装甲騎兵ボトムズ -蒼の記録-   作:ジミーボーイ

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季節(前編)

シャーレビル、一階エントランス

 

 

自動ドアが静かに開く。温度管理された空調の風が、入館した蒼森ミネの肌を冷たく撫でた。

高い天井を持つロビーは、静寂に包まれていた。

 

「ご訪問ですね、先生は在室しております。認証ゲートにて、生徒証明書の提示をお願いします」

 

エントランスに直立するヴァルキューレ警察学校の生徒が、ミネへ向けて短く顎を引く。

 

――受付机に一人、認証ゲートに一人。外の警備詰め所と巡回を含めればこれで五人目。

 

どの警備も背筋を伸ばして姿勢を正している。保持するヴァルキューレ制式ライフルには曇り一つなく、硬質な照明を反射して鈍く光っていた。

 

「案内、ありがとうございます」

 

ミネは歩みを止めず、エントランスの中央を塞ぐように設置された認証ゲートへと向かう。

 

ゲートのパネルに、自身のIDカード入りの生徒手帳を押し当てる。プラスチックと強化ガラスが触れ合う硬い感触の直後、青いレーザー光が手帳のホログラムを上下に走査した。

『ピッ』という短く無機質な電子承認音が響き、重厚なフラッパーゲートが滑らかに開く。

 

ゲートを通過するミネに対し、警備に立つヴァルキューレの生徒たちが、衣服を鋭く擦過させる音を立てて、一斉に敬礼を送った。

 

(厳格な入退出管理ですね。出入り自由なことは変わっていませんが)

 

ミネはエレベーターホールへと歩を進める。

端末を取り出し、これから訪問する旨の短いメッセージを送信すると、上層階へ向かうための呼び出しボタンを指で深く押し込んだ。

 

 

乾燥した空調の風が、シャーレ執務室の書類を微かに揺らしている。

規則的なキーボードの打鍵音と、紙が擦れるカサカサという乾いた音が空間を支配していた。

時々、万年筆を紙にサインする音も混じる。

 

部屋の隅にある座り心地の良いソファでは、奉仕活動で訪れていた聖園ミカが、端末の画面を見つめながら脚を揺らしている。

シャーレにある家具のいくつかは、ミカによって高級品に差し換えられている。

ミカに言わせれば「二人とも作業環境に関心が無さすぎる」とのことだ。

 

不意に、ミカのスマートフォンが短い電子音を鳴らした。

画面に視線を落としたミカの目が、微かに丸くなる。スマホの画面を軽く叩き、顔を上げる。

 

「先生、タグさん。救護騎士団のミネちゃんからメッセージ。今からタグさんに直接会って、話したいことがあるって」

 

その言葉の語尾が空気に溶け切るより早く、執務机の端に設置されたインターホンから鋭い電子音が鳴り響いた。

直後、モニターのスピーカーから、1階エントランスに配備されたヴァルキューレ生徒の音声が室内に流れる。

 

『執務室、聞こえますか。1階警備より報告。先ほど、トリニティ総合学園の蒼森ミネさんがそちらへ向かいました。ゲートの入館認証は確認済みです』

 

先生とタグのキーボードを叩く手がピタリと止まる。

 

事前の通達から警備の無線報告、そして到着までのタイムラグが皆無――エレベーター内、あるいは既に廊下を歩きながらメッセージを送信したという事実が大人と兵士、二人の脳裏で即座に推測される。

当事者となる予定のタグが変わらぬ鉄面皮のまま、机横のインターホンのモニターへと視線を向けた。

小さな液晶画面には、真っ直ぐにインターホンのカメラを見据える蒼森ミネの姿が映し出されている。

 

見覚えのある姿を確認したタグは、オートロックの解錠ボタンを押す。

カチャリ、と重い電子ロックが外れる音が鳴り、分厚い扉が自動で開く。廊下の白いLED灯を背に、ミネの長身が執務室の入り口に立っていた。

微かな香水の匂いが執務室へと流れ込んだことに気付いたタグの視線が、ミネの表情とその手にあるシールドの保持状態を瞬時に確認する――敵意は見当たらず、筋肉の過度な緊張も見られない。

 

「こんにちは、ミネ。急にどうしたんだい?」

 

