青と蒼 フォークのあとで   作:ハマジロウ

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最終章 青と蒼 フォークのあとで

 

 

三月のはじめ。

 

青は、蒼陵高校の事務局を訪れていた。

 

 

 

案内されたのは、

 

事務局の奥にある小さな会議室だった。

 

長机を挟んで、

 

事務長と職員宿舎の担当者が向かいに座っている。

 

 

 

佐々木から、

 

すでに簡単に事情は伝わっている——

 

そう聞かされてはいたが、

 

青の胸は落ち着かなかった。

 

 

 

(……それでも、

 

自分の口から話さなきゃいけない)

 

 

 

この話をすることで、

 

これから始まるはずだった道が、

 

音もなく閉ざされるかもしれない。

 

 

 

内定が、取り消される。

 

その可能性が、頭の片隅から離れなかった。

 

 

 

青は背筋を伸ばし、ゆっくりと息を吸う。

 

 

 

職員宿舎の担当者が、慎重に口を開いた。

 

 

 

「佐伯くん……いや、佐伯先生」

 

 

 

一瞬の言い直しが、妙に胸に刺さる。

 

 

 

「話は、伺っています。ただ……」

 

 

 

言葉を探すように、視線が机の上を泳いだ。

 

 

 

「今まで、前例がなくて……」

 

 

 

少し困惑した表情。

 

 

 

その空気に、青の心が沈む。

 

 

 

(……やっぱり、言うべきじゃなかったか)

 

 

 

胸の奥で、後悔が静かに膨らんでいく。

 

 

 

事務長は、ゆっくりと首を振った。

 

 

 

「ただ、前例がないから、

 

 という理由だけで退けるのは違うと

 

 私は思っています」

 

 

 

その言葉に、青は思わず息を止めた。

 

 

 

「岡谷くんは、わが蒼陵高校のOBです。

 

しかも、硬式野球部でエースまで務めた生徒です。

 

学校として、

 

決して無下に扱うことはできません」

 

 

 

淡々とした口調だったが、

 

そこには確かな重みがあった。

 

 

 

事務長は一度言葉を切り、

 

青のほうをまっすぐに見た。

 

 

 

「それに——」

 

 

 

わずかな間。

 

 

 

「一番大事なのは、

 

佐伯先生が岡谷くんを、

 

どれだけ大切に思っているか。

 

それは、今の話でよく伝わってきましたよ」

 

 

 

青は、はっとして事務長を見た。

 

 

 

自分では必死に冷静を装っていたつもりだった。

 

だが、思いは、言葉の端々に滲み出ていたのだろう。

 

 

 

事務長は、少しだけ表情を和らげて言った。

 

 

 

「佐々木先生から話を聞いてから、

 

 私自身、いろいろと調べました」

 

 

 

青は、思わず背筋を伸ばす。

 

 

 

「これからの時代、

 

 どうすればいいのか、

 

 どうあればいいのか……」

 

 

 

言葉を選びながら、事務長は続けた。

 

 

 

「私はね、佐伯先生と岡谷くんの、

 

 職員宿舎での生活を——

 

 認めるべきだと思っていますよ」

 

 

 

青は、信じられない、

 

という顔で事務長を見た。

 

 

 

一瞬、言葉を失う。

 

 

 

だが、事務長はそこで話を終えなかった。

 

 

 

「ただし、です」

 

 

 

その一言に、空気が引き締まる。

 

 

 

「佐伯先生の言葉を、そのまま受け取って、

 

 こちらが何の確認もせずに認める——

 

 それは、正直に言って難しい」

 

 

 

青の胸に、一瞬だけ不安がよぎる。

 

 

 

事務長は、すぐに首を振った。

 

 

 

「勘違いしないでくださいね。

 

今回の件は、佐伯先生だけを特別扱いする。

 

という話ではありません」

 

 

 

穏やかな口調で、しかしはっきりと。

 

 

 

「他の職員、

 

すべての手続きに当てはまる話です」

 

 

 

「……もちろん、わかっています」

 

