雷神は最強を指名する 作:あいあい
新宿の地下。通称「ラットホール」での惨劇は、裏社会の情報網を瞬く間に駆け巡った。
十歳の少年が、百戦錬磨の強化個性保持者を一瞬で焼き切った。その事実は、力を求める者たちにとって、あまりに魅力的な商品の出現を意味していた。
鹿紫雲一は、湿った廊下を歩いていた。
ひまわり頭の里親は共働きで、彼に関心を払う余裕はない。それは鹿紫雲にとって好都合だった。この時代の家族というシステムは、彼にとって器を維持するための管理場所でしかなかった。
「……何の用だ。サングラスは表情がわかりづらくていけねぇ」
鹿紫雲は足を止めずに呟いた。
廊下の突き当たり、非常階段の影に潜んでいた男が、観念したように姿を現す。
義爛──あの夜、地下格闘場へと誘ったうさんくさいブローカーだ。
「おっと、相変わらずの殺気だね。だが少年、今日は君にビジネスの話を持ってきた。君が求めている最強への階段、その一段目を用意してやったのさ」
義爛は懐から一本の電子煙草を取り出し、紫煙を吐き出す。
「君の力は既に裏で高値がついている。ある組織が君をスカウトしたいそうだ。断ればそれまでだが、彼らは君が喜ぶような獲物を山ほど用意しているらしい」
「獲物……?」
鹿紫雲の目が、わずかに細まる。
義爛はニヤリと笑い、一枚の住所が書かれた紙片を廊下の床に滑らせた。
「表のヒーローじゃあ相手にならない、本物の殺しを知る連中だ。興味があるなら行ってみな。ただし、そこはラットホールほど甘くない」
鹿紫雲は紙片を拾い上げ、一瞥した。
彼にとって、それが罠であるか否かは問題ではない。そこに自分を満たすものがあるかどうかが問題だ。
指定された場所は、海岸沿いにある廃棄された化学プラントだった。
錆びた鉄骨が巨大な獣の骨のように夜空に突き刺さり、潮風が金属の悲鳴を運んでくる。
鹿紫雲がプラントの心臓部、巨大な反応炉の跡地に足を踏み入れた瞬間。
全方位から、目も眩むようなサーチライトの光が彼を射抜いた。
「ターゲット確認。……制圧を開始する」
無機質な声と共に、影からそれが現れた。
六人の男たち。彼らはヒーローのような派手な衣装ではなく、漆黒の重厚な防護服に身を包んでいた。
特殊な絶縁ゴムとセラミックを多層化した、対電気個性用の特殊スーツ。彼らが手にする警棒も、絶縁素材でコーティングされた非伝導体だ。
「……なるほどな。俺の性質を封じれば勝てると踏んだか」
鹿紫雲は、四百年前の感覚を研ぎ澄ませる。
当時の術師たちも、あらゆる手段で彼の雷を避けようとした。水に逃げ、木に隠れ、呪具で受け流す。だが、そのすべては「理」を理解していない者の足掻きに過ぎない。
「全ユニット、絶縁モード起動。……突撃」
刺客たちが一斉に跳んだ。
彼らの動きは統制されていた。個々の出力に頼るのではなく、集団での包囲網。
鹿紫雲は掌から雷光を放つ──だが、その電弧はスーツの表面で虚しく弾け、地面へと逃げていく。
「無駄だ。このスーツの抵抗値はギガオームを超えている。君の電位差では、この皮一枚を貫くことはできない」
刺客の一人が、非導電性の警棒を振り下ろす。
鹿紫雲はそれを鼻先で回避し、冷笑を浮かべた。
「抵抗か。……物理の教科書を読んだばかりだが、面白い言葉だな」
鹿紫雲は懐から、プラントの入り口で拾っておいたいくつかの小物を取り出した。
海水、そして金属の切削粉が詰まったボトル。
「ごみ袋を被ってえらそうにするなよ」
鹿紫雲は己の電気で海水を蒸発させながら全方位に散布した。
潮風と混ざり合い、密閉された空間の湿度は一気に跳ね上がる。
刺客たちが戸惑う中、鹿紫雲は次に金属粉を空中に撒いた。
微細な金属の粒子が、海水に吸着し、目に見えない導電網を室内に形成していく。
オームの法則