突然の訪問に驚きは無いが、疑問を持った先生が尋ねる。

ミネは室内のタグと静かに視線を合わせると、まず自身の装備であるショットガンを訪問生徒用のガンホルダーに収め、次に手にしたシールドをその横に立てかけた。ガコン、と重厚な金属音が鳴る。

武装を解き、一人の相談者として訪れたという意思表示である。

 

「こんにちは、先生、タグ様。そして朝ぶりです、ミカ様。突然の訪問、申し訳ありません。今日はタグ様に用事がありまして……少しだけ、お時間をいただけますか」

 

落ち着いた声が執務室に響く。

タグは無言のまま視線を先生へと向ける――業務からの離脱許可を求めるアイコンタクトだ。

 

「断る理由はないよ。タグさん、対応お願いね」

 

「休憩室で対応しよう」

 

タグは執務机から立ち上がると、面会のために休憩室の方向を指し示した。

 

 

 

シャーレの休憩室

 

 

円形のテーブルを挟み、タグとミネが対座している。

ミネの、救護騎士団の制服である純白の手袋に包まれた両手は、膝の上で決して解けない結び目のように固く組まれている。

 

「要件とは直接関係ありませんが、まず先日の廃園の件、改めてお礼を」

 

ミネが立ち上がり、見事な一礼を見せた。

 

「座ってくれ。こちらも無理をお願いした身だ」

 

「……タグ様のご要望の件、ナギサ様にお伝えしてあります。連邦生徒会へ、廃園で拘束した元生徒の情状酌量と減刑を求める嘆願書の作成を、その場で引き受けてくださいました」

 

「不思議に思うか?」

 

「いいえ。最終報告書は私も確認しています。拘束した元生徒のほとんどが、廃園が健在な頃に在籍していたこと。そして占拠した理由が、廃園の再開を目指していたことも」

 

「あの廃園は、彼女達にとっての故郷だった。俺はそれを再び奪った」

 

淡々と説明するタグの姿が、ミネには何故か小さく見えてきた。

 

「だから、減刑の嘆願を?」

 

ミネの問いに、タグは視線を伏せた。思わず口に何かを含みたくなったものの、休憩室の奥では、まだミカが紅茶を淹れている最中だった。

 

 

――人の焦げた臭い、そして何もかも燃え落ちて灰になった風景がタグの脳裏をよぎる。

 

 

「彼女たちが俺に向けた目を思い出す。星を焼かれ、生きる場所を奪われた人間の……感情の行き場を失くした目だ」

 

吐き出される声。その伏せた目の奥には計り知れない闇がある。

ミネは、タグがキヴォトスに来る前にしてきた所業は知らない。しかし、兵士と自称している以上、相応に業を重ねたであろうことは想像がついた。

 

「見飽きるほど見てきた目だ。……酷いことを言うとな、前は何も感じなかった。キヴォトスに来てから……思うところが出来た」

 

「……タグ様は、彼女達の努力を踏みにじったことへの責任を感じておいでで?」

 

「かもしれん。こうなったこと自体は、あいつらが無法者と呼ばれるだけのことを仕出かした結果だ。だからといって、全てを正当化していいわけではない」

 

質問への返答が、この兵士にしては言い訳がましいと感じるのは、ミネの感傷だろうか。

彼女は膝の上で組んだ純白の手袋を見つめ、僅かに口元を綻ばせた。

 

休憩室の奥からは、ミカが磁器のティーポットへ手際よく熱湯を注ぐ、サラサラという滑らかな水音が響いている。

カップとソーサーが触れ合うカチリという小さな音が静寂に混じり、やがて華やかな紅茶の香りが室内の乾燥した空気にゆっくりと広がっていく。

 

「不器用な、あるいは無自覚な救護の意志だと私は受け止めます。彼女たちへ手を差し伸べよう、という考えは間違いではないのですから」

 

凛とした声が卓を挟んでタグの鼓膜に届いた。

タグは伏せていた視線をゆっくりと上げ、正面に座るミネの真っ直ぐな瞳を見つめ返す。

 

「誉め言葉と思っていいのか」

 

「はい」

 

「そうか」

 

短く返したタグの肩から、力が抜ける。小さく見えていた彼の輪郭が、元の大きさを取り戻すのをミネは視界に捉えていた。

 

 

 

