異変は、解決した。
霧が晴れ、太陽が戻った。それだけの話のはずだった。だが、幻想郷はそうは受け取らなかった。
「号外!号外!博麗の巫女、紅魔館の吸血鬼を撃破!」
天狗の新聞記者、射命丸文が書いた記事が、幻想郷中に広まった。瞬く間に、すべての場所に。里の掲示板に貼られ、妖怪たちの間で回し読みされ、あっという間に誰もが知る話になった。
その記事は、かなり脚色されていた。
『博麗の巫女、霊夢。四年間の沈黙を破り、ついに覚醒!その力は凄まじく――五百年を生きる吸血鬼、レミリア・スカーレットを、圧倒的な力で打ち倒した!その戦いは壮絶を極め、紅魔館は崩壊!幻想郷を覆っていた紅い霧は消え去り、太陽が戻った!まさに、博麗の巫女の面目躍如!幻想郷の守護者としての力を、見せつけた!』
圧倒的に、とある。必死に足掻いた末、の結果だったのに。
「圧倒的、ねぇ」
俺は縁側で新聞を読みながら、乾いた声で呟いた。あの時の記憶が、いくつも蘇る。膝が笑いそうになったこと。指先の感覚が薄れていったこと。霊力が空に近づいて、視界の端が滲んでいたこと。あれのどこが「圧倒的」なのか、俺にはよくわからなかった。
人里では、祝福の声が上がっていた。
「博麗の巫女様が戻ってきた!」
「四年間待った甲斐があった。」
「これで、また安心して暮らせる!」
人々が称えているのは、「博麗霊夢」だ。
俺じゃない。
でも、俺は霊夢だ。この身体も、この力も、この名前も。
その「博麗霊夢」を作ったのは、俺じゃない。霊夢が積み上げてきたものがあったから。四年間引きこもりながらも、ここに神社を守り続けた霊夢がいたから。
博麗神社の縁側で、俺は新聞を読んでいた。
文が書いた、脚色だらけの新聞を。何度も読み返して、そのたびに何とも言えない気持ちになった。読むほどに、書かれている「博麗霊夢」の像と、自分の記憶にある実際の戦いとの間に、埋めようのない隙間があるのを感じた。
全部、霊夢の話だ。
俺のことではない。俺がどれだけ血を吐いても、死にかけても、霊力を絞り尽くしても、それは全部「博麗霊夢の武勇」として記録されていく。
それで、いい。それが正しい。
俺はこの名前を借りている。霊夢のものを使わせてもらっている。称えられるべきは、この身体に刻まれた霊夢の力だ。
新聞を畳んで、縁側の板に置いた。木目の上に、日差しが縞模様を描いていた。四年ぶりに人が手を入れた庭は、まだあちこち荒れたままだった。それでも、以前よりは幾らか、神社らしい輪郭を取り戻しつつあった。
「……お前が解決した異変だ、霊夢」
空を見上げながら呟いた。風が、緩やかに吹いていた。木々の梢が擦れ合う音が、遠くから届いた。
返事はない。当然だ。
ただ、風が動いた気がした。
「……」
ふと、霊夢の記憶の中にある人物の姿が浮かんだ。
黄色の長い髪。扇子を持った、優雅な妖怪。引きこもっていた霊夢の神社に、何度も訪れていた存在だ。扉越しに、声をかけ続けていた。「霊夢、元気にしてる?」「無理しなくていいのよ」と。記憶の中のその声は、いつも柔らかく、それでいてどこか諦めきれない響きを持っていた。
俺が転生してからというもの、姿を現さない。気配は感じる。神社の周りに、時々。木々の隙間、参道の陰、そういう場所に、ふとした瞬間だけ滲むように。だが、来ない。
霊夢の変化に、気づいていないはずがない。あれほど霊夢を知っていた存在が。
なぜ黙っているのか。今はわからない。だが、敵ではないと思う。少なくとも、霊夢の記憶の中のその妖怪は、そういう存在ではなかった。
その妖怪が動くなら、その時に話せばいい。今の俺には、考えるべきことが他にもたくさんあった。
*****
数日後。
