絶え間なく鳴り響く、無機質な医療機器の警告音。
それが、聖園ミカの頭の中で反響し、彼女の細い理性の糸を削り取っていた。
「……やめてくれ……っ、君のせいで先生が死ぬ……」
ベッドの上で錯乱し、見えない何かから逃れるように身をよじる百合園セイア。
彼女の焦点の合わない瞳は、目の前に立つミカではなく、未来視がもたらす恐ろしい幻覚に向けられていた。
だが、ミカにとって、かつての親友から投げつけられたその言葉は、自身の罪悪感を物理的に抉り出す鋭利な刃そのものだった。
「セイアちゃん……違うの、私」
震える手を伸ばそうとしたその時、病室のドアが乱暴に開かれた。
「セイアさん、お呼び出しと聞いて急ぎ……っ、ミカさん!?」
血相を変えて駆け込んできたのは、桐藤ナギサだった。
意識の混濁したセイアは、予知夢の悪夢に苛まれるあまり、ミカだけでなくナギサをも同時に呼び出すという、致命的な悲劇を起こしていたのだ。
ナギサはミカが同室していることに一瞬驚愕したものの、それ以上にベッドの上で激しく錯乱するセイアの異常事態に顔色を失った。
「セイアさん!?しっかりしてください!誰か救護騎士団を早く!ミネ団長はどこですか!?」
パニックに陥り、必死にセイアに呼びかけるナギサの背中。
その光景を、弾き飛ばされたミカは呆然と見下ろしていた。
――正気のミカであれば、理解できたはずだ。
目の前で危篤状態に陥っているセイアを、ナギサが最優先で心配するのは当たり前のことだと。
だが、極限まで精神の平衡を失い、深い依存と罪悪感の泥沼に沈んでいた彼女の脳は、ひどく歪んだ、そして最悪の解釈を弾き出した。
(あ……そっか。ナギちゃんは、セイアちゃんを選んだんだ)
――自分は、見捨てられた。
私は悪い子だから。もう、ナギちゃんにとって私は、心配する価値もない「魔女」なんだ。
その思い込みが、ドロドロとした黒い嫉妬と絶望に変わり、ミカの心を焼く。
「……なんで」
ミカの口から、無意識に乾いた声が漏れた。
「なんで……ナギちゃんまで、私を置いていくの!? 私だって、私だって苦しいのに!! セイアちゃんばっかり……っ!!」
金切り声と共に、ミカは近くにあった点滴のスタンドを無造作に掴み、壁に向かって力任せに投げつけた。金属と石がぶつかり合う不協和音と共に壁が大きく陥没し、ナギサが弾かれたように振り返る。
「ミカ……あなた、何を……っ」
怯え、信じられないものを見るようなナギサの瞳。
それを見た瞬間、ミカは自分が今、「世界で一番嫌われたくない相手」に向かって、最低の癇癪を起こしてしまったことに気づいた。
「あっ……違う、違うの!ナギちゃん、ごめん……っ!怒ったわけじゃなくて、ただ、私……!」
過呼吸のように胸を上下させ、ミカは自分の頭を強く抱え込んだ。
自分が壊した壁、恐怖に震えるナギサ、苦しむセイア――すべて自分のせいだ。自分が全部を台無しにした。
許容量を超えた罪悪感が、彼女の思考を完全にショートさせる。
そして、ミカの壊れかけた精神は、自己崩壊を防ぐために「最も手っ取り早い逃避先」を見つけ出した。
「そう……そうだ。全部、あいつらのせいだ」
暗く淀んだ瞳に、狂気に満ちた光が宿る。
「アリウスが……サオリが悪いんだ。あいつらが私を騙したから、セイアちゃんは壊れて、ナギちゃんは私を嫌いになったんだ……!」
「ミ、ミカ……どこへ行くんですか!」
呼び止めるナギサの声など、もはや彼女の耳には届いていなかった。
「フフッ……全部壊せばいいんだよね。私が、アリウスを全部壊して……先生に褒めてもらうの」
歪な笑顔を顔に張り付けたまま、聖園ミカは開け放たれたドアから、ナギサには決して見つけられぬ闇の中へと溶けていった。
――降り頻る冷たい雨が、D.U.外縁部のハイウェイを叩きつけている。
トラックの運転席は、等間隔で響くタイヤとアスファルトの摩擦音と、低いエンジン音だけが空間を満たしていた。
