「飛ぶ……?」
「あぁ。」
言葉を口の中で繰り返しながら、俺は自分の足元を見下ろした。
そこには地面があった。腐葉土と枯れた落ち葉が層をなし、草履の裏が少し沈み込むほど湿った土の感触。当たり前のはずの光景が、今はどこか遠くに感じられる。
空を飛ぶ。
常識がすぐさま反論してくる。人間が空を飛べるなど、物理的にありえない話だ。だが次の瞬間、俺はその常識を頭の隅へと押しやった。ここは幻想郷だ。妖怪が棲み、魔法使いが箒に跨って大空を駆ける世界。そして博麗霊夢は、確かに飛べる。ゲームの画面の中で何度も見た通り、この身体にはそれを可能にする力が備わっているはずだ。
「試してみる」
俺は深く息を吸い込み、意識を自分の内側へと集中させる。ルーミアとの戦いで感じた、あの力の流れを探る。心臓の鼓動に合わせるように、温かい霊力が全身を巡っているのがはっきりとわかる。俺はその流れを、足の裏へと向けるように意識した。水が低い方へ流れるように、自然に、力を足先へと導く。
重力から解き放たれる感覚。身体が鉛を抜かれたように軽くなるイメージを強く描く。
そして——
足の裏から、地面の重みが消えた。
ふわり、と。まるで静かな水の中に体を沈めるような、だが下へ落ちるのではなく、柔らかく浮かび上がるような不思議な感覚。重力という縛りが、俺の身体から緩やかに解けていくのがわかった。
「うわっ」
驚いた拍子に、体のバランスが一気に崩れる。重心の取り方がまるでわからない。体が大きく傾ぎ、視界がぐるりと回転しそうになる。
「おっと、危ない」
魔理沙がすばやく箒の向きを変えて滑り寄り、俺の腕をしっかりと掴んでくれた。力強く、確かな手の感触が伝わってくる。
「落ち着け。慌てれば力の流れが乱れるだけだ」
「…… 助かった」
俺は礼を言いながら、体をゆっくりと立て直す。恐る恐る霊力の量を調整し、空中で姿勢を保とうと試みる。まるで自転車の補助輪を外したばかりの頃のように、少し力を入れすぎれば浮き上がりすぎ、弱めればすぐに落ちそうになる。均衡点を探るだけで精一杯だ。
「まったく」
魔理沙は呆れたように眉を下げていたが、その瞳の奥には心配の色が隠せていなかった。
「最初から何か様子がおかしいと思ってたが…… まさか飛び方そのものを忘れてるとはな。どこかで頭でも強く打ったのか?」
「いや、そうじゃない。ただ…… 長い間、空を飛ぶ機会がなかっただけだ」
嘘ではない。俺自身がこの身体で空を飛んだ経験は、これが初めてなのだから。ただ、魔理沙の想像する「長い間」と、俺が意味する「まったくの未経験」との間には、埋めようもない溝があるのだけれど。
「なら仕方ない。慣れるまで、ゆっくり進むとしましょう。」
「そうしてもらえると、本当に助かる」
魔理沙は箒を少し傾け、ゆっくりと前へ進み始めた。その動きはまるで空気そのものを泳ぐように滑らかで、長年の習熟が一挙手一投足に染みついているのが見て取れる。
俺も意識を集中させながら、恐る恐るその後に続く。霊力を体の後ろ側へと送り出すようにイメージすると、少しずつ体が前へと進む。上下の位置は霊力の強弱で調整し、体が傾いたら逆側に力を込めて戻す。理屈は単純なはずなのに、実際に体を動かすとなると思うようにいかない。それでも、一度動き出してしまえば、この身体に刻まれた霊夢の記憶が、俺の動きを少しずつ正しい方向へ導いてくれるようだった。
「悪くない感じだぞ」
しばらくすると、魔理沙が後ろを振り返って声をかけてくる。
「その調子で続けろ。慣れてきたら、少しずつスピードを上げていくからな」
「それは、まだ追々で頼む」
「……昔のお前なら、こんなのとっくに音速で駆け抜けてたんだけどな」
俺はただ黙って、その言葉を聞き流す。音速というものがどれほど速いのか、頭では理解している。だが今の俺にそれができるかと問われれば、答えは明白だ。
