とある少年―――丹羽鳥 駝鳥(にわとり だちょう)は、疲れからか転生トラックと激突してしまう。突如現れた「力が欲しいか系」女神に対して、丹羽鳥が望んだチートスキル「知能デバフ」の行く末とは…?


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第1話

 「丹羽鳥 駝鳥(にわとり だちょう)。貴方は死んでしまいました」

 「……は?」

 

 地平線の奥まで白く、何もない場所で、僕は後光煌めく女性にそんなことを言われた。

 彼女の格好は絵画に出てくる女神のよう。また、何処か圧倒されるような、只人ではない気配をしていた。彼女こそ神である、と敬虔な神父に告げられれば信じてしまいそうなほどだ。

 しかし、彼女の口から告げられた「貴方は死んだ」という情報を信じることは出来なかった。

 

 「なんですか、なんなんですか貴女は!? ここは何処ですか!? 家に帰してください!! 警察に通報しますよ!!」

 「ここは神界。死後、魂が辿り着く場所です。貴方はトラックに轢かれて亡くなりました」

 「なっ」

 「これから貴方は転生するのですが、何か欲しい力はありますか?」

 「え、いや、訳も分からないことを言わないでくださいよ…!」

 

 奇妙なことばかり話す女性。神界、トラックに轢かれて死んだ、転生、何か欲しい力はあるか。そのどれもが笑い飛ばすべき滑稽でくだらない言葉だ。

 しかし、彼女という存在が放つ荘厳なオーラと言うべきもののせいか、それとも魂に刻まれた本能のようなもののせいか、彼女の言葉を嘲笑することが出来なかった。それらが脳にべったりと張り付き、思考回路を「信頼」に塗り替えられていくような感覚があった。

 この女性が言っていることは本当だ。そうとしか考えられない。いや、疑うべきではないのだ。

 心の底、感情と理論の源泉が色づいていく。

 

 「ぼ、僕は、誰よりも賢くありたい…です。み、みんな僕をバカにする。好きでバカでいるわけじゃないのに」

 「努力はしました。賢くなりたかった。知識で、テストの点数で、あいつらを圧倒したかった。バカでいるのをやめたかった」

 

 視界が涙で滲む。女神は、そんな僕を何も言わずに見つめてくださっている。

 

 「でもやめられなかった…! いくら勉強しても、明日には忘れてる…出来損ないの脳みそをしてるから…」

 「悔しい! 憎い! あいつらの軽蔑が忘れられない!! バカになったことがないからあんなことが言えるんだ!! バカの気持ちはバカにしか分からないんだ!!!」

 

 「女神様ぁ!!」

 

 ばっと顔を上げ、彼女の御尊顔を拝む。そして、全身全霊を込めて首を垂れて己の願いを打ち明けた。

 

 「『他人をバカにする』そんな力が欲しいです!!!」

 

 僕の願いに、女神様は淡白に「分かりました」と答えた。

 

 「それでは転生させます。どうぞ、第2の人生を楽しんでください」

 

 その言葉と同時に、僕の意識は霧中に揉まれ、感覚が塵となって霧散していくのを感じた。

 存在が不明慮に近づいていく。だが恐怖心は無かった。女神様の慈悲が、ずっと僕の魂を優しく包み込んでくれていたから。

 僕の中の泥のようなものが、純白の黎明に移り変わり、それが鼓動するたび魂が震えるのを感じた。この共鳴が酷く馴染み深く、太陽のように僕を照らした。

 その眩しさに目を眩ませていると、ふと血の匂いがした。

 

 「うう、ううううあああああああああああああああああああ!!!」

 「おめでとうございます!! 元気な男の子ですよ!!」

 

 気が付けば、僕は赤子となっていた。

 

 ー

 

 魔導学院、窓から差す淡い光が照らす一室で、老術士アルヴェリウスは、紙をめくる音に苛立っていた。

 

 羊皮紙の擦れる感触は普段ならば心を落ち着かせるはずだった。若き日より幾度となく魔術理論の改訂を繰り返し、そのたびに紙と向き合い続けてきたからだ。紙は思考の延長であり、論理を定着させる器であり、彼にとっては世界の輪郭をなぞる道具だった。

 しかし今、机の上に積み上げられた報告書は、どれも彼の理解を拒んでいるように見えた。

 

 報告の内容は単純だ。

 

 「知能低下」

 

 それだけである。

 

 だが問題は、その単純さが持つ異様さだった。

 知能の低下は、医学的にも魔術的にもあり得る現象ではある。精神干渉、魂損傷、魔力汚染。原因は多岐に渡る。しかしそれらは必ず局所的で、個別的で、そして回復の余地を持つ。

 

 今回の現象は違った。

 規模が異常だった。

 学院内で始まった異変は、数週間で王都全域へ拡散し、今では周辺諸国にまで及んでいるという報告が届いている。

 

 老人は視線を報告書から外し、窓の外を見た。

 

 冬の空は濁っていた。雪は降っていないが、雲は低く垂れ込み、空気は湿り気を帯びている。学院の中庭に植えられた古木は葉を落とし、骨のような枝を空へ突き出していた。その枝は風に揺れながら、何かを掴もうとしているようにも、助けを求めているようにも見える。

 

 「先生」

 

 背後から声がかかった。

 

 老人の一番弟子だった。

 彼はまだ三十にも満たないが、学院でも屈指の術理理解を誇る人物である。だが今、その表情には明らかな疲労が滲んでいた。

 

 「追加の報告です」

 

 差し出された紙を受け取る。老人は黙って目を通した。

 

 症例記録。

 被験者は学院上級課程の生徒。

 魔術式の展開速度が平均三割低下。論理構築の遅延。暗算能力の著しい劣化。記憶保持の短期化。

 

 老人は紙を机に置いた。

 

 「発症時期は?」

 「三日前です」

 「接触履歴は」

 

 一番弟子はすぐに答えた。

 

 「特定の人物、あるいは魔具との関連性は見つかっていません。ただし……」

 

 彼は言葉を選んだ。

 

 「優秀な者ほど症状が重い傾向があります」

 

 その一言で、部屋の空気がわずかに沈んだ。

 は指を組み、思考を巡らせる。

 

 優秀な者ほど発症が早い。

 これは重要な特徴だ。

 疫病は身体的抵抗力の低い者から侵す。呪詛は精神的防御の弱い者を蝕む。だがこの現象は逆だ。

 つまり、対象を選別している可能性が高い。

 

