装甲騎兵ボトムズ -蒼の記録-   作:ジミーボーイ

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標的(前編)

用意された舞台の上で、天使の巨体がゆっくりと崩れ落ち、やがて光の粒子となって空間に溶けていく

 

肌を焦がすような熱波と、息を詰まらせる呪いのオーラが霧散し、地下大聖堂に元の冷たく湿った空気が戻ってきた

 

「はぁ、はぁ……終わった、ねぇ」

 

ホシノが、表面が赤熱しひしゃげたバリスティックシールドを石床に突き立て、それを杖代わりにしてどうにか体を支えている

彼女の額からは大量の汗が滴り落ち、その呼吸はひどく浅く、荒い

 

ヒナは過熱した機関銃の銃身から立ち上る白煙を払いながら、小さく息を吐いた。煤で汚れたコートの裾が揺れ、彼女の頭上に浮かぶ巨大なヘイローは、疲労を示すように弱々しい明滅を繰り返している

 

アズサもまた、張り詰めていた緊張を解き、アサルトライフルを下ろした。極度のプレッシャーから解放された反動か、グリップを握る彼女の指先が微かに震えている。

 

そして先生は、青白い光を放つシッテムの箱を握りしめたまま上体をふらつかせている。だが、ふらつきながらも倒れることはなく、真っ先に生徒達へ安堵の視線を向けていた

 

スコープドッグは、右腕の肘から先が完全に潰れており、むき出しになった駆動系の配線から時折青白い火花が散っている。表面装甲は爆風により分厚い煤に覆われ、無傷な部分などどこにも見当たらない状態だ。そして焦げたポリマーリンゲル液の悪臭は、嗅げば誰もが顔をしかめるだろう

 

『……オカルトの類もここに極まれりだ』

 

タグの声が外部スピーカーから、ノイズ混じりに響く

得体のしれない相手に良く勝てたものだと自分を褒めたい気分だ

 

その直後、誰もいないはずの暗闇の奥から、拍手が反響する

 

「素晴らしい、素晴らしい結末だ。まず私に喜びを思い出させてくれたことを感謝します」

 

頭が二つ、どちらにも顔がない異形のマネキン人形――マエストロが、両手を叩きながら姿を現した

 

「騎兵の槍捌き、そして生徒を導き、自らの身を削って奇跡を為した先生の決断……今の私では舞台をこれ以上維持できないことが悔やまれる」

 

マエストロの顔のない頭が、先生とスコープドッグを交互に見つめる

 

「良き共演でした。しかし一度で終わらせるには惜しすぎる――再演を約束しましょう。先生、そして、異邦の騎兵よ」

 

芝居がかった一礼と共に、マエストロの姿は空間の揺らぎの中へ溶けるように消え去った

 

後に残されたのは、勝利の結果だけだ

 

先生が両手を掲げる――ハイタッチの合図だ

 

ホシノがちょっと恥ずかしげに、ヒナは先生が行う謎の合図に強張るアズサの腕を引いて、タグは一瞬躊躇はしたもののスコープドッグから降りて先生に近寄る

 

5人の手が一度に重なる。それは結果だけでは得られない、確かな結束の証であった

 

 

 

――数日後、シャーレの執務室

 

空調の低い駆動音と、プラスチックのキーボードを叩く規則的な打鍵音が、数日の間、室内を満たしている。先生用の執務机の上には、コピー機のインクの匂いが微かに漂う分厚い紙の束がいくつも積まれていた

一番上に置かれているのは、崩落した古聖堂の写真と、被害状況を記した膨大なリストだ

先生は充血した目を細め、モニターの青白い光を浴びながら、マウスを操作し続けている

限界を超えた死闘の直後だというのに休む間もなく、顔色は死人のように青白い

ルーチンワークのようにコーヒーを口に含んでいるが、もはやカフェインで無理やり意識を繋ぎ止めている状態だった

 

(……このままでは過労で死ぬな)

 

数メートル離れた別のデスク

最近支給されたシャーレの白衣と背広を身にまとうタグは、オフィスチェアに背筋を伸ばして座りながら、内心でそう判断を下していた

兵士として、指揮官の喪失は部隊の全滅に直結する。そもそも先生はタグの社会的立場の後見人だ、見過ごすわけにはいかない。それを防ぐための最も合理的な手段として、タグは自身の完全な専門外であるデスクワークを、一部とはいえ強引に引き受けていたのだ