先生とタグの間に挟まれる形で、毛布にくるまる錠前サオリ。
彼女は最後とばかりに重い瞼をこじ開けた。
焦点の合わない瞳だが、その光は希望によって輝きを取り戻そうとしている。そして傍らに座る先生へ向けて情報を伝えていく。
「……アツコが、連れ去られた」
ひび割れ、乾ききった唇から漏れ出たのは、自身の負傷の痛みではなく、最も恐れていた事実だ。
「今後、私と……ミサキ、ヒヨリを見逃すことを条件に……あいつは、自らマダムの捕縛を受け入れた。アリウス自治区へと……」
サオリの細い指が、毛布の繊維を白くなるほど強く握りしめる。
「だが、約束など最初から守られるはずがなかった。私は……始末される寸前まで追い詰められ……」
そこまで言葉を紡ぐと、サオリの呼吸が急激に浅くなり、全身の筋肉からふっと力が抜けた。限界を超えていた精神と肉体が、安全圏に到達したと認識した瞬間にシャットダウンを起こしたのだ。
横に倒れ込むサオリの頭を、先生が素早く、かつ静かに両手で受け止める。
そのまま自身の太ももの上へと誘導し、優しく膝枕の体勢を作った。泥で汚れたサオリの前髪を、先生の指先がゆっくりと撫でていく。
「……リーダーの言う通りだよ。あいつらは、最初から私たち全員を処分する気だった」
運転席に座る戒野ミサキが、正面を向いたまま口を開いた。
「アリウス自治区へ入るためにはまずカタコンベにいかなければいけない。けどカタコンベから自治区への入り口はおよそ数百ある……実際に使えるルートはそのうちの1%もないけど」
槌永ヒヨリは手元のポータブルマップ端末を操作し、青白い光を顔に反射させた表情でタグと先生を見る。
「あ、あの……あのカタコンベは、ま、まるで生き物みたいに構造が変化するんです。昨日通れた場所が通れなくなったり、ひ、酷い場合は迷路に迷い込んでしまったり……。
ただ、アリウス自治区からカタコンベに出る分には一直線で出られるんです。
なので外で活動する子には、自治区から定期的に暗号通信で、正しいルートを教えてもらえる仕組みなんですけど……。私たちはもう、教えてもらってないんですけどね……うぅ……」
「幸運なのはまだ私たちが使えるルートがあること。ただし……」
ミサキの暗い瞳が、タブレットの時計の表示を見つめた。
「今日の深夜0時。……そこを過ぎれば、そのルートも閉鎖される。そうなれば、もう私たちはアリウス自治区には辿り着けない」
タグの耐圧服のサイドポケットが強く震える。スマートフォンに着信が来たのだ。
取り出したスマホの画面には『桐藤ナギサ』の文字列が明滅している。
タグは手袋越しの指で画面をスワイプし、端末を耳に当てた。
「タグだ」
『……タ、タグさん……』
スピーカーから漏れ出た声は、普段の優雅で気品に満ちたティーパーティーのホストのものとは程遠かった。
小刻みに震え、ひどく掠れており、呼吸の合間に啜り泣くようなノイズが混じっている。
「どうした」
タグは一切の抑揚を廃した、平坦な声で返す。
『ミ、ミカが……いなくなりました……。警備も、追撃部隊も全て振り切って』
電話越しに、ナギサが必死に息を整えようとする音が聞こえる。しかし、その試みはパニックによって容易く瓦解していた。
『セイアさんが、目を覚ましたんです。それで、ミカと面談を……。でも、セイアさんはひどい幻覚と悪夢に苦しんでいて……錯乱状態で、ミカに……心にもない、ひどい拒絶の言葉をぶつけてしまって……!』
言葉を絞り出すナギサの悲痛な声が、タグの鼓膜を叩く。
『直後、セイアさんの容態が急変して……危篤状態に陥りました。私は、その場に駆けつけて……ただ、立ち尽くすミカを、突き飛ばすように押しのけてしまったんです……』
「それでどうした」
『私は、痙攣するセイアさんを助けることで頭がいっぱいで……。当たり前の行動だったかもしれません。でも……あの時のミカは、もう精神が限界だったのに……私は、あの子を無視して、セイアさんを選んでしまった……!』