ミネは静かに居住まいを正し、組んでいた両手を解いて膝の上に置き直した。背筋をさらに一段、定規で測ったかのように真っ直ぐに伸ばす。

その澄んだ瞳から微かな笑みが消え、事実を究明しようとする静かな熱を帯びた視線が、真っ直ぐタグへと向けられた。

 

「少々、横道に逸れてしまいましたね――タグ様、単刀直入に伺います」

 

ミネから、先ほどまでの穏やかさが完全に削ぎ落とされる。それは戦場に臨む救護騎士団長の姿勢そのものだ。

 

「私の友人であり、タグ様もご存じのセリナの様子がここ最近、明らかにおかしいのです。以前に比べて表情に影が差すようになり、非番の日は自室や図書館に籠り、医学書などを読み漁っています」

 

ミネの強固な視線が、タグの鉄面皮を捉えて離さない。

 

「彼女が熱心に学ぶことは素晴らしいです。しかし、あれは救護への情熱ではなく……自身の無力感に苛まれ、何かから逃避しているかのような、自罰的な行動です」

 

ミネは短く息を吸い込み、声のトーンをさらに一段階落として対峙した。

 

「タグ様、貴方が検査入院の結果についてセリナから説明を受けた日に、何か決定的な出来事があったのではありませんか?」

 

換気扇の回る低い駆動音だけが、二人の間に流れる。

 

タグの死んだ魚のような瞳は、一切の光を反射しないままミネを見返していた。

脳裏をよぎるのは、検査結果を見て涙を流し、崩れ落ちたセリナの姿――異変の原因が、己の身体の事実を確認したことなのは間違いないだろう。

しかし、自身の身体の秘密は話題に挙げられない。それは隠さなければならないことであり、何よりセリナ自身に「誰にも言うな」と強要した秘密なのだから。

 

「……俺の口から、言えることは何もない」

 

しゃがれた、削り出されたような声がテーブルに落ちる――肯定も否定もしない、情報の完全な遮断である。

ミネの組まれた指先が微かに力み、純白の手袋がギュッと軋む音を立てた。彼女の眉根が僅かに寄る。

先ほど、廃園の無法者たちに対して救護の意志を見せた男の口から出た、あまりにも冷淡な拒絶。

その明らかな矛盾を、ミネの観察眼が逃すはずはなかった。

 

「患者としての貴方のプライバシーは尊重します。守秘義務を遵守している以上、私から無理に聞き出すことはいたしません。ですが、原因の一端が貴方にあるのなら……大人として、生徒のケアをする義務があるのではないですか?」

 

ミネの追求は一人の生徒の精神的摩耗を危惧する、正当かつ論理的な刃だった。

タグは表情一つ変えず、事実のみを口にする。

 

「その言い分はもっともだ。とはいえ、それを解決するためには俺のプライバシーに接触することになる。……俺からは何も出来ない」

 

だが、ミネはその言葉を許さなかった。

 

「堂々めぐりは好みません。出来ない、というのは……いささか無責任に聞こえます」

 

刺すようなミネの眼光。彼という人間の本質に、僅かながらでも触れた直後であるからこそ、その言葉には隠しきれない強い感情が籠もっていた。

二人の間に、冷たく張り詰めた緊張が走る。タグが沈黙のまま次の反論を構築しようとした、その時――

 

「はい、お話の途中でごめんね。……ミネちゃんほど上手には淹れられないけど」

 

カチャリ、と澄んだ陶器の音が鳴り、テーブルの脇から二つのティーカップとソーサーが滑り込んできた。

直後、甘く、渋みのある紅茶の深い香りが立ち上り、二人の間に張り詰めていた緊張の糸を物理的に解していく。

 

 

お盆を抱えたミカが、柔らかな笑みを浮かべながらタグの隣に立つ。

 

「話、聞こえちゃった。……提案なんだけど、口で何もできないなら、行動を起こすのはどうかな?例えば、一緒に出かけるとか。気晴らしにはなると思うんだ」

 

「一緒に出かける、ですか」

 

ミネが戸惑ったようにミカを見上げる。

 

「うん。セリナちゃんが悩みを抱えてるなら、まずタグさんが向き合ってあげるのがいいと思うの。先生ならそうしていたよ」

 

