装甲騎兵ボトムズ -蒼の記録-   作:ジミーボーイ

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残滓

ミレニアムサイエンススクール、セミナー執務室

 

 

冷たく乾燥した空調の風が、セミナー執務室の分厚いカーペットを撫で、埃ひとつないデスクの上を通り抜けていく。

規則的なキーボードの打鍵音と、積み上げられた書類が微かに擦れるカサカサという乾いた音が、この部屋を支配する「秩序」の音だった。

 

タグの硬い軍靴の音が、静寂を切り裂くように響く。デスクの奥、防壁のように高く積まれたファイルの後ろから、黒崎コユキがぴょこりと顔を出した。その手にはタブレットが握られている。

RABBIT小隊の試験を終わらせたタグは、その足でコユキの迎えに来たのだ。

 

「オジサン、 お迎えですか!? 私、ちょうどこの退屈極まりない、脳細胞が死滅しそうな作業を――」

 

「コユキ」

 

しゃがれた、しかし鼓膜を直接震わせるような重い声。死んだ魚の目と例えられるタグの視線が、コユキのタブレットと、その横に積まれた山のような未処理のファイルに向けられた。

 

「げっ……い、いや、これはその、休憩中の脳内リフレッシュと言いますか……」

 

コユキの肩が目に見えて跳ね、視線が左右に激しく泳ぐ。タブレットを背中に隠そうとするが、タグの無言の圧力がそれを許さない。コユキの頬が引きつり、額に脂汗が浮かぶ。

 

「……うぅ……わかりましたよぅ、ちゃんと終わらせてから帰りますぅ……」

 

コユキが涙目で再びデスクに向き直り作業に戻る。そしてタグは視線を横へ移した。

隣のデスクでは、早瀬ユウカがこめかみを指で強く揉みほぐしている。漂ってくる微かなインクの匂いと、彼女が纏う柑橘系の香水が混ざり合い、この場の疲労感を際立たせていた。

 

ユウカが顔を上げ、タグの鉄面皮を真っ直ぐに見据える。

 

「久しぶりだ、ユウカ。コユキを迎えに来たが、まだ終わらせていなかったようだな」

 

「お久しぶりです、タグさん。……実はコユキ、自分の分は終わらせていて……今やってもらっているのは、私の分なんです」

 

タグの視線が、コユキのデスクに積まれたファイルに突き刺さる。そのファイルの表紙には、ユウカの判印が押されていた。

 

「……自分の割り当て分はすぐ終わっちゃったんですよ。だから、オジサンを待つ間にユウカ先輩の分も終わらせようかなって。……でも、全然終わらなくて……」

 

コユキの語尾が、普段の甲高い響きを完全に失って小さく沈む。

彼女の視線がタグの鉄面皮から外れ、隣のデスクで青白い顔をしてこめかみを揉むユウカの横顔へと一瞬だけ向けられ、また気まずそうに伏せられた。

タブレットを胸に抱え込む彼女の指先が、小さく丸まっている。

 

タグはコユキのその僅かな視線の動きと、ユウカの疲労が濃く浮かび上がっている表情を、視線で拾い上げた。

 

「……なら待とう。何か手伝えるか?」

 

タグの声に、ユウカが再び顔を上げる。

 

「でしたら、常温水を出してもらっていいですか? そこのラックにあります。よければタグさんもお好きなのを飲んでください」

 

「私、炭酸だったら何でもいいですよ!」

 

タグは無言で歩き、ラックから室温のミネラルウォーターを、その横の小型冷蔵庫からよく冷えた炭酸飲料の缶を二つ取り出す。それぞれのデスクに無造作に置いた。

 

ユウカは引き出しから胃腸薬の銀包を取り出すと、慣れた手つきで端を切り裂き、粉末を直接口の中へ放り込んだ。用意してもらったミネラルウォーターで一息に流し込み、硬く目を閉じる。

コユキのタイピング音がピタリと止まり、彼女の視線がユウカの喉元へと固定された。コユキの未開封の炭酸飲料の缶には、結露した水滴だけが溜まっていった。

 

タグは客用のソファーに腰を下ろすと、自身の缶を開け、炭酸をゆっくりと喉に流し込んだ。

 

 

 

タグが執務室に入室して一時間ほどが経過した。

 

執務室内の空気は澱み、疲労の熱に蒸された香水の匂いが重く沈んでいる。エアコンディショナーが音を立てて空気を循環・清浄化させる。

 

タグは微動だにせず、片手に持った自前のタブレットの画面を無音でスワイプし続けていた。

液晶画面にはキヴォトスの社会学や、各自治区の風俗・文化のデータファイルが表示され、次々とスクロールされていく。

――今後の廃校巡回は自治区をまたいだ活動となる。となればその自治区独特の法律はかならず押さえるべき要点であった。

 

本来、この時間はコユキにとって苦痛そのものであるはずだった。数分もすれば彼女の膝はガタガタと跳ね、視線は天井の吸気口やデスクの角を無意味に彷徨い、指先は宙を舞っていたはずだ。

だが今、彼女の背中はタグの胸板……厚い耐圧服越しに伝わる、内燃機関のような一定の鼓動と完全に同調している。

 

彼女はタグの強靭な大腿筋の上に、我が物顔で座り込んでいる。彼女の細い体が、タグの体温と、彼の衣服に染み付いた微かな硝煙、そして代替PR液の薬品臭が混ざり合った“異質の匂い”に包まれていた。

 

コユキのタイピング音は、かつてないほど規則的で、高速だった。タグの膝という圧倒的かつ物理的な不動に身を委ねることで、彼女の演算は指先にのみ収束している。

 

タグの膝の関節が、コユキの僅かな体重移動に合わせて、古びた機械のように「ギチリ」と軋む音を立てる。その振動すらも、コユキにとってはリズムを刻むメトロノームとなっていた。

 

 

そして――。

 

コユキがタブレットの上で最後のキーを弾き、大きく背伸びをした。

 

「受け持ち分終わりましたよ、ユウカ先輩!」

 

タグの膝上。そこに座り込んだままのコユキが、晴れやかな叫び声を上げた。

 

「……ありがとう、コユキ」

 

書類から顔を上げたユウカの動きが、一瞬だけ止まる。彼女の瞬きの回数が増え、張り詰めていた肩のラインが、僅かに、しかし確実に緩んだ。

 

「帰る前に一回トイレ行ってきますね!」と、コユキが脱兎のごとく執務室を飛び出していく。

バタン、と重いドアが閉まる音が響き、残されたのは部屋の主であるユウカ、そしてタグだ。

 

静けさを取り戻した室内で、ユウカが小さく息を吐き、デスクの上のミネラルウォーターを一口含んで乾いた喉を潤す。

 

「……すみません、タグさん」

 

