入道雲が立ち上る、真夏の青空。
お台場高校の屋上は、刺すような日差しと蝉時雨に包まれていた。
「……あの、ヒカリちゃん!」
本宮大輔は、フェンスを背に立つ八神ヒカリに向かって、意を決したように声を張り上げた。緊張で、制服のズボンのポケットに突っ込んだ拳が汗ばむ。
ヒカリは風に髪をなびかせながら、不思議そうに振り返った。
「ん? どうしたの大輔君、そんなに改まって」
「あ、いや、その……。俺、ずっと言おうと思ってたんだけどさ」
大輔の心臓が、喉から飛び出しそうなほど激しく鼓動を打つ。高校3年生、最後の夏。進路も、環境も、すべてが変わり始める前に。今この瞬間、この熱気の中で伝えたかった。
「俺、ヒカリちゃんのことが――」
「あ! ごめん大輔君!」
大輔の言葉を遮るように、ヒカリがパンと手を合わせた。申し訳なさそうに、けれどどこか軽やかな笑顔を大輔に向ける。
「私、これからお兄ちゃんにお弁当届けに行かなきゃいけないんだった! 忘れ物したらしくって。ごめんね、話はまた今度聞くから!」
「えっ? あっ、まっ、ヒカリちゃん!」
呼び止める間もなかった。ヒカリは軽やかな足取りで屋上のドアへと向かい、「じゃあね!」と手を振って、そのまま去ってしまった。
静まり返った屋上に、ジリジリと焦げ付くような蝉の声だけが取り残される。
大輔は、ヒカリがいなくなったドアを見つめたまま、がっくりと肩を落とした。
「……はぁ。またかよ」
大きくため息をつき、大輔は眩しすぎる空を仰いだ。
「……太一先輩を使うのは卑怯だよ、ヒカリちゃん。そんなこと言われたら、俺、何も言えねぇじゃんか……」
一人残された大輔の呟きは、熱い夏風にさらわれて消え、屋上のコンクリートからは、逃げ場のない熱気が立ち上っている。
大輔は力なくフェンスに背中を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。
「……進路、か」
ふと、仲間たちの顔が浮かぶ。
小説を書き始めたタケル。保育士を目指して真っ直ぐ歩んでいるヒカリちゃん。そして、既に自分の進むべき道をしっかりと見据えている賢。みんな、ちゃんと自分の足で未来へ踏み出そうとしている。
それに引き換え、自分はどうだ。
ヒカリちゃんを追いかけ回して、隙あらば告白しようとして。断られる口実に太一先輩を出されて、一人で勝手に落ち込んで。
「……あれ。俺、もしかして……相当気持ち悪いことしてねぇか?」
ふいに、客観的な視点が頭をよぎった。
周りが必死に進路のことを考えている中で、自分一人だけが中学生の頃から何も変わらないノリで、空気を読まずに「好きだ好きだ」と騒いでいる。
今のヒカリちゃんの困ったような、けれどどこか突き放すような笑顔。あれは優しさじゃなくて、呆れられていただけなんじゃないか。
「……そうだよな。もう、そんな時期じゃねぇんだ」
胸の奥が、熱気とは別の理由でジリリと焼けるように痛んだ。
いつまでも「選ばれし子供たち」のままじゃいられない。自分だって、夢であるラーメン屋の店主に向けて、修行に本腰を入れなきゃいけないんだ。
「……よし。もう、やめよう」
ヒカリちゃんへの執着も、この中途半端な自分も。
そう決心して、膝を叩いて立ち上がろうとしたその時だった。
ズボンのポケットで、スマホのバイブが鳴った。
画面を見ると、そこには『一乗寺 賢』の名前が表示されている。
「……賢?」
大輔は一つ深呼吸をして、いつもの「明るい大輔」を演じるように通話ボタンを押した。
