クリスマスが過ぎてからの日々は、
思っていた以上に慌ただしく流れていった。
年が明け、気づけば一月下旬。
アパートの部屋には、
あの甘い夜の余韻が薄れ、
いつもの落ち着いた空気が戻っていた。
「よし、課題も順調~順調~♪」
小さく鼻歌をうたいながら、
蒼太はノートを閉じる。
大学の期末試験も後半に差し掛かり、
手応えは悪くない。
少なくとも、去年のような不安はなかった。
――そのとき。
玄関の扉が静かに開く音がした。
「おかえりー……」
振り向いた蒼太は、言葉の途中で止まる。
「……なさい?」
青が帰宅していた。
だが、
いつもなら返ってくるはずの軽い一言がない。
「……ああ。ただいま」
声は低く、表情もどこか硬い。
コートを脱ぐ仕草にも、
いつもの余裕が感じられなかった。
蒼太の胸が、ひやりと冷える。
「……先輩?」
青は何も言わず、リビングの椅子に腰を下ろす。
その沈黙に、
蒼太ははっきりと覚えのある空気を感じ取った。
――去年の六月。
青が一人で抱え込み、
笑わなくなった、あのときの空気。
「……どうしたんですか?」
「……ああ、ちょっとな」
それ以上、言葉は続かない。
蒼太はしばらく青の様子をうかがっていたが、
その沈黙に耐えきれず、意を決して口を開いた。
「……先輩、覚えてますか。
去年の六月のこと」
青がわずかに顔を上げる。
「困ったこと、一人で抱え込まないでください‥‥、
……僕だって、何か力になれるかもしれません」
青は一瞬だけ視線を伏せ、
申し訳なさそうに息を吐いた。
「……今日な。教育委員会の採用担当から、
通知が来たんだ」
蒼太は息をのむ。
「……四月からの赴任先の内示があって……」
言葉が、途中で詰まる。
「……先輩……
どこに、決まったんですか……?」
恐る恐る、蒼太は尋ねた。
青は少し間を置いてから、重い口を開く。
「……県立秩父南高校。
保健体育の担当だ」
「……秩父……?」
聞き慣れない地名に、
蒼太は思わず聞き返す。
――秩父市。
いま二人が暮らしている大宮から、
電車を乗り継いで、
さらに西へ向かった先にある街。
蒼太は、何も言えなくなったまま、
ただ青の横顔を見つめていた。
この知らせが、
ふたりの時間に小さな距離を生み始めていることを、
蒼太はまだ言葉にできずにいた。
「……遠い、ですね……」
その一言は、確認というよりも、
現実をなぞるための小さな独り言に近かった。
「ああ。このアパートから通勤するのは、
正直きついな。
秩父の教員宿舎に入るか……それか、
向こうでアパートを借りることになると思う」
淡々とした口調。
けれど、その裏にある覚悟と諦めが、
蒼太にははっきりと伝わってきた。
――一緒に暮らしてきた、この距離が変わる。
その事実を、蒼太はその一言で察してしまう。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
「……それと」
少し間を置いて、青は続ける。
「その学校、野球部がないんだ」
「……っ」
一瞬、言葉が聞こえなかったような気がした。
次の瞬間、胸の奥に鈍い痛みが走る。
(……先輩にとって、どれだけ大事なことか……)
それが“自分のこと”でなくても、
蒼太には、
まるで自分の夢を奪われたように苦しかった。
「……まいったな……」
青は額に手を当て、小さく息を吐く。
「こうなる可能性があるって……
頭では分かってたはずなんだ」
声が少し、揺れる。
「……でも、どこかで軽く考えてた。
……蒼太に、申し訳ない」
その言葉が、蒼太の胸を強く締めつけた。
蒼太は「大丈夫です」と言いたかった。
先輩を安心させたかった。
これ以上、青を追い詰めたくなかった。
――それなのに。
喉まで出かかった言葉は、形にならず、
ただ唇がかすかに動いただけで終わる。
蒼太は俯いたまま、
ぎゅっと拳を握りしめた。
この瞬間、
ふたりの前に立ちはだかる“新たな試練”が、
確かに姿を現していた。
* * *
それから数日が過ぎた。
青と蒼太は、あの話題に触れることがなかった。
まるで示し合わせたかのように、
アパートの空気は、重い。
秩父のことも、四月からのことも、
これからの暮らしのことも――
言葉にしないまま、
日常だけが淡々と続いていた。
朝は同じ時間に起き、
夜は同じ部屋に戻る。
変わらない風景。変わらない距離。
だからこそ、
“その話題”を出してしまえば、
今の穏やかさが壊れてしまうことを、
ふたりとも分かっていた。
第三者の目で見れば、答えはひとつしかない。
四月から、青はこのアパートを出て、秩父へ。
教員宿舎、あるいは近くの 新しいアパート。
新しい職場、新しい生活。
