装甲騎兵ボトムズ -蒼の記録-   作:ジミーボーイ

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廃校

鼻腔の奥を焼け焦がすような、高濃度の消毒用アルコールと滅菌ガーゼの匂い。

空調が吐き出す無機質な冷気の微かな駆動音。

 

壁面のLED式のシャウカステンが、刺すような白い光を放っている。そこに掛けられた数枚のレントゲンフィルム。

肋骨の列をなぞるように、不自然な角度で癒着した幾重もの亀裂痕と、接合不全のまま硬化した節くれだった隆起。

隣のフィルムには、歪な形に削れた股関節の骨が透けていた。骨盤の窪みと太ももの骨の隙間が左右で非対称となっており、片側の関節面だけが、摩擦によって硬化した骨特有の不気味な白濁を起こしている。

さらに隣のフィルムへ視線を移すと、前腕を構成する二本の骨の影があった。本来あるべき内部の空洞は押し潰され、外殻の骨組織が異常に肥大している。

操縦桿を力ずくで押さえ込み続けた物理的な負荷が、骨の質量と密度を無骨な金属の管のように変質させていた。

それらの周囲の軟部組織には、摘出しきれなかった鋭利な骨の欠片の影が、肉に食い込むように幾つも点在している。

 

鷲見セリナの顔色は、診察室でタグと向かい合った当初からロウソクのごとき白に染まっていた。

彼女の薄い唇が微かに震え、上下の歯がカチリと鳴る乾いた音。フィルムの端を掴む指先が小刻みに痙攣し、プラスチックのシートがカタカタとシャウカステンのアクリル板を叩き続ける。

彼女の視線が、フィルムに写る「人間の形を保っているのが不思議なほどの残骸」と、目の前に座る男の鉄面皮を幾度も激しく往復する。

 

何度も何度も観察した結果、確信した骨の歪み。それは「過酷な環境」などという生易しい表現では済まされない、残酷な事実の提示であった。

 

「これ以上問題が無ければ、帰らせてもらう」

 

聞きなれたしゃがれ声。今この場では、彼の体が抱えた傷の深さを証明するだけの証拠でしかなかった。パイプ椅子が床を擦る鋭い摩擦音、タグが立ち上がる。

 

「い、行くんですか」

 

セリナの喉が、喘ぐように鳴った。

 

「ダメです、今すぐ入院してください。その体、その声、それにあなた、本当は……っ!」

 

セリナが弾かれたように手を伸ばし、両手でタグの右腕を強く掴む。

白衣の繊維越しに伝わる、硬く肥大化した筋肉の感触。そして、生き物としての熱を全く感じさせない死肉のような冷たさに、セリナの指先がビクンと跳ねる。

 

「駄目だ」

 

タグがゆっくりと首を巡らせる。

光を一切反射しない泥水のような暗い瞳が、セリナを見下ろす。タグの影が彼女の顔を覆い隠す。

 

「……命に問題がないことはわかっている。今休むことは出来ない」

 

「嘘です、その上半身の火傷跡は生死を彷徨ったはずです!」

 

セリナの大きな瞳から、ぽろりと大粒の涙が零れ落ち、床に水滴を作る。

彼女の顔を歪めているのは、恐怖ではない。医療に携わる者として、傷ついた肉体を病院に押し留める術を持たないという、自身の不甲斐なさに対する無力感の表出であった。

タグを掴む両手にギリギリと力が込められ、彼女自身の唇から血が滲むほど強く噛み締められている――手を離せばタグは死んでしまう、だから離さないと、そう主張している。

 

タグの視線が、セリナの滲む血と涙から僅かに逸れた。

 

「問題ないと言った。……誰にも話すな、話せば二度とお前の世話にならない」

 

声に抑揚はなく、荒げられてもいない。しかし、患者から突きつけられた「最も重い拒絶」という冷たい刃が、診察室の空気を沈み込ませる。

セリナの呼吸がヒュッと止まる。彼女の瞳孔が収縮し、タグの腕を掴んでいた両手から力が抜け、力なく下へと滑り落ちた。

彼女は涙で引き攣った顔のまま、ただ縦に一度だけ首を振った。

 

診察室の重い防音ドアが、鈍いラッチ音を立てて閉まる。

白い蛍光灯が等間隔に並ぶ明るい廊下が、タグの視神経を苛立たせた。

 

(あの言い方をする必要はあったのか)

 

突き放すような言葉は、万が一の情報漏洩を防ぐための防衛策である。そこに私情を挟む余地はない。しかし女性を泣かせてしまったという事実が、胸の奥をひどく乾かせる。

 

硬い軍靴がリノリウムの床を叩く、寸分の狂いもない一定の足音。

シャーレの制服の背中が廊下の奥へと遠ざかり、やがて病院の冷たい静寂の中へと完全に消失した。

 

タグが去った診察室には、無機質な空調の駆動音だけが戻ってきた。

後に残されたセリナはドアを追うことはなく、ただ静かに立ち尽くしていた。

不意にカツン、と。硬い何かが床に落ちる乾いた音が響く。

セリナの指先から完全に力が抜け、強く握りしめていたはずのバインダーが、冷たいリノリウムの床に滑り落ちていた。

 

それを拾い上げようと身を屈めた彼女の膝が、唐突に折れた。

糸が切れた操り人形のように、その場に崩れ落ちた。

 

「っ、う……」

 

誰の目もない、閉鎖空間。

彼女は両手で顔を覆うようにうずくまる。細い指の隙間から大粒の雫が次々とこぼれ落ち、真っ白な制服の膝を濃い染みに変えていく。

 

「……っ」

 

声にならない息が口から洩れる。

自らの口元を両手で強く塞ぎ、喉の奥から更にせり上がる嗚咽を必死に殺そうとするが、震えは彼女の細い背中全体へと波及していく。

涙で完全にぼやけた視界の先でも、シャウカステンの刺すような白い光と、レントゲンフィルムに写った損傷を刻まれた骨の影だけが網膜に焼き付いたように消えない。

 

ツンとした消毒液の匂いの中で床に落ちた涙が、ピチャリと微かな音を立てる。

冷たい床の上でただ泣き崩れているセリナは、自身の無力さを痛感するだけだった。

 

 

 

――数日後

 

 

ディーゼルエンジンの重低音と、舗装されていない荒野を走る激しい振動。

大型輸送トラックの車内には、重く冷たい沈黙が澱んでいた。

 

