四階への階段を上りながら、俺は霊力の状態を確認した。
腹の傷は押さえられている。肩と腕のかすり傷は動作に支障がない。全身の霊力は、まだある。消耗しているが、底は見えていない。
動ける。
廊下の先に、扉があった。重厚な木の扉。鍵はかかっていなかった。押すと、軋みながら開いた。
広い部屋だった。
窓から紅い光が差し込んでいる。調度品は少なく、中央に古い長椅子が一脚。壁には武器の飾りと、何枚かの肖像画。吸血鬼らしき女性の絵が、こちらを見下ろしていた。目だけが、絵とは思えないほど生々しく、こちらを追ってくるような気がした。
部屋の奥に、扉がもう一つある。
そこへ向かおうとした時、声がした。
「待ちなさい」
咲夜だった。
部屋の隅に、いつの間にかいた。姿勢が乱れていた。白いエプロンに、血の滲みがある。俺との戦いのものだ。それでも立っていた。背筋を伸ばして、俺を見ていた。
「おい、まだやるのか」
俺は言った。
「あなたを通すと、言いました」
「ああ」
「ただ」
咲夜は一歩、前に出た。
「私が言ったのは、お嬢様に判断を委ねるということです。あなたを無傷で通すとは言っていない」
「え」
ナイフが一本、手の中に現れた。指の間で、光を受けて鈍く輝く。
「最後に、一合だけ」
俺は構えた。御札を一枚、手に持った。指先に、汗の湿りが伝わっている。腹の傷が、心臓の鼓動に合わせて疼いた。
「お嬢様を守るために、私にできる最後のことです」
その声には、義務を果たそうとする者の硬さと、どこか安堵に似た響きが同時にあった。負けを認めた上で、それでも一矢報いておきたいという、剣士に近い矜持だった。
咲夜の姿が消えた。
霊力が反応した。世界が重くなる。音が遠くなる。空気の粒子一つひとつが、粘度を持ったように動きを鈍らせていく。
俺は動いた。前に、踏み込んだ。考えるより先に、身体が判断していた。
時間が動き出した瞬間、咲夜のナイフが横薙ぎに走った。俺の動いた先を、正確に読んでいた。まるで、俺がそこへ踏み込むことを、時間が止まる前から知っていたかのように。
かわしきれなかった。
頬を、刃が掠めた。鋭い痛みと、熱さが走った。血が滴る。頬を伝う感触が、やけに冷たく感じられた。
だが俺の御札は、咲夜の胸元に届いていた。押しつけるような距離で。
「っ」
咲夜の身体が、後方に吹き飛んだ。壁まで届かず、床に膝をついた。
しばらく、二人とも動かなかった。呼吸の音だけが、部屋に満ちていた。
咲夜は膝をついたまま、頭を垂れた。銀色の髪が床に触れそうなほど、深く。
「……負けました」
静かな声だった。負けを告げる声にしては、あまりにも澄んでいた。
「お嬢様の元へ、どうぞ」
俺は答えなかった。
ただ、奥の扉へ向かって歩いた。通り過ぎる時、咲夜が小さく言った。
「強くなりましたね。先ほどまでとは、まるで別人のよう」
俺は足を止めなかった。だが、その言葉は、胸の奥にわずかな棘のように刺さった。別人。その言葉の正確さを、彼女は知らない。
「ありがとう」
それだけ言って、扉を開けた。
扉の先は、吹き抜けの踊り場になっていた。
下を見ると、一階のホールが遥か下に見える。上を見ると、天窓がある。紅い霧に遮られた薄い光が、埃の粒子を照らしながら差し込んでいた。
踊り場の中央に、穴があった。
床が、下から、いや、上から突き破られた穴だ。大理石の破片が周囲に散らばっている。縁が生々しく砕けていた。
何かが、下から突き上がってきた痕跡だった。
「魔理沙」
直感した。
穴を覗き込んだ。下の階が見えた。その下の階も見えた。相当深くまで貫通している。何段もの床が、一直線に破られていた。ただの衝撃ではない、桁外れの威力の余波だった。
「魔理沙!」
呼びかけながら穴に飛び込んだ。下へ向かって、霊力で速度を制御しながら降りていく。風が耳元で唸り、砕けた石の破片が頬を掠めていった。
三階分ほど降りたところで、声が聞こえた。
「……霊夢?」
踊り場の隅に、魔理沙がいた。
壁に背を預け、片膝を立てて座っていた。箒は脇に置かれ、柄が曲がっていた。服のあちこちが焦げていた。左頬に打撲の痕があり、腫れていた。手の甲に裂傷があった。左腕は、袖ごと黒く焼け焦げ、力なく垂れたままだった。
だが、意識はある。目が俺を捉えていた。その目には、消耗しきってなお消えない、燃え残りのような光があった。
「……生きてたか」
俺は魔理沙の隣に降り立った。
「お前こそ」
「こっちは、なんとか」
