高専の旧調理室に 夜の帳が下りる
醸造工場の主であった二級呪霊の塊は 今や『無銘』の刃によって
琥珀色の透明な切り身へと姿を変えていた
『窓』が報告していた「甘ったるい腐臭」は 凪の術式による適切なアク抜きを経て
芳醇な果実酒のような 芳しい香りに昇華されている
「……生簀くん やはりあなたは正気ではない」
調理台の端で 七海建人が疲れ果てた様子で腰掛けていた
その傍らには 鈍く輝く愛用の鉈が置かれている
任務中 あの巨大な主の肉質を正確に「7:3」の比率で刻み
凪の解体を助けたのは 間違いなくその鉈の功績だった
「あはは! でも七海だって あの時めちゃくちゃ良い仕事してたじゃん!」
灰原雄が 腹を鳴らしながら鍋の中を覗き込む
大鍋の中では 呪肉が香味野菜と共にじっくりと煮込まれ
呪力の粒子が蒸気となって 部屋中に充満していた
「いいですか灰原 これはあくまで任務後の栄養補給です
呪霊を食べるという行為に 私は……」
七海が言いかけたその時 調理室の引き戸が勢いよく開け放たれた
「おっ やっぱりここか! めちゃくちゃ良い匂いじゃん!」
現れたのは サングラスを頭にずらした五条悟
その隣には どこか落ち着かない様子で だが視線だけは鍋に釘付けの夏油傑がいた
「五条先輩に 夏油先輩……何をしに?」
凪が手を休めずに尋ねると 五条は迷わず調理台へ歩み寄った
「決まってるでしょ 六眼が『美味そうなエネルギー体』を捉えちゃったんだからさ
傑なんて さっきからずっと涎垂らして……」
「悟 余計なことを言うな」
夏油が微かに頬を染めて制止する
だが その鼻腔は既に凪が作る「呪霊の赤ワイン煮込み(もどき)」に支配されていた
彼がこれまで「雑巾」として処理してきた呪霊と同じものが
これほどまでに食欲を煽る「完成された力」として存在している矛盾
「お待たせしました 二人とも 先輩方もどうぞ」
凪が手際よく 深皿に盛り付けられた料理を並べていく
主から抽出された濃密な呪力が ソースの中に溶け込み 宝石のように光っている
「いっただっきまーす!」
灰原が我慢できずに一口放り込んだ
その瞬間 彼の目が見開かれ 全身の毛穴から呪力が火花のように溢れ出す
「うっ うっま……!? なんだこれ 力が勝手に溢れてくる!」
七海もまた 無言でスプーンを口に運んだ
鉈を振るい続けた腕の乳酸が そして精神的な摩耗が
呪力の波に洗われて急速に回復していくのを実感し 彼は深く溜息をついた
「……認めざるを得ませんね これは『薬』です」
五条は興味深げにソースを指で掬い ペろりと舐めた
「へぇ……面白いね凪くん
呪霊の核にある『負の指向性』だけを完全に中和して 純粋な燃料に変えてるんだ
これ 傑の操術の完全なアンチテーゼじゃん」
夏油は黙って 凪から手渡された皿を見つめていた
意を決して その一切れを口にする
脳を突き抜けるような旨味
それは 彼が呪術師になって以来 一度も味わったことのない「祝福」だった
「……傑 泣いてるの?」
「……違う 熱いだけだ」
夏油は目を伏せ 夢中で皿を空にしていった
胃に落ちるたび 彼の中にあった「非術師への苛立ち」や「使命の重圧」が
凪の供した熱量によって 一瞬だけ凪いでいく
「先輩 おかわりありますよ」
凪の言葉に 夏油は小さく頷いた
五条はそれを見守りながら 不敵な笑みを浮かべる
「よし決めた 凪くん 君はこれから僕たちの『専属シェフ』ね
特級呪霊を捕まえてきたら どんなフルコースになるか見ものだ」
「五条先輩 特級はさすがに下処理に時間がかかりますよ」
笑い合う五人
高専の古い調理室は 呪術師という死の瀬戸際を歩む者たちにとって
唯一の そして最も不道徳な「聖域」となっていた
「……美味いな 本当に」
夏油の呟きは 誰に届くこともなく 煮込みの湯気の中に溶けて消えた
彼の運命の歯車が 本来の軌道から一コマだけ 決定的に狂い始めた夜だった
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