序盤からずっと利用するような施設経営者だけど強キャラに薄目にこやかで見られながら名前を呼ばれて最後に「ですよね?」で締め括られる存在になりたい 作:ブ雨堰ド
そろそろ俺の限界である。
……何がって、記憶力の。
万物に関することもそうだけど、……あの子。……あれ。……そうカズラ君。彼の名前すらわからなくなってきているのは流石にマズい。
顔も完璧に覚えていない。これは厳しい。
ということで、自分だけの書庫のようなものを作ることにした。時間流から切り離された書庫だから、いつアクセスしても大丈夫な感じのやつ。
今回は「──ですよね?」を期待していない、完全に備忘録のための活動である。
で、まぁ作った。建造風景は地味だからカットカット。
カズラ・リアナ君。ジルベルト・ノノフ君。ハナカラ・リンヤン君……etc。
そういやそんな名前だったな、ってなる時と、そう……だっけ……? ってなる時が混在しているけど、これは自動で情報を取得して記録する仕組みにしてあるから間違いは無い。だから『魔女』の子の名前は取得できないワネ。俺が消したから。
そうして完成した書庫なんだけど、ひとつ問題が。
この世界の法則上、結界の外壁は必ず世界に接していないといけない。裡と外を隔てるものだから、その隔てるものが外界と隔たれてちゃダメってことだ。
結界を何重にも重ねることで可能にはなるけど、外側の結界は結局外界に接している必要があるからあんまし意味ない。
で……前回、キロス自治領で、デテラマンド神殿というところの扉の機能保全を行ったことがあった。署長さんに「──ですよね?」されたやつな。
この世界には神が実際にいるせいか、宗教に神が不在であることが多い。ゼルパパムの「人は生まれる前に自分で席を選ぶ」という宗教もそうだし、アスミカタ帝国でも八百万や付喪神的な「長く使い続けたものは力を持つ」みたいな宗教だけが発達していた。
その中で、神殿。当然気になる対象だった。
結論から言うと、キロス自治領民が神を信奉している、ということはなかった。どころか、なぜあそこが神殿と呼ばれているのかもわからないままに使い続けていて、ある日突然扉が開かなくなってしまった、と。管理のおばちゃんはそう言っていた。
扉を開くようにしたあと中を調べて回ったけど、特に何かが隠されているということもなく──ただ、妙な違和感の残る場所ではあったと思う。
だから、思うにあそこは、誰かの結界の外壁なんじゃないだろうか。恐らくもっともっと古い時代、キロスの人々に自身を神だと信じ込ませた存在のいる場所。実際なんらかの恩恵は与えていたんじゃないかな。でないとあそこまで大切にしている理由がわからんし。
デテラマンドは多分古代魔族語の「
話を戻そう。
つまるところ、神殿とか寺院は結界の外壁として優秀だ、ということを言いたかったのだ。もう少し言うと、結界の外壁が風化すると結界も崩れてしまうので、管理人さんがいてくれると大分助かる。よくある誰も知らない山奥の墓から続く大迷宮、みたいなものは、その墓が保全されずに崩壊した時点で全部崩れるってことだ。あれだ、データ圧迫を防ぐ的な。
というわけで、今回作った書庫を成り立たせるために、外壁の外壁及び現実世界の建物も一緒に作ることにした。
陸地だと国土問題が厄介すぎるので公海に島を一つ作り、そこに小屋を建造。船乗りが来てしまっても面倒なので隠蔽系の結界をてんこ盛りにして、波や海流もなんとかこの島を素通りするようにした。……正確に言うと、島にぶつかった波や海流を記憶し、反対側に出力する、という仕組みでステルスを成立させた。昔のSFの光学迷彩みたいなやつね。
ただそれだとドでかい暗礁と変わり無いから、風の類は全部跳ね返している。この島へ向かう風は一つもない。ゼルパパムの外輪船でもない限りここへは辿り着けないヨ。
村を拓くつもりはないのでコンストラクトを稼働させるつもり……なんだけど、動力源がどうしようもないのでちょくちょく俺が行って整備するしかないかなぁ、どうしようなぁ、というところ。魔鉱石は二、三年で尽きちゃうし、魔晶石はもう少し保つけど言うて百年とかそこらだしナー。