 

彼の視線の先には、シッテムの箱から投影された青白いホログラムの少女――アロナの姿があった

 

「違います、タグさん!そこのセルはもっと右です!報告書のフォーマットは、ずれないように気をつけてくださいって言いましたよね!?」

 

アロナの甲高い声が、静かな室内に響く

タグの、やや細めの指が不器用な軌道を描きながらも、確実に特定のキーを押し込む

 

カチャッ、という短い音。画面上の表計算ソフトのセルが移動する

 

「はい、そこです!次はその下の項目に、指定の数値を入力してください」

 

「……了解」

 

タグの微かに疲労の滲む声が応じる

彼は画面から視線を外さず、手元の資料の束から一枚の紙を素早く引き抜いた。紙の端を視線でなぞり、数値を読み取る。そして、再びゆっくりと、確実にキーボードを叩いていく

 

「タグさん、タイピングは正確ですけど、もう少し早くできませんか? 先生の仕事、まだまだ山積みなんですよ?」

 

「最善は尽くす」

 

「……すみません、言いすぎました。本当だったらもうちょっと段階を踏みたいのですが――先生を早く業務から解放してあげたいのです」

 

「それは俺も同意する」

 

アロナと会話をしつつも、タグの指の動きは止まらない

戦場ではコンマ数秒でトリガーを引くその指先は、今は小さな四角いキーを押し込むためだけに使われている

微かに眉を寄せる。平和ではあるし、命を懸ける必要もない

しかし、デスクワークで金を稼ぐということが、ここまで骨の折れる作業なのかと、タグは内心で嘆いていた

マグカップから立ち上る、酸化したインスタントコーヒーの焦げた匂いが、今は鬱陶しく感じた

 

 

作業は今日もまた、夜までもつれ込む

先生とタグ、二人のキーボードの打鍵音がとうとう止んだ

タグはプラスチックのマグカップを持ち上げ、冷え切ったコーヒーを喉に流し込んだ

 

「先生」

 

タグの声が、静寂を破る

先生は充血した目をこすりながら、モニターから顔を上げた

――限界である

 

あらかじめ決めていたかのように、二人は執務室横の仮眠室に足を運ぶ。それぞれ個別の部屋はある。が、移動する気力はもう残っていなかった

先生は自分の仮眠用ベッドに倒れ込み、タグは部屋の隅に自費で用意した寝椅子に深く腰を下ろした

 

だが、眠りにつく前に決めておくべきことがタグにはあった

 

「――とりあえずの話だ、寝ながらでいい、聞いてくれ」

 

タグは淡々と言葉を紡ぐ

 

「まず、あんたの直属護衛を常設しろ。武器を持たない指揮官が最前線に立つのは、今回で最後だ」

 

先生の眉間に深いシワが寄る

 

「……生徒を、僕の盾にするつもりはない。彼女たちは守るべき存在だ」

 

「感情論だ」

 

タグは先生の返事を切り捨てる

 

「あんたが死ねば、指揮系統は完全に崩壊する。結果として、最も悲惨な結末を迎えるのは、あんたが守ろうとしている生徒たちだ」

 

「……っ」

 

「俺自身の見積もりも甘かった。情けない話だが、この世界では俺は大した戦力になれない」

 

先生の唇が引き結ばれる。息を呑む音が微かに聞こえた。ベッドに投げ出された腕に、きつく力が入る

 

一切の配慮がない諫言であるが、受け入れないわけにはいかないのもまた事実である

 

「……わかった、護衛候補の選定をするよ」

 

「ゆっくりでいい。事が事だ、詰めるべきことは多い」

 

絞り出すような先生の言葉を聞き、タグは急ぎではないと答える

 

「――次だ。今後キヴォトスの市街地や閉鎖空間でスコープドッグを運用するなら、随伴歩兵小隊が必須だ。単機での機動戦には死角が多すぎる」

 

タグは傍らのタブレット端末を引き寄せ、数回タップして先生の端末にデータを転送した

画面に、古聖堂でのスコープドッグの戦闘ログが表示される

 

「あの襲撃の際に見かけた、重火器を扱う二人だ。ヘイローの特性ありきとはいえよく練った対策だ――出来ることならあいつらをスカウトしたい」

 

