雷神は最強を指名する 作:あいあい
屋根の上で、ふっと手応えが消えた。
追えば追うほど、相手は街灯の届かない死角だけを選んで跳ぶ。高さ、着地、次の足場への繋ぎ。そのどれもに一切の迷いがない。それは、単に逃げ足が速いというような矮小な技術ではなかった。こちらの視線と意識の指向性を読み、その裏側を正確に突く──戦場の最前線で何千回、何万回と死線を潜り抜けてきた者だけが、無意識に、呼吸のようにこなす生存の歩法だ。
相澤は、冷たい雨の降る屋上の中央で足を止め、深く、重い息を吐き出した。
これ以上深追いしても、雨の中で無駄に視界を削られるだけだ。無理に距離を詰めれば、逆に相手の間合いに引きずり込まれ、一撃を食らう。あの子ども──いや、あの「異物」は、逃げながらも時折、こちらの出方を誘うような隙を見せていた。
(……今は現場を優先させるか)
まつ毛に溜まった雨粒が、乾ききった眼球を刺激する。
首元に巻かれた捕縛布──特殊合金を編み込んだ炭素繊維。それが少年の足首を掠めたとき、一瞬だけ指先に残ったあの感触。指先を焼くような微かな静電気の残り香。それは通常の電気の個性が持つ荒々しさとは違う。もっと高周波で、触れたものの構造を根底から震わせるような、極めて鋭利な熱だった。
相澤は屋根から音もなく降り、騒ぎの渦中にある路地へと戻った。
ゲームセンターの前には、奇妙な静寂が広がっていた。
ヴィランが制圧されたというのに、誰一人として安堵していない。人々が作る輪の向こうには、救いへの感謝よりも、正体不明の何かに対する得体の知れなさが色濃く漂っていた。雨音だけがアスファルトを叩き、野次馬たちの沈黙をより一層重くしている。
「下がって。危ないぞ」
声を張らずに群衆を分ける。それだけで、野次馬たちは何かに気圧されたように道を開けた。
路地の中央には、二人の男が転がっていた。
一人は腕から陶器の刃を生やすタイプ。意識はないが、呼吸は安定している。
もう一人は、白い樹脂を撒き散らす粘着系。自分の個性が背中に貼り付き、虫のように呻いている。
どちらも致命傷ではない。だが、精神が、あるいは戦う意志そのものが、根底から折れていた。
単に力でねじ伏せたのではない。最小限の手間で、相手を戦闘不能に追い込むだけの精度。相澤は手際よく二人を拘束していく。粘着系の男の肩と肘を潰す形で縛り、刃の男は起き上がっても腕を振れない角度で固定した。
作業をこなしながら、相澤は一度だけ瞬きをし、再び目を細めた。
個性「抹消」。視界に入れた相手の個性を抹消させる力。
瞬きをすれば効果は切れる。目が乾くのは相変わらず面倒だが、ここで事故を起こされる方がもっと面倒だ。粘着男の腕がぴくりと震え、樹脂が出かけて止まった。
「動くな。次に動いたら折る」
短く告げる。それで十分だった。
周囲にいた客の一人が、おそるおそる口を開いた。
「あの……子どもが。さっき、電気みたいなのを……」
相澤は頷くだけで返し、地面に視線を落とした。
「その子の特徴は」
「小さくて……目が、怖かったです。怒ってるっていうより、なんていうか……。まるで、こっちが人間じゃなくて、動く物体か何かみたいに見てて……」
言語化できない種類の威圧。その客が感じ取ったのは、生命の序列における絶対的な差異だったのだろう。
(……測っていたな、あいつは)
相澤はしゃがみ込み、現場を観察する。
視線をずらすと、床のタイルが一枚だけ不自然に浮いている。
その隙間から覗く、黒い保護管。照明の配線を通すためのものだ。店に灯りが点いている以上、そこには常に電気が流れている。タイルの縁には、抉ったような細い擦り傷がいくつも残っていた。火花の痕はない。焦げもない。
(自分の電気を直接ぶつけるんじゃない。床下の電流を『借りて』、雨の湿り気を通り道にしたか)
派手な放電ではない。目立たず、失敗しにくく、加減もしやすい。
明らかに子どもだが、即興で選ぶにはあまりに完成されすぎている戦い方だ。ヒーローに憧れるガキなら、もっと自分の力を誇示するような派手な使い方をする。だが、あのやり方には自己顕示が一切ない。あるのは、戦いを楽しみ、技術力を高める野心のみだ。
