時間の感覚が、失われていった。
刃と弾幕が絶えず空間を埋め尽くした。アリスの人形が斬られては、すぐに新たな人形が展開される。魔理沙の弾幕が空気を焼けば、妖夢はその隙間を縫うように踏み込んだ。押しては引き、引いては押し返す。優勢に見える瞬間があっても、次にはまた均衡が戻る。そういう戦いだった。
石段には、既に幾つもの傷跡が刻まれていた。斬撃の抉れた跡、光弾の焦げ跡、人形の破片。桜の花びらが、それらの上に静かに降り積もっていく。
「……はぁ……っ……」
アリスの息が上がり始めていた。人形を操る糸の張力を維持する集中力は、途方もない消耗を伴う。しかも今は、一体一体に殺傷力を持たせなければならない。牽制や防御のための展開とは、負荷が違いすぎた。
「まだ、いける……」
自分に言い聞かせるように、アリスは呟いた。
妖夢もまた消耗していた。額に汗が滲み、呼吸が浅い。二刀を同時に操り続けることは、彼女自身の身体にも相応の負担を強いる。それでも、剣先の精度はまだ落ちていなかった。
「そろそろ……」
妖夢が小さく呟いた。誰に向けたものでもなかった。
これ以上、長引かせるわけにはいかない。
その判断が、剣先に乗った。
妖夢の一刀が弧を描いた。今までの直線的な斬撃とは違う、意図的に軌道を曲げた一閃だった。アリスの人形が作った防御の壁を、その曲線が舐めるようにすり抜けていく。
「——ッ!」
アリスの反応が、コンマ数秒遅れた。
刃が、腹部を斜めに薙いだ。
熱さより先に、冷たさが来た。それから遅れて、焼けるような痛みが全身を貫いた。視界が一瞬、白く飛んだ。
「アリス!」
魔理沙の声が、遠くから聞こえたような気がした。
アリスは、崩れ落ちそうになる身体を辛うじて糸で支えた。傷口を、咄嗟に人形の一体で圧迫する。血が白い布地を急速に染めていった。応急処置と呼べるものではない。致命傷を、致命傷のまま止血しただけの、時間稼ぎに過ぎない処置だった。
妖夢は、その一撃の手応えを、はっきりと感じ取っていた。深い。致命傷になり得る深さだった。
一瞬、その目に迷いの色がよぎった。だが、すぐに消えた。
致命傷を負わせた相手を放置するのは、剣士として最も愚かな選択だ。止めを刺さなければ、その相手はまだ戦い続ける。ならば——
妖夢の意識が、明確にアリスへと絞られた。
「……」
魔理沙が、それを察知した。間合いの取り方、視線の向き、刃の角度。全てが、次の標的をアリスに定めたことを示していた。
「そっちには行かせない」
魔理沙が、アリスの前に割り込んだ。箒を横に構え、盾のように身体を割り込ませる。
だが、これは戦い方として明確な悪手だった。魔理沙自身、分かっていた。守るべき対象を庇いながら戦うということは、自分の動ける範囲を自分で制限するということだ。避けるべき方向に避けられない。攻めるべき瞬間に攻められない。
妖夢の斬撃が、その隙を的確に突いてきた。
「くっ……」
魔理沙の肩が浅く裂けた。庇いながらでは、完全には避けきれない。次は腕を。その次は脇腹を。傷が確実に増えていった。一つ一つは致命的ではない。だが、積み重なっていく。
「魔理沙……私は、いいから……」
アリスが、掠れた声で言った。息をするだけで、腹の傷が軋んだ。
「馬鹿言うなよ。」
魔理沙は、振り返らずに答えた。声に余裕がなくなっていた。
「見捨てて逃げる算段なんざ、最初からないんだよ。」
その言葉と引き換えのように、次の斬撃が魔理沙の太ももを浅く裂いた。血が白いスカートを赤く染めていく。動きが目に見えて鈍り始めていた。
妖夢は、それを冷静に見ていた。庇う者がいる限り、この人間は本領を発揮できない。庇い続ける限り、確実に消耗していく。
刃が、下から掬い上げるように振るわれた。魔理沙は箒を傾けて避けようとした。だが庇う姿勢のせいで、身体の軸が僅かにずれていた。
