転生博麗   作:ライダー☆

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第五話 紅魔館内部

上へ向かっていたはずだった。

 

間違いない。大理石の階段を駆け上がり、二階へ、三階へ、最上階を目指して一直線に進んでいた。記憶が曖昧なわけでも、幻覚に惑わされたわけでもない。確かに、ただ上へ上へと進んでいた。

 

なのに今、霧雨魔理沙は地下に立っていた。

 

「……空間操作かよ」

 

舌打ちして、魔理沙は箒の上で身を翻し、周囲を鋭く見渡す。

 

そこは広大な図書館だった。

 

天井は高すぎて暗がりに隠れ、見上げても輪郭すら捉えられない。書架が何層にも重なり合い、塔のようにどこまでも積み上がっている。無数の本が隙間なく整然と並び、背表紙にはラテン語、ギリシャ語、そして見たこともない奇妙な文字が刻まれていた。空気はひんやりと冷たく湿り、古い紙とインク、それに長い年月が積み重なったような独特の薫りが漂っている。

 

そして、魔力が濃い。

 

肌にまとわりつくような密度で、空気そのものが魔力を帯びて重くなっている。魔法使いとしての勘が、ここが尋常な場所ではないことを強く告げていた。

 

「どこかの廊下に転移の罠が仕掛けられてた、ってことか」

 

魔理沙は自嘲気味に鼻を鳴らす。まったく気づかなかった。魔法使いを名乗っておきながら、初歩的な仕掛けに引っかかるとは情けない。霊夢が門番と戦って稼いでくれた時間を、こんな形で無駄にしてしまった。

 

「早くここを抜け出さないと」

 

魔理沙は箒に体重を預け、エネルギーを込めて加速させる。高く積まれた書架の間を縫うように滑りながら出口を探す。だが奇妙なことに、右へ曲がったはずなのに同じ書架の前に戻り、真っ直ぐ飛んだつもりがいつの間にか大きく迂回している。空間そのものが歪められ、方向感覚が根こそぎ狂わされているのだ。

 

「そうだ。天井を突き破っちまえばいいじゃないか」

 

魔理沙はひらめく。上に向かって弾幕を撃てば、たとえ地下の岩盤だろうと、あの威力なら容易に貫通できるはずだ。そう判断して腰の八卦炉を取り出した瞬間、視界が突如として真っ赤に染まった。

 

巨大な火の玉が、真横から迫っていた。

 

「うわっ!」

 

魔理沙は慌てて箒を大きく傾け、体を宙で翻して回避する。火の玉はかすめるように通り過ぎ、熱波が肌を焼くように襲ってきた。袖の端が焦げて煙を上げるのを叩き消しながら振り返ると、火の玉は背後の書架に激突して炎を上げ、何冊もの本を包み込んだ。だが次の瞬間、まるで時間が巻き戻ったかのように炎は消え、焦げた痕跡すら残さず元通りに修復されていた。

 

「誰だ!」

 

魔理沙は声を張り上げる。その声は高い天井に反響し、書架の隙間を抜けて遠くまで響いた。

 

だが返事はすぐには来なかった。長い、重苦しい沈黙が流れる。

 

「ようこそ」

 

低く、落ち着いた女性の声が、上から降ってきた。感情の起伏が少なく、知的な響きだけが澄んでいる。

 

「ヴワル魔法図書館へ」

 

声のする方を見上げると、高く積まれた書架の中段に、一人の人影が静かに立っていた。

 

長い紫の髪が肩まで流れ、同じ色合いの丈の長いローブをまとっている。頭には三日月の形をした飾りが光り、腕には分厚い革張りの古書を大事そうに抱えていた。肌は青白く、頬は少しこけており、長い間日の光を浴びていないことが一目でわかる。だがその瞳だけは別だ。深い紫色の瞳が、標本を観察するように、魔理沙の一挙手一投足を冷静に捉えていた。

 

「パチュリー・ノーレッジ」

 

少女は自らの名を、淡々と告げる。

 

「紅魔館に仕える魔法使い。この図書館の主」

「霧雨魔理沙だ」

 

魔理沙も名乗り返す。隠す理由など何もない。

 

