4.
マグノリア研究所のウッドデッキを取り囲む柵にもたれ掛かって、キバナはぼんやり空を見ていた。
隣にはフライゴンが寄り添っている。さっきまでポケモンたちがここで一緒に食事をしていたが、他の者たちが自分のポケモンをボールに戻して、各自の仕事に戻ってしまったため、キバナのポケモンだけが取り残された形となった。ジュラルドンやキバゴは食べ終わって眠ってしまったため、今はフライゴンだけがキバナの側にいる。
昨夜、爆発事故を目撃してから、深夜に夜行列車に乗って長距離移動をし、早朝にブラッシータウンに着いて、そこからはダイゴとヒガナの捜索、無事見つかって研究所に戻ってきて、メテノの暴走があって……、まだ昼前だ。半日ちょっとしか経っていない。短時間にいろいろありすぎた。キバナは思考をまとめるため、自然と空の方向へ意識が向いた。
ブラッシータウンはガラル地方の中でもかなりの郊外にある、長閑な田舎町だ。研究所の周りも草木が生い茂るばかりで、しばらく歩かないと家屋すらほとんど見えない。キバナの視界も、上半分は水色の青空、下半分は緑色の草原と非常にシンプルだ。これくらいシンプルなほうが、余計な情報が入らず、思考に集中できる。キバナはこういう時間が好きだった。
「やあ」横から声を掛けられた。「邪魔するよ」
ヒガナだった。先ほどのボロボロの服を着替えたようだ。グレーのタートルネックに、オレンジのジャケット、黒のスキニージーンズ。見覚えのある服だった。確かソニアがよくそんな服を着ていた。ソニアから借りたのか。
「あの子、悪い子じゃないんだろうけど、いまいち反りが合わないというか……。服を貸してくれたのはありがたいんだけど、おばあ様から逃げるためか、やたらと私に話しかけてきたんでね。ちょっと嫌になって私のほうが逃げてきてしまった」
そう言ってヒガナはくすりと笑い、キバナのほうへ近づいてきた。否、彼女が用があるのはキバナではなく、フライゴンのほうだった。ヒガナはフライゴンに触れると、首筋の裏の辺りに親指を押し付けた。途端に、フライゴンはその場にしゃがみ込んでしまう。
「お前、何を……」キバナは狼狽し、思わずヒガナの手首を掴んだ。
「ごめんごめん」ヒガナは微笑んだ。「でもフライゴンは嫌がっていないようだよ」
キバナがフライゴンを見ると、フライゴンはキバナに向かって嗜めるような視線を送っていた。やめてやれと言っているようだ。キバナは掴んだ手を離した。
「マッサージだよ」ヒガナは再びフライゴンに親指で指圧を始めた。「さっき結構な距離を飛んだだろう。羽を動かしたことで全身に若干の疲労が見られる。こうやって羽の付け根の辺りを揉んであげると疲れが取れるんだ」
フライゴンはウッドデッキに腹這いになり、気持ち良さそうにヒガナに身を委ねている。
「お前、詳しいんだな」キバナは素直に感心した。ドラゴンのエキスパートである彼も、そんなことは知らなかった。
「フライゴンはホウエンでは結構メジャーなドラゴンポケモンでね、一族に持っている人が何人かいて、よく世話を手伝っていた」
「一族……、さっき話にあった、流星の民とかいう奴か」
ヒガナは流星の民の出身だと聞いた。なるほど、レックウザの伝承を伝えてきた一族だけあって、ドラゴンポケモンには精通しているようだ。
「さっき空を見ていたね。空が好きなのかい?」
急に話題を変えてきた。もしかしたら出身を詮索されるのが嫌なのかもしれない。キバナもさして興味はなかった。質問に応じる。
「まあな。でもどうしてわかった?」
空は見ていたが、好きかどうかまでは判断できないはずだ。
「目や首の動きが雲の流れを追っていた。ただボーっとしているわけじゃないなと思ってね」
よく観察している。確かに、キバナは空を眺めるとき、考え事をしていても、無意識に空の変化を目で追うのが癖になっていた。
「やっぱり君と私は似ている。私も小さい頃から、よく不安なときや寂しいとき、空を見てきたから」
そう言うと、ヒガナはフライゴンのマッサージを続けつつ、自分も空を仰いだ。
「空はいいね。人間は普段地面に縛られて生きているけど、空にいるときは、そんなしがらみから解放されて自由になれる。一族に生まれて辛いこともあったけど、ドラゴンがいつも側にいてくれて、ドラゴンと空を飛べる環境にあったことは、役得だったなって思ってる」