ミカの瞳が、斜め上から覗き込むようにタグの視線を捉えた。

淡い琥珀のような瞳には、打算は浮かんでいない。純粋な、しかし有無を言わせぬ確かな視線を伴って、兵士の鉄面皮を見つめていた。

 

タグは視線を逃がすように、手元のティーカップへと落とす。

褐色の水面に、自身の瞳が無表情に揺れながら映り込んでいた。

 

(心理面でケアしろということか)

 

自分にできるのは、ATを操縦することと、その延長線上の行動である破壊だけだ。

しかし、隣から向けられるミカの真っ直ぐな視線を受けながら、ただ「出来ない」と切り捨てることには、己自身に対する奇妙な拒絶感が湧き上がった。

 

換気扇の低い駆動音、そして鼻につかない紅茶の香りだけが部屋を占める。

 

戦場であれば、この十秒の空白は即座に致命的な状況に繋がっただろう。

静寂の中で、ただ“人間関係の選択”のためだけに思考能力を消費しているという現実。

タグはその硬直した時間そのものに奇妙な平時の贅沢さと、僅かなむず痒さのような戸惑いを覚えていた。

 

「……分かった。日程は調整する」

 

やがて、タグのしゃがれた声が短く肯定を告げた。

 

「よろしいのですか?」

 

ミネが僅かに目を見開く。

純白の手袋に包まれた指先が、驚きを示すようビクッと跳ねた。

 

「そちらの言う通り、俺が原因で起きたことだ。であれば、解決の一歩は自分の手でやるべきなのは間違いない」

 

タグはカップの取っ手を指先で硬く掴むと、まだ熱いままの紅茶を一口、喉の奥へと流し込んだ。

その姿勢を見届け、ミネは胸の内の空気を深く吐き出すと、静かに頭を下げた。

 

「タグ様。セリナのことを、どうかよろしくお願いいたします」

 

強張っていたミネの肩からわずかに力が抜け、安堵を滲ませながら席を立とうとした。

その時、タグは極めて真面目に、作戦上の懸念材料を報告する時のトーンで口を開いた。

 

「ただ、この件に関して一つ頼みがある」

 

「はい、なんでしょうか。私にできることなら」

 

腰を浮かせかけていたミネが、再び真っ直ぐに居住まいを正す。ミカも小首を傾げた。

タグは二人を見据え、淡々と事実を告げる。

 

「俺は、女と共に出かけたことが一度もない。具体的に何をすればいい」

 

――換気扇の低い駆動音だけが、室内を占める時間が生まれた。

 

ミネは息を吸い込んだ姿勢のまま完全に硬直していた。隣のミカも、まばたきを忘れてタグの鉄面皮を凝視している。

対するタグは眉一つ動かさず、作戦前のブリーフィングで上官の指示を待つ時のように、背筋を伸ばして静かに返答を待っていた。

 

数秒の空白の後、ようやくミネが絞り出すように息を吐き出すと、震える声を出した。

 

「少し、お待ちください。……ミカ様、少しの間、あちらで相談させてもらえますか?」

 

「……作戦タイムってことね。いいよミネちゃん、あっちのソファで話そっか」

 

生真面目な顔に明らかな焦燥を浮かべるミネの背中を、ミカが楽しそうに押し出す。

タグは、足早に部屋の隅へと移動していく二人の背中を無表情のまま見送っていた。

 

 

数分間の沈黙が休憩室を占領する。奥ではヒソヒソという微かな話し声が続く。

敢えて耳を澄ませぬまま、タグがポットから注いだ三杯目の紅茶を飲み終えようとした時、二つの足音が近づいてきた。

 

ミネが再びテーブルの前に立ち、純白の手袋に包まれた両手を体の前で揃える。

 

「タグ様が懸念されている件ですが、元より解決をお願いしているのはこちらです。……救護騎士団として、いや、私個人として全力でサポートさせていただきます」

 

ミネの瞳には、まるで過酷な死線へと赴く部隊を見送るかのような決心が宿っていた。

 

「ということだから、タグさんは予定日だけ確保してもらっていい? あとは場所のリサーチとか、細かいことはこっちで全部準備しておくから」

 

ミカがミネの横から顔を出し、ふわりと笑う。

タグは短く一度だけ頷いた。情報収集を現地の環境に精通した味方に一任するのは、理にかなっている。

 

「それと、もう一つ提案があるの。今から私達と一緒にブティックに行こっか」

 

