個性『ネガティブ・エンジン』   作:rurya

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面倒だから

 結局、あの日、花は買えなかった。

 

 店は無茶苦茶になり、店主は消え、残ったのは足元を汚す血と瓦礫だけ。

 

 律にとっての怒りは、正義感などではない。お気に入りのアイスを、食べる直前に見知らぬ通行人に叩き落とされたような、理不尽への苛立ちだ。

 

 あのがさつな一掃のあと、数日間、自宅のソファから動かなかった。

 

 何かを成し遂げた達成感も、人を手にかけた忌避感もない。ただただ、せっかくの外出を台無しにされ、その始末に無駄なエネルギーを使わされたことへの「損をした」という感覚だけが、澱のように腹の底に溜まっている。

 

 

 

「……もう、日本はいいや」

 

 

 

 窓の外では、今日もどこかで「個性」の覚醒を祝うのか、あるいは呪うのか、騒がしい爆音と怒号が聞こえてくる。

 

 

 

 ──読みかけの雑誌を放り投げた。

 

 

 

 この国は今、誰もが他人の領域に踏み込み、叫び、暴れることに夢中だ。彼女が最も嫌う「騒々しさ」が、もはや文化になりつつある。

 

 彼女の趣味は、静かな場所で、誰にも邪魔されずに、ただぼーっとすること。あるいは、気の向いた時にだけ、気に入ったものを眺めること。そのささやかな贅沢が、今のこの国では最も困難な贅沢になっていた。

 

 

 海外の、ある特定の地域が異常に静かだという噂を耳にしたのは、そんな時だった。

 

 

 そこには強力な統治者がいるだの、特殊な法があるだのと噂されていたが、律にとってはどうでもいい。

 

「静かなら、それでいい。余計なことに頭を使わなくて済む」

 

 彼女は、必要最低限の荷物だけをトランクに詰め込んだ。彼女にとっての「凄み」とは、この身軽さにある。執着がないのではない。自分以外のすべてに対して「興味を持つのが面倒」なのだ。

 

 

 だからこそ、彼女の領域(テリトリー)を侵すノイズに対しては、容赦はしない。

 

 

 空港へ向かうタクシーの中でも、彼女は一度も振り返らなかった。

 

 

 

 背後で、あの「黒い影の男」が自分にどんな執着を抱こうが、知ったことではない。律の中での彼は、すでに「花を買い損ねた日にいた、変な喋り方をする不燃ゴミ」として、記憶の隅へ掃き出されていた。

 

 

 

 

 

 飛行機の座席に深く身を沈め目を閉じる。

 

 

 

 

 

 入国審査の長い列に並んでいるだけで、すでに来たことを後悔し始めていた。

 

 前の男は個性の発現で体が大きくなったらしく、服の背中が弾け飛んでいる。後ろの女は、不安なのか指先からずっとパチパチと火花を散らして、さっきから私の服の裾を焦がしそうだ。

 

 

 

 正直、そういうのはよそでやってほしい。日本を離れれば少しはマシかと思ったけれど、結局どこへ行っても人間が「超常」とかいう新しいおもちゃに振り回されている事実は変わらないらしい。

 

 

 

「次の方、パスポートを」

 

 

 

 無愛想な係員の言葉に、黙って手元の冊子を差し出す。

 

 相手が私の顔と写真を何度も見比べ、それから少しだけ怪訝そうに眉を寄せた。

 

 

「……渡航の目的は?」

 

「静養。日本がうるさすぎるから」

 

「静養、ねえ。この時期にわざわざこの国を、しかもこの特別自治区を選ぶ奴は珍しい。ここは最近、奇妙なほどに『平和』だって噂だが、それについては、あんたはどう思う?」

 

「どうでもいい。静かなら、それだけでいいから」

 

 

 係員は肩をすくめ、スタンプを叩きつけた。

 

 ゲートを抜け、預けていたトランクを受け取る。それだけの動作で、もう今日の気力は使い果たした気分だ。

 

 

 空港の外に出た瞬間、少しだけ、耳の奥に違和感があった。

 

 ――静かだ。

 

 物理的な音がないわけじゃない。車のエンジン音も、遠くの話し声も聞こえる。

 

 けれど、あの日本に充満していた「いつ誰がどこで爆発するか分からない」という、肌を刺すような落ち着かない熱気が、ここには一切なかった。

 

 タクシーを拾い、あらかじめ手配していた短期滞在用のホテルへ向かう。

 

 窓の外を流れる景色は、驚くほど整然としていた。

 

 人々は笑っているわけでも、怯えているわけでもない。ただ淡々と、決められたレールの上を滑るように動いている。

 

 

(……あ、これ、ちょっと気味が悪いかも)

 

 

 ふと、そんな考えがよぎった。

 

 けれど、その「気味の悪さ」よりも、窓に頭を預けていられる「静けさ」の方が、今の自分にはずっと価値がある。

 

 

 ホテルに到着し、荷物を床に放り出す。ベッドに倒れ込むと、リネンの乾いた匂いがした。ようやく一人になれた。誰にも邪魔されない、自分だけの時間。

 