ナギサの喉の奥から、血を吐くような後悔の嗚咽が漏れた。
『あの子は……私にも見捨てられたと思い込んで、ひどい癇癪を起こしました。泣き叫んで、病室の壁を何かで叩き壊して……。私がその異常な力に怯えると、今度は自分が私に嫌われることをしてしまったと気づいて、完全にパニックを起こしてしまったんです……』
常に周囲から求められる完璧な淑女を演出し、トリニティの頂点として気丈に振る舞ってきた少女の仮面は、今や粉々に砕け散っていた。
『「全部アリウスが悪いから、私が全部壊す」「全部壊して、先生に褒めてもらう」って……。あの子は、自分がすべての元凶だという罪悪感に押し潰されて……責任をアリウスに押し付けることでしか自我を保てなくなって……たった一人で、アリウスを滅ぼすために姿を消してしまったんです……』
『お願いします……っ! 私の持っているもの、何もかも、すべてを捧げますから……! どうか、どうかミカを……私のせいで壊れてしまったあの子を、助けてください……っ!!』
受話器越しに、床に膝をつき、額を擦り付けるような必死の懇願が響く。
タグは、その血を吐くような悲鳴を聞きながらも、顔の筋肉をピクリとも動かさなかった。
だが、その内面ではどす黒い恐怖が渦を巻き、激しい警鐘が鳴り響いていた。
トリニティ最強の武力を持つといわれるミカの暴走――それは一介の兵士が、ましてやATが単機で立ち向かっていい相手ではないだろう。関われば確実に死ぬ。
先生に頼る?無理だ、彼も今手一杯だ。
自分も一緒になって支えているギリギリの状態だ。つまり、タグは誰にも頼れない。
――逃げろ。
魂の奥底に焼き付いた生存本能と、かつて自分を支配していた神たる存在の冷たい幻影が、この危機から背を向けるよう囁きかけてくる。
(先日の古聖堂のことを忘れたのか?たった二人のヘイロー持ちを相手にして、本当なら俺は死んでいた)
冷たい金属の塊である端末を握る彼の手は、微かに、だが確かに震えていた。
いくら歴戦の兵士を装おうとも、彼は過酷な運命に翻弄され、見えざる神の追手に怯え続けるちっぽけな人間に過ぎない。今すぐ通信を切り、このまま暗闇の底へ逃げ隠れてしまいたいという弱さが、泥濘のように足に絡みつく。
先生は恩人だ。だけど命を捨ててまで俺は彼を助けられるのか?
そんなことは出来やしない、と心が泣き言を囁く。
しかし友のために己のすべてを投げ打とうとするナギサの悲鳴が、タグの脳裏にある血なまぐさい記憶を強烈にフラッシュバックさせた。
――かつて彼は神の意志を裏切った。
絶対的な監視の命令を蹴り飛ばし、己の破滅を理解しながらも、たった一人の「友」を助けるためにレッドショルダー部隊へと牙を剥いた日のこと。
勝ち目など針先ほどもない相手、リーマンとの死闘に向かうタグを突き動かした、あの不器用で、偽りない感情。
――『俺はあいつの、キリコの友だからだ』
ただ友を救いたいと願うナギサの姿が、かつてサンサの死地で足掻いた自分の姿と完全に重なった。
(……そうだった。俺はあの時、自分の意志で神に背いたんだ)
足に絡みついていた恐怖の泥濘が、乾いてボロボロと剥がれ落ちていく。
震えていた手はピタリと止まり、再び反骨の意志を宿して端末を強く握りしめた。
神の命令すら投げ捨てて友を選んだこの俺が、友のために泣く少女の願いを前にして、今更逃げ出すという間抜けを晒せるものか。
暗闇の先を見据えるタグの瞳から、一切の迷いと怯えが消え去った。
瞬時に平素の自分を作り上げると、いつも通りの平坦な言葉で返事をする
「俺はアンタに借りを作った。今その借りを返す機会が来た……任せろ」
一切の感傷を交えない、ただの事実の確認。
タグはそれだけを短く告げると、ナギサの返答を待たずに通話を切断した。
――トリニティ自治区内
