傷が、癒えていく。
完全ではない。まだ痛みは残っている。身体のあちこちに、鈍い痛みが走る。深部まで届いた打撲の痛み。裂けた筋肉の痛み。折れかけた骨の痛み。
だが、動ける。戦える。少なくとも、立って歩くことはできる。
俺は霊力で、自分の傷を癒した。魔理沙の傷も、可能な限り癒した。
気を使う。意識し、集中させ、治癒を促進する。細胞を活性化させ、血を止め、痛みを和らげる。
死にかけるたびに、少しずつ掴んできた技術。それを、実践する。
「……ありがとな、霊夢」
魔理沙は言った。
まだ顔色は悪い。青白く、汗が額に浮いている。服はボロボロで、血の痕が残っている。あちこちが破れ、焦げている。
だが、目には光が戻っていた。戦う意志が、宿っていた。諦めていない目。まだ戦える、という目。
「礼を言うのは、まだ早い」
俺は言った。冷静に、だが確かな決意を込めて。
「まだ、元凶が残ってる」
二人は、階段を上り始めた。
紅魔館の最上階へ。
異変の元凶がいる場所へ。
吸血鬼が待つ、場所へ。
階段は、長かった。
何階分も、上り続ける。一段、また一段。足を引きずりながら。
豪華な赤い絨毯が、階段に敷かれている。踏むたびに、柔らかい感触が足に伝わる。
足音だけが、静寂の中に響く。コツ、コツ、という規則的な音。
他に音はない。メイドもいない。使用人もいない。誰の気配も感じない。
すべてが、静まり返っていた。まるで、死者の館のように。
「……なあ、霊夢」
魔理沙が、口を開いた。
その声は、いつもより低かった。何かを言いたげな、重い声。
「ん?」
「お前、本当に強くなったな。」
その声には、驚きと、そして少しの寂しさが混じっていた。複雑な感情が、滲んでいた。
「本当に少し前までは、チルノ一人にも苦戦してたのに。氷の弾幕に追い詰められて、パニックになって」
「……そうだな」
俺は頷いた。
今日、この異変解決。
転生して、初めて戦った日。初めて、妖怪と対峙した日。
あの時の俺は、本当に弱かった。何もできなかった。何も知らなかった。
ただ、恐怖に支配されていた。
だが、今は違う。
「戦いの中で、学んだ」
俺は言った。
「死にかけるたびに、強くなった。ルーミアで、チルノで、美鈴で、咲夜で、パチュリーで」
すべての戦いが、俺を成長させた。
すべての敵が、俺に何かを教えてくれた。
「……まぁ。そうはいっても、美鈴戦が一番でかかったけどな」
「……そうか」
魔理沙は、複雑な表情を浮かべた。
眉を寄せ、口元を歪め、どこか寂しそうな顔。
「なんか、お前と一緒に戦ってきた気がしねぇな。私は地下で圧倒されてて、お前は次々と敵を倒してた」
「何言ってんだ」
俺は笑った。
「お前が時間を稼いでくれたから、俺はここにいる。それは本当のことだ」
それは、本心だった。嘘偽りのない、真実。
魔理沙がいたから、俺は前に進めた。
魔理沙が戦ってくれたから、俺は生きている。
「……ありがとな」
魔理沙は、小さく笑った。
照れくさそうに。だが、嬉しそうに。
「じゃあ、最後まで一緒に行こうぜ。相棒として!」
相棒。
その言葉が、胸に引っかかった。
魔理沙は俺を霊夢だと思っている。だから「相棒」と言っている。
本物の霊夢と、魔理沙の間にあったものを、俺は知らない。四年間会えなかったことは知っている。魔理沙が訪ねても、霊夢は会わなかった。
そんな霊夢と魔理沙が「相棒」だったのかどうかも、俺にはわからない。
ただ、魔理沙がその言葉を選んだことだけは、わかった。
「ああ」
俺は、答えた。
短く。それだけ。
二人は、階段を上り続けた。
そして、最上階に、到着した。
大きな扉が、目の前にあった。
豪華な、赤い扉。深紅の、血のような赤。金の装飾が施されている。蝙蝠の紋章。薔薇の意匠。
扉の向こうから、気配が感じられた。
強大な、圧倒的な気配。
これまで感じたことのないような、圧力。