 

 

青は、迷いなく答えた。

 

 

 

事務長は小さくうなずき言った。

 

 

 

「佐伯先生。

 

 これから私が説明する書類を、

 

 きちんと用意してください」

 

 

 

そして、少しだけ口元を緩める。

 

 

 

「そうすれば、こちらも——

 

 堂々と、あなたの願いを

 

 受け入れられると思いますよ」

 

 

 

* * *

 

 

 

アパートの一室。

 

 

小さな机を挟んで、

 

青と蒼太が向かい合って座っていた。

 

 

 

蒼太は、

 

どこか落ち着かない様子で首をかしげる。

 

 

 

「……僕たちの関係を、

 

証明する書類‥‥ですか?」

 

 

 

青は、ゆっくりとうなずいた。

 

 

 

「ああ。それがあれば、

 

 一緒に職員宿舎に入れるかもしれないんだ」

 

 

 

蒼太の表情が、わずかに曇る。

 

 

 

「それって……どんな書類なんですか?

 

 難しいんですか?」

 

 

 

「いや……たぶん、大丈夫だと思う」

 

 

 

青は、言葉を選びながら続けた。

 

 

 

「これから説明する」

 

 

 

まず一つ、と指を立てる。

 

 

 

「俺たちの住民票だ。

 

これで、今まで同じ場所で、

 

生活を続けてきたっていう事実は

 

証明できるらしい」

 

 

 

蒼太は、静かにうなずいた。

 

 

 

そして青は、少しだけ間を置く。

 

 

 

「……もう一つが」

 

 

 

呼吸を整えて、はっきりと言った。

 

 

 

「パートナーシップ宣誓証明書だ」

 

 

 

「……パートナーシップ、宣誓証明書?」

 

 

 

蒼太は、聞いたことはある、

 

けれどよくわからない、という顔をしている。

 

 

 

青は、その表情を見て、小さく息を吐いた。

 

 

 

「簡単に言うと、だな——

 

結婚みたいなものじゃない。

 

戸籍が変わるわけでもないし、

 

俺たちが法律上、夫婦になるわけでもない」

 

 

 

蒼太は、真剣な目で聞いている。

 

 

 

「でも、自治体が

 

 『この二人は、

 

 人生のパートナーとして

 

 一緒に生きる意思があります』

 

 って、確認してくれる制度なんだ」

 

 

 

「……確認、ですか」

 

 

 

「そう。

 

誰かに説明しなきゃいけないとき、

 

俺たちが“ただの同居人じゃない”ってことを

 

証明するための書類だ」

 

 

 

 青は、少し言いよどむ。

 

 

 

「正直に言うと、

 

これがあるからって、

 

全部が守られるわけじゃない。

 

でも——」

 

 

 

 蒼太を見る。

 

 

 

「俺は、

 

 お前と一緒に生きるってことを、

 

 ちゃんと外に示したい」

 

 

 

机の上に置いた手が、わずかに震えていた。

 

 

 

「それが、

 

今回必要だって言われた書類なんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

蒼太は、まっすぐ青を見た。

 

 

 

「先輩。僕も、先輩と同じ気持ちです」

 

 

 

一度、言葉を噛みしめるようにしてから、続ける。

 

 

 

「僕も、先輩と堂々と、胸を張って、

 

 これからも一緒に生きたいって、

 

 ——外に示したいです」

 

 

 

首を横に振る。

 

 

 

「宿舎のために申請するわけじゃないです。

 

 僕自身の意思で、申請したいんです」

 

 

 

青は、思わず声を荒げた。

 

 

 

「蒼太……お前!」

 

 

 

蒼太は少し照れたように、

 

それでも迷いなく言った。

 

 

 

「先輩、早く申請に行きましょう。

 

 ……どこに行けばいいんですか?」

 

 

 

青は一瞬だけ黙り込み、それから苦笑した。

 

 

 

「それはだな——さいたま市役所だ。

 

正確には、

 

俺たちが住民票を置いてる区の区役所」

 