 「選択的干渉型……いや、違うな」

 

 老人は呟いた。

 もし選択的干渉ならば、術式構造が残るはずだ。だが解析班の報告では、明確な魔術痕跡は検出されていない。

 ならば。

 

 「……スキルか」

 

 一番弟子が息を呑む。

 

 スキル。

 それは生来魂に刻まれる力。魔術とは異なり、術式の痕跡をほとんど残さない。だが同時に、発現条件は極めて限定される。

 

 老人は、ゆっくりと立ち上がった。

 

 「発生地点の統計は」

 「解析中ですが……収束傾向があります」

 

 彼は地図を広げた。

 赤い印が、国境を跨ぎながら一点へ集まりつつある。

 

 辺境の農村。

 名前すら、ほとんどの地図に載っていない場所だった。

 

 老人はその点を凝視した。

 そこに、異様な確信を覚えた。

 

 「準備をしろ」

 「調査ですか」

 「ああ」

 

 彼は低く答えた。

 

 「中心が存在する」

 

 ――

 

 村のはずれ、麦畑と森に挟まれた小さな農家の庭先で、少年――いや、転生者は、穏やかな昼下がりを迎えていた。

 

 丹羽鳥駝鳥―――今は、何の因果か、『ダチョウ』と名付けられている。

 この世界では、ただの農民の子。

 だが魂の奥底に潜む存在は、すでに静かに世界へ牙を立てていた。

 

 ダチョウは、土の上に座り込み、小枝で円を描いていた。円の中には簡単な数字を書いている。足し算だ。幼児の遊びにしか見えない。

 

 「ダチョウー、もう帰るぞー」

 

 畑から父親が声を上げる。

 

 「うん」

 

 返事は素直だった。

 だがその背後で、村の青年が二人、収穫量について話している。

 

 「今年は計算が合わねえんだよな……」

 「俺もだ。去年は帳簿付けなんて簡単だったのに……」

 

 その瞬間。

 ダチョウの指先が、無意識に円をなぞった。

 

 ――ぱきり。

 

 何かが、見えない場所で砕けた。

 青年たちは話の途中で沈黙し、互いの顔を見合わせる。

 

 「……あれ? さっき何話してた?」

 「……さあ?」

 

 ダチョウは振り向かない。

 ただ、小枝を折り、静かに地面へ落とした。胸の奥で、ぬるりとした満足感が滲む。

 理解できない。だが確かに心地よい。

 

 それは、誰かの階段を崩し、自分の足場を確かめるような感覚だった。

 

 ――

 

 老人は調査に出た。

 

 学院の門を出たとき、振り返ることはしなかった。ただ、足元に落ちた霜を踏み砕く感触だけを確かめながら歩き出した。石畳は朝露に濡れ、淡い光を鈍く跳ね返している。冬の訪れを知らせる冷たい空気が、肺の奥まで入り込み、思考を澄ませた。

 

 知性が失われていく。

 

 その事実が、胸の奥に棘のように刺さっていた。

 老人はこれまで数え切れぬ魔術理論を編み出し、多くの弟子を育ててきた。だが知性そのものが崩れていく現象など、見聞きしたことすらない。

 それが恐ろしいのではない。

 理由が分からないことが恐ろしかった。

 精神干渉、魂損傷、魔力汚染。どれも結果的に知性が失われるのであって、それ自体が主作用ではない。件の知能低下の患者を診察したが、知性以外異常が見られなかった。

 

 ――理解できないものは、対処できない。

 

 それは魔術師にとって、敗北と同義である。

 老人は歩きながら、思考を繰り返した。報告書の内容、症状の進行速度、被害者の共通点。何度整理しても、法則が見えない。

 

 ただ一つ、奇妙な違和感だけが残る。

 まるで、現象が誰かの都合に沿って広がっているかのような、不自然な偏り。

 老人は足を止め、空を見上げた。雲は低く垂れ込め、太陽は白くぼやけている。その色は、消えかけた記憶のように曖昧だった。

 

 ――

 

 学院では、一番弟子が窓際に立っていた。

 弟子として師に同行するつもりであったが、事態を重く見た師が万が一のためにと彼を学院に残したのだ。

 

 師が去ってから三日が過ぎていた。

 窓の外には、冬を目前にした曇天が広がっている。雲は低く垂れ込み、陽光は磨り硝子を通したようにぼやけていた。学院の中庭では、風に煽られた枯れ葉が石畳を擦りながら転がっている。乾いた音が、規則性を持たずに響き、そのたびに彼の胸の奥に、小さなざらつきを残した。

 机の上には調査報告が山積みになっている。羊皮紙は湿気を含んで僅かに波打ち、インクはところどころ滲んでいた。だが、その内容はどれも似通っていた。思考力の低下、判断力の鈍化、集中力の欠落。

 それらの言葉は、冷たい針のように視界へ突き刺さる。

 

 彼は紙束をめくる。

 

 紙と紙が擦れる乾いた音が、やけに大きく感じられた。指先に伝わる羊皮紙のざらつきが、妙に現実感を伴っている。触れているものが確かに存在していると分かるほど、逆に自分の思考だけが霧の中へ沈み込んでいくようだった。

 

 文字は読める。意味も分かる。

 

 行間に潜む理屈も、症状の共通性も理解できる。だが、それらを繋ぎ合わせるための思考が、滑らかに流れてくれない。胸の奥に重い塊が沈んでいる。理解しているはずなのに、整理が追いつかない。思考の速度が、確実に鈍っているのを感じていた。

 かつては、思考とは呼吸のようなものだった。意識せずとも流れ、繋がり、結論を導いていた。それが今は、一歩進むたびに泥濘に足を取られるような感覚へと変わっている。

 

 「……まさか」

 

 彼は自分の額を押さえた。

 掌に伝わる体温が、妙に熱い。脈動が、皮膚の内側で不規則に跳ねているように感じる。

 自分も、影響を受けているのではないか。

 その考えが浮かんだ瞬間、喉が渇いた。乾燥した空気が、喉の奥を紙で擦るように痛む。水差しに手を伸ばす。だが、手元がわずかに狂い、器を倒しかける。

 水面が揺れ、縁から溢れかける。

 彼は慌てて支えた。水滴が机に落ち、小さな染みを作る。

 かつてなら起こり得ない失敗だった。

 その事実が、遅れて胸に沈む。小さな綻びのはずなのに、そこから何かが崩れ落ちていく予感があった。

 

