装甲騎兵ボトムズ -蒼の記録-   作:ジミーボーイ

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予告が前話とは変更されています。一時的にこちらのほうにも記載します。



分厚いバリケードが隔てるものは、あまりにも残酷な命の格差
兎たちは、己の無力という名の檻の中で、ただ震えることしかできない
正義の天秤は、最初から壊れている
選べるのは二つに一つか、それとも――

次回「隔絶」


隔絶

崩落したコンクリートの隙間から、アリウス自治区特有の冷たく湿った風が吹き抜ける。

錆びた鉄骨と土埃の匂いが混ざり合う廃墟区画の交差点。その一角に構築された仮設バリケードの裏で、RABBIT小隊の小隊長、月雪ミヤコは愛銃のグリップを静かに握り直した。

 

「……ミヤコ。顔色が悪いぞ。少し休め」

 

横から発せられたサキの声に、ミヤコはゆっくりと首を横に振る。

先日制圧した廃校の生徒たちの『帰る場所を失った眼』に睨まれる悪夢に、ミヤコが苦しんでいることは、他の小隊員の知るところだった。

 

「問題ありません。交代の時間までは、まだ十五分あります」

 

瞬きを一度だけ深く落とし、前方を睨む。呼吸は規則的、手袋越しの指先の震えもない。

外見上、ミヤコは冷静なエリート小隊長の姿を完全に取り戻していた。

だが、その視線の先――バリケードの向こう側で展開されている光景が、彼女の網膜を無情に灼き続ける。

 

数十メートル先の瓦礫の広場。そこに立つのは、着慣れた赤い耐圧服を纏い威圧感を放つタグと、白いカーディガンを羽織った聖園ミカの二人だ。

彼らを遠巻きに取り囲むように、ボロボロの制服を着たアリウス分校の生徒たちが、警戒と怯えの混じった視線を向けている。武装はしているが、銃口は下がっていた。

 

ミカがゆっくりと一歩前に出る。アリウスの生徒たちがビクッと肩を揺らす。

かつて憎悪をぶつけ合った相手。しかし、ミカの横に立つタグ――その背後にて降着姿勢で沈黙するスコープドッグの姿を確認したアリウス生徒たちの目には、明らかな安堵の色が宿っていた。

言葉の届かない距離。だが、対話が成立していることだけは、アリウス生徒たちの強張った表情が少しずつほぐれている様子から見て取れた。

 

「……私たち、ここで何やってるんだろうね」

 

モエが通信機のモニターから目を離さず、乾いた声で呟いた。

周囲の防衛ラインを固めているのは、無表情に周囲を睨む正義実現委員会所属の生徒たちと、端正な仕草で防衛線を構築するシスターフッドのシスターたち。

後方には救護騎士団によって仮設されたテントがいくつも展開されている。

その三大組織の包囲網の中で、RABBIT小隊に与えられたポジションは、最後尾に近い予備警戒だった。

 

「仕方ないですよ。私たちは……他校の生徒ですから」

 

ミヤコは乾いた唇を舐め、前方のタグの背中から視線を逸らした。

ローテーションの交代時刻を告げる電子音が鳴る。引き継ぎに来たシスター数人が、ミヤコたちのSRTのエンブレムを一瞥し、どこか腫れ物に触れるような丁寧さで頭を下げた。

 

「お疲れ様です、SRTの皆さん。引き継ぎを行います」

 

「よろしくお願いします」

 

代表してミヤコが淡々と対応する。

四人は無言のままバリケードを離れ、少し離れた場所に設営された仮設の休憩用テントへと足を踏み入れた。

 

ストーブの熱気と、備え付けのポットから漂う芳醇な茶葉の香りに満たされたテント内部は、廃墟の只中とは思えないほど快適に保たれていた。

パイプ椅子に腰を下ろしたサキは、最初は苛立ちに任せて乱暴にヘルメットを脱ごうとしたが――予想外の快適さに毒気を抜かれたのか、静かにヘルメットをテーブルへと置いた。

 

「護衛任務というよりは見学任務だな、これ。トリニティの連中、完全に私たちを蚊帳の外に置いてやがる」

 

サキの言葉に、誰も反論しなかった。

テーブルに置かれたポットの紅茶を、紙コップ四つに注ぐミユ。

 

「お砂糖、どうする?」

 

「私は小さじ一で。ありがとう、ミユ」

 