 

 

蒼太が、少し身を乗り出す。

 

 

 

「市役所の中に、

 

 パートナーシップ宣誓の窓口がある」

 

 

 

「……普通に行っていいんですか?」

 

 

 

「ああ。

 

 事前に予約して、二人で行く。

 

 必要な書類を出して、

 

 そこで“宣誓”をするだけだ」

 

 

 

青は、静かに言った。

 

 

 

「特別な場所じゃない。

 

結婚届を出す人や、転入届を出す人と同じ、

 

いつもの市役所だ」

 

 

 

少し間を置いて、付け加える。

 

 

 

「だからこそ——

 

 意味があるんだと思う」

 

 

 

* * *

 

 

 

後日。

 

 

事前に予約していた日時に、

 

青と蒼太は区役所を訪れていた。

 

区役所のロビーの一角。

 

番号札を握ったまま、

 

二人は並んで立っていた。

 

 

 

窓口で受け取った一枚の紙を、

 

蒼太が覗き込む。

 

 

 

「へぇ……これが、住民票なんですね」

 

 

 

思ったよりも、あっさりした紙だ。

 

拍子抜けするほど、事務的な様式。

 

 

 

青は返事をせず、

 

紙のある一箇所を、じっと見つめていた。

 

 

 

蒼太がその視線を追う。

 

 

 

続柄——

 

 

 

 『同居人』

 

 

 

ほんの三文字。

 

それだけで、すべてを括られているような気がした。

 

 

 

青は、低く息を吐く。

 

 

 

「……これが、今の俺たちの関係、か」

 

 

 

責めるでも、嘆くでもない。

 

ただ、事実を確かめるような声だった。

 

 

 

蒼太は一瞬、言葉に詰まる。

 

 

 

「……でも」

 

 

 

そう言いかけて、言葉を選ぶ。

 

 

 

「一緒に住んでるってことは、

 

 ちゃんと、ここに残ってるんですね」

 

 

 

蒼太は、住民票の紙を指で軽く押さえた。

 

 

 

青は、その手元を見てから、

 

小さくうなずく。

 

 

 

「……ああ」

 

 

 

 続柄は、『同居人』

 

 それ以上でも、それ以下でもない。

 

 

 

けれど——

 

 

 

この紙が示しているのは、

 

確かに、二人が同じ時間を、

 

同じ場所で生きてきたという事実だった。

 

 

 

青は、住民票をそっと折りたたんだ。

 

 

 

「つぎ、行こう」

 

 

 

その先に、

 

もう一枚の紙が待っていることを、

 

二人とも、もう分かっていた。

 

 

 

* * *

 

 

 

待合の椅子に並んで腰掛けながら、

 

蒼太は落ち着かない様子で視線を彷徨わせている。

 

 

 

さっきまでの意気込みが嘘のようだった。

 

 

 

膝の上で、指先がそわそわと動く。

 

 

 

一方、青は背筋を伸ばしたまま、

 

微動だにせず座っていた。

 

ただ静かに、

 

窓口から名前が呼ばれる音を待っている。

 

 

 

(今日が、特別な日になるのは間違い‥‥

 

 俺と蒼太の、これからの未来にとって!)

 

 

 

そのときだった。

 

 

 

「——佐伯様、岡谷様」

 

 

 

声に顔を上げると、

 

若い女性職員が立っていた。

 

 

「お待たせしました。こちらへどうぞ」

 

 

 

蒼太は一瞬、目を瞬かせる。

 

 

 

(……え、こんなに若い人が担当?)