 彼は静かに息を吐く。

 

 肺の中に冷たい空気が入り、少しだけ思考が澄む。だが、その澄明さは一瞬で、すぐに霞が戻ってくる。

 恐怖は、まだ小さい。だが確実に根を伸ばしている。土の下で、見えないまま絡み合い、やがて抜けなくなる植物のように。

 

 師は今、どこにいるのだろうか。

 

 窓の外を見る。灰色の空の下、学院の尖塔がぼやけている。その先に続く街道は、薄霧に呑まれて見えない。

 

 ふと、彼は思った。

 

 師ならば、この異常をどう分析するだろうか。

 あの人は常に冷静だった。混乱の只中でも、状況を分解し、構造を見出す。思考とは積み木のように積み上げるものだと教えてくれたのも、師だった。

 

 そう考えようとした瞬間、思考が途、切、れ、た。

 

 何かを掴みかけた感覚だけが残り、その先が完全に抜け落ちる。白い空白が脳裏に広がる。そこには言葉も、理屈も、像も存在しない。ただ、雪原のように無機質な白だけが広がっている。

 

 彼は椅子に座り込み、拳を握った。

 関節が白くなるほど力を込める。痛みだけが、自分がまだここにいる証のように感じられた。

 

 「……戻ってきてください、先生」

 

 声は、誰にも届かないほど小さかった。

 その声は部屋の中で溶け、重たい空気に吸い込まれていく。窓の外では風が強まり、枯れ葉が再び石畳を擦る音が響いた。

 それはまるで、消えていく思考を誰かが掻き集めようとしているかのような、頼りない音だった。

 

 ――

 

 老人は街道を南へ進んでいた。

 

 街道は冬枯れの草に縁取られ、踏み固められた土は灰色に乾いている。遠くで烏が鳴き、その声は風に削られて途切れ途切れに届いた。空は低く垂れ込み、雲の層は重たい蓋のように世界を覆っている。歩くたび、靴底が土を擦る音だけが、異様に鮮明に耳に残った。

 途中で立ち寄った町は、穏やかだった。市場は開かれ、子供たちが走り回っている。屋台からは香草を煮た匂いが漂い、焼いたパンの香りが空気に溶けていた。人々は談笑し、荷車が軋み、ありふれた生活の音が重なっている。

 

 表面だけ見れば、何の問題もない。

 だが老人は、空気の緩みを感じ取っていた。

 

 それは風の温度でも、匂いでもない。もっと曖昧で、しかし確かな違和感だった。町全体が、ほんの僅かに現実からずれているような感触。まるで、精巧に作られた人形劇を眺めているかのような、薄膜越しの光景だった。

 商人が釣り銭を数え間違えても、誰も指摘しない。銅貨が一枚多く渡されても、客は無造作に懐へ仕舞い込む。逆に足りなくても、肩を竦めるだけで立ち去っていく。金属が触れ合う乾いた音が、やけに空虚に響いた。

 

 客も気づかない。あるいは、気にしていない。

 そのどちらであるのか、判別がつかないことが、老人の背筋に冷たい線を走らせた。

 

 笑い声はある。だがどこか浅い。水面に石を落とした時に広がる波紋のように、形だけが広がり、すぐに消えていく。腹の底から湧き上がる笑いではない。反射のように口から零れるだけの音だった。

 

 老人は宿に入り、帳簿を見せてもらった。

 

 室内は暖炉の火で暖められている。だが、その暖かさは肌の表面だけを撫で、芯まで届かない。壁に掛けられた鹿の頭骨が、火の揺らぎで不規則に影を伸ばしていた。

 帳簿を開く。

 羊皮紙は油の染みで濃淡を作り、頁の端は擦り切れている。数字は乱れていた。収支の整合性が崩れている。桁が飛び、計算式は途中で途切れている。だが修正された形跡はない。

 

 老人は指で数字をなぞった。

 そこにある誤りは明白だった。子供でも気づく程度の単純な誤算。それが何日も、何十件も放置されている。

 それでも宿主は困った様子を見せない。

 

 「最近は、細かいことを考えなくなりましてね」

 

 宿主は穏やかに笑った。

 その笑顔は柔らかい。だが、どこか均質だった。皺の寄り方も、目の細まり方も、作られた仮面のように整っている。感情がそこに宿っていないように見えた。

 

 老人はその笑顔を見て、胸の奥が冷えた。

 

 人が悩む理由は、痛みを避けるためだ。間違いを恐れるのは、損失を知っているからだ。それらを失ったとき、人は安らぎを得るのか、それとも――何か別のものへ変わるのか。

 

 ――苦悩がないことは、果たして幸福なのか。

 

 その問いが、静かに沈殿する。

 水底に沈む砂のように、答えは形を持たないまま、思考の底に積もっていった。

 

 村に辿り着いたのは、雪がちらつき始めた頃だった。

 空から落ちてくる雪は、まだ粒が小さい。だが風に乗って斜めに舞い、視界を細かく遮る。足跡はすぐにぼやけ、形を失っていく。

 小さな農村だった。煙突から煙が上がり、薪の焦げる匂いが鼻を掠める。鶏の鳴き声が風に混じり、遠くで犬が短く吠えた。ありふれた光景だ。

 だが老人は、すぐに気づいた。

 

 人々の動きが遅い。

 

 収穫した野菜を運ぶ農夫が、荷車を押しながら何度も立ち止まる。女が洗濯物を干しているが、布の順番が滅茶苦茶になっている。それでも誰も違和感を覚えていないようだった。

 いや、遅いというより――考えずに動いている。

 畑仕事は続いている。だが作業の順序が乱れている。種を蒔いたばかりの土を踏み固め、刈り取るべき穂を放置している。効率が明らかに落ちているのに、誰も修正しない。

 まるで、作業そのものが目的になり、結果を考える力が削がれているかのようだった。

 

 老人は、胸の奥にざらつきを覚えた。

 

 その感覚は、言葉にし難い不安だった。音のない警鐘が、心臓の裏側で鳴っているような錯覚。理由は分からないのに、ここに長く留まってはならないという本能だけが、静かに囁いている。

 雪は、ゆっくりと積もり始めていた。

 白は、境界を曖昧にする色だ。足跡も、畑の畝も、やがて均されていく。形あるものを覆い隠し、均一に塗り潰す。

 

