1.
1.
キバナは空を飛んでいた。
否、キバナ自身が飛行しているわけではない。彼はレックウザの背中に乗っていた。高度五千メートルの上空。それはキバナが今まで見たことのない景色だった。
キバナは空が好きだった。だから、旅を始めてから捕まえたナックラーが、ビブラーバ、そしてフライゴンへと進化したときは、真っ先にフライゴンの背に乗って、空を飛んだ。それは素晴らしい体験だった。
身体を突っ切っていく風の心地よさ、太陽の眩しさ、そして何より眼下に広がる景色。街も人も豆粒のように小さい。そして山や森は想像以上に広い。自分自身の存在すらちっぽけに思えてくるほどの世界の大きさに、キバナは感動した。
それでも、フライゴンが飛べるのはせいぜい高度三、四百メートルくらいだった。いや、それも充分に凄いことではある。しかし、伝説のポケモン・レックウザの飛行能力は文字通り桁違いだった。元々成層圏のオゾン層に生息するポケモンである。成層圏はおよそ高度十キロメートルに位置する大気の層だ。
今、キバナはそのレックウザと共に、五千メートルの空を飛んでいる。夢でも見ているようだった。あるいは、まだ夢の中にいるのかもしれない。
フライゴンと飛んでいたときは心地よかった風も、この高さではその身を切り裂くように冷たく、痛い。一応、厚手の服を着込んで、ゴーグルも着用しているが、フェイスマスクも持ってくるべきだったとキバナは後悔した。顔がとにかく寒い。
それに、五千メートルというと、登山であれば高山病にかかるような高さだ。そう長くはいられない。次第に息も苦しくなるだろう。
しかし、その苦しさと引き換えにしても余りあるほど、この空は絶景だった。三百メートルでは辛うじて視認できた人の姿も、五千メートルだとまったくわからない。街は建物単位ではなく、街全体をひっくるめて、何となくそういう場所があると認識できる程度。山も真上から見下ろす形だ。視線の水平線上には雲が広がっている。キバナは震えていた。それはもちろん寒さのせいもあるが、胸の奥がどこか熱くなっているのも感じていた。
レックウザと共にいるからこそ見られる景色。伝説のポケモンの背中という特等席で、キバナはレックウザと同じ空気を吸いながら、眼前に広がる世界に心を奪われていた。
あの事件から半月ほど経った。
レックウザをボールに収めた後のことは、あまり覚えていない。頭がふわふわとして、現実感がなかった。ただ、紛れもない現実だったことは、少しずつ時を経るごとに、身体や脳に染みるようにじわじわと実感を伴ってきた。
後で聞いたところによると、リゼルグの構成員たちは警察に取り押さえられ、組織は解体したとのことだった。バッカクとエゴノキ、そして幹部クラスだった三人はテロ未遂で逮捕され、その他の構成員たちも取り調べを受けている。
リゼルグは自らの死を望む者たちの集団であり、死へ向かう儀式として、レックウザに破壊を行わせるのが目的だった。その気持ちはキバナには理解できなかったが、まあそういうことを考える奴もいるだろうという想像くらいはできた。
あのとき、自分はダンデがいる前で、バッカクに声を掛けた。それ自体に後悔はない。余計なことを言うべきではなかったとか、あるいはもっと別の言葉をかけてやれば、バッカクを立ち直らせることもできたかもしれないなどという考えも頭をよぎったが、そこまで気を掛けてやる義理は自分にはない。別にヒーローでもないのだから。
彼らを救うのは、また別の人間の仕事だ。自分はテロを止める行為に一役買うことができた。それで充分ではないか。それに、未遂とはいえ、テロは重罪だ。キバナは法律には疎かったが、それでもバッカクやエゴノキがどれくらいの罪を背負うことになるのか、何となく想像はできた。多分、もう会うことはないだろう。