避けきれなかった。
刃の腹が脛を強く打った。同時に、もう片方の刃が足払いのように箒の柄を薙いだ。
「——ッ!?」
均衡が崩れた。
魔理沙の身体が、宙で錐揉みするように回転しながら落ちていく。石段の斜面に叩きつけられる寸前、視界に、妖夢が刃を振り上げる姿が映った。
止めを刺す。その動きだった。
(——まずい……)
その一言だけが、頭の中で鮮明に響いた。身体が、言うことを聞かなかった。
刃が振り下ろされる。
——その瞬間、世界から音が消えた。
いや、音だけではない。全てが止まった。桜の花びらが空中で静止した。魔理沙の落下する身体も、宙にぴたりと固定されたまま動かない。妖夢の振り下ろされる刃も、あと僅かのところで縫い止められていた。
その静止した世界を、ただ一人、動く影があった。
足音は聞こえなかった。だが確かに何かが石段の上を横切った。白と黒のコントラスト。翻るエプロンの裾。一瞬の残像だけを残して、その影は妖夢の間合いの内側に入り込み、そして消えた。
時間が動き出した。
「——え……?」
妖夢の声が戸惑いに揺れた。
振り下ろしたはずの刃が、魔理沙に届いていない。それどころか、軌道そのものが、いつの間にか変わっていた。
自分自身の刀が、自分自身の右腕に、深々と突き刺さっていた。
痛みが少し遅れてやってきた。妖夢は息を呑み、刺さった刃を見下ろした。理解が追いつかない。自分の腕を、自分で刺すような動きはしていないはずだった。
「……!」
弾かれたように振り返った。
そこに、一人の女が立っていた。
白と黒のメイド服。ナイフを幾本も、指の間に挟んでいる。青みがかった銀の髪が、桜風にわずかに揺れていた。顔色はまだ本調子には見えない。だが、その立ち姿に迷いはなかった。
十六夜咲夜、その人だった。
「ずぅっと寒いと、こっちもいろいろ大変なのよ。」
咲夜は静かに言った。感情の起伏をほとんど感じさせない声だった。それでいて、有無を言わせない何かがあった。
石段に倒れ込んだ魔理沙が、荒い息をつきながら見上げた。
「……あんた……」
妖夢は、突き刺さった自分の刃と、目の前の咲夜とを交互に見た。困惑と警戒が同時に浮かんでいた。
「あなたは……」
「お屋敷から少し、様子を見に来ただけよ」
咲夜は、指先のナイフをくるりと一度回した。
「続き、していいかしら。それとも――もう、ここまでにしておく?」
妖夢は、すぐには答えなかった。
刺さった刀を、右手だけで静かに引き抜いた。傷口から血が滲む。だが痛みを表情に出すことはなかった。刀身に付いた自分の血を一瞥し、それから咲夜を見据えた。
「……いつから」
妖夢が、掠れた声で訊いた。
「いつから、そこに」
「さあ、いつからかしらね」
咲夜は、はぐらかすように言った。悪意はなかった。答える必要を感じていない、というだけの軽さだった。
「一つだけ確かなことを言うと――あなたが、この人たちに止めを刺す前から」
妖夢の視線が、咲夜の全身を素早く走った。顔色。呼吸の浅さ。左腕の動き。観察は一瞬で終わった。
「……本調子ではありませんね」
「よく分かるじゃない。急いでここまでやってきたもの。」
咲夜は微かに笑った。皮肉めいた、しかしどこか誇らしげな笑みだった。
「ただ、本調子じゃなくても、これくらいはできる。あなたが思っているよりは、ね」
妖夢は刀を構え直そうとした。だが右腕に力を込めた瞬間、傷が鋭く軋み、動きが止まった。
「……」
その逡巡を、咲夜は見逃さなかった。
「無理をする必要は、ないと思うけれど」
咲夜が言った。脅しでも挑発でもない、静かな声だった。
「正直、あなたが誰に仕えていて、何を守ろうとしているのか、私は知らないわ。興味がないわけじゃないけれど、今はそれどころじゃない」