先生は転送された画像を拡大する。アロナが画像に、必要な情報を添付していく。それは元アリウスのアズサから提供された情報によるものだ

 

「……アリウススクワッド。戒野ミサキと、槌永ヒヨリ」

 

先生がその名を読み上げる

 

「敵ではある――が、生徒だ。真っ当な道を提案するのはあんたの趣旨にも合うはずだ」

 

タグはタブレットを適当に置くと、目を瞑った。まだ残っている書類作業のことを考えると、今すぐにでも意識を手放したかった

 

 

 

――さらに数日後、トリニティ総合学園

 

 

シャーレの制服姿で学園に訪問したタグは、ティーパーティーの茶会に招待されていた

 

「お久しぶりです、タグさん。忙しい身ですので、正式な応対が出来ないことをお許しください」

 

ナギサの執務室に用意された純白のテーブルセット――そこに座る桐藤ナギサが、静かに声をかけた

 

エデン条約の日、病室にて絶望に打ちひしがれていた姿はもうない。顔色にはまだ過労の色が濃く残っており、先生と同じように山のような事後処理に追われているのは明白だった

だが、その瞳にはかつての疑心暗鬼に囚われた翳りではなく、確かな光と、為政者としての覚悟が戻っていた

それは間違いなく、あの夜にタグが残した「全力を尽くした少女たちの奮闘に報い、やれる最善を尽くせ」という言葉への、彼女なりの不器用で誠実なアンサーだった

 

とはいえそれを理由に、茶を楽しむことを止めないのが彼女の流儀とのこと

テーブルの上には透き通るような白磁のティーカップと、切り分けられた見事なロールケーキが二人分用意されている

 

「時間を作ってもらって助かる。どうしても手渡しでないといけない、今回の件に関する書類があってな」

 

ナギサ直属のメイドに案内されたタグは、白い装飾椅子に腰を下ろした。そして書類が詰まった封筒を静かにテーブルに乗せた

その封筒をメイドが回収し、執務室を退室する。すると入れ替わりにティーポットを抱えたメイドが二人入ってきた

 

「先日は……命を救っていただき、ありがとうございました。そして、私にリーダーとしての在り方を示してくださったことにも」

 

ナギサはカップの縁にそっと指を添え、真っ直ぐにタグの目を見つめる。そこに、かつての迷いや怯えはなかった

 

「……その場しのぎの言葉だ、あまり真に受けるな」

 

タグは相変わらずの平坦な声で切り捨てるが、ナギサは小さく微笑んだ

 

「それでも、ですわ。……冷める前にまずお茶をどうぞ」

 

 

勧められるまま、繊細なティーカップの取っ手を摘み、口へ運ぶ

 

立ち上る湯気から漂う未知の香りに、タグは身構える

 

舌を刺すような甘さのコーラの匂いや、常飲するインスタントコーヒーの焦げた臭いしか知らないタグにとって、紅茶は縁の遠い飲み物だったのだ

 

恐る恐る、カップの縁に口をつける

 

最適な温度で抽出された琥珀色の液体が喉を通った瞬間、身構えた体が硬直する

 

それは彼の知る「飲み物」とはかけ離れていた

 

渋みは一切なく、澄み切った甘みと、鼻腔をふわりと抜ける花のような香りが口いっぱいに広がる

 

カップを持ったまま、じっと揺れる水面を見つめる

 

「……これは」

 

かすれた声が何かを言いかけて、押し黙る

 

この豊かな味を表現する言葉を持たないことに、もどかしさを感じていた

 

コーラの時は、ただひたすらに暴力的な衝撃に殴られるままだったタグの味覚は、この紅茶を静かに味わえと命令を下す

 

もう一度だけカップを口に運び、その温もりを確かめるように舌先で味わう

 

カップを見つめるタグの瞳は、これまで見せたことのない穏やかな色を帯びていた

 

 

紅茶を味わった次は、ロールケーキと呼ばれる菓子にタグの視線が向けられる

 

ふんわりとした黄色い生地と雪のような色をしたクリーム

 

恐る恐るフォークの先を沈めると、抵抗らしい抵抗もなく生地が切れる

 

まずスポンジだけ持ち上げ、意を決したように口へと運んだ

 

