どこかの屋敷に、一人の女性がいた。
屋敷の内部の構造は、一見しただけでは理解し難い。
廊下が途中で消え、部屋が想定外の場所に繋がり、階段が上に向かっているはずなのに下に出る。
だが、本殿だけは明確だった。「コ」の字型の本殿が、枯山水の中庭を囲うように建てられている。天井と床と障子で区切られ、扇の形に見えるその景色は、文字通りこの世のものではない美しさを誇っていた。白い砂が波のように整えられ、石が島のように配置されている。動かない庭が、動いているように見える。時間が凝縮されたような、そんな庭だった。
二百由旬の広さがあるのではと思うほどに広いその場所で、縁側に、その女性は立っていた。
金色の髪。長く、美しい髪が、風もないのに揺れている。紫色の服。複雑な模様が施された、高貴な衣装。そして、その目。深い、紫色の目。すべてを見透かすような、そんな目。
八雲紫。
彼女は、中庭を眺めている。枯山水の美しさを、静かに鑑賞している。白い砂が波のように整えられ、石が島のように配置されている。動かない庭が、動いているように見える。時間が凝縮されたような、そんな庭だった。
紫は、扇子を手の中で弄んでいた。開いては閉じ、閉じては開く。規則的な動きが、思考のリズムを刻んでいるようだった。
その時、紫は感じ取った。力を。遠くから、こちらに向かってくる力を。二つの力。一つは、霊力。もう一つは、魔力。
博麗霊夢と、霧雨魔理沙。
「……今ここに来られては、まずい」
紫は呟いた。静かに、だが明確に。声に、わずかな焦りがあった。それは珍しいことだった。この女性が焦りを見せることは、滅多にない。
まだ、準備が整っていない。あの二人がここに来るには、早すぎる。順序が、ある。見せるべきものを、見せる順序が。
紫は、扇子を閉じた。右手を、胸の前に上げる。パチン、と指を鳴らす。
その瞬間、空間が歪んだ。二人の行く先が、変わった。
*****
俺は、上昇を続けていた。
魔理沙と並んで、雲に向かって高度を上げていた。桜の花びらが、増えている。確実に、増えている。雪と混じって降ってくる白とピンクの混合が、上に行くにつれてピンクが濃くなっていく。春は、確かにそこにある。
「もうすぐだな」
俺は言った。
「ああ」
魔理沙が答えた。目を細めて、上を見ながら。その口元に、わずかな笑みがある。
その時、世界が歪んだ。視界が、ぐにゃりと曲がる。空間が、捻じれる。
「ッ!?」
身体が、引っ張られる。強制的に、どこかへ。抵抗しようとするが、無駄だ。力が、強すぎる。霊力を展開しようとするが、間に合わない。一瞬で、世界が変わった。
俺は、地面に立っていた。雪が積もった、地面に。
周囲を見渡す。村だ。小さな、村だ。だが、人がいない。誰もいない。静かすぎる。不気味なほどに。家屋はある。生活の痕跡もある。だが、住人がいない。まるで、時間だけが流れて、人だけが消えたかのような場所だった。
「……何が起きた?」
俺は呟いた。一瞬で、場所が変わった。空中から、地上に。上昇していたのに、下に戻された。いや、戻されたというより、飛ばされた。誰かが、俺を飛ばした。だが、誰が?なぜ?
