紅い霧は、生き物だった。
少なくとも、俺にはそう感じられた。森の入り口に立った瞬間、その感覚が全身を駆け巡った。霧が纏わりつく。皮膚に触れる感触は湿っていて、粘ついていて、まるで無数の指先が這い回っているかのようだった。髪に絡み、服の繊維に染み込み、呼吸するたびに喉を通って肺の奥深くまで侵入してくる。
吐き気がした。
本能が拒絶していた。この霧は自然なものではない。何か禍々しい力によって生み出された異質な存在だ。大気そのものが汚染されている。
「気持ち悪い……」
呟きながら、俺は無意識に腕を払った。しかし無意味だった。霧は空気そのものなのだから。払っても払っても、すぐにまた纏わりついてくる。じっとりとした感触が、決して離れない。
諦めて、俺は前を向いた。
視界が、恐ろしく悪かった。
五メートル先すら霞んで見える。木々の輪郭はぼやけ、幹と影の境界が曖昧になっていた。まるで水彩画の中を歩いているような、あるいは夢と現実の狭間を彷徨っているような、そんな非現実的な光景が広がっている。
足元は落ち葉で覆われていた。長い年月をかけて積もった落ち葉の層が、湿気を含んで腐葉土へと変わりつつある。踏むたびに、ぐちゃりと嫌な音を立てた。滑りやすい。一歩一歩が慎重にならざるを得なかった。
草履越しに伝わる地面の感触が、ひどく頼りなかった。この履物は戦闘用ではない。長距離を歩くためのものでもない。すでに足裏が痛み始めている。小石が食い込み、踵が擦れている。
「方角も、こんなんじゃわかんねぇな……」
立ち止まって、俺は周囲を見渡した。
太陽の位置がわからなかった。紅い霧が空全体を覆い尽くしているせいで、光の方向すら判別できない。東西南北の感覚が失われていた。時間の感覚も狂い始めていた。今が朝なのか昼なのか、それすらもう定かではない。
紅魔館の場所も知らなかった。
断片的な記憶の中では、湖のほとりにあるはずだった。霧の湖。その湖畔に建つ、西洋風の巨大な洋館。それが紅魔館だ。……った、はず。
だが、この神社からどの方角にあるのか。どれくらいの距離を歩けばいいのか。まったくわからなかった。
「とりあえず……下へ降りていけば、湖に出るか。」
神社は高台にあった。ならば、地形に従って下へ下へと進めば、いずれ平地に出るだろう。そこから湖を探せばいい。川があれば、それを辿るのも手だ。
単純すぎる計画だったが、他に手がかりもなかった。
地図もない。コンパスもない。頼れるのは、自分の足と勘だけだ。
俺は深呼吸をした。紅い霧が肺に入り込む。気持ち悪いが、我慢するしかない。
そして――森の奥へと足を踏み入れた。
静寂が、世界を支配していた。
不気味なほどの静寂だった。
鳥の声が聞こえなかった。虫の声も聞こえなかった。風すら吹いていなかった。紅い霧が空気の流れを止めているのか、それとも生き物たちがこの異常事態を察知して身を潜めているのか。
いずれにせよ、音がなかった。
あるのは、自分の足音だけだった。
落ち葉を踏む、カサカサという音。草履が地面を擦る、サッサッという音。それらが妙に大きく響いた。まるで、この森全体に自分の存在を知らせているかのようだった。
「……気味が悪いな。」
呟いて、俺は周囲を警戒した。
幻想郷には妖怪がいる。
人を食う化け物がいる。
おぼろげな記憶の中で、そのことだけは確かだった。この森の中、いつ襲われてもおかしくない。この静寂は、むしろ嵐の前の静けさなのかもしれない。捕食者が獲物を狙って息を潜めているような、そんな緊張感があった。
腰に差した御札を確認する。赤白い紙の束。神社の社務所にあった、唯一の武器だ。