「魔法使い」

「そう」

「人間の」

「ええ」

 

パチュリーは少し間を置いた。その間には、興味とも分析ともつかない冷ややかな視線が込められている。

 

「生まれ持った魔力の素質ではなく、努力だけで身につけたタイプみたいね」

「まあ、そういうことだ」

 

魔理沙は否定しない。

 

「天才じゃないし、特別な才能があるわけでもない。ただ、やり続けてきただけさ」 「それで、ここまで辿り着いたと?」

「ああ、ここまで来た」

 

パチュリーは抱えていた本をゆっくりと閉じる。

 

「なるほど」

 

それだけ呟くと、本の表紙が淡い光を帯び始めた。

 

「では、試させてもらおうかしら。あなたがどれほどの力を持っているのか」

「試す?」

「倒す、と言わない理由がわかる?」

 

魔理沙は黙って眉を上げる。

 

「わからないから、試すの。それだけのこと」

 

パチュリーのローブの裾が、風もないのに静かにはためく。

 

「《シルフィホルン》」

 

詠唱は短く、数式を読み上げるかのように無機質だ。足元に描かれた魔法陣から緑色の渦が生まれ、瞬く間に竜巻となって図書館の空間を埋め尽くしていく。

 

「だったらこっちはこれだ!」

 

魔理沙は即座に八卦炉を構え、魔力を一気に注ぎ込む。

 

「マスタースパーク!」

 

極太の閃光が炸裂し、一直線に走る。だが緑の竜巻の壁に飲み込まれると、勢いが削がれて軌道を大きく曲げ、横の書架へと激突した。爆発音が響き、本が舞い上がるが、光が収まると同時に、本も棚も元通りに修復されていく。

 

「なるほど」

 

パチュリーは頷く。感情のない声で、事実を記すように。

 

「威力は十分すぎるほど。ただ、制御が粗い。無駄なエネルギーが多すぎる」

「うるせえ、口だけなら何とでも言える」

「この調子では、私にはまず当たらないでしょうね」

 

パチュリーは手に持った本のページを、指で滑らせるように捲る。

 

「《グランドリリオン》」

 

次の魔法は地脈を揺るがすものだった。床から太い石柱が次々と生え上がり、複雑な迷路のように立ち並んで魔理沙の飛行ルートを次々と塞いでいく。狭まる空間の中で、魔理沙は体をひねりながら箒を操り、隙間を探す。

 

「こんなもん、砕いて進むだけだ!」

 

魔理沙は小型の星型弾幕を連続で放つ。石柱を次々と粉砕しながら前へ進むが、パチュリーは既に次の詠唱を始めていた。

 

「《ロイヤルフレア》」

 

空気が一瞬で焼けるような熱に包まれた。空間そのものを灼くような熱量で、弾幕の防御程度では到底防ぎきれない。魔理沙は慌てて箒を急旋回させ、近くの書架の陰に滑り込む。熱波が通り過ぎるまで身を伏せ、何冊かの古書が焦げるのを見て、またすぐに修復される様子を目にした。

 

「……そうか」

 

隠れながら、魔理沙はパチュリーの戦い方の特徴に気づく。

 

攻撃の威力は桁外れだ。だが、本に類焼したり書架を崩壊させたりしないよう、必ず威力や範囲を調整している。最大出力を出せばもっと広範囲を焼き払えるはずなのに、それを抑えている。図書館の主として、何よりも蔵書を守ることを優先しているのだ。

 

魔理沙は蛇行しながら飛び、頭の中で作戦を練る。正面からぶつかり合っては、ただ魔力を消耗するだけだ。相手は百年を超える経験を持ち、魔法の精度は自分とは比べものにならない。だが、そこには「本を守る」という明確な制約がある。

 

「だったら、その逆を突くまでさ」

 

魔理沙は八卦炉を構え直し、書架の間を一気に駆け上がるように上昇する。天井近くまで到達すると、パチュリーの紫の瞳がすぐに追ってくるのがわかった。次の詠唱が始まる気配が肌に伝わる。

 

その直前、魔理沙は引き金を引いた。狙いはパチュリー自身ではなく、彼女の右後方に並ぶ貴重そうな装丁の本棚だ。

 