魔理沙は苦笑した。頬の腫れのせいで、その笑みは少し歪んでいた。
「パチュリーって奴がいたよ。強かった。近くまで行って勝ったと思ったんだけど、そこから油断しちゃった……。魔法の応用で弾かれて、そこから大技を三発打ったんだけど、全部捌かれた。四発目で何とか一撃入れたが、それで限界だった」
「ここまで吹き飛んできたっていうのか」
「反撃で吹き飛ばされた。穴ぶち抜きながら上に吹っ飛んで…そのままここまで落ちてきた。」
魔理沙は肩をすくめた。しかめっ面だったが、諦めの色はなかった。むしろ、悔しさの奥に、まだ火が燻っているような目だった。
「お前は、どこまで行った」
「咲夜っていうメイドを抜けた。……今から、下の図書館に向かう」
「パチュリーが待ってる。あいつ、百年物の魔法使いだ。気をつけろ」
「わかった」
俺は魔理沙の手に触れた。裂傷の箇所に、霊力を集中させる。傷口が塞がっていく感触があった。皮膚の下で、何かが縫い合わされていくような、奇妙な生々しい感覚。完全ではないが、急場しのぎにはなる。
「何をした」
「止血だ。もう少し持つはずだ。ここで待ってろ」
「待てっていう方が無理だろ……」
「無理でも待て」
魔理沙は何か言おうとして、俺の顔を見て、口を閉じた。何かを読み取ったような、そんな沈黙だった。
「……わかった」
それだけ言った。珍しく素直だった。
「すぐ戻る」
「ああ。でも霊夢」
魔理沙が、俺の腕を掴んだ。焼け焦げた左手ではなく、無事な右手で。その握力には、まだ確かな力が残っていた。
「お前、変わったな。さっきまでより、だいぶ」
「そうか」
「強くなってるのはわかる。でも、それだけじゃなくて」
魔理沙は言葉を探しているようだった。金色の瞳が、俺の顔を、まるで違う何かを探すように見つめていた。
「何か、腹が据わった感じ。昔のお前と……でも、ちょっと違う。うまく言えないけど」
俺は答えなかった。答えられなかった、というのが正しい。
「行ってくる」
穴に飛び込んだ。
*****
地下図書館は、戦闘の跡だった。
焦げた本。崩れた書架。散乱した紙片。魔理沙とパチュリーが激しく戦った痕跡が、そこかしこに残っていた。灰の匂いと、古い紙が焼ける独特の臭気が、まだ空気に染み付いている。
パチュリーは空中に浮いていた。
荒い息をしていた。肩が激しく上下していた。ローブに、焦げた痕があった。それでも、本を手に、俺を見ていた。その紫の瞳には、疲労の色の奥に、消えない意志の硬さがあった。
「知らない顔ね」
静かな声だった。だが、その静けさの底に、抑えた喘鳴が混じっていた。
「さっきの魔法使いの仲間、でしょう」
「博麗霊夢だ」
「……巫女が、ここまで来た」
パチュリーはページを一枚、捲った。指先が、微かに震えていた。
「目的は同じね。レミィに会いに来た」
「それはレミリアのことか?だとしたらそうだ。異変を終わらせに来た」
「そう」
パチュリーは本を閉じた。乾いた音が、静まり返った図書館に響いた。
「通すわけにはいかないわ」
魔法陣が展開し始めた。複雑な幾何学模様が空中に浮かぶ。六芒星と円と三角形が重なり合い、古代語の呪文が光りながら刻まれていく。
炎が生まれた。
巨大な炎の塊ではなかった。密度の高い、小さな弾丸が、無数に生まれた。均等な速度で、均等な間隔で、規則正しく広がっていく。星屑のように整然と並んだそれは、美しさと殺意が矛盾なく同居していた。
魔理沙の弾幕とは質が違った。魔理沙のそれは威力で押し切るものだった。パチュリーのそれは、精度で縫い止めるものだった。隙間が、計算されていた。逃げ道に見える場所こそが、実は最も狙われている場所なのかもしれない。そう思わせるだけの緻密さが、その弾幕にはあった。
俺は動き始めた。
身体を捻り、弾幕の隙間を縫う。右に、左に。一発かすった。袖を焦がした。焦げた布の匂いが鼻をついた。
御札を投げた。パチュリーへ向かって、三枚。
パチュリーは最小限の動作でかわした。本を盾にするように動かしながら。喘鳴を隠すように、浅く速い呼吸を繰り返しながら。
「あなた、さっきの魔法使いより動きが読めない」
「そうか」
「でも」
パチュリーはまたページを捲った。
「水のレーザーよ」
透明な光線が走った。太く、速く、俺の正面を薙いだ。水面を切り裂くような、鋭利な軌跡だった。
俺は上に跳んだ。レーザーが足元を掠める。空気が僅かに震え、水気を帯びた冷たさが肌を撫でた。
霊力を御札に込めながら、上から角度をつけて投げた。パチュリーの頭上から落ちるように。