指で触れると、わずかに温かかった。霊力が込められているのか、それとも俺の身体から発せられる霊力に反応しているのか。いずれにせよ、この札には力がある。
「使えるのか、これで……」
不安が込み上げてきた。
三日間の訓練で、御札を飛ばすことはできるようになっていた。霊力を込めて投げれば、光りながら真っ直ぐ飛んでいく。的に当てることも、何度か成功していた。
だが、それは動かない標的相手の話だった。
弾幕ごっこ。妖怪との実戦。そんなものは、まったくの未経験だった。
前世でも、俺は戦いとは無縁の人間だったはずだ。おぼろげな記憶の中で、それだけは確信できた。喧嘩すらしたことがなかったのではないか。暴力というものに、縁がなかった。
それなのに、これから命がけの戦いをしなければならない。
妖怪と。
化け物と。
「……」
拳を握った。細く華奢な、少女の拳だった。
霊夢の拳だ。俺のものじゃない。
だが、この拳にも力はあった。この身体にも、戦うための力が宿っていた。
霊夢が積み上げてきた力が。
「やるしかない」
前世のことはほとんど思い出せなかった。名前も、顔も、どこに住んでいたのかも。家族がいたのか。友人がいたのか。恋人がいたのか。どんな仕事をしていたのか。
すべてが霧の中だった。まるで、この紅い霧のように。
だが、一つだけわかることがあった。
俺は、逃げるような人間じゃなかった。
少なくとも、そうありたいと思っていた。目の前に困難があるなら、立ち向かう。問題があるなら、解決しようとする。それが俺という人間の核だった。
たぶん。
いや、きっとそうだ。
魂に刻まれた性質というものは、身体が変わっても失われないのだろう。
「進もう。」
俺は再び歩き出した。
時間の感覚が、完全に狂っていた。
どれくらい歩いただろうか。十分なのか、三十分なのか、それとも一時間以上経っているのか。わからなかった。
紅い霧は変わらず空を覆い、薄暗さも変わらなかった。景色も似たり寄ったりで、同じ場所を巡回しているような錯覚すら覚えた。実際、迷っている可能性もあった。
ただ、ひたすら森の中を進んだ。
木々を抜け、茂みをかき分け、倒木を乗り越え、小川を飛び越えた。
足が、痛かった。
草履では、明らかに長距離を歩くには向いていなかった。足裏に小石が食い込んだ。踵が擦れた。マメができているかもしれなかった。いや、きっとできている。
「もぉ~……」
愚痴を吐きながらも、俺は歩き続けた。
止まれば、それだけ異変の解決が遅れる。人里の人間たちが苦しむ時間が延びる。
それに、止まれば、不安が襲ってくる。
本当にこの方向で合っているのか。本当に湖にたどり着けるのか。それとも、俺は森の中で永遠に迷い続けるのか。
そんな不安が、頭の中を巡り始める。
「考えるな。前に進め」
自分に言い聞かせて、俺は歩いた。
一歩、また一歩。
確実に、前へ。
ふと、気づいた。
「……暗く、なってきた?」
紅い霧はもともと薄暗かった。真昼だというのに、夕暮れのような光量しかなかった。
だが、今はそれ以上だった。
周囲が、明らかに暗くなっていた。
徐々に、じわじわと、まるで誰かが照明のスイッチを絞っていくかのように、光が失われていった。夜が近づいているかのような暗さだった。
いや、違う。
時間が経過しているわけではなかった。紅い霧の濃度が増しているわけでもなかった。
これは――
「霧じゃない……」
暗闇だった。
純粋な、暗闇。
紅い霧とは別の、もっと根源的な闇が、周囲を侵食し始めていた。光を飲み込む闇。存在そのものを消し去るような闇。
「何だ、これ……」
警戒心が跳ね上がった。
背筋に冷たいものが走った。本能が警告を発していた。危険だ。ここは危険だ。すぐに逃げろ。