「ブティック?」

 

聞き慣れない単語に、タグの眉根が僅かに寄る。

 

「タグさんに分かるように言うとね……ちょっとお高めの服屋さん」

 

ミカはクスクスと笑いながら、タグが着ている量産品の背広を指差した。

 

「セリナちゃんとのお出かけに、その服で行くわけにはいかないでしょ? 私、タグさんがその背広と白衣の姿か、真っ赤なパイロットスーツしか着てるの見たことないもん」

 

タグは視線を下ろし、自身の背広の袖口を見た。

 

(今回の目的はセリナの心理的ケア。この衣類が不適格であると言うなら、当然の対応か)

 

彼は思案すると、短く息を吐き出した。

 

「任せる、俺はその手のことに疎い」

 

「よしよし。じゃあ、まずは服の調達からだね! 先生にも外出許可をもらっておかなきゃ」

 

短く肯定したタグを見て、ミカは満足げに手を叩いた。

そのまま手慣れた動作で端末の画面を叩き、高速でメッセージを打ち込み始める。

タグはしゃがれた声で言葉を継いだ。

 

「ミカ。アリウススクワッドとRABBIT小隊も呼んでくれ。最近は色々とあった、隊長として気前の良さを見せる必要がある」

 

「オッケー☆」

 

ミカの指先が、軽快な音と共に送信アイコンを弾いた。

 

 

 

シャーレ、屋内射撃訓練場

 

 

鼓膜を震わせる連続した銃声と、排莢された薬莢がコンクリートの床に跳ねる高い金属音。

タクティカルベストを湿らせるほどの発汗は、ミヤコの邪魔になることはなかった。

 

――銃口をターゲットに向けたまま、乱れた呼吸を整える。

 

不意に、ベンチに置かれたスマートフォンが激しく振動した。

残弾を確認し、安全装置をかける。それからミヤコは端末を手に取った。

 

サキがスライドを引く鋭い音と共に問いかけた。

 

「ミヤコ、どうした? 休憩にはまだ早いぞ」

 

ミヤコは画面に表示されたミカからのメッセージを三秒間凝視し、困惑に眉を寄せた。

 

「ミカ先輩からです。本日のトレーニングは、シャーレの特別任務への変更により中止。全員、至急D.U.のセレクトショップへ私服で集合、だそうです」

 

「はぁ!? 私服!? なんだその任務は!」

 

サキの怒鳴り声が防音壁に反響する。

隣のレーンでは、その声にミユがビクッと肩を跳ねさせて俯き、モエは面倒くさそうに銃口を下げて後頭部を掻いていた。

 

 

 

ゲヘナ学園

 

給食部の裏口で重い鉄扉が開き、本日の奉仕活動を終えたサオリとアツコが姿を現した。

油や調味料の焦げるふくよかな匂いが換気扇から吐き出され、周囲に立ち込めている。

彼女たちを出迎えたのは、D.U.でのヴァルキューレ警察学校の生徒との共同治安維持活動から戻ってきたミサキ、ヒヨリ、そしてコユキの三人だ。

 

「サオリさん、アツコさんお疲れ様です!」

 

コユキが軽い足取りで駆け寄る。

その背後で、ヒヨリが給食部の巨大な排気ダクトを見上げながら、腹の虫を鳴らした。

 

「うっ……、お夕飯にはまだ早いんですけど、どうしましょうか」

 

「売れ残りのパンをもらったけど、食べる?」

 

アツコの提案に、ヒヨリは弾かれたように手を伸ばしかけた。しかし、直後にハッとしたように動きを止め、泣きそうな顔でゆっくりと手を引っ込めた。

その様子を見ながら、ミサキは気怠げにコンクリートの壁に寄りかかっている。

 

サオリが、わざわざ自分たちを待っていてくれた彼女たちに労いの言葉を掛けようとした瞬間――ポケットのスマホが振動した。

黒い端末を取り出す――シャーレから支給された新型スマホ。ヒヨリ達が持っている端末と同じものだ。

画面の光が、サオリのやや疲労が浮かぶ顔を淡く照らす。その明かりに気づき、ミサキがゆっくりと視線を向けた。

 

「……ミカからだ。『全員、至急D.U.のセレクトショップへ合流せよ』とのことだ」

 

