装甲騎兵ボトムズ -蒼の記録-   作:ジミーボーイ

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季節(後編)

トリニティ総合学園の生徒寮、セリナの自室

 

 

デスクスタンドの白い光が、分厚い医学書とノートを照らし出している。

シャープペンシルが紙を擦る音だけが響く静寂の中、不意にデスクの上のスマートフォンが短く震えた。

ブブッ、という無機質なバイブレーション音にセリナの集中力が途切れる。

 

セリナはペンを止め、画面をタップする。

メッセージアプリ『モモトーク』の通知画面。送り主は、所属する救護騎士団の長である蒼森ミネからだった。

 

『夜分に失礼します、セリナ』

 

画面に表示された文字を追い、セリナは姿勢を正した。

 

『先日、タグ様よりトリニティ自治区での休養を考えていると相談されました』

『自治区での案内役を募集しているとのことです。もしよければ引き受けてもらえますか?』

 

「え……っ?」

 

セリナの口から、間の抜けた小さな声が漏れた。

彼女はスマートフォンを両手で持ち直し、液晶画面に顔を近づけて、そのメッセージを二度、三度と読み返す。

休養の相談、そして案内役の募集。

文字の羅列は何度読んでも変わらない。

 

セリナの心臓が、早鐘のように鳴り始めた。

顔に急激な熱が集まるのを感じながら、彼女は慌てた手つきでソフトウェアキーボードを叩き始める。

 

『私でよろしければ、謹んでお引き受けいたします』

 

送信ボタンを押した直後、セリナはスマートフォンをデスクに伏せるように置き、両手で自身の熱くなった頬を強く覆った。

医学書の小さな文字は、もう完全に彼女の視界からピントを外れていた。

 

 

 

――ミネからセリナへの連絡から数日後。トリニティ総合学園 ティーパーティー執務室

 

 

業務開始時刻の十分前、朝の清涼な空気が室内に満ちる中、すでにナギサ、サクラコ、ミネの三人が円卓を囲んでいた。

 

「――各派閥の状況報告は以上です。では、本日の業務分配に移りましょう」

 

ナギサが手元のスマホを閉じる。

三人の報告に要した時間は、各々に割り当てられた二十分という枠の半分にも満たない。整理された事実のみの伝達が正確に、問題なく終わった証だった。

 

長机の中央には、各派閥から持ち寄られた依頼や問題報告書がひとまとめに積まれている。

所属する生徒の総量の都合上、その大半はホストであるナギサが提出したものだ。

ナギサが書類の山に手を伸ばすより早く、ミネの純白の手袋が数枚の束を正確に引き抜いた。

 

「自治区西部の維持管理に関する再調査と予算の再算出、および昨日発生した生徒間の衝突による事後処理……これは救護騎士団で引き取ります」

 

「では、カタコンベとアリウス自治区の巡回ルートの再構築、祭祀教義に関連する要望書はシスターフッドにて。それと今度いらっしゃる連邦生徒会の使者との折衝も受けたほうがいいでしょうか?」

 

サクラコもまた、優雅な動作で別の書類の束を手元へと引き寄せる。疑問に関して他二人は小さくうなずくことで同意を示した。

 

権益やうま味のある仕事の奪い合いではない。ただ純粋に「組織の能力と適性」を第一とした、実務の取り合い。

三者の性質が根本から異なっている事実が、パズルのように噛み合い、滞りなく書類が消えていく。

 

「では、四半期の予算運用の精査と連邦生徒会への提出書類は私のほうで処理を」

 

最後にナギサが、手にずっしりと重みを感じさせる封筒を引き取る。瞬く間に書類の山が三等分された。

 

「では解散します。昼食後、必要があれば再度こちらへ」

 

その言葉に二人が短く頷き、三人は一度、それぞれの持ち場へと散っていった。引き取った業務の再分配と処理が待ち構えているからだ。

 

 

そして、午後。

 

窓から差し込む秋の柔らかな陽光が、磨き上げられたマホガニーの長卓の上に白い四角形を描いていた。

昼食を終えて、執務室に再集合した三人。午後三時の茶会という休憩時間が来るまで、無言のまま持ち寄った公務書類や報告書に、視線とペンを走らせている。

時々、誰かが書類封筒を封蝋すると、各々の担当助手や秘書がその封筒を引き取るために出入りするだけだ。

 

室内を満たしているのは、高級な万年筆が厚手の紙を擦る規則的な音と、壁に掛けられた厳つい古時計が刻むチクタクという低い秒針の音。

ふと、三つある万年筆の音の一つが途切れる。ミネが静かにスマホに表示される時計に視線を落としたからだ。

ナギサが書類から顔を上げ、細い万年筆を指先で弄びながら問いかけた。

 