だが、逃げるわけにはいかなかった。
俺は御札を手に取った。
霊力を込める。意識を集中させ、身体の中を流れるエネルギーを手のひらに集める。
札が、淡く光り始めた。
金色の光。それが周囲をわずかに照らした。数メートル先まで、ぼんやりと見えるようになった。
だが、暗闇は消えなかった。
それどころか、どんどん濃くなっていった。光が暗闇に飲み込まれていった。まるで、光そのものが食べられているかのように。
「おかしい……こんなの、普通じゃねぇ……」
呟いた瞬間――
「そーなのー?」
声がした。
少女の声。明るく、軽く、まるで友人に話しかけるような、無邪気な声。
「ッ!」
俺は反射的に身構えた。札を持った手を、声の方向に向ける。
だが、何も見えなかった。
暗闇が濃すぎた。御札の光すら、ほとんど届いていなかった。
「誰だ!出てこい!」
叫んだ。
声は森の中に響いて、すぐに暗闇に吸い込まれた。まるでスポンジに水が染み込むように。
返事はなかった。
だが、気配があった。
確かに、何かがいた。すぐ近くに。息遣いすら聞こえそうなほど、近くに。
「隠れてねぇで出てこい!」
もう一度叫んだ。声に、少し恐怖が滲んでいた。
今度は、返事があった。
「隠れてなんかいないもんー」
声は、驚くほど近くから聞こえた。
耳元で囁かれたかのような、至近距離。
「なにぃっ!?」
俺は後ろに跳んだ。本能的な回避行動だった。着地と同時に、また札を構える。
暗闇の中から、何かが浮かび上がってきた。
人影。
小さな、人影。
そして――その輪郭が、徐々にはっきりしてきた。
「……!」
少女だった。
黄髪に、赤い瞳。白黒の洋服。頭の上には赤いリボンが揺れている。
一見すると、ごく普通の少女だった。
いや、可愛らしいとすら言えた。人形のような、整った容貌をしていた。
だが――
何より異様なのは、その周囲を覆う暗闇だった。
少女を中心に、半径数メートルが完全な闇に包まれていた。光すら通さない、純粋な暗黒。それが、まるで少女に従属しているかのように、少女の動きに合わせて揺れ動いていた。
生きている闇、それか、意思を持った闇。
そうやって表現するのが、最も正確だった。
これは、普通じゃない。
「あなた人間なの?」
少女は首を傾げた。
その動作は、まるで子供が珍しいものを見つけた時のように無邪気だった。天真爛漫とすら言えた。悪意のかけらもないように見えた。
俺の背筋に、冷たいものが走った。
この少女は、危険だ。
圧倒的に、危険だ。
「妖怪……!」
口から出たのは、確信に満ちた言葉だった。
これは人間じゃない。
妖怪だ。
人を食う、化け物だ。
「そーだよー。私は妖怪だよー」
少女は笑った。屈託のない、明るい笑顔だった。まるで、自己紹介をする子供のように。
「ルーミアって言うんだよー」
ルーミア。
その名前を聞いた瞬間、断片的な記憶が蘇った。
東方Project。最初のステージ。一面ボス。
闇を操る妖怪。
そして――比較的弱い部類の妖怪。
だが、目の前の存在から感じる圧力は、決して弱いとは思えなかった。
「人間、久しぶりなのかー」
ルーミアは嬉しそうに言った。まるで、久しぶりに会った友人に再会したかのような、喜びに満ちた口調で。
「お腹空いてたんだよー。ちょうど良かったー」
だが、その言葉の意味は――
「……食う気か?俺を……」
俺の声が、低くなった。
喉の奥から絞り出すような、低い声。怒りと恐怖が混じった声。
「そーだよー。人間は美味しいんだよー」
ルーミアはあっけらかんと答えた。
まるで、今日の晩御飯のメニューについて話すかのように。当たり前のことを言うかのように。罪悪感のかけらもなく。