森の木々の間を抜けると、目の前の景色が一気に開けた。
湖だった。
視界いっぱいに水面が広がり、どこまでも続いている。風一つないのか、波ひとつ立っておらず、真っ赤に染まった空を鏡のように完璧に映し出している。血溜まりのような赤が、水平線まで静かに広がっていた。岸の向こう側は、濃い霧に呑まれて何も見えない。
「霧の湖……」
想像していたよりもはるかに大きい。湖というより、小さな内海と呼んだ方がしっくりくる規模だ。
「紅魔館は、この湖の真向かいにある」
魔理沙は説明するように言い、そのまま湖の上空へと滑り出していく。
「しっかりついてこい。この濃い霧の中ではぐれたら、簡単に方角を見失うから」
「わかった」
俺も慌てて後を追う。水面の上に出ると、急に冷たい空気が肌を刺してくる。湖から立ち上る湿気が、紅い霧と混ざり合って、まとわりつくように体を包み込む。
「なあ、霊夢」
少し進んだところで、魔理沙が静かに口を開いた。
「ん?」
俺は返事をしながら、心のどこかで警戒の糸を張る。何かを感じ取られているような予感が、胸の奥をくすぐる。
「お前、ずいぶん変わったな」
その言葉に、背筋がわずかに冷たくなる。俺は平静を装い、前を向いたまま答える。
「そうか?……うーん……」
「飛び方を忘れてたってのもあるけど……そもそもなんかさ、雰囲気っていうのかな。何か、全体的に違うんだ」
魔理沙は俺の横に並び、横目でじっとこちらを観察してくる。金色の瞳が、霧の中で鋭く光っているように見えた。
「この四年間、神社に閉じこもっていただろ?人里にも顔を出さないし、俺が訪ねて行っても門前払い。だから久しぶりに会ったら、そのせいかと思ったんだが……性格も、話し方も、何より動きの調子まで、全部が以前とは微妙に違う気がするんだ。」
「……四年も、ずっと一人で引きこもっていたんだ。色々あって……な。だから、そういうところも変わってしまったのかもしれない」
俺は苦し紛れに言葉を探す。
「ああ、確かに。俺も最初は何かあったのかと心配したさ。だけど何度呼んでも返事がないから、そのうち諦めるしかなかった」
諦める、という言葉が、俺の胸に重く沈んでくる。本物の霊夢がいなくなってからの四年間、周りの者たちはそれぞれに自分なりの答えを見つけて、納得しようとしてきたのだろう。
「……そうだったのか」
「まあ、何か理由があったんだろうとは思ってた。だけど今日久しぶりに顔を合わせたら、なんだか別人と話してるような感じがするんだ」
魔理沙は少し寂しそうに笑った。
「顔は間違いなく霊夢なんだけど、中身がすっかり入れ替わっちゃったみたいで。うまく言葉にできないんだけどな」
「……それは、気のせいじゃないかもしれない」
俺は前だけを見つめたまま、静かに言葉を続ける。
「人間っていうものは、時間が経てば変わるものだ。四年もあれば、考え方も感じ方も、すっかり変わってしまうことだってある。ただ、それだけの話だ」
嘘ではない。だが、真実でもない。俺はただ、自分の中の事実を覆い隠すために、もっともらしい理屈を並べているだけだ。
魔理沙はしばらく黙って俺の横を飛んでいた。やがて、ため息のような小さな声が聞こえてくる。
「……まあ、とにかく元気そうで安心したよ。本当に」
その言葉が、俺にはひどく重く感じられた。魔理沙が安心しているのは、長い間姿を見せなかった博麗霊夢が、無事に戻ってきたと信じているからだ。だが実際にここにいるのは、霊夢ではない俺だ。霊夢の顔を借り、霊夢の名前を語る、まったく別の存在だ。
それでも俺は、ただ「ああ」とだけ短く答える。それ以上、何も言うことができなかった。
湖の上空を進んでいくと、突然、高く澄んだ笑い声が頭上から降ってきた。