「ミネさん、先ほどから随分と時間を気にされているようですが。……何か次の予定でも?」

 

「そろそろ時間ですね」

 

ミネはスマホから視線を外すと、机の端に置かれたリモコンへと手を伸ばした。

 

「本日、タグ様がセリナの案内でトリニティ市内を巡ることになっております。万が一の不測の事態に備え、現地の監視網をこちらのモニターに同期させる手筈を整えておきました」

 

「そういえば今日でしたか」

 

ナギサの、万年筆を弄ぶ指がピタリと止まる。

ミネがボタンを押すと、壁面の大型モニターが駆動音と共に青白い光を放ち、トリニティ中央通りの高精細な映像を映し出した。

画面の隅には、街路樹の陰から不自然に突き出た黒い巨翼――ハスミの背中がはっきりと映り込んでいる。

 

「現地での護衛および連絡役として、タグ様と縁のあるハスミ、ヒナタさん、そしてハナエを配置しています」

 

「――おおむね本日の業務は終わっています。すこし早いですが、お茶にしましょうか」

 

ナギサは即座に手元の万年筆をペン立てへと収め、椅子の背もたれに深く腰掛け直した。そして手元の呼び鈴を鳴らす。

予定より早まったティータイム、しかしメイド達は慌てずに準備を開始する。

 

それまで静かに書類へ向かっていたサクラコが、長い髪を揺らして席を座り直す。

 

「たとえ複製といえど聖女バルバラ様の顕現に対し、ミカ様と一緒に身を挺して立ち向かってくださったタグ様もまた、試練を乗り越えた方です。彼の万が一の事態を、見過ごすわけにはいきません」

 

三人の視線が、モニターへと集中する。香しい紅茶の匂いが漂い始めていた。

 

 

 

その日は何かに示し合わせたかのように、執務室への来客があった。

 

まず最初に入室したのは正義実現委員会のツルギ。

挨拶も早々に、手にしたバインダーをナギサへ差し出そうと直進しかけた彼女は、壁面の大型モニターに目を奪われてピタリと足を止めた。

画面にハスミが映っていることを確認すると、「あの件でしたか」と一人納得。監督のため同席する、と三人に伝えるとメイドが持ってきた椅子にちょこんと座りだした。

 

 

次に入室したのは図書委員会のウイ。

こちらも短く挨拶を終えると、蔵書に関する報告書をサクラコに渡した。報告書はトリニティ自治区から不法に持ち出されていた蔵書が、とある人物の助けで発見、回収された件に関するものだ。

サクラコが報告書を「後で読みます」と返すと、「待ちますよ」とウイは返す――大型モニターに、とある人物が映っていることに気付いたからだ。彼女はサクラコに同席の許可を取った。

日差しからなるべく離れるようにして、ウイはメイドの用意した椅子に座るのだった。

 

 

次に入室したのは補習授業部のセイア。

 

結果としてティーパーティーを一度離脱したセイアは、療養と称して自室で本や紅茶と共に引き籠ろうとして――ミネにその怠惰な行動を咎められた。

怠惰の理由を問われたセイアは、いつもの飄々とした態度を維持したまま、「必要なことだ」と称して引き籠りに至った理由を述べる。

 

ミネはピクリとも表情を変えず、数分間続くその迂遠な長広舌を無言で聞き終えた。

……仰々しい言葉で煙に巻き、迂遠で勿体ぶった理由を要約すれば「3年生に備えて勉強をする」とのことだ。

 

その理由を聞き終えたミネは、無言でセイアを俵担ぎにする。

純白の手袋に包まれた腕が、小柄な身体を無造作に、しかし一切の逃げ場なく拘束した。

俵担ぎにされたセイアは、足をバタつかせ、抗議の発言と身振りを繰り返す。だが、救護騎士団長の規格外の筋力の前では、その抵抗は腕の締め付けをわずかに強める結果にしかならない。

自身の抵抗のせいで次々とすれ違う生徒達から注目を集めることに気付いたセイアは、止む無く抵抗を諦めた。

 

5分ほどミネは歩いたであろうか。息一つ切らさずに彼女が向かった先は別棟――セイアの記憶によれば、そこはもう使われていないはずだ。

 

ミネの履くパンプスの足音が、人気のない別棟の廊下に重く響く。

迷いのない足取りで、彼女はある教室の前に立ち止まった。

バンッ、と大きな音とともにスライドドアが勢いよく引き開けられる。

静かな自習の空気が流れていた室内の時間が、一瞬で凍りついた。

 

