二月中旬。
冬の寒さに、
ようやく出口が見えはじめた頃。
冷たい空気の中に、
ほんのわずかな柔らかさが混じる朝だった。
青はスーツに身を包み、
蒼陵高校の正門をくぐる。
引き締まった体格に、
落ち着いた立ち居振る舞い。
もう学生には見えない。
(……いよいよ、だな)
面接室に通されると、
そこには穏やかな空気が流れていた。
質問は形式的なものに留まり、
話題は次第に――「採用前提」で話が進んでゆく
四月からの授業編成や、
校内の動きへと移っていく。
これは、
「試す場」ではない。
(……もう、話は進んでいる)
面接というより、
四月からの打ち合わせ。
青はそう感じながら、
ひとつひとつ丁寧に答えていった。
やがて、控え室で待つように言われる。
静かな部屋。
椅子に腰掛けると、
今さらのように心臓の音が耳に響いた。
(……大丈夫だ)
そう自分に言い聞かせながら、
深く息を吸う。
しばらくして、再び呼ばれた。
通された部屋には、
理事長、校長、事務長、
そして数名の重役が揃っていた。
青は背筋を伸ばす。
中央に座る理事長が、ゆっくりと口を開く。
「佐伯青さん」
一拍、間。
「あなたを――
わが蒼陵高校、保健体育担当教師として、
採用します」
その言葉と同時に、
場の空気が一気に和らぐ。
理事長は、にこやかに笑った。
「佐伯くん。……おかえりなさい。
四月から、よろしくお願いします」
青の胸は熱くなる。
「……ありがとうございます!」
深く、深く頭を下げる。
「至急内定を出さないとね。
埼玉県教育委員会のほうへ、
内定辞退の手続きが必要になるから」
「こちらもすぐ書類を整えます」
事務長は直ぐに席をたち、
事務室へと向かった。
「……ご配慮、ありがとうございます」
青は再び、深く礼をする。
* * *
その翌日、
青は埼玉県教育委員会の事務局へ向かった。
(……これは、電話で済ませることじゃない)
言い訳はしない。
ごまかさない。
すべて、正直に話す。
受付を済ませると、
人事担当の責任者と、
その上長が姿を現した。
小さな会議室。
青は椅子に座り、ゆっくりと話し始める。
蒼陵高校のこと。
急な欠員のこと。
自分の迷いと、決断の理由。
うまく話せる自信はなかった。
けれど、不思議と声は落ち着いていた。
話し終えると、
人事担当者は静かにうなずいた。
「……分かりました」
「こちらとしては残念ですが、
内定辞退ということで受け取ります」
一拍、間。
「正直に話してくれて、ありがとう」
上長も、穏やかに言葉を添える。
「四月から、頑張ってください」
「……はい」
「このたびは、本当に申し訳ありませんでした」
深く頭を下げる。
事務局を出ると、
冷たい風が頬を打った。
それでも――
胸の奥は、不思議なほど静かだった。
(……選んだ)
青は、自分の足で、
自分の道を選んだのだ。
この決断が、
蒼太との未来へ、
確かにつながっていることを信じて。
* * *
2月下旬
青は、蒼陵高校の事務局へ必要書類を持ち込んだ。
受付を済ませ、
そのまま職員室へ足を運ぶ。
先生たちは笑顔で青を迎える。
「おお、佐伯じゃないか」
「戻ってくるって聞いたよ」
声をかけてくる先生は多く、
思っていた以上に歓迎ムードだった。
(……よかった)
胸の奥が、すっと軽くなる。
ここは、
確かに自分の“帰る場所”なのだと実感した。
職員室を後にし、
青は次に体育準備室へ向かう。
ドアを開けると、
ボールの匂いと、少し古いマットの感触。
(……四月から、ここで働くのか)
胸が、きゅっと引き締まる。
そのとき――
「よっ。
よろしくな、佐伯先生!!」
「……っ!佐々木コーチ!」
不意打ちに、思わず背筋が伸びる。
「……はい。
よろしくお願いします……佐々木先生」
「ははっ。堅苦しくすんなって」
手をひらひら振りながら続ける。
「四月からいきなり担任、
なんてことにはならねえだろうしさ。
大丈夫、大丈夫」
「……佐々木先生の
“大丈夫”は……安心します」
少し照れたように言う青。
佐々木
(……ほんと、無自覚だな……)
咳払いをひとつ。
「ま、とりあえずだ」
「四月からは、
野球部コーチ“見習い”ってことで!」
「……えっ!?