「きゃはははー!見つけたー!」
甲高く、どこまでも無邪気な響きだが、その裏には常識の通じない残酷さが潜んでいるような、そんな笑い声だ。
俺は反射的に腰の御札を掴み取る。ルーミアとの戦いで植えつけられた警戒心が、すぐさま身体を動かしていた。
声のする方へ視線を向けると、そこには小さな影が浮かんでいた。身長は百五十センチにも満たない幼い姿。緑色の髪に緑のワンピースを着て、背中には六枚の透き通った羽根が生えている。光を受けて虹色に輝くその羽根を見た瞬間、俺は妖精だと直感した。
「人間だー!珍しい人間がこんなところにいるぞー!」
妖精は子供がおもちゃを見つけたように両手を広げ、興奮した声を上げる。その無邪気さが、かえって不気味だ。悪意がない分だけ、自分の行動に歯止めが効かない。俺たちが遊び相手か、あるいは邪魔な障害物程度にしか見えていないのだろう。
次の瞬間、妖精の周囲に青白い光の玉が次々と生まれ始める。ぽん、ぽんと軽い音を立てて弾が増えていく。幻想郷で戦いといえば、これ——弾幕だ。
「くっ」
俺は体を思い切り横へと捻って飛びのく。光の弾が、さっきまで俺がいた空間を音もなく通り過ぎていった。
「大妖精か」
俺の横で、魔理沙がやれやれといった調子で呟いた。声には特別な警戒も、強い戦意も込められていない。まるで道端の小石をよけるような、そんな軽さだ。
「こんな場所で見かけるのは珍しいな」
そう言うと、魔理沙は何の構えも見せず、ただ右手を前へと差し出すだけだった。
次の瞬間、指先から鋭い光が走った。
流星のような軌跡を描く光弾が、音速に迫る速さで空気を切り裂き、まだ弾を放つ準備をしていた大妖精の胸元へと正確に命中する。
「きゃっ!」
短い悲鳴が上がり、大妖精はくるりと体を反転させながら弧を描いて水面へと落ちていく。大きな水しぶきが上がり、すぐに静かになった。
俺はその一連の流れを、ただ見守っていることしかできなかった。戦いが始まって終わるまで、わずか数秒にも満たない。魔理沙にとって、これは戦いですらなく、ただ道を塞ぐ邪魔者を払っただけの行為なのだろう。
「行くぞ」
魔理沙はただそれだけ言って、振り返りもせずに再び前へと進み始める。
俺は慌てて後を追いながら、胸の奥で何かがはっきりと形を成していくのを感じていた。
ルーミアを倒したとき、俺は自分で「勝った」と思い込んでいた。だが、あれは何だったのか。力を制御することもできず、ただ霊力を暴走させて運よく相手を弾き飛ばしただけに過ぎない。技術でも経験でもなく、偶然の産物だったのだ。
魔理沙のこの一撃と、俺のあの戦いを同じ「勝利」と呼ぶのは、あまりにも違いすぎる。
そんなことを考えていた瞬間、背中に鋭い冷たい衝撃が走った。
「っ——!」
痛みよりも先に、骨の芯まで凍りつくような冷気が全身に広がる。まるで氷の塊を直接肌に押し当てられたような、刺すような冷たさだ。
慌てて振り返ると、そこには別の妖精が立っていた。水色の髪に青いリボン、同じ色のワンピースを着て、背中には氷の結晶のような六枚の羽根が光を弾きながら浮かんでいる。その表情は、先ほどの大妖精とは打って変わって、怒りに満ちていた。子供の癇癪とは違う、明確な敵意と怒気が、体全体から迸っているのがわかる。
「何をしてくれてるんだ! あたいの縄張りに勝手に入ってきて、友達に手を出すなんて許さない!」
「チルノ、か」
魔理沙はまたも落ち着いた調子で名前を口にする。
「霊夢、こいつは氷の妖精だ。さっきの大妖精とは特に仲がいい。」
チルノは怒りに任せて両手を大きく広げる。すると瞬く間に、その周囲に無数の氷の弾丸が生まれ出した。青白く輝く結晶が、数十、数百と空中に浮かび、美しい模様を描く。だがそれは死の弾幕に他ならない。