一番奥の席に座っていた白洲アズサが、反射的に手元のアサルトライフルへ手を伸ばす。

しかし、乱入者がミネであり、その肩に担がれているのがセイアであるとリアサイト越しに認識した瞬間、射撃体勢のままトリガーに掛けた指の力を静かに抜いた。

 

ミネは肩の上のセイアを、教室の空いた椅子へと降ろした。

 

「突然の訪問、失礼します。こちらが補習授業部が利用する教室と聞きました。代表者はどなたでしょうか?」

 

そして、唖然とする四人の生徒の前で背筋を伸ばし、深く、見事な一礼を見せる。

 

「あ、あの……私が代表の、阿慈谷ヒフミです」

 

アズサが銃を下ろしたのを見て、ヒフミは恐る恐る挙手をした。

顔を上げたミネの静かで強固な視線が、教室の中央で戸惑うヒフミへと真っ直ぐに向けられた。

 

「阿慈谷ヒフミさんですね。初めまして、ティーパーティーの末席と救護騎士団の団長を兼務しております蒼森ミネです。お会いして早々ですが、お願いがあります。

彼女――百合園セイアさんを、補習授業部に参加させてほしいのです」

 

一つの厳格な視線、そして困惑が混じった四つの視線がセイアに突き刺さる。

 

「事情によりティーパーティーを離れた彼女は、療養と称して自室に引き籠り、紅茶と読書ばかりの怠惰な日々を送ろうとしていました。

私がそれを咎めたところ、彼女は『三年生への進級に備え、孤独な環境での修学が必要不可欠である』と、ひどく迂遠で回りくどい理由を延々と並べ立てました」

 

背もたれへ身を委ねようとしていたセイアの姿勢を正させるようにその肩を軽く、しかし逃げ場のない力で叩く。

 

「要約すれば『一人で勉強がしたい』ということです。ですが、他者との関わりを断ち切った閉鎖的な環境は、精神の救護において不適切です。ましてや肉体においては言わずもがなです。

そこで一つ良案を思いつきました。勉学を目的とするこの補習授業部に身を置き、皆様と切磋琢磨することこそが彼女にとって最良の環境であると、私が判断いたしました」

 

この場に現れた理由と、突きつけられた要求――ヒフミは顔を引き攣らせて助けを求めるように周囲を見渡し、他の三人も困惑の視線を交差させた。

 

「公的な許可はナギサ様から取ってあります。『セイアさんが怠けるようでしたら、ミネさんにお任せします』と」

 

「ナギサ!?」

 

思わぬ方向から元同僚に刺されたセイアが驚く。

 

ヒフミは顔を引き攣らせ、助けを求めるように周囲を見渡す。補習授業部の四人は教室の隅に集まり、頭を寄せ合わせた。

 

「む、無理ですよ。元ティーパーティーの方だなんて」

 

ヒフミは両手を激しく交差させ、首を横に振って明確な拒絶の意を示す。

 

「……私に異論はない。セイアが怠惰になった原因は私のせいだ」

 

しかし、アズサは椅子に座るセイアをじっと見つめた後、過去の因縁を呑み込むように、力強く頷いてみせた。

 

「私も賛成です。セイアちゃんと一緒にお勉強できる日が来るだなんて思いもしませんでした」

 

その隣で、浦和ハナコが、彼女にしては珍しく純粋な喜びを露わにしている。

 

「えっ、あっ!? アズサとハナコが賛成なら……わ、私も賛成!」

 

二人の賛同を見て、少し離れた位置で戸惑っていた下江コハルも、慌てたように二人に同調してぎこちなく頷いた。

 

かくして三対一の様相となった。

 

「そんなぁ……」

 

ヒフミは天を仰ぎ、こめかみを両手で強く押さえた。

数秒間の沈黙と深い葛藤の後、彼女は力なく肩を落とし、ミネに向かってゆっくりと、諦めを帯びた一礼を返した。

 

「……わかりました、補習授業部はセイア様を歓迎します」

 

「ありがとうございます。……セイアさんの件に限らず、何かお困りごとがありましたらご相談ください。せめてもの一助となりましょう」

 

ミネは満足げに頷くと、セイアへ向けて再度深く礼をし、踵を返す。

重い足音と共に、迷いのない足取りで教室から退出していった。

 

残されたセイアは、垂れ下がった耳を微かに動かしながら、自身の前に立ち並ぶ四人の少女たち――新たな日常を共にすることになる面々を、静かに見上げていた。

 

「これが不確定の未来というものか、ままならないものだね」

 

口の端に少し笑みを浮かべて呟くのだった。

 

 

 

――トリニティ自治区の中心部

 

 