「小さじ三ね」

 

「モエ、入れすぎだろ。ミヤコと同じ小さじ一で」

 

「モエちゃんはお茶も甘いのが好きだよね……」と小さく呟きながら、ミユは指定された分の砂糖を静かに沈めていく。スプーンが紙コップの底を擦るカサカサという音だけがテントに響いた。

 

配られた紙コップに口をつける四人。

 

「……何これ。トリニティの子って、普段からこんなお茶飲んでるの?」

 

モエが思わず眼鏡の奥の目を丸くした。(砂糖、入れるんじゃなかったな)と内心で後悔する。

ティーバッグなどの安物の味ではない。砂糖の甘さがむしろ邪魔になるほど、上質な茶葉の味がした。

 

「邪魔者扱いされてるのかと思ったけど、そうでもないのか?」

 

熱い紅茶を啜りながら、サキが複雑な表情を浮かべる。

 

「『お代わり、お好きにどうぞ』だってさ」

 

「装備もそうですが、資金力が違いすぎますね。ただの予備警戒の休憩所に用意されたお茶一つで、この質です」

 

ミヤコが自らの紙コップを見つめ、微かに目を伏せた。

 

(そういえばこの香り、隊長と一緒に飲んでいる紅茶によく似ている……。もしかして同じ品種?)

 

時々、シャーレでタグやミカと一緒に茶を楽しむ時間を思い出し、ミユは紙コップの温もりに指を這わせた。

 

 

テント内に、モエのPC端末を叩く硬質な打鍵音が響く。

 

「先生と隊長が私たちをこの作戦に組み込んだ意味、考えたんだけどさ。他校の精鋭部隊との共同作戦、特異な廃墟区画での防衛構築。そうそう経験できるものじゃないんだよね」

 

モニターの青白い光が、モエの眼鏡のレンズに反射する。

 

「部隊の展開速度、他組織間の通信プロトコル、この地形での視界確保のノウハウ。頭下げたって手に入るもんじゃない。私たちの戦術をアップデートする、最高の教材なんだよね」

 

その言葉に、サキが小さく鼻を鳴らし、パイプ椅子に深く背中を預けた。軋む音がテントに響く。

 

「モエの言う通りだな。なるほど、まさしく見学任務ってわけだったか」

 

ミヤコはゆっくりと膝の上から手を離し、手袋のシワを伸ばした。

深く息を吸い込み、ストーブの熱気を肺に満たす。

 

「そうですね。……この一分一秒が、私たちにとって貴重な戦訓になります」

 

ミヤコは自らを奮い立たせるように、前日のブリーフィングを脳裏に思い出す。

 

 

 

昨日、シャーレの地下作戦室

 

 

落とされた照明の中、直立している先生の背後にある大型スクリーンには、『エデン事変・事後評価レポート(部外秘)』と印字されたタイトルが映し出されていた。

 

「エデン条約を巡る一連の事件――通称エデン事変について説明するよ」

 

先生の手が上がる。それに応じるように、暗闇の教壇の袖から乾いたマウスのクリック音が響き、スライドが切り替わった。

破壊された古聖堂、弾痕にまみれたトリニティ自治区、そして燃え残った灰を撒き散らしたようなアリウス自治区の画像が、冷たい光となって少女たちの顔を白く照らす。

 

「条約の破綻や、武力衝突の経緯自体は、今回重要じゃない。重要なのは、この事変を経て、トリニティ総合学園の勢力図が完全に書き換わったという事実だね」

 

プロジェクターの冷却ファンが発する低い排気音だけが、静かな室内に響き続ける。

先生の声に感情の色はなく、純粋な戦術的ファクトのみを提示する教官のそれだった。

 

「今後、みんながトリニティ自治区内とその関連施設で作戦行動を行う場合、現在の勢力図を理解していなければ、致命的な判断ミスを招くことになるから注意して聞いてね」

 

スクリーンには、トリニティの校章とともに、学園を統治する主要三派閥のエンブレムが表示された。

 

パテル、フィリウス、サンクトゥス。

「3」という数字を重用し、三頭政治を敷く巨大学園の根幹。

 

「エデン事変後、この三つの派閥は大きく様変わりした。まずここから解説する」

 

スクリーンの光が、先生の眼鏡のレンズを青く染める。

先生の声に合わせて再び硬質なクリック音が鳴ると、トリニティ総合学園の組織図が砂の城のように崩れ、大きく書き換えられていった。

 