運転席のサキが、革のステアリングを握りしめる――革が軋む鋭い音。ルームミラー越しに後部座席を睨みつける彼女の視線には、刺すような光があった。

後部座席の左端に座るミヤコは、窓の外の荒涼とした景色から一切視線を動かさない。固く結ばれた唇と、浅く硬い呼吸音だけが存在感を放つ。

対する右端。タグは腕を組み、シートに深く背を預けたまま微動だにしない。サキの睨みつける視線も、ミヤコの放つ拒絶の空気も、タグの心を動かすには至らない。彼はシートに深く背を預け、ただ一定の呼吸を繰り返している。

 

「……ゲヘナ自治区西側、財政破綻した自治区の廃校」

 

息が詰まるような沈黙を破ったのは、後部座席中央に座るモエの声だった。

人工的な甘い風船ガムの匂い。パチン、とガムを割る音。モエの顔を、手元のタブレットの青い光が照らしている。

 

「万魔殿のマコト議長から回ってきたデータ通りなら、学籍無しの重犯罪者の巣窟。だから先生はお留守番で、アタシたちと後ろの『アレ』の出番ってわけ」

 

モエの口角が吊り上がり、声のトーンが僅かに上がる。後方の荷台に積まれた圧倒的な質量に対する物理的な期待値が、彼女のタイピング速度を速め、軽快なタップ音を車内に響かせる。

 

助手席でスナイパーライフルをきつく抱いていたミユが、びくびくと肩を震わせながら後ろを振り返る。

ルームミラー越しに、ミユの怯えた視線とタグの暗い瞳が交差する。

タグは表情一つ変えず、ただゆっくりと一度だけ瞬きをした。

ミユの強張っていた肩からふっと力が抜け、細く安堵の息を吐き出す音が車内に漏れた。

 

 

キィィィィッ、というブレーキの甲高い摩擦音。巻き上がる乾いた土埃の匂いと共に、トラックが停止した。

 

アスファルトの亀裂から生えた枯草が、乾いた風に吹かれてカサカサと音を立てる。

ひび割れた校庭の入り口には、何本かの立て看板が引き倒されていた。

表面にプリントされた『学籍喪失生徒への保護告知』の文字と、シャーレの青いロゴ。その隣には、設置を代行した万魔殿のエンブレムが印字されている。

しかし、本来なら対象を導くはずだったそれらの看板は、無数の乱暴な泥靴の跡によって幾重にも踏みにじられ、見る影もないほどにひしゃげていた。

 

――明確な「拒絶」の痕跡。

その光景を目前にしながら、トラックの荷台の重いハッチが開く。

開かれたハッチからは充満した代替PR液の匂いが秋風に乗って広がった。

 

金属の軋む重厚な駆動音と共に、緑の騎兵が姿を現す。

背面には増設された巨大な円筒形レーダーポッド。

そして右腕部にマウントされたのは、冷たい鋼の光沢を放つザイルスパイトの鋭利なシルエット。

オートパイロットによってスコープドッグがトラックを降車し、背面のレーダーポッドを切り離す。接地したポッドの重量が、ズシンと鈍い地響きを上げた。

 

モエが太い有線ケーブルを引き出し、自身のタブレット端末と、接地されたレーダーポッドを物理的に接続する。

カチリという接合音、画面に無数の緑色のインジケーターが点灯する。

 

「キャンプRABBIT、設営完了。ポッドの索敵回線、繋がったよ」

 

モエの指先が、画面上のアイコンをフリックする。

直後、トラックの荷台の奥から、複数の小型モーターが唸る高周波の駆動音が響いた。

 

「先行偵察機、射出」

 

モエの操作にドローンが反応する。

短い射出音と共に、四機のクアッドコプター型ドローンが空へ弾き出され、甲高いプロペラの風切り音を撒き散らしながら廃校の敷地へと散開していく。

赤と緑の小さな航法灯の瞬きが、薄暗い校舎の割れた窓ガラスの奥へと次々に吸い込まれていった。

 

タグはATの胸部装甲に備えられた外部スピーカーのスイッチを叩く。

ブツッ、というノイズの直後、増幅されたしゃがれ声が、廃校舎のコンクリート壁に反響した。

 

「こちらは連邦捜査部シャーレだ。事前通知の通り、本時刻をもって学籍を失効した生徒の保護を行う。保護を希望する生徒は武装解除し、校庭に出てきてくれ」

 

――待てど、返ってくる音声と人影はない。

亀裂から生えた枯草が、乾いた風に吹かれてカサカサと音を立てるだけだ。

数秒の静寂。

 

タァンッ、タンッ!

 

不意に、暗い校舎の奥深くから、くぐもった乾いた破裂音が複数回、秋風を切り裂いて響いた。

直後、モエの手元にあるタブレットから、甲高いエラー音が連続して鳴り響く。画面上で点滅していた四つの緑色の光点が、ノイズと共に次々と消失していった。

 

「……あーあ。先行ドローン、全部ロスト。カメラには誰も映らなかったけど、完全に銃撃受けたね」

 

モエが気怠げに画面をフリックしながら報告する――明確な敵対的反応。

ミヤコは銃を抱えたまま、タグの視線を避けるように僅かに顎を引く。サキは不愉快そうに鼻を鳴らし、ブーツの先で地面の石を蹴った。

 

タグはスピーカーのスイッチを切り、三人の生徒を見据える。

 

「……ミーティング内容の確認だ。RABBIT1、2、3は校内へ進入し、強行偵察を行え。ATとキャンプRABBITはここをポジションとする」

 

「撃たれてるのに、ですか?」

 

「そうだ、主目的は保護だ。こちらからの火器使用は禁止する。とはいえセーフティは外しておけ……何かあれば俺が始末書を書けばいい」

 

保護という目的に縛られた、厳格な交戦規定の伝達。

疑問を投げたミヤコの視線が、暗い口を開けた廃校舎の入り口と、後方で鎮座する巨大な鉄塊を往復する。

 

「攻撃を受けた場合は直ちにATの射線まで後退しろ。異常があれば呼べ、壁越しに火力支援を行う。……先日、この付近で学籍不明の生徒が風紀委員会と交戦した記録がある。おそらくここの生徒だ」

 

タグが言葉を切る。

背後のレーダーポッドが駆動音を低く鳴らした。それを見るタグの瞳が、僅かに細められる。

 

「手負いだ、油断はするなよ」

 