ユウカの声には、身内の無作法に対する申し訳なさが滲んでいた。

 

「あの子、タグさんの膝を椅子代わりにしたり、勝手に背中を預けたりして……邪魔じゃありませんか?」

 

タグは客用ソファに深く腰掛けたまま、鉄面皮を崩さない。手元の戦術タブレットをスワイプする硬い指の動きも、一定のリズムを保ったままだ。

 

「構わん」

 

しゃがれた声が、淡々と室内に落ちる。

 

「ああさせておけば、コユキの演算速度が上がる。仕事が早まるなら、好きにさせておくのが一番だ」

 

タグにとって、自身の肉体が提供する「物理的な不動」がコユキの作業効率を最大化するパーツになるのなら、それは正しい選択だった。そこに「邪魔」という感情を差し挟む余地はない。

 

極めて合理的で、しかし結果的にコユキを完全に甘やかしているその返答に、ユウカは小さく苦笑を漏らした。彼女の肩から、さらに微かな力が抜ける。

 

「……近いうち、シャーレに“お願い”をすることになるかもしれません」

 

ユウカの指先が、デスクの上の重要書類をトントンと規則的に叩く。

 

「内容は、その時に。……今はまだ、調整中ですので」

 

タグは返答せず、ただ彼女の充血した目元と、デスクに置かれたセミナーの判印を視界に収めた。

 

「お待たせしましたー! 黒崎コユキ、完全復活です!」

 

廊下から響く元気な声と共に、コユキが勢いよく執務室に戻ってきた。

先ほどまでの疲弊した空気など霧散したかのような、弾むような足取り。彼女はソファから立ち上がったタグの横に並ぶと、当然のようにその上着の裾を軽く掴んだ。

 

「じゃあ、ユウカ先輩。お先に失礼しますね! あ、明日の朝礼には遅れないように頑張ります……たぶん!」

 

「『たぶん』は余計です。……タグさん、本当にありがとうございました。気をつけて」

 

タグは短く頷くと、足元にまとわりつくコユキを連れて歩き出した。

カツン、カツンと響くタグの硬い軍靴の音と、その横で跳ねるようなコユキの軽いスニーカーの音。背格好こそ同年代のそれであるが、無口で堂々としたタグの佇まいは、騒がしい妹を連れて帰る歳の離れた兄のような、奇妙に落ち着いた光景を廊下に残していった。

 

バタン、と再びドアが閉まり、執務室は完全な静寂に包まれる。

 

「……ふぅ」

 

一人残されたユウカは、背もたれに深く体を預け、大きく息を吐いた。

静まり返った部屋。先ほどまでそこにいた、PR液の薬品臭と炭酸飲料の甘い匂いの残滓。

 

ふと、ユウカの脳裏に、先ほどの光景が鮮明に蘇った。

タグの屈強な膝の上に、何の躊躇いもなく収まっていたコユキの姿。

 

「……」

 

数秒の沈黙の後、ユウカの白い頬が、夕焼けよりも急速に、鮮やかな朱色に染まっていく。

 

「……破廉恥。そう、破廉恥ですよ、あんなの……!」

 

誰に言うでもなく、ユウカは熱くなった顔を両手で覆った。

仕事の効率化だ何だと言っていたが、冷静に考えれば年頃の男女があのような密着状態で過ごすなど、セミナーの会計として、あるいは一人の乙女として、見過ごせるものではない。

 

だが、覆った手の内側で、ユウカの論理演算が別の方向へと走り出す。

 

『ああさせておけば、コユキの演算速度が上がる』

 

タグの、あの迷いのない言葉。

そして実際に、落ち着きという言葉をどこかに忘れたコユキが、かつてない集中力で一時間以上もデスクワークを完遂したという紛れもない事実。

 

ユウカの指が、隙間からデスクの上のタブレットを覗き見る。

溜まりに溜まった、明日の朝までに処理すべき膨大な計算データ。

 

「……もし、私も」

 

ぼそりと、独り言が漏れる。

もし、自分が先生に同じことをしてもらったとしたら。

先生のあの、少し頼りないけれど温かい体温に包まれ、その鼓動を背中に感じながら作業をしたならば。

 

「……私の演算能力なら、今の120%、いえ、理論上は150%以上の効率向上が見込めるのでは……?」

 

一度「合理的」という結論が導き出されれば、彼女の行動は迅速だった。恥じらいによるブレーキを、数字という名のアクセルが踏み潰していく。

 

ユウカは真っ赤な顔のまま、震える指で端末を操作した。

モモトークの画面を開き、特定の相手――先生へのチャット欄に入力する。

 

『先生、お疲れ様です。……今から少しだけ、お時間をいただけますか? 至急「相談」したいことがありまして』

 

送信ボタンを押す指に、微かに力がこもる。

 

――セミナーの会計としての職務を全うするため。決して、自分も甘えたいなどという不純な動機ではない。

 

ユウカは自分にそう言い聞かせると、高鳴る鼓動を鎮めるように、飲みかけの常温水を一気に飲み干した。

 

 

 

――ミレニアム自治区での試験から、数日が経過したある日

 

大型輸送トラックの運転席で、タグは独り、照りつける陽射しに焼かれたアビドス砂漠のハイウェイを突き進んでいた。

エンジンの重い鼓動が、トラックの骨組みを伝ってタグの背中に響く。窓の外では、陽炎がアスファルトを歪め、死の世界のような静寂が広がっている。

 

ダッシュボードに固定された端末が、電子音を鳴らした。

スピーカー通話に切り替えると、ノイズと共にコユキの、どこか疲れ切ったような声が響き渡った。

 

『あ、もしもしオジサン? 今いいですか? ちょっと聞いてくださいよ、もう限界なんですってば!』

 

タグは前方の地平線を見据えたまま、短く「どうした」とだけ返す。

 

『ユウカ先輩ですよ! 最近、挙動がおかしいんです! 仕事の効率は普段もすごいですけど、今はそれ以上にすごいんです!生徒の皆は「会計の鑑だ」「次期会長候補間違いなし」なんて言ってますけど……。急に顔を真っ赤にしてフリーズしたり、誰もいない廊下で「破廉恥でした! でも合理的です!」とかブツブツ言いながらダッシュしてたりするんですよ。これ、完全にバグってますよね!?』

 

「……仕事に支障がないのであれば、問題はないだろう。……おそらく、効率化の代償だ」

 

『代償? 何の?』

 

「RABBIT小隊性能試験の日の夜だ」

 

タグの声は、戦場での損害報告と同じくらい冷淡で、起伏がない。

 

「ユウカが先生に密着し、その膝に乗って作業を行っているのを見た。お前が俺の膝でやったことと同じだ。合理的かつ、物理的に安定した環境での演算……。彼女なりに、お前のやり方を分析して取り入れたのだろう。賢明な判断だ」

