翌日の放課後、俺たちは3号館の調査を本格的に開始することになった。
「それじゃあ、まず被害者の方から話を聞きましょう」
蒼がノートを取り出しながら言う。
「被害者って、まだ意識不明なんじゃ……」
「今朝、意識が戻ったそうです。ただ、かなり憔悴しているとのことで、長時間の面会は難しいかもしれません」
「どこで会えるんだ?」
「大学の近くの病院です。大事を取って、今日は病院で入院しているそうです」
俺たちは病院へと向かった。
病室のベッドに、一人の女子学生が横たわっていた。
彼女の名前は、田中さくら。文学部の2年生だという。
「田中さん、少しお話しできますか?」
蒼が優しく声をかける。
「はい……」
さくらは弱々しい声で答えた。顔色は悪く、目の下には深いクマができている。
「昨日の夜、何があったか教えていただけますか?」
「はい……私、教室に忘れ物を取りに行ったんです。確か、夜の8時くらいだったと思います」
さくらは震える声で話し始める。
「教室に入った瞬間、変な感じがしたんです。空気が重くて、息苦しくて……」
「それで?」
「でも、忘れ物を取らないといけなかったから、我慢して教室に入りました。そしたら……」
さくらの声が震える。
「教室の隅から、黒い影が這い出してきたんです……」
「黒い影?」
俺は思わず聞き返す。
「はい……人の形をしているような、していないような……とにかく不気味で……」
さくらは涙を浮かべながら続ける。
「その影が、私の足を掴んで……引きずろうとして……私、必死に抵抗したんですけど、力が全然入らなくて……」
「怖かったですね」
蒼が優しく声をかける。
「はい……すごく怖くて……そのあとのことは、よく覚えてないんです。気づいたら、病院のベッドの上でした」
「その影について、他に覚えていることはありますか? 例えば、声を発していたとか……」
「声……あ、そういえば……」
さくらは必死に記憶を辿る。
「『お前は餌だ』って……そんな声が聞こえた気がします……」
「餌……」
蒼は険しい表情でメモを取る。
「ありがとうございます。無理をさせてすみません」
「いえ……もし、あの影のことが分かったら、教えてください。私、怖くて夜も眠れないんです」
「分かりました。必ず解決します」
蒼は真剣な表情で答えた。
病室を出た後、俺たちは人気のない廊下で立ち止まった。
「餌、か……」
渚が顔を出す。
「どういう意味だ?」
「おそらく、あの悪霊は人間のエネルギーを吸収して力を蓄えているんだと思う」
「エネルギーを吸収?」
「うん。悪霊の中には、人間の生命力や精神力を糧にするものがいる。田中さんが意識不明になったのも、エネルギーを吸い取られたからだろう」
蒼も頷く。
「渚さんの言う通りです。しかも、餌という言い方からすると、複数の被害者を出す可能性が高い」
「じゃあ、急がないと……」
「はい。次の犠牲者が出る前に、あの悪霊を倒さないといけません」
俺たちは3号館の問題の教室へと向かった。
警察のテープは既に撤去されていたが、学生たちは怖がって近づこうとしない。
「ここか……」
教室の扉の前に立つと、確かに嫌な空気を感じる。
「町筋、感じるかい?」
渚が聞く。
「ああ……なんか、重苦しい感じがする」
「それが霊気だよ。君も少しずつ、霊的な感覚が発達してきてるんだ」
蒼が教室の扉に手を当てる。
「かなり強い残留霊気……これは普通の悪霊じゃないですね」
「やっぱり人工的な悪霊か?」
俺が聞く。
「その可能性が高いです。自然発生する悪霊は、ここまで組織的に動きません」
蒼は教室の中を見渡す。
「中に入って調べましょう」
教室の中は、静寂に包まれていた。
窓から差し込む夕日が、机や椅子に長い影を落としている。
「うわ……雰囲気悪いな」
「町筋、あまり動き回らないで。霊気を乱すと、悪霊が反応するかもしれない」
渚が警告する。
蒼は教室の隅々を調べ始めた。
「ここに、術式の痕跡がある……」
蒼が教室の隅を指差す。
「術式?」
「悪霊を召喚したり、制御したりするための魔法陣のようなものです。見えますか?」
俺が目を凝らすと、床にうっすらと円形の模様が見える。
「これ……」
「おそらく、誰かがここで儀式を行ったんです。悪霊を召喚するための」