ミユの肩が小さく跳ね、抱えたスナイパーライフルのストックがカチャリと装備に触れる。サキの蹴っていた足がピタリと止まり、銃を握る指の関節が白く染まる。

警告が、生徒たちの筋肉を物理的に硬直させていた。

 

「キャンプRABBIT、全周索敵開始」

 

後方でモエがタブレットを叩きながら作戦行動を開始する。

タグはそれ以上言葉を重ねず、耐圧服の赤いヘルメットを被った。

 

 

ひび割れたアスファルトを踏む、硬いブーツと消音スニーカーの音。

ミヤコ、サキ、ミユの三人が、廃校の暗いエントランスを前に銃を構える。

チャキッ、とセーフティを解除する三つの乾いた金属音が、風の音に重なった。

 

ミヤコが深く、硬い息を吐き出す。

 

「……RABBIT小隊、これより校内へ進入します。各員、警戒を怠らないように」

 

ミヤコの合図と共に、三人の靴底が砂混じりの床を踏みしめる。

カビの匂いと冷気が充満する校舎の闇が、彼女たちの背中を飲み込んでいった。

 

 

スコープドッグの狭く暗いコックピット内部。

マッスルシリンダーが発する低いアイドリングの振動が、分厚い耐圧服越しにタグの背中へ伝わり続けている。

微かに香る代替PR液と機械油、そしてエアコンを通して漂う乾いた空気の匂い。

ゴーグルモニターには、モエと有線接続されたレーダーポッドから送られてくる、緑色のワイヤーフレームで描かれた廃校の立体構造が絶え間なく更新されている。

 

『隊長、ミヤコとサキに嫌われてるねぇ』

 

ヘルメット内臓のスピーカーから、ノイズ混じりにモエの緩い声が響く。風船ガムが破裂する、パチン、という微かな音。

操縦桿から手を離さず、視線もモニターに固定したまま、タグはスロットル脇の通信スイッチを親指で押し込む。

――極限の緊張下において、絶え間なく軽口を叩くことで精神の摩耗を防ぐ兵士は、どの戦場にもいた。タグの脳裏を、安葉巻とコーヒーの香り、酒特有のアルコール臭と共に懐かしき仲間の姿が掠める。

 

グレゴルー、バイマン、ムーザ、カースン……そしてキリコ。

 

「……餓鬼の見栄のようなものだ。俺には従いたくない、とな」

 

通信機を通したことでさらに低く割れたハスキーな声が、外にいるモエの端末へ送られる。

 

『なーる。んじゃ私とミユは?』

 

「お前は口うるさいがそれ以上に仕事は出来る。ただし、少しは自制しろ。ミユは問題があるな……自我が薄い」

 

『お厳しいことで』

 

フン、とモエが鼻で笑うような息遣いとガムをクチャリと噛む音。

直後、コックピットのコンソールと、外のモエのタブレットの双方で、甲高い電子音が単発で鳴った。

 

モエの指先がピタリと止まる。そして先程までの緩やかな空気が完全に消え失せる。

 

『……ん、やっぱこのレーダーポッドすごいわ。RABBIT1、どうぞ』

 

ヘルメットから響くモエのトーンは、完全なオペレーターのそれに切り替わっていた。

タグの親指が通信スイッチから離れる。スコープドッグのターレットレンズがRABBIT小隊を追い続ける。

 

 

 

――同時刻。廃校舎、一階東側廊下

 

太陽光が完全に遮断された閉鎖空間。

ミヤコの視界は、暗視ゴーグルが映し出す緑色のノイズまみれの世界に限定されていた。

乱雑に散らばった机の輪郭、剥がれ落ちた壁紙の影。すべてが単色の緑に塗りつぶされ、遠近感が狂わされる。微かに漂うのは、獣の体臭のようなツンとしたアンモニア臭。

 

「こちらRABBIT1。現在、一階廊下をポイントBに向けて進行中」

 

インカムに唇を寄せ、極力声を殺して応答する。

自身の呼吸音すら耳障りな暗闇。後方に続くサキとミユが、床の砂やガラス片を踏みならす音でさえも過敏な聴覚を執拗に撫でていく。

 

ミヤコの呼吸が浅くなる。無意識に握り込んだサブマシンガンのグリップが、ギリギリと軋み音を立てた。

 

前方へ固定されたミヤコの視線。彼女のブーツが、次の床へと無造作に踏み出される。

 

『こちらキャンプ。一階の奥、理科室付近に複数の熱源反応あり。……でも、おかしい。動いてない』

「動いていない……? 待ち伏せですか」

『わかんない。ただ、熱の形が人間っぽく――』

 

モエの報告が続く、その最中だった。

 

緑色のノイズの奥――埃を被り、光を一切反射しないよう細工された一本の黒いピアノ線。

ミヤコの靴底が、その線に触れる数ミリ手前。

 

『……ス、ッ』

 

最後尾から、呼気を断つ微かな音。

 

直後、鼓膜を物理的に叩き割るようなスナイパーライフルの重低音が、閉鎖空間に轟く。

空気を切り裂いた大口径の弾丸が、ミヤコとサキの脚のわずかな隙間を正確に縫い、ミヤコのつま先のわずか数センチ先の空間でオレンジ色の火花を弾けさせた。

 

ピィン、という甲高い金属の破断音。

切断された太いピアノ線が壁際で跳ね返り、IEDの起爆装置がカラカラと床を転がる。

 

一気に充満する、濃密な硝煙の臭い。

発砲禁止の命令下で行われた、ミユの神業的な精密狙撃。

転がるIEDの存在に気付いたミヤコが目を見開き、踏み出しかけた右足を空中で硬直させる。サキが驚愕に息を呑み、背後を振り返った。

 

しかし、沈黙は一秒も保たれなかった。

ミユの狙撃の反響音が壁に吸い込まれるより早く、その一発の銃声が空間を支配する「合図」となった。

廊下の奥の暗闇。崩れた天井の通気口。左右の空き教室のドアの影。

四方の完全な闇の中から、飢えた獣の咆哮のような怒号と共に、いくつもの強烈なマズルフラッシュが一斉に瞬いた。

 

 

コンクリートの砕ける激しい破砕音と、鼓膜を劈く無数の炸裂音が届く。

後方の安全圏で、モエがタブレットの強化ガラス画面を乱暴に叩く。

 

「畜生、一歩遅かった! RABBIT1、ルートを提示する、撤退せよ!」

 