紅茶を含んだ時以上に身構えていたタグの顎は、拍子抜けしたように止まる

 

スポンジは空気のように軽く、濃厚なミルクの風味が舌の上で熱を奪いながら溶けていく

 

炭酸飲料の舌を刺す暴力的な甘さとは違う、どこまでも優しく深い味わいだった

 

フォークを宙に浮かせたまま、微動だにせずテーブルの模様を見つめる

 

呼吸すら忘れ、ただ口の中に広がる未知の感覚を必死に処理しようとしているようだった

 

最後にタグはこらえていたものを逃がすように小さく息を吐き出す

 

 

タグの、表情こそ変わらないが仕草がコロコロ変わる様子に、ナギサは思わず

 

(お可愛い人)

 

と考えた。彼は今までにないタイプの人物であったが、ここにきてまた新しい面を見せてくれた

 

 

タグはもう一度フォークを握り直し、今度はガラス細工を扱うかのような慎重な手つきで、残りのケーキへそっと狙いを定めた

 

今度はクリームとスポンジ、それらを一度に口に含む

 

ふわりと溶けるようなスポンジの食感と、濃厚だがしつこくない上質なクリームの甘味が、タグの口腔内を満たした

 

「……っ」

 

タグの咀嚼が、ほんの一瞬だけ止まる――トリニティの甘味とはこれほどのものなのか

 

ただ静かに、二口目、三口目とケーキを口に運んでいく。咀嚼のペースが、明らかに先ほどよりも早い

 

最後に今の余韻を胃に押し込めるように、紅茶を飲み干す

 

内心の劇的な動揺を完全に隠し通したつもりのタグは、空になった皿の横にティーカップを置いた

 

「……美味かった」

 

短く、極めて平坦な声で呟く

 

しかし、そのフォークの進みの早さを見ていたナギサは、口元に上品な笑みを浮かべた

 

「お口に合ったようで何よりですわ。先生にも味わっていただきたいので、お持ち帰りの分もご用意いたします」

 

持ち帰りの分、と聞いたタグ本人は隠しているつもりだが、目の色が変わる

 

――本当にお可愛い人、とナギサは紅茶を飲みながら思う

 

 

 

その日の夜――シャーレ執務室

 

 

デスクでは、タグが淡々と作業をこなしていた

いつも通りマンツーマンで指導するアロナが、満足げに腕を組んで頷いている

 

「完璧です、タグさん! 入力ミスゼロ、フォーマットのズレもありません! 先生のサポート事務員として合格点をあげちゃいます!」

 

「指導、感謝する」

 

タグは表情一つ変えず、キーボードから手を離した。

軍隊で染み付いた「命令を正確に遂行する」という適性が、想定外の事務作業で発揮された結果だった

 

アロナから「本日の業務完了です、お疲れ様でした」という言葉を聞き終えると、立ち上がり、部屋の隅にある給湯室へ向かう

 

内容量だけを目的に買ったマグカップに、インスタントコーヒーの粉を入れ、ポットの熱湯を注ぐ

 

立ち上る湯気と共に、焦げたような酸味の強い匂いが鼻腔を突いた。

 

タグは自席に戻り、その黒い液体を一口すする

 

「……」

 

タグの動きが、ぴたりと止まった

 

舌にまとわりつく、えぐみのある苦味。先日まで何の疑問も持たずに摂取していたはずのカフェイン飲料が、突如として異物のように感じられた

 

脳裏に蘇るのは、今日の茶会で味わったあの透き通るような白磁のカップ。花のような深い香りと、渋みを一切感じさせない上質な紅茶の味。そして、ふわりと溶けるロールケーキの甘美な記憶

 

タグは黒い液体をじっと見つめる

 

(……これは、泥水なのでは?)