休日の喧騒が交差する石畳の広場で、タグの重いウォーキングブーツがピタリと停止した。

周囲を行き交うのは、華やかな装いの生徒たちや一般の買い物客ばかりだ。タグは微かに顎を引き、無機質な視線を左右へ走らせて目標を探す。

 

事前に指定された合流地点は、この広場の中央に位置する白亜の噴水前だ。

だが、タグの視線は噴水そのものではなく、その縁に立つ一人の少女の姿を正確に捉えた。

 

――セリナだ、間違いない。

 

普段の救護騎士団の制服ではなく、淡いベージュ色の薄手カーディガンに、柔らかな質感の白いブラウスを合わせている。

膝下まで伸びるプリーツスカートは落ち着いたミントグリーンで、足元には歩きやすさを重視したブラウンのローファーが履かれていた。

肩から下げた小さなレザーのポシェットを両手で軽く握りしめ、彼女は周囲をキョロキョロと見渡している。

その特徴的な淡いピンク色の髪が、秋の陽光を反射して微かに光っていた。

 

タグは直進を開始した。

数十メートルの距離が縮まり、数歩手前でタグの足音がわずかに変化した。

その微かな靴音のピッチの違いに反応し、セリナが顔を上げる。

 

視線が交差する。

セリナは一瞬だけ目を丸くした後、ポシェットを握っていた手を離し、口元を緩めて小さく手を振った。

 

「こんにちは、タグさん」

 

タグは無言のまま短く顎を引き、歩みを寄せる。

 

「こんにちは、セリナ。待たせたか?」

 

「いえ、私もちょっと前に来たところです」

 

セリナが控えめに微笑み、タグの隣へと並び立つ。

美しく舗装された白い石畳の上を、二つの足音が重なって進んでいく。

一つは、タグの履くウォーキングブーツが規則的に石を叩く、重く硬い音。もう一つは、セリナが履く、軽やかなローファーの音。

 

街路樹は色鮮やかに手入れされ、ショーウィンドウには平和の象徴のようなきらびやかな装飾品が並んでいた。

タグの視線が、微小な角度で左右に動く。アストラギウス銀河ではあまり見ることが出来なかった非軍事的な文化。その情報量の多さにタグは翻弄されていた。

 

(……装飾が多い。それに建築物の構造が左右対称でないものが目立つ。戦災を考慮する必要が無いから、コストではなく居住性を優先することが出来るということか? これが平和を前提とした技術の発展!)

 

『気になるのでしたら、後で調べておきますか?』

 

タグのコンディションチェックをしていたアロナが提案する。このAIの発言は、他人に聞かれないということが利点でもあり、同時に欠点でもある。

セリナとの合流前、今日は『私のことは空に浮かぶ雲だと思ってください』と言った矢先のこれだが、好奇心がこの場合は勝った。

ジャケットの内ポケットに収まるシッテムの箱――アロナへ肯定の頷きを見せる。

タグの鉄面皮に変化はない。しかし、その死んだ魚のような瞳の奥には、未知のテクノロジーと文化に対する高揚感が宿っていた。

 

その高揚感とは別に、タグは背後から視線を感じていた。視界の端に、とある生徒の姿を正確に捕捉し続けていた。

後方およそ二十メートル。街路樹の陰から、明らかに隠しきれていない複数の気配。

 

偶然を装って視線をそちらに向ける。

――正義実現委員会のハスミ、シスターフッドのヒナタ、救護騎士団のハナエだ。

馴染みの顔が背後にいることに、すこし気が休まる。

 

タグは歩調を一切変えずに、後背から付かず離れずの気配について思考を割く。

――ミカとミネがこの外出計画の立案者である以上、その情報はティーパーティーのホストであるナギサへと伝達されているはずだ。

古聖堂、そしてアリウス自治区での一件以来、自身に過剰な恩義を抱いているナギサが、この休養を何者にも邪魔させまいと、各派閥に警護を手配したというところか。

 

結論が導き出されると同時に、タグは警戒心を緩めた。

懸念していた警護の空白は、ナギサの政治力によって完璧に埋められたということだ。

こうなると内ポケットにあるシッテムの箱の冷たい重みが、少し苦に感じてきた。

 

 

セリナは時折、隣を歩くタグの横顔へと視線を向けていた。

彼の大きな歩幅に合わせようと小走りになりかけていた足元が、ふっと楽になる。タグが意図的に歩幅を狭め、セリナのペースに合わせてくれたのだ。

その些細な気遣いが、今の彼女にはひどく痛かった。

 

(タグさんが今日、遠回しに案内役として私を指名したのは隠れ蓑。本当の狙いはたぶん、私の……彼に余計な気を使わせて、迷惑をかけている)

 

