転生博麗   作:ライダー☆

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第三話 実力

「飛ぶ……?」

 

 言葉を反芻しながら、俺は自分の足元を見た。

 地面が、あった。腐葉土と落ち葉。草履が沈み込む、湿った地面。当たり前のものが、当たり前にそこにあった。

 空を飛ぶ。

 常識が、即座に否定した。人間が空を飛ぶことなど、物理的にありえない。だが次の瞬間、俺はその常識を打ち消した。ここは幻想郷だ。妖怪が存在し、魔法使いが箒で空を走る世界だ。そして博麗霊夢は、飛べる。ゲームの画面の中で、霊夢は確かに飛んでいた。この身体には、それができるはずの力がある。

 

「試してみる」

 

 深く息を吸い、意識を集中させた。ルーミアとの戦いで感じた感覚を探った。身体の中を流れる霊力。温かいエネルギーが、心臓から全身へ巡っている。それを足の裏へ向けた。水が低いところへ流れるように、霊力を足先へ導く。

 重力から解放されるイメージ。身体が軽くなるイメージ。

 そして。

 

「——」

 

 足の裏から、地面の感触が消えた。

 ふわり、と。まるで水の中に沈んでいくような、しかし落ちていくのではなく、浮かんでいくような感覚。重力という概念が、俺の身体から抜け出していった。

 

「うわっ」

 

 驚いた瞬間にバランスが崩れた。重心の取り方がわからない。身体が傾く。視界が回転しかけた。

 

「おっと」

 

 魔理沙が箒で素早く寄ってきて、俺の腕を掴んだ。力強く、確実に。

 

「落ち着け。慌てるな」

「……助かった」

 

 礼を言いながら、俺は姿勢を立て直した。恐る恐る、霊力を調整しながら、空中に留まろうとする。均衡を探る作業だった。自転車の補助輪を外した時のような、あの感覚に似ていた。

 

「ったく」

 

 魔理沙は呆れた顔をしながらも、心配の色を隠していなかった。

 

「なんかおかしいと思ったけど…。飛び方、本当に忘れてたのか。頭でも打ったのか、お前」

「打ってはいない。ただ……しばらく飛んでいなかったから」

 

 嘘ではなかった。俺はこの身体で一度も飛んでいなかった。それは本当のことだ。ただ、魔理沙が想定している「しばらく」と、俺が意味している「しばらく」は、まったく別の話だった。

 

「慣れるまで、ゆっくり行くか」

「そうしてくれると助かる」

 

 魔理沙は箒を傾けて、ゆっくりと前進し始めた。流れるような動作だった。長年の習熟が、その動きの隅々に染み込んでいた。

 俺も、恐る恐る後を追った。

 霊力を後方へ向けて押し出すイメージで、身体が前に進む。上下の調整は霊力の強弱で行う。傾けば、逆側に力を入れて戻す。単純な原理だが、体得するのは別の話だった。それでも、一歩踏み出してしまえば、身体が少しずつ覚えていった。この身体には、飛んだ記憶がある。俺の記憶ではなく、霊夢の記憶が。

「いい感じだ」

 魔理沙が振り返って言った。

 

「その調子。慣れたらスピード上げるからな」

「それは追々で頼む」

「昔のお前なら音速で飛んでたんだけどな」

 

 俺は黙ってその言葉を聞き流した。音速がどういうものか、頭では知っている。だが今の俺がそれをできるかどうかは、全く別の問題だ。

 

 森を抜けると、視界が一気に開けた。

 湖だった。

 見渡す限りの水面が広がっていた。波一つない。紅い空を完璧に映して、まるで巨大な鏡のように静止していた。血のような赤が、どこまでも続いている。岸の向こうは霧に消えていた。

 

「霧の湖……」

 

 規模が、想像より遥かに大きかった。湖というより、内海と言うべき広さだった。

 

「紅魔館は対岸だ」

 

 魔理沙は湖の上へ滑り出した。

 

「ついてこい。この霧の中で離れると、取り返しがつかなくなるぞ」

「わかった」

 

