シャーレ 居住区画
コンクリートに反射する陽光が、白衣と背広に熱を帯びさせていた。秋が間近とはいえ、残夏と呼べる程度には熱さが残っている。
シャーレの施設内に設けられた緑化エリア――ヒートアイランド現象を回避するために人工的に整備されたその花壇には、色鮮やかな植物が規則正しく植えられている。
戦場では、決して見ることのなかった平和な土の匂いが、タグの気管を微かに撫でた。
彼の手元には、アロナの指導によって完璧なフォーマットで作成された報告書がある。
内容を挙げれば廃校巡回の記録、RABBIT小隊の訓練スケジュール、アリウススクワッドの奉仕活動内容の報告等々。
デスクワークの合間、無意識に外の空気を吸いに出た彼の足が、不意に止まった。
視線の先、色とりどりの花弁の間を、小さな白い影が揺れている。
――モンシロチョウだ。
タグの瞳が、そのか弱い羽ばたきを無言で追う――あれは一体何かと。
何故なら彼の記憶には、蝶と呼ばれるものの姿はないからだ。
銃弾が飛び交えば一瞬で消し飛ぶような脆弱な命が、熱気を含んだ風に乗って、ただ気まぐれに宙を舞っている。
微細な羽の震えが、周囲の空気を僅かに掻き乱す。
「そこにいたんだ、タグさん」
背後から、リノリウムの床を蹴る軽い足音と共に、可愛らしい声が響いた。
振り返らなくともわかる。トリニティ総合学園の聴聞会を経て、シャーレにて先生の護衛に就くことになった少女、聖園ミカだ。
今日は奉仕活動の日であり、シャーレに出向してきたのだ。先生とタグは共に内勤なので、事務を手伝ったりミサキとヒヨリ、コユキの面倒を見ている。
そして向けた視線の先には、やはりミカが立っていた。透き通るような星空のヘイローが、彼女の頭上で静かに明滅している。
タグは無言で短く顎を引き、再び花壇の方へ視線を戻す。
蝶が、ふわりと高く舞い上がり、青く澄んだキヴォトスの空へと溶けていくところだった。
「……ミカ。あの白い羽はなんだ」
タグの問いかけに、ミカは花壇の方へ目をやり、ふんわりと微笑んだ。
「あれはモンシロチョウだよ。可愛いよね」
「ああ、ナギサから聞いた。……イモムシが、あれになるのか」
「え? なんでそこでナギちゃんが出てくるの?」
ミカが不思議そうに小首を傾げる。タグは、淡々と答えた。
「先週ナギサに頼まれて、彼女の家のガーデニングの手伝いをしていた時だ。葉についたイモムシとやらを一緒に処理しながら、それが成長するとどうなるのかを教えてもらった」
「そういえばナギちゃん、この時期はお庭の植え替えとか冬支度の準備が必要だから、人手はいくらあっても足りないって言ってた覚えが……」
「手伝いの報酬として、使っていないティーセットを譲ってくれたのは助かった。どういうものを買い揃えればいいのかわからなかったからな」
(ナギちゃんのティーセットがなんでシャーレにあるのかと思ったら、そういうことかぁ……)
ミカは内心で一人納得し、少しだけ可笑しそうに口元を綻ばせた。ナギサがこの強面の兵士を庭仕事に駆り出している光景を想像すると、なんだか微笑ましかったからだ。
タグは報告書を小脇に抱え直し、ゆっくりとミカの方へ向き直った。
「タグさん、先生のお使いで備品室に行くんだけど、タグさんも執務室に戻るなら一緒にどうかなって」
「いいだろう」
ミカが鼻歌交じりに備品室から戻ってきた。
両腕には、白いコピー用紙の束が隙間なく詰まった特大の段ボール箱が抱えられている。
しかし、箱を支える彼女の細い腕の筋肉が隆起する様子はない。
タグの目が、その危うい歩様に細められる。
彼女の視線は前方ではなく、足元のリノリウムの床に向けられていた。