「まず、現在の最大派閥。これは桐藤ナギサをトップとするフィリウス分派」

 

画面に表示されたナギサの肖像と、それに連なる膨大な数の所属組織のリスト。ミヤコはその数に小さく眉をひそめた。傍目から見ても、それは明らかに許容量を超えて肥大化しているように見えた。

 

「数だけで言えば圧倒的。だけど内情はフィリウス本来の構成員だけでなく、事変後に様々な事情で分離した雑多な中小派閥が大量に合流している。

結果として、意思決定に時間がかかる“鈍い巨人”と化しているのが現状だ。こうなった理由は、後述するね」

 

先生の声は抑揚を欠いたまま、次のスライドへと移行する。

そこに映し出された肖像を見た瞬間、RABBIT小隊の四人が同時に小さく息を呑んだ。

その肖像は、小隊がシャーレで毎日顔を合わせる少女――聖園ミカだったからだ。

 

「二つ目の主要派閥。シスターフッド、分裂したパテル分派の主流派が合流した連合勢力。……そのトップに据えられているのが、聖園ミカだ」

 

「待ってください」

 

ミヤコが思わず手を挙げ、視線を先生へと向けた。

 

「ミカせんぱ……聖園ミカは、エデン事変の責任を問われ、公的にはシャーレでの奉仕活動を含む謹慎処分のはずです。そのような生徒が、学園の最大武力を含む派閥のトップに就くなど……」

 

「普通ならあり得ない。だが、トリニティにおいては武力と信仰が政治に直結する。ミカ、聖女バルバラのスライドをお願い」

 

先生に促され、暗闇の中でノートPCの画面を見つめていたミカの指が、キーボードを叩いた。パチリ、と静かな音が室内に響く。

いつもなら「はーい!」と大袈裟に手を挙げるはずの彼女が、驚くほど静かに、ただ真剣な横顔のままスライドを指先一つで差し替えてみせた。

 

スクリーンに古い書の1ページが表示される。そこには、厳かなヘイローの紋様が記されていた。

 

「事変の際、首謀者であるベアトリーチェが複製(ミメシス)として呼び出した、ユスティナ聖徒会の長――聖女バルバラ。実在すら疑われていたトリニティにおける伝説的存在である聖女を、

ミカは共同という形とはいえ、完全に退けた。この事実が判明した瞬間、宗教組織であるシスターフッドは一丸となって彼女の後ろ盾になることを決定したんだ」

 

生徒たちの学校机の上に広げられた資料のページがめくられる摩擦音が、暗い室内にやけに大きく響く。

 

「伝説上の聖女から課せられた試練を克服する――それはシスターフッドにとって言葉にできないほどの偉業なんだ。同時にパテルの主流派にとっては、自らの長を再評価し盛り立てるための

絶対的な旗印となった。ただし、納得できないパテルの少数派は離反し、先ほどのフィリウス分派へ逃げ込む形で合流している」

 

再びミカの指が動き、スライドが切り替わる。最後に表示されたのは、蒼森ミネの肖像。

 

「最後の派閥、それはサンクトゥス分派の一部と救護騎士団、騎士団の支持母体であるヨハネ分派との合流派閥。トップはサンクトゥスの長である百合園セイア……ではなく、救護騎士団長でありヨハネ分派首長の蒼森ミネ」

 

ティーパーティーではない人物が派閥の長に就いているという異常な歪さに、RABBIT小隊の面々は無言のまま画面を凝視するしかなかった。

 

「本来の長であるセイアは、事変の前段階で起きた襲撃が原因で長期療養していた。その結果として出席日数が足りず、3年生への進級が認められなかった。

つまり、現在セイアは2年生として留年している。政治的指導者としてのこの傷は中々に重い。結果として、彼女の療養中に身柄を保護していた救護騎士団のミネが、サンクトゥスの残党も含めた新派閥の長に祭り上げられる形となった」

 

先生は教壇上に置かれている、冷えたお茶のペットボトルに手を伸ばした。キャップがパキリと乾いた音を立てて開く。

 

「ミネ自身、この政治的な座に就くことには積極的だ。トリニティの現在のパワーバランスは、この歪な三つの均衡によって辛うじて保たれている」

 