この件についてはちょい保留かな。
で。お気付きの方もうんたらかんたら、この書庫の外壁として作った「結界の外壁」は城っぽいデザインの学校……そう、エチェロエグズル教戒院にすることにした。
ローレンスの時に言ったやつね。ローレンス、シュライン・ゼンノーティ、モーガン・カルストラが通っていたとされる教戒院。
これをだーいぶ昔な時代に作り上げたので、今後も魔力マニピュレータを見せてしまった場合はここ出身ということにしていくつもり。『博士の博士』とかもここ出身でよさげ。
……とかって楽しく「過去作り」をしている時のことだった。
外界の小屋に誰か入ってきたことを検知。……侵入者用の云々なんか一切用意してなかったからアレだけど、特に破壊活動とかはしていない感じっぽい。
魔物とかは入れないと思うけど、なんだなんだ、って感じで見に行った先にいたのは、とんでもなく怪我をした、栄養失調と壊血病でぶっ倒れている少年。
漂流……かな? そういうのは俺じゃどうしようもないからなぁ。防ぐって……波が辿り着かないようにするってこと? になっちゃうから。
んもー、身内じゃどうせ「──ですよね?」は発生させられないんだから、変に関わりを持ちたくはなかったんだけど……。
子供に優しいらしいからなー。手当はしてあげますよ、っと。
***
ルヴァン・ジノファ。それが彼の名前である。
物心ついた時にはある海賊のもとで奴隷のような扱いを受けていた。上腕に焼き付けられていた彼の名を示すその文字が、記憶の薄れた家族を思い出させてくれて、それだけを心の支えに生きてきた少年だ。
彼を
人間すら吹き飛んでしまうその暴風は、海賊船の悉くを破壊し……そして彼もまた海へと投げ出される。
幸運だったのは、彼が早々に吹き飛んだマストに頭をぶつけ、気を失っていたことだろう。その後に負った怪我や窒息の苦しみのほとんどを受けることなく──。
気付けば彼は、その島に
「げほ……ぅ……」
生きていたのは奇跡だった。子供ゆえに身体が軽かったからか、それとも別の理由か。
とにかく彼は生き延びて、海水を吐き出し……果ての無い空腹と全身を苛む痛みに呻き声を漏らす。
騒ぎはしない。騒げば待っているのは"懲罰"だけ。だから、しない。
でも、せずとも、もうすぐ死ぬ。それはわかった。
だから……痛む身体に鞭を打って立ち上がる。食料が無いかと探しにいく。
行こうとした。
「……い、え?」
家。家があった。
その周囲には、見たこともない真っ白な魔物がいる。魔物だ。少年に戦闘の心得はない。
あの家は、幻か。砂漠や海で迷った人間が見るという家の幻か。
どちらでもよかったのだろう。たとえあれが害あるものでも、いずれ少年には死が訪れる。であれば幻に包まれて眠りに就いたほうが、まだ
この時の少年はなぜか、魔物に襲われる、という視点を持っていなかった。害意がないことを理解していたのだ。
そうして辿り着く。魔物はやはり、襲ってこなかった。ただじっと少年を見つめるばかりの、天の遣いのような真っ白い魔物。
家に錠は無く……家の中には。
……少年の記憶はそこで途切れている。恐らく体力を使い果たしたのだろう。
再び彼が起きると、そこは記憶の連続を疑うほどに一風変わった場所だった。
パチパチと燃える暖炉の火。初めて触るほどに柔らかなベッド。石造りの天井。
自身の左腕から伸びる管のようなものと──その先端が肌に入り込んでいるのを見て、咄嗟にそれを抜こうとする少年。こうやって生物の肌に潜り込む植物型の魔物がいるのだ。
「抜くな」
しわがれた声が響く。命令口調のその声に染み付いた奴隷根性が従属を選択。ビクっと肩を震わせて停止し、声のした方を見れば。
そこには、椅子に座った老人がいた。
「元気そうで何よりだが、その管はお主の健康を維持するためのもの。役目を終えれば勝手に消える。引っ張ったりなんだりをせずにいるように」
「……あ、の。……ここ、場所。わからない……場所、か?」
言葉を喋る必要も、文字を読み書きする必要もなかった……必要ないとされたから、少年は自身の意思を伝える術をほとんど持っていない。
それでも知っている単語を並べて問いを掛ける。
老人は。