彼はその足元に気付き、声を掛けようとしたが、僅かに遅かった。
「きゃっ!?」
ミカのつま先が、黄色の清掃用警告看板の脚に接触する。
不意の衝突のせいで彼女の体が前に傾き、腕から離れた段ボール箱が床に激突した。
床材の奥まで震えるような重低音が廊下に響き渡る。
箱の継ぎ目が弾け、中から滑り出た重厚な紙の束が、ドサリとリノリウムの床に散らばった。
「あーあ、やっちゃった……」
ミカは片膝をつき、散らばった紙の束を拾い集めようと手を伸ばす。
タグも報告書を小脇に挟み直し、屈んでその手伝いをする。
「……周囲への警戒が疎かなせいで、前方の障害物を視界に収めていない。足元に意識を奪われている証拠だ」
ミカは紙の束を段ボール箱に戻し、顔を上げる。
彼の目は、既にミカではなく廊下の前後を交互に確認している。
「タグさん、厳しくない?ここはシャーレの廊下だし、敵なんていないよ」
ミカが立ち上がり、ずっしりと重い段ボール箱を、今度は片手で軽々と拾い上げて小脇に抱える。
「お前は先生の護衛だ。自分の足元より、周囲の空間全体の情報を処理しろ」
タグが視線を廊下からミカへと戻す。
戦場を生き抜いてきた兵士の眼光が、彼女を真っ直ぐに射抜いた。
ミカの表情から、あどけない笑みが消える。
彼の放つ張り詰めた空気にハッとした彼女は、段ボール箱を両手で胸の前に抱え直し、背筋を伸ばして姿勢を正した。
「うん、そうだね……気をつけるよ」
「難しいことだが、お前なら出来る」
ミカが歩き出す。今度は視線を下げず、廊下の前方を見据えている。
タグは無言でその後を追った。
トリニティ総合学園、ティーパーティー執務室
純白のレースのカーテン越しに、穏やかな午後の太陽の光が差し込んでいる。マホガニー材の重厚なデスクの上には、書類の山が整然と積まれていた。
桐藤ナギサが、羽根ペンを右手に持ち、書類の末尾に滑らかな軌道でサインを書き入れている。
ペン先が上質な紙を擦る「カリカリ」という規則的な音だけが、静かな室内に心地よく響く。
かつて彼女の顔に張り付いていた、神経をすり減らすような過労と疑心暗鬼の色はもう無い。
この程度の業務量であれば、今の彼女にとっては障害の一つにもならなかった。
デスクの脇に置かれたティーカップから、極上のダージリン茶葉の香りが漂っている。
ナギサがペンを置き、ティーカップの取っ手を指でつまんで持ち上げる。
そしていつもながらの優雅な動作で一口、紅茶を口に含んだ。
ソーサーとカップが離れ、カチャリと冷たい陶器の音が鳴る。
――コン、コン
執務室の木製の扉が控えめにノックされ、ゆっくりと開かれた。
「ごきげんよう、ナギサ」
――姿を見せたのは百合園セイアだ。
彼女は室内に足を踏み入れると、迷いのない軽い足取りでデスクへと近づいてくる。
床を歩く靴音に、かつてのような淀みはない。
顔をしかめ、ひどい頭痛にこめかみを押さえる痛々しい仕草はもう見られなかった。
肌には健康的な血色が戻り、彼女の頭上に浮かぶヘイローも、それを肯定するかのように規則正しく、澄んだ光で明滅している。
「ごきげんよう、セイアさん。……顔色が随分と良いですね」
ナギサがティーカップをソーサーに戻す。
カチャリと陶器が触れる小さな音が鳴り、彼女の肩からふっと力が抜けた。
口角が柔らかく上がる。
「ああ。予知夢を捨てて以来、体調がとてもいいよ。体がひどく軽く感じる」
セイアはふわりと微笑み、デスクの前のソファに深く腰を下ろした。
柔らかなクッションが沈み込む音がする。
今日はナギサから「重要な通知がある」ということで呼び出されていたのだ。
