上へ向かっていたはずだった。
間違いない。大理石の階段を駆け上がり、二階へ、三階へ、最上階を目指していた。記憶が曖昧なわけでも、幻覚を見たわけでもない。確実に、上へ上へと。
なのに今、俺は地下にいる。
「……空間操作か」
舌打ちして、魔理沙は周囲を見渡した。
図書館だった。
天井が見えない。書架が何層にも重なり、塔のように積み上がっている。無数の本が整然と並び、背表紙の文字はラテン語、ギリシャ語、見たこともない文字と様々だった。空気は冷たく湿っていて、紙とインクと、何か古いものの匂いが混じっていた。
魔力が、濃い。
肌に纏わりつくような密度で、空気そのものが魔力を帯びていた。魔法使いとしての感覚が、ここが尋常な場所ではないと告げていた。
「廊下のどこかに転移の罠があった、ってことか」
自嘲した。気づかなかった。まったく気づかなかった。魔法使いを自称しておいて、初歩的な罠を踏んだ。
霊夢が、稼いでくれた時間を、こんな形で無駄にした。
「早く出ないと」
箒を加速させ、書架の間を縫うように飛ぶ。だが出口が見つからない。右に曲がったはずなのにまた同じ書架の前に出る。真っ直ぐ飛んだはずなのに、気づけば迂回している。方向感覚が根こそぎ狂っていた。
天井を突き破ればいい、と思った。
上に向かってマスタースパークを撃てば、岩盤だろうと貫通できる。そう判断して八卦炉を取り出した瞬間、視界が真っ赤に染まった。
火の玉だった。
「うわっ」
箒を傾けて横に跳ぶ。火の玉が真横を通過した。熱波が肌を焼いた。袖が焦げる。叩き消しながら振り返ると、火の玉は背後の書架に激突していた。炎が上がり、本が燃え、そして、すぐに消えた。まるで時間が戻ったように。
「誰だ」
叫んだ。声が書架の間で反響した。
返事はすぐに来なかった。長い沈黙があった。
「ようこそ」
女の声だった。低く、知的で、感情の揺れが薄い声だった。
「ヴワル魔法図書館へ」
書架の上に、人影があった。
紫色の長い髪。同じ色のローブ。三日月の飾り。手には分厚い古書を抱えている。肌が青白く、頬がこけていた。長い間、日の光を浴びていない者の肌だった。だが、その瞳だけは違った。紫色の深い瞳が、魔理沙を静かに観察していた。
「パチュリー・ノーレッジ」
少女は名乗った。
「紅魔館の魔法使い。この図書館の主」
「霧雨魔理沙だ」
魔理沙は答えた。隠す理由がない。
「魔法使い」
「そう」
「人間の?」
「ああ」
パチュリーは少し間を置いた。興味とも分析とも取れる間だった。
「努力で魔法を身につけた、という感じね。生まれながらの素質じゃない」
「そうだな」
魔理沙は否定しなかった。
「天才じゃない。才能があるわけでもない。ただ、やってきた」
「それで、ここまで来た?」
「ここまで来た」
パチュリーは本を閉じた。
「そう」
それだけ言って、本が淡く光り始めた。
「では、試させてもらうわ。あなたがどこまでやれるか」
「試す?」
「倒す、と言わない理由がわかる?」
魔理沙は黙った。
「わからないから、試す。それだけよ」
パチュリーのローブが、静かに揺れた。
「シルフィホルン」
詠唱は短かった。感情のない声で、数式を読み上げるように。緑色の竜巻が魔法陣から生まれ、図書館の空間を埋めていった。
「スパーク」
魔理沙は即座に撃った。
極太のレーザーが走った。竜巻に飲まれ、軌道が曲がり、書架に激突した。爆発が起きて本が舞い、そしてすぐに修復された。
「なるほど」
パチュリーは頷いた。感情の起伏が薄い声で。
「威力は十分。ただ、制御が粗い」
「うるさい」
「これだと、私には当たらないわよ」
パチュリーはページを捲った。
「グランドリリオン」
今度は土の魔法だった。床から石柱が次々と生えてきて、魔理沙の飛行ルートを塞いでいく。書架の間を縫うように飛んでいた魔理沙は、急激に行動範囲が狭まっていくのを感じた。