深夜の冷たい雨を抜け、一行はトリニティ自治区の地下に広がる巨大な水路へと足を踏み入れた。
アーマードトルーパーが直立歩行で進めるほどの大規模な規格で作られたコンクリートの空洞。
暗く湿った空間に、スコープドッグの重々しい駆動音と、水溜まりを踏み荒らす足音が反響する。
先頭を進むスコープドッグの外部スピーカーから、タグの平坦な声が響いた。
『先生、一応伝えておく。ナギサから通信があった、聖園ミカが学園を脱走したそうだ』
背後を歩いていた先生が、ハッと顔を上げる。
『百合園セイアの危篤を見て、自分がすべての元凶だと思い込んでいる。……目的は単独でのアリウス自治区の壊滅だ』
その絶望的な報告に、先生は顔を強張らせ、歩みを早めようとした。
だが、ぬかるんだ泥と苔の足場に足を取られた瞬間、「うっ……」と短く呻き、腹部を強く押さえてその場にうずくまってしまった。
かつてサオリに撃ち抜かれた腹の銃創。まだ完治していないその傷口が、連日の過労と強行軍によって悲鳴を上げていた。白衣の下に巻かれた真新しい包帯に、じわりと赤い血の染みが滲み出している。
その様子に、その原因を作ったサオリが顔を蒼白に染める。
大丈夫、と気丈に先生はサオリに声をかけるが、その表情は苦悶と脂汗で染まり切っている。
『……』
タグは一切の躊躇なくフットペダルを踏み込み、操縦桿を引いた。
けたたましいマッスルシリンダーの駆動音と共に、巨大な緑の鉄塊が片膝をつき、分厚い装甲に覆われた左手を先生の目の前の地面へと静かに下ろす。
『乗れ。怪我人ならまだしもここで重傷者になられたら困る』
「でも、これじゃあ……」
『いいから乗れ』
有無を言わさぬタグの言葉に、先生は痛みに顔を歪めながらも、スコープドッグの冷たい金属の手のひらへと身を預けた。
しかし、生身の人間を手のひらに乗せたことで、スコープドッグの機動性は著しく制限されることとなった。
振り落とさないための重心バランスの調整と、急激な揺れを防ぐための安全確保。
ローラーダッシュによる高速滑走は完全に封印され、機体は重々しい二足歩行での慎重な前進を強いられる。
ミサキのタブレットが示す深夜0時のタイムリミットが刻一刻と迫る中、一行の進軍速度は決定的に削られていった。
ただし時間をかけた分、ミサキとヒヨリの励ましによりサオリが平静を取り戻す。また先生も先ほど飲んだ痛み止めが効いたのか、表情が柔らかくなってきていた。
焦燥感に駆られながら地下水路を深く進み、カタコンベの入り口が近づいてきた頃――カビと汚水の匂いに混じって、焦げた鉄の匂いと、乾いた粉塵が鼻腔を突き刺し始めた。
『……異常だな』
タグもそうだが、サオリ、ミサキ、ヒヨリの三人も皮膚を通してひしひしとその気配を感じだしていた
スコープドッグのターレットレンズが回転し、広角レンズで前方の暗闇を探る。
そこに広がっていたのは、銃撃戦が繰り広げられた「戦場」の痕跡ではなかった。
進行先には、仮設とはいえ頑丈な防衛バリケードが、爆発物で破壊されたわけではなく、中心から巨大な万力でへし折られたかのようにひしゃげ、無惨に引き裂かれていた。
通路を塞ぐように配置されていた銃座、固定機銃などの防御施設が、紙くずのように凹み、完全に沈黙していた。純粋な“暴力”によって叩き潰された残骸である。
「ひっ……!」
視力が最も優れているヒヨリがまず気付いた。瓦礫の陰を見て短い悲鳴を上げた。
破壊されたバリケードの周辺には、防衛に当たっていたはずのアリウスの生徒たちが何人も倒れ伏していた。
彼女たちの身体に銃創などの致命傷は見当たらない。だが、泥水の中に倒れる彼女たちの顔は一様に引き攣り、極限の恐怖を張り付けたまま気絶している。
装備しているボディアーマーのどれもが胸元あたりで深く凹んでいる
「……これ殴られたんだと思うけど、殴られてこの痕が残るって、どういう力なの……」
ミサキが信じられないものを見るような目でその凹みを観察する。