まるで、太陽に近づいているかのような。いや、ブラックホールに近づいているかのような。
「……いるな」
俺は呟いた。喉が、渇いていた。
「ああ」
魔理沙も頷いた。その顔には、緊張が浮かんでいた。
「行くぞ」
俺は扉に手をかけた。
冷たい感触。金属の、冷たさ。
そして――押し開いた。
重い扉が、ゆっくりと開いていく。
扉の向こうは――
広大な部屋だった。
いや、部屋というより、謁見の間のような空間。王の間のような、荘厳な空間。
天井は高く、何十メートルもある。シャンデリアが吊るされている。巨大な、水晶のシャンデリア。何百本という蝋燭が、炎を揺らしている。
床には赤い絨毯が敷かれている。ビロードのような、高級な絨毯。
壁には絵画が飾られている。肖像画。風景画。どれも古く、価値のあるものだろう。
そして、部屋の奥には――
巨大な窓があった。
ステンドグラスの、美しい窓。だが、今は紅い霧に覆われている。
紅い霧に覆われた空が、見える。
月が、見える。
紅く染まった、満月が。
まるで、血のような月。不吉な、禍々しい月。
そして、窓の前に、一人の少女が立っていた。
いや、立っているというより、浮いていた。わずかに、地面から離れて。重力を無視して。
小柄な少女だった。
身長は、150センチもないだろう。子供のような体格。華奢で、脆そうな身体。
ピンク色のドレスを着ている。フリルのついた、可愛らしいドレス。
そして、頭には白の強いピンク色のナイトキャップを被っていた。リボンのついた、愛らしいナイトキャップ。まるで、寝室から出てきたかのような、リラックスした装い。
だが、その存在感は――圧倒的だった。
空気が、重い。呼吸するたびに、肺が圧迫される。
呼吸が、苦しい。酸素が薄いかのような。
まるで、深海にいるかのような圧力。いや、深海以上だ。
少女は、こちらに背を向けていた。
月を見上げながら。紅い月を。
「……」
俺と魔理沙は、黙って立っていた。
言葉が、出なかった。声が、出なかった。
この少女から感じる気配は、これまでの誰とも違った。
ルーミアとも、チルノとも、美鈴とも、咲夜とも、パチュリーとも。
格が、違う。
次元が、違う。
まるで、別の生き物のような。
「ようやく、来たのね」
少女は、静かに言った。
背を向けたまま。月を見上げたまま。
その声は、幼い。子供のような、高い声。可愛らしい声。
だが、同時に――威厳があった。
何百年も生きてきた者の、重みがあった。権力者の、貫禄があった。
「私の館を、ここまで荒らしてくれたのね」
少女は、ゆっくりと振り向いた。
その動作は、優雅だった。まるで、舞踏会で踊るかのような。
その顔が、見えた。
美しい顔だった。
人形のように整った、完璧な顔立ち。白い肌。滑らかな肌。
水色の混じった青い髪。サラサラとした、絹のような髪。
赤い瞳。血のような、真紅の瞳。深淵のような、底知れぬ瞳。
そして――
口元に、牙が見えた。
鋭い、肉食獣のような牙。獲物を引き裂くための、牙。
吸血鬼。
「レミリア・スカーレット」
少女は、自己紹介した。
名前を告げる。堂々と、誇らしげに。
「この紅魔館の主。そして――」
微笑んだ。
冷たく、残酷な微笑み。獲物を見つけた捕食者の、微笑み。
「この異変を起こした張本人よ」
「……やっぱり、お前か」
魔理沙が呟いた。
「紅い霧。太陽を遮る霧。吸血鬼なら、当然の発想か。」
「ええ」
レミリアは頷いた。
「太陽は、私たち吸血鬼の敵。灼熱の、憎むべき敵。だから、遮った。簡単なことよ」
その口調は、あまりにも軽かった。まるで、ゴミを捨てたかのような。
「簡単……だと?」
俺は言った。
怒りが込み上げてくる。胸の奥から、熱いものが湧き上がってくる。
「言ってくれる……お前のせいで、人里の人間が苦しんでるんだぞ!!」
「知ってるわ」
レミリアは平然と言った。
