星に蝕まれる少女 〜硝子の妖精と、最期の輝き〜 作:暁 蒼空
港町ハルジオン。
海風に乗って運ばれてくる潮の香り、人々の喧騒、そして街全体に漂う微弱な魔力(エーテルナノ)。
それらすべてが、ルーシィの過敏な肺を容赦なく刺激した。
「はぁ……はぁ……っ」
駅を降りた瞬間から、世界が回っていた。
雑踏の音が、ハンマーで殴られたように頭蓋骨に響く。
逃げるように屋敷を出てきたものの、今のルーシィの体力では、歩くことすら命がけの行為だった。
(ダメ……やっぱり、私には無理だったんだ……)
足がもつれる。視界が歪み、石畳が迫ってくる。
コートのポケットから震える手で薬瓶を取り出そうとしたが、指に力が入らない。
カシャン、と乾いた音がして、命綱である薬瓶が地面で砕け散った。
(あ……)
拾わなきゃ。でも、体が動かない。
意識が急速に冷たい闇へと沈んでいく。
薄れゆく意識の中で、誰かの声が聞こえた気がした。
——ガシッ。
「おっと! 危ねぇぞ、お前」
強引な腕が、ルーシィの体を空中で支えた。
その瞬間、信じられないほどの「熱」が、冷え切ったルーシィの肌を貫いた。
熱い。でも、火傷するような痛みではない。まるで真夏の太陽を直接抱きしめたような、圧倒的な生命力の塊。
薄く目を開けると、そこには桜色の髪をした少年がいた。
「……え……?」
「なんだお前、すっげー冷てぇな! 氷みてぇだぞ?」
「あい! ナツ、その人、顔色が真っ白だよ!」
少年の後ろから、青い猫が翼を生やして飛んでくる。
ナツと呼ばれた少年は、ルーシィの顔を覗き込むと、ニカッと笑ってとんでもないことを言い放った。
「わかった、腹が減って死にそうなんだな! よし、店行くぞ店!」
「ちが……わたし……」
抗議する間もなく、ルーシィは米俵のようにナツに担ぎ上げられた。
乱暴な振動。普段なら発作が起きるところだが、不思議と咳は出なかった。彼の背中から伝わる熱が、凍りついた私の肺を強制的に動かしているようだ。
(何、この人……?)
連れてこられたレストランのテーブルには、山のような料理が並んでいた。
骨付き肉、ピザ、パスタ、サラダ。
ナツとハッピーは、まるで嵐のようにそれらを胃袋に収めていく。
「ほら食え! 食わねえと元気出ねえぞ!」
「……無理、です。こんな油っこいもの……匂いだけで……うぷっ」
「あ? なんだよ、食わねえのか? もったいねえ」
「じゃあオイラがもらうー」
ルーシィは店員に頼んだ白湯を、両手で包むようにして啜った。
温かい液体が喉を通る。それだけで、生き返る心地がした。
目の前の少年は、マナーも何もない野蛮な食べ方をしているけれど、なぜか不快感はなかった。彼の隣にいるだけで、指先の痺れが引いていく。
ナツが骨付き肉をかじりながら、ふと真面目な顔で聞いてきた。
「お前、なんでそんな弱ぇのに外出てきたんだ? 家で寝てたほうがいいんじゃねえか」
その言葉は、痛いほど核心を突いていた。
けれど、ルーシィはカップを強く握りしめた。
「……どうしても、見たかったから。魔法の世界を。……『妖精の尻尾(フェアリーテイル)』のような、自由な魔導士たちがいる世界を」
「ふーん……」
ナツは興味なさそうに、しかしどこか優しげに鼻を鳴らした。
食事が終わり、案の定「金がねえ!」と騒ぐ彼らの代金を、ルーシィは逃走資金から支払った。
店を出て、ナツたちが「イグニール」を探しに去っていくと、途端に寒さが戻ってきた。
「……行っちゃった」
あの熱が消えた途端、世界はまた、冷たくて残酷な色に戻ってしまった。
広場が騒がしい。「紅蓮の火竜(サラマンダー)」が現れたという噂を聞きつけ、ルーシィは重い足を引きずって人だかりへ向かった。
もし本物の魔導士なら、ギルドへ入る手がかりになるかもしれない。一縷の望みをかけて。
しかし、そこにいたのは紫色のマントを羽織った男、ボラだった。
彼が指先から紫色の炎を放った瞬間、周囲の女性たちが「キャー!素敵!」と黄色い声を上げる。
だが、ルーシィだけは違った。
(……くさ、い……!)