先生がペットボトルに口をつけている間、スクリーンの組織図がさらに細分化され、サンクトゥス分派からフィリウス分派へと伸びる無数の矢印が血のように赤く明滅した。

 

「サンクトゥス分派が実質的に分裂し、最大派閥であるナギサの元へ合流した理由は……失礼だけど、トリニティにしては極めて人情的なものだ」

 

先生はペットボトルから持ち替えた手元の資料に目を落とす。そして静かに言葉を続けた。

 

「本来、ティーパーティーのホストはセイアが就くはずだった。だが、長期療養者に実務能力なんて無い。結果としてその重責のすべてがナギサの肩へと長い間押し付けられることになった。突然のホスト就任という激務の中、ナギサが人間不信に陥るまで神経をすり減らしていく様を、一番近くで見続けていたのがサンクトゥス派の面々だ」

 

ミヤコは黙って先生の横顔を見つめた。

政治的な駆け引きや教義の対立ではなく、一人の生徒が背負わされた過酷な現実への同情。それが巨大な学園の勢力図を動かしたという事実に、サキも小さく息を漏らす。

 

「セイアが戻ってきたからといって、何事もなかったかのように元の鞘に戻ることを、彼女らのプライド、あるいは良心が拒んだんだろう。個人的には理解できるよ。……そして、残されたサンクトゥス分派を吸収する形でトップに立ったミネが、なぜ政治に積極的なのか」

 

先生の視線が、RABBIT小隊の4人が座る学校机――その一列後ろの暗がりへと向けられた。

そこには、シャーレ支給の戦闘服を纏った四人の少女――アリウススクワッドが学校机に収まっていた。

先生の視線が届いた瞬間、最も壁際にいた錠前サオリの肩が、微かに強張るのがミヤコの視界の端に見えた。その横で、ヒヨリが自身の指先をぎゅっと握りしめ、布地が擦れる衣擦れの音が暗闇に小さく爆ぜる。

 

「彼女の目的を達成するために必要なポジションだからだ。彼女の目的、それはアリウス分校のトリニティ総合学園への編入。つまり、完全な吸収合併だ」

 

 

衣服が擦れる音が、暗闇の中でいくつも重なる。

サオリ、ミサキ、ヒヨリ、そしてアツコの四人が、図らずも同時にその身体を小さく震わせた。ミヤコの視界の端で、彼女たちの指先が自らの膝を強く、布地が引き攣れるほどに掴むのが見えた。

 

「短絡的に見れば、他学園の自治を暴力的に奪う愚行に思えるかもしれない。だが、そうせざるを得ない理由がミネの中にはある」

 

先生が手を挙げると、教壇の袖からミカが操作するマウスの硬いクリック音が響き、スライドが切り替わった。

表示されたのは、無機質な数値とグラフの羅列。タイトルには『アリウス自治区内登録済生徒・健康および学力推移調査』とあった。

 

画面に映し出された文字を追う生徒たちの目が、プロジェクターの青白い光を反射する。

ミユが目を大きく見開き、サキが息を呑む。一方で、操作を行っていたミカは、その凄惨なデータから逃れるようにうっすらと伏し目がちになっていた。

 

そこに並んでいたのは、悲惨という言葉すら生温い現実。

平均栄養摂取量の著しい不足。体重や身長、それ以外も全てにおいて平均値を大きく割り込む身体データ。適切な治療を施されず、歪な形で接合したまま放置された骨折や銃創のエックス線写真。

そして、初等教育すら満足に受けていないことを示す、壊滅的な学力テストの白紙解答。

 

未だ行方不明の生徒が多く、空白だらけの未完成な資料。しかし、そこに刻まれた数値の一つ一つが、アリウスの生徒たちがこれまで呼吸してきた世界が煉獄そのものであったことを、冷酷に証明していた。

 

――救護騎士団長、蒼森ミネ。

彼女の「救護」とは、目の前の負傷者を治療することに留まらない。

目の前で朽ち果てていく一つの学園そのものを、その凄まじい武力と財力、政治力をもってトリニティの枠組みに叩き込み、強制的に生存圏を確保させる。

それがどれほど歪な未来を生もうとも、彼女は目の前の命を見捨てることだけは絶対にしない。

 

「……なんて、世界」

 