咲夜は続けた。
「私が知っているのは、ここのところ寒すぎるということ、その原因がこの上にあるらしいということ。それだけよ。だから、あなたと殺し合う理由も、本当は持ち合わせていない」
「……」
「意地を張って、ここで倒れて。それで、あなたの仕えている誰かが喜ぶとは思えないけれど」
その言葉に、妖夢の表情が微かに揺らいだ。
「……幽々子様が」
呟くように、名前がこぼれた。しまった、というように、僅かに目を伏せる。誰にも明かすつもりのなかった名を、思わず口にしてしまったらしい。
咲夜は、それを聞いても表情を変えなかった。名前を追及するでもなく、興味を示すでもなく、ただ受け流した。今はそれどころではないという、本人の言葉通りの態度だった。
石段に倒れ込んだままの魔理沙が、荒い息の合間にその様子を見上げていた。
「……おい、咲夜。」
魔理沙が掠れた声で言った。
「あんた、一人でここまで登ってきたのか」
「ええ、まあそんなところ」
咲夜は、魔理沙の方を見ずに答えた。視線はまだ妖夢に向けられたままだった。
「詳しい話は後で。今は――そちらの、お腹を押さえている彼女の方が先だと思うけれど」
咲夜の目が、アリスへと動いた。血に染まった布地。青白い顔色。その表情に、明確な焦りが浮かんだ。今までの平坦さが、初めて崩れた。
「これは……思ったより悪いわね」
咲夜は素早くアリスに歩み寄った。膝をつき、傷口を確認する。手つきに迷いがなかった。手当ての心得があることが、その動作だけで分かった。
「動かないで。今、止血を――」
妖夢は、その光景を黙って見ていた。刀を握る右手が微かに震えていた。傷のせいなのか、それとも別の何かのせいなのか、自分でも判然としない震えだった。
「……私は」
妖夢が誰にともなく呟いた。
「私は、通すわけには参りません、と言いました」
「ええ、聞いたわ」
咲夜は、アリスの傷の手当てを続けながら短く答えた。
「でも、これ以上続けても、あなたが失うものの方が多いと思うけれど。違うかしら」
「……」
妖夢はしばらく黙っていた。傷の痛みを堪えるように、右腕を軽く押さえながら。
「……いいえ、違わないでしょうね」
妖夢は静かに認めた。
「私一人が意地を張ったところで、状況が変わるわけではない。それに――既に、これだけの傷を負わせている。これ以上の深追いは、剣士としても褒められた判断ではありません」
妖夢は刀を、ゆっくりと鞘に収めた。抜き放たれていた刃が、静かに音を立てて鞘の中に消えていく。
「これ以上は、無用な争いというものでしょう」
その声には、安堵とも拍子抜けとも取れる響きがあった。本気の張り詰めが、少しずつ抜けていくのが傍目にも分かった。
「……とはいえ」
妖夢は、倒れている魔理沙を見下ろした。
「今の一戦、私の負けとは思っておりません。あなた方の連携に、私が本調子を出し切れなかっただけのこと」
「はっ……」
魔理沙が力なく笑った。
「減らず口叩けるだけ、元気そうで何よりだよ」
「あなたも、口だけは達者なようで」
その応酬に、僅かに剣呑さの薄れた空気が流れた。
咲夜が、アリスの応急処置を終え、立ち上がった。額にうっすらと汗が浮いている。時間停止とこの処置とで、まだ本調子ではない身体に、相応の負担がかかったのだろう。
「止血はしたけれど……これは、応急処置止まりよ」
咲夜はアリスを見下ろしながら言った。有無を言わせない響きがあった。
「傷が深すぎる。このまま白玉楼まで連れて行くより、あなたは一度、家に帰った方がいいと思うわ」
「……何を」
アリスが顔をしかめながら反論しようとした。
「まだ、動ける」
「動けるかどうかの話じゃないの」
咲夜は静かに、しかしはっきりと遮った。