蒼は真剣な表情で続ける。
「しかも、この術式はまだ効力を保っている。つまり……」
「つまり?」
「悪霊はまだこの教室にいる可能性が高いです」
その瞬間、教室の温度が急激に下がった。
「うわっ、寒っ!」
「来る……!」
渚が叫ぶ。
教室の隅から、黒い影がゆっくりと這い出してくる。
「グルルルル……」
低い唸り声が教室中に響く。
「榊先輩、下がってください!」
蒼が俺の前に立つ。
「出でよ、我が守護神・焔!」
蒼がそう叫ぶと、彼の背後に炎のような光が現れた。
その光の中から、赤い髪の青年が姿を現す。
「呼んだか、蒼」
焔と呼ばれた守護神は、不敵な笑みを浮かべながら黒い影を睨む。
「久しぶりの実戦だな。腕が鳴るぜ」
「お願いします、焔さん」
黒い影は徐々に人型の形を取り始める。
全身が黒い靄に包まれた、人間のような何か。
顔には目も鼻も口もなく、ただ黒い穴が開いているだけだ。
「グアアアアア!」
黒い影が咆哮を上げる。
「うわっ、耳が痛い!」
俺は思わず耳を塞ぐ。
「町筋、壁際に!」
渚が俺を庇うように前に出る。
「渚!」
「大丈夫、僕に任せて」
渚は両手を広げ、紫色の光を放つ。
「焔さん、挟み撃ちで!」
「おう!」
焔は両手に炎を纏わせる。
「いくぜ! 紅蓮の炎!」
焔が手を振ると、赤い炎の球が黒い影に向かって飛んでいく。
一方、渚も紫色の光の矢を放つ。
「浄化の光!」
二つの攻撃が同時に黒い影に命中する。
「ギャアアアア!」
黒い影が苦しそうに叫ぶ。
しかし、影はすぐに体勢を立て直した。
「チッ、硬いな」
焔が舌打ちする。
「やっぱり普通の悪霊じゃない……」
渚も警戒を強める。
黒い影は両手を伸ばし、黒い触手のようなものを生み出した。
「グルルル……」
触手が鞭のようにしなり、渚と焔に向かって襲いかかる。
「危ない!」
渚は咄嗟に結界を張る。
パァンッ!
触手が結界に弾かれる。
「焔さん、そっちは!?」
「問題ねえ!」
焔は炎の剣を作り出し、触手を次々と切り裂いていく。
「ハアッ!」
炎の剣が触手を焼き切る。
しかし、触手は切られても切られても、すぐに再生する。
「キリがねえな!」
「本体を叩かないと!」
蒼が叫ぶ。
「分かってるよ! でも、あの触手が邪魔で近づけねえ!」
焔は苛立ったように言う。
「なら、僕が道を作る!」
渚が両手を天に向ける。
「集いし光よ、我が手に!」
渚の周りに、無数の光の粒子が集まってくる。
「これを……!」
渚が手を振り下ろすと、光の粒子が一直線に黒い影に向かって飛んでいく。
「光の槍!」
光の槍が触手を貫通し、黒い影の胸に突き刺さる。
「ギィィィィ!」
黒い影が苦しそうに悶える。
「今だ、焔さん!」
「おうよ!」
焔は炎の剣を大きく振りかぶる。
「終わりだ! 爆炎斬!」
炎を纏った剣が、黒い影を縦に両断する。
「ギャアアアアアア!」
黒い影は断末魔の叫びを上げながら、消えていった。
「やった……!」
俺は思わず声を上げる。
しかし、渚と焔の表情は険しいままだった。
「いや、まだだ……」
焔が呟く。
「え?」
その瞬間、床に描かれた術式が赤く光り始めた。
「術式が反応してる……!」
蒼が叫ぶ。
「まさか……」
渚の予感は的中した。
術式の中心から、再び黒い靄が噴き出してくる。
「嘘だろ……復活したのか!?」
「いや、これは別の個体だ!」
焔が叫ぶ。
「この術式、悪霊を自動的に召喚し続けるタイプだったのか……!」
黒い靄は先ほどよりも巨大な形を取り始める。
そして現れたのは、先ほどの二倍はあろうかという巨大な黒い影だった。
「グオオオオオ!」
巨大な影が咆哮を上げる。
その声だけで、教室の窓ガラスが割れた。
「うわああ!」
俺は思わず床に伏せる。
「町筋!」
渚が俺を庇うように前に出る。
「これは……まずいな」
焔も珍しく焦った表情を見せる。
「焔さん、渚さん、一旦引きましょう!」
蒼が叫ぶ。
「でも、このままじゃ……!」
「術式を破壊しないと、いくら倒してもキリがありません! 一旦態勢を立て直します!」
「分かった!」
渚は俺の手を掴む。
「町筋、走るよ!」
「お、おう!」
俺たちは教室から飛び出した。
背後から、巨大な影の咆哮が聞こえる。
