紅魔館内部。
魔理沙は、困惑していた。
いや、困惑なんて生温い表現では足りない。完全に、状況が理解できなかった。脳が、現実の認識を拒否していた。
「……なんで、ここに?」
呟きながら、魔理沙は周囲を見渡した。箒に跨ったまま、ゆっくりと宙を旋回しながら。
そこは――図書館だった。
巨大な、図書館。
天井が見えないほど高い。いや、本当に天井があるのかすら疑わしい。何層にも重なった書架が、まるで塔のように積み上げられ、どこまでも、果てしなく続いている。無数の本が、整然と並んでいる。背表紙の文字は、様々な言語で書かれていた。ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語、そして見たこともない文字。古いものから新しいものまで。西洋の書物も、東洋の書物も。魔導書らしき怪しげな本も、禍々しいオーラを放ちながら鎮座していた。
空気は冷たく、湿っている。紙とインクと、何か古いものの匂いがする。時間が凝縮されたような、重苦しい空気。
魔法の気配が、濃厚に漂っていた。肌に纏わりつくような、粘ついた感覚。
「地下……図書館?」
魔理沙は、この場所が地下にあることを直感的に理解した。
空気の流れが、ない。
完全に、止まっている。
地上なら、どれほど密閉された空間でも、わずかに空気の流れがある。窓の隙間から、換気口から、扉の隙間から。微かな風が、必ず存在する。
だが、ここには――ない。空気が、完全に閉じ込められている。
それに、温度が低い。地上よりも明らかに冷たい。湿度も高い。まるで、洞窟の中にいるかのような感覚。
そして――重力の感じ方が、微妙に違う。
何百メートルもの岩盤が、頭上にあるような。圧迫感がある。身体が、わずかに重い。
魔法使いとしての感覚が、そう告げていた。
ここは、地下だ。
深い、深い地下だ。
だが――
「おかしい……だとしたらおかしすぎる……!」
魔理沙は歯を食いしばった。
私は、確かに上へ向かっていたはずだ。
門を突破して、館の中に侵入した。豪華な玄関ホールを抜け、大理石の階段を駆け上がり、二階へ。赤い絨毯が敷かれた廊下を突き進み、さらに階段を上って、三階へ。そして四階へ。
吸血鬼がいるであろう、最上階を目指していた。
それは確かだ。記憶が曖昧なわけじゃない。幻覚を見たわけでもない。
階段を上っていた。確実に、上へ上へと。
なのに――
「なんで、私が地下にいるんだ?」
矛盾していた。
物理法則が、破綻していた。
上へ向かったはずなのに、下にいる。
まるで、エッシャーの騙し絵の中に迷い込んだかのような感覚。
「……空間操作、か?」
魔理沙は舌打ちした。
罠だったのか。
廊下のどこかに、転移の魔法陣でも仕掛けられていたのか。それとも、館全体が巨大な魔法装置になっているのか。
気づかなかった。
まったく、気づかなかった。
魔法使いとしての自負が、一瞬で崩れ去った。
「ちっ、やられた……!」
時間を無駄にした。
霊夢が、命がけで稼いでくれた時間を、無駄に消費してしまった。
あの満身創痍の身体で、美鈴と戦ってくれているのに。
「早く、戻らねぇと……!」
魔理沙は図書館の出口を探した。
箒を加速させ、書架の間を縫うように飛ぶ。
だが、書架が迷路のように入り組んでいて、方向感覚が狂う。右に曲がったはずなのに、また同じ場所に戻ってくる。真っ直ぐ飛んだはずなのに、いつの間にか曲がっている。
どこが出口なのか。
どこが入口なのか。
それどころか、どこが上でどこが下なのかすら、わからなくなってきた。
「くそ……!」
焦りが込み上げてくる。呼吸が浅くなる。心臓が激しく跳ねる。
霊夢は、大丈夫だろうか。
美鈴と、まだ戦っているのか。
考えたくない可能性が、頭をよぎる。
倒れているのか。
気絶しているのか。
それとも――死んでいるのか。
「…………いいや、考えるな!」
魔理沙は頭を振って、その思考を追い払った。
考えるな。
霊夢は、強い。
弱そうに見えるが、あいつは博麗の巫女だ。そう簡単にやられるはずがない。
昔は強かった。圧倒的だった。……その力が、羨ましくてしょうがなかったぐらいだ。
……信じる。
「……行くぞ!」
魔理沙は箒を加速させた。
書架の間を縫うように飛び、出口を探す。
巨大な本棚が、次々と視界に入っては消えていく。
天井から吊るされたランタンが、薄暗い光を放っている。炎が揺れるたびに、影が踊る。まるで、何かが蠢いているかのように。