魔理沙は小型の星型弾幕を撒いた。石柱を砕きながら、隙間を作りながら飛ぶ。パチュリーが次の詠唱を始めていた。
「ロイヤルフレア」
熱が来た。
空間ごと灼く熱だった。弾幕で防ぐには無理がある。魔理沙は書架の陰に滑り込んで、熱波をやり過ごした。古書が何冊か焦げた。また、すぐに修復された。
「……こいつ、本を守ることに徹してるのか」
隠れながら、魔理沙は気づいた。
攻撃の威力はある。だが、パチュリーは本に類焼しない範囲で術を使っている。最大出力を出していない。図書館の主として、本を傷つけることを許容していない。
魔理沙は箒で書架の列を蛇行しながら、考えた。
正面からぶつかっても消耗するだけだ。相手は百年以上の経験を持ち、魔法の精度が俺より遥かに高い。だが、制約がある。本を守る制約が。
「だったら」
魔理沙は八卦炉を構えながら、書架の間を一気に駆け上がった。天井近くまで。パチュリーの視線が追ってくる。詠唱が始まる。
その直前に、魔理沙は撃った。
パチュリーではなく、パチュリーの右後方の書架に向かって。
「っ」
パチュリーの詠唱が止まった。術が乱れた。本を守る反射が、攻撃より先に働いた。
その一瞬で、魔理沙は距離を詰めた。
「あなた、賢いのね」
パチュリーは言った。近距離で向き合いながら。
「才能がなくても、ここまで来た理由がわかったわ。」
「褒め言葉として受け取っとく」
魔理沙は八卦炉を向けた。
「悪いな、こっちも急いでる。早く終わらせるぞ。」
「……ふふ―」
「?」
****
館内は、静かだった。
静かすぎた。豪奢な絵画が並ぶ廊下に、人の気配がまるでない。足音だけが赤い絨毯に吸い込まれていく。
俺は歩いていた。
美鈴戦の疲労が全身に残っていた。腹部の打撃痕が、呼吸するたびに鈍く疼く。霊力で押さえているが、じわじわと滲むものがある。それでも、動ける。動かなければならない。
魔理沙がどこにいるか、わからない。
だが、目指す場所は上だ。吸血鬼は最上階にいる。魔理沙も同じ方向を目指しているはずだ。
階段を上りながら、俺は霊力の配分を整えていた。
美鈴との戦いで、気づいたことがある。霊力は攻撃だけのものじゃない。傷口に集中させれば出血を抑えられる。筋肉に流せば、限界を少し超えられる。使い方次第で、身体そのものを支えるものになる。
まだ粗削りだ。だが、使えている。
二階に出た。廊下の先に、また階段が見えた。
その時、腹部に衝撃が走った。
「——っ」
見えなかった。音もしなかった。気配もなかった。気づいた時には、ナイフが腹の右側に刺さっていた。刃渡りの短いナイフ。深くはない。だが、確実に刺さっている。
すぐに引き抜いた。霊力を傷口に集中させる。痛みを奥に押し込めながら、周囲を見渡す。
廊下の先に、人影があった。
銀色の長い髪。月光のような色だった。青と白のメイド服。白いエプロン。頭に白いカチューシャ。手元でナイフがくるりと回っている。
表情がなかった。喜びも怒りも悲しみも、何もない。精巧な人形のような顔だった。
「十六夜……咲夜」
俺は言った。美鈴から聞いた名前だった。
「この館で最も強い人間だと聞いた」
「情報が早いですね」
咲夜は答えた。低く、落ち着いた美しい声だった。ただ、温かみがない。
「博麗霊夢。美鈴を倒して、ここまで来た」
「…ああ」
「これ以上は、通しません」
空間にナイフが出現した。何もない空中から、銀色の刃が次々と生まれてくる。数十本。それが俺の周囲に並んだ。
(飛んでくるぞ)
直感した。だが、避ける前に、俺は何かに気づいた。
世界が、ざわついた。
正確には、霊力が反応した。常時展開している霊力の薄い膜が、何かに触れたような感覚。
空気が、変わった。
音が、遠くなった。
ナイフが、止まった。
(……止まってる?)