そして蒼太は、大宮に残る。
大学があり、就活があり、
まだ“学生”という立場がある。
――別れて暮らす。
それ以外の選択肢は、
冷静に考えれば、どこにもなかった。
それなのに。
青も蒼太も、
その“唯一の正解”を、
どうしても認めたくなかった。
青は、
蒼太を残して
部屋を出ていくことを想像するだけで、
胸が重くなる。
「仕方ない」と口にするには、
一緒に積み重ねてきた時間が、
あまりにも大きすぎた。
蒼太は、
青がいない朝や夜を思い浮かべるたび、
それを“現実”として
受け入れることができなかった。
まだ何も決まっていないのに、
終わりだけが先に見えてしまう気がして。
だから、話さない。
話せない。
この沈黙は、逃げではなく、
ふたりなりの抵抗だった。
「分かっているけど、
まだ、今じゃない」
そんな無言の気持ちが、
同じ部屋の空気に静かに漂っていた。
* * *
青は、蒼太のいないカフェに一人で座っていた。
窓際の席。
コーヒーはとっくに冷めているのに、
それに口をつける気にはなれなかった。
――赴任してから、五年。
早ければ三年で、転勤の希望は出せる。
その先に、
また蒼太と一緒に暮らす未来があるかもしれない。
(……でも)
考えが、そこで止まる。
そのとき蒼太は、
どこで、何をしているのか。
この大宮のアパートに、
もう住んでいないかもしれない。
就職して、別の街に行っているかもしれない。
もしかしたら――。
青は、そこから先を考えることができなかった。
未来の話をすればするほど、
時間が進めば進むほど、
自分の手から蒼太が少しずつ離れていく気がして、
胸の奥が息苦しくなる。
机の下で、拳を握りしめる。
「……くそ……」
小さく吐き出した言葉は、
誰にも届かないまま、胸の内に沈んだ。
考えれば考えるほど、
逃げ場はなく、
苦しみだけが増えていく。
それでも――。
(……このまま、
何も言わずにいるわけにはいかない)
曖昧な沈黙のまま、
時間だけが過ぎていくのは、
蒼太に対しても、自分に対しても、
誠実じゃない。
青はゆっくりと立ち上がり、
レジへ向かう。
カフェを出ると、
冷たい冬の空気が頬に当たった。
胸の奥はまだ重い。
答えも、覚悟も、
すべて揃っているわけじゃない。
それでも、ひとつだけは決めた。
(……今日、帰ったら‥‥)
(蒼太と、これからのことを話そう)
逃げない。
先延ばしにしない。
青は前を向き、
アパートへ向かって歩き出した。
ふたりの未来は、
まだ決まっていない。
だからこそ――
今、話さなければならなかった。
* * *
青は、歩きながらふと、
佐々木コーチの顔を思い出していた。
苦しいとき。
迷ったとき。
青が立ち止まりそうになるたび、
いつも黙って背中を押してくれた人。
(……今回は、相談しても仕方ないかもしれない)
そう思い、青は一度、その考えを振り払おうとする。
これは自分たちの問題だ。
距離も、暮らしも、選択も。
答えを出すのは、自分と蒼太しかいない。
――でも。
(……それでも……)
呆れられてもいい。
面倒な教え子だと思われても仕方ない。
それでも今は、
大人の意見が聞きたかった。
正解がほしいわけじゃない。
答えが見つからなくて苦しんでいることを、
誰かに受け止めてほしかった。
(……佐々木コーチの声が、聞きたい)
青は立ち止まり、
意を決してスマホを取り出す。
通話ボタンを押すと、
呼び出し音は、驚くほど短かった。
『――どうした、佐伯?』
受話口から聞こえた声は、
いつもと変わらない落ち着いた低音。
それなのに、何かを察しているようだった。
「……コーチ。
お忙しいところ、急に電話してすみません」
『悪い、ちょっと場所変わる。
すぐ折り返すから、待ってろ』
通話が切れる。
青はスマホを握ったまま、
胸の奥に小さな罪悪感が広がる。
(……やっぱり、迷惑だったか……)
数秒後。
すぐに着信音が鳴った。
『すまんすまん。
静かなところに移動した』
少し息を整えた声。
『で、どうした。
……なんかあったか?』
青は短く息を吸い、
これまでの経緯を、言葉を選びながら話した。
赴任先のこと。
距離のこと。
蒼太のこと。
そして、自分が迷っていること。
話し終えるころには、
胸の奥がじんわりと熱くなっていた。
電話の向こうで、
一瞬、沈黙が落ちる。
『……佐伯』
佐々木の声が、少しだけ低くなる。
『なんてタイミングだよ……』
青は思わず、スマホを耳に強く当てた。
『……明日、時間あるか』
「え……?」
『明日、会って話そう。
今日は……今日はな』
一拍、間があく。
『今日は、岡谷に話すな』
「……コーチ?
