「この異変を、止めます!!」
咲夜が、レミリアに向かって突進した。
ナイフを構えて。両手に、複数のナイフを握りしめて。震える身体で。満身創痍の、血まみれの身体で。だが、その目には決意が宿っていた。迷いがなかった。後悔もなかった。
レミリアは、ため息をついた。
深く、長く。
「……そう」
その声は、冷たかった。だが、どこか疲れていた。
「レッドマジック」
レミリアは宣言した。
その手が、赤く光る。血のように。いや、血以上に濃く、深く。禍々しく。
紅い光が、部屋を満たす。
壁が砕ける。天井が崩れる。床が割れる。
すべてを飲み込む光が、爆発した。
「ああああ!」
咲夜の悲鳴が、轟音に掻き消された。
*****
煙が晴れると、部屋はなくなっていた。
壁も、天井も、床も。すべてが、吹き飛んでいた。
外気が、吹き込んでくる。
夜の、冷たい空気が。紅い霧を含んだ、毒の空気が。
レミリアは、空中に浮いていた。
紅い月を背に。血のような、禍々しい満月を。
そして――
咲夜も、空中にいた。
ボロボロの身体で。血まみれの身体で。
だが、まだ生きていた。まだ、意識があった。
「……しぶといわね」
レミリアは言った。
その声に、複雑な感情が滲んでいた。
「でも、もう終わりよ」
レミリアが動いた。
咲夜に向かって。光速で。
咲夜は時間を止めた。
最後の力を振り絞って。
だが、無駄だった。
レミリアは動く。時間停止の世界で。運命を操る者は、時間すら超越する。
「はっ!」
レミリアの拳が、咲夜の腹に叩き込まれた。
「っ!」
咲夜の身体が、上に吹き飛んだ。
血が、空中に飛び散る。
レミリアが追いかける。
連続で攻撃した。
拳を。蹴りを。容赦なく。
「………ぁ……!………がぁ…ぁ……!!」
咲夜は、防御すらできなかった。
一撃一撃が、致命的な威力で。
「はっ!」
最後の一撃。
レミリアの蹴りが、咲夜の身体を下に叩き落とした。
咲夜の身体が、落下した。
瓦礫の山に。崩れた部屋の残骸に。
ドガン、という音。
「……」
咲夜は、もう動けなかった。
身体が、完全に限界だった。
血が、止まらず流れていた。
呼吸が、できなかった。肺が、もう機能していなかった。
意識が、遠のいていた。
「……終わりね」
レミリアは、ゆっくりと降下してきた。
咲夜の前に。
その瞳に、何かが揺れていた。
レミリア自身、気づいていない何かが。
「あなたの能力は、惜しいわ」
レミリアは言った。
本当に、惜しそうに。
「時間を止める力。代わりがいない力。もったいないわね」
そして、手を上げた。
紅い光が集まる。
「さようなら、咲夜」
その声は、冷たかった。
だが、わずかに震えていた。気づかないほど、わずかに。
それがなぜなのか、レミリア自身もわからなかった。
その手が、咲夜の胸を貫いた。
深く。躊躇なく。一瞬で。
「……」
咲夜の口から、血が溢れた。
声も出なかった。
だが、その目は穏やかだった。
後悔はなかった。
ただ、静かだった。
「お…じょ……さ……ま…」
咲夜は、最後に呟いた。
か細い声で。
「私は……間違……っで………い……な……た……」
レミリアは、何も言わなかった。
ただ、見ていた。咲夜の顔を。
手を、引き抜いた。
ゆっくりと。
咲夜の身体が、倒れた。
冷たい石の上に。
血が、流れ出した。
止まらなかった。
「……あなたは、優秀なメイドだった」
レミリアは言った。
その声は、静かだった。
「完璧だった。十数年、私に仕えてくれた」
咲夜の目は、もう焦点が合っていなかった。
そして、静かに閉じた。
「……」
レミリアは、しばらくそこに立っていた。
咲夜を見下ろしながら。
*****
レミリアは、歩き出した。
瓦礫を踏みながら。
霊夢と魔理沙に、近づいていく。
「次は、あの二人ね」
だが――
足が、止まった。
「……?」
なぜ、止まったのか。
自分でも、わからなかった。
振り返る。
咲夜の死体が、見えた。
冷たくなっていく、咲夜の死体が。
「さようなら、咲夜」
さっき、そう言った。
いつも通りに。他の者を殺す時と、同じように。
なぜか、胸が痛い。
五百年生きてきて、感じたことのない痛みが。
何だ、これは。
レミリアは、胸に手を当てた。
心臓の辺りを。
痛い。物理的な痛みではない。だが、確かに痛い。
何かが、締め付けている。
何かが、崩れていく感覚がある。
「……変ね」
レミリアは呟いた。
咲夜の死体を、また見た。
かつての場面が、脳裏をよぎった。
最初に会った夜のことを。
夜の街で。月のない、暗い夜に。
空っぽの目をした少女がいた。生きているのに、死んでいるような目をした少女が。