 

真顔のまま、内心で深刻な疑念を抱く

 

泥水を流しに捨てようか真剣に検討し始めたその時、タブレットからコールがかかる

 

受信を許可すると、タブレットごしに先生の声が執務室に響く

 

「僕です。タグさん、やっと情報を掴みました。探していたアリウススクワッドなんですが、どうも『裏切り者』として、アリウス分校側から追跡を受けている模様です」

 

アロナもそうだが、先生も情報収集という点ではなかなかの曲者ぶりを発揮する人物だとタグは考える

 

「裏切り者、か。詳しい話はわかるか?」

 

あっさりとコーヒーを流しに捨てる

 

「スクワッドの一人を追いかけている集団の会話を拾っただけなのでそこまでは。アロナに追跡させていますので後はそちらにお任せします」

 

「了解した、先生はそのまま後退してくれ。あとはこちらでやる」

 

タブレットを掴むと、向かうべき先のマップナビが画面に映る

執務室から通路、そしてエレベーターで格納庫へとタグは進んだ

 

 

 

――キヴォトスではそう珍しくない貧民街の一つ

 

ひび割れたコンクリートと放棄された建材が散乱する路地に、重苦しいローラーダッシュの駆動音が響き渡る

 

「なんでアレがここにいるんだ!?」

 

「撤退、てったーい!」

 

特徴的な緑の装甲をまとった騎兵に、アリウス分校の生徒達は恐慌状態に陥っている

 

裏切り者とはいえ、アリウス最高の戦力であるスクワッドを退けたスコープドッグを前にして、正常でいられるほうが不思議といえばそれまでである

 

彼女らを前にして、ショートバレルマシンガンを構えただけで、戦意喪失状態に陥らせたことに少し安堵するタグ

 

(俺は女を撃つのが苦手なようだ)

 

先日の古聖堂での失敗でタグは確信した――女を前にすると、明らかにトリガーを引く指が鈍る

 

最近繰り返し見る悪夢に、その理由の一端があるような気がするが未だに全貌は見えなかった

 

スコープドッグのターレットレンズが回転する

 

広角レンズと赤外線感知の併用で、目当てを探す――いた。崩れかけた煉瓦の壁の裏に、小柄な少女がうずくまっていた

 

泥と埃、そして黒ずんだ乾いた血にまみれた戦闘服。槌永ヒヨリは、アリウスの追手が消えたと思った矢先、次に来たのが自分たちを蹂躙した『緑の騎兵』であるという事実に、歯の根が合わないほどガタガタと震えている

 

彼女の右肩と左太ももには、古聖堂での戦闘――タグ自身が放ったミサイルによる崩落で負わせた大怪我が口を開けていた

 

申し訳程度に巻かれた包帯は、とっくに許容量を超えた血と膿で変色しきっており、長期間まともな衛生状態になかったことを残酷に示している

 

飢餓と感染症の熱、そして激痛のせいで限界を迎えたヒヨリの脳は、もはや哀願の言葉すら紡げず、ただ無様に涙と鼻水を垂れ流すことしかできなくなっていた

 

(――ッ)

 

コックピットの中で、タグは眩暈に襲われた

 

『俺はここまで、一人の少女を追い込むようなことをしたのか?』

 

モニター越しに見る彼女の悲惨な姿に、自責の念を感じる

微かな頭痛が古い記憶を呼び覚まそうとするが、その前にまず彼女を救えと、理性が叫びを上げた

 

構えていた銃口を下げて、スコープドッグをゆっくりと進ませる

 

「あ、え……?」

 

ほんの僅かに抱いた期待――“生きる”という苦しみを終わらせてくれる死神が来た、と思ったヒヨリは呆けた目で騎兵を見る

 

『乗れるか』

 

そして差し出される騎兵の左手

 

機体のスピーカーから聞きなれない声が届く。自分に誰かが手を差し出してくれたという事実を前にして、ヒヨリは気を失った

 

 

次にヒヨリが目を覚ましたのは、清潔なベッドの上だった

 

彼女は、ここが話に聞くあの世かと疑う――記憶に残っている絶望的な状況からこの状態に繋がる導線が思いつかないのだ

 

すこし痛みを抱えた体が、ここは天国ではないと訴えていた

 

両手で全身をまさぐると、汚れた服は全て脱がされている。それどころか綺麗な下着とアイボリー色のパジャマを身にまとっている

 

清潔なシーツの肌触りと、微かに香る消毒液、そして清潔な洗剤の匂い

 

ヒヨリはアイボリー色のパジャマの胸元を強く握りしめ、ガタガタと震え始めた。

右肩と左太ももの激痛は、適切に処置されたことによる鈍い引きつりに変わっている。分厚く清潔なガーゼと包帯が巻かれている感覚があった。

 

しかし、彼女の脳を支配したのは安堵ではなく、極限の被害妄想だった

 