それにはキバナも同意だった。キバナは空を眺めるのも好きだが、フライゴンに乗って空を飛ぶことも同じくらい好きだった。
「えっと、君はダンデに対抗意識を燃やしているって認識で良かったかな?」
また急に話題が変わった。しかも、安易に触れてほしくないワードが出てきた。特に親しくもない人間と話したい話題ではない。キバナは無視して空を見続けた。
「さっきソニア嬢が言ってたんだよね。私と坊ちゃんの服は、君と喧嘩したからボロボロになったんじゃないかって。とんだ想像力だって笑っちゃったけど……」
無視するつもりだったが、ソニアのあまりに的外れな妄言に、キバナは思わず鼻から息が漏れてしまった。
「私が否定したら、じゃあキバナ君はダンデ君と喧嘩したのかな、なんて言ってさ。そこで、君とダンデの因縁を聞かされてしまった」
そういえば、さっきウッドデッキに出たとき、研究所に入ってくるソニアと目が合った。そのときの自分の浮かない表情を見て、勝手に邪推されたのだろう。
「別に、因縁っつーほどのモンじゃねえよ」キバナは素っ気なく答える。
「十回もバトルするのは、因縁というほどのものだと思うけど」
マジで全部聞いてやがる。ソニアの奴……。
ヒガナはフライゴンのマッサージを終えて立ち上がり、ウッドデッキの柵に寄り掛かった。キバナとは一メートルほど距離を空けている。
「素敵なライヴァル関係じゃないか。私はずっと独りで生きてきたから、そういう相手はちょっと憧れたりもするね」
「ライヴァルか……」キバナは数秒黙った。「ライヴァルっつーのは対等な関係のことだろう。オレは負けっぱなしだ。対等でも何でもねえ」
「向こうはそう思ってないみたいだけどね。君が出ていった後、彼、君の腕前は頼りになるって言ってたよ」
キバナは大きく息を吐いた。いかにもあいつが言いそうなことだ。それは自分が圧倒的に上だからこそ言える余裕という奴だ。別にオレを対等と認めているわけではない。
「あはは、嫌がってる」ヒガナは笑った。「やっぱりね。あのダンデって人、結構ナチュラルに君を苛つかせてるんだろうなって思ったから」
それはお前もだ、とキバナは言いたかった。
「でもそこが彼の強さなんだろうね」
「強さ?」キバナはようやくヒガナのほうを向いた。
「彼は君からどう思われてるかなんて気にしちゃいない。自由なんだ。何物にも縛られていない。それが彼の強さなのだろうと私は思う」
自由、縛られていない……、確かにそうかもしれない。ダンデはジムリーダーや四天王でなく、ただのポケモントレーナーとしてバトルに専念する人生を送っている。キバナのようにジムリーダーの雑務に追われることもなく、挑戦者のレベルに気を遣うこともなく、自由にバトルしている。自由こそが、強さ……。
「自由の強さは、私自身、ここ最近よく痛感してるよ。私も昔は一族の使命に縛られて、それが正しいと信じて生きていた。けど、いろいろあって使命は果たされた。ほとんど失敗に終わって、挫折も味わったけど、まあいろんな人の協力もあって、何とかなった。そして使命から解放された私は、ようやく自分自身の旅に出ることができるようになったんだ。旅は楽しいよ。世界が違って見えたね。あの頃の自分を否定するわけじゃないけど、でも旅を通して、人間的にも成長できたし、ポケモンとの絆もより深まったって思う」
ヒガナは飄々と語りつつも、その声にはどこかしら安堵のニュアンスが感じられた。しがらみから解放された実感が籠っている気がした。
「ま、今はこんなめんどくさい任務に駆り出されてるんだけどさ」ヒガナは自嘲した。
キバナがちらりと空を見ると、太陽がちょうど真上にあった。そろそろ正午だ。日差しが眩しい。冬も近づくこの時期には珍しく、キバナは首筋に少し汗をかいていた。
「なあキバナ、君も心のどこかで自由を求めているんじゃないか?」
キバナは再びヒガナのほうへ視線をやった。
「だって空は自由の象徴だからね。多分だけど、王者を超える鍵はそういうところにあるんじゃないかな」
何とも抽象的な物言いだった。だが、キバナには何となく伝わった。自分とダンデを隔てる壁、それが、自由……。
「いや、ごめん。余計なお世話だった」ヒガナが言う。「ただ、君には私と似ているものを感じるからこそ、言いたいと思ったんだ。あの頃の私も、きっとこんな感じの言葉を投げ掛けてほしかっただろうから……」
それを聞いてキバナはまた空を仰いだ。オレはダンデのような自由を求めている?