通信機を通したモエの怒声。パチン、と彼女の口内で風船ガムが強く破裂する。

そのすぐ横で、スコープドッグの足回りを支えるマッスルシリンダーが低く唸りを上げる。重低音の微振動が地面を伝う。

緑の装甲に覆われた狭いコックピット内。ゴーグルモニターの緑色のワイヤーフレームに、校舎の奥から湧き出す無数の赤い光点が明滅している。

 

「……撤退支援をする。モエ、データをよこせ」

 

極めて平坦な、しゃがれた声。

コントロールスティックを握るタグの指先が、厚いグローブ越しにトリガーの遊びを絞る。

 

「頼むよ、隊長」

 

モエの弾くようなタイピング音。直後、タグのコックピットのモニターに新たな座標データが重なり、建物のコンクリートの厚みと、その奥に潜む対象の熱源が立体的なデータとして浮かび上がる。

 

スコープドッグは、アスファルトの上に深く根を下ろしたように微動だにしない。

ギィン、と三連ターレットが回転し、赤い精密照準レンズが暗い校舎の奥を睨む。

右腕で構えたヘヴィマシンガンの巨大な銃身が、照準の微修正に伴い僅かに上を向いた。

 

空気を物理的に叩き潰すような、規格外の重低音が鳴る。

セミオートで放たれた数発の30mm弾が、廃校の分厚い壁面の下部を等間隔に撃ち抜く。

基礎を物理的に粉砕されたコンクリートの構造体は自重を支えきれず、轟音と共に崩れ落ちた。白く舞い上がる粉塵と瓦礫の山が、RABBIT小隊へ迫る追手の進路を完全に塞いでいく。

乱射ではない、極めて機械的で追撃ルートの遮断のみを目的とした単発射撃。

 

一定の呼吸。一定の射撃間隔。

 

焦げたガンオイルと、炸薬に使われる代替PR液の匂いが周囲一帯を瞬く間に覆い尽くしていく。

飛び交う実弾の雨の只中、ミヤコたちの背後に迫ろうとしていた複数の足音と発砲の閃光が、大口径弾によって人為的に引き起こされた壁の崩落に阻まれ、次々と奥へ退いていく。

 

 

ヘヴィマシンガンの重い銃声の合間に、インカムからノイズ混じりの極めて低い声が、RABBIT小隊に届く。

 

『壁に穴を開ける、巻き込まれるな』

 

警告は一言のみ。

タグの指が、操縦桿のメイン・トリガーから、その下部にある赤いサブ・トリガーへとスライドする。

ガコンッ、という分厚い金属の噛み合う音。ヘヴィマシンガンの銃身上部にマウントされた、単発式グレネードランチャーの安全装置が解除される。

スコープドッグの右腕が大きく右方向へ旋回し、RABBIT小隊の左側面に位置する分厚いコンクリートの壁面へとピタリと照準を合わせる。

 

鈍く、空気の塊を吐き出すような発射音。

 

放物線を描いて射出された大口径の榴弾が、コンクリートの壁に激突した。

直後、廃校の廊下を物理的に揺るがす、鼓膜が破れんばかりの轟音――強烈なオレンジ色の閃光が網膜を焼き、凄まじい爆風が廊下を一気に駆け抜ける。

高濃度の爆薬が放つ、鼻の奥を焼くような強烈な硝煙の匂い。

 

「っ……!」

 

RABBIT小隊の面々は、ヘイローという神秘の加護を持ちながらも、逃げ場のない空間で膨張した衝撃波によって内臓を激しく揺さぶられた。

ミヤコが反射的に腕で顔を覆う。鼓膜の奥で、甲高い耳鳴りだけが「キーッ」と単調に鳴り響く。

分厚いコンクリートの壁が粉々に吹き飛び、無数の石の破片が散弾のように周囲の床や天井に突き刺さる硬質な音。巻き上がる白灰色の濃密な粉塵が、舌の裏にザラザラとした味を残す。

 

土煙の向こう側――壁が存在していたはずの場所に、直径二メートル近い巨大な円形の穴が空いていた。

削り取られた鉄筋がひしゃげて剥き出しになり、その先には、冷たい秋風が吹き込む校舎外の枯れ草の地面が広がっている。

 

「各員、開放された穴へ! 外へ抜けます!」

 

ミヤコが喉に詰まった粉塵を吐き出しながら、サブマシンガンを片手に叫ぶ。

身を隠していた瓦礫の陰から飛び出したサキが、泥と埃に塗れた顔のまま、開いたばかりの壁の穴へ向かって猛然と駆け出す。ミユがその後を追うように、低い姿勢で土煙の中へと滑り込んでいった。

 

 

崩落した壁の残骸から、白灰色の粉塵が滝のように流れ落ちる。

ミヤコたちの足音が近づき、枯れ草を踏む音が微かに聞こえ始めた頃。

 

『どうする、隊長?』

 

通信機越しに、モエの声が響く。

 

「オープンチャンネルにしろ、最後通告だ」

 

タグの指がコンソールパネルのトグルスイッチを弾く。

直後、スコープドッグのスピーカーから、キィィンという耳障りなハウリングのノイズが廃校舎の周囲一帯へ向けて放射された。

割れた窓ガラスがその高周波に共鳴し、ビリビリと震える。

 

「こちら連邦捜査部シャーレ。武装を捨て、投降しろ」

 

極限まで増幅され、さらに電子的に割れたハスキーな声が、コンクリートの残骸に反響する。

タグは操縦桿から手を離さず、ヘヴィマシンガンの銃口を校舎の暗がりへ向けたまま、平坦なトーンで言葉を続ける。

 

「繰り返す、これ以上の抵抗は『執行』の対象となる。……1分だけ待つ」

 

通告が終わると同時に、スピーカーのノイズがプツリと途切れる。

後に残ったのは、秋風が廃校舎を吹き抜ける音と、スコープドッグのマッスルシリンダーが立てる低いアイドリングの駆動音だけだった。

焦げた火薬の匂いが、風に乗ってゆっくりと薄れていく。

 

三十秒経過。

暗い廊下の奥で、何かが崩れるような微かな物音。

 

四十五秒。

モエの通信機越しに、パチン、とガムの割れる乾いた音が鳴る。

 

五十五秒。

 

