「行くわよ。」
レミリアが、動いた。
さっきまでとは違った。
俺が掌を押し当てた瞬間から、何かが変わっていた。払う、という余裕が消えた。代わりに、攻撃に確かな意図が生まれた。俺たちを「処理する」のではなく、「当てに来ている」。
御札を投げた。
届かなかった。
軌道が、わずかにずれた。俺が投げた軌道から、数センチ。だが確実に。まるで、俺の攻撃の到達点があらかじめ決まっていて、そこにレミリアが存在しないように。
二枚目を投げた。また外れた。
おかしい。
距離は十分だった。霊力の込め方も、さっきと変わらない。なのに、当たらない。
魔理沙のレーザーも同じだった。放たれた瞬間、レミリアが動く。レーザーが通る場所に、もういない。
「何で当たらない…?」
魔理沙が歯を食いしばりながら言った。
「私のレーザーまで避けた。ノーモーションで撃ったのに…!」
俺も同じことを考えていた。
美鈴の近接は、踏み込みの癖を読んで対応した。咲夜の時間停止は、霊力で予兆を感知した。パチュリーは本を守る制約を突いた。
だがレミリアの場合、攻撃が届く前に場所がない。回避の動作を見てから動いているのではなく、攻撃が来ることを知った上で、最初からそこにいない。
予知、あるいはそれに近い何かだ。
レミリアは俺たちを見ていた。急がない目だった。
「気づいたのね」
俺が考えていたことを、見透かしたように言った。
「当たらない理由」
「………ちょっとは。」
「あなたの攻撃が届く前に、あなたたちの動きが見える。だから、そこにいなければいい」
レミリアは平然と言った。
「未来が、見えるの。正確には、起こりうることの筋道が。あなたがどこを狙うか。どう動くか。だから、避けられる」
「……」
「運命を操るとでも言えばいいかしら。この力も、私が完全に理解しているわけじゃないけれど」
俺は、その言葉を頭の中に落とした。
完璧に理解していない、と言った。つまり、見えない筋道がある。
完璧ではない、と言った。
それは、見えない未来があるということだ。
「魔理沙」
俺は声をかけた。
「なんだ。」
魔理沙は側面から弾幕を展開しながら答えた。消耗が見えた。弾幕の密度が、最初より落ちていた。
「一つだけ試したいことがある」
「何だ」
「俺が決めずに動く。考えずに、身体だけで動く。運命を見るなら、俺自身が決めていない動きは読めないはずだ。」
魔理沙は少し間を置いた。
「……できるのか、そんなこと」
「わからない。だが、やる。やるしかない。」
俺は御札を全部手に持った。全部で八枚。残りのすべてだ。
考えるのをやめた。
次にどこへ動くか、決めなかった。レミリアのどこを狙うか、決めなかった。ただ、霊力を全身に巡らせて、身体の動くままに任せた。
この身体は霊夢のものだ。
霊夢の反射が、霊夢の本能が、この身体に染み込んでいる。俺の意思ではなく、霊夢の積み重ねが動く。
身体が、跳んだ。
右斜め前に。考えていなかった方向に。
御札が、手から離れた。俺が投げたというより、手が勝手に離した。
「——」
レミリアが、大きく動いた。
かわした。だが、かわすことに意識が向いた一瞬、魔理沙のレーザーが走った。
レミリアの右肩を、かすめた。
深くはない。だが、当たった。
沈黙があった。
レミリアは自分の肩を見た。焦げた布地。わずかな痛みがあったはずだった。
「よし……」
「……面白い」
今度の言葉には、温度があった。さっきまでとは違う、純粋な驚きが混じっていた。
「考えずに動いた。だから、見えなかった」
レミリアは俺を見た。
「あなたは、自分の身体を信頼したのね」
「霊夢の身体を、だ」
俺は答えた。
レミリアは少し間を置いてから、笑った。
「なるほど」
そして、手を上げた。
「だけど、それも限界があるわ」
無数の紅い槍が、空間に生まれた。
グングニル。
槍が飛んできた。俺は考えずに動いた。身体に任せた。一本をかわした。二本目が来た。かわした。だが、三本目が来た時、身体の反応が間に合わなかった。
脇腹をかすめた。深くはない。服が裂け、皮膚が切れた。
「…!」
「消耗が、限界に近いようね。」
レミリアは見抜いていた。