「ここはエチェロエグズル教戒院と言う。……ああ、伝わらんか。安全。場所。休め。面倒を見てやる」
「……金。無い」
「不要だ。子供一人程度どうとでもなる」
この時の少年には場所の名前も子供のあとの言葉も聞き取れなかった。
ただ、彼の声がとても安心できるもので、心和らぐものだったから。
「ありが、とう……ござい、ます」
「礼の意味を知らぬうちに礼などするものではないのだがな。……良い。眠れ」
言葉を聞けば、眠気が湧いてくる。身体の痛みも空腹も消えているが、体力だけはまだ回復していないようだった。
少年は眠りに就く。この全てが幻でありませんようにと願って。
数日後、エチェロエグズル教戒院の廊下をぱたぱたと走る少年の姿があった。
「院長、院長。どこだ」
「廊下を走るな、ルヴァン。ここにいる」
老人に渡された『幼等部の制服』に身を包み、ボサボサだった髪を切って、肌艶も良くなった少年。
彼に声をかけたのは、どこから現れたのか、あの日と何も変わらない椅子に座った老人である。
「ああ、いた。院長。外の小屋。いた。俺。同じ。……院長違う。同じ」
「なに? また子供が流れ着いたのか……いつの時代からも来るからとはいえ、どうなっているんだあの海域は」
まだ言葉はわからないものが多いけれど、老人……この教戒院の院長はしっかり少年のいいたいことを理解してくれる。
接したのは数日であるが、少年は老人を良い人であると見抜いていた。海賊たちとは違う……記憶にある家族と同じ匂いのする老人だと。
だから切り出したのだ。働かせてほしい、と。
老人は「子供はそんなことを考えなくていい」と言ってきたけれど、少年にはその言葉の意味がわからなかった。知っているのは、食べるためには働かなくてはならないことと、働けなくなった人間は海に捨てられる、ということだけ。
この老人はあの海賊と一緒ではないことはわかっているけれど、少年はそれ以外の可能性を知らないのだ。他に道があるという考えに至れないから、だから「働かせてくれ」と頼んだ。
結果として、少年は毎日外……エチェロエグズル教戒院を出るとなぜか辿り着くあの小さな家の掃除をすることになった。
老人が少年にできることはなにかと聞いて、掃除ができると彼が答えたが故の采配である。
……のだが、その家に自分と同じような怪我だらけの子供がいてびっくりした、というのが今日の少年のトピックスである。
「院長、それ、死ぬか?」
「死なせんよ。袖振り合うも他生の縁だろう。この場合は前世の縁というより誤用な多少の方だがな」
「……?」
「わからなくても良い。言葉を知るのはもう少し先で良いだろう。安心。生きる。子供。同じ。問題ない」
「……わかった」
こうして家族が増える。記憶に薄れる家族とはもう会えない、ということはなんとなくわかっている。
だからこそここの家族を大切にしようとするのだ。
五年後。
廊下をぱたぱたと駆ける子供達を叱りつつ、ルヴァンは院長室のドアをノックする。音もたてずに開くドア。
彼が院長室へ入れば、この数年で……一切老けていない、さらに立った姿も見たことのない老人が椅子に座って彼を出迎えてくれた。
「院長、頼まれてた植物を取ってきたぜ。レイグン草、マリツォの実。あと、ビーゼルナッツも。これは俺が食いたいからだけど」
「ああ、助かった。……それで、今日は?」
「聞いて驚け。今日はなんと二人だ。男と女。あんま似てないから兄妹じゃないんじゃないかな」
「……本当にどうなっているんだあの海域は。あと漂流者多すぎであろう」
「まーセプウルクルム海は広いし、酷い時は本当に酷く荒れるからな。俺に始まって、これで何人目だっけ?」
「その二人を入れて九十一人目だ」
「おー」
だいたい二十日に一人のペースで人間が流れ着く。
多いように感じるかもしれない。だが、それほどあの海には死体が多く眠っていたのだ。新天地を求めて、あるいは何かから逃げだして、海の藻屑となる人間がこれでもかといたし、これからも現れる。
島はそんな墓場の一部分を掠め取っているに過ぎない。
「荒波に食われる運命にあった俺達の、ごく一部の幸運なやつが迷い込んできているだけなんだから、そう悩まないでくれよ、院長」