タグのカウントダウンを物理的に断ち切るように、校舎の二階の窓枠から強烈なマズルフラッシュが閃いた。

放たれたフルオートの掃射が、スコープドッグの分厚い装甲を連続で叩く。

スコープドッグの影に隠れているモエが「ヤケクソだねぇ」と呟く。

火花が散り、表面の塗装が削り飛ばされる。しかし、エンジニア部によって複合装甲で再溶接された機体は微動だにしない。

 

「……交渉決裂」

 

タグの極めて低い呟き。

ギィン、と三連ターレットが重い駆動音を立てて回転する。再び赤い精密照準レンズが、硝煙を上げる二階の窓枠の奥を、一切の感情を交えることなく真っ直ぐに捉えた。

 

 

 

削り取られた外壁の断面から、無機質な秋の風が吹き込む。

通信機のノイズに混じり、しゃがれた声が響いた。

 

『RABBIT小隊、ウェポンフリー。ATはこのポジションを厳守する』

 

その音声が途切れた直後。

穴を抜け、屋外の枯れ草の上に陣取っていたサキの口角が、凶暴な弧を描いて吊り上がった。

軽機関銃のチャージングハンドルを荒々しく引き、初弾を薬室へ送り込む。

ミユの構えるスナイパーライフルからも、重いボルトを引き絞るガチャンという機械音が重なる。

 

ミヤコは一度だけ深く瞬きをした。

再び開かれた瞳孔に、先ほどまで微かに存在していた揺らぎはない。ガラス玉のように静まり返った両眼が、前方の校舎の暗がりを真っ直ぐに捉える。

ミヤコの左手が上がり、前方へ向けて短く、鋭く振り下ろされる。

 

崩落した二階の窓枠。

土煙の向こう側で、瓦礫を踏む微かな摩擦音と共に、銃を構えた人影が半身を乗り出した。

人影が完全に姿を現すより早く、サキの軽機関銃とミヤコのサブマシンガンが同時に火を噴いた。

警告も、威嚇の「間」も存在しない。視界に捉えた動的目標に対する、純粋な制圧射撃。

鼓膜を物理的に殴りつけるようなフルオートの轟音が、廃校のグラウンドに連続して響き渡る。

 

二階の窓枠のコンクリートが粉々に弾け飛び、人影がくぐもった悲鳴と共に後方へ激しく吹き飛ぶ。

射撃は止まらない。

サキは歩調を緩めることなく、枯れ草を踏みしめながら前進する。一階の割れた窓、通気口の影、僅かでも動きのあった暗がりへ向けて、次々と実弾のシャワーを叩き込んでいく。

 

カラカラカラッ!

 

――熱を帯びた空の薬莢が、雨水のようにコンクリートの残骸へ降り注ぐ。

校舎の奥からは、奇襲を仕掛けた元生徒たちの悲鳴と、崩れる足音だけが遠ざかっていく。

新たな高濃度の硝煙の匂いが、冷たい風を完全に塗り潰した。

 

後方の定位置、アスファルトに根を下ろしたスコープドッグが三連ターレット、緑色の標準レンズを規則的に明滅させながら、逃げ惑う熱源の動きをただ静かに監視し続けていた。

サキとミヤコによる無慈悲な制圧射撃の銃声が、乾いた風の中に溶けていく。

 

『モエ、全ドローンの使用を許可する。一人たりとも逃がすな』

 

後方の安全圏に立つモエの顔を、タブレット端末の青白い光が下から照らし出す。

パチン、と甘い匂いのする風船ガムが割れた。

 

「オッケー」

 

モエの指先が、ガラス画面の上のアイコンを軽快にスワイプする。

直後、彼女の背後に停められた大型輸送トラックの荷台から、ガコン、という重厚なロック解除音が鳴った。

金属製の天面ハッチが左右にスライドして開く。

 

内部から這い上がってくるのは、無数の小型モーターが一斉に起動する甲高い高周波の唸り。

ブゥン、という無数のカーボン製プロペラが冷たい空気を切り裂く音が重なり合い、一つの巨大な羽音へと膨れ上がる。

 

トラックの荷台から、黒い円盤状のシルエットが次々と連続して空へ向けて射出された。

巻き起こる強烈な下向きの風が、周囲の枯れ草を根元から激しく揺らし、乾いた土埃を巻き上げる。

 

数十機に及ぶ偵察用飛行ドローンの群れ。

機体下部に備えられた赤いナビゲーションランプが、西日の落ちかけた薄暗い空で明滅を始める。

羽音の群れは廃校舎の上空で散開し、敷地を取り囲む崩れかけたコンクリート塀や、裏門の獣道に沿うようにして、等間隔の滞空姿勢へと移行した。

 

ジリジリジリ、という頭上から降り注ぐ無数のプロペラ音の重なり。それは、廃校全体を上空から覆い尽くす巨大な音の檻だった。

 

校舎の裏手。雑木林へ向かって走っていた泥まみれの足音が、ピタリと止まる。

頭上の上空十メートル。等間隔に並んだ三機のドローンの赤い光と、無機質なカメラレンズが、逃走を図ろうとした人影を無言で見下ろしていた。

激しく上下する肩の動きと、ひきつるような浅い呼吸音が、無数のドローンの羽音に掻き消されていく。

 

 

開け放たれた壁の穴から、冷たい秋風と共に空気を物理的に叩き潰すような重低音が流れ込んでくる。

一定の間隔で放たれる、ヘヴィマシンガンの重い掃射音。

屋外の枯れ草を踏み荒らす複数の足音と、泥に塗れた悲鳴。それらは大口径弾が地面と人体を撥ね飛ばす轟音によって、次々と物理的に塗り潰され、削り取られるように消滅していく。

ミヤコの耳元のインカムから、ノイズに混じってガムが破裂する「パチン」という音が鳴る。

 

『一階西側、旧理科室。熱源三、ドアの裏に張り付いてる』

 

モエの極めて平坦な音声。

サキが舌打ち一つせず、無言で旧理科室の木製ドアの前に立つ。

軽機関銃の銃口を、ドアの表面、人間の胴体の高さにピタリと合わせる。

躊躇や警告の間は一秒も存在しない。

 

強烈なマズルフラッシュの閃光。鼓膜を圧迫する至近距離での連射音。

分厚い木のドアが内側へ向けて弾け飛び、無数の木片が散弾のように飛び散る。

ドアの向こう側から、くぐもった絶叫と、重い肉の塊が床に叩きつけられる鈍い音が響いた。

 