「傷が内臓にまで届いているかもしれない。ここでの応急処置は、あくまで時間を稼いだだけ。このまま気を張り続ければ、いずれ限界が来る。その限界が、こんな場所――知らない相手の懐で来たら、手の施しようがないわ」
「……」
「それに、あなたには帰るべき場所と、頼れる者たちがいるでしょう。魔法の森の使い魔たちなり、他の伝手なりが、おそらく。…ここで意地を張って、後で取り返しがつかなくなるくらいなら、今、確実な手当てを受けられる場所に戻る方が、よほど合理的よ」
アリスは、しばらく何も言わなかった。悔しさと痛みと、咲夜の言葉の正しさとが、表情の中でせめぎ合っていた。人形遣いとして、理屈で説得されれば、理屈で反論できない限り頷かざるを得ない。それが彼女の性分だった。
「……分かったわ」
アリスは、ようやくそう言った。
「悔しいけれど、その通りね。無理をして倒れれば、本末転倒だもの」
「賢明な判断だと思うわ」
咲夜が言った。
「魔理沙、彼女を送ってあげられる?」
「……ああ。私も、この傷じゃどのみち、上まで戦力にならねえだろうしな」
魔理沙が、身体の各所の傷を見ながら、自嘲するように言った。
「霊夢には悪いが、ここは退かせてもらう。あいつなら、一人でもなんとかするだろうよ。…まぁ、一応このことは、霊夢に言っておいてくれ。」
アリスは、魔理沙の一体に身体を支えられながら、ゆっくりと立ち上がった。石段の下、結界の向こうへ視線を向ける。
「……借りができたわね、咲夜、といったかしら」
「そのうち、返してもらうわ」
咲夜は短く答えた。
魔理沙が、アリスに肩を貸しながら石段を下り始めた。その背中を見送りながら、咲夜はもう一度、妖夢へと向き直った。
「さて」
咲夜は言った。
「案内、頼めるかしら」
妖夢は、すぐには答えなかった。
俯いたまま、しばらく動かなかった。刀は既に鞘に収まっている。だが、その手は鞘の柄にかけられたまま、微かに震え続けていた。
「……一つ、よろしいですか」
妖夢が、ようやく口を開いた。
「何かしら」
「私は、先ほど、『何人たりとも通すわけには参りません』と申しました」
妖夢の声は静かだったが、譲れない何かが滲んでいた。
「あの言葉を、私自身の判断で撤回することはできません。理屈でどれだけ納得しようとも、剣を交えた誓いの言葉を自分の口で覆すことは、庭師としての、剣士としての、私の分を越えます」
「……つまり?」
咲夜が僅かに眉を寄せた。
「案内は、いたしかねます。この足であなた方を白玉楼へお連れすることは――私の意志で、あなた方を通したことになる」
「でも、さっきはあなた自身、『無用な争い』だと」
「ええ。争いを続ける理由はない。それは本当です」
妖夢は静かに頷いた。
「けれど、争いをやめることと、自らの意志で通すことは別の話です。私が完全な意識のままあなた方を招き入れれば、それは私の裏切りになる。幽々子様への、不忠になる」
咲夜は、その理屈を黙って聞いていた。表情には出さなかったが、この少女の生真面目さに、いっそ呆れに近いものを感じていた。
「だから」
妖夢は、鞘に収めたままの刀――白楼剣を、ゆっくりと両手で持ち直した。
「私は今から、意識を手放します。私の意志で通したのではなく、私が戦いに敗れ、気を失った結果としてあなた方が先へ進んだ。そういう形にしなければ、私の中の筋が通りません」
「……本気で言っているの」
咲夜が、初めて僅かに動揺した声を出した。
「はい」
妖夢は迷いなく答えた。
「意識のあるまま道を譲れば、私は誓いを違えたことになる。ですが、意識を失った剣士に通行を阻む力はありません。それは私の敗北であって、裏切りではない。庭師としての分を守りながら争いを終わらせる方法は、これしかないと判断しました」