胸の奥底で、あの痛々しいレントゲンの記憶がうずく。細い指先に力がこもる。

自身を削りながら生きてきたとしか思えない男に対して、セリナはどのように接すればいいのか迷い続けている。

 

(キヴォトスのどこにも、タグさんほどの凄惨な戦争を経験した人間なんていない。私たちが学ぶ医学書のどこにも、彼の心の治し方なんて載っていない)

 

(彼が私たちと同じ生物学的な構造を持っていたことは、驚きであったと同時に幸いだった。彼は生物学的にはホモ・サピエンスに属しているのだ。先生と同じように、私たちの医療技術を問題なく彼に適応できる)

 

(……でも、だからこそ、彼が背負ってきた身体的ダメージの蓄積が、残酷なほど正確に数値化出来てしまった)

 

 

トリニティの秋は、光と影の境界線が鮮明になるのと同時に、匂いによってその訪れを告げる。

メインストリートから一歩脇に入った通りでは、マロニエの並木が黄金色の天蓋を作っていた。

乾燥した風が吹くたびに、舗装路の上でカサカサと鳴る落ち葉が、埃っぽくも清々しい、削りたての鉛筆のような木の匂いを振りまく。

ふと、通りから香ばしい熱気が押し寄せてきた。

 

「マロン・ショはいかがかな」

 

角の屋台から響く声。鉄板の上で焦げる栗の殻から、スモーキーで甘い熱気が立ち昇る。

思わずタグが足を止め、それにつられてセリナも足を止めた。二人の視線が同じ方向に重なる。

石畳の広場、太い街路樹の傍らに、一台の旧式な三輪オートバイが横付けされている。

 

くすんだ灰色の車体には、緑の葉材と赤いリボンが巻き付けられていた。

側車部分には円筒形の巨大な黒い鉄鍋が据え付けられ、手前には白地に赤茶色で『マロン・ショ』と記された看板が立て掛けられている。

上部から吊るされた裸電球が、秋という季節から隠しきれなくなってきた冷気の中で、鋭くオレンジ色の光を放っていた。

鍋の背後に立つ初老の店員はハンチング帽を被り、細かなチェック柄の厚手ジャケットの上に、膝下まで覆う紫色のエプロンを着込んでいる。

店員は右手で鍋の太いハンドルを握ったまま、油の滲んだ鉄の蓋を見つめていた。

 

冷たくなってきた風が吹き抜ける。

鉄鍋の隙間から立ち昇る、栗の殻が炭火で焦げる特有の煙がその風に攫われる。

――スモーキーで重い甘さを持った熱気が、再度タグの鼻腔を突いた。

 

「マロン・ショ……焼き栗ですね」

 

セリナの声が、秋の冷気に溶けるように響いた。

彼女は隣で足を止めたタグの横顔を見上げ、控えめに微笑む。

 

「トリニティでは、秋から冬にかけてよく見かける定番の屋台なんです。あのような厚手の圧力鍋の中で、炭火でじっくりと炒り上げる……。甘くて、とても体が温まるんですよ」

 

タグは視線をセリナから、店員に移す。

ジャケットのポケットに突っ込んだ右手の指先で、少し冷たくなった硬貨の縁をなぞった。

 

「一つ、もらえるか」

 

「まいど」

 

店員は鍋の熱気に反比例した素っ気なさで、タグの手から硬貨を受け取る。

殻割れした焼き栗を、鍋からスコップで掬い取る。そして手作りであろう、新聞で出来た紙袋に移していく。

タグが紙袋を受け取ると、店員は「もう用はない」とばかりに再び鍋に意識を集中させるのだった。

 

さっそくタグは手を伸ばし、紙袋に放り込まれたばかりの栗の一つを指先で摘まむ。

指先に伝わるのは、火傷を誘発する剥き出しの熱量。

皮を剥けば、中から現れるのは粉を吹いたような黄色い果肉。

口に含めば、舌の上で崩れる乾いた食感と共に、栗そのものが蓄えていた微かな甘みが、熱によって引き出され、ゆっくりと広がっていく。

 

人工的な甘味剤の介在する余地はない。

それは栗が持つポテンシャルを、ただ火という暴力的なエネルギーで変換しただけの極めて単純、しかし丁寧な加熱の結果だ。

 

「味付けはなしか」

 

そう呟き、口の中に残る熱を、冷たい空気で冷ましながら飲み込んだ。

セリナにも紙袋を差し向ける。

 

「かなり熱いな」

 

「そこがいいところなんですよ」

 

手慣れた動作で、皮をむいてマロン・ショを口に含むセリナ。久しぶりに顔を会わせた時の表情の硬さがすこし解けたと、タグは感じた。

この無骨な熱量に、ひと時二人は夢中となった。

 