静寂が、支配していた。
自分の飛行音だけが、やけに大きく響く。風を切る音。箒が空気を押し退ける音。それらが、図書館中に木霊する。
「どこだ、出口……!どこなんだよ……!」
魔理沙は必死に探した。
だが、図書館はあまりにも広大だった。
まるで、無限に広がっているかのように。
いや、本当に無限なのかもしれない。
魔法で、空間が歪められているのかもしれない。
「……待てよ」
魔理沙は、ふと気づいた。
出口を探す必要はないんじゃないか。
天井を、ぶち破ればいい。
上に向かって、強めの弾幕を撃てば、岩盤だろうが何だろうが貫通する。そして、地上に出られる。
「そうだ、それでいい!」
魔理沙は上を向いた。
天井は遥か上。だが、マスタースパークなら届く。あのレーザーは、射程距離を気にする必要がない。
「そうと決まれば!」
懐から八卦炉を取り出す。
金属の感触が、手のひらに伝わる。冷たく、重く、そして――力強い。
レーザーで天井を――
「――!?」
突然、視界が真っ赤に染まった。
炎。
巨大な炎。
いや、火の玉だ。
直径数メートルはあろうかという、巨大な火の玉が、正面から襲ってくる。
轟音を立てて。空気を焼き尽くしながら。
「うわっ!」
魔理沙は咄嗟に箒を傾けた。
横に飛ぶ。全速力で。限界まで加速して。
直後――
巨大な火の玉が、魔理沙がいた場所を通過した。
轟音と共に。
熱波が、肌を焼いた。髪が焦げる匂いがした。服の袖が、わずかに燃えた。慌てて叩き消す。
「危ない……!」
魔理沙は冷や汗を流しながら、振り返った。
火の玉は、背後の書架に激突していた。
本が燃え上がる。赤い炎が、古書を舐め尽くす。
だが――すぐに消えた。自然に。まるで、最初から燃えていなかったかのように。
魔法で消火されたのか。
いや、違う。
あれは、燃えることを許されなかったのだ。この図書館の意志によって。
「……誰だ!」
魔理沙は叫んだ。
声は、図書館中に響き渡った。何重にも反響して、まるで複数の魔理沙が叫んでいるかのように。
そして――
沈黙。
長い、長い沈黙。
魔理沙は息を潜めた。警戒を最大限に高める。
「ようこそ」
声が返ってきた。
女性の声。いや、少女の声。低く、落ち着いた、知的な響きを持つ声。だが、同時に冷たさも含んでいた。感情の欠落した、機械的な冷たさ。
「ヴワル魔法図書館へ。……なんて、洒落た言葉はいらないかしら。」
魔理沙は、声の方向を見た。
書架の上。
そこに、一人の少女が浮いていた。
紫色の長い髪。艶やかで、まるで絹のような髪。紫色のローブとスカート。ゆったりとした、魔法使いの装束。頭には三日月のような飾り。銀色に輝く、神秘的な装飾品。
そして、手には――分厚い本。
古びた、魔導書のような本を抱えていた。革の装丁。金属の留め具。ページからは、微かに光が漏れている。
少女は――病弱そうだった。
肌は青白く、頬はこけている。まるで、長い間日の光を浴びていないかのような。
だが、その瞳は鋭かった。
紫色の瞳。深淵のような、底知れぬ知性を宿した瞳。
「……誰だ、お前」
魔理沙は警戒しながら訊いた。
少女は、微笑んだ。
だが、その笑顔には温かみがなかった。冷たく、計算された、まるで数式のような笑み。
「パチュリー・ノーレッジ」
その名前を、魔理沙は知らなかった。
だが、名前を聞いた瞬間、直感した。
この少女は、危険だ。
圧倒的に、危険だ。
「紅魔館の魔法使い」
パチュリーは本のページをめくった。
ゆっくりと。まるで、時間が無限にあるかのように。
「そして、この図書館の主」
「……図書館の?」
「ええ」
パチュリーは頷いた。
「ここは私の領域。私の聖域。私の世界」
本が、淡く光り始めた。
「そして、あなたは――」
パチュリーの瞳が、鋭くなった。
「不法侵入者」
空気が、重くなった。
魔力が、濃密になっていく。呼吸が苦しくなる。
「名前は?」
パチュリーは訊いた。
「あなたを殺す前に、教えてちょうだい」
「……霧雨魔理沙」
魔理沙は答えた。
隠す意味はない。それに、この状況で嘘をついても意味がない。
「魔法使いだ」
「魔法使い?」
パチュリーは興味深そうに首を傾げた。
「あら、珍しい。人間の魔法使いなんて」
「……お前も、人間だろ?」
「ええ、一応、「ガワ」はね。」
パチュリーは微笑んだ。
「でも、普通の人間ではないわ。百年以上、生きているもの」
「……は?」
魔理沙は目を見開いた。
百年?
