かなー。前に神社の近く通った時の巫女さんとー、なんか、違う気がするのー」
俺は、一拍止まった。
「そうか。そう見えるか」
誤魔化しも、否定もしなかった。
していい嘘と、してはいけない嘘がある。ルーミアが見た「前の霊夢」は、本物だ。それを「気のせいだ」と切り捨てることは、俺にはできなかった。ただ、全部を話すことも今はできない。
「色々あってな」
それだけ言った。
ルーミアは、しばらく俺を見ていた。何か考えるような顔をして、それからゆっくり頷いた。
「そっかー」
追及しなかった。
「気をつけてねー、霊夢」
真剣な声だった。
「私の先には、もっと強い妖怪がいるからー。私の何倍も強いよ。本当に、気をつけてねー」
それだけ言って、ルーミアは暗闇の中に溶けるように消えた。
一人になった森で、俺は大きく息を吐いた。
膝の震えを、今さら認めた。全身の力が抜けて、その場に座り込みそうになった。堪えた。座ったら、立てなくなる気がした。
自分の手を見た。細く白い、霊夢の手。
「この力で……やれるかもしれない」
呟いた。希望とも確認とも取れる言葉だった。
だが同時に、思った。
この力は、俺が積み上げたものじゃない。この勝利は、俺だけのものじゃない。
「借りっぱなしだな、霊夢」
返事はなかった。紅い霧が静かに漂っていた。
俺は前を向いた。足の痛みを数えながら、それでも一歩を踏み出した。
森が、少しずつ疎らになってきた頃だった。
木々の間隔が広がり、地面が平坦になってきた。視界がわずかに開け、霧の向こうに水面の光が見えた気がした。
その時、頭上から影が降ってきた。
俺は反射的に横へ跳んで、御札を構えた。
降りてきたのは、箒に乗った少女だった。
「おっと、危ねぇ」
軽い声で着地した。黒と白の服。とんがり帽子。金色の髪。
記憶が一致した。
「霧雨魔理沙」
「おう、正解」
魔理沙は満足そうに頷いた。そして、俺の足元から顔まで視線を這わせてから、眉をひそめた。
「……お前、何で歩いてんだ。飛んでこいよ、普通」
「飛ぶことに、今は集中できない」
咄嗟に答えた。嘘ではなかった。少なくとも、今この場でそれを説明するより、この答えの方が会話を進められると判断した。
「集中できない?」
魔理沙が俺の顔を覗き込んだ。金色の瞳が、じっと観察している。
「お前、本当に大丈夫か。なんか、いつもと違くないか」
俺は、少し間を置いた。
「色々あった」
「色々って」
「紅い霧の中を歩いてきた。それだけで、十分色々だろう」
魔理沙は一瞬だけ口をつぐんで、それから小さく笑った。
「……まあ、そうだな。確かに」
納得したような、していないような顔だった。だが追及はしなかった。
「で、お前、あの紅い館に向かってんのか」
「ああ」
「奇遇だな、私もだ」
魔理沙は箒を肩に担いで、湖の方角を指した。
「一緒に行くか。どうせ同じ場所に用があるんだろ」
俺は、その申し出を少しの間だけ考えた。
一人より二人の方が、単純に生き残れる確率が上がる。魔理沙が信頼できる相手かどうかは、まだわからない。だが、目の前の少女から感じる気配は、敵のものではなかった。
「頼む」
素直に言った。
魔理沙が少し目を丸くした。それから、また笑った。今度は、さっきより柔らかい笑いだった。
「珍しく素直じゃないか、お前」
「そうか」
「いつもはもっとぶっきらぼうだぞ」
「そういう気分じゃない、今日は」
魔理沙はしばらく俺を見ていた。何かを考えるような間があった。
「……まあ、いいか」