「と、突然ですね!? 先生やオジサンからならともかく、ミカ先輩からっていうのは」

 

コユキの声が裏返る。ヒヨリは「D.U.まで移動する」という言葉を聞いた直後、再びアツコの持つパンの袋を名残惜しそうに見つめ直していた。

サオリは指定された目的地の座標を即座に脳裏へ記憶する。

 

「先生の許可も出ている。ミカにはコユキを含めた5人で向かうと返信しておく」

 

サオリの指先が画面を叩き、返信のデータが再びシャーレへと送信された。

 

 

 

D.U.中心部、巨大な吹き抜けを持つセレクトショップ。

空調から吹き出す冷気と、柑橘系のアロマの香りが混ざり合う。弦楽器の柔らかなBGMに満ちたフロアに、二手の集団がいた。

 

「予定が変わりましたが、これもまた必要な救護です。機能性を重視するのは理解しますが、下着の選択に無頓着すぎるのは、女性の健康と尊厳に対する怠慢です」

 

店舗の一角、レディースフロアではミネの低く、しかし断固とした声が響き渡る。彼女の背後には、まるで戦利品を積み上げるように、高価な素材のシャツやインナーを抱えたコユキが控えていた。

 

「シルクって、肌触り最高なんですね。これオジサンにねだって……やっぱやめとこ」

 

極めて小さくなった言葉尻と共に、コユキは自身の両頬を衣服の袖で隠すようにして俯いた。

 

「ミネ……私たちに、こんな柔らかい布は必要ない」

 

現地に到着した途端、ミネによって突然の救護を受けることになったアリウススクワッド。サオリが代表として、救護を遠慮しようとする。

 

「その言葉は聞き入れません。もしや金額が気になるのでしたら、ご心配には及びません。……タグ様からは、休みなく任務が続いているので労わってほしいと言われております。

廃園の件を含めて、その見返りと思って頂ければ結構です」

 

サオリが、差し出されたレースのインナーを、まるで未知の爆発物でも見るかのような目で見つめる。

隣ではミサキが顔を赤く染めて視線を背けた。

 

「下着なのにこんな高い物、私なんかが着たらバチが当たって爆発しますぅ……。けど、女の子ってこういうの着たほうがいいんでしょうか、アツコさんはどう思います?」

 

「ちょっと私はわからないけど。……す、すこし恥ずかしいかも」

 

アツコが口元を手で覆う。戸惑いに染まった四人の視線が、落ち着きなく宙を泳いでいた。

 

「サイズに合うものを選んであるとはいえ、まずは試着室で一度着てみてください。……個人的にフィットするかどうか、それを教えてください」

 

「まずは論より証拠ですよ!」

 

ミネとコユキに背を押されて、四人は試着室へと押し込まれるのだった。

 

 

一方、メンズフロアの試着室前でタグは、人生で一度も経験したことのない種類の包囲網の中に立っていた。

 

「ねえ、タグさん。次はこれ、着てみて? ほら、このリネンのシャツなら、重ね着しても重くないでしょ」

 

ミカが差し出してきたのは、仕立ての良い、丈の長い長袖のシャツだった。

全身を世界から覆い隠すような、肌の露出を極力抑えたデザイン。タグは手元とミカの顔を交互に視線で捉えた。

 

「わかった、着てみよう」

 

タグは短く答え、ミカの手からシャツを受け取った。その際、指先が触れたミカの瞳には、「あなたに似合うものを」という静かな熱が宿っていた。

タグは無言のまま、視線と僅かな顎の動きだけでミカに礼を伝えた。

 

試着室のカーテンが閉まる後ろでは、RABBIT小隊の面々が、作戦会議さながらの真剣な面持ちで次なる衣類を吟味していた。

 

「ミヤコ、次はあのテーラードジャケットがいいと思う。……隊長の体格なら、肩のラインが綺麗に出るはず」

 

サキが、ハンガーにかかった重厚なジャケットを指差す。彼女の瞳は、納入されたばかりの新型兵器を評価するような鋭さを帯びつつも、前のめりになったその姿勢からは、着せ替えという行為を楽しむ少女特有の昂ぶりが漏れ出していた。

 

「ええ、賛成です。ただ、少しだけカジュアルさを足したほうが、トリニティの街並みには馴染むかもしれません。……ミユ、あのストールはどう?」

 