止まっていた。空中に浮かんだままで、動かない。風も吹いていない。俺自身の動作も、重くなっている。まるで水の中にいるような抵抗感があった。
それでも、霊力を全身に巡らせることで、わずかに動けた。
俺はゆっくりと、しかし確実に身体をずらした。ナイフが向いている位置から、外れるように。
そして、時間が動き出した。
ナイフが飛んだ。俺がいた場所へ。だが、俺はそこにいなかった。
「——」
咲夜が、初めて表情を動かした。わずかに、目が細くなった。
それだけだった。すぐに無表情に戻った。
また、ざわつきが来た。
霊力が感知した。世界が止まる予兆。今度は素早く動いた。腕をずらし、脚を半歩動かした。
時間が動いた。ナイフが三本飛んで、すべて外れた。
(何が起きているかはわからない。ただ、感じ取れる)
それで十分だった。
咲夜は無言だった。感情を見せなかった。ただ、次の間合いを測るように、しばらく静止した。
俺は御札を取り出した。腹の傷が疼いたが、無視した。
「お前の能力はわからない」
俺は言った。
「どういう仕組みか、全部は理解できていない。だが、来るとわかれば動ける」
咲夜はわずかに首を傾けた。
「霊力で感知している」
咲夜は断言した。確認するように。
「私の能力の影響が始まる前に、霊力が反応している。だから、停止中でもわずかに動ける」
「なるほど。そういうことか」
「理解が速いですね」
「褒めてるのか」
「事実を言っています」
また、ざわつきが来た。
俺は動いた。今度は前に踏み込んだ。後退するのではなく、咲夜との距離を詰める方向に。時間が動いた瞬間、俺は咲夜のすぐ前にいた。
「——」
咲夜が後退した。初めて防御的な動作をした。
御札を押しつけた。咲夜の腕に当たった。
小さな衝撃音がした。咲夜が一歩下がった。
それだけだった。致命的なダメージではない。だが、咲夜に触れた。
咲夜はナイフを構え直した。表情はない。だが、何かが変わった。さっきまでの「処理」するような雰囲気が、わずかに「測る」色に変わった気がした。
「あなたは今日、飛ぶことを覚えた」
咲夜は言った。
「違いますか」
「……ああ。それは門番にも言われた。」
「…美鈴を倒した。札の扱いを覚えている。霊力の応用も覚えている。そして今、私の能力に対応し始めた。」
「全部、今日だ」
「ええ」
咲夜は静かに言った。
「だから、通せない」
俺は少し考えた。
「お前が強いからか」
「違います」
咲夜は答えた。
「あなたが、これ以上何かが伸びる前に止めなければならないから」
その言葉の意味を、俺は聞き返す前に理解した。
咲夜は、俺が伸びていることを認識している。今の段階で止めなければ、先に進むほど手がつけられなくなると判断している。
「メイドとして合理的な判断だな」
「ありがとうございます」
感謝の言葉に、感情がなかった。
また、ざわつきが来た。今度は長かった。長い停止。
俺は動き続けた。ゆっくりと、しかし止まらずに。咲夜がナイフを配置していくのを、霊力で感じながら。完全には読めない。だが、密度を感じることはできた。ナイフが多い方向を避けながら、少ない方向に向かって動いた。
時間が動いた。
ナイフが四方から来た。だが、密度の薄い方向から抜けた。二本だけかすった。肩と腕。深くはない。
御札を三枚、同時に投げた。
咲夜は二枚を躱した。三枚目が脇腹に入った。
咲夜が半歩下がった。
静寂があった。
「……」
咲夜は俺を見ていた。無表情だったが、その沈黙に、何か計算しているものがあった。
「お嬢様に、会いたいのですか」
「ああ」
「なぜ」
「異変を終わらせるために」
「お嬢様の望みを、あなたが否定するために」
「そうだ」
咲夜は、また静かになった。
それから、ナイフをゆっくりと下ろした。
「一つ、確認させてください」
「何だ」
「あなたは今日、ここで死ぬかもしれない。それでも、前に進みますか」
俺は即答しなかった。
死ぬかもしれない、というのは本当だと思った。咲夜が今戦意を抑えているのは、確認のためだけだ。答えによって、また始まる可能性がある。
でも、答えは決まっていた。
「ああ。それでも行く」
「なぜ」
「霊夢の代わりだから」
咲夜が、わずかに目を細めた。
「……霊夢の代わり……?」
「この身体は霊夢のものだ。俺のものじゃない。ここで終わるには、借り過ぎている」
咲夜は、しばらく俺を見ていた。
「理解できない答えですね」
「そうかもしれないな」
「ですが」
咲夜はナイフを消した。全部、一度に。
「私が判断することではないと、思いました」
静かな声だった。
「お嬢様が、自分でご判断になる。それが筋というものです」
俺は黙って聞いていた。
「四階です」
咲夜は言った。
「お嬢様は、四階の奥の間にいらっしゃいます」
「……通してくれるのか」
「通すのではありません」
咲夜は背を向けた。
「私は、仕事を終えます。あなたがどこへ行くかは、私の管轄ではない」
それだけ言って、咲夜は廊下の奥へと消えていった。
音もなく、気配も残さず。
廊下に、俺一人が残った。
腹の傷を確認した。霊力で押さえているが、そろそろ限界に近い。肩と腕のかすり傷は軽い。動ける。
四階。
階段を見上げた。
手すりに手をかけた時、指先に自分の血の感触があった。さっきの傷から少し滲んだものだった。
「……霊夢」
呟いた。
「また傷を増やした」
返事はない。
「でも、まだ動ける。もう少しだけ、貸してくれ。」
俺は階段を上り始めた。
四階へ。
異変の元凶へ。