ミヤコが砕けたドアの枠を踏み越え、室内へ滑り込む。

硝煙の立ち込める中、床でもがきながら銃を構えようとする影の頭部へ向け、サブマシンガンの短いバースト射撃を叩き込む。

乾いた破裂音。ビクン、と大きく跳ねた影の動きが完全に停止する。

 

『次。二階への階段踊り場、熱源一。伏せてる』

 

モエの音声が途切れるのと同時に、ミヤコの背後で鋭い吸気音が微かに鳴る。

息を止めたミユのスナイパーライフルが重い轟音と共に火を噴いた。

斜め上の暗がりで火花が散り、コンクリートの破片がバラバラと降り注ぐ。階段の上から、重い何かがゴツゴツと段を打ち据えながら転げ落ちてくる鈍い音。

 

濃厚な硝煙の匂いと、カビの臭い。そして、新しく撒き散らされた胃液の匂いが、閉鎖空間にねっとりと充満していく。

ミヤコのタクティカルブーツが床を踏み出す。靴底に、ベチャリとした粘り気のある液体が吸い付く重い感触――嘔吐跡には固形物がほぼ見当たらなかった。

慢性的な飢餓と突然の恐怖が、ただ胃液だけを絞り出させた惨めな痕跡。

 

『一階中央廊下、クリア。残存熱源、二階に集中してる。ルート送るよ』

 

モエの報告を受信したミヤコは、自身の顔を照らす端末を一瞥し、顎から滴る自身の汗を拭うこともなく、暗い階段へと銃口を向けたまま無言で足を踏み出した。

チャキッ、とサキが空の弾倉を捨て、新しいマガジンを叩き込む金属音が、冷たい空間に鋭く響いた。

 

 

リノリウムの床を覆う、赤黒い染みと無数の空薬莢。

極度に濃密な硝煙の匂いに混じり、鉄錆のような血の匂いと、撒き散らされた胃液のツンとした悪臭が鼻腔を突く。

暗い廊下の奥から、無数のマズルフラッシュが散発的に瞬く。

統制も照準もない。ただパニック状態の元生徒たちが、暗闇の中で無差別に引き金を引き絞っているだけの乱射。天井の蛍光灯の残骸が撃ち落され、壁のコンクリートがパラパラと剥がれ落ちる。

味方同士の跳弾が交差する音と、誰が誰に向けて撃っているのかすら分からない、悲鳴に近い怒号の反響。

 

ミヤコの頬を、流れ弾が掠める――微かに血が滲む。

しかし、彼女の呼吸は先程までの浅く硬いものから、深く、一定のリズムへと移行していた。

サブマシンガンのグリップを握る指から余分な力が抜け、ポリマーの微かな軋み音が消失する。

彼女の視線が、目の前の単一の敵影から外れ、廊下全体の構造、崩れた壁、そして後方の階段へと広く往復する。

インカム越しに絶え間なく発していた「右を撃て」「左の敵を警戒」という細かい指示の音声が、プツリと止む。

 

その脳裏を掠めたのは、以前の性能試験で見た“アリウススクワッド”の異様な静寂だった。

 

硝煙の向こう側、言葉を介さず、ただ銃身の向きと身体の傾きだけで互いの死角を埋め合っていたサオリたちの姿。叫ぶ必要すらないほどに研ぎ澄まされた、過酷な日常が生んだ冷徹なまでの最適解。

言葉は戦場において、酸素を消費し、聴覚を奪い、判断をコンマ数秒遅延させる「コスト」でしかない――。

 

自分たちの「洗練」が、彼女たちの「実戦」の前にいかに脆く、喧しかったか。

ミヤコはその恥辱をあえて飲み込み、模倣すべき指針へと変換する。

 

ミヤコは無言のまま、左手で前方の直線廊下を指し示し、手首を軽く弾いた。

 

拳の握り、指の角度。

声による命令ではなく、自身の挙動そのものを「合図」とする、アリウスの流儀への接近。

 

背後に控えるサキとミユが、一瞬だけ息を呑む気配がインカム越しに伝わる。

リーダーの突然の沈黙。しかし、その無言のジェスチャーには、先程までの絶叫よりも遥かに明確な、迷いのない制圧の方向が示されていた。

 

指示を確認したサキが前へ飛び出す。彼女の軽機関銃が、前方一帯の空間そのものを暴力的な銃声と閃光で塗り潰していく。

壁ごと伏兵を吹き飛ばすフルオートの弾幕。反撃の隙すら与えない、前進しながらの面制圧だ。

 

ミヤコはサキの背中を追わず、一歩引いた位置で立ち止まる。

そして左手を後方の吹き抜け階段へ向け、二本の指を立てた。

 

後方の上階。暗闇の中でヒュッ、という細い吸気音が鳴る。

ミユのスナイパーライフルが重低音を響かせる。サキの弾幕から逃れ、横の教室から側面を突こうとした人影のヘルメットが火花を散らして弾け飛び、その身体が壁際へ激しく叩きつけられる。

 

指示の言葉はない――サキが前方の空間を削り取り、ミユが高所から射線の通る範囲を完全に支配する。

ミヤコはその二つの制圧領域の間に生じる、ほんの僅かな死角とタイミングのズレにのみ銃口を向ける。

サキの足が止まるコンマ数秒の隙間に、ミヤコが短いバースト射撃を叩き込み、死角から這い出ようとした熱源の動きを止める。

 

無駄な怒号も、微小な軌道修正の指示も消え失せた。

ただ絶え間なく響く排莢音と、硬いブーツの足音。そして、銃弾を受けて意識を飛ばした生徒たちが次々と床へ崩れ落ちていく鈍い音だけが、硝煙に煙る校舎内に一定の規則性を持って響き続けていた。

 

 

絶え間なく廃校舎から響いていた暴力的な発砲音が、唐突に途絶えた。

後に残ったのは、吹き抜ける冷たい秋風の音と、鼻腔にこびりつくような高濃度の硝煙、そして風に乗って漂う鉄錆の匂いだけ。

 

スコープドッグの狭いコックピット内。ゴーグルモニターに表示されていた無数の赤い光点が、次々と活動を停止し、緑色のアイコンへと変質していく。

 

「銃声が止んだな。モエ、待機させていた救急医学部を呼べ」

 

戦闘前と変わらぬ、極めて平坦なしゃがれ声。

 

『了解。……もう来てるわ。銃声聞いて居ても立っても居られないみたいよ』

 