それにしても、いろんなことがあった。
メテノに関しては、無事に保護された。レックウザに隕石エネルギーを与えるため、研究所の地下で大量のタマゴから孵っていたメテノたちは、マグノリア博士の下に送られて、健康状態をチェックされたのち、一部はアローラ地方へと送られ、一部は一般のトレーナーたちに引き取られ、また一部は成層圏へと旅立っていった。いずれも収まるところに収まったと言えよう。
キバナがマグノリア研究所で助けたあの赤色のメテノは、成り行きでキバナが引き取ることになった。いつの間にか情が移ってしまっていたらしい。いずれはメテノとレックウザを一緒に成層圏の散歩などさせてもいいかもしれない。散歩というには不釣り合いなスケールだな、とキバナは笑ってしまった。
警察の事情聴取を受けた後、ダンデとマリィはそれぞれリーグやジムリーダーの業務に戻り、ダイゴは溜まった仕事を片付けるため、ホウエン地方へと帰っていった。
ヒガナはその後もしばらくガラルに留まり、キバナとレックウザが心を通わせるための特訓に付き合ってくれた。キバナほどの実力者であっても、伝説のポケモンの扱いは一筋縄ではいかない。いくら強豪の集まるガラルリーグと言えど、伝説のポケモンの使い手が少ないのは、伝説のポケモンの存在が希少であることももちろんだが、仮に捕まえたとて、それを使いこなすことが至難の業だからというのも大きな理由であった。
事実、レックウザも最初は言うことを全然聞いてくれなかった。キバナにとって、ここまでポケモンを御し切れないのは初めての経験であり、戸惑いこそあったが、ヒガナがいてくれたおかげで助かった。
ヒガナはレックウザの伝承を数千年間伝えてきた一族の末裔であり、実際にレックウザと対峙した経験もある。そのときはわけあって彼女自身がレックウザを捕獲することは叶わなかったが、元々資質は充分にあったそうだ。実際、キバナが捕まえたレックウザも、最初はヒガナに懐く素振りを見せていた。
特訓は困難の連続だったが、レックウザは徐々にキバナに心を開き始め、言うことを聞いてくれるようになっていった。
しかしそもそも、キバナはレックウザを捕まえたところで、相棒にしようという発想は、最初はなかった。いくら自分でも伝説のポケモンは手に余る。仮に使いこなせたところで、ジム戦でチャレンジャーに対して出すわけにもいくまい。あくまで今回の騒動を治めるための捕獲だったのだから、事件が終わった今、野生に帰してやるのが筋ではないかと考えたこともあった。
だが、その考えを翻させたのはダンデの言葉だった。
「キバナ、また挑みに来いよ。今度はレックウザと一緒に」
レックウザを捕まえたあの夜、研究所に多数のパトカーが到着し、それに乗り込んでシュートシティに向かおうとする際、彼はキバナに対してそう言った。キバナは一瞬ぽかんとしたが、すぐに眉を寄せ、口角を上げて返した。
「ハンデを付けても余裕ってことか?」
しかしダンデはすぐに首を振った。
「伝説のポケモンを使うのはハンデじゃない。相応の実力があればこそだ。キバナ、お前なら使いこなせるとオレは信じている」
そしてダンデはまっすぐキバナを見つめて言った。
「何より、オレが戦いたいんだ。レックウザと、いや、お前のレックウザとな」
ダンデらしい言葉だった。それがキバナの闘志に火を付けた。
そして特訓の結果、キバナは今こうしてレックウザに背中を預けてもらえるまでの関係を築けた。ここに至るまでもいろいろな苦労があった。今も下手をすれば、レックウザは気まぐれでさらに上昇し、人間の活動限界を超える高度にまで飛んでいってしまうかもしれない。それを制御するのも、キバナとレックウザの絆次第だ。
レックウザは今、空を飛びながら、時折咆哮している。しかしそれは、あの夜聞いたような、装置のエネルギーで洗脳された破壊衝動から来る絶叫ではなく、まるでキバナとの飛行を楽しんでいる幸せの雄叫びのように聞こえた。