俺は、周囲を警戒する。霊力を高め、いつでも戦えるように。
その時、気配を感じた。小さな気配。子供のような、だが油断できない気配が。
振り向く。そこに、少女がいた。
黒い髪。ショートカットの、黒い髪。頭の上に、猫耳がついている。赤い服。中華風の、赤い服。そして、尻尾。黒い、猫の尻尾が、二本。丸い目が、俺をじっと見ている。警戒しているのか、興味があるのか、判断がつかない目で。
「……誰だ?」
俺は訊いた。
「あなたこそ、誰?」
少女が訊き返した。子供のような声で。
「ここは、迷い家。マヨヒガ。迷い込んだ者が辿り着く場所。あなたも、迷い込んだの?」
「迷い家?」
「そう。マヨヒガ。私は、橙。ここの、住人」
橙が、名乗った。
「あなたは?」
「……博麗霊夢だ」
俺は答えた。
橙が、目を丸くした。
「博麗霊夢?博麗の巫女?噂は聞いてる。紅霧異変を解決した、巫女さん」
橙が、俺に近づいてくる。興味津々、という顔で。猫耳が、ぴょこぴょこと動いている。
「でも、なんでここに?ここは、普通の人は来られない場所なのに」
「俺も、わからない。空を飛んでいたら、突然ここに飛ばされた」
「飛ばされた?」
橙が、首を傾げた。猫耳が、左右に揺れる。
「誰かに?」
「……おそらく」
俺は頷いた。
橙の表情が、わずかに変わった。猫耳が、後ろに倒れる。目が、泳ぐ。
「……そっか」
橙が呟いた。小さく、だが確かに。その声に、何かがあった。知っている、という響きが。飛ばされた、と聞いた瞬間に、何かを理解した、という響きが。
「お前、知っているのか」
俺は訊いた。
「え、えっと……」
橙が、視線を逸らした。尻尾が、ぱたぱたと動いている。落ち着きなく、不規則に。
「知ってるんだな」
俺は言った。断言して。
橙が、しばらく黙った。それから、深く息を吐いた。覚悟を、決めたような息を。
「……言えない。誰がやったかは、言えない。言っちゃいけないから」
橙が、顔を上げた。今度は、目を逸らさずに、俺を見た。
「でも」
橙の声が、変わった。子供のような声から、少し違う声に。
「あたしには、通してあげられない。ここを通って上に行こうとするなら、あたしが止めないといけない。藍様の式神として、ここを守る者として」
橙が、構えた。両手を前に出して、霊力を帯びた気を練りながら。尻尾が、真っ直ぐに立つ。猫耳が、前に向く。さっきまでの子供っぽさが、消えていた。
「……そういうことか」
俺は言った。霊力を、わずかに高めながら。
橙は、止める側だ。紫の仕業だとわかっていて、それでも言えない。言えないが、体で止めようとしている。嘘はつかない。ただ、仕事をする。それが、この子の誠実さなんだろう。
「なら、俺も止まるわけにはいかない」
俺は言った。
「異変を解決しなければならない。それが、俺の役目だ」
橙が、スペルカードを取り出した。
「妖符『飛翔妖猫』」
橙の身体が、光った。黒い光が、橙を包む。尻尾が、激しく動く。周囲に、小さな黒い光弾が無数に出現する。猫の目のような、楕円形の光弾が。それが、一斉に俺に向かって飛んでくる。
速い。予想以上に速い。
だが、見える。全部、見える。
俺は動いた。左に、右に、最小限の動きで、光弾の間を縫う。一発も、当たらない。霊夢の身体が、この弾幕を知っているかのように、自然に動く。息をするように、歩くように、回避が続く。
「ぐぬぬ~」
橙が、光弾の密度を上げる。隙間が、狭くなっていく。包囲が、締まっていく。
だが、当たらない。
俺は、右手を前に出した。霊力を、指先に一点集中させる。ほんの少しだけ、絞り込む。光球が、一つだけ出現した。小さな、金色の光球が。
それを、放った。
橙の弾幕を、真っ直ぐに貫いた。光弾を弾き飛ばしながら、まっすぐに、橙に向かって。
「きゃっ!」
橙が、吹き飛ばされた。小さな身体が、後ろに跳ぶ。地面に転がり、二回、三回と回転して、止まる。
俺は、無傷だった。
橙が、ゆっくりと起き上がった。服が、少し汚れている。だが、怪我はなさそうだ。その目が、丸くなっていた。信じられない、という顔で俺を見ている。
「……一発?」
橙が呟いた。
「一発だ」
俺は答えた。
橙が、しばらく俺を見ていた。それから、ふっと息を吐いた。
「……負けた」
素直に、言った。
俺は、橙に近づいた。手を差し伸べる。
「大丈夫か?」
橙が、俺の手を見た。それから、その手を掴んで、立ち上がった。
「……うん。大丈夫」
橙が、俺を見上げた。その目に、悔しさと、それと同じくらいの何か別のものがあった。
「強いね、巫女さん」
「まぁな。」
俺は言った。本当にそう思って。
橙が、少し考えた。それから、口を開いた。
「……ねえ、巫女さん」
「なんだ?」
「紫様のことは、あたしには言えない。でも」
