階段を上りながら、魔理沙が口を開いた。
「お前、本当に強くなったな」
静かな声だった。感嘆でもなく、羨望でもなく、ただ事実を確認するような声だった。だからこそ、余計に重く響いた。
「チルノの弾幕に追い詰められてたのに」
「そうだな」
俺は頷いた。階段の一段一段が、思ったより脚に堪えていた。全身の傷が、上るたびに小さく主張してくる。
「戦うたびに、少しずつわかってきた」
「霊力の使い方か」
「それだけじゃない。自分の身体の使い方も」
魔理沙はしばらく黙って歩いた。赤い絨毯が、足音を吸っていた。二人分の足音のはずなのに、片方はどこか遠慮がちに、もう片方は迷いなく、その違いだけがやけにはっきり聞こえた。
「……なんか、お前と一緒に戦ってきた気がしないな」
その声に、わずかな苦さがあった。
「私は地下で圧倒されてた。お前は、次々と抜けてきた」
「お前が時間を稼いだから、俺はここにいる」
「……」
「本当のことだ」
魔理沙は答えなかった。ただ、少し歩幅が変わった。俺の隣に並ぶように。焼け焦げた左腕は、袖ごと黒く炭化し、肘から先が力なく垂れたままだった。指先すら動いている様子がない。右手だけで箒を持ち替え、階段の手すりに掴まりながら、一段ずつ確かめるように上っていた。
「最後まで一緒に行くぞ。」
魔理沙は言った。宣言ではなく、確認のように。
「……その腕で、か」
俺は言った。責めるつもりはなかった。ただ、事実を確かめたかった。
「利き腕は残ってる。それで十分だ」
魔理沙は前を見たまま答えた。取り繕う響きはなかった。ただ、それ以上聞くなという、静かな拒絶があった。
「ああ」
俺はそれ以上、何も言わなかった。
二人で、上へ向かった。
最上階の扉は、深紅だった。
金の装飾が施されていた。蝙蝠の紋章。薔薇の意匠。豪奢だが、重い。触れる前から、向こう側の気配が伝わってくる。皮膚の表面がざわつくような、そういう種類の圧だった。
これまでとは違う。
美鈴の気配は、鍛えられた武人のものだった。地に足のついた、鍛錬の積み重ねという実感があった。咲夜は研ぎ澄まされた刃のような気配だった。触れれば切れる、そういう鋭さだった。パチュリーは濃密な魔力の塊だった。空気そのものが重くなるような密度があった。
この扉の向こうにいるものは、それらのどれとも違った。
重さが、違う。それは強さの度合いという話ではなく、種類そのものが異なる何かだった。
俺は扉に手をかけた。冷たい金属の感触。押すと、低い軋みとともに開いた。
広い部屋だった。
天井は何十メートルもある吹き抜けで、巨大なシャンデリアが吊るされていた。何百本という蝋燭の炎が揺れ、部屋全体をぼんやりと照らしていた。炎の揺らめきに合わせて、壁の影も呼吸するように伸び縮みしている。床には深紅の絨毯。壁には古い肖像画が並んでいる。どの絵の中の人物も、こちらを見ている気がした。
正面に、大きなステンドグラスの窓があった。
紅い霧に覆われた夜空が見えた。その中央に、月があった。霧を透かして見える月は、血のように赤く染まっていた。
窓の前に、一人の少女がいた。
背を向けて、月を見上げていた。
小柄だった。百五十センチに届かない。フリルのついた淡いピンクのドレス。頭にはナイトキャップ。寝室から出てきたような装いだった。場違いなほど、無防備な格好だった。
だが、その背中から、部屋全体に圧が満ちていた。
呼吸が、重くなった。空気の密度が上がったように感じた。霊力が、自然と身体の中に引き込まれていくような感覚があった。まるで、この部屋そのものが、あの小さな背中を中心にして成立しているようだった。
「ようやく、来たのね」
少女は振り向いた。
白い肌。水色がかった紫の髪。そして赤い瞳。深く、澄んでいて、何百年分もの時間が沈んでいる瞳だった。その奥を覗き込もうとすると、こちらの方が先に呑み込まれそうになる、そんな深さだった。
口元に、わずかに牙が見えた。
その視線が、俺と魔理沙を一往復した。
「ずいぶんと、痛めつけられて来たのね」
「レミリア・スカーレット」
俺はその一言を無視して、名を呼んだ。
少女は名乗った通りだと言うように、小さく頷いた。名前を告げることへの恥も衒いもなかった。ただ事実として。