お茶会の誘いだろうか、とセイアはリラックスした様子でナギサを見る。
ナギサはデスクの上に積まれた書類の束から、事前に用意していた一枚の紙を静かに引き抜いた。
そして、それをセイアの前のローテーブルへと滑らせる。紙が木目を擦る、微かな音が鳴った。
「それは何だい?」
「あなたの、今年度の出席記録です」
セイアの視線が、紙面に印刷された無機質な数字の羅列に向けられる。
数秒間、彼女の視線がその数字の上で止まり――そして、限界まで見開かれた。
「長期の病欠により、出席日数が規定に達していません。このままでは、三年生での留年という不名誉な経歴が残ってしまいます」
ナギサが、ティーカップから漂う紅茶の香りを楽しみながら、涼しい顔で事実を告げる。
「ですので、ティーパーティーの権限で特別な措置を取らせていただきました。
三年生への進級自体を白紙に戻し、あなたを二年生に戻す手続きを済ませておきました。
将来の進路を考えれば、来年もう一度三年生をやり直す方が圧倒的に有利ですから」
「……は?」
「つまりセイアさん、あなたは今現在、二年生です」
ピンと立っていたセイアのキツネ耳が、パタリと力なく垂れ下がる。
半開きになった口からは声も出ず、視線だけがギギギと機械のようにナギサの顔へと向けられた。
ナギサは、右手の指先で口元を上品に隠す。
「ふふっ……」
ナギサの肩が小さく揺れる。
「実質的な留年、ということです。……来年こそは無事に進級して、ティーパーティーのホストの交代をお願いしますね、セイアさん」
絶望的な紙面を見つめたまま、セイアは魂が抜けたようにソファの背もたれに深く体を沈めた。
ミレニアムサイエンススクール、セミナー執務室
室内に設置された複数の大型モニターが、青白い光を放っている。
サーバーの駆動音が低く響き、乾燥した空気が循環していた。
早瀬ユウカが、黒いオフィスチェアに深く腰掛けている。
紺色のブレザーの袖が、木製のデスクの天板と擦れる。
彼女は右手でマウスを操作し、左手の指先で自身のこめかみを強く揉みほぐしていた。
ユウカの斜め後ろに、生塩ノアが立つ。
白い服の襟元とプリーツスカートが、彼女の動作に合わせて微かに揺れる。
ノアは、手元のタブレット端末の画面を指の腹で下から上へとスワイプした。
「……今年四半期の設備投資費、および架空のダミー会社を経由した資金の流れ。そして推定されるリオ会長所有の口座への送金履歴、およそ九割まで特定が完了しました、ユウカちゃん」
柔らかく、しかし確かな労いを込めた静かな声が室内に響く。
ユウカはマウスから手を離し、モニターの文字列を見上げた。
「ありがとう、ノア。これで、会長がどこにどれだけの資金を流用したのか、全貌が掴めるわ」
突然、ユウカの眉間に深いシワが寄る。
彼女は無言でデスクの引き出しを開け、アルミ包装の胃腸薬を取り出した。
そして指先で端を破り、白い粉末を舌の上に落とす。
特有の苦味と粉っぽさが、口腔内の水分を瞬時に奪った。
彼女は傍らのペットボトルを掴み、生温かい水を流し込む。
大きく喉を上下させて一気に嚥下した。プラスチックの容器が、ペコッと凹む音が鳴る。
――ようやくだ。ようやくこの粉末ともお別れする日が近づいている。
自動ドアのモーター音が鳴り、室内の空気が動く。
各務チヒロが、緑色のジャンパーのポケットに両手を入れたまま、執務室に入ってきた。
「お疲れ様、ユウカ。ノア」
ジャンパーのポケットから両手を出さず、足音だけを響かせてユウカのデスクの前に立つ。
チヒロは右手をポケットから出し、銀色のUSBメモリを天板に置いた。
金属と木がぶつかる、小さな音が鳴る。
