白き龍皇1
何の因果か、堕天使であるアザゼルが手元で育てる事になった子供は悪魔、それも旧魔王のひ孫であり悪魔と人とのハーフとして
だが、アザゼルは子供を殺さなかった。今ならまだ間に合うと思ったからだ。実の両親から虐げられ、捨てられた子供は、しかし何を呪うでもなく、ただ生きていた。そのどこまでも無垢で純粋な瞳に、彼は希望を見出した。この子供は、きちんと教えれば無闇に世界を壊すようなことはしない、と。
最初の内は慣れない環境に戸惑っていた子供も、慣れてくるにつれて無邪気な笑顔を見せるようになった。半魔であるという事を忘れてしまいそうな、愛らしく無垢な笑みに、アザゼルは己の選択は間違っていなかったと思う。実際、子供は彼の元で暮らすようになってから、大きな問題は起こしていなかった。少し体が弱いところがあるらしく、偶に体調を崩して寝込むことはあったが、彼の部下である堕天使たちに敵意を向けることもなかった。
そう、だからアザゼルがそれに気付いたのは、実に半年が過ぎてからだった。
「…ん?ヴァーリ、その首の…どうしたんだ?」
「これ?メニエルがくれたんだ。かっこいいでしょう?」
そう言って、子供は首から下げたロザリオを嬉しそうにアザゼルに見せる。ロザリオについた十字架に触れた手が瞬く間に赤く焼けても気にする様子がない。
「あ、ああ、かっこいい…な。だが、お前…」
「?」
いくら悪魔らしくなくとも、子供は悪魔の血を引いている。十字架も聖水も光力も、その身を傷つける害となってしまう。神に祈ればダメージを受ける。それは、いわば摂理だ。子供の性質とは関係ない。
「それ、ちょっと貸してみろ」
「え、でも…」
「いいから」
ヴァーリはアザゼルにロザリオを渡す。それはただのロザリオではなく、念入りに聖別されたものだった。それに触れる度、子供の手は想像を絶する痛みを訴えていたはずだ。アザゼルは無言で服をめくる。子供の胸には、
「…これ、痛くないのか」
「これくらいなら、大丈夫だよ」
子供はにこりと笑う。痛みがないわけではないのだろう。ただ、当然のように痛みに慣れ、受け入れているだけなのだ。
「誰だよ、お前にそんな苦行をさせてる奴は」
「苦行?」
きょとん、と子供は首を傾げる。
「カルシエルたちは、俺が"ツミブカイアクマ"でなくなるように手を貸してくれてるだけだよ。だから、苦行じゃない」
「何言ってるんだ。十字架や聖水で身を焼き続ければお前は死ぬ。悪魔でなくなる、なんてことはない」
「え、でも、みんな俺は悪魔だから、その試練に耐えなきゃいけない、って。アザゼルもそれを望んでる、って」
「俺はお前が苦しむことは望んでねぇよ」
アザゼルは漸く己の思い違いに気付く。危惧すべきは子供が堕天使に敵意を向けることではなく、堕天使が子供に敵意を向けることだったのだと。確かに、子供には己を殺そうとした堕天使や天使、それに悪魔や人間でさえ返り討ちにして殺したという前科があった。だが、何の攻撃もしなかったアザゼルには構えもしなかったし、無闇に殺してはいけない、と言えば素直に頷いた。
この子供は異様なくらい害意に鈍感だ。それは、もしかしたら親に虐げられ捨てられたことに原因があるのかもしれない。子供は、己が害意を向けられたとは思っていない。厚意からの行動だと思っている。そこには苦痛しかなかったはずなのに、だ。おそらく、両親にも虐げられていたとは思っていないのだろう。だから、この子供は何も呪っていないのだ。親から与えられたものを"愛情"と信じ、"それと同じ"ものを好意からくる行動と捉えているのだろう。その歪んだ価値観は、簡単には直せないだろう。アザゼルは、気付くのが遅すぎた。
「とりあえず、これは俺が預かっておく」
「…折角メニエルが俺にくれたのに」
「お前が悪魔の血を引いてると知っててこんなもん贈るなんて、嫌がらせみたいなもんだろ」
子供の手は既に殆ど治っていて、胸の十字も薄くなり始めている。悪魔の回復力というやつだろう。そして、ふと嫌なことに気付く。
「ふぇ、何?」
「…やっぱこっちもかよ…」
子供の纏う服も、聖別された布から仕立てられたものだった。
「何やってるんですか、アザゼル様」
「悪魔に聖別された衣を着せるとか、拷問みたいなものだろ」
「…まさか、今日までさっぱり気付いてらっしゃらなかったんですか?」
「えっ」