 

スピーカーの向こう側で、椅子がひっくり返ったような大きな音が鳴った。数秒の空白。コユキの、ひきつったような声が続く。

 

『……は? え、見たんですか? いや見たのもそうですけど、なんでそんなことに!?』

 

「終業後に執務室の明かりが消えていないから、不審に思ったからだ。すると先生にコーヒーを頼まれてな。俺は二人分のコーヒーを用意するために一度執務室を出た。コーヒーを用意して戻ると、今度は先生とユウカは隣り合って座っていた。何が起きたかは知らないが、ユウカの作業速度はまったく変わっていなかった。あの集中力の発露は真似をしたいほどだったな」

 

タグにとって、先生とユウカが執務室で密着しているという状況に、特に驚くような要素はなかった。

作業効率を最大化するための物理的な接触。そして、その継続を支援するための飲料提供。

そこに「情緒」や「恥じらい」という概念があるとはついぞ至らなかった。

 

『……オジサン、マジですか?』

 

コユキの声から、完全に血の気が引いていた。

 

『ミレニアムの冷酷な算術使いが、先生の膝の上で、計算してる所に……オジサン、平然とコーヒー置いてきたんですか? 空気を読まずに? 爆弾を抱えた不発弾処理班の横で、お茶出しするような真似を!?』

 

「何か問題でもあるのか?……とにかく、俺はコーヒーを置いて、そのまま退室した」

 

タグはわずかに眉を寄せた。コユキの過剰な反応の理由が、彼にはどうしても理解できない。

 

『さしもの私もドン引きですよ、それ……。オジサン、ある意味どんなテロリストより怖いですよ。ユウカ先輩、今度オジサンの顔見たら、恥ずかしさで爆発するんじゃないですかね……。あーもう、これだから軍人上がりは! 帰るのシャーレで待ってますから!』

 

ツツツー、という無機質な電子音と共に、一方的に通話が切断された。

タグは返答せず、ただアクセルをさらに踏み込む。

 

車内に残されたのは、機械の唸りと熱気だけ。

キヴォトスの少女が抱く繊細な感情の機微は、兵士には理解されず、これから向かう戦場の砂塵の中へ霧散していった。

 

 

大型輸送トラックが、アビドス高等学校へと続く砂まみれのアスファルトを進んでいる。

荷台には、トランプル・リガーを装着したスコープドッグ――通称バーグラリードッグが、ワイヤーに軋み音を上げさせながら固定されていた。

 

熱波で歪む景色の中、硬いハンドルを握るタグの鼓膜の奥で、通信越しに聞いた奥空アヤネの強張った声が蘇る。

 

『――発見されたのは、タグさんがキヴォトスで最初に現れた地点から遠くありません。全長はおよそ四十から五十メートル、直径七メートルほどの、巨大な黒い円柱状の物体です』

 

熱波がアスファルトを激しく揺らしている。

空圧式の重いブレーキ音が鳴り響き、トラックが停止した。巻き上がった分厚い砂埃の向こうに、薄く積もった砂が目立つ校舎と三人の人影が見える。

 

砂狼シロコの狼耳が、トラックのエンジン停止音にピクリと反応して前を向く。

小鳥遊ホシノは日傘を肩にかけ、だらりと首を傾げている。

 

「うへ〜、わざわざご苦労様〜、タグさん」

 

間延びした声。しかし、くだけた言葉とは裏腹にホシノの青と黄色の瞳は一切笑っていない。タグの一挙手一投足を射貫くように固定されている。

 

タグは無言で運転席のドアを開け、熱砂の上へと軍靴を下ろした。ザクッ、と乾いた音が足元で鳴る。

 

助手席からは誰も降りてこない。トラックの周囲にも後続の車両はない。

タグは、自分へ向けられた三人の視線を受け止めながら、低くしゃがれた声で口を開いた。

 

「……先生は来られない。シャーレの連中もだ」

 

熱風が、タグの言葉の語尾を攫っていく。

 

「俺以外、スケジュールが噛み合わなかった」

 

淡々と事実だけを告げる声。アヤネが胸に抱えていたタブレットを僅かに下げ、シロコが瞬きを一つする。

 

ホシノは「うへぇ、そうなんだ」と抑揚のない声で返す。しかし視線はトラックの荷台にある緑の騎兵を撫で、再びタグの鉄面皮へと戻る。

 

「ま、ATが来てくれただけでもありがたいよ。今回は火力が必要になるからね……。アヤネちゃん、例の画像を」

 

ホシノの促しに、アヤネがハッと息を呑む。

彼女は砂を蹴って小走りで近づくと、液晶タブレットをタグの胸元へと差し出した。

 

「遠隔ドローンで撮影した画像です。カイザーPMCの部隊がすでに周囲を取り囲んでいて……」

 

タグの視線が、液晶画面に映し出されたソレに落ちた。

 

――鈍く光る黒い外殻。

 

ドクン、とタグの胸郭の内側で、心臓が肋骨を打ち据えるほどの破裂音を立てた。

気管が収縮し、呼吸が止まる。首筋から背中にかけて、氷水のような冷汗が一瞬にして噴き出す。タブレットを受け取ったタグの手に汗が浮かぶ。

 

アヤネの肩がビクッと跳ね、ホシノの重心が僅かに低く沈み込んだ。

 

タグの濁った視界の中で、画面の物体とアヤネが告げた「最初に現れた地点」という音声記憶が激しく交錯する。

 

――サンサ、空間転移、フローター

 

脳髄を焼き切るような思考の連鎖が、数秒の間にタグの神経細胞を駆け巡った。

 

タグは目を閉じ、肺の底に溜まっていた熱い空気を、細く、長く吐き出した。

 

(……神の手の先、ではなかったか)

 

こわばっていた首の筋肉が弛緩し、タグの目蓋がゆっくりと開かれた。その瞳孔からは、先程までの死地を見るような切迫感は消え失せている。

冷汗をかいた首筋を風が撫でていく。タグの口の端が、僅かに、自嘲するように吊り上がった。

 

タブレットをアヤネに返すと、確信を込めて言い放つ。

 

「……俺の故郷、アストラギウス銀河にあった古代技術文明の遺物だ」

 

タグの声が、砂混じりの風に逆らうように響く。

ホシノの右目、黄色い瞳孔が僅かに収縮した。シロコは静かにアサルトライフルを構え直し、アヤネはタブレットの画面とタグの顔を交互に見比べる。

 

「カイザーPMCがアレの価値をどこまで理解しているかは知らん。だが、解析されれば厄介なことになる。破壊するべきだな」

 

「……破壊って言ってもねぇ。映像を見る限り、戦車の砲弾でも弾きそうな分厚い装甲だよ? おじさんたちの火器じゃ、傷ひとつ付かないんじゃないかな〜?」

 

