星に蝕まれる少女 〜硝子の妖精と、最期の輝き〜 作:暁 蒼空
マグノリアの街を流れる運河沿い。家賃7万ジュエルのアパートの一室で、ルーシィは重い瞼を開けた。
朝の光がカーテン越しに差し込む。それだけで、眩暈がした。
「……ん、っ……」
身体を起こそうとして、激しい咳き込みに襲われる。
ヒュー、ヒューと、肺が悲鳴を上げている。昨日の興奮が冷め、現実という名の重力が、病みついた肉体にのしかかっていた。
洗面所の鏡の前に立つ。パジャマのボタンを外すと、胸元にある**『星空の痣』**が、昨日よりもわずかに範囲を広げていた。
薄紫色の美しい痣。それは、私が人間であることを辞めつつある証拠。
「……まだ、大丈夫。私は、妖精の尻尾(フェアリーテイル)の魔導士なんだから」
自分に言い聞かせるように呟き、ルーシィは服を着替えた。
右手の甲にあるピンク色の紋章。それだけが、今の私を支える全ての誇りだった。
ギルドへの道のりは、健常者なら徒歩15分。今のルーシィには30分の登山に等しい。
息を切らせて重厚な扉の前に立ち、意を決して押し開ける。
「お、おはようございま……」
その瞬間だった。
ガタタッ! と店内のあちこちで椅子を引く音がし、先ほどまで騒がしかったギルドが水を打ったように静まり返った。
「お、おい! ルーシィが来たぞ!」
「窓際を開けろ! 空気が悪い!」
「タバコ消せバカ野郎! 煙が肺に入るだろ!」
荒くれ者たちが大慌てで「ルーシィ仕様」の環境を作り出す。
中央のテーブルへ向かうだけで、まるでモーゼの海割れのように道ができる。
「あ、ありがとう……みんな……」
「おう! 顔色はいいか? 無理すんなよ!」
「座布団、三枚重ねといたからな!」
皆、優しい。涙が出るほど温かい。
けれど、その優しさが、ルーシィの心をチクリと刺した。
(……私は、特別なんだ)
ここでは誰もが対等に喧嘩し、笑い合っている。
けれど私だけは、触れれば壊れる硝子細工(ガラスドール)。皆に気を遣わせ、楽しみを奪っている異物。
「よぉルーシィ! 今日も生きてるかー?」
唯一、いつも通りの大声で近づいてきたのはナツだった。
彼は隣の席にドカッと座ると、勝手にルーシィの手を握りしめた。
「手ェ冷てぇな。ほら、カイロ代わりだ」
「……うん。ありがとう、ナツ」
ナツの熱が流れ込んでくる。呼吸が楽になる。
けれど、ふと視界の端で、グレイがこちらに来ようとして、躊躇っているのが見えた。
「あいつ……寒がってるな。俺が近づいたらマズいか」
グレイは寂しそうに苦笑し、遠くの席へと移動していった。
それを見た瞬間、ルーシィの胸が締め付けられた。
(ごめんなさい。……私のせいで、ナツとグレイの喧嘩も見られなくなっちゃった)
私は、守られているんじゃない。
みんなの優しさでできた、見えない鳥籠の中にいるんだ。
「仕事、行きたいです」
カウンターでジュース(常温)を飲みながら、ルーシィは言った。
ミラジェーンが困ったように微笑み、奥からマスターのマカロフが出てきた。
「ならん。お前の体はまだ安定しておらん」
「でも、おじいちゃん。……私、家賃も払わなきゃいけないし、何より……」
ルーシィは右手の紋章を握りしめた。
「何もせずに守られているだけじゃ、ここにいる資格がない気がして……」
「……」
マカロフは、孫娘の頑固な瞳を見て、ため息をついた。
彼女の焦燥感を見抜いているのだろう。
「分かった。ただし、条件がある」
「条件?」
「ナツ、ハッピー! お前たちがついて行け! こやつの暖房係じゃ!」
「うおお! 任せろじっちゃん! 仕事だ仕事だー!」
「あい! 魚代稼ぐぞー!」
こうして、ルーシィの初仕事が決まった。
内容は『シロツメ山の盗賊討伐』。報酬は20万ジュエル。
……本来なら、ルーシィのような初心者が選ぶ仕事ではない。だが、「簡単な仕事(迷子探し)」などは、今の彼女の体力では逆に走り回って危険だという判断で、ナツが瞬殺できる討伐系が選ばれたのだ。
(結局、ナツにおんぶに抱っこなんだ……)
シロツメ山の中腹。
山道の上り坂は、ルーシィにとって地獄だった。
ゼェ、ゼェ、と喉が鳴る。視界が白む。
「おーい、ルーシィ。背中乗るか?」
「ううん……大丈夫。これくらい、歩ける……っ」
ナツの背中に乗れば楽なのは分かっている。でも、それだけはしたくなかった。
魔導士として仕事に来たのだ。荷物として来たわけじゃない。
その時、茂みから数人の男たちが飛び出してきた。
「へへっ、魔導士ギルドか! 金目のもん置いてきな!」
「あ? 邪魔だお前ら」
戦闘が始まる。
ナツの動きは早すぎて目に見えない。炎を纏った拳が、次々と盗賊たちを吹き飛ばしていく。
強い。圧倒的だ。
ルーシィは木の陰で、ただそれを見ていることしかできない。
(……なにか。私にもできること……!)
一人の盗賊が、ナツの死角からナイフを投げるのが見えた。
声を出して知らせるより、魔法の方が早い。
「開け、巨蟹宮の扉……キャンサー!!」
鍵を振るう。
体内の魔力がごっそりと持っていかれる感覚。内臓を雑巾絞りされるような激痛。
「エビ!」
現れたキャンサーがハサミを一閃させ、ナイフを撃ち落とす。
ナツを守れた。
その事実に喜ぶ間もなく、反動がルーシィを襲った。
「ガハッ……!!」
地面に膝をつき、鮮血を吐く。
たった一回。たった一度、下級の星霊を呼んだだけで、このザマだ。
「ルーシィ!!」
ナツが盗賊を放置して駆け寄ってくる。
その顔にあるのは、勝利の喜びではなく、悲痛なほどの焦り。
「バカ野郎! なんで魔法なんか使った! 俺一人で余裕だったろ!?」
「だっ、て……ナツが、危な……」
「お前が倒れるほうがヤベェんだよ!! すっこんでろって言ったろ!」
ナツの怒鳴り声が、山に木霊する。
彼は本気で怒っている。私の体を心配して。私が死なないように。
けれど、ルーシィの心は冷え切っていた。
口元の血を拭いながら、彼女は心の中で呟いた。
(ごめんなさい。……もう、しません)
私は、戦っちゃいけないんだ。
ナツの言う通り、すっこんで守られていなきゃいけないんだ。
だって私は、彼らにとって仲間である以前に、壊れかけの「お荷物」なのだから。
「……ごめんね、ナツ」
謝罪の言葉は、乾いた風に消えた。
ナツの温かい手が背中をさすってくれるけれど、その温もりすら、今のルーシィには惨めさの象徴に思えてならなかった。