「っ!」

 

パチュリーの詠唱が途切れ、眉がわずかに動く。攻撃よりも先に、蔵書を守ろうとする反射的な魔力の防御が働き、術の流れが乱れた。

 

その一瞬の隙を逃さず、魔理沙は急降下して距離を詰める。

 

「なるほど、ずる賢いやり方をする」

 

パチュリーは魔理沙と至近距離で向き合いながら、静かに言った。

 

「生まれつきの才能がなくても、ここまで辿り着けた理由がわかったわ」

「それは素直に褒め言葉として受け取っておく」

 

魔理沙は八卦炉の口を、パチュリーの胸元へと向ける。

 

「悪いが、こっちは時間がない。さっさと決着をつけさせてもらうぜ」

「……ふふっ」

 

パチュリーの口元に、初めて薄い笑みが浮かんだ。

 

「何がおかしい?」

「あなた、律儀ね」

 

パチュリーは、抱えていた本を胸の前に持ち直しながら言った。

 

「さっき、私の後方の本棚を狙ったでしょう。あれで、私が反射的に守りに入ると読んだ」

「読み通りだったろ」

「ええ。読み通りだった。だから、もう一度同じ手を使わせてあげたの」

 

その言葉の意味を、魔理沙はすぐには理解できなかった。

 

「……何を、言って」

「《ロイヤルフレア》を放った時。あなたが書架の陰に隠れた瞬間、私はもう一つ、小さな術式を仕込んでおいた」

 

パチュリーは静かに、指を一本立てた。

 

「熱そのものじゃない。熱に紛れさせた、燃焼を遅延させる呪符よ。あなたの服の袖に、焦げ跡と一緒に張り付けておいたの。もう何度も、燃やしては消える炎を見せたでしょう。あれに慣れさせるためにね」

 

魔理沙は反射的に、自分の左袖に目を落とした。焦げた跡以外、何も見当たらない。だが、見えないからといって、何もないとは限らない。

 

「今、起動するわ」

 

その一言と同時に、袖の焦げ跡が内側から赤く発光した。

 

「——なっ!?」

 

反応する間もなかった。

 

爆発は、魔理沙自身の腕から生まれた。

 

熱と衝撃が、内側から全身を突き上げる。悲鳴すら出なかった。息が詰まり、視界が白く弾けた。体が大きく吹き飛ばされ、書架の一角に叩きつけられる。積み上がった本の山が崩れ落ち、その下敷きになりながら、魔理沙はようやく声を絞り出した。

 

「ぐ、あ……ッ」

 

左腕が、感覚を失っていた。見下ろすと、袖が黒く焼け焦げ、その下の皮膚に、鈍い熱傷の痕が走っている。骨まで達しているかはわからない。だが、まともに動かせないことだけは、はっきりとわかった。

 

「……騙し、討ちかよ」

 

血の混じった唾を吐き捨てながら、魔理沙は呻くように言った。

 

「正々堂々、なんて言葉、私は一度も使っていないけれど」

 

パチュリーは静かに書架の間を歩き、距離を詰めてくる。その足取りに、焦りは一切なかった。

 

「あなたは、良い攻め手を思いついた。だから、次に同じ発想を使ってくることも、読めた。それだけのことよ」

 

魔理沙は崩れた本の山から、片腕だけで体を引きずり出す。左腕は使い物にならない。右手だけで八卦炉を支え、膝を震わせながら、それでも立ち上がろうとした。

 

「くそ……頭は回る、が……躱しきれる、わけじゃ、ねぇ……な」

 

呼吸が、浅く乱れていた。全身に脂汗が滲み、視界の端がちらつく。左腕から伝わる熱は、痛みというより、燃え続ける何かがそこに居座っているような、鈍く重い異物感だった。

 

パチュリーは、そんな魔理沙を、しばらく黙って見下ろしていた。

 

「今のは、油断よ」

 

静かな声だった。責めるでも、蔑むでもない、ただ事実を述べる声。

 

「同じ発想が二度通じると思い込んだ。一度目の成功に、酔った。魔法使いとして、一番やってはいけない失敗だわ」

「……うるせぇ」

 