「外から叩く必要はない。内側から吹き飛ばす」

 

タグは淡々と告げた。

 

「あの遺物には、自爆装置がある。軍の調査で構造は割れている……特定の周波数と物理的な干渉を与えれば、容易に起爆させられるようになっている。

向こうの軍では、障害物排除のためにわざとアレの自爆機能を利用することさえある」

 

微かな砂嵐の音が、両者の間を通り抜ける。

タグの呼吸は一定だ。視線の揺らぎも、声帯の微細な震えも無い。完璧に訓練された兵士の報告だった。

 

ホシノは薄く口角を上げた。

 

「……そっか。向こうの軍隊じゃ“普通”なんだねぇ。便利な機能があって助かるよ、ホント」

 

ホシノの声には、棘はない。しかし、タグに向けられた視線の圧力は、先程よりも明らかに重みを増していた。タグの言葉を咀嚼するように数秒だけ沈黙――ふいと視線を外した。

彼女はタグの言葉の半分を信じ、半分を“今の時点では問いたださない”と決めた。

 

「ん。なら、作戦は決まり」

 

静寂を破ったのは、シロコだった。狼耳がピンと立ちあがる。

 

「カイザーの部隊を強襲して、タグがソレを起爆させる。簡単な仕事」

 

「ちょ、ちょっとシロコ先輩!? カイザーPMCの数は一部隊や二部隊じゃありませんよ!?」

 

アヤネの悲鳴のような声が響く中、タグは背後の運搬トラックを親指で指し示した。

 

「そのためのATだ。……相手に時間を与えたくない、シロコの言う通りすぐにでも強襲を仕掛けるべきだ」

 

ホシノが首をだらりと傾げ、困ったように眉を下げた。

 

「タグさんがそう言うなら、腹を括るしかないかぁ。対策委員会もフルメンバーで行きたいところだけど……ほら、うちは絶賛人手不足でねぇ」

 

ホシノの視線の先には、今現在校舎の防衛を担っているノノミとセリカの姿はない。目の前にいるのは、実戦担当のシロコと、後方担当のアヤネのみだ。

 

シロコが砂を噛むような足取りでトラックに近づいた。彼女の狼耳が、ワイヤーで固定された緑色の鉄塊に向かってピクリと動く。

 

「……前と、姿が違う。少し、太った?」

 

「太ったというのは脚部のことか。砂漠でも機敏に動けるようにローラーを増やし、接地圧を減らす装備だ。軍ではバーグラリードッグと呼んでいる」

 

“バーグラリー”という単語が耳に飛び込んできた瞬間、アヤネの顔から血の気が引いた。

 

アヤネはすかさずタグに近づくと、小声ながらも切迫した様子で尋ねる。

 

「バ、バーグラリー……タグさん、それって直訳すると……『強盗』ですよね?」

 

「ああ。何か問題でもあるのか?」

 

タグはアヤネがなぜ慌てているのかを全く理解していない様子で、無造作にそう言い放った。

 

 

バーグラリードッグ――その類まれな不整地走破性、特異なまでの強襲・奇襲能力は、既存の戦術ドクトリンを過去のものへと追いやるほどの過剰性能であった。

本機を運用するギルガメス軍上層部が危惧したのは、制式採用に伴う技術の平準化、および量産による機密の希釈である。

これほどの戦略的優位性を有する機体が正規軍の装備表に名を連ねれば、敵対勢力への技術流出、あるいは模倣機の拡散は避けられず、

ひいては現行の軍事均衡を根底から瓦解させる致命的な火種となり得ると判断されたのだ。

それゆえ本機は正規採用を許されなかった。しかし間違いなく名機と呼べるATである。

 

 

「……シロコ先輩が銀行強盗に持ち出そうなんて言い出しますから、それ以上は黙っていてください……」

 

しかし、アヤネにとっては“強盗犬”というネーミングが、親しい先輩が抱える悪癖を刺激しかねない事実のほうが重要だった。

 

「……強そうな名前」

 

シロコは英語に疎いのか、あるいは単純にその語感の響きだけを受け取ったのか、特に動揺することもなくバーグラリードッグの装甲をぺたぺたと触っている。

「アヤネちゃんが慌てるってことは、よっぽど悪い名前なんだねぇ……。ま、カイザーなんかに噛みつくならそれくらいのインパクトは欲しいね」

 

ホシノが苦笑交じりに場を収める。

 

アヤネは小さく咳払いをし、砂塵からタブレットの画面を庇うように胸元へ抱き直した。

 

「……こほん。とにかく、強襲を仕掛けるのでしたら、ヘリボーン作戦を提案します。対策委員会には備品としてヘリが一機あります。これを使えば、目標地点へ最短・最速で到達できます」

 

「ヘリボーンは賛成だ」

 

タグは即答した。しかし、彼の視線はアヤネのタブレット越しに、遠く見えないカイザーの包囲陣へと向けられていた。

 

「だが、何の名目も無しに武力攻撃を仕掛けるのは、お前たち対策委員会や、後ろ盾であるシャーレにとって政治的な不都合が生じる。だからアリバイを作る」

 

「アリバイ?」

 

シロコが狼耳をわずかに傾ける。

 

「あのフローターの正体を、カイザーPMCの指揮官に通信で伝えるんだ。そして、こう付け加えろ。『あの遺物はすでに自爆タイマーが起動している』とな」

 

熱風が、タグの低い声を運んでいく。三人の少女は無言のまま、タグの鉄面皮を見つめた。

 

「あの遺物の正体を知っている俺ならば、自爆スイッチを解除することができる。そのための時間を稼ぐため、カイザーPMCはフローター周辺から一時撤退しろと、シャーレの名を使って提案する」

 

淡々と語られる盤外戦術。キヴォトスの政治的均衡や手続きの煩雑さを、暴力の前の「ただの免罪符」として使い捨てるという思考。

 

「……相手の指揮官は、どう思うかな?」

 

タグの問いかけに、ホシノはだらりと下げていた首をゆっくりと起こした。オッドアイの瞳が、面白がるような、しかし微かに背筋を冷やすような光を帯びて細められる。

 

「……タグさん、悪辣。絶対、連中『嘘だ』って言って断るでしょ。自分たちのお宝を独り占めするためのブラフだって」

 

「そうだ」

 

タグは短く肯定した。

 

「相手がシャーレの警告を無視し、妨害行動に出た。俺たちは『致命的な自爆を阻止するため』に、連中を合法的に攻撃し、強行突破することができるわけだ。事後の責任は、すべて警告を無視したカイザー側が負うことになる」

 

非の打ち所のない、最悪の論理だった。砂漠の風音が、やけに大きく響く。

 

「……あの、タグさん」

 