「自由か……」
キバナは呟いた。自由、その言葉はレックウザとの特訓の中でも、頭の中で何度も反芻した言葉だった。
今飛んでいる空は、かつて地上から見上げていた空。それを今は、見下ろす側にいる。これもまた、自由ではないだろうか。
前にヒガナに言われたことを思い出していた。ダンデは自由であるがゆえに強い。自分にはその自由が足りていない。だからダンデに勝てない。
なるほどそれはひとつの理屈かもしれないと、そのときは思った。自分はジムリーダーとしての雑務に追われ、チャレンジャーに対して全力とは言えない姿勢でバトルをしている。その不自由な環境と比べ、ダンデは常に己のやりたいように、全力で特訓し、全力でバトルに臨んでいる。その違いが、そのまま勝敗に現れているのではないか、と。
だったら自分もジムリーダーを辞めるべきではないかという考えが脳裏をよぎらなかったかと言われれば、否定はできない。そういう道も、もしかしたらあるのかもしれない。
しかし、バッカクの話を聞いたら、その決意も揺らいでしまった。バッカクはダンデに敗れて以降、スランプに陥り、競技シーンから落ちていった。彼の行いが正しかったとは間違っても言えないだろうが、それでもその心中は察するに余りある。
翻って、ジムリーダーというのは、何だかんだ社会的にも経済的にも安定した立場だ。ダンデやかつてのバッカクのように、ポケモンバトル一本で生計を立てていくのとは、自然と心構えが違ってくる。
ダンデほど強ければ話は別かもしれないが、バトルのみで食べていくとなると、「ここで負けたら生活が立ち行かなくなる」というプレッシャーに見舞われることだってあるだろう。その点、ジムリーダーである自分は、公式戦で負けても、生活にはほとんど影響はない。あるいはその余裕こそ、自由と言えるのではないだろうか。
言葉遊びだと言われればそれまでだが、何とも難しいものだな、とキバナは思った。
ジムリーダーであるがゆえに、自由に戦えない。
しかしジムリーダーであるがゆえに、生活が保障され、余裕という自由が生まれる。
どっちもどっちではないか。正解などない。結局はすべて自分次第……。
そのときだった。キバナはレックウザが切り裂く蒼空の雲間に、何かの影を認めた。数百メートルほど先だろうか。シルエットを見るに、人間がポケモンに乗っている。誰だろう。
キバナの好奇心にレックウザが呼応し、加速して影に近づく。だんだん姿が鮮明になってきた。
それはリザードンに乗ったダンデだった。
馬鹿な。ここは高度五千メートル。リザードンが飛んでこられるような場所ではない。それに重装備のキバナと違って、ダンデはいつも通りのチャンピオンスタイルのユニフォームを着用している。
前方を飛ぶダンデは、レックウザの気配に気付くと、後ろを振り向き、キバナに向かってにやりと笑った。そしてリザードンに合図すると、リザードンはさらに高度を上昇させ、上方の雲の中へと消えていった。
頭がぼーっとしている。先ほどから、思考はいやにクリアなのに、身体全体の感覚がふわふわと浮遊感に包まれている。夢なのか現実なのか区別がつかない。
スマホロトムのアラームが鳴った。一瞬、夢から目覚めたのかと勘違いしたが、そうではない。予めセットしておいた、滞空時間の限界だ。これ以上この高度に留まり続けると、キバナ自身の身体に影響が出かねない。キバナはレックウザに地上へと下りるよう指示した。レックウザはゆっくりと高度を下げ、数分ほどでナックルシティのジムがある古城の最上階へと降り立つ。
あの空で見たダンデは一体何だったんだろう。夢か、幻か、あるいは願望か……。
いずれにしても、キバナの決意はもう固まっていた。