「……酔狂ね」
咲夜はそう呟いた。だが、その声に非難の色はなかった。むしろ僅かに、感嘆に近いものが混じっていた。
「止めても、聞かないんでしょうね」
「はい」
短い返事だった。
妖夢は、白楼剣の鞘の端を両手でしっかりと握り直した。狙いを定めるように、自分自身の首筋へ、鞘の底を静かに向ける。
「幽々子様」
小さく、名を呼んだ。詫びるような、あるいは、これでいいのだと確認するような呼び方だった。
そして迷いなく、鞘の底で自分の首筋を打った。
鈍い音が一つ響いた。
妖夢の身体が、糸の切れた人形のように力を失った。膝から崩れ落ち、そのまま石段の上に倒れ込む。桜の花びらが、その上に一枚、また一枚と降り積もっていった。
咲夜は、しばらくその姿を見下ろしていた。
「……律儀なこと」
呟くと、咲夜は妖夢の傍らに膝をつき、脈と呼吸を確かめた。安定していることを確認すると、着ていたエプロンの端で、そっと右腕の傷口を縛った。せめてもの手当てだった。
「これで、貸し借りなしよ」
咲夜は立ち上がりながら、誰にともなく呟いた。
「霊夢の方は……」
咲夜は小さく呟いた。誰に問うでもない独り言だった。
見えなくなった背中を思い浮かべながら、咲夜はふ、と小さく息を吐いた。
「あの子なら、大丈夫でしょうね。それに――」
咲夜は桜の向こうを見つめながら、小さく付け加えた。
「向こうで何が待っていようと、あの子は、ちゃんと辿り着く。今までも、そうだったんだから」
長い付き合いの中で培われた、根拠のある信頼だった。
咲夜は、気を失ったままの妖夢を一瞥すると、彼女の身体を石段の陰、桜の根元まで運んだ。目が覚めた時に、せめて雨風を凌げるようにと、その配慮だけは怠らなかった。
それから咲夜は、独り、石段を上り始めた。
石段の風景は、変わらず桜に包まれたままだった。花びらが、傷ついた石段の上に静かに降り積もっていく。
石段が、途切れた。
俺は、その先に広がる光景に、一瞬、息をするのを忘れた。
目の前に、一本の桜があった。
「一本」と呼ぶには、あまりに巨大すぎた。幹の太さは屋敷そのものを軽く覆い隠せるほどで、枝という枝が空を埋め尽くしていた。見上げても頂が見えない。花の密度が常軌を逸していた。一枚一枚が淡く発光しているようにさえ見え、絶えず舞い落ちる花吹雪が、あたり一帯を薄紅に染め上げていた。
これが、春の全てを吸い上げた木だ。直感で、そう分かった。地上のあらゆる場所から奪われた春が、この一本の桜に集約されている。
その根元に、白玉楼があった。
石段を上る途中で見えていた輪郭よりも、遥かに大きな屋敷だった。荘厳で、しかしどこか浮世離れした気配を纏っている。
その縁側に――一人の女が座っていた。
長い、淡い水色の髪。髪に挿された蝶の髪飾り。白と紫を基調にした、幽玄な着物。長い袖が、風もないのにゆるやかに揺れている。三角形の帽子のような髪飾りの下で、その顔には微笑みが浮かんでいた。柔らかく、けれど、どこか現実感の薄い微笑みだった。
女は、湯呑みを片手に桜を眺めていた。俺がここに辿り着くことなど最初から分かっていたかのように、驚く素振りもなく。
「……」
俺は、しばらく動けなかった。
戦いの気配はなかった。殺気も、敵意も感じない。ただ、圧倒的な存在感だけが、その小さな身体から静かに滲み出していた。
霊夢の記憶が、警鐘を鳴らした。
西行寺幽々子。冥界の主。死を司る幽霊。
「あら」
女――幽々子が、俺に気づいたようにこちらを見た。湯呑みを、静かに縁側に置く。
「随分と、賑やかにいらしたのね」
その声は涼やかで、しかしどこか眠たげだった。今起きたばかりのような、あるいはまだ半分夢の中にいるような響きだった。
「お客さんは、久しぶりよ。それも、こんなに元気いっぱいで来てくれるなんて、嬉しいわ」