抵抗が大きいなら、並列に導電路を増やし、合成抵抗を下げればいい。
「……何をしている?」
鹿紫雲がニヤリと笑い、地を蹴り、プラントの床下を通る太い銅管に指を突き立てた。
体内の呪力が、極限まで圧縮された電荷となって解き放たれる。
「──落ちろ」
青白い閃光が、室内の霧を媒体として爆発的に伝播した。
絶縁スーツは直接の接触には強いが、空気そのものがイオン化し、プラズマと化した環境下では、ただの熱伝導体でしかない。
「あ、が……あ、あああぁぁぁ!!!」
逃げ場のない雷鳴が、刺客たちの防護服の隙間など関係なく、絶縁の檻は、一瞬にして電子レンジのような処刑場へと変貌した。
数秒後。
煙を上げるプラントの中に、立っているのは鹿紫雲一人だけだった。
彼は倒れた刺客のリーダーの胸ぐらを掴み、冷たく問いかける。
「次は、もっとマシな奴を用意しろ。……それとも、これがあんたたちの最強か?」
刺客は泡を吹きながら、震える指で空を指差した。
鹿紫雲の肌が粟立つ。
毛穴の一つひとつが、近づいてくる巨大な存在に対して本能的な警報を鳴らしていた。
呪力が、体内でかつてないほどの激流となって唸りを上げる。
その声が響いた。
「……もう、大丈夫。私が来た」
だが、それはいつものテレビで聞くような、快活で、民衆を安心させるための響きではなかった。
「……数キロ先からでも見えたぞ。夜空を真っ二つに裂くような、あまりに激しく、あまりに冷酷な電撃が。これからすぐに他のヒーローたちもくるだろう」
サーチライトの逆光を背負い、天から降ってきたのは黄金の光だった。
巨大な質量が、数トンの瓦礫を粉塵に変えながら着地する。
土煙が晴れた先に立っていたのは、燃え盛るような金髪を夜風になびかせた男。
平和の象徴、オールマイト。
だが、その顔に「笑み」はなかった。
彼は足元に転がる、煙を上げる刺客たちの無残な姿を、一つひとつ確認するように見渡した。その瞳には、深い落胆と、胸を締め付けられるような悲痛な色が混じり合っている。
「私はそれを信じたくなくてね……。これほどの悪意に満ちた雷を放つのが、ヴィランの軍勢であってくれと、ただ祈るような心地でここまで走ってきた。……だが、これが現実か」
オールマイトは視線を上げ、鹿紫雲を真っ直ぐに見据えた。
その巨躯から放たれる圧は、怒りよりも悲しみに満ちていた。
「悲しいな、少年。……君のような幼い子が、これほどまでの惨状を作り出し、冷徹に命を摘み取ろうとしている。その事実に、私は今、猛烈に胸が痛い」
「……何が悲しいだと?」
鹿紫雲の心臓が、歓喜と苛立ちで激しく脈打つ。
目の前に立つ実物は、テレビで見た時とは比較にならないほどの重圧を放っていた。
かつて対峙した宿儺とも違う、一点の曇りもない正義という名の絶対的な自己。
最強。この世界の頂。
だが、その最強が自分を見て悲しんでいる。それが、鹿紫雲には許せなかった。
「オールマイト……! 説教なら後回しにしろ。ここで貴様の首を貰い受ける!」
鹿紫雲は稲妻のような速さで跳躍した。
音速を超えるほどの一撃。狙うは、その分厚い喉元。
だが、オールマイトは動かなかった。
黄金の象徴は、その青白い雷光が自分の胸板を貫こうとするその刹那、あまりに無造作に、巨大な掌を差し出した。
バヂィッ、と鼓膜を劈くような放電音が鳴り響く。
鹿紫雲の全力の拳は、オールマイトの掌によって、まるで飛んできた羽虫を掴むかのような仕草で包み込まれていた。
呪力が、雷光が、その掌の圧力によって強制的に封じ込められ、行き場を失った電気がオールマイトの腕を這う。
だが、その男の肌は焼けるどころか、微かな煙すら上げていなかった。
「……なっ!?」
「元気な少年だ。だが少年、その拳には迷いはないが、救いの一片もありはしない」