橙が、上を指差した。真上を。
「春は、あっちにある。あたしには止められなかった。だから、あとはもう、止められない」
それは、案内だった。敗北を認めた上で、それでも俺を送り出す、橙なりの言葉だった。
「ありがとう、橙」
俺は言った。
橙が、耳を伏せた。照れているような、そんな仕草で。
「……巫女さん、春、取り戻してね。早く暖かくなってほしいから」
俺は頷いた。そして、上に向かって霊力を込めた。境界を押し広げるように。空間が、歪む。裂け目のようなものが、現れる。その向こうに、外の空が見えた。
「行くぞ」
俺は呟いた。そして、裂け目に飛び込んだ。
*****
同じ頃、魔法の森では。
「うわっ!?」
魔理沙は、叫んだ。世界が突然変わった。空中から、地上に。
魔理沙は、箒に乗ったまま、木々の間に落下していた。必死に箒を操る。木にぶつからないように、地面に激突しないように。やっとのことで、地面に着地する。
「くそ、何が起きた!?」
周囲を見渡す。森だ。見覚えのある森だ。
「……魔法の森?」
自分の家がある、魔法の森だ。空を飛んでいたのに。霊夢と一緒に、上昇していたのに。突然、ここに飛ばされた。誰かが、飛ばした。
「ちっ、邪魔されたか」
魔理沙は、舌打ちする。
その時、声が聞こえた。
「あら、魔理沙じゃない」
女性の声。聞き覚えのある声。硬さと冷静さが混じった、独特の声。
魔理沙は、振り向く。そこに、女性が立っていた。金色の髪。短く、美しい髪。青い服。ドレスのような、優雅な服。そして、人形。何体もの人形が、彼女の周りを浮いている。糸もなく、だが確実に彼女の意志に従って動いている、美しい人形たちが。
「アリス……」
魔理沙は呟いた。露骨に、嫌そうな顔で。
「久しぶりね、魔理沙」
アリス・マーガトロイドが、微笑んだ。口元だけの、冷たい微笑みで。
「相変わらず、そんな顔するのね。私を見ると」
「当たり前だろ」
魔理沙は言った。不機嫌そうに。箒を握りしめながら。
「ここ、お前の縄張りじゃないだろ。なんでいるんだ」
「あなたこそ、なんで落ちてきたの?上から突然落ちてきたと思ったら、霧雨魔理沙。驚いたわ」
「飛ばされたんだよ」
魔理沙は答えた。短く。
「飛ばされた?」
アリスが、眉を上げた。
「それは、不思議ね。誰に?」
「知るか。わかったら苦労しない」
魔理沙は、周囲を見渡す。霊夢はどこに飛ばされたんだろう。別々の場所に飛ばされたとしたら、探さなければ。
「それより、あたしは行かなければならない。春を取り戻す異変解決の途中だ」
「知ってる」
アリスが言った。
「春が来ない異変でしょう。私も気になっていたわ。研究の材料にしようと思って、調べていたところよ」
「研究の材料?」
魔理沙が、顔をしかめた。
「相変わらず、感情がないな」
「人形を動かすのに感情は必要ないもの」
アリスが答えた。さらっと。全く、堪えていない様子で。
「それで、どこまでわかったの?春について」
「あたしが教える義理はない」
魔理沙は言った。ぷいと顔を逸らして。
「教えてくれるなら、私も情報を出してもいいけれど」
アリスが言った。淡々と。交渉するように。
魔理沙は、しばらく考えた。アリスとは仲が悪い。昔から、そうだ。二人とも魔法使いで、研究の方向性が全く違う。アリスは緻密で、計算通りに魔法を組み立てる。人形に細かい術式を組み込み、精巧に動かす。魔法を積み上げる職人のようなスタイルだ。
対して魔理沙は直感で、力押しで魔法を使う。理解よりも実践、積み上げよりも爆発力。スタイルが正反対で、お互いを認めながら、認めたくない、という関係が長く続いている。
だが、情報は欲しい。
「……春は、空の上にある。雲の上に、春が存在している。桜の花びらが、上から降ってくる。だから、上昇すれば春に近づける。それだけだ」
アリスが、顎に手を当てた。考えるように。
「空の上に、春がある。それは私も確認していた。問題は、誰がそこに春を集めているか、ということよ」
「誰かが集めているのか?」
魔理沙が、前のめりになった。
「おそらくね。春を集める能力を持つ妖怪が、幻想郷にはいる。春符を扱える者が。私が調べた限り、春告精たちの動きも普通じゃない。誰かの指示で動いているように見えた」
「春告精?」
魔理沙が訊いた。
「春を告げる妖精よ。普通は、春が来ると自然に現れる。でも今年は、春が来る前に動き回っている。まるで、春を運ぶ仕事をしているみたいに。誰かに、使役されているんじゃないかと思う」
魔理沙は、腕を組んだ。アリスの情報は、的確だ。研究者としての観察眼は、認めざるを得ない。
「つまり、黒幕がいる、ってことか」
「そういうことよ。そして、その黒幕は空の上にいる。あなたたちが向かっていた方向に」