どうしたんですか?」
『……悪い。
今は、まだ話せる状況じゃねえ』
その言葉の重さに、
青は息をのむ。
『お前、大宮だったな。
……明日、迎えに行く』
「迎え……?」
『詳細はLINEする。
今日は、とにかく待て』
通話は、それだけで終わった。
スマホの画面を見つめたまま、
青はしばらく動けずにいた。
胸の奥に渦巻くのは、不安だけじゃない。
――何かが、動き出そうとしている。
青は静かに息を吐き、
アパートへ向かって歩き出した。
* * *
翌日は、二月最初の土曜日だった。
佐々木に指定された場所で、
青は一人、立って待っていた。
冬の空気は澄んでいて、吐く息が白くなる。
――時間ぴったり。
低く、落ち着いたエンジン音が近づいてくる。
視線を上げると、
見覚えのある車が滑るように止まった。
青の高校時代に、
佐々木がよく洗車していた車だ。
丁寧に洗車され、
ワックスで磨かれたボディは、
冬の陽射しを受けて繊細に輝いている。
無骨なのに、どこか色気のある黒いSUV。
窓が下がる。
「佐伯、待たせたな。……乗れよ」
「……はい」
ドアを開けた瞬間、胸が高鳴った。
なぜか分からないが、
蒼太を置いてここに来ていることに、
ほんの少しだけ罪悪感が胸をよぎる。
「ありがとうございます……」
シートに身を沈めると、
車内には“大人の香り”が満ちていた。
香水ではない。
革と金属、そして佐々木そのものの匂い。
青は思わず背筋を正す。
「……車の中でする話じゃねえから移動する。」
エンジンがかかり、車は静かに走り出す。
「少し走るぞ。三十分くらいな」
「……はい」
目的地は告げられない。
ただ、街を抜け、
信号をいくつか越えていく。
佐々木の車内は、今流行りの音楽が流れている。
――不思議なことに。
あの話題は、意図的に避けられていた。
「そういや佐伯、高校の時さ」
「……?」
「覚えてるか。
夏の大会前、
バッティングケージで一人残ってたやつ」
青は一瞬、驚いたように目を瞬かせる。
「……ああ……はい」
「フォーム崩して、
『もうダメです』って顔してたな」
「……そんな顔、してましたか」
「してた。
自分じゃ気づいてなかっただろうけどな」
佐々木は前を見たまま、淡々と続ける。
「俺が『今日は帰れ』って言ったら、
『もう一本だけお願いします』って
食い下がってきた」
青は小さく息を吐いて笑った。
「……覚えてます。
あのとき、部屋で泣きました」
「ちょっとキツかったって、後悔したな、、」
短く笑う。
「でも次の日、
何事もなかったみたいな顔で
グラウンド立ってた」
「……必死でした」
「そういうとこだぞ、佐伯」
その言葉は、叱責でも、称賛でもない。
ただ“見てきた人間”の声だった。
しばらく、車内にはエンジン音だけが流れる。
「……あの頃も、答えなんてなかったよな」
青は、はっとする。
「それでも‥‥‥
前に進むしかなかった」
横目でちらりと青を見る。
「……今日はな、
その話をするために呼んだんじゃねえ」
「……?」
「まずは、肩の力、抜け」
車は、静かに街を抜けていく。
あの話題は、
まだ出てこない。
けれど青は、
このドライブが、
ただの昔話じゃないことを、
もう感じ始めていた。
――佐々木と青が乗る車は、
何も言わずに、
それでも確実に、
青を“話す場所”へ連れて行こうとしていた。
* * *
大宮から、車は東へ向かう。
佐々木コーチの車は、
都市部を抜け、
どこか速度を落としたような道を選びながら
進んでいく。
田舎でもない。
都会でもない。
懐かしさがふっと胸に触れるような街並み。
やがて車は、広い敷地内の駐車場に静かに止まった。
「……ここは?」
「岩槻城址公園だ」
ドアを開けると、
ひらけた空と、
冬とは思えないやわらかな陽射しが広がっていた。
「いい感じの公園だろ。
俺、岩槻生まれなんだよ」
「……そうだったんですね」
「高校の頃はな、
よくここで時間潰したもんだ」
歩き出す佐々木の背中は、
どこか懐かしさに引かれているように見えた。