アヤネが、恐る恐るというように口を開いた。タブレットを抱える彼女の指先が、微かに震えている。

 

「もし、万が一……相手が警告を信じて、素直に撤退を受け入れたら、どうするんですか?」

 

「簡単なことだ」

 

タグはバーグラリードッグの冷たい装甲に手を置いたまま、表情筋を一切動かさずに言い放った。

 

「自爆コードを入力させてもらう。そしてカイザーには自爆解除は出来なかったと答えるだけだ」

 

「……ッ」

 

アヤネの喉から、声にならない短い息が漏れた。

彼女は無意識のうちに、タグから半歩だけ後退っていた。目的のためならば、真実を捏造し、嘘を真実に変えることすら躊躇わないという行動。背筋を這うような寒気を覚えたのだ。

 

「ん。合理的」

 

シロコだけが、コクリと頷いて同意した。

 

「……大人は怖いってこと、改めて思い出したよ。とはいえ、今日はその怖さのおかげで上手くいきそう」

 

ホシノがやれやれと首を振る。

 

「アヤネ、ヘリの手配を頼む。カイザーには俺から連絡を入れる」

 

タグはアヤネの怯えを意には介さなかった。

 

 

 

砂漠の沈黙を切り裂き、やがて対策委員会所有のヘリ――『雨雲号』の重いローター音が接近してくる。空からの強襲のカウントダウンが、静かに時を刻み始めた。

 

 

開け放たれたスライドドアの縁に、シロコとホシノが身を乗り出していた。強風がシロコの狼耳を伏せさせ、ホシノの制服の裾を激しくバタつかせる。

 

眼下には、巨大な黒い円柱――フローターを包囲するように展開したカイザーPMCの陣地。

歩兵たちが上空のヘリの接近に気づき、慌ただしく銃口を向けようとした、その時だった。

 

ホシノが風に目を細めながら、ヘリの後を追う一機の騎兵を視界に収める。

砂の海を二つに割るように、砂塵の尾を引きながら緑の騎兵が猛烈な速度で突進してくる。

 

トランプル・リガーを展開したバーグラリードッグだ。

 

時速八十キロを超える速度を維持してローラーダッシュを行っている。

マッスルシリンダーが軋みを上げ、雪駄のようなアタッチメントが激しく砂を弾き飛ばす暴力的な駆動音が、ヘリのローター音すらも掻き消さんばかりに戦場へ轟いた。

トランプル・リガーは、本来なら機体の自重で無様に沈み込むはずの流砂を強引に面で捉え、無理やり「滑走路」へと変えている。

補助履帯が、流動する砂を猛烈な勢いで削り取り、後方へと砂を巻き上げる。

 

「出たぞ! シャーレのATだ!!」

 

陣地のバリケード越しに、PMCの歩兵の一人が恐慌の混じった金切り声を上げる。

 

「慌てるな! 各員、対AT陣形! 仮想訓練通りに足を狙え! 対装甲ロケット、前へ!」

 

カイザーPMCの兵士・傭兵たちの反応は、以前ATによって蹴散らされた有象無象のそれとは明らかに違っていた。

すでに裏社会でも『緑の騎兵』の悪名は広く知れ渡っている。

 

指揮官の怒号と共に陣形が瞬時に再構築され、数名の兵士が肩撃ち式の対装甲火器を構えた。装甲車両の砲塔も、空のヘリではなく、最大の脅威である地上のバーグラリードッグへと一斉に指向される。

 

空と地上。二方向からの急襲に対し、PMC側は迎撃の構えを完了させた。

分厚い弾幕の壁が、タグの操るATを串刺しにしようと待ち構えている。

 

 

先手は陣地構築済みのカイザーPMC。

まず陣地から数発のミサイルが放たれる――歩兵用対空ミサイル、スティンガーだ。

 

「フレア発射!」

 

被ロックオン警告音が鳴り響くコックピットで、冷静にアンチミサイルシステムの一つ、熱源デコイであるフレアを撒く。

しかしミサイルは惑わされず、進行ルートを変えない。

ミサイルが雨雲号への直撃コースに入ったその時、地上と空中両方から火線が伸びる。

 

地上からはバーグラリードッグのヘヴィマシンガン、ヘリからはホシノとシロコが手持ち火器でミサイルを狙い撃ったのだ。

爆発が同時に複数起こる。その爆風が雨雲号を揺らすものの、ダメージには至らない。

 

「流石カイザー、MANPADSもいいやつ使ってるねぇ。後で捨てられたのを頂戴しよっか、シロコちゃん」

「賛成」

 

ミサイルを撃ち落としたホシノとシロコは、フレアが通じなかった理由がわかっていた。

どうやらあのスティンガーのミサイルは画像誘導型のようだ。フレアのような不自然な熱源体では追尾をごまかせないのだ。

 

『アヤネ、二人を降ろしたら下がっていい。あのミサイルには近接信管があると聞いた。乱戦になればそちらを守れる自信はない』

 

「わかりました。後はお願いします」

 

 

 

 

「いくよ、シロコちゃん!」

「了解」

 

高度十数メートル。ホシノとシロコがヘリのステップを蹴り、強風の吹き荒れる砂漠の空へと躊躇いなく身を投じた。

PMCが構築した陣地手前数十メートルの地点へと一直線に落下していく。

 

ドスッ、という鈍い着地音が砂漠に響く。

地面に降り立つや否や、砂漠の上とは思えない速度で疾走開始する二人。

 

「生徒は銃座の連中に任せろ、ATが最優先排除対象だ!」

 

金切り声を上げるPMC指揮官の気合に答えるかのように、複数の火線が生徒に襲いかかる。

 

しかし生徒二人は火線などまるで当たらないとばかりに距離を詰め続ける。

 

特に恐ろしいのはホシノだ。歩兵用シールドというデッドウェイトを抱えながらシロコを超えるスピードで陣地に駆け寄る。

 

右、左、右、とジグザグに移動し、火線集中を招かないように動く二人。

 

初手はホシノ――スラッグ弾による狙撃で、まず銃座の機銃を構える兵士を次々と狙い撃つ。

疾走状態からショットガンで狙撃するという難行を容易くこなすホシノの姿に複数の兵士が悲鳴を上げる。

 

「……!ショットガン構えてるチビ、ホルスだぞ!」

「騎兵にホルスまでいるのかよ!?」

 

PMCの陣地に明らかに動揺が浮かぶ。

 

「いいのかなぁ~、オジサンばかりに集中してて?」

 

ホシノに視線誘導をされた結果、次の脅威への対応が遅れる。

シロコのアサルトライフルが正確なリズムで音を刻む。

 

タン、タン、という乾いた発砲音。

 