この少女が?
「驚いた?でも、事実よ」
パチュリーは本を閉じた。
「魔法使いは、老いない。少なくとも、私のような真の魔法使いは」
「……真の、魔法使い?」
「ええ」
パチュリーは誇らしげに言った。
「生まれながらの魔法使い。魔法を操る才能を持って生まれた者。」
そして、魔理沙を見た。
「あなたは、違うでしょう?」
「……」
「普通の人間。努力で魔法を身につけた。そんな感じね」
図星だった。
魔理沙は、生まれながらの魔法使いではない。
努力で、魔法を学んだ。独学で。試行錯誤を重ねて。
「まぁね。私は天才じゃない、何か特別な才能を持って生まれたわけでもない。」
魔理沙は自嘲した。
「努力型の、凡人。そして自分自身を、ここまで上げてきた。」
「そう」
パチュリーは冷たく言った。
「中途半端な力を持った奴は、早死にするって知らなかったかしら?今ここで死になさい」
本が、激しく光り始めた。
「凡人が、天才に挑むなんて――」
ページが、捲られる。
「百年早いわ!!」
瞬間、
図書館中の本が、光り始めた。
無数の本が。何千冊、何万冊という本が、一斉に。
書架に並ぶすべての本が、それぞれの色で輝き始めた。赤、青、緑、黄、白、黒。虹色の光が、図書館を満たす。
「……これは…」
魔理沙は、呆然とした。
これは、勝てない。
本能が、そう告げていた。理性が、撤退を促していた。
この少女は、格が違う。
次元が、違う。
だが――
「それでも、行かせてもらう!」
魔理沙は叫んだ。
霊夢が、待っている。
時間を稼いでくれている。満身創痍の身体で、美鈴と戦ってくれている。
その時間を、無駄にするわけにはいかない。
たとえ相手が、どれほど強大でも。
たとえ勝算が、ゼロに近くても。
「マスタースパーク!」
魔理沙は八卦炉を構え、叫んだ。
極太のレーザーが、パチュリーに向かって放たれた。
虹色に輝く、圧倒的な光の奔流。チルノを一撃で倒した、あの必殺技。
「シルフィホルン」
パチュリーは静かに詠唱した。
感情のない声で。まるで、数式を読み上げるかのように。
瞬間、緑色の竜巻が出現した。
魔法陣から生まれた、巨大な竜巻。
そして――レーザーを、飲み込んだ。
いや、逸らした。
レーザーは軌道を曲げられ、明後日の方向に飛んでいった。そして、書架に激突した。爆発が起こる。本が舞い散る。
だが、すぐに修復された。まるで時間が巻き戻されたかのように。
「……なにっ!?」
魔理沙は、信じられなかった。
マスタースパークが、効かない?