まるで、理不尽な天災が通路を通り抜けた後のような凄惨な光景。
――全員、下手人には心当たりがあった。おそらくたった一人の少女の「素手」によってもたらされた惨状であるという事実が、重苦しい圧力となって一行にのしかかる。
地下水路を抜け、一行がカタコンベへ続く巨大な広間へと足を踏み入れた瞬間、鼓膜をつんざくような銃声と、何かが粉砕される鈍い破壊音が響き渡った。
薄暗い空間の中心。そこには、数名の精鋭からなるアリウスの防衛部隊が、文字通り「蹂躙」されていた。
重武装の生徒が放つ一斉射撃を正面から受けながら、泥と返り血にまみれた一人の少女が、一切の痛痒を感じさせないステップで距離を詰める。
ドンッ、という破裂音。
少女の細腕が振り抜かれただけで、アリウス生徒の構えていた防弾シールドがひしゃげ、身体ごと広間の石壁へと吹き飛ばされた。
「あはっ……次、どの子?」
手にしたサブマシンガンを無造作に乱射し、残る生徒たちを次々と撃ち倒すその姿は、まさに狂乱の天使そのものだ。
「ミカ……!」
先生の驚愕の声に、ミカの肩がビクッと跳ねた。
振り向いた顔――血にまみれながら、不自然なほど明るく、そしてひどく歪んだ笑顔が張り付いていた。
「きゃは☆先生、見ててくれた? 私、先生のために悪い子たちを全部壊してあげるからね」
暗く重い依存と、破滅的な自己犠牲の泥沼が渦巻く瞳。
だが次の瞬間、ミカの視線が先生の背後――スコープドッグの陰で息を呑むサオリの姿を捉えた。
――ピタリ、と。
ミカの顔から、一切の表情が削ぎ落とされた。そして目の瞳孔が大きく開かれる。
サオリ――あの女は最愛の親友であるナギサ、そして苦手ではあるが間違いなく友であったセイア、私みたいな子にやさしくしてくれた先生、そしてみんなを苦しめた諸悪の根源。
ミカがそう認識している「魔女」の姿を見た瞬間、彼女の瞳は純粋で絶対的な殺意へと裏返った。
「……なんで。なんで、なんで? なんで、お前が先生の隣にいるの?」
空気が凍りつく。ミカの握るサブマシンガンが、ギリッと嫌な音を立てて軋んだ。
『先生、降りろ』
空気を切り裂くように、スコープドッグの外部スピーカーからタグの平坦な声が響く。
機体が身を屈め、掌から先生を地面へと下ろした。
『ここは俺が引き受ける。アンタ達は先に行け』
「タグさん、でもあの子は――」
『アツコを助ける時間がなくなる。早く行け』
有無を言わさぬタグの指示に、先生は血を吐くような思いで頷き、サオリたちと共に広間の奥へ続く通路へと走り出す。
入り組んだカタコンベの暗闇が彼らの姿を飲み込み、その切羽詰まった足音も、すぐに遠ざかって聞こえなくなった。
ミカがそれを追おうと地を蹴った瞬間、スコープドッグがローラーダッシュで駆け付ける。ミカと先生の間に挟まり、その射線を完全に塞いだ。
ヘヴィマシンガンの銃口がミカを捉える。
『駄目だ、邪魔はさせない。お前は俺が相手だ』
「……あ。思い出した」
ミカの足が止まる。彼女の瞳が、立ちはだかる緑の装甲を忌々しげに睨みつけた。
「ナギちゃんが最近、お茶会によく呼んでるっていう男、たしか緑の騎兵って呼ばれてるんだよね」
ミカの口元が、怒りと狂気を孕んで歪む。
「先生だけじゃなくて、ナギちゃんまで私から奪う気……!? 許さない、許さない許さない!!」
ミカの足元の石畳が爆発するように砕け散った。
直後、スコープドッグの視界をミカの姿が完全に埋め尽くす。
「――速い!」
タグが反射的にコントロールスティックを横に倒し、フットペダルを踏み込む。後方ローラーダッシュと胴体ひねりによる合わせ技で緊急回避を試みたのだ。
ミカの振り抜いた拳が、紙一重で装甲をかすめる。
途端、鼓膜を破るような金属音と共に、スコープドッグの左腕装甲に衝撃。機体全体が横へ数メートル弾き飛ばされる。
(ヒナやホシノと同等……いや、物理的な破壊力だけならそれ以上の異常な出力だ!)