次の瞬間、氷の弾が一斉に俺たちへ向かって飛来してくる。
俺は全身の感覚を研ぎ澄まし、ただ避けることだけに集中する。体を捻り、霊力で浮遊の軌道を微妙に変え、上から、横から、斜めから迫る弾の隙間を縫うように進む。それでも完全に避けきることはできず、肩の辺りをかすめ、腕に弾が当たるたびに、凍てつくような冷気が皮膚の奥まで染み込んでくる。
体の自由が少しずつ奪われていくように、筋肉が強張り、動きが鈍くなる。霊力の流れも乱れ始め、うまく制御できなくなっていくのがわかる。
俺は慌てて御札を投げつける。だが、弾幕の数が多すぎる。途中で氷の弾に弾かれ、霊力の軌道がずれて、そのまま湖面へと落ちていくだけだった。
「霊夢、下がってろ」
魔理沙の冷静な声が聞こえる。
視線を移すと、彼女は両手で八角形の炉——八卦炉を構えていた。中心には赤い宝玉がはめ込まれ、まるで生き物の心臓のように、ゆっくりと脈打って輝いている。
俺は言われるままに、すぐさま後方へと距離を取る。
次の瞬間、魔理沙の手元から、極太の光の柱が解き放たれた。
虹色に輝く奔流が、まるで空間そのものを焼き払うかのように一直線に伸びていく。轟音が響き渡り、湖の水面が大きく波立つ。俺の目には、迫っていた氷の弾幕が一瞬にして蒸発し、消え去ったようにしか見えなかった。それほどまでに圧倒的な破壊力だった。
「きゃあああっ!」
チルノの悲鳴が霧の中に響く。光の柱が直撃した彼女は、体中から白い煙を上げ、服の端が焦げ、髪の毛まで逆立っている。怒りに燃えていた瞳は、今は驚きと恐怖で焦点を失っていた。
魔理沙は何事もなかったかのようにゆっくりとチルノの元へ近づき、箒の柄でそっと、だが確かに彼女の頭を小突いた。
「おやすみ」
たった一言。それだけでチルノは力なく意識を失い、ふわりと体を傾けて湖の中へと落ちていった。
再び静けさが戻った空の上で、俺は自分の手を見つめていた。
肩や腕に残った冷たさがまだ消えず、皮膚の下が痺れるような感覚が続いている。
俺はチルノに対して、何もできなかった。ただ御札を一枚投げて、それが弾かれるのを見ていただけだ。結局は魔理沙に守られ、助けられているだけに過ぎない。
「行くぞ」
また同じ言葉が、魔理沙の口から放たれる。彼女はいつも通りの軽やかな調子で、先へと飛び続けている。
俺はその背中を見ながら、黙って後を追う。
「弱い」という二文字が、頭の中をぐるぐると回っていた。だがそれは、ただ自分に自信がないだけの感情とは少し違う。俺が弱いのは当然だ。この身体に移ってまだ四日目。空を飛ぶことを覚えたのだって、今日が初めてなのだ。それは紛れもない事実だ。
だが、問題はその先にある。こんな未熟な自分が、「博麗霊夢」という名前を背負っていることだ。
もし本物の霊夢がここにいたら、チルノ程度の弾幕など、何の苦労もなく軽々と捌いてしまうだろう。魔理沙に助けを求める必要など、最初からなかったはずだ。四年間、誰にも頼らずに幻想郷の均衡を守ってきた力。俺が借りているのは、その力だけではない。霊夢が積み上げてきた時間と信頼まで、全部を借りているのだ。
「……霊夢が四年もかけて守ってきたものを、俺は今日初めて、この空を飛んだばかりだ」
俺の声は、霧の風にかき消されて誰にも届かない。
魔理沙の背中は、少し先を行くだけなのに、妙に遠く感じられる。
それでも俺は、前だけを見て飛び続ける。赤い霧の中を、血のような色に染まった空の下を、紅魔館のある対岸へと向かって。足が震えているわけでも、心が折れかかっているわけでもない。ただ、自分が今どれほど脆く、どれほど大きな借り物を背負って立っているのか、その事実を初めてはっきりと理解しただけだ。
それだけのことなのに、胸にのしかかる重みは、想像以上に大きかった。