 

 

 

内心の動揺が、そのまま表情に出てしまう。

 

 

 

青は立ち上がり、落ち着いた声で答えた。

 

 

 

「はい。よろしくお願いします」

 

 

 

蒼太も慌てて立ち上がるが、

 

どこかぎこちない。

 

 

 

案内されたのは、

 

窓口の奥にある小さな相談スペースだった。

 

仕切りはあるが、完全な個室ではない。

 

 

 

女性職員は、

 

椅子を勧めながら名札に手をやる。

 

 

 

「私は、本日担当いたします『木下』と申します」

 

 

 

口調は淡々としている。

 

けれど、その声には不思議と硬さがなかった。

 

 

 

「本日は、

 

パートナーシップ宣誓の申請ですね」

 

 

 

青は、はっきりとうなずく。

 

 

 

「はい」

 

 

 

蒼太も、少し遅れてうなずいた。

 

 

 

女性職員(木下)は、

 

書類を取り出しながら続ける。

 

 

 

「事前にご予約いただいていますので、

 

手続き自体はそれほど時間はかかりません」

 

 

 

そう言ってから、一度だけ二人の顔を見る。

 

 

 

「まず確認ですが、

 

こちらの制度は、

 

法律上の婚姻ではありません。

 

戸籍や住民票の続柄が変わることもありません」

 

 

 

蒼太は、緊張したまま小さく答える。

 

 

 

「……はい。理解しています」

 

 

 

木下は、静かにうなずいた。

 

 

 

「それでも、お二人が

 

お互いを人生のパートナーとして尊重し、

 

協力して生活していく意思が

 

あるかどうか——

 

その確認をするための制度です」

 

 

 

ペンを置き、少しだけ声の調子が柔らぐ。

 

 

 

「その点については、よろしいですね」

 

 

 

青は、迷いなく答えた。

 

 

 

「はい」

 

 

 

蒼太も、今度ははっきりと言った。

 

 

 

「はい」

 

 

 

木下は、その様子を見て、

 

ほんのわずかに微笑んだ。

 

 

 

「では、こちらが宣誓書になります」

 

 

 

机の上に、二枚の書類が置かれる。

 

 

 

「内容をご確認いただいた上で、

 

 こちらにご署名をお願いします」

 

 

 

ペンが差し出される。

 

 

 

蒼太は一瞬、青を見る。

 

青は、小さくうなずいた。

 

 

 

蒼太は深く息を吸い、

 

震えそうになる手を、

 

ぎゅっと握りしめてから——名前を書いた。

 

 

 

その隣に、青も静かに署名をする。

 

 

 

木下は書類を受け取り、丁寧に目を通した。

 

 

 

「……ありがとうございます」

 

 

 

顔を上げて、二人を見て言う。

 

 

 

「これで、宣誓は受理されました」

 

 

 

木下は、受理印を押し終えると、

 

書類を丁寧に揃えた。

 

 

 

事務的な動作。

 

それなのに、

 

不思議と空気はやわらいでいた。

 

 

 

「以上で、手続きは完了です」

 

 

 

そう言ってから、ほんの一拍、間を置く。

 

 

 

そして、二人の顔を見て、ふっと表情を緩めた。

 

 

 

「……おめでとうございます」

 

 

 

淡々とした声だったが、

 

そこには確かに、やさしさが滲んでいた。

 

 

 

蒼太は、一瞬、言葉を失った。

 

 

 

青も、思わず息を吐く。

 

 

 

 誰かに祝福されることを、

 

 こんな形で、こんな場所で、

 

 迎える日が来るなんて——

 

 想像したこともなかった。

 

 

 

木下は、微笑みながら続ける。

 

 

 

「証明書は、後日こちらから交付されます。

 

 ご不明な点があれば、

 

 いつでもお問い合わせください」

 

 

 

その言葉は、業務連絡のはずなのに、

 

なぜか背中を押されるような気がした。

 

 

 

青は、深く頭を下げた。

 

 

 

「……ありがとうございます」

 

 

 

蒼太も、少し遅れて、

 

ぎこちなく頭を下げる。

 

 

 

区役所の窓口の一角。

 

特別な装飾も、派手な演出もない。

 

 

 

それでも——

 

 

 

ここで確かに、

 

二人の選択は、受け取られたのだ。

 

 

淡々とした一言。

 

けれど、その言葉は、確かに重かった。

 

 

 

青は、

 

胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。

 

 

 

* * *

 

 

大宮公園。

 