俺は境内を掃いていた。箒を動かしながら、落ち葉を集めていた。
四年間放置されていた神社は、あちこちが傷んでいた。賽銭箱の角は欠け、鳥居の朱色は所々剥げ落ち、石段の隙間からは雑草が我が物顔で伸びていた。だが、毎日少しずつ手を入れると、少しずつ戻っていく。庭石の並びを整え、蜘蛛の巣を払い、傾いた灯籠を立て直す。地道な作業だったが、不思議と苦にはならなかった。
霊夢が愛した場所だ。きちんと守らなければならない。
腹の傷は、まだ完全には塞がっていなかった。動くたびに、皮膚の下で小さく引き攣る感覚がある。だが、それも日ごとに薄れつつあった。霊力を通して確かめると、傷口の奥はもう熱を持っていない。あとは時間の問題だった。
箒を動かす手を止め、俺は自分の掌を見た。細く、白い、霊夢の手。マメができかけていた。四年間、家事すらまともにしていなかったはずのこの手に、少しずつ「働く手」の感触が戻ってきている気がした。
「霊夢ー!」
参道の方から、声がした。
魔理沙が箒に乗って上ってくる。あれから傷も治って、すっかり元に戻っていた。左腕を無造作に振り回しながら着地する様子を見て、俺は少しだけ安堵した。焼け焦げていたあの腕が、今はもうきちんと動いている。それでも、袖をまくった時、肘の少し上に、うっすらとした痕が残っているのが見えた。完全には消えないものらしい。
「よう、霊夢。元気か」
「ああ」
俺は箒を壁に立てかけながら答えた。
「腕、平気なのか」
「ん、ああ。これか」
魔理沙は自分の左腕を軽く振ってみせた。
「痕は残ったけどな。動きに支障はねえよ。お前が下手な止血してくれたおかげで、悪化せずに済んだ」
「下手で悪かったな」
「褒めてんだよ、これは」
魔理沙は笑いながら、境内に降り立ち、懐から封筒を取り出した。高級そうな封筒だった。紅い封蝋がしてあり、蝙蝠の紋章が刻まれていた。手渡す仕草に、いつもの軽さとは違う、僅かな緊張が見えた。
「お前宛てだ。咲夜が持ってきた。真剣な顔してたぞ」
俺は封を開けた。中には、流麗な筆跡の便箋があった。整った文字が、几帳面に並んでいる。長く生きてきた者特有の、古めかしくも品のある筆致だった。
『博麗の巫女、霊夢殿。まず、感謝と謝罪を。
貴女は、私と向き合ってくれた。咲夜もパチュリーも美鈴も倒し、私にまで届かせた。五百年生きてきて、人間にそこまでされたのは初めてだった。その事実を、私は素直に認める。
この恩は、永劫忘れることはない。吸血鬼は、恩を忘れない種族だ。貴女が困った時は、いつでも紅魔館の扉を叩きなさい。これは、レミリア・スカーレットの名において誓う。
そして、紅霧異変を起こしたことを、心から謝罪する。人間を苦しめた。作物を枯らし、病を広めた。できる限りの償いをするつもりだ。人里への物資支援は、すでに始めている。
それから、咲夜のことについても。
私は、愚かだった。咲夜が私を想ってくれていたことに、気づいていなかった。咲夜を人間として見ていなかった。それがどれほど残酷なことか。咲夜が私に逆らった時、初めてわかった。あの時の痛みは、五百年生きてきて、初めて感じたものだった。主に逆らうほどの想いを、私は長い間見えていなかった。
今度こそ、咲夜を大切にする。誓う。
さて、本題だ。
私の妹について、話さなければならない。
フランドール・スカーレット。私のたった一人の妹だ。彼女は強大な破壊の力を持っているが、制御できない。そのため、私は妹を地下室に閉じ込めていた。四百九十五年間。
だが、館が崩壊した際、その封印が解けてしまった。妹が外に出た。四百九十五年ぶりに。