「待て……逃がさん……」
低く、重い声が廊下に響く。
「追ってくる!」
「走れ走れ!」
焔が後ろを振り返りながら叫ぶ。
俺たちは必死に廊下を走った。
階段を駆け下り、1階のエントランスまで逃げてきた。
「はぁ……はぁ……」
俺は息を切らしながら振り返る。
幸い、巨大な影は追ってきていないようだ。
「追ってこなかったな……」
焔が言う。
「おそらく、術式の効力範囲から出られないんです」
蒼が答える。
「じゃあ、3号館から出れば安全ってことか?」
「今のところは。でも、術式を破壊しない限り、悪霊は湧き続けます」
「どうやって破壊するんだ?」
「術式の中心に、強力な浄化の力をぶつけるしかありません」
蒼は真剣な表情で続ける。
「でも、あの巨大な影がいる限り、術式に近づくのは困難です」
「じゃあ、どうすればいいんだよ……」
俺は頭を抱える。
「作戦を練る必要があるね」
渚が言う。
「焔さんと僕で影を引きつけて、その隙に蒼が術式を破壊する……とか」
「いや、それじゃリスクが高すぎる」
蒼が首を振る。
「もっと確実な方法を考えましょう」
俺たちは3号館の外で作戦会議を始めた。
「まず、あの巨大な影の弱点を探る必要があるね」
渚が言う。
「弱点か……あるのか?」
「どんな悪霊にも弱点はあるよ。それを見つけられるかどうかが問題だけど」
「さっきの戦闘で、気づいたことはありますか?」
蒼が焔に聞く。
「うーん……」
焔は少し考えてから答える。
「再生能力が高い。触手を切っても切ってもすぐに生えてくる。でも……」
「でも?」
「本体にダメージを与えた時は、明らかに苦しんでいた。つまり、本体さえ破壊すれば倒せるってことだ」
「なるほど……」
蒼はメモを取りながら頷く。
「では、触手を無視して本体を直接攻撃する方法を考えましょう」
「それができりゃ苦労しねえよ」
焔が苦笑する。
「あの触手の数と速度じゃ、近づく前に捕まっちまう」
「なら、遠距離攻撃で……」
「試したけど、あいつ動きが速いんだよ。遠距離攻撃は避けられる」
行き詰まった沈黙が流れる。
「あの……」
俺が恐る恐る口を開く。
「俺、何かできることないか?」
「町筋……」
渚が心配そうに俺を見る。
「でも、君には戦う力が……」
「分かってる。でも、何もしないで見てるだけってのも嫌なんだ」
俺は真剣な表情で皆を見渡す。
「囮になるとか、そういうのでもいい。何か役に立ちたい」
「町筋くん……」
蒼が少し考えてから言う。
「では、一つお願いしてもいいですか?」
「何?」
「榊先輩には、術式を破壊する役をお願いしたいんです」
「え? でも、俺にそんな力……」
「榊先輩は榊家の血を引いています。その血には、浄化の力が宿っているはずです」
蒼は真剣な表情で続ける。
「僕たちが影を引きつけている間に、榊先輩に術式の中心を破壊してもらいます」
「でも、どうやって……」
「渚さんが力を貸してくれれば、できるはずです」
蒼は渚を見る。
「渚さん、町筋くんに力を貸せますか?」
「……できるよ。でも、リスクがある」
渚は心配そうに俺を見る。
「町筋の体に、僕の力を流し込むことになる。うまくコントロールできないと、体が傷つくかもしれない」
「やるよ」
俺は即答した。
「このまま何もしないで、また誰かが襲われるのを待つなんて嫌だ」
「町筋……」
「大丈夫。お前を信じてるから」
俺は渚の目を真っ直ぐ見つめる。
「一緒に戦おう。相棒」
「……っ」
渚の目が潤む。
「分かった。じゃあ、やろう」
渚は決意を固めた表情で頷いた。
「それじゃあ、作戦を確認します」
蒼が全員を見渡す。
「まず、焔さんと渚さんが教室に突入し、巨大な影の注意を引きつけます」
「おう、任せろ」
焔が拳を鳴らす。
「その間に、榊先輩と僕が術式に接近。榊先輩が術式を破壊します」
「分かった」
「術式が破壊されれば、影は力の源を失います。そこを焔さんと渚さんで一気に畳み掛ける」
「完璧だな」
「ただし、時間制限があります」
蒼は腕時計を見る。
「あと30分で日が沈みます。夜になれば、悪霊の力はさらに強くなる。それまでに決着をつけないと……」
「分かった。じゃあ、急ごう」
俺たちは再び3号館へと向かった。