「悩んではおらん。流石にもう諦めている。……図らずも、教戒院としての役割を果たせているのだからな」
エチェロエグズル教戒院。ルヴァン少年がここについてを表す言葉を手に入れたとき、既に数人の子供が流れ着いてはいたが、その時にはまだ教戒院……学校としての役割は果たせていなかった。
ならばなぜここに教戒院があったのか、そして院長はなんのためにいるのかとルヴァンは老人に問うたことがあったが、「未来に追いつくためだ」としか説明されていない。その時は言葉がわからないだけだと考えた少年だが、言葉を習得した今もその意味はしっかりわかっていない状況にあった。
とかく、今では生徒数も増え、漂着した元より大人であった者や、コンストラクトらしい教員が日夜教鞭を振るっているから、ここは教戒院として成り立っていると言えるのだろう。
「……なぁ、院長」
「学徒に聞いた卒業という言葉が耳から離れないが、お主もいずれはここを卒業しなくてはならないのか、という問いか?」
「う。……さすが、なんでもお見通し」
「昨晩の内にミンヤの方から聞きに来たからな。ルヴァンにああは言ったけど、自分だってそうだから、不安になった、と。そして、答えは好きにすれば良い、だ。ここで学べるのはあくまで知識だけ。見識を深め、見聞を広めるには実際に世界へ踏み出すしか方法はない」
ミンヤ・シュナイダー。ルヴァンが初めて見つけた子供で、今ではすっかり仲良しの少女だ。
奴隷のような扱いを受けて育った、ということはないようで、ルヴァンより知識が広い。
「好きにしろ、ルヴァン。その権利をお主は得たのだから」
「……卒業したら、もう帰ってこられないか?」
「ここは家ではないからな。卒業をすれば、そうなるだろう」
「じゃあ、俺は卒業しねーよ。いつかは外に行ってみたくなるかもしれないけど、学生のままでも行っていいんだろ?」
「無論だ」
卒業というものの概念は聞いたばかりでよくわかっていない。ルヴァンにとってはなんだか嫌な感じがするもので、それ以上でもそれ以下でもなかった。
それでもこの話を院長に振ったのは、やはり彼の根底に、働かぬものは捨てられなければならないという思いがあるからだろうか。
「そろそろ地理学の時間だろう。学ぶのが嫌でなければ、授業に戻るといい」
「ん、そうだな。……あ、ナッツの残り置いとくけど、あんま食べすぎるなよ。生理学の先生が言ってたぜ。爺さんは塩分の取り過ぎがダメだって」
「早くいけ」
「はーい」
少なくともこれが彼の日常だ。
崩そうと思わなければ、いつまでも変わらないもの、である。
エチェロエグズル教戒院では、幼等部において文字の読み書きや言葉について、そして四則演算を教える。そこからは選択制の教育方針を取っていて、幼等部を出てすぐの子供であっても専門的な内容に触れることができるし、専門性を持たない基礎知識の層を厚くすることもできる。
学徒に年齢は関係なく、誰でもが学びを得られる。教鞭を取るには幾らかの"資格"を取る必要があるが、誰かに物を教えるということはそれだけの重みがあるのである。
ここで学べることは多岐に亘る。学徒は様々を学びゆくが、「将来のために何かを学んでいる」というよりは好きを根拠に学びを行っている側面が強いだろう。
専門性が上がるにつれて高度な知識を学ぶことができるため、外に出れば一端の職人としてやっていけそうな者も既に多くいるが、知識と客商売はまた別の話。商売についての勉強もできるのが説明の難しいところであるが、少なくとも学んだだけで全てを知った気になるのは早いと院長は口を酸っぱくして言っている。
ルヴァンが今習っているもの。それは。
「……まだ読み難いな。羅詞源語は読み難い程度で済むが、古代魔族語は正確に読み取れる必要がある。刻印を使うのなら、字はしっかり美しいものにするように」
「はい……」
「そう気を落とすな。文字を習い始めて五年であるのなら仕方のないこともあるだろう。それに、ほら。書き始めのころだというこのワームののたうち回ったような文字と比べれば、凄い上達だ」
「ありがとうございます」
文字、だった。