音が鳴るたびに対装甲ロケットの照準器ごと、射手のヘルメットが正確に弾き飛ばされる。

シロコの狙いは対AT陣地だ。如何にATといえど対策を取られた陣地に正面から仕掛けるのは不利だ。僅かな時間でもいい、彼らを機能不全に追い込むことがシロコの目的だ

悲鳴が交錯し、周到に準備された対AT陣形の一角が、生徒二人の連携によってたちまち崩壊していく。

 

崩壊した陣形を蹂躙するために、今度は騎兵が突撃を仕掛けた。

バリケードをトランプル・リガーで踏み越えるバーグラリードッグ。その勢いを維持したまま、最大戦速で陣地奥深くへ切り込む

陣地内に現れた騎兵に、PMCの兵士達は恐慌状態に陥る。

周囲の味方もろとも撃つような愚か者がいないのは幸いであったが、それが仇となった。誰一人、ATに有効な火力を向けることが出来ないのだ。

 

バーグラリードッグのショルダーミサイルランチャー、ヘヴィマシンガン、腰部ガトリングガンが四方八方へと向けられて陣地内の全てを破壊し尽くそうとする。

停止中の歩兵輸送車にミサイルが突き刺さる――直後大破、爆音をとどろかせながら砂漠に火煙を一つ昇らせる。

ガトリングガンが甲高い音を伴って放たれるたびに、幾人ものPMC傭兵、そして数は少ないがヘイロー持ちの女兵士が銃弾を浴びて倒れる。

ヘヴィマシンガンのセレクターを連射モード――通称バルカンセレクターにする。

両手で構えたヘヴィマシンガンが、装填された120発の弾頭をわずか数秒で撃ち尽くす。その瞬間火力は幾多の装甲車両や支援車両を鉄屑に変えていく。

 

「退け! 装甲車がやられたぞ!!」

 

「悪魔だ、逃げろォッ!!」

 

歩兵の陣形は生徒に蹂躙され、頼みの綱の装甲火力は一瞬で鉄屑に変えられた。もはや彼らに戦意はなく、PMCの部隊は武器を放り出し、パニックを起こしながらバリケードを飛び越えて、陣地から撤退していく。

 

 

戦闘開始から、僅か数分。

硝煙が焦げる鼻を突く悪臭の中、蹂躙を終えたバーグラリードッグの駆動音が、アイドリングの低い唸りへと変わっていった。

 

 

バーグラリードッグが両膝を着いて、降着姿勢を取った。

コックピットハッチが跳ね上がる。タグが開放されたコクピットから身を乗り出した。

熱せられた機体を蹴ってアビドスの砂の上へ着地する。ザクッ、と重い軍靴が砂を凹ませた。

 

砂漠の熱気の向こう側。圧倒的な質量で横たわる漆黒の円柱、フローター。

本来であれば“とある巨大人工衛星”を守るように、無数とも思えるだけの数をもって浮遊する防衛兵器だ。

しかし、この防衛兵器には別の用途がある。

タグは無言のまま、周囲の光を吸い込むようなその外殻へと歩み寄る。

 

――懐かしさや郷愁心など一切湧かない。今あるのはこのフローターを一刻も早くキヴォトスから消し去ることだけだ。

 

砂を踏む足音だけが響く中、タグは黒い壁の前で立ち止まった。

分厚い耐圧服のグローブに包まれた右手が持ち上がる。彼は一切の躊躇いなく、装甲騎兵を操るためのその無骨な手の甲を、外殻の何もない一点へと叩きつけた。

 

ゴツン、と。

見た目の硬度に反して、中身が空洞であるかのような奇妙に鈍い音が鳴る。

 

直後、シュゥゥゥ……という微かな吸気音と共に、タグが叩いた部分の黒い装甲が沈み込み、鈍い緑色の蛍光を放つ幾何学的な操作パネルがせり出してきた。

 

背後で、砂を擦る小さな足音が鳴った。

 

「……へぇ。ずいぶんと『普通』な手際だねぇ、タグさん」

 

ホシノの声だ。間延びしたトーンの裏側に、研ぎ澄まされた刃のような冷たさが張り付いている。

タグは振り返らない。しかし背中越しに、彼女のオッドアイの瞳が自分を射抜いている気配を、皮膚の粟立ちとして感じ取っていた。

 

ホシノの視線は、タグの後頭部から、緑色の蛍光に照らされた彼の「手」へと固定されていた。

ATの操縦桿を握り、引き金を引くための、赤い耐圧服の分厚いグローブ。

それが、キヴォトスには存在しない文字が並ぶキーボードの上を、一切のミスタッチを許さず、息を吐くように自然な速度で滑っていく。

 

その光景は、ホシノの眼にはひどく異質に映った。

キヴォトスの常識からかけ離れた漆黒の遺物と、異邦の兵士が纏う無骨な耐圧服。

――まったく異なるはずの二つが、まるで最初から一つのシステムとして設計されていたかのような、おぞましい一体感。

 

タグは彼女たちの視線と沈黙を意に介さず、ただコンソールだけを見つめる。カチカチという硬質なスイッチの打鍵音だけが、砂漠の風の中に響き続けた。

緑色の蛍光が、タグの感情を排した鉄面皮と、その無骨なグローブを下から不気味に照らし出している。

 

シロコも周囲の警戒を続けながら、狼耳をせり出したパネルの方へと傾け、目を細めていた。

ただ彼女の心境には困惑が多分に含まれていた。

――ホシノはトリニティ総合学園で起きた事件にて、先生の指揮下でタグと共に強敵と戦っている。死線が見えるほどの激闘だとは聞かされている。

だというのにホシノは“信用できない大人”というフィルターをタグから外そうとはしなかった。

 

シロコはアサルトライフルを構えたまま、チラリとホシノの横顔を盗み見た。

普段の気の抜けた『おじさん』の仮面は影も形もなく、そこにあるのは過去のトラウマを呼び起こされたかのような、冷徹で痛々しいほどの警戒心だけだ。

 

(――もしかして)

 

シロコなりに、その理由の推測がつく。

ホシノ先輩は、タグが『裏切るかもしれない敵』だから疑っているわけではない。タグの強さも、先生への信頼も、アビドスへの恩義も、ホシノは頭では理解しているはずだ。

 

それでもフィルターを外せないのは、タグという存在の『在り方』そのものが恐ろしいからだ。

目的のためなら平然と嘘を吐き、自爆を偽装し、そして今、この得体の知れない遺物を慣れた手つきで操作していること。

その姿は、対策委員会を借金と悪意で追い詰めるカイザーの大人たちや、裏社会で暗躍する冷酷な者たちと同じ――いや、それ以上に徹底して感情を排除された『暴力と合理性のシステム』そのものに見える。

 