 

――その後方では街路樹の太い幹の陰に隠れるようにして、三つの気配が騒いでいた。

 

ハスミは、自身の巨体と黒い翼を身を小さくして必死に隠蔽しながら、別の屋台で購入したマロン・ショを口に運んでいた。

一切の音を立てず、流れるような動作で最後の果肉を飲み込む。直後、彼女の視線が空になった紙袋と自身の指先を往復し、眉間に微かな皺が寄る。

それは警護の緊張ではなく、明らかに自身のカロリー要求に対する(……物足りない)という静かな訴えだった。

 

その隣では、ヒナタが手で小さな栗の殻を剥こうと悪戦苦闘していた。

 

「あ、力加減が……ああっ」

 

プチッ、という嫌な破裂音が鳴る。

彼女の規格外の筋力は、硬い殻の抵抗を無視し、内部の黄色い果肉ごと完全に粉砕してしまった。指の間から、ポロポロと無惨な栗の粉末がこぼれ落ちる。

 

しかし、そんな上級生二人の静かなトラブルなど、ハナエにとっては完全にノイズであった。

彼女は自分の分の栗には一切手をつけず、前方の広場で紙袋を挟んで並ぶタグとセリナの姿だけを食い入るように見つめている。

 

「ああっ、セリナ先輩の顔に、あんな柔らかな血色が……あと私の食べていいですからハスミさんとヒナタさん、集中してください!」

 

興奮で若干鼻息が荒くなりつつも、まだ手を付けてない栗入りの紙袋を二人に手渡す。

 

 

マロン・ショの温かな余韻を指先に残したまま、タグとセリナはゆっくりとメインストリートを歩み進めていた。

ジャケットの内ポケットから、弾むようなアロナの声が響く。

 

『タグさん、タグさん! ミカさんの情報によると、次の角を曲がった先が、人気のお店が集まってる通りみたいですよ!』

 

(そうか。行ってみよう)

 

アロナの言葉通り、十字路に差し掛かると大気の密度が一変した。

雑多に交差する人々の足音。衣類が擦れ合う微かな音。そして、建物の構造が突如として、外光をいっぱいに取り込む全面ガラス張りの店舗群へと変貌を遂げる。

 

タグの瞳が、その光景を捉えて静かに動いた。

ショーウィンドウの向こう側、柔らかな照明の下で飾られる色鮮やかな洋服と、繊細な輝きを放つアクセサリー。

そのすぐ隣の店では、古びた木棚に溢れんばかりの雑貨が詰め込まれ、どこか懐かしくも賑やかな光景を作っている。

鼻腔を突く情報もまた、目まぐるしく入れ替わっていく。

ワゴンの店先から漂う、焼けた砂糖とバターの甘く重厚な香り。その直後、ジューススタンドから放たれる、絞りたての果実の鋭く新鮮な酸味。

 

「タグさん、あちらはトリニティでも有名なアンティークショップで……あ、あの路地裏のパン屋さんはスコーンがとっても美味しいんですよ」

 

セリナが時折、緊張を隠すように少し早口で説明を加えながら、彼を新しい通りへと案内する。

 

(……恐ろしくなるほどの余剰。生存に必要でないというのに、これだけの手間が込められているとはな)

 

タグは歩みを緩め、ショーウィンドウを飾る薄いガラス細工へ視線を向けた。防弾仕様でもない、ただ美しさだけを追求したひどく脆い造形。

それが破壊される前提を持たずに街中に並べられている事実に、タグは鉄面皮の奥で小さく息を呑む。

 

 

すれ違う生徒たちや街の人々は、そんな二人を眩しそうに見送っていた。

ミカたちが選んでくれた、仕立ての良いジャケット。それを纏い、どこか浮世離れした素振りを見せる大人。そして、その隣を少し俯き加減で歩く、可憐な私服姿の少女。

その光景を「デート」以外の言葉で呼ぶ通行人は、この街には一人として存在しなかった。

タグは、普段の彼を知るものからすれば信じられないほど上下左右に視線が揺れ動いている。セリナもそれに引っ張られてか、知らず知らずのうちに歩調が弾む。

 

「お二人、お似合いのカップルだね! 焼き立てのクレープ、どうだい?」

 

街路樹の陰に設営されたワゴンの店主が、トングを景気よく鳴らしながら声をかけてきた。

セリナの肩が目に見えて跳ね、頬が耳の付け根まで朱に染まる。

 

「カップルだなんて、そんな!」

セリナは顔を真っ赤にして空を掴むように両手を振る。

「私たちはただの、そのっ」と言葉を詰まらせ、激しく視線を泳がせた。

しかし、タグは外見上は無表情のままワゴンの前に立ち止まっていた。「カップル」という言葉に動揺することもなく、店主に誠実に向き合う。

 