「……とりあえず、明日は一日寝てよ。気が向いたらでいいや」

 

 天井を見上げながら呟く。

 

 あの日、あの男の仲間を吹き飛ばした時に感じた、あの胸のざわつきはもうない。あの男が何かを企んでいようが、今の私には一眠りすることの方が何倍も重要だった。

 

 

 

 

 

 翌日、昼過ぎに目が覚めた。カーテンの隙間から差し込む光が、少しだけ強すぎる。

 

 枕元で鳴り続けるアラームを叩き潰したい衝動を抑え、重い体を引きずって窓を開けた。

 

 

 

 ――やはり、静かだ。

 

 

 

 

 この街には、日本で聞き飽きた「個性の暴走による爆発音」も、それに対する「悲鳴」も届かない。一見すれば理想郷。けれど、昨夜感じたあの「気味悪さ」の正体が、少しずつ輪郭を見せ始めていた。

 

 空腹を満たそうと街へ出た。

 

 ふらりと入ったカフェ。客たちは皆、穏やかな顔でコーヒーを啜っている。

 

 だが、店員がトレイを落として派手な音を立てたとき、誰も驚かなかった。それどころか、視線すら向けない。まるで「不測の事態」という概念が、この空間から削ぎ落とされているかのようだ。

 

「お待たせいたしました。こちら、当店のサービスです」

 

 置かれたのは、頼んでもいない小皿の焼き菓子。店員の笑顔は、左右対称に整えられた作り物のように完璧で、少しも揺らがない。

 

「……頼んでないけど」

 

「ええ。ですが、お客様が少しだけ『お疲れ』のように見えましたので。この街では、誰もが健やかで、平穏であるべきですから」

 

 

 親切。

 

 

 

 けれど、その言葉の裏にある強烈な「強制力」。ここには自由な騒乱がない代わりに、誰かが決めた「平和という名の型」が、街全体を覆っている。

 

 それは、律が求めていた「静けさ」とは少し違った。

 

 律が欲しいのは「勝手に放っておいてくれる自由な静寂」であって、誰かに「平和でいなさい」と管理されることではないからだ。

 

 

(……ん、なんか面倒くさい。ここも、ハズレかな)

 

 

 一口食べた焼き菓子は、味がしなかった。正確には、美味いとも不味いとも思わせない、徹底的に「無難」に調律された味。

 

 店を出て、目的もなく歩く。すると、広場の中心にある巨大なモニターに、一人の男が映し出された。この特別自治区を統治しているという人物。

 

 男が言葉を発するたび、周囲の人々が陶酔したような溜息をつく。その光景を、ゴミを見るような、冷めた目で見つめた。

 

 

「気持ち悪い、この街」

 

 

 音は小さい。けれど、街中に満ちている「平和でいなければならない」という強迫観念のような重圧と個性によってその恐怖のエネルギーのみが流れ込んでくる。

 

 

 その時だ。

 

 

 背後から、不自然なほど足音を殺した男たちが近づいてくるのに気づいた。

 

 彼らは「自警団」と書かれた腕章をつけ、にこやかに、けれど逃げ道を塞ぐように律を囲む。

 

 

「失礼。入国したばかりの方ですね? 少し、街の『調律』に馴染めていないようです。こちらで、心のケアを受けていきませんか?」

 

 

 ああ、まただ。律は深い溜息をついた。

 

 どこへ行っても、人は他人の領域に土足で入り込んでくる。

 

 

 日本は「暴力」で、この国は「善意」か?

 

 ゆっくりとトランクの持ち手を握り直す。

 

  カフェの店員、自警団の男たち。彼らは一様に完璧な笑顔を浮かべている。だが、その瞳の奥には感情がない。まるで、感情という雑音を削ぎ落とされた人形だ。

 

 自警団のリーダーが、逃げられない距離まで近づき肩に手を伸ばしてきた。

 

 

「さあ、案内します。あなたの『不快』を取り除いて差し上げ――」

 

 

 その瞬間、律は、ふうっと細く息を吐いた。

 

 呼吸に合わせて、彼女の周囲の空気が防護壁のようなバリアなようなもので守られた。

 

「触らないで。あぁ、面倒くさい、殺すよ?」

 

 自警団の男たちはまるで目に見えない重力に押し潰されたように、その場に膝をついた。膝の骨が軋む音が、静かな街路に小さく響く。

 

 彼らの顔から、完璧だった笑顔が消え、ただの恐怖が浮かぶ。

 

「な……んだ、この、異能は……っ」

 

 

 

「うるさい」

 

 

 

 冷ややかな視線を投げ、トランクを引きずって去ろうとした。

 

 その時、広場のスピーカーから、優雅で、けれど少しだけ気味の悪いクラシック音楽が流れ始めた。膝をついていた男たちが、その音楽を聴いた途端、糸を引かれた人形のように、何事もなかったかのように立ち上がり、無表情に戻る。

 

 

「ほう。これはエネルギーを、そのまま物理的な力場に変換する、能力ということかな?」

 

 頭上から、朗らかな声が降ってきた。

 