「身体の反応が、遅くなっている。霊力が、底をつきかけている。」
正確だった。
俺の霊力は、確実に減っていた。傷の止血に使い、筋肉の補強に使い、時間停止の感知に使い、霊力の放出に使い、ここまでの戦いで消耗し続けていた。
それでも、まだある。
「魔理沙!」
「わかってる!」
魔理沙が八卦炉を構えた。両手で、しっかりと。最後のマスタースパークを撃つ構えだった。
「もう一度だ。俺が前に出る。お前は後ろから撃て!」
魔理沙は一秒だけ俺を見た。
「……ああ」
俺は全速力で前に出た。
レミリアが槍を生成し始めた。俺の動きを読んで、俺の到達点に向けて。
だが俺は、到達点を決めていなかった。
身体に任せて、直前に向きを変えた。槍が、俺がいた場所を通過した。
レミリアのすぐ前に、出た。
「——」
その瞬間、魔理沙のレーザーが放たれた。
俺はレミリアの真横に跳んだ。レーザーがレミリアに向かって走る。
レミリアは上に動いた。
レーザーが脇をかすめた。完全には避けられなかった。光がレミリアのドレスの裾を焼いた。
俺は着地した。膝が折れそうになった。霊力で堪えた。
部屋に、沈黙があった。
魔理沙も動きを止めていた。三人とも、しばらくその場にいた。
レミリアは焼けた裾を見ていた。それから、俺を見た。
「二発、当てた」
静かな声だった。
「最初の掌と、今のレーザー。二回、私に届かせた」
「それでも、倒せてない………まだ遠い…!」
「ええ」
レミリアは頷いた。
「でも」
レミリアの表情が、少しだけ変わった。何かを考えているような間があった。
「……久しぶりに、当てられたわ。」
その言葉は、独り言のようだった。俺たちに向けたというより、自分自身に確認するような。
そして、手を上げた。
紅い光が集まり始めた。
(………まずいな。あれは避けられない…)
その時、扉の音がした。
咲夜が、そこにいた。
壁に手をついて立っていた。白いメイド服に血の滲みがある。左腕が動かせない様子だった。顔色が、俺や魔理沙の比ではなかった。唇に血の気がなく、呼吸するたびに胸が引きつるように上下していた。俺も喉に違和感があった。だが咲夜のそれは、次元が違った。
今日だけ霧を吸った俺たちと、霧が発生してからずっとこの空気の中にいた咲夜では、蓄積の量が違いすぎたのだろう。
「……起きたの」
レミリアは咲夜を見た。驚きが顔に出ていた。「こんなに早く」という驚きだった。
「ええ」
「ちょうどよかった。片付けを頼もうと思っていたところ」
咲夜は答えなかった。
部屋に入ってきた。倒れている俺と魔理沙の間を通り過ぎた。足元がわずかに乱れていた。それでも、まっすぐ歩いた。
レミリアの前まで来て、止まった。
「一つ、訊いてもいいですか」
「何?」
「霧を放つ前、なぜ私に何も言わなかったのですか。人間の身体には有害だと、分かっていたはずです。」
レミリアは間を置いた。一瞬だけ。
「……思いつかなかったわ」
その答えは短かった。隠してもいなかった。悪意もなかった。
ただ、思いつかなかった。
私の身体のことが、頭になかった。
「……そうですか」
咲夜は俯いた。
しばらく、何も言わなかった。
俺は床から、その様子を見ていた。立ち上がれなかった。霊力がほとんど残っていなかった。魔理沙も、咲夜の動きを黙って見ていた。
「咲夜、早く」
レミリアが促した。
「……できません」
「は?」
「もう、従いません」
咲夜は顔を上げた。
レミリアを、真っ直ぐに見た。俯かずに。視線を逸らさずに。
「この異変を止めてください」
「……咲夜」
レミリアの声のトーンが、落ちた。
「私に逆らうつもり?」
「逆らうのではありません」
咲夜は首を振った。
「ただ、もう従わないだけです。私はあなたの道具では、ありませんから」
レミリアは黙った。
部屋が静かになった。蝋燭の炎だけが揺れていた。
「いらないなら、他を探す」
レミリアは言った。静かに。怒鳴らなかった。
「それだけよ」
静かだったから、重かった。本気だった。代わりを探せばいい、と本当に思っている声だった。
「……そうですか」
咲夜はナイフを一本、取り出した。
「ならば、私はお嬢様と戦います」
「本気?」
「はい」