「エンジニア部のマッスルシリンダー特許による莫大な収益。その資金洗浄の追跡プロトコル、こっちも仕上げておいたわ」
「……助かります、チヒロ先輩」
ユウカがUSBメモリを手に取る。親指で冷たい金属の表面をなぞり、深くため息をついた。
「それにしても……呆れました。会長が横領した資金の行き先の一部が、ダミー会社を経由した“マッスルシリンダーの今年度生産分、全ロット買い占め”だなんて。
ねえ、ダメ元で聞くけれど……エンジニア部からの引き渡しをセミナーの権限で拒否することはできないの? あるいは、受け渡し現場を特定して、こちらで差し押さえるとか」
ノアがタブレットを抱えたまま、困ったように静かに首を振る。
「残念ですが、それは難しいかと。相手はダミーとはいえ、ミレニアムの外部にある法的にクリーンな企業として登録されています。代金も正規に支払われている以上、セミナーが一方的に“契約”を反故にすれば、ミレニアム全体の信用問題に関わってしまいます」
チヒロもそれに同意するように頷いた。
「ええ。それに、受け渡しのロジスティクスも完全に暗号化された無人ドローンの物流網を使っているわ。現場に踏み込もうにも、物理的な尻尾を掴ませる気は毛頭ないみたいね。
マッチポンプで資金を洗浄しつつ、未知の技術を完全に独占する……いかにもあの会長が考えそうなことよ」
ユウカは苛立たしげにデスクを軽く叩いた。
「なら、C&Cを投入して強行調査させるのは? 彼女たちなら無人ドローンの追跡から、ダミー会社のアジトを物理的に暴くことくらいできるはずよ」
「やめておいたほうがいいわ」
チヒロが即座に否定し、ノアも静かに同意を示した。
「ええ、私もチヒロ先輩と同意見です。もしここでC&Cを動かしてしまえば……」
「リオ会長の巨額横領の事実が全校生徒に発覚して、学園中が大混乱に陥るわ。それに、強硬手段で追い詰めた結果、あの会長が防衛のために何をしだすか想像もつかない」
ユウカは言葉に詰まり、ギリッと唇を噛み締めた。
実質的に手出しができない。完全に手詰まりだ。
「学園の予算を横領した挙句に、それを自校の特許技術による産物の買い占めに回す。結果としてセミナーには架空の売上が計上されて……これじゃあ、ただの大規模な粉飾決算じゃない!」
ユウカの悲痛な叫びに、ノアが再びタブレットをスワイプして補足する。
「さらに厄介なのが……買い占めに使われた莫大な資金の六割は、校有特許のロイヤリティとして、実際にセミナーの口座へ入金されてしまっている点です。
制度のルールに従ってその『見かけ上の収益』を各部活や設備投資へ還元した結果、皮肉にも学園全体がかつてないほど潤沢な状態になっているのですが……」
「……本題はここから」
チヒロは立ち止まったまま、視線を下に向け、ユウカの瞳を真っ直ぐに捉えた。
「エデン条約の件で他の二大学園がゴタゴタしている中、ウチは粉飾された特許収益も含めて、表向きはかつてないほど勢力を拡大してきた」
ユウカがUSBメモリを握る指の動きが止まる。
「行方不明の会長よりも、潤沢な予算を管理して実務を完璧に回しているユウカを推す声が、日増しに大きくなっている。ウチで学内ネットワークの動向を監視しているんだけど……」
ノアがタブレットを抱えるように持ち直し、ふふっと微かに微笑んで視線をユウカへと向ける。
チヒロは瞬きをせず、ユウカの顔を見据え続けた。
「ここ最近、姿を見せないリオ会長を見限ってトップの座から引きずり降ろそうという過激なコミュニティが、爆発的に拡大している。そして、代わりに実務を完璧に回しているユウカを新会長に据えるべきだと、いくつかの有力な部活動の部長たちも公然と支持を表明しだした……このクーデターじみた熱狂のスピード、よく考えてね」