「だ、誰が着替えを……? わ、私、下着まで綺麗なものに……」

 

ヒヨリは血の気の引いた顔で周囲を見渡す。そこは殺風景だが、スラムの廃墟とは比べ物にならないほど清潔で、空調の効いた個室だった。窓にはブラインドが下ろされている

 

「わ、わかります……。傷を治して、綺麗に洗って、ふかふかのベッドに寝かせるなんて……これは、裏オークションに出品される前のトリートメントですよね!?もしくは、健康な臓器から順番に摘出するための準備……!なんでぇごんなぁびどいごどずるんでずがぁあああ!」

 

両手で頭を抱え、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながらベッドの上で丸まるヒヨリ

 

その叫び声に応じてか、部屋のドアが開く

 

ヒヨリがビクッと肩を跳ねさせ、ドアの方へ視線を向ける

そこには見知らぬ男性――シャーレの制服を着たタグがいた

 

タグが持つトレイの上には、一人前の土鍋――卵粥と常温の水が入ったコップが乗せられている

卵粥に少し振りかけられたごま油の香りが、空調の効いた室内に一気に広がる

 

「ひっ……!」

 

ヒヨリはベットの上だというのに、怯えて壁際まで後ずさろうとした。しかし、数日間まともな食事をとっていなかった彼女の肉体は、理性と恐怖を完全に裏切った

 

『きゅるるるるるるぅぅぅっ……』

 

静かな室内に、ヒヨリの腹の虫が、ひどく間の抜けた、そして長大で盛大な音を響かせた

ヒヨリの顔が瞬時に真っ赤に染まる

 

タグは表情筋を微塵も動かさず、ベッド脇の小さなテーブルにトレイを置いた。土鍋から湧き上がる蒸気、そして卵粥の白と黄色のコントラストは、ヒヨリの視線を完全に釘付けにしていた

 

「腹に入るか?点滴をしたとはいえ、空腹のはずだ。ただ無理だというのなら、まず水だけでも飲め」

 

しゃがれた声で尋ねるタグ

その言葉と、目の前に置かれた温かい食事を前にして、ヒヨリの被害妄想はついに臨界点を突破した

 

「い、いえ、わかっています!うまい話には裏があるんです!こんな温かいご飯とベッドを与えられたら、結局は骨の髄までこき使われた後、体を要求されるんですよねぇぇっ!? 私のようなグロテスクな体でも、そういう薄い本みたいな展開に……!!」

 

大粒の涙を流し、シーツを握りしめながら大声で叫ぶヒヨリ

 

「――そうしてほしいのか?」

 

周囲の温度が数度下がったかのような、絶対零度の殺気と嫌悪。彼は表情一つ変えず、ひび割れた、地の底から響くような声で吐き捨てた

 

ヒヨリは今、自分が彼の触れてはいけない地雷に触れたことを自覚した

タグの目は、ヒヨリを女として見るどころか、有機物としてすら認識していないほど冷え切っていた

彼女にとって最大の幸運は、生来の性根が良かったことだろう

 

「⋯⋯ごめんなさい、命の恩人に言う言葉じゃなかったです」

 

――素直な言葉で謝罪するという最適解を引けたのだから

 

その言葉を聞いて、タグの怒りは嘘のように引いていく

むしろ、彼はこの状況で怒りを発した己を強く律したのだ

 

「――言葉が過ぎた。元はと言えばお前をそこまで追い込んだ俺が悪い。……居心地が悪いだろう、席を外す」

 

「いえ……ここにいてください。一人は、嫌です」

 

「……好きにしろ」

 

ヒヨリの視線が再度卵粥に伸びたことを確認すると、タグは部屋の角からキャスター付きのベッドテーブルを寄せてくる

 

そしてヒヨリの膝上にベッドテーブルを置くと、キャスターのストッパーをかける

 

テーブルの上に移される卵粥とレンゲ、水の入ったコップ

 

「試食したが、かなり熱い。水を飲みながらゆっくり食べろ」

 

「はい」

 

言われた通り、息を吹きかけて冷ましながら卵粥を口にする――何日ぶりだろうか、食事をするという行為は

 

またヒヨリは泣きだした。今度は食事が出来たという歓喜の感情が理由だ

 

タグは何も言わずに彼女の横で様子を見続けるのだった

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