いや、効かなかったわけじゃない。逸らされた。防御されたのではなく、攻撃の方向を変えられた。
「言ったでしょう?」
パチュリーは微笑んだ。
「百年早いと」
そして――
「さあ、始めましょうか」
本のページが、激しく捲られ始めた。
風が吹く。いや、魔力の奔流だ。
「魔法使い同士の――」
パチュリーは宣言した。
「知恵比べを。」
*****
紅魔館の中は、静寂に満ちていた。
いや、静寂というより――死の気配が満ちていた。生命の息吹が感じられない、真空のような静けさ。まるで、墓場の中を歩いているかのような、冷たく重苦しい空気。
俺は、館内を歩いていた。
一歩進むたびに、激痛が走る。
折れた肋骨が、肺を圧迫する。呼吸するたびに、胸の内側で何かが軋む音がする。
右手首は、完全に使えない。わずかに動かすだけで、電流が走ったような激痛が腕全体を駆け巡る。
脚も、限界だった。美鈴の打撃のダメージが深部まで残っている。筋肉が腫れ上がり、内出血で青紫色に変色している。
血が、滲み続けていた。
身体中の傷から。動くたびに、じわじわと。止まらない。
「はぁ……はぁ……」
呼吸が荒い。
酸素が足りない。頭がぼんやりとしてくる。
このままじゃ、まずい。
動き続ければ、それだけ血が出る。
だが、止まるわけにもいかない。
「魔理沙……」
呟いて、俺は館の奥を見た。
長い廊下が続いている。
魔理沙は、どこにいる。
無事なのか。
それとも――
考えたくない可能性が、頭をよぎる。
「……行かないと……」
俺は再び歩き出した。
廊下を進む。赤い絨毯が敷かれた、豪華な廊下。壁には絵画が飾られている。肖像画。風景画。どれも高価そうな、芸術作品。西洋の貴族の館そのものだった。
だが、人の気配がない。
メイドもいない。執事もいない。使用人の気配すら感じられない。
まるで、廃墟のように。
「……静かすぎる」
不気味だった。
罠なのか。
それとも、全員がどこかに集まっているのか。
わからない。想像するしかない。
ただ、前に進むしかない。
廊下を抜けると、大きなホールに出た。
吹き抜けになっていて、天井が遥か上にある。何階分もの高さがある。シャンデリアが吊るされている。巨大な、水晶のシャンデリア。紅い霧に遮られた微かな光を受けて、虹色に輝いている。
そして、ホールの中央には――階段があった。
大理石の、豪華な階段。左右に分かれて、優雅な曲線を描きながら上の階へと続いている。まるで、舞踏会の会場のような。
「上……か」
吸血鬼は、上にいる。
最上階に、いるはずだ。
「行くぞ……!」
俺は階段に向かって歩き出した。
だが――
「うぅっ………」
膝が崩れた。
ガクリ、と。
脚が、もう限界だった。
内出血で腫れ上がった太腿が、体重を支えることを拒否した。
石の床に、膝をついた。冷たい感触が伝わってくる。
赤い染みが、絨毯に広がっていく。俺の血だ。
「くそ……ここで、倒れるのか……?」
悔しさが込み上げてくる。
美鈴には勝った。
霊夢の力を借りて、かろうじて。
だが、ここで終わるのか。
階段すら上れずに。
失血で、戦う前に倒れるのか。
「……」
その時、美鈴の言葉が脳裏をよぎった。
【気というものは、身体の中を流れるエネルギーです。それを意識し、集中させ、爆発させる】
あいつは「何も教えていない」と言った。
だから、これは俺が勝手に考えることだ。
霊力は、戦闘に使うものだと思っていた。
攻撃に。防御に。飛行に。
だが、そうじゃないとしたら。
身体の中を流れるエネルギーなら――身体そのものに使えるんじゃないか。
俺は意識を内側に向けた。
身体の中を流れる、霊力。
温かいエネルギーが、まだ残っていた。わずかだが、確かに流れている。
それを、傷口に向ける。
血が滲んでいる箇所。脚の内出血。手首のひび。腹の傷。
そこに、霊力を送り込む。
まるで、栓をするように。
すると――
「……止まった?」
血の滲みが、遅くなった。
完全には止まらない。だが、流れが鈍くなった。
霊力が、傷口に集まっている。
これで、少しは保つ。
次に、脚に霊力を送り込む。
筋肉を補強するイメージ。壊れかけた構造に、霊力で支えを作るイメージ。
痛みは消えない。