もう、コーチやらせてもらえるんですか?」
「そーだよ」
「佐伯が来る前なんてな、
監督とコーチ三人で回してた時期もあったんだぞ」
「えっ?……そうなんですか!?」
「そーなんだよ」
ここから、止まらない。
「それがな、人件費削減だの、
人手不足だの言われてよ」
「気づいたらコーチ一人。
ワークライフバランスはどこ行ったんだ
って話だ」
「そんなんだから、
甲子園からも遠ざかるし」
「そもそも強豪校で、
コーチが一人とか、無理ゲーだろ」
「……」
「……コーチ、
だいぶ溜まってたんですね」
「まーな」
肩をすくめて笑う。
「ってことでだ。
よろしく頼むわ、佐伯コーチ」
「じゃあ、さっそく……コーヒーな」
「……っ」
思わず、吹き出しそうになるのを堪える。
「……はい。喜んで!!」
爆笑する佐々木
体育準備室には、
重たい決意ではなく、
軽やかな未来の空気が流れていた。
ここから始まるのは、
保健体育教師・佐伯青としての毎日と、
そして――
蒼陵高校野球部の、新しい時間だった。
一一外からは、
活気ある野球部の自主練の声が響いてくる。
佐々木は、コーヒーを淹れ一息
「……ところでだ」
ふいに、声のトーンが変わる。
いつもの軽さが消え、真面目な表情になる。
「四月から、住むところはどうするんだ?」
「……今のアパートから、通うつもりです」
「……うーん」
腕を組み、少し考えるように天井を見る。
「大宮から、だろ」
「……はい」
「お前、教育実習のときのこと……忘れたのか?」
その一言で、
青の脳裏に、六月の記憶がよみがえる。
――睡眠不足。
――体力も気力も限界で。
――野球部寮に転がり込むように寝泊まりして。
――蒼太と、物理的にも、
心情的にも距離ができてしまった、
あの時間。
青は、思わず視線を落とした。
「はっきり言うぞ」
「……それは、すすめられない」
「……」
「野球部の朝練、間に合うか?」
青は答えられない。
「大会に入れば、
夜遅くまでミーティングもある。
それ、もう経験してるだろ」
「……はい」
「朝練に間に合わせるには……
始発でも、かなりギリギリで……」
少し間を置いて、続ける。
「……たぶん、四時起きになります……」
「……だろうな」
即答だった。
「お前、倒れるぞ」
短い言葉。
でも、重い。
青は黙り込む。
(……分かってる。
佐々木コーチの言う通りだ)
(……でも……)
蒼太を、ひとりアパートに残すことになる。
家賃だって、一人で背負うのは簡単じゃない。
何より――
離れて暮らすという選択を、
まだ受け入れきれない。
「……だからな」
一拍、間を置いて。
「俺は、職員宿舎に住むのをすすめる」
「……」
「そこで、だ」
少しだけ、口元が緩む。
「……岡谷も、一緒に住めばいい」
「……えっ?」
思わず顔を上げる。
「でも……事務局の話だと……
職員宿舎に同居できるのは、家族……
配偶者、子どもだけって……」
佐々木は、青をまっすぐ見た。
「……岡谷は‥‥」
一瞬の迷いもなく、言う。
「もう、お前の“人生のパートナー”だろ?」
「……っ」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
「形式的な話なら、
事前に、俺が事務長に話す」
「ここは私立だ。
公立より、融通はいくらでも利きやすい」
「それに――」
少しだけ声を落とす。
「……お前が無理して、
大事なもん失うほうが、
よっぽど問題だ」
青は、言葉を失ったまま、立ち尽くす。
「教師としても、コーチとしても、
人としてもだ」
「……守る順番、間違えるなよ」
その言葉は、
指導でも命令でもなく、
人生の先輩からの忠告だった。
青は、深く息を吸い、
ゆっくりと頭を下げる。
「……ありがとうございます、佐々木先生」
「大丈夫だ、佐伯」
「……自分と‥‥‥、岡谷を、大事にしろ」
青は、はっきりとうなずいた。
(……俺は、
もう一人で抱え込まなくていい)
体育準備室には、
静かで、確かな“道筋”が示されていた。
* * *
青は体育準備室を去り、
佐々木一人が残っていた。
佐々木は、
窓から野球部の練習風景を懐かしげに
眺めていた。
そして、独り言のようにつぶやく。
「竜司‥‥、俺はやっぱり‥‥、
こういう生き方が性に合ってるわ‥‥」
そしてまたひとつ、
佐々木は――
青と蒼太の未来を、現実の側から救った。