ユウカの肩が、ビクッと大きく跳ねた。
本人は行方不明のトップが残した横領の尻拭いや、粉飾決算という爆弾を抱えて水面下で綱渡りをしているというのに、事情を知らない周囲からは「ミレニアムを急成長させた立役者」として祭り上げられようとしているのだ。あまりにも皮肉で、逃げ場のない重圧だった。
彼女は両手で自身の顔を覆い、デスクの上に突っ伏す。
紺色のブレザーの背中が、浅い呼吸に合わせて細かく上下した。
「……胃が痛い……っ」
せめてもの慰めは、最大の頭痛の種であった黒崎コユキが、シャーレでタグ達に可愛がられ、大人しくしていることだろう。
しかし、皮肉なことに『そのおかげで業務が捗り、過去の不審な資金流用を追跡する時間ができてしまった』ことが、今回の特大の爆弾を引き当てる要因となったのだ。
ユウカにとってはあまりにも理不尽な試練だった。
彼女のくぐもった恨み節は、デスクの天板に吸い込まれて消えた。
ノアは困ったように眉をハの字に下げ、チヒロはジャンパーのポケットに両手を入れたまま、胃痛に苛まれるユウカの後頭部を無言で見下ろしていた。
ゲヘナ学園、風紀委員会執務室
開け放たれた窓から、生温かい風と遠くの爆発音が入り込んでくる。
室内には、紙が擦れる音と、ペン先が走る規則的な音だけが響いていた。
天雨アコが、数枚のプリントが束ねられたバインダーをデスクの上に置いた。
プラスチックのバインダーが木製の天板に当たる、硬い音が鳴る。
「……委員長。今日の決裁書類、これで全部です。万魔殿からの緊急の呼び出しも、理不尽な始末書の要求もありません」
アコはバインダーから手を離し、信じられないものを見るように瞬きを繰り返した。
火宮チナツが、金属製のキャビネットの引き出しを閉めてアコの隣に立つ。
彼女は手元のタブレット端末の画面をスワイプした。
「あのマコト議長が、エデン条約のゴタゴタからこっち、ずっとおとなしいままなんて……。
余計な横槍がないだけで、仕事がこんなに早く終わるんですね」
チナツがタブレットの画面をスクロールする指を止め、執務室の主の方へと視線を向ける。
デスクの奥で、空崎ヒナが顔を上げる。
彼女の頭上に浮かぶ巨大なヘイローが、安定した周期で明滅している。
「……そうね。私も、今日提出された書類にすべて目を通し終えたわ」
黒いコートの袖をわずかに動かし、万年筆をペン立てに戻した。深く息を吸い込む彼女の横顔に、かつてのような黒いクマはない。
椅子の背もたれに体を預ける――こめかみを締め付けるような鈍痛は消え、視界の隅でチカチカと点滅していたノイズもない。書類の小さな文字が、はっきりと読み取れた。
ヒナは、デスクの上に置かれたマグカップを手に取る。
中に入っているのは、胃を荒らすカフェインの塊ではなく、温かいカモミールティーだ。
ハーブの香りが、鼻腔を抜けていく。
「……昨夜は、日付が変わる前にベッドに入れた。途中でスマホのアラームに起こされることもなく、朝の光で目が覚めたわ」
ヒナはマグカップに口をつけ、温かい液体を喉に流し込む。
「睡眠を阻害されないということが、これほど体に影響するなんてね。……体が、とても軽い」
アコとチナツが、目を丸くしてヒナの顔を見つめている。
ヒナはマグカップを両手で包み込むように持ち、カップの表面の温もりを手のひらで確かめた。
(……あの二人の大人が、私が一人で背負うはずだった重圧を、見えないところで肩代わりしてくれているから)
これまで張り詰めていたヒナの小さな肩から、ふっと力が抜けていく。