名前を与えた時、あの少女は泣いた。
嬉しくて、止まらなくて。声を上げて泣いた。
その涙を見た時――レミリアは何を感じたのか。
「……」
思い出そうとした。
だが、思い出せない。思い出したくない気がする。
なぜ。
ハンターが館を襲った時のことを。
咲夜が、杭を素手で掴んだ。
血まみれの手で。
その時、レミリアは叫んだ。
「咲夜!!」と。
その叫び声は、何だったのか。
恐怖か。
咲夜を失う恐怖か。
「……」
レミリアは、また歩き出そうとした。
霊夢と魔理沙に向かって。
だが、また足が止まった。
ある夜、レミリアが傷を負った時のことを。
吸血鬼ハンターとの戦いで、思いのほか深い傷を受けた夜。
咲夜は、ずっと側にいた。
傷が塞がるまで。一晩中、離れなかった。
レミリアが目を覚ますと、咲夜は眠っていた。椅子に座ったまま、疲れ果てて。
その顔が、泣き腫れていた。
自分のために泣いてくれる人間が、いた。
その時、嬉しかったのは事実だ。
いや。
嬉しかっただけか。
本当に、それだけか。
「……なぜ、私の足は止まるんだ」
レミリアは呟いた。
自分自身に問いかけるように。
答えは、わかっていた。
わかっていたから、認めたくなかった。
「……愛して、いた」
声に出してみると、胸の痛みが増した。
五百年生きてきて、初めて感じる痛みが。
咲夜を、愛していた。
能力ではない。道具としてではない。
咲夜という人間を、愛していた。
「……馬鹿みたいね、私は」
レミリアは呟いた。
涙が、出た。
五百年生きてきて、初めて流す涙が。一粒だけ、頬を伝った。
「気づいたのが、遅すぎた」
咲夜の死体を見た。
もう、動かない。
もう、笑わない。もう、話さない。
もう、「お嬢様、日が落ちましたよ」と声をかけてくれない。
永遠に。
「……ごめんなさい」
レミリアは、ただそれだけ言った。
叫ばなかった。
静かに、小さく、それだけ言った。
そして――
霧が、溢れ出し始めた。
レミリアの身体から。
制御できない霧が。感情が、力に変わって。
これまでの霧とは違う。意図して放ったものではない。
痛みが、力に変わっている。
後悔が、霧に変わっている。
止められない。
霧が、どんどん濃くなっていく。
館の残骸を覆い、外に溢れ出し、空に広がっていく。
「やめ……止まれ……」
レミリアは、自分の力を抑えようとした。
だが、できなかった。
感情が溢れている。制御できない感情が。
心が痛い。耐えられないほど痛い。
だが、叫ばなかった。
ただ、霧が出続けた。
静かに。泣くように。
*****
門前。
美鈴は、感じた。
巨大な力を。圧倒的な力を。異常な力を。
館の方から。
だが、力だけではない。
感情を。激しい感情を。制御を失った感情を。
悲しみ。後悔。
そして――痛み。
「お嬢様……?」
美鈴は呟いた。
この力は、お嬢様のものだ。間違いない。
だが、おかしい。
制御されていない。暴走している。
何かが、起こった。
霧が、さらに濃くなった。
急激に。異常なほどに。
これまでとは、比較にならないほどに。
「!?」
美鈴は、目を見開いた。
霧が、視界を覆う。
喉が、焼けるように痛い。
美鈴は妖怪だ。霧程度では、普通は影響を受けない。
だが、この濃さは違う。
これほどの濃度になると、妖怪でも呼吸が苦しくなる。
「まずい……」
美鈴は理解した。
お嬢様が、暴走している。
感情が、力に変わっている。
このままでは――
幻想郷全体が、この霧に飲み込まれる。
館が、さらに崩れる音が聞こえた。
地面が、揺れている。
「……立場がどうのこうの言っている場合じゃない」
美鈴は走り出した。
館に向かって。お嬢様に向かって。
全速力で。気を足に集中させ、人間を超えた速度で。
霧の中を。濃密な霧の中を。
気で霧を払いながら。身体に入らないように、バリアを張りながら。
「お嬢様……!」
美鈴は叫んだ。
「今、行きます……!」
霧の中を、駆け抜けていく。
速く。確実に。
館に向かって。
暴走するお嬢様に向かって。
何が起こったのか、わからない。
だが、お嬢様が苦しんでいることは、わかる。
感じる。あの感情の波を。
だから、行く。
門番として、ではない。一人の妖怪として。
お嬢様の、側にいるために。
紅い月が、すべてを見下ろしていた。
冷たく。無情に。
泣くレミリアを。
霧の中を走る美鈴を。
瓦礫の中に倒れている霊夢と魔理沙を。
冷たくなった咲夜の死体を。
すべてを。
紅い霧が、さらに濃くなっていく。
幻想郷全体を、覆っていく。
異変は、さらに深刻になっていく。
だが、それを止める者は――まだ、いない。