「……あんたか」
俺は御札を構えながら言った。声が、自分でも思ったより硬かった。
「幻想郷から、春を盗んだのは」
「盗んだ、だなんて」
幽々子は、頬に手を当てて、困ったように――だが、少しも困っていないような顔で言った。
「借りているだけよ。ちょっと、長めに」
「長めって、どれくらいだ」
「さあ。何年だったかしら。数える気も失せるくらい。少しずつ……少しずつ……」
あっけらかんと、そう言った。
俺は、その軽さに言葉を失った。何年もの間、地上に春を返さなかった。その代償を、地上の人々がどれほど払ってきたか。その自覚が、この女には一切ないように見えた。
「ふざけるなよ」
「あら、怒った?」
幽々子は立ち上がった。ゆったりとした所作で、袖を揺らしながら。
「怒るのも、無理はないわね。でも――」
幽々子は俺をまっすぐに見た。今までのとろけるような微笑みの奥に、一瞬だけ違う色が覗いた。深く、静かな、底の見えない色だった。
「あなた、随分と面白い匂いがするわね」
「……匂い?」
「ええ。生きているのに、生きていない匂い。ここにいるのに、ここにいない匂い」
幽々子は、俺の周りをゆっくりと一周した。品定めするような、それでいてどこか懐かしむような視線だった。
「幽霊の国の主をやっていると、そういう匂いには敏感になるものなの。あなた――その身体、本来の持ち主とは違う魂が入っているでしょう」
心臓が跳ねた。
咲夜にも見抜かれなかったことを、この女は出会って数秒で見抜いた。
「……分かるのか」
「分かるも何も」
幽々子はくすり、と笑った。
「私、死んでるもの。生死の境目には、誰よりも詳しいのよ」
軽い口調だった。だが、その一言の重みは軽くなかった。
「なら、話は早い。あんたが、その死を弄んで、この異変を起こしたのか。」
「弄んだだなんて、人聞きが悪いわね」
幽々子は、心外だ、というように袖で口元を隠した。
「私はただ、桜を見たかっただけよ」
「桜くらい、幻想郷のどこにでも咲いてる」
「違うのよ」
幽々子は静かに首を振った。今までの飄々とした態度とは違う、微かな真剣さがあった。
「私が見たい桜は、そんじょそこらの桜じゃない。この子――西行妖くらい、特別な桜でなければ」
幽々子は頭上の巨木を見上げた。花びらが、絶え間なくその肩に降り積もっていく。
「でもね、この子は少し臆病なの。人里から離れた場所でひっそりと咲くくらいなら、まだいい。でも、本気で咲かせようとすると――ちょっとした事故が起きやすくてね」
「事故、って」
「まあ、それはいいわ」
幽々子は、はぐらかすように話を切り上げた。
「あなたが訊きたいのは、そんなことじゃないでしょう」
「……」
「あなたが訊きたいのは、『いつになったら、春を返してくれるのか』。違う?」
図星だった。俺は何も言えなかった。
幽々子は湯呑みを、また手に取った。中身はもう冷めているだろうに、気にする様子もなく口をつけた。
「そうねえ」
幽々子は遠くを見るような目をした。
「もう少しだけ、待って欲しいところなんだけど――どうやら、あなたを含めて、みんな随分と、この子に会いたがっているみたいだから」
「……」
「だから」
幽々子は湯呑みを置くと、袖の中から一本の扇を取り出した。開くと、そこには蝶の意匠が描かれていた。
「そろそろ、始めましょうか。あなたと、私の――」
幽々子の微笑みが、今までとは違う色を帯びた。柔らかさの中に、確かな殺意にも似た熱が滲む。
「弾幕ごっこ、というやつを」
俺は御札を構え直した。息を深く吸い込む。
「上等だ」
桜が、一斉に揺れた。まるでこの対話が始まりの合図であったかのように。花びらが渦を巻き、幽々子の周囲に紫と白の光が生まれ始めていた。