「ふぇっ!? あ、あの、私なんかが選んだものを巻くなんて」

 

ミユがビクッと肩を跳ねさせ、慌てて両手を振る。

 

「で、でも……あの深い色は、タグさんの目に似合うかも、って」

 

「あそこの自治区は、落ち着いた色合いが好まれるからいいチョイスじゃない?」

 

ミユが選んだ色に、モエが同意する。

 

「よし、採用。……ふふっ、タグさん。次はそれ、全部身にまとって出てきてね」

 

ミカの声が、試着室の内側に届く。

 

――タグは、鏡の中に映る「兵士ではない自分」の姿を見つめていた。

肌の露出を抑えたリネンシャツの上に羽織った、深い色合いのテーラードジャケット。

下半身には、滑らかな落ち感を持つ上質な生地のスラックスが合わせられ、タグの無骨な脚のラインを洗練されたシルエットへと変えている。

そして首元には、くすんだネズミ色のストールが巻かれていた。

 

着慣れた耐圧服の感触でもなく、事務的な背広の重みでもない。ただの、柔らかく良質な布の感触。

カーテンの外からは、次々と服を広げては歓声を上げる少女たちの、弾んだ声と足音が絶え間なく響いてくる。

弄ばれているわけではないことは確かだ。しかし、タグは無意識にひどく疲れた息を吐き出した。

 

 

 

夕暮れが始まったばかりの陽光と、楽しげに歩く生徒たちの笑い声に包まれた、繁盛している路上カフェのテラス席。

タグは一人、氷の浮いたコーラグラスの水滴を指で拭いながら待機していた。

一切の抵抗を放棄し、極めて従順な姿勢を見せた彼の衣類選定は、早々に終わっていた。

一人こうして残されているのは、レディースフロアでミネが苦戦しているとの連絡を受け、ミカたちが援軍に向かったためだ。

 

――周囲を見渡す。

 

視線の端、雑踏の中に溶け込もうとしているが、隠しきれない制服の装具の鳴る音や、規則的な配置によるわざとらしさが悪目立ちしている。

ヴァルキューレ警察学校の生徒たちが数名、タグの気に障らない距離を保ちながら、完全な円陣で彼を警護しているのが確認できた。

D.U.の範囲内であればタグ、そしてここにはいない先生の周辺警護はこのようにして機能する。

 

(今度のトリニティ自治区に、他学校の警察機構を引き連れていくわけにはいかない)

 

周囲で遠巻きに警戒にあたるヴァルキューレの気配を感じつつも、タグは氷のカランという音を聞きながら、このキヴォトス特有の穏やかな空気に身を委ねていた。

 

「あの……相席、いいでしょうか? どこもいっぱいで」

 

ふと、鈴を転がすような少し遠慮がちな声が降ってきた。タグが顔を上げると、そこには一人の少女が立っていた。

派手さを抑えた清楚な私服。肩で揺れる柔らかな髪が、陽光を浴びてふわりと淡く輝いている――目元は女性向けの帽子で深く隠されていた。

タグは特に断る理由もなく、無言で自身のグラスを手元に引き寄せた。

 

「どうぞ」

 

その返事に、彼女ははにかんだ笑みを浮かべ、向かいの椅子にちょこんと腰を下ろした。

彼女の手元には、飾り気のないタブレットが握られている。休日の私服姿でありながら、無意識に画面の文字列へと視線を落とすその所作は、実務に追われる労働の奴隷特有の習性だった。

少女は注文が届くのを待ちながら、帽子のつばの下から、こちらをチラリと盗み見ているようだ。

何気なくタグが視線を上げると、偶然にも少女の視線と正面からぶつかった。

 

「あっ」

 

少女の肩がビクッと跳ねる。

直後、彼女の呼吸が微かに早くなり、頬から耳の先までが急速に朱に染まっていくのがタグの眼に映った。

少女は誤魔化すようにサッと視線を泳がせ、ようやくカフェの店員が運んできたコーヒーのカップを両手で包み込む。

 

「きょ、今日は……いいお天気、ですね」

 

少しだけ上ずった声。カップの縁で口元を隠すように俯く彼女の姿に、タグは疑問を抱きはじめていた。

しかし、以前先生から聞かされていた『年頃の生徒にはよくある情緒のブレ』という情報を脳内で参照し、自己完結する。

タグは特に気にする様子もなく、淡々とコーラを飲み進めた。

 