スコープドッグが体勢を立て直す暇もなく、ミカのサブマシンガンが火を噴く。
強烈な神秘を帯びた弾丸の雨が、スコープドッグの装甲をバターのように削り取り、火花と装甲片を撒き散らす。
装甲厚を改善したはずの胸部装甲でさえも貫通し、何発かがタグの体を掠る。
熱い痛みが全身を焼く感覚――歴戦の兵士であるタグでさえ、この常軌を逸した「個人の暴力」の前に、再び死の手が自分の背中を撫で始めていた。
ダメージコントロールモニターが赤く点滅する中、タグはタブレット越しにアロナに命令する。
「……アロナ!ナギサに繋げろ」
『はい、通話いけます!』
『……タグさんですか!状況は!?』
タブレットにナギサの顔が映る。涙の跡がまだ残っているが、先ほどよりは平常心を取り戻しているようだ。
「色々あって聖園ミカと交戦中だ。とんでもない女だな――アレの戦闘時の手癖、追い込み方、思考の死角、とにかくなんでもいいから教えてくれ。じゃないと俺が死ぬ」
通信の向こうで、ナギサが短く息を呑む音が聞こえた。
だが、トリニティを牽引する策謀家であり、誰よりもミカの傍にいた幼馴染は、震える声に理性を縛り付けて即座に答える。
『……ミカは、右足から踏み込んで打撃を放つ際、必ず視線が僅かに下がります。あと銃撃で相手を壁際に追い詰めた後は、直線的な突進を好みます!感情が高ぶると、周囲の障害物を一切考慮しなくなります!』
「助かる。スコープドッグの視界をそっちに共有する、引き続き情報をくれ」
アロナに命じて、ナギサのスマホにスコープドッグのターレットレンズが捉える映像を転送させる。
ミカが再び右足を踏み込む。ナギサの言葉通り、その視線が一瞬だけ下へ向いた。
タグはそれを完全に先読みし、回避行動と同時にヘヴィマシンガンの銃口をミカの「次」の移動座標へと置き、トリガーを引く。
「きゃっ!?」
予測していなかった位置からの被弾に、ミカの突進が初めて殺される。
スコープドッグはローラーダッシュで後退しつつ、広間の瓦礫や石柱を盾に立ち回り、ミカの直線的な突進をいなし始めた。
(今のは純粋に驚いた、という悲鳴だな……直撃したのは確認したんだが)
ローラーダッシュで距離を離そうとするも、ミカはつかず離れずの距離を容易く維持する。
戦場の広さは十分あるため、スコープドッグの速度は最高速の80km/hオーバーを出せる。だというのにミカは息一つ切らさずに追いついてくるという異常な状況がタグを追い込む。
ナギサからのリアルタイムの助言により、ミカの暴力的なまでの猛攻に対し、戦術と予測による防御を成立させていくが、代償としてタグの精神力がかんなで削られるようにすり減っていく。
「30mmの連射を浴びているのに悲鳴一つで済ませるのはどうなんだ?」
『ミカの耐久力は重機関銃程度なら容易く耐えます。本人の申告だと、護衛艦の5インチ(127mm)主砲でようやく痛いと感じるそうで』
「それはもう戦術兵器のカテゴリーではないぞ!?」
あまりにも人間離れした耐久力にタグは度肝を抜かれる。これは本当にATが相手をしていいカテゴリーではない。
しかし戦況が五分に引き戻され、自身の動きがことごとく先読みされていることに気づいたミカは、忌々しげに足を止めた。
その鋭い勘が、目の前の鉄屑の動きの変化の理由に行き着く。
「……この動き。まさか、ナギちゃん……?」
通信越しに指示を出している存在に気づいた瞬間、ミカの顔から血の気が引いた。
「そっか……ナギちゃん、また私を裏切るんだ。そうだね、全部最初に裏切った私が悪いからだよね……」
――暗い絶望が、理性の最後の欠片を完全に焼き払った。
「……ハハッ、アハハハッ! もういい!なら、全部……全部、壊す!! 何もかもみんな!先生も、ナギちゃんも、お前も!!」
ミカのヘイローが異常な輝きを放ち、周囲の空気が高密度の神秘によってビリビリと震え始めた。
空間が歪むほどの高密度の神秘が、ミカの周囲で渦を巻き始める。
そしてミカの、夜明け前の空色のごときヘイローが変色を始めたのだ。
――内側から腐食したような暗赤色に染まりだし、その周囲を毒々しい紫の雷光が這い回りだす。
周囲の石柱がひび割れ、広間全体が彼女の放つ絶望と怒りの圧力で軋みを上げる。
スコープドッグであっても、次の一撃をまともに受ければ文字通りの鉄屑と化すのは明白だった。
『タグさん、今すぐ逃げて!全力で逃げてください!彼女、反転しようとしています!タグさんが死んじゃいます!』