「私に、勝てると思って?」
「思っていません。こちらは満身創痍ですので。」
咲夜は答えた。
「ただ、この異変が終わるまで、立ちます」
レミリアはしばらく咲夜を見ていた。
それから、何かが変わった。
怒りではなかった。侮りでもなかった。
「……」
レミリアは手を下ろした。
紅い光が、消えた。
「わかったわ」
その声は、さっきまでと少し違った。
「異変は、止める」
部屋に、沈黙があった。
「……え?」
魔理沙が、声を漏らした。
「聞こえなかった?」
レミリアは繰り返した。
「異変は、止める。霧を晴らす」
「…な、なんで…急に…」
俺は聞いた。床から、かすれた声で。
「あなたたちが倒したからよ」
レミリアは俺を見た。
「咲夜もパチュリーも美鈴も倒した。私にも二発当てた。それで十分」
「十分、って」
「…本当はね、私はただ、退屈だったのよ」
レミリアは窓の外を見た。紅い月を見た。
「何百年も生きると、本気で動ける理由が減っていく。久しぶりに、誰かが私に触れた。それで十分よ」
「……そんな理由で、異変を起こしたのか」
「そんな理由よ」
レミリアはあっさりと言った。
「あなたたちからすれば、最低の理由でしょうね。でも、私にとってはそういうことよ」
俺は何か言おうとした。怒りが来なかったわけではない。人里の人間が苦しんでいた。それは事実だ。
だが、言葉が出る前に、別のことを考えていた。
咲夜が、主に逆らった。
それで、レミリアが止めた。
俺たちが二発当てたことも、理由の一つかもしれない。だが、咲夜が立ったことが、何かを動かした。
レミリアにとって、咲夜が逆らうことは「想定外」だったはずだ。運命を見ても、そこは見えなかったのかもしれない。
「咲夜」
俺は咲夜を見た。
「お前が立ったから、きっと終わった」
咲夜は俺を見た。しばらく黙っていた。
「……そうかもしれません」
その声は、静かだった。
レミリアは窓に向かって歩いた。ゆっくりと。
「咲夜」
レミリアは窓に向かって歩きながら、咲夜を一瞥した。その目が、一瞬だけ止まった。唇の青さ。引きつるような呼吸。霧が発生してからの日数を、レミリアは瞬時に計算したのだろう。
「下がっていなさい。霧は私が晴らす。」
それから、静かに付け加えた。
「霧が晴れたら、妖精メイドに竹林の医者を迎えに行かせるわ。あなたはそれまで動かないで。」
命令口調だった。だが、その言葉の向かう先は、咲夜の身体だった。
「……はい」
咲夜は答えた。従う声だった。だが、さっきまでとは少し違う従い方だった。
レミリアは窓の前に立った。手を上げた。
紅い霧が、ゆっくりと動き始めた。
窓の向こうで、霧が薄まっていく。
日が、少しずつ本来の色を取り戻していった。
俺は床に座ったまま、その様子を見ていた。
立ち上がれなかった。霊力が空に近かった。身体中に、戦いの痕跡が残っていた。
隣に、魔理沙が座ってきた。
「終わったな」
「ああ。……倒してはいないがな。」
魔理沙はしばらく黙っていた。
「お前、今日、初めて飛んだんだよな」
「そうだ。(…俺は何回、今日それを言われればいい?)」
「……それで、ここまで来たんだな」
「霊夢の身体が、来た」
「……お前は本当に、変なことを言うな」
魔理沙は笑った。笑いながら、少し痛そうに顔をしかめた。
「ふっ。」
俺は窓の外を見た。
陽光が、一気に差し込んでくる。紅く染まっていた世界が、本来の色を取り戻していった。見上げれば、真昼の青い空があった。霧がなければ、とうに昼を過ぎていたのだ。
「霊夢」
魔理沙が、また口を開いた。
「四年間、会えなかった。お前が引きこもってた間、何度か来たけど会えなかった」
「知ってる」
「……ちょくちょく神社に、邪魔するよ。いいかな。」
その言葉は、静かだった。確認するような声だった。
「ああ」
俺は答えた。
答えてから、少し胸が痛んだ。
魔理沙が来ることを望んでいるのは、本物の霊夢だ。俺ではない。俺が「ああ」と言っていいのかどうか、わからなかった。
でも、言った。
霊夢の代わりに、霊夢がそう思うだろうと思って、言った。
「……ありがとな」
魔理沙は小さく言った。
俺は答えなかった。
霧が、晴れていった。