階段を上りながら、魔理沙が口を開いた。
「お前、本当に強くなったな」
静かな声だった。感嘆でもなく、羨望でもなく、ただ事実を確認するような声だった。
「チルノの弾幕に追い詰められてたのに」
「そうだな」
俺は頷いた。
「戦うたびに、少しずつわかってきた」
「霊力の使い方か」
「それだけじゃない。自分の身体の使い方も」
魔理沙はしばらく黙って歩いた。赤い絨毯が、足音を吸っていた。
「……なんか、お前と一緒に戦ってきた気がしないな」
その声に、わずかな苦さがあった。
「私は地下で圧倒されてた。お前は、次々と抜けてきた。」
「お前が時間を稼いだから、俺はここにいる」
「……」
「本当のことだ」
魔理沙は答えなかった。ただ、少し歩幅が変わった。俺の隣に並ぶように。
「最後まで一緒に行くぞ」
魔理沙は言った。宣言ではなく、確認のように。
「ああ」
二人で、上へ向かった。
最上階の扉は、深紅だった。
金の装飾が施されていた。蝙蝠の紋章。薔薇の意匠。豪奢だが、重い。触れる前から、向こう側の気配が伝わってくる。
これまでとは違う。
美鈴の気配は、鍛えられた武人のものだった。咲夜は研ぎ澄まされた刃のような気配だった。パチュリーは濃密な魔力の塊だった。
この扉の向こうにいるものは、それらのどれとも違った。
重さが、違う。
俺は扉に手をかけた。冷たい金属の感触。押すと、低い軋みとともに開いた。
広い部屋だった。
天井は何十メートルもある吹き抜けで、巨大なシャンデリアが吊るされていた。何百本という蝋燭の炎が揺れ、部屋全体をぼんやりと照らしていた。床には深紅の絨毯。壁には古い肖像画が並んでいる。
正面に、大きなステンドグラスの窓があった。
紅い霧に覆われた夜空が見えた。その中央に、月があった。霧を透かして見える月は、血のように赤く染まっていた。
窓の前に、一人の少女がいた。
背を向けて、月を見上げていた。
小柄だった。百五十センチに届かない。フリルのついた淡いピンクのドレス。頭にはナイトキャップ。寝室から出てきたような装いだった。
だが、その背中から、部屋全体に圧が満ちていた。
呼吸が、重くなった。空気の密度が上がったように感じた。霊力が、自然と身体の中に引き込まれていくような感覚があった。
「ようやく、来たのね」
少女は振り向いた。
白い肌。水色がかった紫の髪。そして赤い瞳。深く、澄んでいて、何百年分もの時間が沈んでいる瞳だった。
口元に、わずかに牙が見えた。
「レミリア・スカーレット」
少女は名乗った。名前を告げることへの恥も衒いもなかった。ただ事実として。
「この館の主。この異変を起こした者」
「知ってる」
俺は言った。
「だから、ここまで来た。」
「そう」
レミリアは俺と魔理沙を順番に見た。観察するように。急がない視線だった。
「咲夜もパチュリーも、美鈴も倒した。全員を倒してここまで来た」
「ああ」
「それは、認めるわ」
レミリアは窓に背を向け、部屋の中央へゆっくりと歩いてきた。歩くというより、漂うような動作だった。重力に完全には従っていない歩き方だった。
「でも、霧は止めない」
「なぜだ」
「私がそうしたいから」
それだけだった。理由はそれだけだった。
「太陽が邪魔だった。だから遮った。それだけのことよ」
「……その身勝手な行動で、人里の人間が大勢苦しんでいる」
「知ってる」
レミリアの声は変わらなかった。
「作物が育たない。病気が出る。死ぬ者もいるでしょう。全部、知ってるわ」
「知っていて……」
「知っていて、どうしたというの」
レミリアは首を傾けた。子供のような仕草だった。
「あなたは今日、道を歩く虫を何匹踏んだか覚えてる?踏んで死なせた虫の数を、気にしたことがある?」
俺は答えなかった。
「私にとって、人間がどういうものか。それを聞いているの」
「……」
「あなたたちは、私が異変を起こしたことを責めに来た。でも、私はただ、邪魔なものを退けた。それだけよ」
論理として、崩せなかった。
崩せないのではなく、この相手に言葉が通じるかどうかという問題だった。
魔理沙が、静かに口を開いた。
