紅魔館が、霧の向こうに現れた。
城だった。
洋館という言葉では追いつかない。尖塔が幾本も空を刺し、石造りの壁が重く地を押さえ、鉄の門が閉ざされている。西洋の様式を持ちながら、どこか幻想郷の空気に馴染んでいた。紅い霧が建物の輪郭を曖昧にしていて、全体がぼんやりと、しかし確かな存在感で眼前に迫ってきた。
「でかいな」
呟いた。知識として知っていたはずなのに、実際に目の前にすると、その質量に押されるような感覚があった。
「行くぞ」
魔理沙が速度を上げた。俺も霊力を増して後を追う。門が近づいてくる。鉄の門。重厚で、飾り気がなく、閉ざされている。
その前に、一人の人影があった。
女性だった。長い赤い髪を後ろで束ね、緑の中華風の上着に白いズボン。頭には帽子。両手は脇に垂らして、構えてすらいない。ただ静かに、俺たちを見ていた。
「紅美鈴」
魔理沙が低く言った。
「紅魔館の門番だ」
美鈴は表情を変えなかった。穏やかな顔だった。しかしその穏やかさが、剣呑な静けさと同居していた。
「ようこそ、紅魔館へ」
声は落ち着いていた。高くも低くもない、よく通る声だった。
「申し訳ありませんが、お嬢様は今、お客様をお迎えになる気分ではありません」
「悪いな。招待なしだが、用がある」
魔理沙は箒を構えた。
「通してもらう」
「それは、できません」
美鈴は首を振った。そして初めて、両手をゆっくりと持ち上げた。武術の構え。腰を落とし、重心を安定させ、前後に手を開く。その動作に、無駄が一つもなかった。
虹色の光弾が、美鈴の周囲に生まれ始めた。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。七色が、静かに空中に並んでいく。
「行け、魔理沙」
俺は言った。
「は?」
「俺がここで引き受ける。お前は中に入れ」
魔理沙が黙った。一秒、二秒。
「……あいつ、割と強いぞ」
「わかってる」
「お前じゃ——」
「わかってる」
俺は繰り返した。魔理沙はまだ何か言おうとして、それから口を閉じた。
「……無理すんな」
「ああ」
魔理沙は俺を一秒だけ見て、箒を傾けた。速度を上げ、美鈴の横を抜けようとする。
美鈴は魔理沙には目を向けなかった。
俺だけを見ていた。
その視線の意味が、すぐにはわからなかった。
弾幕が来た。
七色の光弾が、整然とした波のように押し寄せてくる。ランダムではない。規則的な、しかし読みにくい軌道だった。隙間を探しながら、身体を捻り、霊力で加速して抜ける。一発かすった。肩に熱い痛みが走った。
御札を三枚、立て続けに投げた。
美鈴は最小限の動きで避けた。上体をわずかに傾けるだけで、三枚ともかわされた。無駄がない。必要な分だけ動いて、余分を一切使わない。
距離を詰めようとすると、弾幕の密度が上がった。
近づかせない意図が、はっきりあった。
俺は御札を続けて投げながら、左右に揺さぶりをかけた。右に動いて見せて、左に流れる。美鈴の弾幕がわずかにそちらに引き寄せられた隙に、右斜め上から角度をつけて突っ込んだ。
美鈴の顔が、初めてわずかに動いた。
その隙に、御札が一枚、届いた。
「……」
美鈴は音を立てなかった。肩に当たった御札の跡が、着物を焦がしていた。
だが、次の瞬間、美鈴は構えを変えた。
弾幕が消えた。
代わりに、美鈴が前に出てきた。
「近接か」
思う間もなく、拳が来た。
速かった。弾幕の比ではない速度だった。俺は後方に飛んで間合いを切ろうとしたが、美鈴の踏み込みの方が速く、腹部に拳が入った。
「——っ」
息が詰まった。内側から何かが押し潰されるような衝撃だった。霊力の制御が乱れ、高度が下がった。
地面に落ちる寸前で踏ん張って、浮遊を保つ。
美鈴はもう目の前にいた。
「私は気を扱います」
静かな声だった。戦いながら話す声ではなかった。まるで、説明するように。
「霊力とは別の、身体に宿るエネルギーです。これを拳に凝縮すれば——」
拳が肩に入った。
「っ——」
骨が軋んだ。同じ箇所を二度殴られた感触だった。腕が、一瞬動かなくなった。
後退しながら御札を抜こうとすると、手首を打たれた。指から力が抜けて、札が一枚落ちた。
まずい。
一方的だった。弾幕の時は距離で何とかなった。だが近接になると、技術の差が埋めようのない溝として現れた。美鈴の動きには、俺が読める予備動作がない。来るとわかってから反応しても、間に合わない。
距離を開こうとした。霊力を後方に噴射して、一気に離れようとした。
美鈴は追わなかった。
その場に静止して、俺を見ていた。
「追わないのか」
息を整えながら言った。
「追う必要がないので」
美鈴は答えた。
「今のあなたには、私に有効な攻撃手段がありません。距離を開いても、御札は私に届かない。近づいてくれば、また同じことになる」
正確な分析だった。反論できなかった。
俺は、ここで初めて状況を冷静に整理した。
有効打がない。消耗だけが続いている。魔理沙は館に入った。時間は稼げた。だが、このまま続けても俺が先に動けなくなる。
どうする。
御札を持ち直した。手が痛んだ。それでも、手放さなかった。
美鈴が口を開いた。
「一つ、聞いてもいいですか」
「何だ」
「さっきの御札、三枚目だけ軌道を変えていましたね」
俺は黙って聞いた。
「最初の二枚を囮にして、三枚目を別の角度から通した。あれは、その場で考えましたか」
「……ああ」