 老人は、村を見渡した。

 

 煙、畑、家々、人影。そのすべてが、薄い白の中で輪郭をぼかしている。

 この場所は、現象の中心に近い。

 確信に近い感覚だった。

 そしてその確信は、説明できない恐怖を伴っていた。理屈ではなく、長い年月を生きた直感が告げている。

 

 ここでは、何かが静かに壊れている。

 音もなく、悲鳴もなく、ただ思考だけが、少しずつ削り取られている。

 

 雪は降り続けていた。

 まるで、その崩壊を優しく隠すかのように。

 

 ――

 

 その頃、ダチョウは家の裏庭で木切れを並べていた。

 雪に湿った土は柔らかく、靴底がわずかに沈み込む。踏みしめるたび、冷たい水気がにじみ上がり、かすかな土の匂いが漂った。空は曇り、太陽は白く濁った光を広げるだけで、影はほとんど落ちていない。

 彼は、膝を折って地面にしゃがみ、小さな棒を等間隔に置いた。

 さらに別の棒を斜めに重ねる。

 それは子供の遊びに見える。だが、その指先の動きは妙に慎重だった。まるで、何かの秩序を守ろうとしているかのように。

 彼の視線は、手元に向いていながら、どこか遠くを見ていた。

 

 耳に、村人の会話が風に乗って流れてくる。

 

 「今年の収穫量……去年より減ってるよな」

 「まあ、いいんじゃないか。食える分はあるし」

 「そうだなぁ……そんなに頑張らなくても」

 

 言葉は穏やかだった。争いも、不満もない。

 だがその調子は、どこか空洞めいていた。感情の奥行きが、薄く削ぎ落とされているようだった。

 

 ダチョウの胸の奥で、何かがざわめいた。

 

 温かくも、冷たくもない奇妙な感触。

 水面に小石が落ちたときのような、円形の波紋が、ゆっくりと内側に広がる。

 

 心地よい。

 曖昧な優越感。

 

 理由は分からない。だが、周囲の思考が鈍くなるほど、自分の輪郭が濃く浮かび上がるような気がした。

 世界の焦点が、自分にだけ合っているような、奇妙な感覚。

 

 彼は棒を一本、わざとずらした。

 ほんの数指分。

 

 だがそのわずかな狂いは、積み上げていた形の均衡を壊すには十分だった。

 棒は滑り、重なり、そして崩れる。乾いた音が小さく響いた。

 

 その瞬間、胸の奥に静かな安堵が満ちた。

 壊れることが、落ち着く。

 形が整っているとき、彼の中にかすかな緊張が生まれる。だが崩れた瞬間、その緊張はほどける。

 それがなぜなのか、理解しようとすると、頭の奥が鈍く痛んだ。

 

 なぜだろう。

 彼は首を傾げる。

 

 思考は、すぐに霧の中に沈んだ。

 考えようとするほど、重くなる。粘りつく泥の中を進むように、思考が遅れる。

 彼は、やがて考えるのをやめた。

 

 空を見上げると、白い雲がほとんど動かずに広がっていた。時間が止まっているように見えた。

 

 ――

 

 一方、老人は村の集会所で聞き込みを行っていた。

 集会所の中は薄暗く、煤に染まった梁が低く天井を支えている。囲炉裏の火は小さく、煙は出口を見失ったように天井付近に滞留していた。

 空気は温かいはずなのに、どこか淀んでいる。長く吸い込むと、肺の奥に重さが残る。

 

 住民は協力的だった。

 だが話の内容は曖昧だった。言葉は滑らかに出てくるが、要点がぼやけている。記憶を辿ろうとするたび、彼らの視線は宙を漂い、やがて「まあ、大したことではない」という結論に落ち着く。

 

 老人は、ひとりひとりの顔を観察した。

 

 瞳の焦点。

 瞬きの間隔。

 思考が途切れる瞬間の微細な沈黙。

 それらはすべて、ゆるやかに崩れていた。

 

 老人は気づいた。

 

 この現象は、急激ではない。

 ゆっくりと、しかし確実に進行している。

 まるで雪が積もるように。

 気づいたときには、足元が深く埋もれている。そんな性質の変質だった。

 

 そしてもう一つ。

 村人の多くが、ある少年の話をしていた。

 

 「最近生まれた子でね」

 「妙に頭の回転が早いんですよ」

 「でも不思議でね、その子と話したあと、何を話してたか忘れることがある」

 「なんでなんでしょうねぇ、ははは」

 

 老人は静かに頷いた。

 胸の奥で、仮説が形を成し始めていた。

 

 知性の集中。

 周囲からの拡散的な喪失。

 均衡の破綻。

 

 もし仮説が正しければ――。

 老人の背筋を、冷たい感覚が這い上がった。

 

 夜。

 老人はある少年――ダチョウの住む家を訪れた。

 戸を開けると、囲炉裏の火が部屋を赤く染めていた。木が爆ぜる音が、規則的に響く。煙は天井に滞り、ゆらゆらと揺れながら薄い幕のように広がっている。

 その煙越しに、少年が座っていた。

 

 ダチョウは、老人をじっと見ていた。

 その視線は、子供らしい好奇心を帯びている。だが同時に、観察者の冷静さも含んでいた。

 まるで、相手を理解しようとしているのではなく、解析しようとしているかのようだった。

 

 老人は腰を下ろす。

 囲炉裏の熱が膝に伝わる。だが背中には、外気の冷えが残っている。

 温と冷が同時に存在する感覚が、不思議と落ち着かなかった。

 火の弾ける音が、沈黙を刻む。

 

 「名前は?」

 「……ダチョウ」

 

 老人は頷いた。

 声は震えていない。受け答えも明瞭だった。

 だが老人は、少年の沈黙の深さに違和感を覚えた。

 言葉の裏に、空白がある。

 思考が浅いのではない。むしろ深すぎる何かを、意図的に覆い隠しているようだった。

 この子は、考えないのではない。

 考えることを、どこかで避けている。

 

 老人はゆっくり言った。

 

 「最近、周りの人が変わったと思わぬか」

 

 ダチョウの瞳が、わずかに揺れた。

 火の光が、その揺れを強調する。赤い炎が反射し、瞳の奥で揺らめく。

 それはまるで、感情そのものが炎に触れているようだった。

 老人は見逃さなかった。

 

