フェンリルは飼い狼の証である首ををはめただけ(本狼の意思で大型犬程度の大きさになっている)だが、マーナガルムは違う。洗っても落ちなかった血の染みは浄化魔法で何とか消し、特殊な封印術を込めた首輪で子犬になっている。定位置はヴァーリの膝か腕、或いは肩や頭に乗っていたり背中にくっついている事もある。
だが、これを面白く思わない者がいた。オーフィスである。それまで殆ど最優先で甘やかされてきた自分を差し置いて、新参の子犬が優先されているのである。その結果、まあ、わかりやすく言うと、拗ねた。
「ヴァーリ、我を見ない」
むすっとわかりやすく不満そうな顔をするオーフィスに美猴は苦笑いするしかない。まるっきり、見た目通りの子供にしか見えない。その内包する巨大な力を見なければ、だが。
「全く見てないって事はないと思うぜい?マナを優先的に甘やかしちゃあいるが」
曰く、無条件に受け入れられていると感じるのが最初の愛、だそうだ。ちなみに、オーフィスの反応については、弟妹が出来た時に上の子が拗ねたり幼児返りしたりするようなもの、と微笑っていた。わかっているなら相応の対処をしてほしいものである。
「ヴァーリ、我よりあの犬が好き?」
「オレっちに聞かれても…」
「マナ」
優しく呼ぶ声に答えるようにマナは尻尾を振る。猫であればゴロゴロと喉を鳴らしていただろう。
甘え方がよくわからないマナをヴァーリは甘やかしてくれる。優しく撫でて、抱きしめてくれる。美味しいご飯を作ってくれる。悪いことをすれば叱られるけれど、良いことをすると褒めてくれる。望む限り傍にいてくれる。
得られるはずがなかったものを、ヴァーリは与えてくれた。マナの中の空虚が少しずつ埋められていくようだった。
ヴァーリは悪意を持っていない。代わりに、いっそ残酷なくらいに優しい。誰に対しても分け隔てなく優しくできる。それは、異常なことなのだろう。見方を変えれば、とても"恐ろしい"ものなのだろう。大抵の者は彼を理解できない。彼には基本的に裏表などなく、思ったように動き、話しているのだけれど、各者の思い込みが理解を妨げる。そして、彼は誤解を解こうとはしない。ヒトは分かり合えないことが多いのだと、そのままにしている。彼が動物をいっそ偏愛していると言っていいくらいに好いているのは、動物は物事を見たままに捉え、思った通りに行動するからだ。彼を誤解することもない。だから、彼は動物が好きで、好かれるのだ。
実のところ、ヴァーリがオーフィスから一歩引いたのはわざとである。ヴァーリは、オーフィスが自分に執着しすぎていることを憂いている。それでは、ダメなのだ。グレートレッドだけに執着しているのと本質的に変わらない。
彼は、オーフィスにもっと、世界に目を向けて欲しいのである。…別にヤンデレ化することを危惧している、というわけではないのだが…たった一人の友達、というのは流石に重い。
「…やっぱり、イッセー、かな」
悪魔とかシスターとか関係なく、困っている女の子を助けるのは当然のことだと言い切った一斉なら、オーフィスを闇雲に拒絶することはないだろう、と思う。そうして、友達になってくれるかどうかはわからない。でも、確率はゼロじゃない。少なくとも、今のオーフィスは女の子のカタチをしているのだし。
「…父様、俺はちゃんと正しい道を選ぶことはできているかな」
呟きに答える者はいない。フェンリルもマナもアルビオンでさえも、眠りに落ちている。この部屋の中で目を覚ましているのは彼一人だけだ。
部屋に近づいてくる者の気配を感じ取り、ヴァーリは目を細める。今此処に来る予定が入っている者はいない。例外といえばオーフィスだが、気配が違う。親しい付き合いがあり、覚えがある気配ではない。
何者かが部屋の前で立ち止まり、ノックをする。
「…開いている」
扉を開けて入ってきた者に、ヴァーリは少し感心したような顔をした後、目を細めた。
「随分姿を見せないと思っていたが、野垂れ死んだわけではなかったか」
シャルバ、と彼が名を呼ぶと、青年は酷く苦々しそうな顔をした。
「眠気を催してもいませんか」
「その分アルビオンが眠っている。俺を眠らせてどうしようという気だったんだ?シャルバ。こうして姿を現したということは、俺に生きていることを知られたくなかったというわけでもないのだろう?」
「…ちょっとした確認ですよ」
シャルバはヴァーリに歩み寄る。そしてその手をとって口付けた。
「我が君においては、ご機嫌もよろしいようで」