「すまない、さきほど栗を食べたばかりだ」

 

「おっと、そりゃ残念。でも、マロン・ショの後はここのクレープが最高なんだぜ?」

 

「この季節なら、いつもここで店を出しているのか?」

 

「雨が降らなきゃ毎日いるよ。待ってるぜ」

 

「そうか。なら、次は必ず寄らせてもらおう」

 

「ははっ、いい返事だ! 待ってるよ、兄ちゃん!」

 

クレープスタンドの店主と再訪の約束を交わし、二人は再び歩き出した。

セリナの手元には、先ほど買ったマロン・ショの紙袋が残っている。栗の熱は徐々に奪われ、代わりに湿った紙の感触が指先に伝わって――強く握りしめる。

歩けば歩くほど、周囲の温かな視線がセリナの胸を刺す。

「お似合いですね」「楽しそう」――そんな無邪気な祝福が、彼女の耳には鋭いノイズとして響いた。

 

 

(……私は、どうすればいいんでしょうか)

 

セリナの視線が、隣を歩くタグの左手に落ちる。

ジャケットの袖口から覗く、自分とそれほど変わらないサイズの拳。しかし彼女には、その皮膚の下に隠された事実が透けて見えていた。砕け、歪に接合し、細かな骨片が肉に残り続けている戦傷。

 

キヴォトスの平和な街並みに、彼の外見は確かに馴染んでいる。しかし、その内面はこの穏やかな光景にしっかりと浸っているのだろうか。

何より、セリナの心を苛んだのは「タグの時間」という対価だった。

 

タグはシャーレの貴重な戦力であると同時に、先生の護衛、所属生徒の監督、D.U.の治安維持巡回という重大な業務を請け負っている。

それに加え、膨大な事務作業や、廃校・廃園巡回による学籍不明生徒の保護任務、各自治区への救援もこなしていた。

シャーレを先生一人で運営していた頃も酷かったが、大人と兵士、二人体制になってからも業務量は拡大する一方である。

特に廃校・廃園での戦闘巡回は過酷を極める。セリナは無意識に胸元へ手を当て、タグがアリウススクワッドを率いて廃園の鎮圧に向かった日の記憶を反芻した。

 

 

――その日、救護騎士団の半数が動員された。

ミネ団長を含むセリナたちは、廃校がぎりぎり視認できる地点の詰め所に配置についた。

昼前、ATを積載した大型輸送トラックが詰め所の横を通り過ぎ、廃校へと向かっていった。

 

間を置かず、銃撃戦が始まった。不定期に発生する銃撃音。時には爆発音が空気を震わせ、閃光が空を焦がした。

最初のタグによる保護通知の宣言からそう経たずに、進軍の許可が下りた。

 

戦闘そのものは、セリナの記憶の中では激しい音と光の断片に過ぎなかった。しかし、足を踏み入れた廃園の状況は凄まじいものだった。

セリナの所属する小隊は、狭い校庭に侵入した。

 

まず鼻を突く濃密な硝煙の匂い。崩れた壁、散乱する薬莢、へし折られたバリケード。

――激戦の痕跡がそこかしこにあるにも関わらず、地面に蹲る負傷者の姿はなかった。

静寂の奥、校庭の中央にタグの搭乗するスコープドッグが鎮座していた。

 

タグは事務的なログを読み上げるように状況を報告した。ATの前には投降した生徒たち。そして傍らにはアリウススクワッドが待機していた。セリナたちは急いで駆け寄った。

スクワッドのリーダーであるサオリは戦闘服が裂けていたが、幸い血痕は見当たらなかった。アツコは肩を痛めたのか、不自然な姿勢で自身を庇っていた。

ミサキとヒヨリに目立った外傷はなかったが、その表情には激しい疲労が滲んでいた。

だが、四人の様子を確認したセリナは、思わず息を呑んだ。

 

――綺麗に見えたからだ。

 

かつて彼女らが纏っていた虚無感は、そこには微塵も無かった。

傷だらけになりながらも、彼女たちの瞳は、まっすぐに世界を見据えていた。自分たちは今、誰かを殺すためではなく、救うために戦ったのだ、と。

汚れ仕事を押し付けられる兵器としてではなく、正道を歩む一人の生徒として、誇りを持ってそこに立っていた。

 

特に、かつてタグに懇願されてセリナが治療を受け持ったヒヨリの変わりようは劇的だった。

全てに怯え、何もかもを疑うことから始めていた少女は、そこにはもういなかった。

タグの横で並び立ち、戦い終えたヒヨリの姿に、セリナの胸がざわついた。

妬ましいという感情を、セリナは初めて知ったのだ。

 