魔理沙は、血の混じった唾を吐き捨てながら、右手一本で八卦炉を構え直した。狙いは定まらない。腕全体が小刻みに震えている。それでも、その切っ先だけは、まっすぐパチュリーへ向けられていた。

 

「わかってる、そんなこと」

「わかっているなら、いいのだけれど」

 

パチュリーは、抱えていた本のページを、指先で静かに撫でた。その表情に、憐れみも、嘲りもない。ただ、次の一手を見定めるような、淡々とした冷たさだけがあった。

 

「では」

 

パチュリーは、静かに、しかしはっきりと告げた。

 

「戦いを続けましょう」

 

その一言と同時に、彼女の周囲に、新たな魔法陣が幾重にも展開していく。今までとは明らかに違う密度だった。図書館の空気そのものが、軋むように張り詰めていく。

 

魔理沙は、片腕の激痛に顔を歪めながらも、八卦炉を握る手を緩めなかった。焦げた左腕から伝わる熱が、意識を焼くように繰り返し襲ってくる。それでも、視線だけは、パチュリーから逸らさなかった。

 

「……上等だよ」

 

掠れた声で、そう呟く。

 

図書館に満ちていた静寂が、再び、張り詰めた気配へと変わっていった。積み重なった本の山の陰で、二つの影が、もう一度、睨み合う。

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 

館内は、静かだった。

 

あまりにも静かで、耳鳴りがするほどだ。豪奢な額縁に入った絵画が並ぶ長い廊下に、人の気配はまるでない。俺の足音だけが、赤い絨毯に吸い込まれるようにして消えていく。

 

俺はただ、前へと歩いていた。

 

美鈴との激闘による疲労が、全身に重く残っている。腹部を打たれた痕が、呼吸をするたびに鈍く疼く。霊力で傷口を抑え、内出血を食い止めているが、じわじわと痛みが染み出してくる。それでも、まだ動ける。動かなければならない。

 

魔理沙が今どこにいるのか、俺にはわからない。

 

だが、目指す場所は変わらない。吸血鬼は館の最上階にいる。魔理沙も同じ結論に至り、同じ方向を目指しているはずだ。

 

階段を上りながら、体内の霊力の流れを細かく調整する。

 

美鈴と戦って気づいたことがある。霊力はただ攻撃に使うだけの力ではない。傷口に集中させれば出血を抑え、筋肉に巡らせれば限界を少しだけ押し上げ、体そのものを支える力になる。まだやり方は粗削りだが、それでも確かに機能している。

 

二階の廊下に出ると、先にはまた次の階段が見えた。

 

その瞬間、腹部に鋭い衝撃が走った。

 

「——っ!」

 

何が起きたのか、視覚で捉えることはできなかった。音も、気配もなかった。気づいた時には、短いナイフが腹の右側に浅く刺さっていた。深手ではないが、確かに皮膚を切り裂き、血が滲み出している。

 

俺はすぐに刃を引き抜き、霊力を傷口に集中させて止血する。痛みを奥に押し込めながら、周囲を睨みつける。

 

廊下の先、少し離れた場所に、人影が立っていた。

 

銀色の長い髪が月光のように滑らかに輝き、青と白を基調とした整ったメイド服に、清潔な白いエプロン、頭には同じ色のカチューシャをつけている。指先では、別のナイフがくるりと器用に回転していた。

 

表情には何の起伏もない。喜びも怒りも、驚きもない。精巧に作られた人形のように、無感情な顔だった。

 

「十六夜……咲夜」

 

俺は、美鈴から聞いた名前を口にする。

 

「この館で、最も強い人間だと聞いた」

「情報が早いですね」

 

咲夜は静かに答える。声は低く澄んで美しいが、氷のように温かみがない。

 

「博麗霊夢。門番の美鈴を倒して、ここまで来た」

「……ああ」

「これ以上、先へは通せません」

 

咲夜の指が動くと、何もない空中から次々と銀色のナイフが出現した。一つ、二つ……数十本にまで増え、俺の周囲を取り囲むように浮かんで静止する。

 

飛んでくる、と直感が告げる。

 