シュミハザは子供と目線を合わせるように膝を折る。
「だから言ったでしょう。アザゼル様はあなたが悪魔である事実を否定していない、と」
「でも、じゃあ、俺は…」
「アザゼル様はあなたが神に祈って倒れることに気付かないくらい注意力散漫ですが、あなたに遠回しの自殺を望んだりはしません」
『だから言っただろう、無駄な行為だと』
アルビオンの呼びかけにヴァーリは俯く。
『でも、俺は、アザゼルに喜んで欲しかったんだ』
ヴァーリにとってアザゼルは、初めて己に手を差し伸べてくれた他人である。それまでずっと、彼はアルビオン以外に己を助けてくれるものはいないと思っていた。
両親がヴァーリに与えたのは苦痛、否定、拒絶。それが彼らなりの愛情なのだと、ヴァーリは思い込んだ。彼らは、ヴァーリが生き残るための試練として、獅子の子落としをしたのだと。ヴァーリが憎くてしているわけではないのだと。そう信じないと、耐えられなかった。
『喜んでほしいだけなら、他にもあるだろうに』
『他って?』
『本人に聞いてみたらどうだ』
『何て聞けばいいんだ。正面から、どうしたら喜んでくれるのか、って聞けばいいのか?でも、そうしたら、アザゼルは俺がそんな事もわからないやつだって思うだろ。それは』
嫌だ。
ぽつりと、ヴァーリは呟く。
「
ヴァーリは何故アザゼルが己を保護したのかわからない。他の天使や堕天使、悪魔たちのように殺そうとするのはわかる。ヴァーリは襲ってきた相手を返り討ちにした。殺そうと掛かってくる相手を死に物狂いで退けたら死んでしまった。ヴァーリには、殺さずに終えられるだけの力量と余裕がなかった。それは言い訳かもしれないが、事実だった。ヴァーリは普通の子供よりは強いが、それでも弱い。まだ漸く10歳になったばかりの子供に過ぎない。
アザゼルは無闇に殺すなと言った。それはつまり、されたことをそのまま返すのではいけないということだ。ならどうするべきなのか、それが彼にはわからない。"知識"から幾つか方法論は引っ張り出したが、人ではなく堕天使であるアザゼルがそれで喜ぶのかは判断がつかなかった。
『ヴァーリよ、お前はまだ子供だ。私にするように質問責めにしたりしても許されるだろう。少なくとも、アザゼルとシュミハザあたりにはな』
「…そうかな」
「ああ、わからないならちゃんと俺に聞け」
「!」
アザゼルはヴァーリに笑いかける。
「気がついてやれなくて悪かったな。もう、無理はしなくていいからな」
アザゼルはそう言ってヴァーリの頭を撫でた。ぽろり、とヴァーリの
「俺は、無理なんてしてない」
「だが、痛いのや苦しいのが好きってわけじゃないだろう?…それを嫌がるのは普通だ。我慢して、耐えなくたっていい」
「…でも、アザゼルは無闇に殺すなって言った」
「お、おう?」
「母さんは昔、人の嫌がることはしちゃダメだって言ってた。自分がされて嬉しいことをするものなんだって。
ヴァーリは真剣にそう思っていた。
ヴァーリが本気で言っていることが分かり、アザゼルは冷や汗と共に絶句する。言い分自体は、理解できなくもない。もしも、誰もがそうしているのなら、それは正しいだろう。だが、この世界には己がされたら嫌なことをする者もいるのだ。だから、それは正しくない。
『…本当に死にたがっている奴はそうそういないだろうがな』
「でも、みんな同じ
「…同じ、いろ?」
「最後に会った時の父さんと母さんと同じ
『・・・』
どうやら、ヴァーリは物事の捉え方に違う所があるらしいとアザゼルは思う。
「ヴァーリ」
「何?アザゼル」
「世界には、自分がされたら嫌なことを、嫌がらせとして相手にするやつもいるんだ」
「うん」
「だから…って、え?」
「
「…その通りだ、って言ってやれたら良かったんだけどな」
アザゼルは少し困った顔をする。
「残念ながら、お前に流れる血の半分は悪魔だからと敵視してる奴は居る。だから…そうだな、殺さない程度にやり返してやれ。場合によっては倍返しとかにしてやってもいいぞ」
とりあえずはそれで問題ないだろう。因果応報、というやつだ。ヴァーリは、善意に悪意を返したりはしないだろう。それぞれの種族の違いみたいなものは説明してやった方がいいかもしれないが、そうすればある程度自分で判断できるだろう。アルビオンもいるのだし。どうやら、アルビオンの方には常識的な思考ができている。