腫れも引かない。
だが――
俺は立ち上がった。
震える脚で。霊力に頼り切りで。
でも、立った。
「……なるほどな」
呟いた。
まだ、わからないことだらけだ。
使いこなしているとは、とても言えない。
ただ、身体に流れるものを、少しだけ、意図して動かせた。
それだけだ。
「行くぞ……!」
階段を上り始める。
一段、また一段。
ゆっくりと、確実に、上へ。
ふと、階段の手すりに手をついた時、指先に血の感触があった。
自分の血だ。
さっきまで滲んでいた傷から、また少し出たらしい。
霊夢の手が、血で汚れている。
「……すまんな、霊夢」
小さく呟いた。
また借りっぱなしにしている。
傷まで、負わせている。
返せるものが、何もない。
だから、せめて、前に進む。
それしかできない。
「魔理沙……待ってろ……」
俺は階段を上り続けた。
二階に到着する。
また廊下が続いている。さっきと同じような、赤い絨毯の廊下。
「まだ、上か……」
奥に、さらに階段がある。
俺は、その階段に向かって歩き出した。
だが――
「ッッ!?」
腹部に、突然、激痛が走った。
「がっ……!?」
何だ。
何が起こった。
衝撃があった。だが、何が当たったのかわからなかった。
腹を見ると――
小型のナイフが、深々と突き刺さっていた。
銀色の、鋭利なナイフ。刃渡り十センチほど。柄まで深く刺さっている。肉に埋まっている。
「いつの間に……!?」
見えなかった。
まったく、気配を感じなかった。
音もしなかった。風を切る音すら。
まるで、瞬間移動したかのように、ナイフがそこに現れた。
「くそ……!」
俺はナイフを引き抜いた。
刃が肉を裂く。激痛が走る。血が噴き出す。
すぐに霊力を集中させる。傷口に送り込む。止血する。
「はぁ……はぁ……」
息が荒い。
誰だ。
誰が投げた。
どこから投げた。
「……!」
俺は前を見た。
そこには――
何十個もの小型ナイフが、空中に浮いていた。
銀色に輝く、鋭利なナイフ。それらが一直線に並び、まるで軍隊のように整然と配置され、俺に狙いを定めている。
刃先が、すべて俺を向いている。
殺意が、可視化されたかのような光景。
「ッ!」
ナイフが、飛んできた。
一斉に。間髪入れず。音速で。
空気を切り裂く、鋭い音。
「くそっ!」
俺は咄嗟に横に飛んだ。
霊力を足に集中させ、限界まで加速する。
ナイフが、俺がいた場所を通過する。そして、背後の壁に突き刺さる。ズガガガガ、と連続した音。
「まだ来る……!」
さらにナイフが飛んでくる。
第二波。第三波。
避ける。
身体を捻る。ギリギリで躱す。
また避ける。
だが、完全には避けきれない。
数が多すぎる。速すぎる。
肩に一本。刃が肉を裂く。
脚に一本。太腿に深く突き刺さる。
「ぐっ…!!」
痛い。
激痛が走る。
だが、止まれない。止まったら、蜂の巣にされる。
俺は階段を駆け上がった。
全速力で。身体の限界を超えて。霊力を足に送り込み、人間を超えた速度で。
ナイフを避けながら。躱しながら。
そして――
三階に到着した。
「はぁ……はぁ……」
息が切れる。
肺が悲鳴を上げている。心臓が限界まで跳ねている。
だが、ナイフは止まった。
攻撃が、止んだ。
「……誰だ」
俺は前を見た。
そこに――
一人の女性が立っていた。
いや、少女、だろうか。年齢が判別しづらい。十代後半か、二十代前半か。
銀色の長い髪。月光のような、美しい銀髪。それが腰まで伸びている。
メイド服。青と白の、クラシックなメイド服。白いエプロン。白い袖。そして、頭には白いカチューシャ。
完璧なメイドの装いだった。一分の隙もない。シワ一つない。汚れ一つない。
だが――その表情は、冷たかった。
感情がない。
喜びも、怒りも、悲しみも、何もない。
まるで、精巧に作られた人形のように。
「ようこそ、紅魔館へ」
少女は静かに言った。
低く、落ち着いた声。美しい声だ。だが、その声には温かみがなかった。
「私は、十六夜咲夜」
咲夜は、手に持ったナイフをくるりと回した。
指の間で、まるで曲芸師のように。銀色の刃が、光を反射して輝く。
「紅魔館のメイド長です」
美鈴が言っていた。
この館で、最も強い人間。
美鈴ですら、勝てない相手。