「……前に話してた、
“大事な人”って……ここで?」
「ああ」
少し間を置いてから、続ける。
「ここで、あいつと……
それから、あいつの弟とよく一緒にいた」
青は息をのむ。
「よくな。
三人でくだらないことして遊んだ」
その横顔は、
懐かしさと、哀しさが混ざった、
とても“大人びた”表情をしていた。
青は、思わずその顔から目を離せなくなる。
「……まあ」
ふっと肩をすくめる。
「こっち来いよ」
園内は、季節外れの暖かさに包まれていた。
まるで小春日和のような陽気。
芝生では子どもが走り回り、
ベビーカーを押す家族連れの笑い声が、
穏やかに風に混じっている。
日当たりのいい東屋に腰を下ろすと、
佐々木は自販機から買ってきたコーヒーを手渡した。
「ほい。温かいぞ」
「……ありがとうございます」
手に伝わるぬくもりが、
張りつめていた青の神経を、少しだけ緩めた。
「……じゃあ」
コーヒーを一口飲んでから、
佐々木は静かに言った。
「本題に入る前にな」
少しだけ、間。
「佐伯。……お前、次々と試練にぶち当たるな」
そう言って、
ごく自然に、青の頭に手を伸ばす。
くしゃり、と。
「……えっ……コ、コーチ……!」
驚きで声が裏返る青をよそに、
佐々木の手は、
ただ“労う”ように、そこにあった。
その仕草に、
青の胸の奥に溜まっていたものが、
静かに揺れ始める。
ここは、
逃げ場じゃない。
けれど――
話していい場所だった。
佐々木は、
コーヒーを一口飲んでから、静かに口を開いた。
「佐伯。……河野先生のこと、覚えてるか?」
「……はい。
高校二年のとき、
保健体育を担当してた先生ですよね」
「ああ」
少しだけ、視線を遠くにやる。
「河野先生な、家庭の事情で、
急遽退職することが決まった」
「……え?」
「お前が電話してきた……三日前だ」
「……っ!」
言葉を失う青を見て、佐々木は続ける。
「この三月の卒業式で退職になる」
「……そんな……河野先生が……」
胸の奥がざわつく。
「急だったからな。
うちの高校は、
今年度、保健体育の教員を採る予定はなかった」
青は小さくうなずくしかなかった。
(……知ってる。
一番最初に、蒼陵高校の求人を調べた……
でも、今年度は募集がなくて……)
「……でだ」
一拍、間を置く。
「佐伯。蒼陵に、来ないか?」
「――――っ!?」
思わず顔を上げる。
言葉の意味が、すぐに理解できなかった。
「蒼陵なら私立だ。転勤はない」
青の心臓が、大きく跳ねる。
「それに……野球部のコーチも、できる」
(……なにを……言って……)
頭が追いつかない。
現実感が、まるでない。
「お前が電話してきたあと、
すぐ校長と教頭に話した」
佐々木は、少しだけ肩をすくめる。
「そしたらな……
その日のうちに、理事長まで話が行ってた」
「……理事長……?」
佐々木は、ほんの少し誇らしげに笑った。
「理事長、お前のこと、よく覚えてたぞ」
「……え……?」
「『あの最強バッテリーの片割れか』ってな」
青の喉が、きゅっと詰まる。
「理事長、野球部にかなり思い入れがあってな」
そして、はっきりと言った。
「お前は、
元蒼陵高校野球部・最強バッテリーのOBだ」
一つ、指を折る。
「野球部の勝手も、空気も知ってる」
二つ目。
「埼玉県の教員採用試験にも、合格してる」
三つ目。
「――正直言ってだ」
「お前以外に、適任はいない」
青は、ただ呆然と佐々木コーチを見つめていた。
信じられない、という顔で。
「……お前さえよければ」
少しだけ、声を落とす。
「来週、面接に来ないか?」
「……」
「お前なら……絶対、採用になる」
その言葉が、
青の胸の奥に、まっすぐ刺さった。
「……コーチ……」
声が、震える。
気づけば、視界が滲んでいた。
必死に瞬きをするが、
涙は止まらない。
佐々木は、何も言わず、
ただ黙ってその様子を見守っていた。
青は、言葉にならない想いを抱えたまま、
涙目で、佐々木を見つめる。
ここで、
青の人生は――
もう一度、大きく動き出そうとしていた。