 広場を見下ろすビルの屋上。そこに、昨日モニターに映っていた統治者が立っていた。優雅なスーツに身を包んだ、まだ若い男。名を「調律師」と呼ぶ。

 

「私の調律を弾くとはね。君、名前は?」

 

「……はぁ、どいつもこいつも自己紹介しないと気が済まない病でも患わっているの?」

 

 足を止めず、自称調律師を一瞥して吐き捨てた。

 

 

 その反応に、自称調律師は怒るどころか、逆に目を輝かせた。仰々しいスーツを着た男が、さっきから一人で悦に浸りながら喋り続けている。

 

 空腹で、機嫌が悪い時に聞くには、あまりに毒電波が強すぎた。

 

 第一、目の前で自警団とやらをねじ伏せた女に対して、よくもまあそれだけ無防備に近づいて来られたものだ。平和に浸りすぎて、危機感まで「調律」とやらに削り落とされたのか。

 

「あんた、黒いやつの仲間?」

 

 とりあえず、以前日本で予定をぶち壊したあの男との関連だけは聞いておく。

 だが、男はきょとんとした顔で首を傾げた。

 

「……ん? 黒いやつら? そんなものは知らないな」

 

「そう。ならいいわ。もう用はない」

 

 知らないなら、ただの変質者だ。

 

 律はそれ以上の対話を放棄した。相手が次に何を言おうとしたのか、その口が開くよりも速く、踏み込む。

 

 

 コンクリートを蹴る音さえ置き去りにして、足が男の腹部にめり込んだ。

 

 

 理由はどうでもいい。ただ「邪魔だ」という一点の意志だけが乗った一撃は、自称調律師の体を枯れ葉のように易々と吹き飛ばした。

 

 鈍い衝撃音が、数回。一瞬で数百メートル後方へ吹き飛ばされる。

 

 男の体は広場の噴水を粉砕し、そのまま向こう側の石壁にめり込んで動かなくなった。

 

「…………」

 

 静かになった。

 

 周囲で「調律」されていたはずの市民たちが、一瞬、呆然と固まる。プログラムにない事態が起きた際の人形のような、ひどく間抜けな沈黙。

 

 蹴り上げた足の感触を嫌そうに振り払い、地面に置いたトランクを再び掴んだ。

 

「……はぁ。お茶飲むのも一苦労とか、なんなのこの街」

 

 男が死んだかどうかも確認しない。

 

 彼が何者で、この街をどうしたかったのかも興味がない。

 

 彼女にとって今最も重要なのは、この胸糞悪い広場から離れて、今度こそまともな昼食にありつくことだ。

 

 が、背後で微かな、けれど確かな不快音がした。

 

 ズリ、と瓦礫が崩れる音。

 

 壁に深くめり込んだはずの男は、口から血を流しながらも、まだこちらを凝視している。その目は、恐怖に震えているわけではなかった。何か、とんでもない掘り出し物を見つけたコレクターのような、執拗で、不愉快な熱を帯びた「確信」の眼差し。

 

 

 

――その視線が、彼女の何かに触れた。

 

 

 

「……あぁ、もう。ほんと、無理」

 

 

 低く呟いた瞬間、広場の空気が変質した。

 

 周囲にいた人々は、何が起きているのかさえ分かっていない。けれど、彼らが心の奥底で無意識に抱えていた「得体の知れない不安」や「暴力への根源的な恐怖」が、一斉に、濁流となって彼女へと流れ込み始めた。

 

 吸い取られた本人たちは、それが奪われたことにすら気づかない。恐怖は消えず、ただ「恐怖という名のエネルギー」だけが強制的に供出させられている。

 

 あまりの質量。あまりの不純物。

 

 自発的に、かつがさつに引き抜かれた膨大な負の感情は、もはや不可視の概念ではいられなかった。律の両肩の背後に、どろりとした漆黒の、あるいは禍々しい紫を帯びた「淀み」が可視化され、空間を歪めながら渦を巻く。

 

 街灯が激しく明滅し、石畳が震える。

 

 律は振り返ることすら億劫そうに、首だけを僅かに傾けて、壁に埋まった男を視界の端に捉えた。

 

 

 

「死ね」

 

 

 

 直後、彼女の両肩から、圧縮された負の奔流が極太の光線へと変換され、放たれた。

 

 眩い閃光ではない。それは光を飲み込むような「闇の楔」だった。

 

 空気の震動さえ置き去りにする速度で撃ち抜かれたエネルギーは、男を、彼がめり込んでいた石壁を、さらにはその背後のビル数棟を、まるで熱したナイフでバターを切り裂くように、音もなく蒸発させていく。

 

 衝撃波すら残さない、圧倒的なまでの消失。

 

 光線が通り過ぎた後には、高熱でガラス化したアスファルトと、地図を書き換えるような巨大な「空白」だけが残されていた。

 

 律は、肩に残る熱を追い払うように軽く手を払うと、今度こそ、一度も足を止めることなく歩き出した。

 

「……お腹、空いた」

 

 彼女が去った広場には、ただ茫然と、消えた街並みを眺める人形のような群衆が取り残されていた。

 

 

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