夏の終わりの夕暮れは凝固しかけた血のように粘りつく赤色をしていた
東京都立呪術高等専門学校。
その広大な敷地の最果て今は誰も寄り付かない旧寄宿舎の廊下を、夏油傑は独り歩いていた
「……っ」
不意に立ち止まり、口元を掌で覆う
喉の奥からせり上がってくるのは、どす黒い吐気だ
呪霊操術
呪いを調伏し 取り込み 意のままに操る
その力と引き換えに 彼は「呪い」を物理的に摂取しなければならない
その味を 彼は「処理した雑巾を丸めて飲み込むような」と形容する
だが、実際はそれ以上に凄惨だ
他者の悪意 後悔 腐敗した感情
それらが凝縮された黒い球体を胃に流し込むたびに夏油の魂の輪郭は少しずつ濁っていくように感じられた
「……非術師を守るために」
自分に言い聞かせる呪文のように彼はその言葉を繰り返す
だが、その時だった
埃っぽい廊下の先に打ち捨てられたはずの旧調理室の扉から細い光が漏れていた
それと同時にあり得ない「匂い」が漂ってくる
それは、呪術師が生きる「死と呪いの世界」には決して存在しない芳醇で温かな食欲をそそる香り
最高級の出汁(だし)が素材の旨味を解き放つ時の香りだ
夏油は無意識に吸い寄せられるように扉を開けた
「……おや 夏油先輩、お疲れ様です」
灯りの下、一人の少年が立っていた
今年入学したばかりの一年生、生簀 凪(いけす なぎ)
灰原や七海と同期でありながら、どこか古風で、職人のような静謐さを纏った男
凪の手には、鈍く銀色に光る厚手の出刃包丁が握られていた。
特級呪具『包丁・無銘』
その刃の下に横たわっていたのは、先刻、夏油が「不味すぎて放置した」はずの、低級呪霊の残滓だった
「生簀くん。……君は、何を、しているんだい?」
「見ての通りですよ。下処理です」
凪は淡々と答えると、流れるような動作で包丁を振るった。
それは戦闘というより、儀式に近い
呪霊の核を傷つけず、その周囲にこびりついた「負の感情の滓」だけを、まるで魚の皮を剥ぐように鮮やかに削ぎ落としていく
本来、切り離されれば霧散するはずの呪霊の肉が、凪の刃を通した瞬間、実体を持った「食材」へと変質し、まな板の上に固定された
「呪霊を……固定したのか? 操術の系譜でありながら、使役ではなく、解体を選ぶとは」
夏油の呟きに、凪は手を止めずに答える
「先輩。呪霊操術って、そのまま飲むから不味いんですよ」
凪は包丁を置き、まな板の上の呪肉を指差した
「これって、いわば『毒』なんです。恨みとか、妬みとか、人間のエグみが。だから、こうやって純粋な呪力エネルギーだけを抽出してやれば……」
凪は、切り出した透明な呪肉を、傍らで沸騰する鍋へと投入した
瞬間に立ち上る蒸気は、上品な白身魚の煮付けのような、透き通った香りを放つ
「それはもう、『呪い』じゃなくて『料理』なんです」
凪は手際よく小鉢にスープを注ぎ、夏油の前に差し出した
「味見、してみませんか。僕の術式『御膳操術』。味わうための呪術です」
夏油は躊躇した
だが、喉の奥にこびりついた「雑巾の味」が、その香りを求めて激しく疼いた
震える手で小鉢を取り、一口、その琥珀色の液体を啜る
――衝撃だった
喉を通った瞬間、胃の底に溜まっていた泥のような不快感が、雪解けのように消え去った
暴力的なまでの旨味
純化された呪力が、全身の血管を駆け巡り、疲弊した脳を優しく愛撫する
「……美味しい……」
夏油の口から、偽らざる本音が零れ落ちた
非術師を守るための「苦行」であったはずの呪術が、この少年の前では、魂を癒やす「饗宴」へと姿を変えていた
「でしょう? 先輩は溜め込みすぎなんです。呪霊は、こうやって自分の一部に変えてしまえばいい。そうすれば、心まで腐ることはありませんから」
凪は静かに微笑む
その背後、廊下から賑やかな足音が近づいてきた
「あーっ! また凪が旨いもん作ってる! ズルいぞー!」
「灰原、声が大きすぎます。……ですが、確かに今日は一段と良い匂いですね」
太陽のような笑顔の灰原雄と、ネクタイを緩め、疲れ果てた表情の七海建人が入ってくる
「七海くん、お疲れ様。今日は『蝿頭の生姜風味スープ』だよ。ストレス解消に効くやつ」
「……。……頂きます。空腹は、判断力を鈍らせますから」
七海が渋々ながらもスープを口にし、その表情をわずかに緩める
灰原は「生きてて良かったー!」と大声で笑い、凪の料理を頬張っている
その光景を、夏油は一歩引いた場所で見つめていた
自室に戻った後も、夏油の掌には、あの温かな小鉢の感触が残っていた
(……生簀くん。君の術式は、救いだ)
暗い部屋の中で、夏油は独りごちる
呪霊操術の亜種
自分たちが「呪いをそのまま呑む」のだとしたら、凪は「呪いという毒から牙を抜き、薬に変えている」
その圧倒的な効率の良さと、自己完結した強さ
だが、同時に夏油は背筋に冷たいものが走るのを感じていた
凪のあの瞳は…
呪霊を捌く時、彼は慈悲深い仏のようでもあり、同時に、獲物を選別する冷酷な捕食者のようでもあった
(彼は呪霊を『個』として見ていない。ただの『成分』として見ている)
(……だとしたら、いつか彼にとっての『食材』の定義が、呪霊以外に及んでしまったら?)
夏油の脳裏に、凪の料理を食べて笑う灰原と七海の姿が浮かぶ
それは美しい光景でありながら、その実、呪いという「毒」を共有し合う、歪な共犯関係の始まりのようにも見えた
「……もう、戻れないな」
夏油は月明かりの下、自分の黒く染まった手を見つめる
胃に残る、消えない熱。
それは彼を救うための解毒剤か
それとも、彼の「最強」という誇りを、内側から溶かしていく劇薬か
生簀凪という怪物が投げ込んだ一石は、夏油傑という静かな湖面に、決して消えることのない波紋を広げていた
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