後方、土煙の向こう側から急速に近づいてくる、甲高いサイレンの音が複数重なって聞こえだしていた。

 

「では、モエは救急医学部に合流しろ。データの共有を行って、負傷者の元へ誘導を行え」

 

『隊長は?』

 

タグはコントロールスティックから両手を離し、ヘルメットのゴーグルバイザーをゆっくりと跳ね上げた。

ゴキリ、と首の関節を鳴らす鈍い音。

 

「俺はこれから迎えに行く」

 

スコープドッグが重厚な金属音を響かせて旋回し、廃校舎の崩落した壁の大穴へと向けて前進を開始した。

 

 

大穴から覗く校舎内は、極めて濃密な血と硝煙、そして胃液の混じった匂いが充満していた。

暗がりの中、床に倒れ伏す無数の元生徒たちの間から、ヒューヒューという浅い呼吸音や、苦痛に喘ぐ微かな呻き声、咳き込む音が途切れ途切れに聞こえてくる。

流血の量は夥しいが、宙に浮かぶヘイローの光は一つとして失われておらず、倒れ伏した全員の胸は浅く上下を繰り返していた。

 

ズシン、ズシン

 

重量級の鋼鉄の脚が、大穴の縁に広がる瓦礫を踏み砕く。

スコープドッグの巨体が穴の前に立ち塞がり、外からの僅かな夕日を遮って巨大な影を落とした。

ギィン、と三連ターレットが回転し、平坦な広角レンズが暗い廊下の奥へと向けられる。

 

向こう側、二階への踊り場付近に立ち尽くすミヤコ、サキ、ミユの三人の姿が照らし出された。

ミユがレンズの光にビクッと肩を跳ねさせ、抱えていたスナイパーライフルを床に落としかける。サキは壁に背を預けたまま、ずるずるとその場に座り込み、長く、震える息を吐き出した。

ミヤコは自身の頬を伝う血を拭うこともせず、サブマシンガンを下げたまま、二階から見下ろす形でターレットレンズを真っ直ぐに見返している。

 

『怪我はないな』

 

スコープドッグのスピーカーから、低く割れた声が廊下に響き渡る。

ミヤコがゆっくりと一度だけ、首を縦に振る。

 

『……歩けるなら外へ出ろ。作戦は完了した』

 

タグはそれ以上言葉を重ねず、コントロールスティックを引いた。

スコープドッグの巨体がゆっくりと後退し、大穴から校庭の方へと向きを直す。その後ろ姿の向こう側で、救急車両の放つ赤と青の強烈な閃光がグラウンドを規則的に照らし出している。

 

二組のタクティカルブーツの重い足音に、静音スニーカーの微かな摩擦音が追従する。三人の生徒が、呻き声を上げる元生徒たちの間を抜け、歩き始める。

夕暮れ時の赤黒い光とサイレンの音が交錯する中、冷たい秋風が廃校舎の熱と硝煙をゆっくりと外へ運び出していった。

 

 

統合センサーポッドの下部にある冷却水用のドレンバルブから、シューッという甲高い音と共に白い湯気が勢いよく吹き出す。

その湯気で蒸されたタオルを、スコープドッグから降りたタグがRABBIT小隊全員に手渡す。

 

熱いタオルが、顔全体に押し当てられる。実働部隊三人のタオルは特に変化が著しい――頬にこびりついていた乾いた血痕と、ザラザラとした硝煙の粉が湿気で溶かされ、タオルの白い繊維を急速に赤黒く変色させていく。

 

「……彼女達はどうなるんですか?」

 

タオルで口元を覆ったままの、ミヤコのくぐもった声。

赤と青の強烈な閃光が交錯するグラウンド。ゲヘナ学園の救急医学部のストレッチャーが、泥と血に塗れた生徒たちを次々と車両へ運び込んでいく。サスペンションの軋む音と、慌ただしい足音。

 

ミヤコのブーツのすぐ横に、元生徒が落とした一丁のアサルトライフルが転がっている。

手入れに使うガンオイルが塗られた痕跡は一切ない。金属の表面は広範囲にわたって赤茶けた錆に覆われ、ポリマー製のグリップはひび割れ、泥まみれの粘着テープで何重にも巻かれている。

排莢口には、変形した真鍮の空薬莢が半分だけ引っかかったままボルトが完全に固着しており、上部のリアサイトは根元から折れて欠落していた。

 

「犯した罪の度合いに応じてゲヘナの風紀委員会か、ヴァルキューレ警察学校に引き渡される。……その後は先生が転校手続きを行う予定だ」

 

タグは走り去る救急車両にも、ミヤコの足元の鉄屑にも一切の視線を向けない。ただ、事実のみを平坦な音声として出力する。

 

ミヤコは顔からタオルを下ろす。

顔の表面の水分が冷たい秋風に晒され、急速に体温を奪っていく肌の感覚。

彼女は赤黒く染まったタオルを両手で固く握りしめ、救急車のテールランプが荒野の向こう側へと小さく消えていくのを無言で見つめ続けた。

 

横に立つサキが、泥と血に汚れた足元のアスファルトから鋭く視線を逸らし、大きく顔を背けた。

首の関節が微かに鳴る音。

 

「……どいつもこいつも、嫌な目をしていた」

 

吐き捨てるような、しかしどこか芯の震えた声。

その後方。ミユの肩が、小刻みに痙攣するように震え始めていた。

スナイパーライフルのスリングがタクティカルベルトのバックルにぶつかり、カチャカチャと乾いた音を立てる。

 

「――みんな、目が怖かったです」

 

泣き出しそうな、細く掠れた声。

 

タグの暗い瞳が、ストレッチャーに乗せられていく元生徒たちの姿を静かに捉える。

ゆっくりとした、一度の深い瞬き。タグの脳裏を、かつて別の星で見た逃亡兵たちの泥まみれの姿が掠めた。

 

「……帰る陣地が無い脱走兵は、皆ああいう目になる。あまり見るなよ――感染るぞ」

 

ミユの歯の根が合わず、カチカチと鳴る微かな音。

サキはタグのその言葉に反論することなく、ただ自身の二の腕を強く抱え込む。

スコープドッグの放つ熱気と、吹き抜ける冷たい秋風が交差するグラウンドに、重く冷たい沈黙だけが降り積もっていった。

 

 

 

タグが吐き出した「帰る陣地をなくした脱走兵は、皆ああいう目になる」という、しゃがれた声の残響がミヤコの耳から離れない。

 