「そうですか」
美鈴は少し間を置いた。
「あなたは今日、初めて飛んだでしょう」
俺の呼吸が、一拍乱れた。
「なんで、そう思う」
「飛び方が、そうでした。迷いのある飛び方でした。長年飛んでいた人間の飛び方ではなかった」
美鈴は静かな目で俺を見ていた。
「それでも、弾幕の隙間を読んで、囮を使って、私の御札を一枚通した。素の判断力と胆力は、相当なものです」
「褒めてどうする。お前の敵だろ」
「そうですね」
美鈴は頷いた。
「だからこそ、聞きたかった」
それだけ言って、美鈴はまた構えた。
戦いが、また始まった。
今度は弾幕と近接を混ぜてきた。距離を取ると弾幕。詰めると拳。どちらに転んでも対応される。
消耗が続いた。
肩が痛い。腹が痛い。手首が痛む。霊力が目に見えて減っていた。
だが、俺は冷静になっていた。
パニックがなかった。ルーミアの時もチルノの時も、恐怖で思考が止まりかけた。だが今は、痛みの中で、頭が妙に澄んでいた。
なぜかはわからない。
ただ、美鈴の動きを見ていた。近接の時の、踏み込みの癖を見ていた。右前足から入る時と、左から入る時の重心の違いを、少しずつ覚えていった。
十回目の近接攻撃の時、俺は踏み込んだ。
逃げるのではなく、前に。
美鈴の右拳が来た。俺は左に体を逃がしながら、右腕で軌道をずらした。完全には止められなかった。肩口をかすった。それでも、致命的な衝撃を逃した。
そのまま、至近距離で御札を押しつけた。
「——」
美鈴の腹に、直接当たった。
美鈴が後方に飛んだ。着地して、俺を見た。
その目に、初めて別の色があった。
戦いが、少し変わった。
それでも、俺が押されていることに変わりはなかった。
有効打は増えた。だが、受けるダメージも蓄積していた。このまま続けば、先に限界が来るのは俺だ。
美鈴は知っている。だから焦らない。
俺は御札を残り数枚確認した。
選択肢が、限られてきた。
その時、美鈴が口を開いた。
「魔理沙さんは、もう奥に進んでいるでしょう」
唐突な言葉だった。
「あなたの役割は、終わりました」
俺は黙って聞いた。
「撤退してもいい。私は追いません」
「撤退して、どうする」
「生きて帰れます」
「それで、異変は解決するのか」
美鈴は答えなかった。
「俺が帰っても、霧は晴れない。人里の人間は今も困っている。お前のお嬢様の都合で」
「……」
「お前は、それでいいのか」
美鈴の目が、かすかに動いた。
「お嬢様のご意志に、私が意見する立場ではありません」
「聞いてるのはそこじゃない」
俺は言った。息が苦しかった。それでも、言葉を続けた。
「お前自身は、どう思ってる。この霧を」
美鈴は答えなかった。
しばらく、沈黙が続いた。
紅い霧が、静かに漂っていた。
「……私には」
美鈴が、小さく言った。
「立場があります」
「知ってる」
「お嬢様に仕える門番として、私がすべきことは——」
「知ってる」
俺は遮った。
「だから、もう一度だけやらせてくれ」
美鈴は俺を見た。
「撤退を勧めたのに、ですか」
「ああ。もう一度だけ、受けてくれ」
美鈴はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと構えた。
「……後悔しませんか」
「後悔する前に、やる」
俺は全ての御札を手に持った。残り六枚。
それを一度に霊力で展開した。
六枚の御札が、俺の周囲に展開して浮かぶ。全方位に。盾のように、あるいは砲台のように。
美鈴が踏み込んできた。
六枚が一斉に動いた。
美鈴は三枚をかわした。一枚を拳で弾いた。だが残り二枚が、わずかに遅れて別の角度から入った。
一枚が、脇腹に当たった。
「——」
美鈴の踏み込みが、ほんの少し乱れた。
その瞬間、俺は全ての霊力を右手に集めた。
制御しながら、だった。
ルーミアの時のような暴走ではなかった。意識して、絞り出した。痛んだ。全身が悲鳴を上げた。それでも、一点に向けて押し込んだ。
美鈴の拳と、俺の掌が、ぶつかった。
衝撃が走った。美鈴の拳の威力が、霊力の壁を通して全身に伝わった。それでも、俺は後退しなかった。足を踏ん張って、押し返した。
爆発、とは違った。
ただ、霊力が放出された。密度の高い、凝縮されたものが。
美鈴が、後方に吹き飛んだ。
門に背中を打ちつける鈍い音がした。鉄が軋んだ。美鈴はその場に膝をついた。立ち上がろうとして、右腕をついて、止まった。
しばらく、静寂があった。
「……負けました」
美鈴は、静かに言った。
俺は、その場に浮いたまま動けなかった。右手が、震えていた。全身の霊力を絞り出した代償で、指先の感覚が薄かった。
「行ってください」
美鈴は顔を上げた。苦痛を表情の奥に押し込んで、それでも真っ直ぐに俺を見ていた。
「奥には、強い者がいます。パチュリー様。咲夜さん。そして、お嬢様」
「知ってる」
「あなたが、そこまで辿り着けるかどうか」
美鈴は少しだけ目を細めた。
「私には、わかりません。でも」
小さな間があった。
「今日、門番として負けたのは事実です。それ以上、私が言うことはありません」
俺は美鈴を一秒だけ見た。
「……お前は、いい門番だな」
余計なことを言った、と思った。だが、他に言葉が出なかった。
美鈴は答えなかった。ただ、わずかに目を伏せた。
俺は門をくぐった。
重い鉄の門が、軋みながら開いた。
紅魔館の内部が、目の前に広がった。