 「……わからない」

 

 少年は答えた。

 だがその声には、確かな逡巡が混じっていた。

 言葉を選ぶというより、言葉が出てくるのを恐れているようだった。

 

 老人は確信した。

 この少年は、現象の中心にいる。

 だが――

 

 加害者なのか、被害者なのかは、まだ分からない。

 

 囲炉裏の火が、小さく崩れた。

 灰が舞い、赤い火種が瞬いた。

 その一瞬、部屋の影が大きく揺れ、少年の輪郭が歪んで見えた。

 

 老人は静かに言った。

 

 「お主は、寂しいか」

 

 ダチョウは答えなかった。

 ただ、火を見つめていた。

 炎が揺れるたび、彼の瞳の中の光も揺れる。それは涙の気配にも、笑みの残響にも見えた。

 

 やがて少年は、ぽつりと呟いた。

 

 「……みんなが、前より優しい」

 

 その言葉は、喜びではなかった。

 むしろ、確認だった。

 自分が感じている違和を、誰かに証明してほしいという、かすかな祈りのようだった。

 

 老人は理解した。

 

 少年は気づいている。

 優しさが、本物ではないことを。

 優しさとは本来、摩擦を含む。

 だが今の村には、摩擦が存在しない。

 それは調和ではなく、思考の摩耗だった。

 

 外では雪が強まっていた。

 白い粒が風に流され、音を吸い込んでいく。

 屋根に積もる雪は、世界の輪郭を柔らかくし、境界を曖昧にしていた。

 

 老人は立ち上がる。

 足元の床板が、わずかに軋んだ。

 

 「明日、少し話をしよう」

 

 そう言い残し、家を出た。

 戸を閉めると、囲炉裏の光が細い隙間から漏れ、やがて完全に遮られた。

 雪は、足跡をすぐに覆い隠した。

 

 老人は振り返る。

 窓の向こうで、ダチョウがまだ火を見つめているのが見えた。

 その姿は、ひどく小さく見えた。

 だが同時に、奇妙な重さを帯びているようにも感じられた。

 

 老人は目を閉じる。

 この現象を止める方法は、まだ見えない。

 理論はある。仮説もある。だが、それを証明する手段がない。

 だが一つだけ、確かな予感があった。

 この少年の選択が、すべてを決める。

 

 雪は静かに降り続けていた。

 世界から、音が消えていくように。

 思考そのものが、白い沈黙の中に埋もれていくように。

 

 ――

 

 朝は、驚くほど静かだった。

 夜の雪は止み、村は薄い白に覆われていた。屋根も畑も道も、境界がぼやけている。空は曇天のままだが、雲は低く、光は鈍く拡散していた。

 音が少ない。

 人の営みは始まっているはずなのに、生活のざわめきが、どこか遠くに沈んでいるようだった。

 

 老人は、ダチョウの家の裏手に立っていた。

 裏庭は昨夜と同じだった。雪の上に、半ば埋もれた木切れが散らばっている。均等に並べられていたはずの棒は崩れ、ただの木片へと戻っていた。

 

 老人は、その配置をしばらく眺めた。

 

 偶然の崩れ方ではない。

 中心を外すように、均衡が崩されている。

 まるで「整った状態」を拒絶する意思が働いているようだった。

 

 背後で、戸が開く音がした。

 振り返らずとも、誰か分かる。

 

 「おはよう」

 

 老人は穏やかに言った。

 

 「……おはようございます」

 

 声は小さいが、はっきりしていた。

 

 老人はゆっくり振り返る。

 ダチョウは裸足だった。雪を避けるように縁側に立ち、こちらを見ている。

 その視線には、昨日よりも警戒が混じっていた。

 

 老人はそれを確認し、内心で頷いた。

 

 ――記憶は保持している。

 ――思考も連続している。

 

 それだけで、重要な手がかりだった。

 

 「少し、散歩をせぬか」

 

 老人の言葉に、ダチョウは、わずかに間を置いた。

 断る理由を探しているようにも、了承の意味を測っているようにも見えた。

 やがて、こくりと頷いた。

 

 二人は、雪の積もった畑の縁を歩いた。

 夜のあいだに降り積もった雪は、まだ誰にも踏まれておらず、白さが痛いほどに澄んでいた。薄い霧が畑の上を漂い、遠くの木立の輪郭を曖昧にしている。枯れた作物の残骸が、雪の下から黒く突き出し、白の中に不規則な影を落としていた。

 

 足跡が、白い地面に刻まれる。

 踏みしめるたび、雪が低く鳴いた。

 老人の歩幅は一定で、迷いがない。雪に沈む深さも均一で、そこには長年の鍛錬に裏打ちされた身体の節度があった。

 ダチョウは、その半歩後ろを歩いていた。

 老人の足跡に重ならないよう、しかし離れ過ぎない距離を、無意識に保っている。

 その距離が、自分と老人との境界線のように感じられた。

 

 老人は、歩調をわずかに遅くした。少年が並ぶ位置を自然に作るために。

 並んだ瞬間、冷たい風が二人の間を吹き抜けた。雪の粒が舞い、視界の端でゆっくりと落ちていく。

 

 「村は、好きか」

 

 老人は何気ない調子で尋ねた。

 声は穏やかだったが、雪原の静寂の中では妙に輪郭がはっきりしていた。

 

 「……好きです」

 

 肯定。

 だがその声は、どこか固い。

 言葉を選ぶというより、言葉を形にするのに時間がかかったような響きだった。

 

 老人は視線を前に向けたまま、続けた。

 

 「どこが好きだ」

 

 沈黙が落ちる。

 風が、雪面を撫でる音だけが流れた。

 細かな雪が、畑の表面を削るように滑っていく。

 

 「……みんな、優しいから」

 

 昨日と同じ答えだった。

 老人は、静かに頷いた。

 

 「優しさとは、何だと思う」

 

 ダチョウの歩みが、わずかに乱れた。

 雪の下に隠れていた硬い土を踏み、足が滑りかける。

 その揺れを、少年はすぐに立て直した。

 老人は、その反応を横目で捉える。

 

 「怒らないこと……ですか」

 

 少年は慎重に言った。

 言葉を口にするまでに、わずかな間があった。

 その間に、何かを隠したような気配が残っていた。

 

 「ほう」

 

