補助監督の車が走り去る音だけが 湿った空気の中に消えていく
見上げる先には 蔦に覆われ廃墟と化した巨大な醸造工場
「窓」の情報によれば 数日前から近隣で行方不明者が続出しているという
呪霊の階級は推定二級
だが その数は不明
「……ようやく 私たちだけでの任務ですね」
七海建人が ネクタイを締め直し鉈の柄を確かめる
その表情には 一個上の先輩たちがいないことへの緊張と
仕事としてこれを完遂せんとする 生真面目な義務感が同居していた
「いいじゃん七海! 俺たちの実力を試すチャンスだよ!」
灰原雄は いつものように白い歯を見せて笑う
だが その拳はわずかに強張っていた
彼もまた ここから先は誰も守ってくれないという現実を肌で感じている
「凪 準備はいい?」
二人の視線の先で 生簀凪は静かに布包みを解いていた
現れたのは 鈍い光を放つ『包丁・無銘』
「いいですよ ちょうど腹も減ってきました」
凪の言葉に 七海が僅かに眉をひそめる
それは恐怖からくる飢えではなく
ただ純粋に 目の前の獲物を「食えるかどうか」で判断している獣の目だった
工場の内部は 発酵が止まり腐敗した澱のような臭気が立ち込めている
暗がりの奥から 無数の湿った足音が響き始めた
「来ます」
七海の警告と同時に 天井から這い出してきたのは
巨大な蛆のような体躯に 人間の赤子のような顔がいくつも並んだ異形の群れ
「散れ!」
七海が鋭く踏み込み 鉈が呪霊の胴を「7:3」の比率で正確に叩き切る
断たれた部位から呪力が飛散し 一撃で機能不全に追い込まれた呪霊が床にのたうち回る
「おらぁ!」
灰原が風を切り 持ち前の瞬発力で別の個体の頭部を粉砕した
二人の流れるような連携
だが 呪霊の数は予想を超えていた
暗闇から溢れ出す無数の「食材」を前にして
凪は一人 踊るような足取りで包丁を振るった
「……筋が多いな」
凪の振るう刃は 呪霊を「殺す」ためではなく
その構造を「分解」するために動いている
呪力が最も集中する正中線に沿って 無銘の刃が滑り込む
ジ、という不快な音とともに
呪霊の肉が 凪の呪力によって実体を持ったまま切り離された
「凪! 右から来てる!」
灰原の叫びに 凪は視線すら向けない
空いた左手を呪霊の方へ向けると その掌から無色の圧力が放たれた
それは術式の基礎
呪力を「解体」し「吸引」するための指向性
「――吸着」
凪の言葉に応じるように 切り離された呪肉が霧状に崩れ
凪の指先からその体内へと吸い込まれていく
瞬間
凪の身体を覆う呪力が 目に見えて密度を増した
「……ふぅ 鮮度は悪くない」
疲れを見せ始めた七海と灰原を尻目に
凪だけが 戦えば戦うほどに血色を良くし その呪力出力を高めていく
その光景は 横で戦う二人にとっても異様なものだった
呪術師にとって 戦いは「消耗」のはずだ
だが 凪にとっての戦場は エネルギーを補給するための「食堂」に他ならない
「生簀くん 後ろを頼みます」
七海が呼吸を整えながら告げる
その声には 理解不能な術式への畏怖と
それでも背中を任せられるという 消去法的な信頼が混じっていた
「わかってますよ七海くん この奥に一番デカいのがいますね」
凪は口元を拭い 工場の最深部を見据えた
そこには この廃墟に漂うすべての「美味」を束ねる
一際巨大な呪力が 食卓の主菜のように待ち構えていた
タンクを幾つも飲み込み 巨大な樽のように膨れ上がった二級呪霊
数多の行方不明者を養分にしたその身体からは
不気味なほど甘ったるい 完熟した果実が腐り落ちるような臭いが漂っている
「……これはいい 脂が乗ってる」
凪の目が 爛々と輝いた
七海と灰原が正面から注意を引き
死角から凪が踏み込む
主の巨大な触手が薙ぎ払われるが 凪は無銘の刃を「受け」に使い 最小限の動きで呪力を受け流す
「七海くん そこです!」
七海の鉈が 主の核に繋がる「関節」を叩き
灰原がその巨体を横転させる
その瞬間 凪が跳んだ
「逃しませんよ 君が一番美味そうだ」
無銘が閃く
主の核を傷つけず 周囲の余分な呪力を一気に剥ぎ取る「大立ち回り」
主は悲鳴を上げる間もなく 凪の術式によって「生きたままの食材」へと固定された
通常の呪霊ならここで祓われ消滅するが
凪が術式で「鮮度」を固定したそれは バスケットボールほどの大きさに凝縮された
美しく輝く 呪力の塊へと姿を変えていた
「凪 それ……」
灰原が恐る恐る尋ねる
「持ち帰ります これは現場で吸うには勿体なさすぎる」
凪は手慣れた手つきで布を取り出し その塊を大切そうに包み込んだ
それはまるで 市場で最高級のマグロを競り落とした職人のような顔だった
「高専に戻ったら これで煮込みを作りましょう
夏油先輩も これなら喜んでくれるはずです」
血の臭いとカビの臭いが立ち込める廃工場の中で
凪の言葉だけが どこか場違いに明るく響いていた
その一部始終を 工場の影から見つめる影があった
夏油傑
彼は後輩たちの初任務を密かに見守るつもりだったが
凪のあの迷いのない「食欲」を目の当たりにし 自分の腹の底が熱くなるのを感じていた
(……煮込み か)
雑巾を飲み込む準備をしていた自分の喉が
不覚にも 期待に鳴った
続きを書くかどうか
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