アリスが、人形を一体前に出した。その人形が、空を指さす。
「あなた一人では、また邪魔されるかもしれない。さっきも、誰かに飛ばされたでしょう。黒幕は、あなたたちが近づくことを嫌がっている」
魔理沙は、黙った。
「……何が言いたい?」
アリスが、微笑んだ。今度は、少しだけ違う笑みで。
「私も、空の上を調べたかった。研究として、ね。一人よりも、二人の方が邪魔されにくい。それだけの話よ」
魔理沙は、アリスを見た。しばらく、じっと見た。
「お前、なんだかんだ言って、手伝いたいだけじゃないのか」
アリスの頬が、わずかに赤くなった。気のせいかもしれない。でも、確かに、赤くなった。
「そんなことないわ。ただの研究目的よ」
「顔が赤いぞ」
「寒いからよ!」
アリスが言った。いつもの冷静さが、一瞬崩れた。人形たちが、アリスの感情に反応するように、わずかにざわめいた。
「……まあ、いい。ついてきたいなら、ついてこい」
魔理沙は、箒に跨った。
「ただし、足は引っ張るなよ」
アリスが、人形を周囲に展開した。
「あなたに足を引っ張られる心配をした方がいいんじゃないの」
「言ってろ」
魔理沙が、動こうとした。その時だった。
「でも、その前に」
アリスが言った。静かに、だが挑発的に。
「久しぶりに会ったんだし、腕試しをしてもいいんじゃないかしら。あなたが強くなったって話、聞いたわよ。八卦炉を改造したって。どれくらい強くなったのか、見てみたいわ」
魔理沙が、止まった。振り返る。
「今は時間がない。異変解決が先だ」
「ほんの少しでいいわよ。そんなに怖いの?」
怖い。その言葉が、魔理沙の中の何かに火をつけた。
「……怖いわけないだろ」
魔理沙は、八卦炉を構えた。ゆっくりと、だが確実に。
「やってやる。ただし、さっさと終わらせるぞ」
アリスが、人形たちを前に出した。十体、二十体、それ以上の人形が、ゆっくりと展開していく。それぞれが異なる魔術式を帯びていて、複雑な弾幕を形成する準備を整えていく。
「スペルカードルール、使ってみましょうか」
アリスが言った。
「新しいルールよね。美しさを競う、か。私の人形魔法には、ぴったりのルールだわ」
アリスが、スペルカードを取り出した。
「魔符『アーティフルサクリファイス』」
人形たちが、一斉に動いた。弾幕が、展開される。複雑な軌道を描く弾丸が、美しいパターンを形成しながら、魔理沙に向かって飛んでいく。まるで、精巧な刺繍のような弾幕だった。
「チッ……綺麗じゃないか」
魔理沙は呟きながら、箒を傾ける。弾幕の隙間を、ギリギリで縫い抜けていく。アリスの弾幕は、確かに美しかった。だが、避けにくい。隙間が、計算し尽くされている。
「恋符『マスタースパーク』!」
魔理沙が叫んだ。八卦炉から、極太のレーザーが放たれる。虹色に輝く光線が、空間を貫く。アリスの人形たちを、一掃しようとする。だが、アリスは避けた。人形を盾にしながら、優雅に横に飛ぶ。盾になった人形が、レーザーに飲み込まれ、消える。
「惜しいわね」
アリスが言った。涼しい顔で。
「ただの力押しじゃ、私には通じない。もう少し、工夫しなさい」
魔理沙の目に、火が灯った。
「工夫、ね。見てろよ」
魔理沙は、八卦炉の出力を絞った。レーザーではなく、細かい星型の弾幕を、複雑な軌道で放つ。アリスが研究者なら、こちらも研究者だ。ただの力押しではなく、理論に基づいた魔法を見せてやる。
星が、螺旋を描きながら飛ぶ。分裂し、収束し、また分裂する。アリスの人形の動きを予測して、逃げ道を塞ぐように配置される。
「……なるほど」
アリスが、今度は表情を変えた。わずかに、だが確かに。
「成長したのね、魔理沙」
それは、素直な言葉だった。皮肉でも、嫌味でもなく。
「当たり前だ」
魔理沙が答えた。少しだけ、得意げに。
二人は、森の中で弾幕をぶつけ合う。人形と星が、空中で交差する。複雑なパターンが、冬の森に色を添える。どちらも、全力ではない。そこには、不思議な空気があった。仲が悪いはずの二人が、どこか楽しんでいるような、そんな空気が。
やがて、アリスが手を止めた。
「……引き分けにしてあげる」
アリスが言った。
「負けを認めたくないだけだろ」
魔理沙が言い返した。
「そういうあなたもでしょう」
二人は、しばらく睨み合った。そして、同時に、ふっと息を吐いた。
「行くわよ、魔理沙。春を取り戻すんでしょう」
アリスが、空に向かって飛び立った。人形たちを従えて、優雅に、だが素早く。
「……最初からそう言えよ」
魔理沙は、箒に跨った。そして、アリスの後を追って飛び立った。
犬猿の仲の二人が、同じ方向に向かって飛んでいく。春を取り戻すために。それぞれの意地を張りながら、同じ方向へ。