タブレットからアロナの涙交じりの絶叫が響く。
通信越しに見ているナギサは、ミカの変貌に完全に言葉を失っている。表情は消え失せ、彼女のヘイローにも反転の兆しが表れていた。
しかしタグにとって、その絶叫と変化は、どこか遠いものになっていた。
絶対的な死地の中にいるタグの脳裏にふと、かつて戦場の泥濘の中で背中を預け合った男――キリコ・キュービィーの不器用な顔がよぎった。
理不尽な運命と圧倒的な暴力の前に立たされた時、自分たちはどうやって生き延びてきたか。
それは常に、盤面そのものをひっくり返すような、常軌を逸した「賭け」だ。
(俺たちはもう二度と出会えない。だけど、ナギサとミカは違う)
2人の友情、そして心を護るため――タグは最後の手段に出る。
突然、両膝を床につけ、スコープドッグが降着姿勢を取る。
そして排気音と共に、スコープドッグのコクピットハッチが跳ね上がった。
「……え?」
殺意に染まっていたミカの瞳が、ふと瞬きをした。
――急に鉄屑が両膝をついたと思ったら、蓋か何かが開いたのだ。
蓋の奥には赤い服を着たパイロット。
そいつは開け放たれたコクピットから無造作に身を乗り出すと、冷たい石畳の上へと軽々と飛び降りた。
緑の騎兵という甲冑に守られていたはずのそいつは、あまりにも小さく、脆い生身を晒して、無防備にこちらへ歩いてきた。
タグは、ミカの放つ神秘をまとった暴風と、絶対的なプレッシャーに表情一つ変えることなく近づく。
そして腰のホルスターから自衛用のハンドガンを引き抜くと、銃口をミカに向けるのではなく――自分自身のこめかみに、真っ直ぐに突きつけた。
「……は? なに、してるの……?」
ミカの動きが止まる。
ヘイローを持たない大人――ほんの少し指先に力を込めれば弾け飛ぶような、ちっぽけな命。
それが今、自分の「暴力」をトリガーにして、自ら終わろうとしている。
もしこの大人がここで死ねば。自分が引き金を引かせたのと同じだ。
狂乱の極致にあった彼女の思考が、予想外すぎる――そしてあまりにも悪辣な「命の責任の押し付け」によって、強引に一時停止させられたのだ。
「ここで俺が死ねば、お前は終わりだ」
タグは銃の撃鉄を起こし、平坦でしゃがれた、だが確かな重量を持った声で告げる。
「俺は先生の護衛であり、ナギサの客だ。お前が俺を殺すか、あるいはお前が暴れることで俺がこの引き金を引けば……お前は、先生やナギサからの信頼を永遠に失う。それどころか、お前は文字通りの殺人者になる」
「っ……!」
ミカの顔が苦痛に歪み、サブマシンガンを握る手が微かに震えた。
――彼女が最も恐れている「見捨てられること」を、残酷で直接的な形で突きつけられたのだ。
(……こいつは未だに、誰一人として殺してはいない。奪うことへの恐れ――命の重さを、本当の意味で知っているからだ)
血に塗れ、幾つもの命を奪ってきた自分のような『人殺し』とは根本的に違う。
どれほど絶望と狂気に呑まれようとも、彼女の根底には一線を越えることを拒む、汚れなき高潔さが残っている。
兵士であるタグの目は、眼前の少女が持つその決定的な「正しさ」を見抜いていた。
だからこそ突きつけた『殺人者』という言葉は、ミカの心に冷や水となって劇的な効果を表したのだ。
「だが、ここで銃を引いてくれるのならば、お前が信頼を取り戻すための手伝いをしてやる」
タグの言葉に、ミカはギリッと奥歯を噛み締めた。
短慮で感情的な彼女だが、その直感と頭の回転の速さは本物だ。彼女は一瞬で冷静さを取り戻し、目の前の大人の論理の「穴」を鋭く突いた。
「……笑わせないで。あなたをここに放置して、私一人でアリウスを壊しに行けばいいだけじゃない。そもそも、あなたは何を得るの?」
ミカの鋭い切り返しに、タグはこめかみに銃を当てたまま、一切の動揺を見せずに答える。
「お前は『全部壊す』と言ったな。それはつまり、アリウス自治区への『正しいルート』を知っていなければ言えないセリフだ。違うか?」
「……」
「先生と俺達はアツコを追っている――先生の方はアツコの処刑の時間に間に合うだろう。だが今のままでは俺は、間違いなく間に合わない。先生の目的を果たすためには俺とスコープドッグは必須だ。
そして先生の元にたどり着くには、お前の知る道が必要だ」
彼女の絶望的な単独行を利用するという、極めて実利的な目的。
大人の綺麗事ではない、あまりにも合理的な取引の提示に、ミカは目を細めた。