パトカーのサイレンが近づいてくる。
相澤はポーチから目薬を取り出し、完全に手が離れたところで、ようやく深く瞬きをした。
視界が滲む。その奥にある、消えない「電気の残像」が、相澤の脳裏に警鐘を鳴らし続けていた。
(……面倒なのが増えたな)
翌日。雄英高校、校長室。
根津校長がティーカップを静かに置き、その傍らにはオールマイトが立っていた。オールマイトに教師を依頼しようと思って場を設けたが、嫌な予感に自慢の髭が反応している。
平和の象徴であっても、その巨躯が放つ圧は校長室の空気を重くしている。相澤は昨日撮影した現場写真を、机の上に並べていった。
「未確認の少年が、ヴィラン二名を単独で制圧していました。電気系はただでさえ厄介ですが、戦闘スキルの高さを感じました」
相澤は、タイルの隙間の傷を指で示した。
「床下の配線に金属を触れさせ、雨の湿り気を利用して足元から電気を流し、心臓ではなく、運動機能だけをピンポイントで止めている。……子どもながら、これをやってのける技術と冷静さがあるということです」
根津が写真を一枚一枚、慈しむように見つめる。その瞳は常に、知性という名の冷徹な光を宿している。
「技術が精神より先に育っているね。いや……あるいは、精神そのものが我々の知る子供のそれとは根本的に異なっているのかもしれない。……不気味だね、相澤くん」
「ええ、目がヒーロー志望のそれじゃなく、ただ自分の目的だけを見ている。一歩間違えれば、ヴィラン側に転びかねません。いや、あのアグレッシブさは、善悪という物差しで測るのすら無意味に思えるほどです」
その言葉に、オールマイトが重厚な声を漏らした。
「……実は、私も以前、似たような子を見た。イベント会場の搬入口付近だ。私に憧れる少年ではなく、獲物の弱点を探るような目。……もしあの少年がその彼だとするなら、相澤くん、君の懸念は正しいと思う」
象徴がそう言うなら、見間違いではないだろう。
オールマイトはスマホを取り出し、警視庁の塚内へと発信した。
「……塚内くん。昨夜の件だ。資料を共有する。……ああ、極秘で頼む。もしこの少年の存在が公になれば、過激なヴィラン集団や、あるいは力を欲する裏社会の組織が放っておかないだろう」
通話が切れた後、根津が穏やかに、だが釘を刺すように言った。
「学校側でもマークしよう。彼が表舞台に出てくるなら、必ずどこかで引っかかるはずだ。……しかし、無理に追うのはやめたほうがいいだろうね」
「分かっています」
相澤は頷いた。
「オールマイト、あなたは積極的に動かなくて大丈夫です。あなたが動くと群衆がうるさくなりすぎます。これは、潜伏が得意な俺の仕事です」
相澤はそれだけ言って席を立った。
背後で、オールマイトが何かを言いたげに、しかし言葉を飲み込む気配がした。
それから一週間、相澤は夜の繁華街を調査し続けていた。
繁華街の境界線、商店街の裏通り、警察の目が届きにくいスラムの入り口。
相澤はあの子どもが、どこに身を置いているのかを突き止めるため、街全体の不自然な静寂を読み解こうとしていた。
一方で、鹿紫雲一は、ズボンの裾に隠れた足首の傷を、冷めた目で見下ろしていた。
里親の家という偽りの居場所は、彼にとってただの屋根に過ぎない。彼の魂は常に、血と鉄の匂いがする場所を求めていた。
あの日、あの黒髪の男に個性を封じられた屈辱。そして、テレビ越しに、あるいは遠くのビル影から感じた、あの黄金の男の圧倒的な熱量。
(……足りない。この世界の連中は、守られることに慣れすぎている)
鹿紫雲は、深夜の繁華街を一人で歩いていた。
十歳の子供が一人で歩くにはあまりに危険な場所だが、彼から放たれる気配が、街の捕食者たちを本能的に遠ざけていた。
だが、その不文律を破る者たちが現れる。
「おい、ガキ。えらく良い面構えしてんな」
路地裏。五人の男たちが、鹿紫雲の行く手を阻んだ。
全身を岩のように硬質化させる個性の持ち主。指先から酸を滴らせる男。周囲に霧を発生させるタイプ。