「この館の主。この異変を起こした者」
「知ってる」
俺は言った。声が、自分でも思ったより硬くなった。
「だから、ここまで来た」
「そう」
レミリアは俺と魔理沙を順番に見た。観察するように。急がない視線だった。値踏みするというより、既に答えを知っている者が確認のためだけに見る、そういう視線だった。
「咲夜もパチュリーも、美鈴も倒した。全員を倒してここまで来た」
「ああ」
「それは、認めるわ」
レミリアは窓に背を向け、部屋の中央へゆっくりと歩いてきた。歩くというより、漂うような動作だった。重力に完全には従っていない歩き方だった。足音すら、ほとんど聞こえなかった。
「でも、霧は止めない」
「なぜだ」
「私がそうしたいから」
それだけだった。理由はそれだけだった。
「太陽が邪魔だった。だから遮った。それだけのことよ」
「……その身勝手な行動で、人里の人間が大勢苦しんでいる」
「知ってる」
レミリアの声は変わらなかった。
「作物が育たない。病気が出る。死ぬ者もいるでしょう。全部、知ってるわ」
「知っていて……」
「知っていて、どうしたというの」
レミリアは首を傾けた。子供のような仕草だった。だが、その無邪気さの裏に、底の見えない冷たさがあった。
「あなたは今日、道を歩く虫を何匹踏んだか覚えてる?踏んで死なせた虫の数を、気にしたことがある?」
俺は答えなかった。答えられなかった。
「私にとって、人間がどういうものか。それを聞いているの」
「……」
「あなたたちは、私が異変を起こしたことを責めに来た。でも、私はただ、邪魔なものを退けた。それだけよ」
論理として、崩せなかった。
崩せないのではなく、この相手に言葉が通じるかどうかという問題だった。価値観の外にいる相手に、価値観の内側から投げた言葉は、届く前に形を失ってしまう。
魔理沙が、静かに口を開いた。
「話しても無駄だな」
「ああ」
二人の返答に、レミリアは少しだけ目を細めた。
「賢いわね。そう、話しても無駄よ。価値観が違うもの」
そして、初めて笑った。
残酷な笑みではなかった。純粋に、楽しそうな笑みだった。それが、かえって恐ろしかった。悪意のない笑みほど、防ぎようのないものはない。
「久しぶりに、本気で動けそうな夜ね」
レミリアの姿が、消えた。
間に合わなかった。
霊力が反応した。だが、それより速かった。
俺の右腕に、衝撃が走った。弾かれた、ではなく、掴まれた。レミリアの手が俺の腕を掴んで、そのまま床に叩きつけた。
「——っ!?」
石の床が、身体の下で軋んだ。衝撃が骨まで響いた。
「霊夢!」
魔理沙が箒を右手だけで操りながら、急いで位置を変えた。左腕が使えない分、体全体を大きく傾けてバランスを取っている。八卦炉を右手一本で構え、レーザーを放った。
普段の両手構えとは違う。狙いが、僅かにぶれた。それでも光は放たれ、レミリアの立っていた空間を貫いた。石床が焼け焦げ、白い煙が立ち昇った。
俺は立ち上がった。腕が痺れていた。霊力を流して感覚を取り戻しながら、御札を構える。
レミリアは俺を放して、真横に動いてそれをかわしていた。ドレスの裾が揺れていた。何事もなかったかのような、涼しい顔だった。
「もう一度」
俺と魔理沙は同時に動いた。
俺は正面から、御札を連続で投げながら距離を詰めた。魔理沙は側面から弾幕を展開しようとした。だが、右手だけで八卦炉を支えながらの弾幕は、密度も精度も、本来の半分にも届いていなかった。左手が添えられないことで、照準を保つための微調整ができない。挟み撃ちの形は取れていたが、片翼が明らかに弱かった。
レミリアは動かなかった。
御札が届く直前、レミリアの手が動いた。手のひらを向けただけだった。それだけで、御札が全部の軌道をそれた。霊力が、押し返された感覚があった。まるで見えない壁に、紙一枚をぶつけたような手応えのなさだった。
魔理沙の弾幕は、さらに呆気なく、レミリアの周囲で散った。
「攻撃が届かない……」
魔理沙が歯を食いしばりながら言った。声に、悔しさが滲んでいた。
「弾幕が、当たる前に弾かれてる。……くそ、片手じゃ、狙いが甘くなる」
「わかった」
俺は考えながら動き続けた。
