混沌の時代。超常黎明期の日本は、力を持つ者が略奪し、持たざる者が絶望する暗黒時代(ダークエイジ)にあった。
若き日のオール・フォー・ワンは、ある地方都市の拠点が「消失」したという報告を受ける。
襲撃ではない。戦闘ですらない。
そこにあったはずのビルが、所属していた部下たちが、あたかも最初から存在しなかったかのように、物理的な「空白」となって消えていたのだ。
彼は興味を惹かれ、自らその現場へ赴く。
しかし、店に着くと、花屋はいつもと違った。
人影はなく、散乱した花びらと、濡れた床に点々とした赤。彼女は眉一つ動かさず、静かに店内を見渡す。誰かがいる。いや、いたはずの人間がいない。
花屋の角を曲がった瞬間、視界に入った光景に、彼女は立ち止まる。雨に濡れたアスファルトに血が線となり、裏路地の奥まで続いていた。
黒い制服の影――血の線を追うように立つ者たち。
彼女はただそれを事実として認識する。
悲しみも、怒りもない。
あるのは、予定を阻害された事実だけ。
誰かが倒れる。
血の線が裏路地に広がる。
倒れた者も、周囲の部下も、彼女にとっては障害物にすぎない。
「私の予定を、私の許可なく台無しにしたんだ」
手を上げる。
周囲の空気が歪む。黒い影が跳ね返る。
消すべき障害は、すべて消える。
瓦礫のように部下たちは倒れた。
残る一人の首を掴み、彼女は無機質に告げる。
「消えろ」
瓦礫の向こうに、初めて組織の規模が見えた。彼女は理解し始める――こいつらはチンピラではない。大きな力に属する存在の一部だと、少しずつ見えてくる。
だが関係ない。予定は予定だから、邪魔されたから消すだけだ。
雨に濡れた街灯が背を照らす。
破片と血の残る裏路地を抜け、彼女は淡々と歩き出す。
ただ、律が「予定が狂った不快感が消えなかった」という絶望をこの街はまだ知らない。
廃墟の街角。瓦礫の山の上に、一人の少女が座っていた。
彼女は血に濡れた街の凄惨な光景を眺めるでもなく、手元の手帳をじっと見つめている。
「……三十分」
律が呟く。
「予定より、三十分も遅れてる。ここの奴らが道を塞いでいたせいだ。不快だ」
背後に音もなく降り立ったAFOは、その少女から溢れ出す異様なプレッシャーを即座に感知した。
彼の「個性」を察知する感覚が、警鐘を鳴らしている。目の前にいるのは人間ではない。社会に溜まったドロドロとした負の感情を吸い込み、高純度のエネルギーへと精錬する「巨大な変換炉」だ。
「素晴らしい。君がこれ(空白)を作ったのかい?」
若きAFOは、まだ隠しきれない野心を瞳に宿し、極上の笑みを浮かべて語りかける。
「君の力は、この混沌とした時代を終わらせるためにある。僕の隣に来ないか? 君の『不快』をすべて取り除き、君が望むままの『予定』で動く世界を、私が与えてあげよう」
それは、数多の強者を従わせてきた魔王の誘い。
しかし、律は顔すら上げない。
「……あなた、誰?」
「僕は、君の価値を正しく理解できる唯一の人間だよ」
「価値? ……いらない。あなたは、私の予定を邪魔した連中の仲間?」
律がようやく顔を上げ、AFOを見た。
その瞳は、彼を「敵」とも「人」とも認識していない。ただの「不燃ゴミ」を見るような、あまりに無機質な視線。
AFOの背筋に冷たいものが走る。
彼は気づく。この少女には、自分が提供できる「支配」も「救済」も「役割」も、一切の価値がない。
彼女が求めているのは高潔な理想ではなく、「ただ予定通りに、ノイズなく過ごすこと」。
「君は、僕の支配する世界でも、そうやって一人でいるつもりか?」
「知らない。でも……」
律が立ち上がる。その瞬間、周囲の空気が一変した。
街中に漂っていた人々の恐怖、絶望、AFOへの憎悪が、まるで濁流のように律へと流れ込んでいくように錯覚する。
「お前の周りうるさすぎ」
律が軽く手をかざした瞬間、AFOの目の前の空間がひしゃげた。咄嗟に複数の防御系個性を発動させたものの、その圧力は物理的な重さを超え、彼の「存在そのもの」を世界から弾き出そうとする。
(――なんだ、この出力は。この街の、いや、国中の『負』を吸い上げているのか!?)
若きAFOは数メートル後退し、冷や汗を流しながら笑った。
初めての経験だった。自分が作り出そうとしている「恐怖の帝国」が、この少女にとっては自分を殺すための最強の弾薬庫になってしまうのだ。
「……くく、ははは! なるほど、君は僕の天敵だ。僕が支配を広げれば広げるほど、君という鏡は僕を焼き殺す光を反射するわけだ」
律は追撃することもなく、手帳を閉じた。
「? ……まあいい。次の店が閉まる。どいて」
彼女はAFOの横を、まるで道端の石ころを避けるように通り過ぎていく。
AFOはその背中を見送りながら、生まれて初めて「敗北」ではなく「計算不能」という屈辱的な興奮を味わっていた。
彼女の足音が遠ざかり、再び静寂が街を支配する。若き日のオール・フォー・ワンは、空間がひしゃげた衝撃で痺れる自身の右腕を眺め、口角を歪めた。
「……ふふ、ははは! 素晴らしい。素晴らしいよ、君」
AFOは、ひしゃげた右腕の痛みをむしろ愉悦として受け入れ、静かに笑った。その瞳に宿るのは、撤退の意志ではなく、極上の「獲物」を見つけたコレクターの狂気だ。
彼は、律の背中を、その「個性」が秘めた無限のポテンシャルを計算し尽くすような眼差しで射抜く。
(君がその『不快』を燃料に、より多くの負を、より純度の高いエネルギーに変換し続け、その個性が極限まで成熟した時――それをまるごと奪い、僕の血肉としよう。その時こそ、僕は名実ともに、この世界の因果を統べる唯一の主となれる)
彼はあえて律にトドメを刺さず、また無理に勧誘もしない。
今の彼女を放置することは、AFOにとって「最高の果実を育てるための熟成期間」に過ぎないのだ。
(「不快だから、消えて」、か。……いいだろう。今の傲慢さを、数十年後の絶望で塗りつぶしてあげるよ。僕の思い通りに世界を編み上げ、君がようやく手に入れた『平穏な日常』を最高のタイミングで、指先一つで、文字通り塵にしてあげる。その時、君がどんな顔をして、どんな『負』を吐き出し、どれほど美味な『個性』へと進化しているか……今から楽しみでならない)
それは、彼がこれまでに数多の人間に対して行ってきた「貸し借り」の究極形。数十年という時間をかけた、あまりに悪趣味な意趣返し。
「行くといい、負騒 律。せいぜい、君の『予定』とやらを大切に育むんだ。……数十年後、僕がそれを根こそぎ奪い、君に『本当の不快』を教えてあげるその日まで」