ミヤコは、ストレッチャーで運ばれていく一人の生徒の腕を凝視していた。

その袖口には、泥と血に汚れ、原型を留めないほどボロボロに引き千切れた、かつての所属校のものと思われる刺繍の跡。

ミヤコは自身の左肩に触れる。そこには、汚れ一つないSRT特殊学園の誇り高きエンブレムが鎮座している。

彼女の視線が、足元に転がる「テープを巻かれた錆びたライフル」と、自分の握る「高精度なサブマシンガン」の間を激しく往復する。

 

もし、あの日、先生に会わなければ。

シャーレに属さず、弾薬も、食料も、戻るべき「家」も失い続けていたとしたら――

 

胸の奥から嘔吐感がこみ上げてくる。

 

ミヤコの指先が、ガタガタと制御不能な震えを起こし始める。サブマシンガンが床に落ち、アスファルトの上で乾いた金属音を立てた。

彼女はその場に崩れ落ち、膝を抱え込むようにして身体を丸める。

首筋に浮き出る青い筋。酸素を求めて喘ぐ喉から漏れる、ヒッ、ヒッ、という掠れた過呼吸の音。

ミヤコの瞳孔は、目の前の凄惨な光景を映しながらも、そこにはない「自分たちの無残な姿」を捉えているかのように激しく収縮を繰り返す。

 

「……ミヤコちゃん?」

 

後方で震えていたミユの声が、不自然なほど細く、上ずって響く。

ミヤコの背中は、彫像のように硬直したまま、小刻みに、しかし暴力的なまでの振幅で揺れ始めていた。

 

サキが弾かれたように顔を上げ、ミヤコの横顔を覗き込む。サキの瞳には、ミヤコの青ざめた肌と、異常に剥き出しになった白目が映り込む。

 

「おい、ミヤコ! しっかりしろ、どうしたんだよ!」

 

サキの硬いグローブがミヤコの肩を掴み、激しく揺さぶる。

しかし、ミヤコからの返答はない。

代わりに、彼女の喉の奥から、ヒッ、ヒッ、という、空気が細い管を無理やり通り抜けるような、甲高い過呼吸の音が漏れ始めた。

 

『……RABBIT1、バイタルが異常だよ。何があったの? 応答して!』

 

通信機越しに、モエの余裕の消えた、荒々しい声が響く。

キャンプRABBITのモニターに表示されるミヤコの心拍数を示す波形が、目に見えて鋭く、不規則な乱れを見せ始める。

パチン、というガムの割れる音すらしない、モエの浅い呼吸音だけがインカムに流れる。

 

ミヤコはサキの手を振り払うことすらできず、ただ自身の胸元を掻きむしるように指を動かす。

SRTのエンブレム――その刺繍に指をかけ、引き千切らんばかりに力を込める。

彼女の顎から、冷たい汗が滴り落ちた。

 

 

――不意に、白い手袋が視界を遮った。

 

 

「力を抜いてください。……吸って、吐いて」

 

迅速な、迷いのない足音。

救急医学部、氷室セナの指先がミヤコの首筋の脈を捉え、同時にもう一方の手が救急箱からアンプルを取り出す。

銀色の針が、沈みゆく夕日の光を浴びて一瞬だけ鋭く閃き、ミヤコの首筋へと迷いなく押し当てられた。

 

「っ、あ……」

 

ミヤコの喉から、細い声が漏れる。

直後、激しい過呼吸の音が急速にトーンを落としていく。

焦点の定まらなかった瞳がゆっくりと熱を失い、深い泥の中に沈み込んでいくかのように、彼女の瞼が重く垂れ下がる。

カラン、とミヤコの指から力が抜け、手がアスファルトへ滑り落ちた。

 

セナはミヤコの身体を支え、救急車両へと合流させるよう他の部員に短く指示を出す。

その一部始終を、タグは静かに見下ろしていた。

 

 

大型輸送トラックのディーゼルエンジンが重低音を立てる。

往路と同じ、舗装されていない荒野を走る激しい振動。しかし、車内を満たす空気の質は全く異なっていた――完全な、重く冷え切った沈黙。

 

運転席でステアリングを握るモエは、ガムを膨らますことも一切の軽口を叩くこともなく、ただ前方の暗い道路だけを睨みつけている。

助手席のサキもまた、窓の外を流れる真っ暗な景色を無言で見つめたまま微動だにしない。

 

後部座席の左端、ミヤコは首を深く項垂れ、異常なほど規則的で深い寝息を立てている。

彼女の首元には、セナによって穿たれた注射痕と、消毒用アルコールの匂いが微かに残っていた――強制的な化学物質による、意識と絶望のシャットダウン。

 

『私たちは外傷が専門です、あまりお役に立てず申し訳ありません』

 

意識を失ったミヤコを診療したセナはそう言い残し、丁寧にミヤコをタグへと引き渡した。

 

そして中央の席にいるミユは、左手でそのミヤコの血の気の引いた冷たい指先を、やさしく握りしめている。対して右手は、右端に座るタグの左腕へと力なく伸ばされていた。

ミユの細く震える指が、耐圧服のグローブを外したタグの左手を、縋り付くようにしっかりと握り込んでいる。

極限の恐怖と、体温を奪い尽くす秋風の不快感、そして自身の輪郭すら消え入りそうになる冷たい虚無感の中で、ただ「生きている者の確かな熱と質量」を繋ぎ止めようとする、極めて原始的な身体的欲求が彼女の指先に力を込めさせていた。

 

タグは、そのミユの震える手を振り払うことはしない。

彼の脳裏を、バシリカで弱々しくも握り返してきた聖園ミカの手の感触と優しい熱が掠める。

シートに深く背を預け、ミユの白い指先を時々見下ろしながら、ただ一定の呼吸音だけを暗い車内に響かせている。

 

タイヤがアスファルトの継ぎ目を越える鈍い衝撃音だけが車内を占める。

血と硝煙の匂いを僅かに残したトラックは、D.U.の中心にそびえるサンクトゥムタワーの光を目指して、夜の闇の中をただ真っ直ぐに進み続けていた。

 

 

 

 

分厚いバリケードが隔てるものは、あまりにも残酷な命の格差

兎たちは、己の無力という名の檻の中で、ただ震えることしかできない

正義の天秤は、最初から壊れている

選べるのは二つに一つか、それとも――

 

次回「隔絶」

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