 老人は立ち止まった。

 靴底が雪に沈み込み、微かな軋みを立てる。

 ダチョウも、半歩遅れて止まる。

 

 老人は、雪に覆われた畑を指さした。

 

 「この畑、去年はどうだったか知っておるか」

 「……よく実ったと聞きました」

 

 少年は視線を畑へ向ける。

 だがそこには、豊穣の記憶はない。

 ただ、乱れた畝の跡が、白の中で歪んで続いているだけだった。

 

 「今年はどうなると思う」

 

 ダチョウは黙った。

 畑には、まだ作物の気配はない。

 雪の下に埋もれた土が、凍りついたまま呼吸を止めているように見える。

 ただ、作業の跡が乱れているのだけが見える。

 人の手が入った痕跡が、途中で投げ出されたように途切れていた。

 

 「……少し減るかも」

 「なぜそう思う」

 「……わからないです」

 

 老人は、少年を見た。

 嘘ではない。だが完全な無知でもない。

 言葉にできない理解が、少年の中に存在している。

 それは霧の中の輪郭のように、確かにそこにあるのに、形を掴めない。

 

 老人は、ゆっくり言った。

 

 「もし村が貧しくなれば、皆は困る」

 「はい」

 「困ることは、悪いことか」

 

 ダチョウは、すぐに答えられなかった。

 唇が、わずかに動く。

 吐き出しかけた言葉が、喉の奥で引き返していく。

 

 「……わからない」

 

 老人は、柔らかく息を吐いた。

 白い吐息が、風に溶けて消える。

 

 「困るというのはのう、考える理由になる」

 

 少年の瞳が、わずかに揺れた。

 雪面に反射した光が、黒目の奥で淡く震える。

 

 「苦しいことは、避けたいものだ。だが苦しさは、知恵を呼び起こす。

 逆に、何も困らぬ世界では、人は考えなくなる」

 

 老人は、意図的に言葉を区切った。

 沈黙を挟むことで、言葉が雪のように積もるのを待つ。

 

 「それでも、優しい世界の方が良いと思うか」

 

 ダチョウは、雪の上を見つめた。

 自分の足跡と老人の足跡が並んでいる。

 だが、自分の方が浅い。

 雪の沈み方が違う。

 同じ道を歩いているはずなのに、残る痕が違う。

 

 その差が、胸の奥で奇妙なざわめきを生んだ。

 まるで、自分だけがこの世界にきちんと立っていないような感覚。

 

 「……はい」

 

 そう答えながら、胸の奥が軋んだ。

 肯定した瞬間、何かが僅かに崩れた気がした。

 

 老人は、その微かな変調を見逃さなかった。

 

 しばらく歩き、二人は小川の前で止まった。

 川面は半ば凍り、薄氷の下を水が流れている。透明な氷の下で、黒い水がゆっくりと動いていた。流れは穏やかだが、底知れぬ暗さを帯びている。

 氷越しに見る水は、現実から一枚隔てられた別の世界のようだった。

 

 老人は言った。

 

 「この氷を踏めば、どうなると思う」

 「……割れるかもしれません」

 「そうじゃ、割れぬかもしれぬ」

 

 老人は、杖を氷に軽く触れた。

 乾いた音が鳴る。小さな亀裂が、蜘蛛の巣のように広がる。

 その亀裂は一瞬、川面を覆う黒い網のように見えた。

 

 「確かめるには、どうする」

 「……踏みます」

 「そうじゃ」

 

 老人は頷いた。

 

 「危険を知るには、危険に触れねばならぬ」

 

 沈黙が落ちた。

 川の流れる音が、氷の下で鈍く響いている。

 その音は、耳ではなく足元から伝わってくるようだった。

 

 老人は、静かに言った。

 

 「ダチョウ」

 

 少年が顔を上げる。

 

 「お主は、最近――考えるのが辛くないか」

 

 その問いは、柔らかかった。

 だが逃げ場はなかった。

 

 ダチョウの喉が、わずかに動いた。

 冷たい空気が肺に入り、胸の奥で重く沈む。

 

 「……少し」

 

 老人は頷いた。

 

 「周りの者はどうだ」

 「……もっと、考えていません」

 

 言った瞬間、少年は息を止めた。

 自分が何を言ったのか、遅れて理解したのだ。

 老人は視線を逸らさない。

 

 「なぜそう思う」

 

 沈黙が、重く落ちる。

 ダチョウの胸の奥で、何かが軋んだ。

 古びた扉が、ゆっくりと開きかけるような感覚。

 言ってはいけない。

 そう感じる。

 だが同時に、言葉はすでに形を持っていた。

 

 「……僕と話したあと、みんな……ぼんやりします」

 

 言葉が空気に溶ける。

 吐息と一緒に、白くほどけていく。

 

 老人は、ほんのわずかに目を細めた。

 

 「それは、いつからだ」

 「……わからない」

 「怖いか」

 

 ダチョウは、すぐに答えなかった。

 氷の下の水を見つめる。

 黒い流れが、自分の影を歪めていた。

 影は、水の揺れに合わせて形を変える。まるで、自分自身が別の何かに侵食されているように見えた。

 

 「……少し」

 

 その声は、震えていた。

 

 老人は、雪の上に腰を下ろした。

 冷気が衣を通して染み込む。

 だが動かなかった。

 

 「聞こう」

 

 老人は静かに言った。

 

 「もし、お主が何もせずとも、周りが優しくなっていくとしたら」

 

 ダチョウは老人を見る。

 老人の表情は穏やかだった。

 だが、その穏やかさは、逃げ場を与えない静けさでもあった。

 

 「それでも、お主はそのままでおりたいか」

 

 沈黙。

 風が吹き、粉雪が舞う。

 雪片が、二人の肩に静かに積もっていく。

 

 ダチョウの胸の奥で、昨日の感覚が蘇る。

 崩れた木切れ。

 静かな安堵。

 壊れる音のあとに訪れた、奇妙な安心。

 

 「……わかりません」

 

 彼は絞り出した。

 

 「わからないというのは、大事な答えじゃ」

 「分からぬまま選べば、それは本当の選択ではない」

 

 老人は立ち上がる。

 雪が衣から滑り落ちた。

 白が、ゆっくりと地面へ戻る。

 

 「お主には、考える力がある」

 

 その言葉は、褒め言葉ではなかった。

 重い責任の宣告だった。

 

 「だからこそ、苦しむ」

 

