世界は、灰色だった。
空は重く垂れ込め、その色は鉛のように濁っている。海は粘性を帯びた黒で、不気味に蠢く波が、絶えず岩肌を舐めていた。それは、あらゆる色彩と希望が奪われた、文字通りの「終わりの世界」だ。
そこに、不自然なほど鮮やかな「黒」が、突如として出現した。
漆黒のコートを翻し、一人の男が灰色の砂浜に降り立つ。男は、生命を拒絶するその光景を眺め、悦悦とした表情で独り言をつぶやく。
「……あぁ、なんと美しい世界だ」
男は両腕を広げ、空虚な空間を抱きしめるかのように深呼吸をした。酸素の薄い荒れた空気が、彼の肺を満たす。
「これこそ、私が求めていた理想の世界だ」
男がその美しさに心酔する。
その時、ざわり、と不気味な水音が響く。粘性の黒い海から、異形の影が這い上がってきた。肥大化した頭部に巨大な口、そして鋭い爪。それはこの世界の住人であり、侵入者を排除せんとする本能的な殺意を剥き出しにしていた。
「キシャァアアアア!」
異形たちは甲高い奇声を上げて男に襲いかかる。
しかし、男は動じることすらしない。
彼の周囲から、突如として禍々しい黒い光が放たれ、異形たちの爪がその光に触れた瞬間――バチリ、と空間が軋むような音が響き、彼らはまるで巨大な質量に叩きつけられたかのように、軽々と後方へ弾き飛ばされた。
「キィ……キシャァ……」
何が起きたのか理解できず、異形たちは怯え、互いに顔を見合わせる。彼らが本能的に感じたのは、自分たちの理解を超えた「異質な力」への恐怖。これ以上は無駄だと判断したのか、奴らは粘性の海へとずるずると退いていった。
「ふむ……この世界の住人は、少々粗暴ではあるが、実に素直でよろしい」
男は不敵に笑い、コートの内側から、漆黒に輝くデバイスを取り出した。
そのデバイスが、呼応するように激しく震える。
「さて、主役の登場と行こうか」
男の言葉に応えるかのように、背後の空から、深い闇がゆっくりと集結し始める。それは、影が影を飲み込み、質量を持つかのように凝縮していく。悍ましいほどの邪悪なオーラが、この灰色の世界をさらに深く、濃く染め上げていく。
そして、その闇の中心から、真紅の外套を纏った巨躯が現れた、その瞳に宿るのは、絶対的な悪意と、この世界の全てを支配せんとする冷酷な意志。
男は、その圧倒的な存在感を前にしても、微塵も臆することはなかった。それどころか、まるで初めて会う隣人に声をかけるかのように、にこやかに、軽い調子で挨拶を交わす。
「こんにちは。……君が、デーモンかね?」
デーモンの口角が、ゆっくりと吊り上がった。
周囲の空気が、その低い声によって震える。
「……何者だ、貴様。人間に過ぎぬ身で、いかにしてこの世界へ足を踏み入れた」
黄金色の瞳が、冷徹に男を射抜く。デーモンの放つ重圧は、並の人間であれば精神が崩壊しかねないほどに強烈だ。
「そして――なぜ私の名を知っている」
問いかけは静かだったが、そこには逆らうことを許さぬ絶対的な威厳があった。しかし、男はその圧力を楽しむかのように肩をすくめ、おちゃらけた調子で口角を上げた。
「おや、なぜだと思います? クイズでもしましょうか?」
「……何?」
質問に質問で返す。そのあまりに不敬な態度に、デーモンの外套の下で闇が激しく波打った。
「言葉遊びは好かん。貴様の命でその口を塞ぐ前に、さっさと答えろ」
空気が凍りつく。デーモンの指先がわずかに動き、空間そのものが軋み声を上げた。
だが、男はそれすらも嘲笑うかのように「おっと、失礼」と軽く手を挙げ、形ばかりの謝罪を口にする。
「冗談ですよ、デーモン。そう怒らないでください。答えは、これです」
男はコートの内側から、先ほど震えていた漆黒のデバイスを取り出し、デーモンの目の前に掲げた。それは、デジヴァイスの形状を模しながらも、表面には血管のような赤い回路が走り、禍々しい拍動を繰り返している。
デーモンの瞳が、そのデバイスを凝視した。
「……それは、デジヴァイス。貴様、まさか……『選ばれし子供』の一人だというのか」
デーモンの声に、明らかな警戒の色が混じる。かつて自分をこの世界へ封じ込めた、忌々しい光の力を思い出したのだ。
しかし、男はくすくすと喉を鳴らして笑い、自嘲気味に首を振った。
「いいえ。私は、それの『なりそこない』ですよ」
男の瞳の奥で、黒い光が妖しく明滅する。
「光に選ばれず、勇気も友情も持たなかった。けれど、だからこそ手に入れた『別の力』……。どうでしょう、デーモン。退屈なこの世界を出て、もう一度あちら側の太陽を拝みたくはありませんか?」
黄金色の瞳が、不信感を露わにして細められた。
「……どういうつもりだ。貴様のような人間が、私を外へ連れ出して何を企んでいる」
その問いに、男は事もなげに肩をすくめてみせる。
「もちろん、ただではありません。こちらの条件を聞いていただける、ならの話ですがね」
不敵な笑みを浮かべる男を、デーモンはしばしば無言で凝視した。その場にいるだけで魂が削り取られるような沈黙が続く。やがて、デーモンは短く応じた。
「いいだろう。……その条件とは何だ」
男は満足げに、微かな笑い声を漏らした。
「重畳……。何、あなたからしたら簡単なことです。私がこれまで生きてきた世界を破壊してほしいのですよ。そうですね、あなたに分かりやすく言うなら――『現実世界』を、ですね」
自らの故郷を壊せ。その狂気に満ちた願いを聞き、デーモンは一瞬の沈黙の後、愉悦を孕んだ声でつぶやいた。
「……面白い。いいだろう、手伝ってやる。だが、デジタルワールドは私がもらう。異論はないな?」
「もちろんです。あんなデータだけの世界、あなたに差し上げましょう。……それでは、契約成立だ」
男がそう告げた瞬間、それまで場を支配していた張り詰めるような緊迫した空気が、ふっと緩んだ。それは和解ではなく、二つの巨大な「悪」が同じ方向を向いたことによる、不気味な調和だった。
「それでは、行きましょうか」
男が漆黒のデバイスを高く掲げ、起動させようとしたその時。彼は思い出したかのように、足を止めて振り返った。
「あっ、そうだ。私のことは、ゼノと呼んでください」
デーモンがその名をなぞる間もなく、デバイスの中央から爆発的な黒い光が溢れ出した。光は瞬く間に周囲を飲み込み、重く垂れ込めた灰色の雲も、粘りつく黒い海も、すべてを塗り潰していく。
視界が完全に闇に染まり――直後、吹き荒れるような黒い光が霧散した。
あとに残されたのは、誰もいなくなった灰色の砂浜と、暗く蠢く波の音だけだった。