だが、避けようと体を動かす前に、俺は奇妙な感覚に気づいた。

 

世界が、ざわつくように歪んだ。

 

正確には、常に体の周りに薄く展開している霊力の膜が、何か未知の力に触れて反応しているのだ。空気の重みが変わり、遠くの音が急速に薄れていく。

 

そして、浮かんでいたナイフが、完全に動きを止めた。

 

風も、塵の舞う動きも、何もかもが凍りついたように静止している。俺自身の体も、水の中を進むような重たい抵抗感に包まれる。

 

だが、霊力を全身に力強く巡らせることで、わずかながら体を動かすことはできた。俺はゆっくりと、しかし確実に重心を移動させ、ナイフの刃先が向いている位置から少しずれるように体をずらす。

 

次の瞬間、世界が再び動き出した。

 

ナイフが一斉に閃き、俺がいた場所へと突き刺さる。だが俺は既にそこにはいなかった。

 

「——」

 

咲夜の瞳が、初めてわずかに細められた。驚きとも、興味ともつかない反応だ。だがそれも一瞬のことで、すぐに元の無表情に戻る。

 

再び、空間がざわつく予感が訪れる。時間が止まる前兆だ。今度は慣れた直感で、素早く腕を動かし、足を半歩横に滑らせる。

 

世界が動き、三本のナイフが飛来するが、すべて俺の体を外れて壁に突き刺さった。

 

(何が起きているのか、理屈まではわからない。だが、来ることだけは感じ取れる)

 

それだけで、今は十分だった。

 

咲夜は無言のまま、感情を読み取らせない瞳で俺を観察し続ける。俺は懐から御札を取り出す。腹の傷が引き攣るように痛むが、それを意識の外へと追いやる。

 

「お前の能力が何なのか、詳しい仕組みまでは理解できない」

 

俺は、落ち着いた声で告げる。

 

「だが、力が作用し始める瞬間は感じ取れる。来るとわかれば、動くことくらいはできる」

 

咲夜はわずかに首を傾げる。

 

「霊力で感知しているのですね」

 

確認するように、はっきりと言い当てた。

 

「私の能力が空間に干渉し始める前に、あなたの霊力が反応する。だから停止した世界の中でも、わずかながら自由が利く」

「なるほど、そういう理屈か」

「理解が早い」

「それは褒め言葉か?」

「事実を述べているだけです」

 

また、空間が波立つ。

 

俺は今度は後退せず、前へと踏み込む。距離を詰める方向へ、ゆっくりとだが力強く体を進める。時間が動き出す瞬間には、俺は咲夜のすぐ目の前に立っていた。

 

「——」

 

咲夜は初めて防御的に体を反らし、後ろへと下がる。

 

俺は間髪入れずに御札を突き出す。紙札は彼女の左腕に軽く当たり、小さな衝撃音とともに淡い閃光が弾けた。咲夜は一歩後退したが、深い傷には至っていない。

 

だが、それでも確かに届いたのだ。

 

咲夜は手元のナイフを持ち直し、表情に変化はない。だが、これまでの「単に排除する」という雰囲気が、少しだけ「相手の力量を測る」色に変わったように感じられた。

 

「あなたは、今日初めて空を飛び、霊力を使い始めた」

 

咲夜が、静かに口を開く。

 

「違いますか?」

「……ああ。門番の美鈴にも、同じことを言われた」

「その美鈴を打ち負かした。札の扱いを覚え、霊力の応用法を体得し、今では私の能力にすら対応し始めている」

「全部、今日一日でのことだ」

「ええ」

 

咲夜の瞳が、俺の全身を正確に捉える。

 

「だからこそ、これ以上は通すわけにはいかない」

 

俺は少し考えてから問い返す。

 

「俺が強くなりつつあるから、か?」

「違います」

 

咲夜は即座に否定する。

 

「あなたがこれから先、まだどれほど伸びるかわからない。この段階で食い止めなければ、後になるほどこちらの制御が効かなくなる。だから、今ここで止めるのが最も合理的な判断だということです」

「メイド長らしい、実に理にかなった考え方だな。」

「お褒めにあずかり、光栄です」

 

