昨夜の喧騒が嘘のように静まり返った 早朝の高専
自室で寝台から身を起こした夏油傑は 自身の内側に奇妙な「重み」を感じていた
それは呪霊操術を扱う者にとって 馴染み深い感覚でありながら
同時に 決定的に何かが異なっていた
(……残っているのか あの呪霊の気配が)
意識を内側へ向けると そこには影が揺らめいていた
醸造工場の主であった二級呪霊
昨夜 凪の手によって煮込み料理となり 五人で分け合って食べたはずの存在
本来 呪霊操術における「取り込み」とは 呪霊を核ごと丸めて「玉」にし
それを飲み干すことで自身の呪力系統に直接繋ぎ止める行為だ
だが 昨夜の彼は「玉」など飲んでいない
ただ 凪が作った美味い料理を 仲間と共に楽しんだだけだった
夏油が指を鳴らすと 足元の影から半透明の触手が一本 ゆらりと立ち上がった
それは紛れもなく あの二級呪霊の一部だった
「……使役はできている だが あまりにも出力が低いな」
それはそうだ
力は五人に分配された
夏油の手元に残ったのは 全呪力のうちのわずか五分の一に過ぎない
これでは戦闘の役には立たない
夏油は確信を得るため まだ朝露の残る旧調理室へと向かった
そこには既に 朝食の準備を始めている凪の姿があった
無銘の包丁が まな板の上で小気味よい音を立てている
「……生簀くん」
「ああ 夏油先輩 おはようございます」
凪は振り返り いつもの穏やかな笑みを浮かべた
夏油は単刀直入に 昨夜から続く違和感を伝えた
凪は包丁を止め 顎に手を当てて考え込む
「なるほど……僕の術式で『毒』を抜いた呪霊は 一時的に無垢な呪力源に戻る
それを食べた人の呪力に染まって 定着するってことですね」
「ああ だが分配されたせいか 影が薄い
もし これを私一人が全て食べていたとしたら?」
二人の間に 重い沈黙が流れた
その沈黙を破ったのは 背後から響いた軽い足音だった
「――答えはイエス だね」
青いレンズのサングラスを指で弄びながら 五条悟がひょいと顔を出した
彼は六眼を凝らし 夏油の足元にある薄い影を見つめる
「傑 君の今の呪力系統 面白いことになってるよ
凪くんが綺麗に『殻』を剥いた呪霊を 君が自分の呪力で上書きした跡がある
これさ……もし凪くんが捌いた一匹分を 傑が丸ごと完食してたら
不味い玉を飲むのと全く同じ いや それ以上の純度で手駒にできたはずだよ」
五条の言葉に 夏油の喉が微かに鳴った
呪霊操術の苦痛からの解放
それは彼がこれまでの人生で 望むことすら諦めていた奇跡だった
「検証してみましょうか 先輩」
凪が 保存しておいた昨日の呪肉の「核心部分」を取り出した
残っていた端材ではない 最も呪力が濃密に詰まった心臓に近い部位
凪はそれを丁寧に焼き上げ 一皿のステーキとして夏油の前に差し出した
今度は誰にも分けない 夏油一人のための「食事」だ
夏油は震える手でフォークを取り その肉を口に運んだ
雑巾の味はしない
ただ 芳醇な旨味と 凪の呪力によって整えられた力強いエネルギーが体内へ流れ込んでくる
完食した瞬間
夏油の背後の影が 一気に濃さを増した
立ち上がったのは 昨夜の不完全な触手ではない
醸造工場の主が持っていた全能力 そして全質量を備えた 完全な「影」
「……あ」
夏油は その場に膝をついた
目元を覆い 込み上げる感情を抑えるように肩を震わせる
「先輩?」
「……いや すまない あまりにも……体が軽いんだ」
不味くない どころではない
食べることで力が満ち 心までもが満たされる
呪霊操術という呪いが この瞬間 凪というフィルターを通して「至福」へと反転した
五条はサングラス越しにその光景を眺め 小さく口笛を吹いた
「おめでとう傑 これでもう『不味い不味い』って愚痴を聞かなくて済むね」
「悟 私は愚痴ってなど……」
「言ってるようなもんだって 顔に出まくりだったもん」
軽口を叩き合う親友たち
だが 五条の六眼は見ていた
夏油の中に芽生えた 凪という存在への絶対的な「依存」の萌芽を
そして凪は 夏油が喜ぶ姿を見て ただ純粋に包丁を研ぎ直した
彼にとって 呪術師の運命を左右することさえ 「美味いと言ってもらえる喜び」の延長線上に過ぎなかった
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