「——ぐっ」
パチュリーの詠唱が一瞬、乱れた。回避に意識が向いた。喉の奥から、抑えきれない咳の気配が漏れた。
俺はその間に距離を詰めた。
「ストームサイン」
詠唱が再開された。風が発生した。渦を巻く強風が俺の動きを妨げる。御札が吹き飛んだ。前に進めない。
押し返されながら、俺は霊力を足に集中させた。風圧に逆らって、一歩ずつ前に進む。足の裏で床を噛むように踏みしめる感覚があった。
パチュリーの表情が、わずかに変わった。
「力で押し切るつもり?」
「そうじゃない」
俺は言いながら、御札を横に投げた。パチュリーではなく、横の書架に向かって。
「!こいつも……同じことを…!!」
パチュリーの本が動いた。本を守る反射が、俺を狙うより先に働いた。詠唱が途切れた。風が止んだ。
その瞬間に、踏み込んだ。
霊力を両手に集中させた。これまで傷口の止血に使い、筋肉の補強に使い、時間停止の感知に使ってきた霊力を、今度は全部、掌に向けた。圧縮する。密度を高める。血管という血管が、内側から灼けるような感覚があった。
パチュリーの腹に、両掌を押し当てた。
「——」
霊力が、放出された。爆発ではなく、押し出すような放出だった。掌全体が、まるで水を押し出す蛇口のように、力を吐き出していく感覚があった。
パチュリーの身体が、後方に大きく吹き飛んだ。書架に背中から激突した。本が雪崩のように落ちてくる。
「げほっ……げほっ……」
咳き込んでいた。激しく、苦しそうに。喉の奥から絞り出すような、乾いた咳が続いた。
俺は御札をもう一枚、手に持った。だが、その手は止まっていた。
パチュリーは咳き込みながらも、本を構え直そうとしていた。手が震えていた。呼吸が、まともにできていなかった。肩が上下するたびに、喉の奥で細い笛のような音が鳴っていた。
「やめろ」
俺は言った。
「もう終わりだ」
「……終わりじゃない」
パチュリーは俺を睨んだ。紫色の瞳に、意地があった。
「まだ魔力は……げほっ……」
「俺が言ってるのは魔力の話じゃない」
俺は御札を構えたまま、パチュリーを見た。
「お前の身体が、もう限界だ」
パチュリーは黙った。
「この図書館の空気は、お前に悪い。魔理沙との戦闘でさらに悪化した。そこに俺との戦いが続いている。それにお前、おそらく喘息を持ってるだろ」
「……」
「戦い続けることはできる。だが、それはお前の身体を壊すぞ」
「関係ない」
「そうか」
俺は少し間を置いた。
「お前がそう言うなら、続けてもいい。ただ、続けても結果は変わらない。俺はレミリアに会いに行く」
「行かせない……」
「お前一人では、もう止められない」
パチュリーは、言葉を返さなかった。
長い沈黙があった。咳の合間の呼吸だけが、その沈黙を埋めていた。
本が、光を失っていった。魔法陣が、ゆっくりと消えた。灯りが落ちるように、静かに。
「……くそぉ」
パチュリーは呟いた。
「百年以上生きて……こんな形で負けるなんて……」
声が、震えていた。悔しさだけではない、もっと深い何かが滲んでいるように聞こえた。
「レミィに……申し訳が……」
「レミリアの判断を、直接聞きに行く」
俺は言った。
「それだけだ」
パチュリーは答えなかった。ただ、本を胸に抱えて、目を閉じた。抱きしめる仕草には、負けを認めた者の力の抜け方と、それでも何かを守ろうとする、最後の意地のようなものが同居していた。
「むきゅー……」
力が抜けたような声だった。そのままずるずると、書架に寄りかかった。眠るように。呼吸だけが、規則正しく続いていた。
俺は図書館を出た。
魔理沙のいた踊り場まで戻ると、魔理沙はまだそこにいた。壁に背を預けて待っていた。
「どうだった」
「片づいた」
「パチュリーを?」
「ああ。だけど死なせてはいない。」
魔理沙は少し目を細めた。安堵とも、称賛ともつかない表情だった。
「次が、レミリアか」
「ああ」
「一緒に行く」
「無理をするな」
「無理じゃない」
魔理沙は箒を持って立ち上がった。片膝が少し震えたが、立った。その動作には、まだ折れていない何かがあった。
「霊夢、お前一人に任せっぱなしは嫌だ」
「俺はいい」
「私は嫌なんだよ」
魔理沙は俺を見た。金色の瞳に、これ以上譲らないという色があった。
「そういう話だ」
俺は少しの間、魔理沙を見た。焼け焦げた腕。腫れた頬。それでも真っ直ぐに俺を見返してくる、その頑固さ。
「……わかった」
二人で、上へ向かった。
最上階へ。
異変の元凶へ。