妹は今、暴れている。閉じ込められていた反動で。美鈴が妹の攻撃を受け、重傷を負った。命は取り留めたが、予断を許さない状態だ。
私と咲夜とパチュリーだけでは、妹を止められない。妹は、私以上に強い。
だが、傷つけたくない。殺したくない。四百九十五年間閉じ込めていたのは、私の罪だ。妹の人生を奪ったのは私だ。だから、妹を傷つける権利は私にはない。
そこで、貴女に頼みたい。妹を止めてほしい。傷つけずに。
貴女なら、できると信じている。五百年生きた私に届かせた貴女なら。
報酬は、何でも出す。
紅魔館があった場所で、待っている。
レミリア・スカーレット』
読み終えて、俺はしばらく黙っていた。
便箋を持つ手が、僅かに震えていた。感謝と謝罪は、誇り高い言葉で書かれていた。後悔が、決意が、滲んでいた。レミリアという存在の重さが、文字の一本一本に宿っているようだった。あの、どこまでも超然としていた吸血鬼が、これほどまでに率直な言葉を紙に落とし込んでいる。その落差だけで、事の重さが伝わってきた。
「四百九十五年か」
その数字を、口の中で転がした。何度繰り返しても、実感の湧かない長さだった。四年間の孤独ですら、霊夢にとってどれほど重かったか、俺にはまだ推し量りきれていない。その百倍以上の年月を、地下の暗闇の中で過ごした少女がいる。
七歳の時から、ずっと。地下に閉じ込められていた妹。レミリアなりの理由があったのだろう。妹が暴走すれば、幻想郷が壊れる。それを防ぐための判断だったのだろう。
だが四百九十五年間閉じ込めること自体が、妹を傷つけていたんじゃないのか。
わからない。俺には、わからない。レミリアが何を試して、何を諦めたのかを、俺は知らない。姉妹の間にしかない歴史が、そこには積み重なっているはずだった。部外者の俺が軽々しく裁ける話ではない。
今更責めても、仕方ない。レミリアはすでに後悔している。問題は、今どうするかだ。
俺は手紙を、もう一度読み返した。
「傷つけずに」という一文に、視線が留まった。強さを示す言葉ではなかった。むしろ、弱さを晒すような懇願だった。あの誇り高い吸血鬼が、これほどまでに素直に頭を下げている。それだけで、事態の切実さが伝わってきた。
「魔理沙」
「ん?」
「行くぞ」
「……紅魔館に?」
「ああ。美鈴を助ける。それから、フランドールっていう奴を止めなくちゃいけない」
魔理沙は少し黙った。腕を組み、視線を地面に落として、何かを考えるような間があった。それから、頷いた。
「私も行く」
「いいのか」
「当たり前だろ」
魔理沙は笑った。焼け焦げていたはずの左腕を、確かめるように軽く振ってから。
「友達だろ?」
その言葉が、胸に刺さった。
魔理沙は俺を霊夢だと思って言っている。霊夢の友達として。霊夢の相棒として。その言葉を、俺が受け取っていいのかどうか、わからなかった。
でも、今は受け取るしかない。霊夢の代わりに、俺が受け取るしかない。
「ああ」
俺は言った。
「友達だ」
手紙を懐にしまった。大切に、丁寧に。折り目をつけないよう、慎重に畳んで。
境内を見渡した。まだ手入れの途中だった庭。傾いたままの灯籠。剥げかけた鳥居の朱。全部、いずれ終わらせなければならない仕事だった。だが、今はそれよりも優先すべきことがある。
霊力を足に集中させる。気を巡らせる。今や、当たり前のように身体が応える。四日前は、飛ぶことすらできなかった。今は、その動作に迷いがなかった。積み重ねというものの意味を、俺は身体で理解し始めていた。
「行くか」
二人は、空へと飛び立った。
眼下に、博麗神社の屋根が遠ざかっていく。まだ傷んだままの、それでも確かに息を吹き返しつつある、霊夢の場所が。
紅魔館の方角へ、二人は真っ直ぐに向かった。