 俺も後を追った。水面の上に出ると、冷気が増した。湖から立ち上る水気が、紅い霧と混じって、肌に纏わりつく。

 

「なあ、霊夢」

 

 しばらく飛んだところで、魔理沙が口を開いた。

 

「ん」

「お前、かなり変わったな」

 

 背筋に何かが走った。平静を保ちながら、俺は前を向いたまま答えた。

 

「そうか」

「雰囲気、っていうか。なんか、違う」

 

 魔理沙は俺の横に並んで、横目でじっと見てきた。

 

「四年間、会ってなかったせいかな。性格も、喋り方も、動き方も。全部、微妙に違う気がする」

「………四年間……ひ、引きこもっていたんだ。」

「ああ。人里にも降りてこなかった。私が訪ねていっても、門前払いだった」

 

 複雑な表情が、魔理沙の横顔に浮かんだ。憂いを含んだ、しかし責めてはいない顔だった。

 

「最初は心配した。でも、そのうち諦めた」

 

 諦めた、という言葉の重さが、妙に胸に刺さった。

 

「……そうか」

「まあ、色々あったんだろうとは思ってた。でも、今日久しぶりに会ったら、何か別人みたいで」

 

 魔理沙は少し笑った。寂しさを隠した笑いだった。

 

「顔は同じなんだけど、中身が違うっていうか。うまく言えないけど」

「……気のせいじゃないかもしれない」

 

 俺は、前を向いたまま言った。

 

「え?」

「………人は変わる。四年あれば、十分変わる。それだけだ」

 

 嘘ではない。ただ、全部でもない。

 魔理沙はしばらく黙っていた。それから、小さく言った。

 

「……元気そうで良かったよ。本当に」

 

 その言葉が、重かった。

 魔理沙が安堵しているのは、本物の霊夢が戻ってきたと思っているからだ。だが、戻ってきたのは霊夢じゃない。俺だ。霊夢の顔をして、霊夢の名前を使っている、俺だ。

 それでも俺は、「そうか」とだけ返した。それ以上、何も言えなかった。

 

 

 湖の上を飛んでいると、声が降ってきた。

 

「きゃはははー!」

 

 甲高い笑い声だった。無邪気で、残酷で、どこか常識の外側にいる者の笑い声だった。

 俺は反射的に御札を手に取った。ルーミアとの経験が身体に刻まれていた。

 声の方を向くと、空中に少女が浮いていた。百五十センチに届かない、小柄な体躯。緑の髪に緑のワンピース。背中には透き通った羽根が六枚、微かな光を受けて虹色に揺れていた。

 妖精だ、と直感した。

 

「人間だー!人間がいるー!」

 

 少女は両手を広げ、まるで宝物を見つけた子供のように叫んだ。その無邪気さが、逆に不気味だった。悪意がないぶん、歯止めがない。

 空中から、青白い光の球が生まれ始めた。ぽん、ぽん、と。弾幕だ。

 

「くっ」

 

 俺は横に跳んだ。弾が、俺がいた場所を通り過ぎた。

 

「大妖精か」

 

 魔理沙が、俺の横で呟いた。その声は静かだった。戦意も、警戒も、特にない。

 

「珍しい場所にいるな」

 

 そう言いながら、魔理沙は何の構えも作らず、ただ片手を前に突き出した。

 瞬間、光が飛んだ。

 一発だった。星のような軌跡を描いた光弾が、音速に近い速度で空気を切り裂き、大妖精の胸に直撃した。

 

「きゃっ!」

 

 大妖精は弧を描いて湖へ落ちた。白い水しぶきが上がった。

 俺は、その一連の流れを見ていた。

 開始から終了まで、三秒もなかった。戦闘と呼ぶには短すぎた。魔理沙にとって、それは戦闘ですらなかったのかもしれない。

 

「行くぞ」

 

 魔理沙は振り返りもせず、飛び続けた。

 俺は後を追いながら、胸の中で何かが静かに定まっていくのを感じた。

 ルーミアを倒した時、俺はあれを「勝った」と思った。だが、あれは何だったのか。霊力を暴走させて、どうにか押し返しただけだ。制御でも、技術でもなかった。

 魔理沙の一撃と、俺のルーミア戦を、同じ「勝利」と呼ぶのは、正確じゃない。

 その思考が一段落した瞬間、背中に冷たい衝撃が走った。

 