ミヤコは乾いた声で呟き、自らの綺麗な手袋を見つめた。

傍目には恵まれた環境で育った自分たち。そして、想像を絶する地獄で泥を啜り続けてきたアリウスの少女たち。

思惑が絡んでいるとはいえ、彼女たちを力尽くで救い上げようとするトリニティの怪物たち。

巨大な意思の奔流の中で、RABBIT小隊の面々の存在がいかに小さく、牧歌的なものであるかを、突きつけられたデータの冷たさが教えていた。

 

プロジェクターの冷却ファンが、熱を帯びた風を作戦室の隅へと送り続けている。

スクリーン上の組織図から、さらに“編入問題”と題された3つの矢印が派生し、それぞれ異なる色で点滅を始めた。

 

「このアリウス分校の編入、つまり吸収合併に関してだけど、トリニティの内部はこれまた見事に3つのスタンスに分裂しているんだ」

 

先生は僅かに息を吐いた。パテル、フィリウス、サンクトゥス。そして今回の編入、維持、保留。

(つくづく、この学園には3という数字が付き纏う)

思考の隅でそう冷静に分析しながら、先生は再び口を開く。

 

「一つ目は、ミネを代表とする“編入派”。理由は先ほど提示した悲惨な医療・教育データの件がある。だがそれ以上の理由として、歴史を紐解けばアリウスは元々、かつての古いトリニティ自治区に属していた同胞だという認識が、ミネや一部の生徒たちの中にはある。これ以上事態が手遅れになる前に、すべての責任をトリニティが背負って彼らを迎え入れるべきだ、という純然たる使命感だね」

 

コツン、と先生の指先がスクリーンを叩く。

アツコが深く被ったフードの奥で視線を床へと落とす。その横でミサキが自らの腕に爪先を立てて――溜息一つと共に、爪先を離した。

果たして、当事者であるアリウススクワッドがどのような思いで今の話を聞いているのか――RABBIT小隊の誰一人として、その内面の一端にたどり着くことは不可能だった。

 

「二つ目は、“編入反対派”――いや、正確にはアリウス分校の維持派と呼ぶべきかな。これを主に主張しているのが、シスターフッドの歌住サクラコ。そして」

 

先生の視線が、ノートPCに手を置いたまま静止している生徒――ミカの方へと向けられた。

 

「大きく声には出せないが、ミカもこの維持派に同調している。根拠としては、トリニティへの編入を行うことは、すなわちアリウスの自治権を完全に剥奪することを意味するからだ。それによって、アリウス分校の生徒達が長い間迫害されながらも維持し続けてきた“アリウス分校としてのアイデンティティ”までをも奪い去ることの重大さを、深く考えるべきだと維持派は主張している」

 

ミヤコは、じっと先生の言葉を反芻した。

 

――生存のためにすべてを差し出すか。地獄であっても己の誇りを維持するか。

 

「……非常に難しい問題だ。もしこの件でトリニティ総合学園から正式に相談されたとしても、今の僕には、どちらが正しいとも、どうすべきだとも意見を言うことはできないよ」

 

先生の声には、明確な苦渋の響きが混ざっていた。

マウスに置かれていたミカの指先が、その重苦しいトーンに合わせるようにピクリと動き、そして完全に沈黙する。

 

「最後の一つが、中立……あるいは日和見と受け取られかねないスタンスだ。これが、ナギサだ」

 

サキが「なんでまた?」と、声には出さず唇の動きだけで呟いた。

 

「彼女は双方の代表者に対して、こう答えている。『ティーパーティーのホストのみが閲覧を許された歴史資料をすべて確認し、精査した上で最終的な判断を下す』と。

それまでは一切の返答を保留する姿勢だ。ただし、政治的な判断は保留していても、現地への物資輸送や人道的な医療救助に関しては、彼女もミネに負けず劣らず積極的だよ。……そこはやはり、彼女もトリニティの生徒だからね」

 

ミヤコは知らず知らずのうちに、学校机の横に立て掛けた愛銃の冷たいレシーバーに指を這わせ、その金属の感触を確かめていた。

 

――トリニティという巨大な怪物、それぞれの正義。それに引きずられるアリウスの少女たち。

その全容を前にして、自分達が背負っている“SRTの正義を示す”という主張活動が、あまりにも小さく、色褪せたものに思えてならなかった。

胸の奥をキリキリと締め付けるような焦燥感が這い上がってくる。ミヤコはその感情を、浅い呼吸の中に無理やり押し込めた。

 