「シャルバは…何やら、以前と少し気配が変わっているな。おかげで見るまで断定できなかった」
「まあ、死にかけましたから」
少し、拗ねているような口調で呟かれたことなに、ヴァーリはくすり、と笑みを浮かべる。
「俺がお前に助けの手を差し伸べなかったことに腹を立てている?」
確か、グレートレッドが顔を出す前には姿を消していたな、と呟く。
「…私は、あなたのお役には立てませんか」
「それは、心がけ次第だろう。お前が本当に俺の思惑を読んでいるにしろ、いないにしろ、お前が引き起こせる
例え、オーフィスの"蛇"を使っても、それは能力値が底上げされるという
「でしたら…」
「俺が、役に立つかどうかで、そんな"瑣末なこと"で、相手を助けるかどうかを決めると思うのか?」
にこり、とヴァーリは笑う。その笑みは美しいが、それは美しいだけで、いつもの無邪気さはない。寧ろ、ピリピリとした緊張感を放っている。
「カテレアはな、アザゼルを殺そうとしたんだ。袂を分かつことになっても、あの人は俺の父様だ。だから、殺させるのをやめさせたし、それ以外助けなかった」
以前の、事件においての真相。カテレアを救っているようにも見えたそれは、カテレアを助けるためのものではなかった。
「シャルバは、アーシアを"殺そうとした"な。偶々、俺たちと行き合ったから死なずにすんだが、そうでなければ無に当てられて死んでいただろう。…あの子は、俺の友人だ」
あの時の言葉。"龍は己のものに手を出されれば怒る"。それは、一誠のことだけではなかったのだ。歴代最高の白龍皇。そう称されるヴァーリもまた、龍であるのだから。
「グレモリーはまあ、仕方ないと言ってやってもいい。あの子も俺の学友だが、サーゼクス=ルシファーの実の妹だ。お前たちにとっては見逃せない相手だろう。だが、アーシアはダメだ。あの子は弱い。人から転生したばかりの下級悪魔だ。…俺の庇護対象にも当てはまる」
美しく、とても妖艶に、ヴァーリは微笑む。
「俺は、弱い者いじめは嫌いなんだ。…お前は、取るに足らない小虫を踏み潰して、それで楽しいのか?シャルバ」
シャルバは答えられない。ヴァーリに嘘は通じないのである。気に障るリスクは、できる限り避けたい。そして、それ以上に極至近距離に彼の整った顔があり、アメジストの瞳が向けられているという事が落ち着かない。
故に、シャルバは半分破れかぶれになりながら、魔術を放った。相手を眠らせるための魔術を。
その結果。
「…ぐぅ」
魔術の直撃で眠りに落ちたヴァーリはそのままシャルバにもたれかかる。それを慌てて抱え、シャルバは息を吐く。
色々な意味でヤバかった。いや、寧ろ今もヤバい。何がって、彼を抱きしめているという状態がヤバい。何故なら、シャルバは彼に劣情を持っているからである。男色の気があるのではなく、彼が特別なのだ。男女の別など超越し、様々な面で、色々な意味で、彼に惹かれている。
彼が性に奔放であったら話は楽だったのだが、彼は悪魔にしては身持ちが固い。鉄壁すぎる。他はともかく、性欲だけは絶対応えてくれないのである。勝手におかずにする分にはアレだが。
「…ヴァーリ様やっぱり睫毛長い」
「…はっ」
溢れていた涎を拭い、ヴァーリは起き上がる。どうやら、執務机に突っ伏して眠ってしまっていたようだ。幸か不幸か、被害は一番上の報告書に涎の跡がついてしまった事くらいらしい。インクは蓋をされているし、ペンもペン立てに収まっている。
「…居眠りなど、するような季節というわけでもないだろうに」
自分が居眠りなどしたことのない超真面目ちゃんだと言うつもりはないが、彼が居眠りする時というのは、異常に忙しいか、異常に暇かの二択である。前者は寝不足とも言う。
足元で目を覚ましたマナが己を見上げてしっぽを振っているのを見つけて抱き上げる。フェンリルはもはや定位置に近い机の前の敷物の上で惰眠を貪っているようだ。
「…何か、忘れているような…」
マナを撫でながら、ヴァーリははて、と首を傾げる。しかし、今日はさして重要な予定などないはずなのである。ならば、特に気にかけるべき事もないはずなのである。
「うーん…?」
暫く考え。一人で考えても埒が明かない、とアルビオンに呼びかける。
『…む、どうした?ヴァーリ』
「今日は、何かあったか?」
『…特に、何もなかったのではないか?私にまで眠気が襲ってきたくらいなのだから』
精神体のようなものであるアルビオンには基本的に肉欲はない。嗜好品のようなものである。