「っ——」

 

 痛みより先に冷たさがあった。氷を直接肌に押し当てたような、骨まで届く冷たさ。

 振り返ると、もう一人いた。

 青い髪に青いリボン。青いワンピース。背中には六枚の氷の結晶めいた羽根が、光を散らしながら揺れていた。表情は怒りに満ちていた。子供の癇癪とは質が違う、純粋な怒気だった。

 

「何話してるんだ!あたいの縄張りに勝手に入ってくるな!」

「チルノか」

 

 魔理沙が、やはり静かな声で言った。

 

「妖精だ、霊夢。さっきの大妖精と仲がいいやつ」

 

 チルノは両手を広げた。瞬間、無数の氷の弾丸が生まれた。青白く輝く結晶が、何十、何百と空中に浮かんだ。美しかった。そして次の瞬間、それが一斉に俺へ向かって飛んできた。

 

「——!」

 

 避ける。身体を捻る。霊力で軌道を変える。上から、横から、斜めから。隙間を探して、縫うように動く。それでも、肩をかすめた。腕に当たった。冷たさが、その都度、皮膚の奥まで刺さってきた。

 筋肉が固まっていく感覚があった。動きが鈍くなる。霊力の制御が乱れる。

 御札を投げた。だが弾幕が多すぎた。途中で氷に弾かれ、軌道がそれて湖面に落ちた。

 

「霊夢」

 

 魔理沙の声がした。

 見ると、魔理沙は八卦炉を両手で構えていた。八角形の金属塊。中央の赤い石が、心臓のように脈を打っていた。

 

「下がれ」

 

 一言だった。

 俺は即座に後退した。

 次の瞬間、極太の光が放たれた。

 虹色に輝く光の奔流が、空間ごと焼き尽くすように走った。轟音が湖面を揺らした。氷の弾幕が、蒸発した。蒸発した、としか言いようがなかった。一瞬で、何もなくなった。

 

「きゃあああ!」

 

 チルノの悲鳴が響いた。レーザーが直撃した。全身から煙を上げ、服が焦げ、髪が逆立ち、目の焦点が消えた。

 魔理沙はゆっくりとチルノに近づき、箒の柄で頭を軽く叩いた。

 

「おやすみ」

 

 その一言でチルノは意識を失い、湖へと落ちていった。

 

 水しぶきが収まった後の静けさの中で、俺は自分の手を見た。

 肩と腕に受けた冷気がまだ残っていた。皮膚の下が痺れている。

 俺はチルノに、何もできなかった。御札を一枚投げて、それが弾かれただけだった。

 魔理沙はそれを見て、溜息一つで終わらせた。

 

「行くぞ」

 

 また、その言葉だった。魔理沙は何事もなかったかのように飛んでいる。俺はその背中を見ながら、後を追った。

 弱い、という言葉が頭の中にあった。

 だがそれは、単純な自信喪失とは少し違う感覚だった。俺が弱いのは仕方ない。この身体に来て、まだ四日だ。飛ぶことを覚えたのは今日だ。それは事実だ。

 問題は、この弱さで霊夢の代わりを名乗っていることだった。

 霊夢がここにいたなら、チルノの弾幕をどう捌いていたか。魔理沙に頼る必要すらなかったかもしれない。四年間、引きこもって、それでも蓄えていた力がある。俺が借りているのは、その力だ。積み上げてきた年月ごと、借りている。

 

「……霊夢が四年かけて守ってきたものを、俺は今日初めて飛んだ」

 

 誰にも届かない声で、呟いた。

 魔理沙の背中は、遠い。

 それでも、俺は飛び続けた。霧の中を。紅い空の下を。紅魔館へ向かって。足が震えているわけでも、心が折れているわけでもない。ただ、自分の立っている場所の深さを、今日初めて正確に知った。

 それだけのことだった。

 それだけのことが、存外に重かった。

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