「よぉ、賢! どうしたんだよ、珍しいじゃねぇか」
『あぁ、大輔。今、大丈夫かな?』
受話器の向こうから聞こえる賢の声は、相変わらず穏やかで、それでいて凛とした知性を感じさせた。かつての過ちを乗り越え、今の自分を律しながら生きている、彼らしい静かな響きだ。
『もし良かったら、これから一緒にご飯でもどうかなと思ってね』
その誘いに、大輔の口元が自然と緩んだ。
「へへっ、いいぜ。……美味いラーメン屋に連れてってやるよ」
大輔と賢はお台場の緩やかな坂道を歩いていた。アスファルトから立ち上る熱気が、二人の影をわずかに揺らしている。
「警察学校か。……賢らしいよ。お前なら、きっとすげぇ警察官になれるぜ」
大輔が眩しそうに目を細めて言うと、賢は少し照れくさそうに微笑んだ。
「まだ準備段階だよ。試験も厳しいしね。……京さんにも『あんたなら大丈夫よ!』って、なかば強引に背中を押されちゃって」
「ははっ、目に浮かぶな、それ。京も相変わらず元気そうで何よりだ」
「大輔の方はどうだい? ラーメン屋の修行」
賢の問いに、大輔は「おう!」と力強く頷いた。
「最近は、ラーメンだけじゃなくてさ。イタリアンとか和食の基礎も勉強し始めたんだ。出汁の取り方一つとっても、意外と共通点があって面白くてさ。将来、自分だけの『究極の一杯』を作るには、視野を広げなきゃダメだと思ってな」
「すごいな、大輔。ちゃんと先のことまで考えてるんだね」
賢は感心したように親友を見つめた。かつての猪突猛進だった大輔が、着実に「夢」に向かって歩みを進めている。その姿がどこか誇らしかった。
だが、大輔は不意に足を止め、視線を足元の影に落とした。
「……あとさ。決めたんだ。ヒカリちゃんのこと、もう諦めるようかなって」
その言葉は、蝉の声に消されそうなほど静かだったが、賢にとっては雷に打たれたような衝撃だった。賢は目を見開き、歩みを止めて大輔を二度見した。
「……えっ? 今、なんて?」
「だから、ヒカリちゃんを追いかけるのは、もう終わりにするんだよ」
「ま、待ってくれ大輔! なっ、何があったんだい!? あんなにずっと、ヒカリさんのことを一番に考えていたじゃないか。何か……何か取り返しのつかない喧嘩でもしたのか?」
普段は冷静な賢が、信じられないほどの勢いで大輔の肩を掴み、詰め寄る。その必死な顔に、大輔は思わず苦笑いして手を振った。
「落ち着けよ、賢。喧嘩じゃねぇよ」
「じゃあ、どうして!?」
「……さっき、屋上でさ。いつものように告白しようとしたんだ。でも、言葉にする前に『太一先輩にお弁当届けるから』って逃げられちまって。その時、ふと思ったんだよ。賢も、タケルたちも、自分の道を見つけて大人になろうとしてる。なのに俺だけ、ずっと中学生の時のノリでヒカリちゃんを追い回して……。それって、ヒカリちゃんにとってはただの迷惑なんじゃねぇかなって。俺、結構、気持ち悪いことしてたんだな、って気づいちゃったんだよ」
「大輔……」
「これ以上、周りに迷惑かけないようにしないとってな」
賢は、掴んでいた大輔の肩からゆっくりと手を離した。大輔の瞳に宿っているのは、いつもの強がりではない、どこか寂しくも清々しい「決意」だった。
「……分かった。大輔がそう決めたなら、僕はもう何も言わない。よし! 今日は僕の奢りだ!」
賢が努めて明るくそう宣言すると、大輔の顔にパッと輝きが戻った。
「よっしゃ!じゃあトッピング全乗せだな!」
「はは、ほどほどにしてくれよ」
二人は顔を見合わせ、先ほどまでの重い空気を振り払うように笑いながら、再び歩き出した。