鼻をつく、腐った砂糖菓子のような甘ったるい悪臭。
それは「魅了(チャーム)」の魔法だった。精神に干渉するその魔力は、過敏症のルーシィにとって、神経を直接ヤスリで削られるような猛毒に等しい。
「ガハッ……!」
黄色い声援の中、ただ一人、ルーシィはその場に崩れ落ちた。
口元を押さえた指の隙間から、鮮血が溢れ出し、白い石畳を赤く染める。
「キャッ! 何この人!」「血!?」
悲鳴に変わり、群衆が引いていく。
ボラが顔をしかめ、冷酷な目で見下ろした。
「なんだ、その汚い娘は。……おい、つまみ出せ。俺の美しい魔法の余韻が台無しだ」
ボラの部下が、血に濡れたルーシィの腕を乱暴に掴む。
抵抗できない。肺が焼けるように熱い。
これが、私が憧れた外の世界? こんな、汚い魔法が?
「……ふざ、けるな……」
「あぁ? 何か言ったか、病人が」
「調子に乗るなよ、ガキが! その薄汚い娘ごと燃え尽きろ!」
ボラの手から、紫色の炎塊が放たれる。
死ぬ。
そう直感した瞬間、ルーシィの中で何かが弾けた。
(嫌だ……ただ守られて、惨めに死ぬのは嫌だ!)
(私は、魔導士として……!)
ルーシィは震える手で、腰の鍵束から一本の黄金の鍵を引き抜いた。
肺が破裂するような激痛を無視し、ありったけの魔力を込める。
肉体が希薄になる感覚。『星霊同化症』が進む音が聞こえる。それでも構わない。
「開け……金牛宮の……扉っ……!!」
魔力が足りない。扉は完全には開かない。
それでも、空間が歪み、巨大な牛の星霊、タウロスの腕だけが幻影のように具現化した。
ドォォン!!
タウロスの腕が炎を受け止める。だが、一瞬で幻影は霧散し、衝撃でルーシィは後方へ吹き飛ばされた。
壁に叩きつけられ、再び喀血する。
視界が霞む。もう、指一本動かせない。
「チッ、往生際の悪い……!」
ボラがトドメを刺そうとした、その時だ。
ドガァァァァン!!
上空から凄まじい爆音と共に、何かが降ってきた。
土煙の中から現れたのは、桜色の髪の少年。
「イグニールじゃねーじゃねーか!!」
叫びながら着地したナツは、足元で血を吐いて倒れているルーシィと、宙に消えかけた星霊の魔力の残滓を見た。
彼の目が、大きく見開かれる。そして、ニカッと笑った。
「へへっ……お前、その体ですっげぇ無茶すんな。気に入った!」
ナツがボラに向き直る。
その背中から立ち昇る陽炎が、ボラの紫の炎を圧倒し、周囲の空気を浄化していくようだった。
ルーシィの呼吸が、再び楽になる。
「あいつは……『妖精の尻尾(フェアリーテイル)』の魔導士……?」
ナツがマントを放り投げると、その肩には鮮やかな赤い紋章が刻まれていた。
ボラが悲鳴を上げる。
「よ、妖精の尻尾の紋章!? ほ、本物のボラ……いや、紅蓮の火竜(サラマンダー)!?」
「火竜の……鉄拳んんん!!!」
轟音と共に、ボラが遥か彼方の鐘楼まで吹き飛ばされる。
港が半壊するほどの威力。
これが、本物の魔法。私の憧れた、破壊的で、暖かくて、自由な光。
遠くから軍隊のサイレンが聞こえてくる。
ナツは瓦礫の中からルーシィの元へ駆け寄ると、躊躇なく彼女を抱き上げた。
軽すぎるその体は、もう限界を迎えていた。
「立てるか? ……無理だな。しっかり掴まってろよ!」
「どこ、へ……?」
「決まってんだろ!」
ナツは走り出す。その腕の中は、どんなベッドよりも温かかった。
「お前がその命削ってでも守りたかったもんがある場所だ! 行くぞ、フェアリーテイルへ!!」
薄れゆく意識の中、ルーシィはナツの肩越しに広がる青い空を見た。
それは、病室の窓から見た景色よりも、ずっとずっと広く、眩しかった。