「……それだけじゃ、足りない」
ミカは再び銃を構え直し、暗い瞳でタグを睨む。しかし狂気は薄くなり、瞳には理性が戻ろうとしていた。
あの禍々しき変化を起こしていたヘイローは、内側から腐食していた暗赤色が嘘のように抜け落ちている。そして夜明け前の空のような、澄み切った水色の光がしなやかに戻っていった。
それでもまだ、ナギサを、セイアと先生を傷つけ、自分をこんな泥沼に引きずり込んだ諸悪の根源たちへの怒りが、まだ彼女の内で燻っていた。
「私は、あいつらを……サオリを許せない。あいつがいる限り、私は……っ」
「なら、サオリを殴る権利をやる」
「……は?」
タグは、真顔のまま、最も効果的で身も蓋もない「切り札」を場に投げ捨てた。
「俺には、あいつに先生の腹を撃たれた恨みとして、一発殴る権利がある。それをお前にやろう」
「……」
あっけに取られるミカを見て、タグが『足りないのか?』という顔をする。
「もっと殴りたいのか?だったら他の生徒たちが持っている権利も俺が全部かき集めてきて、お前に譲渡してやる。俺が知っているだけで権利を持っているのは10人は下らない、俺が頼めば喜んで譲ってくれるだろう」
違う、そうじゃないとミカは言いたかったが、完全にタグの術中に捕らわれていた。
「殺すならともかく、殴るだけなら先生も止めない。アイツの言葉を借りて言えば『それも青春だ』と言うだろうさ……どうだ、それで納得してくれないか」
そして静まり返る地下の広間。
あまりにも幼稚で、野蛮で、けれど「怒りの落とし所」としてはこれ以上ないほど明確で、公平な提案。
大人としての建前など一切ない、ただの無骨な解決策に、ミカはぽかんと口を開けたまま硬直した。
やがて――。
「……ぷっ」
ミカの口から、小さな吹き出し笑いが漏れた。
「あはっ……あはははははっ!! なにそれ! 権利の譲渡って……そんなの、ただのマフィアの取り立てじゃない!!」
ミカはサブマシンガンを取り落とし、腹を抱えて大爆笑し始めた。
涙が出るほど笑い転げ、冷たい石畳の上で肩を震わせる。
自分を縛り付けていたドロドロとした罪悪感や、裏切られたという絶望、そして世界を壊そうとしていた狂気が、その無骨すぎる提案の前で一気に馬鹿馬鹿しく思えてきたのだ。
一分ほど笑い続ける。そして笑い終えたミカは、目尻に浮かんだ涙を指先で拭い、憑き物が落ちたようなスッキリとした顔でタグを見上げた。
「……あー、笑った。ほんと、変な大人」
彼女はゆっくりと立ち上がり、かつての明るく無邪気な、しかし今は確かな芯のある笑顔を向ける。
「その提案、イエスね!先生の分まで、私が思いっきり殴ってあげる!」
こめかみから銃を下ろし、タグは短く鼻を鳴らした。
「契約成立だ……俺はタグだ、そう呼べ。俺もお前をミカと呼ぶ。……それとナギサには一言言っておけ」
タグがいつの間にかコックピットから持ち出したタブレットの画面をミカへ向ける。
通信越しに、ナギサの深く、ひどく震えるような安堵の溜息が聞こえた。
『……はぁ……っ。本当に、あなたという大人は……あまりにも無茶苦茶です……』
気丈に振る舞おうとする声は安堵の涙で潤んでいたが、その口元には困ったような、けれど心底救われたような微かな笑みが浮かんでいた。
『ミカ、無事でよかった……』
「ナギちゃん……ごめんね、私」
『謝罪は後です。今はただ……タグさんの言う通りにしなさい。アリウススクワッドを殴る権利……あの時の私の分も、ミカに譲渡しておきますから』
ナギサのまさかの便乗発言に、ミカが目を丸くする。
「あはは! なにそれ、ナギちゃんまで何言ってんの!」
『ふふっ……頼みましたよ、ミカさん』
ナギサは目元を拭うと、タグに向けて深く頭を下げた。
『タグさん。私のすべてを救っていただき……本当に、ありがとうございました』
「言ったはずだ、借りは返すとな」
しかしこういう真似事はこれっきりにしたいものだ、とタグは心中で呟いた。
こうしてトリニティの魔女と最高傑作の吸血鬼、二人による最悪で最強の即席コンビが誕生した。
二人の友の悲劇は御破算となった
打算と執念の糸を手繰り、天使が忘却の地への扉をこじ開ける
辿り着いた奈落で、微睡むわずかな休息
目覚めと共に解き放たれる、火あぶりの魔女
そして、すべてを焼き尽くす吸血鬼の蹂躙
ノイズの向こうで大人が指し示す、反撃の座標
血塗られた運命が交差する地、その名はバシリカ
次回「聖堂」