プロジェクターの冷却ファンが静かに回転を止め、スクリーンに映し出されたスライドがフッと消える。

作戦室の明かりが点くまでの僅かな間、先生は無意識に、誰も座っていない正面のパイプ椅子へと視線を向けた。

 

脳裏に浮かぶのは、無表情でそこに腰掛け、ただ状況を冷徹に監視しているはずの鉄面皮の兵士。

正解が見つからないこの問題に、彼はどのような意見を持ち合わせるのだろうか。

 

(アビドスの一件から帰ってきたら、一度彼の意見を聞いてみよう)

 

直後、天井の蛍光灯が一斉に白い光を放った。暗闇に慣れていた網膜が、一瞬だけ鋭く灼かれる。

それと同時に、厚い防音扉がゆっくりと開き、廊下で待機していた黒崎コユキがそわそわと室内に足を踏み入れてきた。

複雑な政治闘争や、部外秘とされるアリウスの凄惨なデータ。彼女の精神的負荷と機密保持を考慮し、一時的に席を外させていたのだ。

 

スクリーンのケーブルを丁寧に巻き取っていたミカが、コユキの姿を見るなり、ふわりと笑みを浮かべた。

 

「コユキちゃん、偉い偉い。ちゃんと良い子で待ってたね」

 

「にははは! シャーレの廊下の防犯カメラの死角、バッチリ3箇所見つけちゃいましたから退屈しませんでしたよ!」

 

調子に乗って胸を張るコユキを適度にあしらいながら、先生は改めて室内の8人へと向き直った。

――椅子に深く腰掛けたままのRABBIT小隊と、微かな緊張を孕んだアリウススクワッド。

 

「……明日のアリウス自治区。未だ残っているアリウス分校の生徒たちへの聞き取りと説得には、前回と同じくタグさんとミカが向かう」

 

先生の声が、硬質な作戦室の壁に冷たく反射する。

 

「RABBIT小隊。君たちには、二人の身辺警護と外周バリケードの維持をお願いする。以後はタグさんの指示を仰ぐように。……解散」

 

 

 

現在――アリウス自治区・仮設休憩テント

 

ストーブの上で、アルミ製のケトルがシュンシュンと頼りない音を立てて蒸気を吹き出している。

サキはパイプ椅子の背もたれに頭を預け、煤けたテントの天井をじっと睨みつけていた。

 

「サオリ先輩たちには辛いよな、この任務は」

 

ぽつりと言葉が零れ、ストーブの熱気に混ざって消えた。

誰もその言葉を否定しなかった。

 

前日の作戦室で提示された、アリウスの凄惨な現実。そして、残酷な指導者に従わされ、キヴォトスの三大学園のうち二つを文字通り敵に回したという厳然たる事実。

そのすべての当事者であるスクワッドの四人を、灰と瓦礫に埋もれたこの自治区に立たせ、かつての同胞たちと銃口を向け合わせる。それが彼女たちの精神にどれほどの痛手を与えるか、RABBIT小隊には容易に想像がついた。

 

だからこそ、先生は彼女たちを前線から外した。

代わりに最前線の瓦礫に立つのは、かつてアリウスを憎み、破壊し尽くそうとしながらも今は過去を清算し、改めて協調を試みる聖園ミカ。

そして、かつてこのアリウス自治区を圧倒的な暴力で火の海に包んだ張本人でありながら――結果だけを語れば、彼女たちを長年虐げてきた大人や教官を自治区から一掃するきっかけを作った、赤い耐圧服の兵士、タグ。

破壊者であり、同時に解放者でもある。

その二人がすべての矢面に立って語りかけてくるという事実が、バリケードの向こうにいるアリウスの迷い子たちにとって、一体どれほどの救いとなっているのだろうか。

 

「……冷めますよ」

 

ミヤコの声に促されるように、他三人は手元の紙コップへと視線を落とした。

ストーブの熱に焙られながらも、上質な茶葉の香りは未だに失われていない。

 

贅沢すぎる紅茶を、四人は再び静かに口へと含んだ。

温かい液体が喉を通り抜ける微かな音と、ケトルの蒸気音だけがテントを満たす。

長い歴史の因縁と、怪物たちの正義。その巨大な濁流の前で、今の自分たちには、ただ無言で牙を研ぎ澄まし、この苦い熱さを噛み締める以外に術はなかった。

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