晴れ渡る空の下、氷が溶ける微かな水音と、気恥ずかしそうな少女がコーヒーをすする音だけが二人の間に流れる。

 

――やがて。

 

「タグさーん! お待たせー!」

 

沢山の買い物袋を抱えたミカたちが、賑やかな足音とともに戻ってきた。

 

「失礼する」

 

タグは立ち上がり、少女に短く会釈をして背を向けた。

去り際、ミヤコがふと、顔を真っ赤にして俯いている見知らぬ少女を不思議そうに見たが、ミカに腕を引かれてそのまま通り過ぎていく。

賑やかな足音が雑踏に消えた後、路上カフェのテーブルには、ブラックコーヒーの苦い香りと、帽子を深く被り直して顔の熱を冷まそうとする少女の、小さくも激しい胸の鼓動だけが残されていた。

 

 

 

D.U.での買い出しを終え、シャーレの執務室へと帰還したタグは、ミカたちに見繕われた服の入った紙袋を無造作にソファの脇へと置いた。

カサリ、と上質な紙が擦れる音が、空調の効いた室内に響く。

 

タグは、執務机で書類作業を続ける先生の前に立ち、先ほどの路上カフェで思案した懸念事項を口にした。

 

「今度のトリニティ自治区でのセリナとの活動のことだが……D.U.とは違い、ヴァルキューレの警護網は使えない。かと言ってシャーレやトリニティの生徒に、俺個人のために護衛をお願いするのは気が引ける。アンタの意見を聞きたい」

 

先生は書類から顔を上げると、特に悩む素振りも見せず、机の横にあった一枚の青白い光を放つタブレットを持ち上げた。

 

「それなら、これを持って行ってよ」

 

先生の軽い言葉と共に差し出されたタブレットに、タグは無表情のまま視線を落とす。

 

「……シッテムの箱か」

 

しゃがれた声が喉の奥で鳴る。

それが何を意味するデバイスか、タグは熟知している――通常火器の威力を無効化し、持ち主を物理的脅威から守り抜くオーパーツ。

 

「却下だ」

 

――即答。自身の生存率を上げるために、最高指揮官である先生の防壁を剥ぎ取るという選択肢は認められない。

 

『あ、あの! タグさん!』

 

不意に、タブレットの画面から清涼な合成音声が響いた。

画面の中で、アロナが身を乗り出している。

 

『シッテムの箱は、先生以外は絶対に操作できません! けど、個人用防衛機構は私が融通を利かせたので、タグさんでも利用できますよ!』

 

タグはアロナの言葉を無視し、再び拒絶の言葉を紡ごうと口を開きかけた。しかし、それを先生の言葉が遮る。

 

「タグさんが出かける日は、このシャーレの敷地からは一歩も出ないよ。ここはキヴォトスで一番安全な場所の一つだ」

 

先生の真っ直ぐな視線が、タグの鉄面皮を捉える。

 

「それに……万が一の事態が起きた時、タグさんに何かあることが、今のシャーレにとって一番駄目なことなんだ。貴方自身の身を守るためだけじゃない。一緒にいるセリナを守るためにも、持って行ってほしい」

 

そして、先生は少しだけ声のトーンを柔らかくした。

 

「――悩んでいる生徒の相談に乗って、悩みの解決の手助けをするっていうのは、ここでは銃を撃つこと以上に難しくて、大切なことなんだ。……タグさんにも、その難しさと大切さを理解してほしい。だから、僕の代わりにこれを預けるよ」

 

「……」

 

タグは小さく重い息を吐き、ゆっくりとタブレットへ手を伸ばした。

指先が触れた瞬間、タブレットに残った先生の手の微かな温もりと、筐体自体の無機質な冷たさが同時に伝わってくる。

タグはそれを引き取るようにしっかりと掴んだ。

 

「わかった、そういうことならば借りさせてもらう。ただし、その日の先生の護衛は厚くさせてもらうぞ」

 

声を静かに落とし、タグは青白い画面を見つめ直した。

画面の中のアロナからの、「当日はがんばりましょう!」と主語のない無邪気な激励に、タグは短く「よろしく頼む」とだけ返した。

 

 

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