「……メイド長、か」
俺は警戒した。
この女性は、危険だ。
圧倒的に、危険だ。
本能が、そう告げていた。全身の細胞が、警告を発していた。
「あなたは、博麗の巫女ですね」
咲夜は静かに言った。
「博麗霊夢。幻想郷の…異変解決者」
その名前を、この口で名乗っていいのか、という感覚が、また胸の奥を刺した。
だが、名乗るしかない。
「……ああ」
「そして」
咲夜の瞳が、冷たく光った。
赤い瞳。血のような、赤い瞳。
「不法侵入者。」
空気が、重くなった。
「私の仕事は、紅魔館を守ること。お嬢様にお仕えすること」
咲夜は淡々と言った。
「そして、不法侵入者を排除すること」
ナイフが、キラリと光った。
瞬間、無数のナイフが出現した。
空中に。何もない空間から。まるで、空間の裂け目から生まれたかのように。
数十本。いや、百本以上。
銀色のナイフが、咲夜の周囲に浮いている。刃の翼のように。
「……マジかよ」
俺は呟いた。
これは、どういう能力だ。
「あなたは、よく美鈴を倒しました」
咲夜は冷たく言った。
「称賛に値します」
「……」
「しかし」
咲夜は静かに続けた。
「ここから先は、通しません」
ナイフが、一斉に俺に向けられた。
「お嬢様を、煩わせるわけにはいきません」
ナイフが、飛んできた。
また、一斉に。
「くっ!」
避ける。だが、
「ぐっ!?」
脇腹に、衝撃が走った。
ナイフが、刺さっている。
避けたはずだった。
完全に、避けたはずだった。
だが、ナイフは俺に当たっていた。
まるで、避けた先に最初からナイフがあったかのように。
「だぁっ!」
俺はナイフを引き抜き、霊力で止血する。
だが、また飛んでくる。
避ける。
身体を捻り、ギリギリで躱す。
「ぐっ!?」
肩に、ナイフが刺さった。
また、見えなかった。
予備動作がない。
投げる動作がない。
咲夜は、ただそこに立っているだけだ。
手を動かすこともなく。
なのに、ナイフが飛んでくる。
「おかしい……こんなことあるはずがない……」
俺は階段を駆け上がった。
距離を取る。咲夜から離れる。
「ッ!?」
背中に、衝撃が走った。
ナイフだ。
背後から、刺された。
「なっ……!」
振り返ると――
咲夜が、すぐ後ろにいた。
「……な、なんで……!?」
さっきまで、遥か前方にいたはずだ。
十メートル以上、離れていたはずだ。
なのに、今は目の前にいる。
「どうやって……!」
咲夜は、何も言わずにナイフを振るった。
「ぎゃっ!」
俺は咄嗟に身体を逸らした。
ナイフが、頬を掠める。血が飛び散る。
「はぁ……はぁ……」
息が荒い。
わからない。
まったく、わからない。
咲夜の攻撃が、理解できない。
予備動作がない。
移動の過程がない。
まるで、瞬間移動しているかのように。
「……瞬間移動?」
違う。
そんな単純なものじゃない。
もっと、根本的な何かだ。
「では、もう一度。」
咲夜の声が聞こえた。
「くっ!」
俺は警戒した。
だが――
何も見えなかった。
咲夜の姿が、消えた。
いや、消えたわけじゃない。
そこにいる。確かに、そこにいるはずだ。
だが、見えない。
「どこだ……?」
そして――
「がっ!」
腹部に、衝撃。
ナイフが、深々と刺さった。
「ぐあ………ああ…!!」
痛い。
激痛が走る。
だが、咲夜の姿は見えない。
攻撃だけが、届く。
「くそ……くそ……!」
俺はナイフを引き抜き、霊力で止血する。
だが、また刺される。脚に。腕に。背中に。
「はぁ……はぁ……!」
避けられない。
見えないものは、避けられない。
絶望が、じわじわと滲んでくる。
勝てない。この相手には、勝てない。
だが――
「まだ……まだだ……!」
俺は立ち続けた。
ここで諦めるわけにはいかない。
魔理沙が、どこかにいる。
人里の人間たちが、苦しんでいる。
そして――
霊夢の身体が、まだ動いている。
こいつが耐えてくれているうちは、俺も耐える。
「負けるか……!」
また、ナイフが飛んできた。
無数の、ナイフが。
避けようとした。
だが、間に合わない。
当たる。確実に、当たる。
その瞬間――
身体が、勝手に動いた。
美鈴の時と同じように。
無意識に。本能的に。
(これは……あの時の!)