「……コーチ。
ぜひ、面接……受けさせてください」
少し震えた声だったが、
その目には、はっきりとした覚悟があった。
「ああ」
短く、即答。
「……お前は運がいい」
「……え?」
「あのとき、お前から電話がなけりゃな」
「正直、もう一人……
別の候補で話、進めるところだった」
青は息をのむ。
「タイミングってのは、
ほんと残酷で、ほんと平等だ」
ちらりと横目で青を見る。
「……でも、今回はお前が引き寄せた」
「……」
「顔色、だいぶ良くなってきたな」
そう言って、佐々木はニヤッと笑った。
「よーし。メシ行こうぜ!」
「……え?」
「焼肉!今日は焼肉だ!!」
「……はい。ありがとうございます」
車に戻り、ドアが閉まる。
エンジンがかかり、再び走り出す。
しばらくして、佐々木がぽつりと言った。
「……ここにな」
「……?」
「誰かを連れてきたの、お前が初めてだよ」
「……そうなんですか?」
少し意外そうに聞き返す。
「ああ」
一瞬、間。
「正直言って……ここに来るの、
ずっと辛くてな」
青は、胸がきゅっとなるのを感じた。
「でも……」
言葉を探すように、少しだけ速度を落とす。
「……お前となら、
また、ここに来れそうな気がした」
「……な、なんで……ですか……?」
胸が、どくん、と鳴る。
佐々木は、ほんの一瞬だけ黙ってから、
照れたように鼻で笑った。
「……言わせんなよ」
その笑い方は、
いつもの“指導者の顔”じゃなかった。
「さ、腹減った。焼肉行くぞ」
あっさりと話題を切り替え、
ウインカーを出す。
(……今の……どういう意味……?)
胸の奥が、妙にざわつく。
(……いや……まさか……)
頬が、じわっと熱くなる。
青は窓の外を見ながら、
自分の鼓動をごまかすように息を整えた。
佐々木は、何も言わない。
けれど、ハンドルを握る横顔は、
どこか満足そうだった。
――はっきり言わない。
――でも、否定もしない。
それが、
佐々木という“大人”のやり方だった。
* * *
すっかり日も暮れ、
佐々木の車は大宮公園の近くで静かに止まった。
街灯に照らされた木々が、
フロントガラスに淡い影を落とす。
「……コーチ。
今日は、ご馳走様でした」
「ああ。
面接の詳細、日程が決まったらLINEする」
「……勇気出して、
コーチに電話して、本当によかったです」
佐々木は、少しだけ驚いたように青を見る。
「勇気なんか、いらねーよ」
ハンドルに手を置いたまま、
ごく自然な口調で続ける。
「お前からの電話なら、いつでもいい」
一拍。
「……それに」
声のトーンが、ほんのわずかに落ちる。
「用事がなくっても、いいんだぜ‥‥」
まるで――
恋人に言うみたいに。
「……え……
コ、コーチ……?」
胸が跳ねる。
佐々木は一瞬、青を見てから、
ふっと笑った。
「?冗談だよ、冗談!」
すぐにエンジンをかける。
「また、いつでもデートしようぜ!」
アクセルを踏み、
車はそのまま走り出した。
青は、少し呆然としたまま、
遠ざかっていくテールランプを見送る。
(……な……
コーチには、やっぱり敵わない!)
胸の奥に残る余韻を振り払うように、
青は小さく息を吐いた。
(……早く、蒼太に伝えなきゃ!)
その背中は、
もう迷っていなかった。
* * *
そのころ。
佐々木の車内には、
昔ヒットした音楽が静かに流れていた。
ハンドルを握りながら、
誰に聞かせるでもなく、
小さく呟く。
「……なあ、竜司」
夜の道路に、声が溶ける。
「……これで、よかったよな‥‥」
信号待ちで、
フロントガラスの向こうを見つめる。
「……俺はさ」
少しだけ、苦笑い。
「どうも、本命とは……
結ばれない運命みたいだ‥‥」
音楽が、サビに差し掛かる。
「……それでも」
ハンドルを握る手に、
ほんの少しだけ力がこもる。
「……誰かの人生を、
前に進められたなら……
それで、いいよな‥‥」
夜は、さらに深まっていく。
街の灯りの向こうで、
ひとりの大人の恋は、
静かに、胸の奥へとしまわれた。