感情が、爆発しそうになった。
怒り……いや、違う、恐怖だった。
目の前の少女は、俺を食おうとしていた。本気で。悪意なく。ただ、お腹が空いたから。
それが、何より恐ろしかった。
殺意があるなら、まだわかる。憎しみがあるなら、理解できる。復讐心があるなら、納得できる。
だが、この少女にあるのは――ただの食欲だった。
俺は、この少女にとって、食事でしかなかった。牛や豚と、何も変わらなかった。
「冗談じゃねぇ……」
呟いて、俺は御札をしっかりと握りしめた。
手が震えていた。恐怖で震えているのか、怒りで震えているのか、自分でもわからなかった。
「まだこの姿になって一週間もたってない。ここで死ぬわけには、いかないんだよ…」
「あれー?抵抗するの?」
ルーミアは不思議そうに首を傾げた。
「人間は普通、逃げるのにー。もしかして、上の方にある神社の巫女さん?」
………「巫女さん」
本物の、博麗霊夢。
この身体の、元の持ち主。
ルーミアの無邪気な声が、図らずも俺の胸に刺さった。
俺が来る前まで、ここを歩いていたのは霊夢のはずだった。その霊夢を知っているこの妖怪が、当たり前のように「巫女さん」と呼んでいる。
その呼び名が、ひどく重かった。
「……俺は…そうだな、巫女だ。」
言いながら、俺は自分に言い聞かせた。
今の俺は、博麗霊夢なんだ。
霊夢の身体を借りて、霊夢の名前を背負って、霊夢の代わりにここに立っている。
だから――逃げるわけにはいかない。
「来い!」
俺は札を構えた。両足を踏ん張り、重心を落とす。戦う構えだった。
「受けて立つ」
「ふーん」
ルーミアは興味深そうに俺を見た。赤い瞳が、じっと俺を観察していた。
「普通の人間と違うんだ。でも、まあいいわ。」
そう言って、ルーミアは、ゆっくりと両手を広げた。
まるで、誰かを抱きしめるかのような動作。
瞬間、暗闇が膨れ上がった。
「!」
周囲が、完全に闇に包まれた。
視界がゼロになった。
何も見えなかった。完全な暗闇だった。自分の手すら見えなかった。
御札の光すら、消えていた。いや、光っているのかもしれないが、闇があまりにも濃くて見えなかった。光が、闇に飲み込まれていた。
「くそっ!」
俺は手探りで御札を投げた。
感覚だけを頼りに。方向も定まらないまま。
霊力を込める。意識を集中させ、エネルギーを札に注ぎ込む。
放つ。
だが――何の手応えもなかった。
札がどこに飛んでいったのか、当たったのか外れたのか、まったくわからなかった。
闇に飲み込まれて、消えた。
「無駄無駄ー」
ルーミアの声が、四方八方から聞こえた。
上から、下から、左から、右から。どこにいるのかわからなかった。声が反響して、いや、反響すらせずに、ただ空間全体から響いてくるような感覚だった。
「私の闇は、光も音も飲み込むんだよー。何も見えないし、何も聞こえない。」
「ちっ……!」
焦りが込み上げてきた。
このままじゃ、何もできない。
視界がなければ、攻撃もできない。防御もできない。
一方的に、やられる。
食べられる。
「どうしよう……どうすりゃいい……全く参ったぞ…!」
パニックが襲ってきた。
呼吸が浅くなった。心臓が激しく跳ねた。全身に冷や汗が噴き出した。
このままじゃ死ぬ。
本当に死ぬ。
「待て……落ち着け……」
俺は自分を叱咤した。
深呼吸をする。一度、二度、三度。
パニックになっても、状況は改善しない。むしろ悪化する。
冷静に。冷静に考えろ。
見えないなら、見えないなりの戦い方があるはずだ。
「エネルギー……いや、霊力?かな……霊力っていうので感じ取れないか……?」
目を閉じた。