彼女は小さく息を吐き、カップを見つめたまま、確かな安堵の微笑みを浮かべた。
「……悪くないわね。たまにはこういう午後も」
防衛室の執務机を、冷たい蛍光灯の光が均等に照らしている。
静かな空調の駆動音だけが響く中、不知火カヤの細い指がタブレットのガラス画面をスワイプした。
画面には、D.U.の市街地で横転したトラックを持ち上げる緑の騎兵の映像や、倒壊した古聖堂で戦闘を繰り広げる騎兵の航空写真、そして赤い耐圧服を着た小柄な男が貧民街で負傷した生徒を抱え上げる防犯カメラの切り抜きが、次々と表示されては消えていく。
――そのすべての映像において、男の顔は巧妙な死角やヘルメットに隠され、判別できるものは何一つない。
だが、画面を見つめるカヤのヤギのように横に細長い異質な瞳孔はそんなことには頓着せず、ただ男の生み出した“結果”だけを冷ややかに反射していた。
「……本当に、理解できませんね」
静寂の室内に冷たい声を落とす。微かに上がった口角から、白く細い歯が覗いた。
「単機で一部隊を蹂躙するほどの圧倒的な『暴力』と『合理性』を持った大人が、なぜあのような無駄で非効率な真似を?」
爪の先が、画面上の緑の騎兵をコツ、コツ、と一定のリズムで叩く。
「それほどの力を持ちながら、やっていることと言えばシャーレの手足となって泥水をすするだけ……宝の持ち腐れにも程があります」
画面を叩く指がピタリと止まる。
彼女の瞳孔が、画面の奥にいるはずの『先生』と『兵士』という二人の大人の姿を射抜くように収縮した。
「シャーレが強大な武力を手に入れたこと自体は、防衛室としても看過できない事実。……ですが、あのような志の低い使い方しかできないのであれば、やがて自らの手で首を絞めることになるでしょうね」
カヤはタブレットの画面をデスクの天板に伏せ、プラスチックがぶつかる硬い音を響かせる。
陶器のカップを手に取り、冷めきった黒い液体を無造作に喉へ流し込んだ。
舌に張り付く泥のような苦味を、細い喉仏を上下させて飲み下す。
口元からカップを離し、ソーサーに戻す。カチャリと冷たい陶器の音が鳴った。
彼女は革張りの椅子からゆっくりと立ち上がり、防衛室の巨大なガラス窓へと歩み寄る。
眼下に広がるD.U.の街並みと、その中心にそびえ立つサンクトゥムタワーを真っ直ぐに見据えた。
視線が、タワーの頂上、かつて唯一無二の『超人』が座していた、今は誰もいない玉座へと吸い寄せられる。
「……彼女が去ってから、キヴォトスは醜い混沌に満ち溢れている。……リンたちのような『凡人』が、その遺志を受け継ぐなどとおこがましい」
白く細い指先が、窓ガラスに触れる。タワーの影を、恋人をなぞるかのようにゆっくりと滑らせた。
「必要なのは、すべてを支配して導くことのできる完璧な秩序。……彼女と同じ景色を見、同じ高みへ到達できる者だけ」
窓ガラスに反射するカヤ自身の顔は、熱に浮かされたような暗い瞳と、冷ややかに歪んだ笑みを同時に浮かべている。
カヤの指がガラスに強く押し付けられ、その向こう側に広がる街を、そして圧倒的な暴力の持ち主たちを掌の中に収めるかのように、ゆっくりと強く握り込まれた。
「その“暴力”……やがて来る、私による完全な統治のために、正しく機能させて差し上げます」
静まり返った防衛室の空間に、彼女のひび割れたような低い囁きが吸い込まれていった。
牙を剥く若き兎達、その真価を問う非情なる遊戯
課せられた使命はただ一つ、最重要目標への到達
だが標的たる大人を護るは、深淵を生き抜いた暗殺者たちと無双の天使
試されるのは誇りか、それとも結束か
兵士の視線の先で、血を流さぬ戦争が幕を開ける
次回「猟犬」