 ダチョウの瞳が、揺れる。

 老人は続けた。

 

 「そして、お主が苦しむほど――周りは楽になるかもしれぬ」

 

 その言葉は、氷よりも冷たく響いた。

 少年の呼吸が浅くなる。

 肺が、うまく膨らまない。

 

 老人は、そこで初めて視線を外した。

 

 「明日も話そう」

 

 そう言い、歩き出す。

 

 ダチョウは、その背中を見ていた。

 呼び止めようとして、声が出ない。

 老人の足跡が、雪の中に続いていく。規則正しく、迷いなく。

 やがて風が吹き、跡を少しずつ消していった。

 

 ダチョウは、氷の張った川を見つめた。

 自分の姿が、歪んで映っている。

 

 氷は、まだ割れていない。

 だがその下で、水は確実に流れていた。

 

 ――

 

 雪は、夜のうちにさらに深く積もっていた。

 老人は、村外れの小屋で独り、火を焚いていた。乾いた薪が爆ぜる音が、やけに大きく響く。火は安定しているはずなのに、老人の目には、どこか頼りなく揺れて見えた。

 彼は膝の上に帳面を広げている。だがそこには文字がほとんど記されていない。書き込む代わりに、彼は何度も同じ頁を指でなぞっていた。

 

 思考は、既に整理されている。

 整理されすぎている、と言ってもよかった。

 

 老人は囲炉裏の火を見つめた。炎は一つだが、そこから熱が広がる。村の異変は、それに似ていた。

 目を閉じる。

 

 少年。ダチョウ。

 彼と会話した村人が、微妙に変質している。思考の鋭さが削られ、判断が単純化し、対立を避ける傾向が強まる。

 優しくなる。

 だがそれは、倫理ではなく、摩擦を失っただけの平滑な精神状態だ。

 

 老人は、自分の若き日の記憶を思い出した。

 人は、摩擦によって形作られる。迷い、葛藤し、対立し、選び取る。その繰り返しが人格を生む。

 摩擦を奪われた精神は――形を保てない。

 それは穏やかに見えて、実のところ空洞だ。

 

 老人の胸に、鈍い痛みが走る。

 

 もしこの仮説が正しいなら。

 ダチョウは、意図せずして、人の「思考の鋭さ」を削り取っている。

 そして恐らく――その削り取られた何かが、彼の内側に蓄積している。

 

 老人は拳を握った。

 

 少年のあの曖昧な優越感。壊した時の安堵。考えることへの倦怠。

 あれは異常ではない。

 均衡の現れだ。

 外界の思考を均してしまう代償として、彼自身の内面が歪み始めている。

 

 老人は、低く呟いた。

 

 「……容器か」

 

 自分の声が、ひどく老いて聞こえた。ただでさえ老いているのにと自嘲する。

 もし少年が、他者の精神的摩耗を引き受けている存在だとしたら。それは単なる災厄ではない。

 

 役割だ。

 

 世界のどこかに、そうした歪みを吸収する存在が必要になることは、理として理解できる。

 だが、それが「一人の子供」である必然は、どこにもない。

 

 老人は深く息を吐いた。

 ここから先が、推理ではなく選択になる。

 止める方法は、幾つか想定できる。

 

 少年を村から隔離する。

 精神的接触を断つ。

 最悪の場合――命を絶つ。

 

 老人は、そこで思考を止めた。

 薪が崩れ、火の粉が舞った。その赤い光が、老人の瞳に映り込む。

 

 彼は静かに、自問した。

 それは本当に「止める」ことになるのか。

 少年を排除すれば、村は、学院は、世界は、回復するかもしれない。だがもし、彼が均衡装置のような存在ならば、歪みは別の形で噴き出す。

 より激しく。より広範に。より制御不能に。

 老人は若い頃、似た現象を一度だけ見たことがあった。記録にも残らなかった、小さな町の崩壊。人々が急激に猜疑心を増し、互いを疑い、やがて暴力が日常となった。

 あの時、原因は分からなかった。

 だが今、薄く繋がる感覚がある。

 均衡が崩れたのだ。誰かが、それを支えていたのかもしれない。

 

 老人は目を伏せる。

 

 ならば、もう一つの選択がある。

 

 救う。

 

 少年が自我を保ったまま、能力を制御できるよう導く。

 それは理想だ。

 しかし――最も困難な道でもある。

 

 ダチョウの精神は、既に浸食されている。優越感への依存。破壊による安堵。思考回避の傾向。

 もし制御を誤れば、少年は、自分の存在理由を理解できないまま、より強く外界を削り続けるだろう。

 

 老人は、帳面を閉じた。

 紙の擦れる音が、小屋の中に小さく響いた。

 

 彼はゆっくり立ち上がり、扉を開けた。

 外は、雪が止んでいた。世界は、異様なほど静まり返っている。

 音が少ないのではない。余計なものが削ぎ落とされたような静寂だった。

 

 老人は足跡の残らない雪面を見つめた。

 ふと、奇妙な感覚が胸に生まれる。

 この村そのものが、既に「均された」風景に見える。

 

 老人は小さく笑った。自嘲に近い笑いだった。

 

 「……わしは、何を守ろうとしておるのだろうな」

 

 世界か。均衡か。

 それとも、あの少年の未来か。

 

 答えは、まだ出ない。

 だが一つだけ、老人には分かっていた。

 この問題は、論理だけでは解けない。

 少年自身が、自分の在り方を選ばなければならない。

 

 老人は、雪原に一歩踏み出した。

 冷気が肺に刺さる。だがその痛みは、奇妙に心地よかった。

 思考が、確かに存在している証のようだった。

 

 彼は歩き出す。

 弟子として迎えるのか。

 監視するのか。

 あるいは――討つのか。

 

 まだ決めていない。

 決められない。

 だが、会わねばならない。

 老人の足音だけが、静かな朝の中に刻まれていった。

 

 均衡は、まだ保たれている。

 

 だがそれは、薄氷の上に立つ静寂だった。

 

 ――

 

 朝は、曇っていた。

 空は雪を降らせるほど重くはないが、光を通す気配もない。灰色の空が、村全体を柔らかく覆い、境界の曖昧な静けさを作っていた。

 