いずれも、この界隈でこそ幅を利かせているだろうが、鹿紫雲の目には、彼らが振り回す暴力がままごとにしか見えなかった。
「退け。お前たちに用はない」
「ハッ! 言うじゃねえか。その生意気な目、潰してやるよ!」
岩の個性の男が、巨大な拳を振り上げる。
鹿紫雲は、動かなかった。
男の拳が鼻先を掠める。最小限の回避。
そこから、鹿紫雲の反撃が始まる。
一歩。
男の肘の関節に、指先を軽く添える。それだけでいい。
一瞬の静寂の後、紫電が弾けた。
「……ッ!!?」
男は悲鳴を上げることすらできず、巨体を硬直させて崩れ落ちた。
個性の出力は最小。だが、電気を拡散させず、男の神経系統に直接、微弱な、だが確実な麻痺を送り込む。
「なっ……! 何をしやがった!」
酸を操る男が慌てて手を伸ばすが、鹿紫雲の動きはその男の予想を遥かに上回っていた。
地面に転がっていた空き缶を、足先で跳ね上げる。空き缶が男の顔面に飛ぶ。それを回避しようと男が体勢を崩した瞬間、鹿紫雲は既にその懐に潜り込んでいた。
次は、心臓の鼓動を乱す程度の衝撃。
二秒。三人合わせて、五秒もかかっていない。
「やり過ぎない」こと。それが鹿紫雲にとって、最大の忍耐だった。
その光景を、高いビルの非常階段から、冷徹な目で見つめている男がいた。
男の名は「義爛」。裏社会で名を知られたブローカーだ。
(……噂以上だな。こりゃあ、とんでもない掘り出し物だ)
義爛は煙草を指に挟み、レンズの厚い眼鏡越しに、眼下の処理の鮮やかさを値踏みしていた。
彼は多くの凶悪なヴィランを見てきた。だが、この少年が放つ純粋な闘争心には、生理的な恐怖を覚えざるを得ない。
鹿紫雲が踵を返そうとした時。
乾いた拍手の音が響いた。
「素晴らしい。実に効率的だ。無駄な動きが一つもない」
鹿紫雲は眉一つ動かさず、視線だけを音の主へ向けた。
そこに立っていたのは、うさんくさい笑みを浮かべた義爛だった。
「誰だ、お前。死にたいのか?」
鹿紫雲の言葉は、純粋な問いかけだった。
戦う気がないのなら、自分の視界に入る価値などない。
「おっと、怖いねえ。だが落ち着いてくれ、少年。俺は君の敵じゃない。むしろ、君のような才能に、相応しい舞台を用意してやりたいと思っている、ただの商売人さ」
義爛は両手を上げ、ゆっくりと階段を下りてくる。
その一歩ごとに、周囲の空気が重く、ピリピリとした静電気を帯びていくのを彼は感じていた。
「舞台……? 俺はただ最強とやりたいだけだ」
「ああ、分かっているとも。オールマイト……だろう? 昨今のニュースを見ていれば、君のような力を持った少年が何を望むかくらい、想像はつく。だが少年、今の君がヒーローを自称したところで、世間は君を『危ないガキ』として檻に入れるだけだ」
義爛はニヤリと笑い、懐から一枚の黒いチップを取り出した。
「昨日も、あの抹消ヒーローに追い回されたんだろう? 警察も、ヒーローも、君の力を管理しようとする。……窮屈だとは思わないか?」
鹿紫雲の動きが止まる。
「俺はただ、もう一度あの感覚を感じたいだけだ。それに簡単に縛られる俺じゃない」
「その通りだ。だからこそ、俺の提案を聞いてほしい。裏には、表のルールに縛られない力の競合場がある。そこには、ヒーローを辞めたはみ出し者や、己の個性を殺しの道具として磨き上げた化け物どもがゴロゴロしている」
義爛はチップを鹿紫雲の足元へ投げた。
「君が求めている最強への最短距離は、表の学校に通うことじゃない。裏で名前を売り、本物の強者を引きずり出すことだ。……どうだ? 興味があるなら、そのチップを持って、裏通りの『ラットホール』に来な。君を満足させるだけの獲物を紹介してやるよ」
義爛はそれだけ言うと、影に溶け込むように姿を消した。
残された鹿紫雲は、地面に落ちた黒いチップを拾い上げる。
指先から微かな電流を流すと、チップの表面に複雑な座標データが浮かび上がった。
(裏社会……か。どいつもこいつも、こそこそと隠れるのが好きなようだな)
鹿紫雲はチップをポケットに放り込み、夜の闇を見上げた。