古代魔族語はまだであるが、この世界で広く使われている
羅詞源語は子音二十二文字と母音八文字の計三十文字。継詞基語は羅詞源語と違って子音主体であり、子音字四十一文字、母音字五文字の計四十六字。
……概要だけ聞いたことなのでルヴァンは震えるばかりだが、古代魔族語は子音十五字掛ける母音七字の百五文字であるという。丁寧に書けるまで果たして何年かかるのか。
「ネッセルローデ先生、一ついいですか?」
「ああ、良いぞ。どうしたミンヤ」
「ここの文法が上手くかみ砕けなくて……」
「ああ、これは歴史的遺産……つまり、合理性のない文法なんだ。だから、こればかりはそういうものとして覚えるしかないな」
「成程……わかりました」
基礎言語学にて教師をしているこの男の名はネッセルローデ・ヤンソンス。まだひと月ほど前に漂着したばかりのエチェロエグズル教戒院においては"新人"である存在だが、すぐに教師足り得る資格を取って、今こうして子供達に授業をしてくれている。
あの島に流れ着くにはそれなりの理由があったのだろうが、自分から話そうとしない限りは互いを詮索しないのがここの不文律になりつつある。だからルヴァンも詳しくは聞かないでいた。
「……しかし、この教戒院には驚かされることばかりだな」
「そう? 先生すぐに馴染んでた感じがしたけど」
「子供がこんなにものびのびと過ごせていることもそうだが……何よりお前達を含めて学ぶ意欲のある者が多すぎる。私の国にもこのような若者がいればと……ついつい物思いに耽ってしまうよ」
「俺はずっと学ばせてもらえない……学びたいって思うことすら許されない場所にいたからなぁ。そんな俺がこうして学徒になった経験から言わせてもらうと……大人にどんな悩みがあるのかは知らないけど、大人が置いている選択肢って、子供には道にすら見えないんだと思うぜ」
「道にすら見えない……」
「そ。俺が来た時からここには学べるものがいっぱいあったんだけどさ、俺の世界って仕事か休眠かの二択だったんだ。だから本が積まれていても、授業が受けられるって聞いても、それがどういう意味なのかわからなかった。なんのためになるのか、とか、それをしていいのか、とか……そこですらないんだ。学ぶことができる、っていう言葉の意味を知らなかった。そんな言葉、耳にしたこともなかったからな」
初めの初め、院長はルヴァンに対して「勝手に学べばいい」という姿勢を貫いていたが、ルヴァンにそういう選択肢がないことを見抜くと、そこからは朝から晩までずーっと彼の学習に付き合ってくれた。
幼少に覚えるはずだった好奇心の悉くを叩き潰されてきた少年へ、まず好奇心を芽生えさせるために、あらゆる方法で世界を見せたのだ。
その中で特に魔法刻印に興味を引かれたから、ルヴァンは今ここで、膨大な文字を覚えようとしている。
「ネッセルローデ先生の国がどうだったのかとかは、俺は知らない。でも、多分俺みたいなのはいたんじゃないかな。先生や大人がどれほど道を整備してくれても、それを道だとすら思えない子供が……本当は、たくさん」
「……。……そうだな。……そうだ。……大人の立場から若者を嘆くなど……私が最も嫌っていた元老院たちそのものではないか。……ルヴァン。お前は、本当に素晴らしいな。いや、ここの子供達からは学ぶべきことばっかりだ。技能の観点で教職に就いたが……私も学徒として学び直した方が良いかも知れない」
「確かそういう制度もあったような。教師やりながらでも学徒はできるはずだぜ。あとで院長に言っといてやろーか?」
「ああいや、自分で言うさ。院長は何時間もの手続きや責任関係の契約書を書かずとも会える存在だからな」
エチェロエグズル教戒院。
別にそういうフィルターは使っていないはずなのに、なぜか学習意欲の高い……新たな人生を始めようとする者ばかりが
あるいは、海を彷徨うという死に値するような思いをすればこそ、なのやもしれない。一命をとりとめたことには何か意味があると希望を見出すがゆえなのかもしれない。
際限なく増えていく生徒に、「そーいう目的で作ったんじゃないし、失踪しづらいなーコレなー」とか思っている畜生がいることなど、誰も知らぬ話である。