先生の側にいるうちは味方として機能しているが、彼の本質は決して自分たちのような『生徒』が生きる世界のものではない。

いつかその本質が、何か致命的なトリガーとなって、守りたい日常を根底から破壊してしまうのではないか。ホシノ先輩は無意識のうちにその可能性に怯え、あえて壁を作り続けているのだ。

 

「……」

 

シロコは小さく息を吐き、何かを振り払うように狼耳を揺らした。

先輩の危惧は理解できる。自分とアヤネも、初めて彼と会った時はホシノと同じ対応をしたのだ。それゆえに、ホシノに何かを言い出すことは出来なかった。

 

タグは彼女たちの視線と沈黙を意に介さず、ただコンソールだけを見つめる。カチカチという硬質なスイッチの打鍵音だけが、砂漠の風の中に響き続けた。

 

 

硬い指先が最後の入力を終える。調子外れのメロディじみた電子音が鳴り、パネルに無数の光のブロックが表示された。

しかしその光のブロックは時間が経つごとに消えていく。

タグはパネルから手を離し、インカムに指を当てる。

 

「アヤネ。PMCの連中に、『フローターの自爆解除に失敗した』と全周波数で連絡しろ」

 

通信の向こうで、上空の『雨雲号』にいるアヤネが小さく息を呑む音が聞こえた。タグの視線は、遠巻きにこちらを警戒し続けるPMCの残存歩兵たちを冷徹に撫でる。

 

「自爆に飲み込まれたくなければ可能な限り離れろとな。自爆タイマーは10分に設定した。……こちらも逃げるぞ」

 

『り、了解しました! 直ちにオープンチャンネルで警告を発信します!』

 

通信を切ると同時、タグは跳躍し、バーグラリードッグのコクピットへ身を滑り込ませた。

 

「乗れ、撤収するぞ」

 

しゃがれた声の号令。シロコは迷いなくバーグラリードッグの背中、ミッションパックにしがみつく。

対してホシノは光のブロックが消え続けるコンソールを僅かな間に凝視すると、諦めたかのように騎兵の左肩に飛び乗る。

 

キュィィィン!という甲高いローラー回転音と共に、トランプル・リガーが再び砂漠を蹴り飛ばした。

背後では、アヤネの警告を受信したPMCの兵士たちがタグに見逃された装甲車に群がり、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、そこかしこで土煙が上がっている。

戦意を喪失し、無様に逃走する彼らの背中を鞭打つ者は、もはや誰もいなかった。

 

 

 

アビドスの砂漠を、バーグラリードッグが猛烈な速度で駆け抜けていく。

トランプル・リガーが巻き上げる砂塵の尾は長く伸び、上空では『雨雲号』が最大出力で安全圏へと離脱を図っていた。

警告を受信したカイザーPMCの部隊も、装甲車に群がり、我先にと爆心地から遠ざかっていく。

 

 

「爆発までカウントスタート。10……」

 

操縦桿を握るタグの、しゃがれた声が響く。

 

読み上げる数が一つずつ減っていく。そして彼が0を宣言する。

装甲にしがみついていたシロコとホシノが、機体の凹凸に顔を押し当てた、その瞬間だった。

 

――カッ!!!

 

背後の砂漠の中心から、太陽が地上に落ちたかのような強烈な閃光が弾けた。

一切の音がない。網膜を白く焼き尽くす圧倒的な光の奔流が、アビドスの広大な砂の海を一瞬にして、網膜を焼くような極光へと染め上げる。

 

数秒の遅れを伴って、大気が千切れるような轟音が世界を殴りつけた。

直径七メートル、高さ五十メートルにも及ぶ未知の遺物が、その質量相応の莫大なエネルギーを解放したのだ。

物理的な大爆発。膨張する紅蓮の火球が、周囲に残されていたPMCのバリケードや放棄された車両を、消し炭すら残さずに飲み込んでいく。

 

そして、その凄まじい爆発の火球を突き破るように――。

一条の巨大な「光柱」が、真っ直ぐに天へと立ち昇った。煌々とした光の柱が、熱波で淀んだキヴォトスの空を貫き、雲を円形に吹き飛ばして宇宙へと伸びていく。

 

「ああっ!?距離があるのに!」

 

上空の『雨雲号』が、遅れて到達した爆風の壁に煽られ、アヤネの悲鳴と共に機体を大きく傾かせる。

地上のバーグラリードッグもまた、背後から叩きつけられた衝撃波によって巨体を激しく揺さぶられた。タグは両足のペダルを強く踏み込み、ローラーの逆噴射で砂を削りながら、機体の姿勢を強引に押さえ込む。

砂を多分に含んだ暴風がホシノとシロコの背中、そして騎兵の装甲を叩く。

二人とも目を瞑り、肩口の衣類に口と鼻を押し当ててこの状況に耐え続ける。

 

熱を帯びた突風が吹き抜け、やがて光の柱が薄れる。

空気が、物質が、存在そのものが、その光の柱に飲み込まれ、消滅していった。

残ったのは、半径1キロにわたってすり鉢状に抉り取られた巨大なクレーターだけであった。

砂の一粒すら残っていない、完全にガラス化した沈黙の空間。それが、遺物がもたらした“終わりの風景”だった。

 

「……自爆させて正解だったね、これは」

 

ホシノが装甲から顔を上げ、呆れたような、それでいて微かに強張った声で呟く。

シロコは無言のまま、狼耳を伏せ、爆心地のクレーターをジッと見つめていた。

 

タグは操縦桿から手を離し、ターレットレンズ越しに光の柱が立ち上がった空を見る――そこには相変わらず微かな不快感を呼び起こす青い空が広がっていた。

喉の奥の気管の傷跡が、ひくつく。

 

「……作戦終了」

 

タグの低くしゃがれた声が、通信機を通じて対策委員会のメンバーに告げられる。

 

「フローターは完全にキヴォトスから消えた。PMCの残存部隊も、あれを見れば二度とこの場所に近づこうとは思わないだろう。……帰還する」

 

 

 

夕暮れのアビドス高等学校。

オレンジ色に染まった砂混じりの風が、運搬トラックの金属装甲を撫でていく。

 

エンジンが低く唸るトラックの荷台で、タグがバーグラリードッグを固定するワイヤーを締め上げた。ガシャン、と重い金属音が鳴り響く。

 

タグが荷台から砂地へと降り立つと、そこには見送りに立つ対策委員会の五人の姿があった。

 

「今日は一日、お疲れ様。……けど本当に請求していいの?」

 

ホシノがだらんと肩の力を抜いた状態で、タグに尋ねる。タグは今日の作戦でかかった弾薬費、ヘリの燃料と整備費用、その他雑費を全てシャーレの経費で済ませると伝えたのだ。

 

「遠慮をするな、お前達が金に困っていることは聞いている……本当に困ったときは俺に相談しろ、払えない金額じゃない」

 