いや、もう視界はないから意味がないが、それでも目を閉じることで意識を内側に向けやすくなった。
身体の中を流れる、霊力。
温かいエネルギーが、血管を巡っていた。心臓から送り出され、全身を駆け巡り、また心臓に戻ってくる。循環している。
それを、感じた。
意識した。
そして、外に向けた。
身体の外へ。
まるでレーダーのように。音波のように。
霊力を、放射した。
すると――
「……いたぞ!」
気配を感じた。
ルーミアの位置が、わかった。
右斜め上。距離は――五メートルほど。
浮いているのか。いや、妖怪なら当然か。重力に縛られない存在。
「そこだ!」
俺は御札を投げた。
狙いを定める。視覚ではなく、霊力による感覚を頼りに。
霊力を込める。さっきよりも強く。意識を集中させ、札に力を注ぎ込む。
イメージする。札が飛んでいく軌道を。ルーミアに命中する瞬間を。
放つ。
札が飛んだ。闇の中を。見えないが、確かに飛んでいった。
そして――
「きゃっ!」
ルーミアの悲鳴が聞こえた。
当たった。
確かに、当たった。
「やり……!」
だが、喜ぶのは早かった。
「痛ぁい、よくもやったな~……!」
ルーミアの声に、明確な怒りが混じっていた。
さっきまでの無邪気な口調とは違った。獣のような、荒々しさがあった。本性を現したような声だった。
「本気出すからねー!」
瞬間、暗闇が、さらに濃くなった。
圧迫感が増した。空気が重くなった。呼吸が苦しくなった。
まるで、深海の底にいるかのような。何トンもの水圧が身体を押し潰そうとしているかのような。
「……!」
これは、まずい。
このままじゃ、押し潰される。
闇の圧力に、身体が耐えられない。
骨が軋む音が聞こえた気がした。いや、実際に聞こえたのかもしれない。
「この場合はどうする……どうすりゃいい……!」
焦燥が襲ってきた。
御札を投げる?いや、また避けられるかもしれない。それに、もう手元に何枚残っているかもわからない。
逃げる?だが、どこに逃げればいい。視界もないのに。闇から逃げられるのか。
「くっそぉ~…!!」
思考が空回りした。
恐怖が、理性を侵食していった。
このまま死ぬのか。
転生して、たった四日で。
異変も解決できずに。
だが――
その時、身体が勝手に動いた。
「――!」
霊力が、爆発的に溢れ出した。
身体の中から、外へ。
堰を切ったように。火山が噴火するように。ダムが決壊するように。
制御できなかった。
いや、制御する必要がないと、身体が理解していた。本能が理解していた。
「何だ、これ……!」
霊力が全身を駆け巡った。
血管を、神経を、骨を、筋肉を、皮膚を、髪の毛の一本一本まで、細胞の一つ一つが光に満たされていった。
すべてが、輝いていった。
温かかった。
熱かった。
だが、不快ではなかった。
むしろ、心地よかった。
まるで、生まれ変わっているかのような。蝶が蛹から羽化するような。封印されていた力が解放されるような。
そして――
「これならいけるぞ……食らえ妖怪!」
叫んだ。
意識して叫んだわけではなかった。自然と、本能が、魂が、口を突いて言葉を発した。
瞬間、光が爆発した。
眩い、純白の光。
それが身体から放射され、周囲の闇を吹き飛ばした。まるで太陽が突然出現したかのように。いや、太陽以上に眩しい光が、すべての暗闇を消し去った。
「きゃああああ!」
ルーミアの悲鳴が響いた。
苦痛に満ちた、本当の悲鳴だった。
闇が晴れた。視界が戻った。
紅い霧に覆われた森が、再び見えた。木々が見えた。地面が見えた。
そして――
俺は見た。
ルーミアが地面に倒れている姿を。
金髪が地面に広がり、身体がぐったりとしていた。動かなかった。