美鈴の時は、御札の囮を使って近距離を取った。咲夜の時は、霊力で時間停止を感知した。パチュリーの時は、本を守る制約を突いた。
レミリアには、どう近づく。
弾幕が届かない。近接の速度が追いつかない。霊力の圧も、一方的に押し負ける。それに加えて、今この場にいる戦力は、実質的に俺一人と、片腕を失った魔理沙だけだ。
俺は御札を投げ続けながら、レミリアの動きを観察した。
速い。速度は圧倒的だった。だが、レミリアは俺たちの攻撃を「避けて」いなかった。
払っていた。
俺たちの攻撃を、避けるに足るものと判断していなかった。だから、最小限の動作で払うだけで事足りていた。それは、余裕とすら呼べない、もっと根本的な格の違いだった。
それは何を意味するか。
俺たちが本気で、全霊で攻撃した時、レミリアは初めて「避ける」必要が生じる。
「魔理沙」
俺は声をかけた。
「今持ってる力をすべて込めて、技を打て。全力で。照準は俺ごとレミリアに向けろ」 「は?」
「いいから打て。俺は動く」
「片手で全力なんて撃ったら、反動で肩が抜ける。」
魔理沙は言いながらも、既に右手一本で八卦炉を構え直していた。文句を言いながら、止まる気配はなかった。
「知ってる。それでも、やれ」
「……お前、私を便利に使いすぎだろ……」
魔理沙は苦笑した。だが、その目は真剣だった。焼け焦げた左腕が、微かに震えていた。それでも、狙いは揺るがなかった。
「……わかった。やるよ。覚悟はとっくにできてる…!」
俺はレミリアに向かって真っ直ぐ走った。御札を一枚ずつ、全力で霊力を込めながら投げ続ける。これまでより、明らかに強く。
レミリアは払い続けた。俺が近づくことを、まだ脅威と判断していなかった。その余裕そのものが、狙い目だった。
その瞬間、魔理沙がレーザーを放った。
右手一本で支えるには、あまりに大きすぎる反動だった。魔理沙の身体が、発射の勢いで大きく後方へ流された。箒が斜めに傾ぎ、体勢を崩しながらも、彼女は歯を食いしばって狙いを保ち続けた。
極太の光が、俺ごとレミリアに向かって走った。
レミリアが、初めて大きく動いた。
真上に跳んだ。
俺もそこに向かって跳んでいた。全身の力を脚に込めて、最後の一歩を踏み切った。
空中で、レミリアと目が合った。
一秒もない時間だった。だが、その一秒の中に、これまでの戦いの全部が凝縮されているような感覚があった。魔理沙が片腕を犠牲にしてまで作った、この一瞬だ。
俺は全身の霊力を右掌に集中させ、押しつけた。レミリアの胸に。
「…………」
音は小さかった。爆発ではなかった。ただ、密度の高い霊力が、直接ぶつかった音だった。乾いた、短い衝撃音。
レミリアの身体が、後方に流れた。壁まで届かず、空中で止まった。
俺は床に着地した。膝に、鈍い衝撃が走った。
沈黙があった。
レミリアは胸に触れた。触れた手のひらを見た。霊力の熱が残っていた。
「……当たった」
レミリアの声が、少し変わっていた。今までの、揺るぎない余裕の底に、初めて小さな亀裂が入ったような、そんな響きだった。
「ダメージはない。でも、当たった」
俺を見る目が、変わっていた。
侮りではなく、測る目になっていた。虫を見る目から、対等な相手を見定める目へ。その変化を、俺は肌で感じ取った。
「面白い……」
その言葉に、温度が戻っていた。
今度こそ、レミリアが本気で動くと、俺は感じた。
霊力を全身に巡らせながら、俺は構えた。
腹の傷が疼いた。腕が痺れていた。霊力の残量が、確実に減っていた。指先の感覚が、少しずつ遠くなっていくのがわかった。
背後で、魔理沙が肩を押さえて呻いているのが聞こえた。反動で、右肩も傷めたのだろう。それでも、彼女は箒から降りようとしなかった。
「魔理沙、大丈夫か」
「……上等だよ。片腕だろうが両腕だろうが、まだ立ってるうちは、私は戦力だ」
その声には、痛みを押し殺した強がりと、それでも折れない意地が同居していた。
「行くぞ!」
「ああ!」
二人は、構えた。片方は満身創痍の右腕一本で、もう片方は限界に近づいた霊力を絞り出しながら。
レミリアは月を背に、静かに浮いていた。その姿は、これまでのどんな相手とも違う、静かな重みを纏っていた。
部屋に、蝋燭の炎だけが揺れていた。