青と黄色のオッドアイが、夕日を背にしたタグのシルエットを真っ直ぐに捉えている。

視線には砂漠で見せた剣呑さはもうなかった。彼女の視線はタグの顔から、彼が首から下げているシャーレの職員証へと移り、小さく、納得したように息を吐き出した。

 

「――今度は、こんな物騒なことじゃなくてもっと普通なことで相談するよ。今日はありがとね」

 

間延びした声。しかし、その語尾には明確な感謝の響きが混ざっていた。

タグは短く鼻を鳴らし、視線をシロコとアヤネへと向ける。

 

シロコはアサルトライフルを背中に回し、静かに耳を立てている。アヤネはタブレットを胸に抱き、姿勢を正していた。

 

「……俺をあの砂漠から拾ってくれた恩は、まだ返し切れていない」

 

タグのしゃがれた声が、夕暮れの静寂に落ちる。

彼の瞳が、かつて自分が行き倒れていた砂漠の方向を僅かに向いた。

 

「また何かあればすぐ呼べ。……飛んでくる」

 

シロコの狼耳がピクリと跳ねた。彼女は瞬きを一つし、小さく頷く。

 

「今日はお疲れ……気をつけて帰って、タグ」

「ありがとうございました。先生にも、よろしくお伝えください」

 

アヤネが深く一礼する。

作戦には参加しなかったが、セリカとノノミもタグに感謝の意を述べる。

 

タグは顎を一度だけ引き、トラックの運転席へと足を掛けた。

重いドアが閉まるバンッという音。タイヤが砂を噛む音が徐々に遠ざかり、アビドスの校庭には再び、風が砂を運ぶ音だけが残された。

しかしトラックがハイウェイの先に消え去るまで、5人の少女たちは見送り続けた。

 

 

 

夕闇が完全に落ち、冷たい夜風が支配するキヴォトスのハイウェイ。

大型トラックの運転席で、タグは独り、闇を切り裂くように真っ直ぐな道を進んでいた。

 

一定の速度で後方へと流れていく街灯のオレンジ色の光が、無機質な車内とタグの鉄面皮を等間隔に照らし出す。

その単調な光は、彼の瞳に宿る微かなハイライトを、一瞬ごとに奪っては返していく。

まるで、彼という存在を再び巨大な運命の歯車へと強引に噛み合わせようとするかのような、冷たく機械的な明滅だった。

 

ふと、ダッシュボードに固定された端末が、這い寄るような無機質な電子音を鳴らした。

画面に表示された文字は『非通知』。

数時間前のコユキからの騒がしい着信とは全く違う、ひどく冷え切った気配が車内に満ちる。

 

タグは片手でハンドルを握ったまま、通話ボタンを弾き、スピーカー状態に切り替えた。

『――ごきげんよう、ミスター・タグ。……いえ、マエストロに倣うなら異邦の兵士、とお呼びするべきでしょうか』

 

スピーカーから響くのは、極めて丁寧で、しかし温度を一切感じさせない男の声だった。

タグの首の筋肉が、反射的に硬直する。

 

『突然の連絡、失礼します。私はゲマトリアの黒服と申します。貴方のように、このキヴォトスのテクスチャに一切侵されていない純粋な人間とお話しできること……大変、嬉しく思いますよ』

 

タイヤがアスファルトを擦る音だけが車内に響く。タグは前方を睨みつけたまま答える。

 

「おおまかなことは先生から聞いている。今日の件のことか」

 

『――話が早くて助かりますよ。……単刀直入に申し上げましょう。今日、貴方が消し飛ばしたあの遺物……あれは、私が回収する手はずのものでした。あれほどの未知を灰にされたのですから、私としても少々困ってしまうのです』

 

電話越しの声は、損失を語りながらも微かに笑っているように聞こえた。

 

『ですが、私は貴方という存在と敵対したいわけではありません。ええ、一人の対等な大人として、交渉をしましょう』

 

「先生相手では取り付く島もない、だから俺か」

 

すると黒服は特徴的な笑い声を上げる。今度は明らかに温度を感じる声――喜びが含まれていた。

 

『交渉を受けると判断させてもらいます。簡単です、詫びとして……貴方の故郷であるアストラギウス銀河の歴史。それを私に教えていただきたい。

それさえ頂ければ、今回の件は完全に不問といたしましょう』

 

エアコンの冷風が、タグの額を撫でる。

 

『アストラギウス』

 

その単語を聞いた瞬間、タグの網膜の裏側に血と硝煙、そして赤い肩の装甲が幾つも闇に浮かぶ光景が、ざらつくような質感で蘇った。

 

タグは深く、音を立てずに息を吸い込む。

 

「……歴史の授業をご所望か」

 

タグのしゃがれた声が、狭い車内に低く響く。

 

「生憎、俺は教師じゃない。……語れるのは、碌でもない事実だけだ」

 

『ククク……。ええ、ええ。それで構いません。素晴らしい。近いうちに、ゆっくりと席を設けましょう』

 

「酒は飲めんぞ」

 

『――』

 

その答えに、スピーカーの向こう側の黒服は明らかにあっけに取られたような沈黙を落とし――直後、肩を震わせるような、いっそ愉快げな笑い声を上げた。

 

『ふ、ふふ……クハハハハッ! いやはや……これは見事に一本取られました』

 

芝居がかった男の声音から、僅かに「素」の感情が滲む。

 

『私としたことが、貴方の纏うあまりに色濃い死線の匂いに当てられ、少々ドラマチックに振る舞いすぎたようです。……ええ、仰る通りです。常に極限の戦場に身を置く貴方にとって、自らの五感を鈍らせるアルコールなど無用の長物でしたね』

 

黒服の笑い声が、車のノイズに混じって静かに収束していく。

 

『極限まで研ぎ澄まされた貴方の精神に、酩酊という毒を注ぐ無粋な真似はいたしません。……当日は、極上のブラックコーヒーでもご用意しておきましょう。

場所と日時は、追って私からご連絡します。……それでは、どうか良き夜を』

 

通話が切れる短い電子音。

 

タグは端末の電源を落とし、無造作に助手席へ放り投げた。アクセルペダルを踏み込む足に力が籠り、トラックのディーゼルエンジンが重く唸りを上げた。

孤独な異邦の兵士を乗せたトラックは、冷たいハイウェイの闇の中、底知れぬ深淵へと向かうように走り続けた。

 

 

 

 

崩れ落ちた学び舎、それは明日を絶たれた者たちの墓標

吹き荒れる墓標に身を潜める少女たちもまた、未来を持たぬ亡霊なのか

彼女たちの瞳の奥に、まだ消えぬ未来の灯火を見据えて

だが、遥かなる明日を望むなら、まずは過酷なる今日を生き抜く糧が要る

 

次回「廃校」

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