霊力が、爆発した。
全身から。
光が、弾けた。
そして――
ナイフが、弾かれた。
すべてのナイフが、霊力の波動で弾き飛ばされた。
「……ん?」
俺は、自分でも驚いた。
だが、考えている暇はなかった。
その一瞬。
霊力が爆発した、その一瞬。
俺は、見た。
世界が、止まっていた。
いや、止まっていたわけじゃない。
咲夜だけが、動いていた。
空中に浮かぶナイフ。
それは、静止していた。
だが、咲夜だけが――
ナイフを配置していた。
俺の周囲に。俺が避けられない位置に。
そして、時間が動き出すと同時に、ナイフが飛んでくる。
「……そういうことか」
理解した。
ようやく、理解した。
咲夜の能力。
彼女は――
「時間を、止めている……!」
そうだ。
瞬間移動じゃない。
予備動作がないわけじゃない。
咲夜は、時間を止めて、その間に動いている。
ナイフを配置している。
移動している。
攻撃している。
そして、時間が動き出すと――
俺には、瞬間移動したように見える。
予備動作なく攻撃されたように見える。
「時間停止……」
そんな能力が、あるのか。
いや、ある。
この幻想郷なら、あり得る。
「……なら」
俺には、対抗策がある。
一つだけ。
美鈴の時のように、無意識に霊力が爆発した。
あの瞬間、時間が止まっている世界を、一瞬だけ見た。
ということは――
「霊力を、常に展開し続ければ……」
時間停止の影響を、減らせるかもしれない。
完全には防げないだろう。
だが、わずかでも時間停止中に動ければ、咲夜の攻撃を、避けられる。
反撃できる。
これは、治癒に使っていた霊力の応用だ。
傷口に流し込むのではなく、常時展開する。
身体の外に、薄く広げる。
それが、時間の歪みを感じ取るセンサーになる。
「やってやる……!」
俺は霊力を全身に巡らせた。
身体の隅々まで。
そして、それを維持する。
常に、霊力を展開し続ける。
「来い……十六夜咲夜……!」
俺は叫んだ。
咲夜は、冷たく微笑んだ。
「ようやく、気づきましたか」
その声には、わずかに驚きが混じっていた。
「時間を操る、私の能力に…」
咲夜は手を広げた。
無数のナイフが、再び出現する。
「ですが」
咲夜は冷たく言った。
「気づいたところで、どうにもなりません。なるわけがないんです。」
そして――
咲夜の姿が、消えた。
いや、時間が止まった。
「!!!!」
俺は、感じた。
世界が、静止する感覚。
音が消える。空気が止まる。
だが――
俺の身体は、わずかに動く。
霊力が、時間停止の影響を減らしている。
完全には防げない。
だが、スローモーションのように、わずかに動ける。
見えた。
咲夜が、動いている。
ナイフを配置している。
俺の周囲に。
「……そこか!」
俺は、必死に身体を動かした。
スローモーションで。
まるで、水の中を泳ぐかのように。
だが、確実に、動いている。
ナイフの配置を、避ける。
咲夜の攻撃を、予測する。
そして、時間が、動き出した。
「よし!」
ナイフが飛んでくる。
だが、今度は――
「避けられる!」
俺は、ナイフを避けた。
完全に。
すべてのナイフを。
「……!」
咲夜の表情が、変わった。
驚き。
初めて見る、咲夜の感情。
「まさか……私だけの時の中で、動いた?」
咲夜は信じられないという顔をした。
「ありえない……人間には、不可能なはず……」
「そうだったのか?悪いな。」
俺は笑った。
血まみれの顔で。
「だったら俺は、もう人間じゃねぇのかもな。」
御札を構えた。
身体が、今までと違う感覚を持っていた。
霊力の流れが、さっきまでより確かだ。
治癒に使い、脚の補強に使い、時間停止への抵抗に使った。
その全部が、つながっている。
使い方が、少しだけわかってきた。
まだ、完全じゃない。
まだ、霊夢の身体を使いこなせているとは言えない。
でも。
「俺は博麗霊夢だ」
静かに言った。
叫ばなかった。
叫べるほど、その名前に胸を張れない。
でも、この身体はそう呼ばれる。
この名前を借りて、ここまで来た。
「……第二ラウンドと行こうじゃねぇか。」