表情一つ変えずに。
「作物が育たない。寒くなる。病気が増える。餓死する者も出るでしょうね。」
「知ってて……!」
「ええ、知ってて」
レミリアは冷たく言った。
まるで、他人事のように。
「でも、それがどうしたの?」
その言葉に、俺は絶句した。
言葉が、出なかった。
「人間の苦しみなんて、私には関係ないわ」
レミリアは続けた。
その声には、一切の感情がなかった。共感も、罪悪感も、何もない。
「私は吸血鬼。人間とは、種族が違う。次元が違う」
赤い瞳が、俺たちを見る。
冷たく、無機質に。まるで、物を見るかのように。
「あなたたちは、家畜の苦しみを考える?食べる前に、牛や豚の気持ちを考える?」
「……それとは、違う……」
「同じよ」
レミリアは断言した。
「私にとって、人間は家畜。血を吸う対象。それ以上でも、それ以下でもない」
そして、首を傾げた。
「そうね、例えば――あなたは今まで食べてきたパンの枚数を覚えてるの?」
「……覚えてない」
「でしょう」
レミリアは言った。
「同じことよ。私も、今まで吸った人間の血の数なんて、覚えてない」
その言葉に、背筋が凍った。
「何人殺したかも、覚えてない。何百人か、何千人か。もしかしたら、万を超えてるかもしれない」
レミリアは平然と言った。
「でも、それがどうしたの?パンを何枚食べたか覚えてないのと、同じことよ」
「……」
俺は、黙って聞いていた。
反論しようとした。だが、言葉が出てこなかった。
論理として崩せない、という意味ではない。
ただ、この相手に言葉が通じる気がしなかった。
「……話が通じない。」
魔理沙が静かに言った。怒鳴らなかった。ただ、確認するように。
「ああ」
俺も頷いた。
「通じる必要はないわ」
レミリアは笑った。
楽しそうに。心から。
「私は、私のやりたいようにやる。それだけ。誰にも止められない。誰にも文句を言わせない」
そして、窓の外を見た。
紅い月を。血のような月を。
「こんなに月も紅いから――」
レミリアは呟いた。
その声に、愉悦が滲んでいた。歓喜が、滲んでいた。
「本気で殺すわよ」
振り向く。
赤い瞳が、殺意に染まる。純粋な、殺意に。
「楽しい夜になりそうね。久しぶりに、本気で戦える相手が来た!」
瞬間――
レミリアの姿が、消えた。
いや、消えたわけではない。動いたのだ。人間には見えない速度で。
「ッ!?」
俺は反射的に横に跳んだ。
本能が、危険を察知した。身体が、勝手に動いた。
直後、俺がいた場所を、レミリアの手が通過した。
鋭い爪が、空気を切り裂く。風が、頬を撫でる。
もし避けていなければ、首が飛んでいた。
「速い……!」
魔理沙が叫んだ。
そして、八卦炉を構える。両手で、しっかりと。
「はぁっ!!!」
レーザーが、レミリアに向かって放たれた。
虹色に輝く、圧倒的な光の奔流。
「遅いわ。」
レミリアは、レーザーを避けた。
ただ、身体を傾けただけ。最小限の動きで。余裕を持って。
レーザーは、明後日の方向に飛んでいった。壁を貫通し、しばらくして爆発した。
「くそっ!」
俺は御札を投げた。
複数の札を。十枚以上。レミリアに向かって。
霊力を込めた、光る札を。
「無駄よ」
レミリアは手を振った。
ただ、それだけ。片手を、軽く振っただけ。
札が、すべて弾かれた。
まるで、虫を払うかのように。紙切れを払うかのように。
札は床に落ち、光を失った。
「……くっ!」
魔理沙が呟いた。
信じられない、という顔で。
「避けられた……あんなに簡単に……」
「あなたたちは、確かに強いわ」
レミリアは言った。
認めるように。だが、同時に見下すように。
「咲夜を倒し、パチュリーを倒した。それは、評価する。彼女たちは優秀だもの」
「けど…私には、勝てない」
レミリアは断言した。
絶対的な自信を持って。
「私は、紅魔館の主。五百年以上の歳月を生きる、吸血鬼。スカーレット家の当主」