 老人は、裏庭に立っていた。

 凍った地面に、細い足跡が残っている。子供のものだとすぐに分かった。その先で、ダチョウが木切れを並べている。

 小枝を等間隔に置き、斜めに重ねる。昨日と同じ遊びだった。

 だが今日は、崩していなかった。

 形は、不自然なほど整っている。均衡が保たれすぎている配置だった。

 

 老人はしばらく声をかけなかった。

 少年の背中を見つめる。小さな肩。だがそこには、年齢に似合わない静止があった。

 風が吹く。枝の一本が、わずかに転がった。

 ダチョウは、それを直さなかった。

 ただ見つめていた。

 

 老人はゆっくりと近づく。

 

 「……調子はどうだ」

 

 少年は振り返らない。

 

 「わからない」

 

 短い返答だった。

 老人は隣に腰を下ろした。冷たい地面の硬さが膝に伝わる。

 二人の間に、枝で組まれた小さな構造物がある。それは橋にも塔にも見えた。だが意味を持たない形だった。

 

 老人は静かに言った。

 

 「お主のことが、分かった」

 

 ダチョウの指が、わずかに止まった。

 

 「お主の持つスキルについて」

 

 少年の肩が、わずかに震える。

 老人は続ける。

 

 「お主と関わった者は、思考の鋭さを削られる。葛藤が減り、判断が単純になる。争いは減るが、同時に――深く考える力も失われる」

 

 沈黙が落ちた。

 遠くで、屋根の雪が崩れる音がした。

 

 「それは病ではない。呪いとも限らぬ。恐らく……お主が世界の歪みを均しておるのだろう」

 

 ダチョウはゆっくり振り返った。

 その目は、逃げ場を探している子供のものと、観察をやめない存在のものが混ざっていた。

 老人はまっすぐ見返した。

 

 「まだ、間に合う」

 

 その言葉は、静かだった。

 

 「力を制御する術はある。時間はかかるだろうが、お主は自分を保ったまま生きられる」

 

 老人は一拍置いた。

 

 「わしの弟子にならぬか」

 

 風が止んだ。

 世界が、耳鳴りのように静まり返る。

 ダチョウの瞳が揺れた。枝の構造物に視線が落ちる。

 その形は、完璧に均衡していた。だが、どこか息苦しそうに見えた。

 少年は、唇を噛んだ。

 

 「……無理だ」

 

 かすれた声だった。

 老人は黙って待った。

 ダチョウの肩が震える。

 

 「無理なんだ……」

 

 彼の指が、枝を握りしめる。

 

 「これは……僕が、望んだものだから」

 

 空気が、重く沈んだ。

 老人は表情を変えなかった。少年の言葉を、ただ受け止める。

 ダチョウは、堰を切ったように話し始めた。

 

 「みんな、怖かったんだ。怒るし、争うし、離れていくし……何を考えてるのか分からなくて……」

 

 声が震える。

 

 「僕が話すと、みんな優しくなるんだ。簡単になるんだ。分かりやすくなるんだ」

 

 少年は地面を見つめた。

 

 「それが……嬉しかった」

 

 枝が一本、折れた。

 小さな音が、やけに大きく響いた。

 

 「でも……」

 

 ダチョウの声が、細くなる。

 

 「僕は、分かってた。優しいのは、本当じゃないって。みんなが……少しずつ、薄くなっていくって」

 

 彼は息を吸った。

 

 「それでも……止められなかった」

 

 涙は出ていなかった。

 ただ、声だけが震えていた。

 

 老人は静かに頷いた。

 

 「そうか」

 

 責める響きは、一切なかった。

 ただ、理解があった。

 

 「望んだものは、責められぬ。恐れから生まれた願いも、人の知恵の一つじゃ」

 

 ダチョウは顔を上げた。

 老人の目は、厳しくも優しかった。

 

 「だがな」

 

 老人は枝の構造物に手を伸ばした。

 一本を、ゆっくり抜く。

 形が崩れた。枝が静かに散らばる。

 

 「均衡とは、崩れうるものを抱えておる状態じゃ」

 

 老人は散らばった枝を拾い上げた。

 

 「完全に均した世界は、もう選べぬ。変われぬ。学べぬ」

 

 彼は枝を一本、ダチョウに差し出した。

 

 「知性とは、正しく考えることではない」

 

 少年は枝を受け取る。

 

 「間違える可能性を、受け入れることじゃ」

 

 風が、再び吹いた。

 雲の隙間から、薄い光が差す。

 

 ダチョウは枝を見つめた。

 その細い木片は、歪で、均一ではなかった。節があり、曲がり、欠けている。

 彼はそれを、地面に置いた。

 

 そして、崩れた枝の中から、一本ずつ拾い始めた。

 均等には並べない。揃えようともしない。

 ただ、置いていく。

 形は歪だった。不安定だった。

 

 だが――そこには、息が通っていた。

 

 ダチョウは、ようやく泣いた。

 静かな涙だった。

 

 「……怖い」

 

 老人は頷いた。

 

 「知るとは、そういうことじゃ」

 

 少年は震える手で枝を置き続ける。

 老人は、それを見守った。手を貸さない。止めもしない。

 ただ、隣に座っていた。

 

 やがて、形ができた。

 それは何でもなかった。橋でも塔でもない。

 意味のない、不完全な構造だった。

 

 だが、風が吹いても崩れなかった。

 ダチョウは、それを見つめた。

 そして、初めて、安心したように、息を吐いた。

 

 空の雲が、ゆっくりと流れる。

 薄い陽光が、庭に落ちる。

 雪はまだ残っている。

 だが、その白さは、もう世界を覆ってはいなかった。

 

 老人は立ち上がる。

 

 「行くぞ」

 

 少年は涙を拭いた。

 

 「……はい」

 

 二人は歩き出す。

 足跡が、雪の上に並ぶ。風が吹く。

 だが、跡はすぐには消えなかった。

 

 世界は、まだ揺れている。

 だがその揺らぎの中で――

 

 ダチョウは、初めて考え続けることを選んだ。

 それが、彼にとっての知性だった。

 

 空の奥で、光が少しだけ広がった。

 

 ――

 

 神界。

 

 女神は静かに彼を見下ろしていた。

 

 「愚かな願いでしたね」

 

 声は優しい。

 だが、慈悲はない。

 

 「ですが……」

 

 女神は微笑む。

 

 「貴方は、最後に“知性とは何か”を理解しました」

 

 白い空間に、微かな残響が広がる。

 それは祈りにも、嘲笑にも似ていた。

 

 

 

 


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