まだ春の入り口で、

 

木々は淡く色づきはじめたばかりだった。

 

 

 

二人は並んで、言葉少なに歩いている。

 

急ぐ理由も、立ち止まる理由もない、

 

ただ同じ速さで。

 

 

 

長かった試練を、ようやく一つ越えた。

 

それだけで、胸の奥が不思議なほど静かだった。

 

 

 

「……なんか、手続き。あっけなかったですね」

 

 

 

「ん?」

 

 

 

「もっとこう……違う感じを想像してました。

 

 イメージと違ったというか」

 

 

 

「違ったって?」

 

 

 

「えっと……『宣誓』って言うから、

 

 音楽が流れたり、写真撮られたり、

 

 マイク持たされたり……???」

 

 

 

「――ぶはっ」

 

 

 

思わず吹き出す青。

 

 

 

「それ、結婚式じゃねぇか!」

 

 

 

蒼太は『しまった』という顔。

 

 

 

「……言ってから気づきました。

 

 めちゃくちゃ恥ずかしいです」

 

 

 

「あはは。

 

 まぁでもさ、実際の婚姻届も、

 

 きっとこんな感じなんだろうな」

 

 

 

「……婚姻届?」

 

 

 

青は歩みを止める。

 

それにつられて、蒼太も足を止めた。

 

 

 

「蒼太。今日はさ、俺たちの記念日だろ」

 

 

 

「……そう、ですかね?」

 

 

 

「ああ。今日、3月8日。

 

俺は今日を、俺たちの記念日にしたい」

 

 

 

蒼太は、少しだけ視線を伏せる。

 

それから、勇気を集めるように顔を上げた。

 

 

 

「蒼太。

 

これからも……俺と一緒にいてくれるか?」

 

 

 

「……はい。

 

先輩と、ずっと一緒にいたいでふ」

 

 

 

「……今、噛んだろ」

 

 

 

「あっ……」

 

 

 

「あはは!」

 

 

 

肩を揺らして笑う青。

 

 

 

「いいよ。それも全部、思い出だ」

 

 

 

「俺はさ、今日の日を――

 

 一生、忘れないと思う」

 

 

 

「……はい、先輩」

 

 

 

それから、二人はまた歩き出す。

 

今度は言葉もなく、ただ並んで。

 

 

 

公園の奥から、子どもの笑い声が聞こえた。

 

 

 

しばらくして、青がぽつりと口を開く。

 

 

 

「なぁ、蒼太」

 

 

 

「はい?」

 

 

 

「ずっと思ってたんだけどさ……

 

いつまで、俺のこと“先輩”って呼ぶつもりだ?」

 

 

 

「えっ……だって、先輩は先輩ですし」

 

 

 

「もうすぐ俺、学生じゃなくなるし。

 

 そろそろ名前で呼んでほしい」

 

 

 

「……じゃあ……青くん?」

 

 

 

「くん付けかよ!」

 

 

 

「え、じゃあ……青さん?

 

 青先生?

 

 青様?

 

 青きち?

 

 青はん……?」

 

 

 

「どんどん迷走してるぞ」

 

 

 

「呼び捨ては、さすがにまだ勇気が……」

 

 

 

少し考えてから、蒼太は小さく頷いた。

 

 

 

「……じゃあ、『青さん』で。

 

 それでお願いします」

 

 

 

「はは。

 

じゃあついでに、敬語もやめていい?」

 

 

 

「う~ん……

 

それは、保留で、でも、が、が、頑張る!」

 

 

 

「了解」

 

 

 

二人の間に、くすっとした空気が流れる。

 

 

 

「じゃあさ。

 

記念日だし、何か食べて帰るか?」

 

 

 

「あっ……青さん」

 

 

 

「ん?」

 

 

 

「昨日のカレー、まだ冷蔵庫に残ってる……」

 

 

 

「……あれだけ食べたのに、

 

 どんだけ作りすぎかよ!」

 

 

 

少し考えてから、青は笑った。

 

 

 

「まぁ、それもいいか」

 

 

 

派手なことは何もない。

 

でも、確かにここに“始まり”があった。

 

 

 

二人はまた、同じ歩幅で歩き出す。

 

 

 

青は、歩きながらそっと思う。

 

 

 

 (派手じゃなくていい‥‥

 

 名前も、肩書きも、書類も——

 

 全部ひっくるめて、これが俺たちだ!)