「……勝った?」
信じられなかった。
自分が何をしたのかも、よくわからなかった。
だが、事実だった。
ルーミアは倒れていた。動かなかった。
周囲の暗闇も、完全に消えていた。紅い霧だけが残っていた。
「ち、力が…こんなにあったのか…この小さい身体に」
呟いて、俺は自分の手を見た。
細く華奢な、少女の手。
霊夢の手だ。
この光も。この力も。この身体に宿っていたものだ。全部、霊夢のものだ。
「これが……霊夢の力……」
実感が、じわりと込み上げてきた。
倒れたルーミアを見る。
胸が、規則正しく上下していた。息はしていた。生きていた。
「殺しては、ないよな……」
ほっとした。
ほっとして――その直後、胃の底が冷たくなった。
俺は今、ルーミアが生きていることに安堵した。
ルーミアが俺を食おうとしただけで、殺そうとしたわけでも、誰かを傷つけようとしたわけでもなかった。ただ生きるための食欲に従っただけだ。それを理由に命を奪うのは違うと思ったから、ほっとした。
それは、わかる。
わかるのだが。
「……おかしいよな、俺」
呟いた。
声が、自分でも思ったより暗かった。
妖怪一匹の命には安堵できる。殺してはいけないと思える。
なのに――霊夢のことは。
霊夢を消して、霊夢の身体に入って、霊夢の名前を使って、今こうして霊夢の力で戦っている。
その霊夢に対しては、ルーミアに感じたのと同じ重さの罪悪感を、俺は本当に持てているのか。
答えが、出なかった。
頭ではわかっている。霊夢の件の方が、ずっと重い。
でも、胸の重さが、釣り合っていない気がした。
ルーミアが倒れているのを見て感じたあの安堵と、霊夢を思うときの後ろめたさ。
同じ感情のはずなのに、どこか質が違う。
霊夢のことは、遠い。頭では考えるのに、胸には届かない。
それが、怖かった。
慣れていくのかもしれない、と思った。
霊夢の顔に慣れたように。霊夢の声に慣れたように。
霊夢の不在にも、いつか慣れて、当たり前になっていくのかもしれない。
それが、一番怖かった。
「……すまない、霊夢」
誰もいない森に向かって、俺は呟いた。
謝罪の言葉が、紅い霧に溶けた。
「とりあえず……このまま放置でいいか」
妖怪なら、生命力も強いだろう。そのうち起きるだろう。
それに、ここで介抱する義理もなかった。
俺はルーミアを残して、歩き出した。
だが数歩進んだところで、声が聞こえた。
「待てぇ……」
か細い声。弱々しい声。
「……ん?」
振り返ると、ルーミアが起き上がっていた。
よろよろと。ふらふらと。
まるで赤ん坊が初めて立ち上がるかのような、覚束ない動作で。膝が震えていた。
「……まだやる気か?」
俺は警戒した。再び御札を手に取る。
だが、ルーミアは首を横に振った。
「違うよ~、もう戦わない、勝てない試合なんてつまらないもの。」
「じゃあ、何だ」
「名前……教えてほしいのー」
ルーミアは、真剣な顔で言った。
さっきまでの無邪気さはなかった。子供のような表情もなかった。
ただ、真摯な瞳で俺を見つめていた。尊敬すら混じったような眼差しで。
「あなた、強いからね。名前ぐらい聞きたいもん。」
「……俺は、博麗霊夢だ」
言いながら、胸の奥がわずかに痛んだ。
この名前を、俺は名乗る資格があるのだろうか。
あるかどうかに関係なく、名乗るしかないのだが。
「霊夢……へぇ~。」
ルーミアは首を傾げた。
「けどなんか、何か違うのかー。雰囲気が違うのかー。」
「雰囲気?」
「前に神社を通った時は、なんか、もっと薄暗い雰囲気だったもん。」
俺は、息が止まりそうになった。
「前にっ!?……き、気のせいだろう。」
目を逸らした。
バレたのか?