オールマイトは、鹿紫雲の拳を掴んだまま、目にも止まらぬ速さで動いた。
気がついた時、オールマイトは転がっていた刺客たちを、瞬時に一箇所にまとめ上げていた。
彼らが持っていた特殊素材の拘束ワイヤーを使い、抵抗する余地すら与えず、一塊の巨大な荷物に変えていく。
その最中であっても、彼は鹿紫雲から目を離さなかった。
「少年。君の才は、あまりに規格外だ。だが、その力をこのような薄暗い場所で、闘争のためだけに使い潰してはいけない。君の放った電撃は……あまりに鋭すぎて、見ているこちらの心が削られるようだ」
「……黙れ。貴様に何がわかる!」
鹿紫雲は低い声で吐き捨てた。
最強を求め、戦いの中で己を定義し続けてきた四百年前の自分。
それを、この世界の物差しで、ただの守られるべき可哀想な子供として分類された。
「俺をその辺のガキと一緒に並べるな! 殺す気で来いと言っているんだ!」
「……私は、君を救いたいのだ。平和の象徴として」
オールマイトは、戦う構えすら見せず、再び悲しげに微笑んだ。
「君の瞳には、深い孤独が見える。誰とも交われず、ただ高みだけを目指す、寒々とした孤独だ。……戦いたいなら、少年。正しく力を学びなさい。この世界の理の中で、君がヴィランではなく、一人の人間として認められた時……」
オールマイトは、懐から一枚の折れ曲がったパンフレットを取り出した。
雄英高校、ヒーロー科。
「私は君を、一人の男として、全力で迎え撃つと約束しよう。それが君の望む果てならば、私は逃げも隠れもしない」
オールマイトの巨躯が、微かに沈み込んだ。
次の瞬間、大気を切り裂く轟音と共に、彼は哀れな犠牲者達へ救助に駆け出し、黄色い閃光を残しながらその場から去って行った。
残された鹿紫雲は、ふらつきながらその場に降り立った。
屈辱だった。
自分を一人の敵としてすら数えず、その力の激しさを悲しみで返された。
「……一人の男として、だと?」
鹿紫雲は、パンフレットを手に取った。
あの男に、自分を一人の戦士として認めさせる。
そのためには、このヒーローという名の茶番に付き合ってやる必要がある。
「最強の首を狩るのに、まずは檻の中に入る必要があるってわけか」
鹿紫雲は、暗い夜の海を見つめた。そして、黄金の太陽を引きずり下ろすために、新たな戦場へと足を踏み出した。
四年後、相澤消太は、雄英高校の職員室で、一本の報告書を眺めていた。
海岸プラントでの乱闘、そしてオールマイトの介入。
「……あの子ども、本当に志願してきたよ、相澤くん」
根津校長が、タブレット端末を差し出す。
そこには、鹿紫雲一の入学願書が表示されていた。
「オールマイトが何を言ったかは知りませんが、あのガキの目的は教育を受けることじゃない。オールマイトへの『挑戦状』ですよ」
相澤は、溜息を吐きながら目薬を差した。
かつて自分が追っていたあの雨の日の足跡は、今や雄英の門を叩こうとしている。
「どうするんだい? 彼は爆弾だ。下手をすれば、他の生徒を巻き込んで爆発しかねない」
「……俺が担任を持ちます。あいつの首輪を握れるのは、俺の『抹消』だけだ」
相澤は、窓の外に広がる校庭を見つめた。
これから始まるのは、平和な学園生活などではない。
四百年前の狂気と、現代の平和の象徴が、雄英という檻の中で火花を散らす──その前哨戦だ。
鹿紫雲一は、中学校の卒業式にも出ず、一人で川沿いの道を歩いていた。
爆豪とかいう、火薬の匂いのする同級生が何かを叫んでいた気もするが、もはや視界にも入らない。
彼の目に見えているのは、雲の隙間から差し込む黄金の光。
そして、その光を真っ二つに切り裂く、青白い自らの雷光だった。
「……待ってろよ、オールマイト。貴様のその余裕、俺がすべて焼き尽くしてやる」
十四歳の春。
雷神は、最強を指名するために、戦場へと足を踏み出した。