 

 

 

隣を見ると、

 

蒼太が少し照れたように

 

前を向いて歩いている。

 

 

 

 

 

青は、静かに微笑んだ。

 

 

 

 今日も、明日も、

 

 ただ一緒に帰るだけ。

 

 それが、何よりの証だった。

 

 

 

* * *

 

 

 

* * *

 

 

 

~エピローグ~

 

 

 

3月も残りわずか。

 

部屋のあちこちに積まれた段ボールが、

 

引っ越しの日を静かに告げていた。

 

 

 

来月から、

 

青と蒼太は蒼陵高校の職員宿舎で暮らす。

 

 

 

新しい生活はもうすぐそこなのに、

 

最後のこの部屋が少しだけ名残惜しい。

 

 

 

「青さーん。

 

 僕、もう荷物の片付け終わったよ!」

 

 

 

「早ぇな。俺は……

 

あとクローゼットの中だけ。

 

もうちょい待って」

 

 

 

衣類を抱えて動かした瞬間――

 

 

 

バサッ。

 

 

 

何かが床に落ちる音。

 

 

 

「あっ!」

 

 

 

蒼太が駆け寄って、

 

落ちたものを拾い上げる。

 

 

 

「これ……青さんの蒼陵高校のユニフォームだ。

 

 背番号『2』」

 

 

 

「……こんなとこにあったのか」

 

 

 

「懐かしいね」

 

 

 

青は、少しだけ目を細めた。

 

 

 

「懐かしいな。……あの頃のままだ」

 

 

 

蒼太はユニフォームを

 

胸に当てるように抱えて、にこっと笑う。

 

 

 

「青さん、

 

 来月からまたこれ着れるんじゃない?」

 

 

 

「コーチなのに背番号『2』つけんのかよ」

 

 

 

「あっ……そっか!」

 

 

 

一拍置いて、蒼太の目がきらっと光る。

 

 

 

「……なんか、

 

 キャッチボールしたくなってきた!」

 

 

 

「は?」

 

 

 

「ね、青さん! 引っ越しのトラック、

 

 まだ時間あるよね?

 

 キャッチボールしよう!

 

 せっかくだからユニフォームも着よ、着よ!」

 

 

 

「おい、待て待て、今このタイミングで!?」

 

 

 

蒼太はもう止まらない。

 

 

 

ガサゴソ、ガサゴソ。

 

 

 

「たしかミットとボールは……

 

 この箱だった気がする!」

 

 

 

ガサゴソ、ガサゴソ

 

 

 

「やめろーー!

 

 せっかくここまで片付けたのに!」

 

 

 

「見つけた!」

 

 

 

蒼太は、

 

背番号エースナンバー『1』のユニフォーム

 

を取り出す。

 

 

 

「なんで俺の箱から出てくるんだよ!」

 

 

 

「青さん!早く! 外、行こ!!」

 

 

 

「……ったく」

 

 

 

そう言いながら、青の声は笑っていた。

 

 

 

この部屋での最後の時間が、

 

二人らしく崩れていくのが、

 

――少しだけ嬉しかった。

 

 

 

玄関に向かう蒼太の背中に、

 

青が呼びかける。

 

 

 

「蒼太!!」

 

 

 

「ん?」

 

 

 

「何から投げる?」

 

 

 

「フォーク!!」

 

 

 

「即答かよ!」

 

 

 

二人の笑い声が、

 

段ボールだらけの部屋に残った。

 

 

 

そして、春の匂いのする外へ、

 

――並んで出ていく。

 

 

 

 

 

『青と蒼 フォークのあとで』

 

 

 

---完---

 

 

 

 

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