赤い瞳が、輝く。
「格が、違うのよ。次元が、違うのよ」
瞬間――レミリアが動いた。
光速で。いや、光速を超えて。
「はっ………」
俺は咄嗟に防御した。
霊力を展開し、バリアを張る。全身を覆う、虹色のバリア。
レミリアの拳が、バリアに激突した。
ドガン、という衝撃。
空気が爆発したかのような音。
「ぐっ……!!」
バリアが、砕けた。
霊力で作ったバリアが、一撃で砕けた。
そして、レミリアの拳が、俺の腹に叩き込まれた。
「がっ……!」
身体が、吹き飛んだ。
まるで、砲弾のように。
壁に激突する。石の壁が、ひび割れる。
「霊夢!」
魔理沙が叫んだ。
そして、レミリアに向かって突進する。箒を構えて。
だが――
「甘い」
レミリアは、魔理沙の攻撃を避けた。
紙一重で。余裕を持って。
そして――
反撃した。
「ぎゃっ!!」
魔理沙の身体が、天井に叩きつけられた。
石の天井が、砕ける。破片が降り注ぐ。
「くそ……」
俺は立ち上がった。
よろめきながら。
痛い。全身が、痛い。腹が、潰れたかと思った。
だが、戦わなければ。ここで倒れるわけにはいかない。
「二人がかりで来なさい」
レミリアは言った。
余裕の表情で。楽しそうに。
「それでも、勝てないでしょうけど。でも、せめて楽しませてちょうだい」
「……上等だ」
俺は構えた。
御札を握りしめる。
魔理沙も、立ち上がる。血を吐きながら。
「行くぞ、霊夢!」
「ああ!」
二人は、同時に動いた。
左右から、レミリアを挟み撃ちにする。
俺は右から。魔理沙は左から。
同時に、攻撃する。
「やっぱり、遅い」
レミリアは、両方の攻撃を避けた。
上に跳んで。軽々と。
「そぉれっ!」
空中で、二人を同時に蹴り飛ばした。
「ぐっ!」
「がっ!」
二人とも、吹き飛ぶ。
床を転がる。血が、床を汚す。
「これが、吸血鬼の力よ。」
レミリアは笑った。
愉快そうに。心から楽しそうに。
「楽しませてくれるかと思ったけど――」
失望したように、首を振る。
「期待外れね。もっと、強いと思ったのに。これじゃあ、弾幕を撃つ程度もない。」
「……まだだ」
俺は立ち上がった。
血を吐きながら。よろめきながら。
「まだ、終わってない」
「そうね」
レミリアは頷いた。
「まだ、死んでないものね」
そして――
「なら、殺してあげるわ。」
レミリアの姿が、消えた。
「…!」
俺は身構えた。
どこから来る。
上か。下か。左か。右か。
「――後ろよ」
声が、耳元で聞こえた。
「!!?」
振り向く暇もなかった。
レミリアの拳が、俺の背中に叩き込まれた。
「うっ!!」
身体が、前に吹き飛ぶ。
床に叩きつけられる。顔面を強打する。鼻が折れた。血が噴き出す。
「霊夢!」
魔理沙の叫び声が聞こえた。
だが、レミリアは止まらない。
「次!」
俺がまだ倒れている状態で、レミリアの足が俺の腹を踏みつけた。
「ぐぁぁぁっ!!」
内臓が圧迫される。胃液が逆流する。血を吐く。
「立ちなさい」
レミリアは命令した。
「まだ死んでないでしょう?もっと楽しませなさい」
「くそ……」
俺は立ち上がろうとした。
だが、身体が動かない。痛みで、動かない。
「……あの野郎……!霊夢からどけぇぇぇ!!」
「ん?」
魔理沙のレーザーが、レミリアに向かって飛んでくる。
「邪魔」
レミリアは、レーザーを手で掴んだ。
掴んで、捻じ曲げた。
レーザーが、明後日の方向に飛んでいく。
「……なっ……!そんな…!!」
魔理沙の声が、震えていた。
「素手で……捻じ曲げた………?」
「……力がずいぶん落ちてるみたいね。あなたたち、弱いわね。」
レミリアは失望したように言った。
「もっと、楽しめると思ったのに…」
そして――
彼女は言った。冷たく、それでいて全てを押しつぶすような声で。
「つまらない。本当に殺してしまいましょう。」