いや、まさか。
ただの印象の違いだろう。戦い方が違うのは、俺が素人だからだ。
だが――ルーミアが見た「薄暗い雰囲気の霊夢」は、本物の霊夢だ。
俺じゃない。
もう、どこにもいない霊夢だ。
「そうなのかー……でも、強いのは本当なのかー」
ルーミアは納得していないようだったが、それ以上は追求してこなかった。
「じゃあ、気をつけてねー」
「……ああ。」
「紅い霧の先には、もっと強い妖怪がいるからー」
ルーミアは真剣な顔で言った。警告するような口調で。
「私なんかより、ずっとずっと強いよ。私の何倍も、何十倍も強いよ。気をつけてねー、巫女さん」
そう言って、ルーミアは暗闇の中へ消えていった。
まるで影が溶けるように。音もなく。気配も残さず。
「……ふう」
俺は大きく息を吐いた。
緊張が解けて、どっと疲れが押し寄せてきた。
膝が震えていた。立っているのがやっとだった。全身から力が抜けていった。
その場に座り込みそうになって、必死に堪えた。
「初戦、勝利……か」
呟いて、俺は笑った。乾いた笑いだった。
やれた。本当にやれた。
妖怪と戦って、勝った。
でも、素直に喜べなかった。
この力は俺の力じゃない。この勝利は、俺だけの勝利じゃない。
霊夢が積み上げてきたものの上に立って、俺は今日、初めて妖怪に勝った。
「……借りっぱなしだな、霊夢」
誰も聞いていない。返事もない。
ただ、紅い霧が静かに漂っていた。
「けど、この力なら……いけるかもしれないぞ。それだけは、確かだ」
自信が湧いてきた。
希望が湧いてきた。前に進む力が湧いてきた。
俺は博麗霊夢だ。
幻想郷の巫女だ。
この力で、異変を解決する。
吸血鬼を倒す。
この世界を、霊夢の代わりに、守る。
「行くぞ!」
俺は再び歩き出した。
足の痛みも、疲労も、気にならなくなっていた。いや、気にしないようにした。
森の奥へ。
紅魔館へ。
異変の元凶へ。
それから、どれくらい歩いただろうか。
ルーミアとの戦闘で消耗したせいか、進むのが遅くなっていた。足取りが重かった。
だが、確実に前に進んでいた。
森は徐々に疎らになり、木々の間隔が広くなってきていた。地面も平坦になってきた。
「もうすぐ、森を抜けるか……?」
そう思った時、突然、空から何かが降ってきた。
正確には、降りてきた。
「えっ!」
俺は反射的に後ろに跳んだ。既に身体が戦闘に慣れ始めていた。
着地と同時に札を構える。霊力を込める準備をする。
降りてきたのは、人だった。
いや、人の形をした存在だった。
箒に乗って。
「おーっと、危ねぇ危ねぇ。」
少女の声がした。明るく、元気な声だった。
「もうちょっとで激突するとこだったぜ。」
箒から降りた少女は、俺を見て笑った。人懐っこい笑顔だった。
金髪に、黒と白の服。とんがり帽子を被っている。
そして、手には木の箒。
魔女、だろうか。
「お前……えぇっと、確か……」
記憶が蘇った。
この少女は――この容貌は――
「霧雨、魔理沙……!」
「おう、正解」
魔理沙は満足そうに頷いた。まるで、クイズに正解した子供を褒めるように。
「久しぶりだな、霊夢。四年ぶりか?」
そして、不思議そうに俺を見つめた。金色の瞳が、じっと俺を観察していた。
「って、お前、何でこんなところ歩いてんだ?普通飛んでくだろ。」
「……飛ぶ?」
「ああ?お前、空飛ぶ能力、忘れたのか?」
魔理沙は心配そうな顔をした。眉をひそめて、俺の顔を覗き込んできた。
「お前、本当に大丈夫か?……頭でも打ったのか?」