「話しても無駄だな」
「ああ」
二人の返答に、レミリアは少しだけ目を細めた。
「賢いわね。そう、話しても無駄よ。価値観が違うもの。」
そして、初めて笑った。
残酷な笑みではなかった。純粋に、楽しそうな笑みだった。それが、かえって恐ろしかった。
「久しぶりに、本気で動けそうな夜ね」
レミリアの姿が、消えた。
間に合わなかった。
霊力が反応した。だが、それより速かった。
俺の右腕に、衝撃が走った。弾かれた、ではなく、掴まれた。レミリアの手が俺の腕を掴んで、そのまま床に叩きつけた。
「——っ!?」
石の床が、身体の下で軋んだ。
「霊夢!」
魔理沙が八卦炉を構えて、レーザーを放った。
レミリアは俺を放して、真横に動いた。レーザーが、レミリアのいた空間を貫いた。
俺は立ち上がった。腕が痺れていた。霊力を流して感覚を取り戻しながら、御札を構える。
レミリアは部屋の中央に浮いていた。ドレスの裾が揺れていた。
「もう一度」
俺と魔理沙は同時に動いた。
俺は正面から、御札を連続で投げながら距離を詰めた。魔理沙は側面から弾幕を展開した。挟み撃ちにする形だった。
レミリアは動かなかった。
御札が届く直前、レミリアの手が動いた。手のひらを向けただけだった。それだけで、御札が全部の軌道をそれた。霊力が、押し返された感覚があった。
魔理沙の弾幕は、レミリアの周囲で散った。
「攻撃が届かない…」
魔理沙が歯を食いしばりながら言った。
「弾幕が、当たる前に弾かれてる。」
「わかった」
俺は考えながら動き続けた。
美鈴の時は、御札の囮を使って近距離を取った。咲夜の時は、霊力で時間停止を感知した。パチュリーの時は、本を守る制約を突いた。
レミリアには、どう近づく。
弾幕が届かない。近接の速度が追いつかない。霊力の圧も、一方的に押し負ける。
俺は御札を投げ続けながら、レミリアの動きを観察した。
速い。速度は圧倒的だった。だが、レミリアは俺たちの攻撃を「避けて」いなかった。
払っていた。
俺たちの攻撃を、避けるに足るものと判断していなかった。だから、最小限の動作で払うだけで事足りていた。
それは何を意味するか。
俺たちが本気で、全霊で攻撃した時、レミリアは初めて「避ける」必要が生じる。
「魔理沙」
俺は声をかけた。
「今持ってる力をすべて込めて、技を打て。全力で。照準は俺ごとレミリアに向けろ」
「は?」
「いいから打て。俺は動く」
魔理沙は一瞬だけ俺を見た。それから、口を閉じて八卦炉を構えた。
「……わかった。」
俺はレミリアに向かって真っ直ぐ走った。御札を一枚ずつ、全力で霊力を込めながら投げ続ける。これまでより、明らかに強く。
レミリアは払い続けた。俺が近づくことを、まだ脅威と判断していなかった。
その瞬間、魔理沙がレーザーを放った。
極太の光が、俺ごとレミリアに向かって走った。
レミリアが、初めて大きく動いた。
真上に跳んだ。
俺もそこに向かって跳んでいた。
空中で、レミリアと目が合った。
一秒もない時間だった。
俺は全身の霊力を右掌に集中させ、押しつけた。レミリアの胸に。
「…………」
音は小さかった。爆発ではなかった。ただ、密度の高い霊力が、直接ぶつかった音だった。
レミリアの身体が、後方に流れた。壁まで届かず、空中で止まった。
俺は床に着地した。
沈黙があった。
レミリアは胸に触れた。触れた手のひらを見た。霊力の熱が残っていた。
「……当たった」
レミリアの声が、少し変わっていた。
「ダメージはない。でも、当たった。」
俺を見る目が、変わっていた。
侮りではなく、測る目になっていた。
「面白い…」
その言葉に、温度が戻っていた。
今度こそ、レミリアが本気で動くと、俺は感じた。
霊力を全身に巡らせながら、俺は構えた。
腹の傷が疼いた。腕が痺れていた。霊力の残量が、確実に減っていた。
それでも、動けた。
「魔理沙」
「ここにいる」
魔理沙の声は、俺の隣にあった。
「行くぞ!」
「ああ!」
二人は、構えた。
レミリアは月を背に、静かに浮いていた。
部屋に、蝋燭の炎だけが揺れていた。