感謝の言葉にも、感情の色は一切ない。

 

再び、空間が強く歪む予感が走る。今回は長い、深い停止だ。俺は霊力を最大限に巡らせ、ゆっくりとだが絶え間なく体を動かし続ける。咲夜が空中にナイフを配置していくのを、霊力の反応で密度と位置を感じ取り、刃の多い方向を避けて隙間へと滑り込む。

 

世界が動き出す。

 

数十本のナイフが四方八方から襲いかかるが、俺は密度の薄い方向へと体を翻し、二本だけが肩と腕を浅くかすめるだけで済んだ。

 

俺はすぐに三枚の御札を同時に放つ。咲夜は二枚を体を翻してかわすが、三枚目がわずかな隙を突いて脇腹に命中する。

 

咲夜は小さく息を詰め、一歩後ろへと下がった。

 

静寂が、廊下に落ちる。

 

「……」

 

咲夜は無表情のまま俺を見つめているが、その沈黙の中には、計算し、判断し直すような思考の流れが感じられた。

 

「あなたは、お嬢様にお会いしたいのですね」

「ああ」

「なぜです?」

「この幻想郷を覆う紅い霧の異変を、終わらせるため」

「つまり、お嬢様の望みを、あなたの判断で打ち砕くということですね」

「そういうことになる」

 

咲夜は再び長い沈黙に入る。

 

やがて、指先の力が緩み、手に持っていたナイフが、音もなく宙に消えていった。

 

「一つだけ、確認させてください」

「何だ」

「この先で力尽き、命を落とす可能性が高い。それでも、あなたは前に進みますか?」

 

俺は即答しなかった。

 

咲夜が言うことは、おそらく事実だろう。これ以上奥へ進めば、さらに強大な力が待っている。ここで力を使い果たせば、命がないことも覚悟しなければならない。

 

だが、答えは最初から決まっていた。

 

「ああ。それでも、進む」

「なぜです?」

「この体は、俺自身のものじゃない。博麗霊夢のものだからだ」

 

咲夜の瞳が、わずかに揺れる。

 

「……霊夢の、代わり……?」

「そうだ。借りている体で、借りている力を使っている。ここで中途半端に終わらせるわけにはいかない」

 

咲夜はしばらく、俺の言葉を噛み砕くように黙り込む。

 

「理解できない理屈ですね」

「そうかもしれない」

「ですが」

 

咲夜は、宙に浮いていたすべてのナイフを、一斉に消し去った。

 

「私が判断することではない、と思い直しました」

 

声は、いつも通り静かだった。

 

「あなたが何者で、何を背負っているのか。それを受け止め、決断するのは、お嬢様ご自身です。それがこの館の筋目というものです」

 

俺は黙って、彼女の次の言葉を待つ。

 

「四階へ上がりなさい」

 

咲夜は背中を向け、廊下の奥へと歩き出す。

 

「お嬢様は、四階の一番奥の部屋にいらっしゃいます」

「……通してくれるのか?」

「通すのではなく、私の任務をここで終えるだけです」

 

咲夜は肩越しに、一瞬だけ視線を投げてくる。

 

「あなたがこの先、どこへ進もうと、もはや私の管轄ではないのですから」

 

それだけ言うと、咲夜はまるで空気に溶けるように、廊下の闇の中へと音もなく消えていった。

 

俺は一人、長い廊下に取り残される。

 

腹部の傷を手で押さえる。霊力で抑えていても、限界が近づいているのがわかる。肩や腕のかすり傷は軽いが、全体の消耗は確かに深まっている。

 

俺はゆっくりと、先に続く階段を見上げた。

 

手すりに指をかけると、そこには自分の血が薄く滲んでいた。腹の傷から漏れたものだ。

 

「……霊夢」

 

俺は、心の中で呟く。

 

「また、体に傷を増やしちまったな」

 

返事は、もちろんない。

 

「だけど、まだ動ける。あと少しだけ、力を貸してくれ」

 

俺は手すりを強く握り、一歩、また一歩と、階段を上り始める。

 

目指すは四階。

 

この紅い霧の異変の、真の元凶が待つ場所へ。

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