彼にとって、相手がヒーローだろうがヴィランだろうが、関係はない。自分が最強であることを証明するために、踏みつけるべき石ころがどこにあるか。ただそれだけが重要だった。
一方で、さらに遠いビルの屋上から、相澤はその一連のやり取りを双眼鏡で捉えていた。
義爛の姿を確認した瞬間、相澤の奥歯が鳴った。
(……義爛か。あの腐ったブローカーが、あいつに目をつけた)
事態は最悪の方向に転がり始めていた。
あの子どもが自ら望んで闇に足を踏み入れるなら、ヒーローとしての保護は届かなくなる。
だが、相澤は動かなかった。ここで飛び出せば、少年は義爛よりも先に相澤を排除すべき障害として認識し、本格的な殺し合いに発展する。
「……追跡は、ここで一旦打ち切りだ」
相澤は無線に手を伸ばした。
「こちらイレイザーヘッド。対象が裏社会のブローカー、義爛と接触した。……ああ、分かっている。これ以上は警察の管轄を越える。根津校長、次の段階へ移行してくれ」
相澤は、自分が拾い上げたあのナットをポケットの中で転がした。あの子どもが求めているのは、安らぎではない。戦いだ。
相澤は、夜風に吹かれながら、自分の瞳が赤く光るのを感じていた。
だがあいつは誰も殺してはいない。理由はどうあれその一線を越えてはいない。もしヒーローが導くことができれば……
「さて、どう出る、雷神」
夜の帳が、二人の少年の、そして二人の大人の交差する意志を飲み込んでいく。
嵐の前の、あまりに静かな追跡劇。
その終焉は、やがて来る「最強」への挑戦へと、確実に繋がっていた。
義爛が去った後、鹿紫雲は迷うことなくチップの示す場所へと向かった。
新宿の外れ、廃ビルが立ち並ぶ区画の地下。通称「ラットホール」。
そこは、法と秩序が死に絶えた、暴力だけが唯一の通貨となる暗黒街の心臓部だった。
鉄の扉を開けると、不快な熱気と、焦げた肉の臭いが鼻を突いた。
中央には八角形のリングが置かれ、その周囲を、血に飢えた観客たちが囲んでいる。
観客たちの目は、一様に濁っていた。彼らは戦いを見に来ているのではない。誰かが壊れ、命が散る瞬間を買いに来ているのだ。
「ほう。本当に来やがった」
リングの脇で、義爛が皮肉な笑みを浮かべて待っていた。
「少年。ここにはルールはない。あるのは、立っているか、死んでいるかだけだ。まずは、君の力がどれほどの価値になるか、ここの住人たちに見せつけてやれ」
鹿紫雲は、何も言わずにリングに上がった。
その姿に、観客から嘲笑が上がる。
「おいおい、義爛! 今度は幼稚園の入園試験でも始めるのか?」
「そんなガキ、一捻りで終わりだろ!」
鹿紫雲は、それらの罵声を無視し、対戦相手を見据えた。
現れたのは、全身が鋼鉄の棘で覆われた大男だった。個性「ニードル・メタル」。
男は巨体を揺らしながら、鹿紫雲を見下ろす。
「ガキ、死にたくなければ今すぐ泣いて逃げな。俺の棘は、一突きで象をも殺すぜ」
鹿紫雲は、ゆっくりと掌を広げた。体内の呪力が、今までにない高揚感と共に練り上げられていく。
この世界の「個性」という名の力学。それを、自分の「性質」で上書きする快感。
「始めろ」
鹿紫雲の短い言葉と共に、ゴングが鳴った。
一瞬だった。
男が突進し、無数の棘が鹿紫雲を貫こうとしたその瞬間。
鹿紫雲の姿が、掻き消えた。
「……なっ!?」
男が周囲を見回す暇もなかった。
鹿紫雲は既に、男の背後、首の付け根に指を置いていた。
「弱すぎる。……次はもっと上を連れてこい」
鹿紫雲が呟く。
指先から放たれたのは、先ほどのチンピラたちへの一撃とは比較にならないほどの、純度の高い電圧だった。
激しい放電の光がリングを包み込み、観客たちの目を焼いた。
鋼鉄の棘が、逆に雷を引き寄せる避雷針となる。
男の巨体は、一瞬にして内側から電撃を浴びせられ、沈黙した。
静寂。
先ほどまでの嘲笑が、嘘のように消え失せた。
煙を上げる巨体の傍らで、十歳の少年は、ただ退屈そうに自分の指を見つめていた。
「次だ。もっとマシな奴を出せ」
鹿紫雲一の宣言が、地下の静寂を切り裂く。
その瞳には、もはや子供の無邪気さなど欠片もなかった。
最強への飢え。
その狂気が、裏社会の闇を侵食し始めていた。