 

もし彼が単なる案内役を求めるなら、わざわざミネではなく、ナギサに頼むはずだ。

当初は疑問に思わなかったが、落ち着いて考えれば答えは一つに収束していく。

セリナの様子が変わっていることにミネは気づいていた。だからこそ、タグに対する不自然な態度の裏を読み取り、気を回して彼に案内役を頼ませたのだ。

全ては自分のため――それは過剰な自惚れだと、セリナは即座に自身の思考を打ち消した。

しかし、考えれば考えるほど、その結論から逃れることはできなかった。

 

 

冷たくなったマロン・ショの紙袋を握りつぶしたまま、セリナは震える唇を強く噛み締める。

隣を歩く男の、規則正しい、けれどどこか重い足音。

その足音が刻む一歩一歩から耳を塞ぎたくなる。

自分の無力さが、鉛のように重く心に沈殿していく。晴らせぬままの妬みと、それ以上に激しい切なさが、喉の奥を熱く焼いた。

 

 

 

 

――同時刻、ティーパーティー執務室

 

 

壁面に設えられた大型モニター。そこには、トリニティ自治区のメインストリートを歩くタグとセリナの姿が、ハスミたち三人によるスマホカメラの映像を通して、鮮明に映し出されていた。

ただし音声の類は一切無しのままだ。

 

「……ミネさん。音声は、無いのですか?」

 

ナギサが、モニターから一切視線を外さずに問いかける。

 

「ハスミ副委員長には、映像の送信のみを命じております。本日の目的はあくまで万が一の事態に備えた警護です。お二人のプライベートな会話まで傍受することは、各々のプライバシーへの侵害に当たります」

 

ミネの静かな、しかし確固たる報告が硬質な室内に落ちる。

ナギサは小さく息を吐き、「ええ、その通りですね」と微かに頷いた。

 

画面の中の映像は、無音の映画のようにただ事実だけを淡々と紡いでいく。

二人の移動ルートは、この場にいないミカとミネの二人で考えたとのこと。

そのルートはよく練られており、もし誰かを連れて自治区を案内するならば自身も同じルートを辿るだろう、とミネ以外の全員が納得する出来である。

モニターの中では、タグが興味を惹かれたものをセリナが解説をする様が繰り広げられていた。

 

ある程度時間が経つと、タグが路上カフェに視線をやる。セリナがやや歩き疲れていることを敏感に察したようだ。

開いた席に二人が座る。

 

店員が歩み寄り、二人に注文を尋ねたようだ。少し時間を置いて、二人の前に頼んだであろう飲み物が置かれる。

だが、どちらも出された飲み物にすぐ口をつけようとはしない。

 

画面越しの無音の空間に、明らかに先ほどまでの和やかな歩みとは異なる、張り詰めた緊張感が漂い始める。

セリナは自身の膝の上で、両手を白くなるほど固く握りしめ、俯き加減で肩を微かに震わせていた。

 

執務室では、ツルギが握りしめていたバインダーの端が、ミシッという音を立ててひしゃげる。

サクラコはティーカップを口元に運んだまま動きを止め、ウイが不安げに目を瞬かせた。

 

モニターの中のタグは、ただ無言のまま、俯く少女へ視線を向けている。急かすことも、表情を変えることもない。

やがて、セリナがゆっくりと顔を上げ、タグを真っ直ぐに見据えて、その口元を動かし始めた。

タグの指先が、テーブルに置かれたティーカップの縁をなぞるように動いている。立ち上る湯気が、時折彼の鉄面皮を微かに白く染め上げる。

 

不意に、向かいに座るセリナが勢いよく立ち上がった。

両手はテーブルの縁を強く掴み、その口元は激しく動いている。周囲の客が驚いて視線を向けていることから、彼女が相当な声量を張り上げていることは、画面越しの全員が容易に理解できた。

 

(セリナがあれほど感情を露わにするなんて……)

 

ミネの目が微かに見開かれ、手袋に包まれた指先が膝の上で固く組まれる。

 

セリナはすぐに席に座り直したが、その肩は微かに震えていた。

タグは動じない。ただ静かに、何かを語り続けている。冷たい事実を告げるようなその口の動きと、決して視線を逸らさない死んだ魚のような瞳。

 

『――』

 

画面の中で、セリナが顔を上げる。

その瞳に光る微かな水分を、カメラが正確に捉えていた。彼女の口元が再び動き、今度は何かを強く、切実に訴えかけている。

 

その瞬間、タグの身体が微かに硬直した。

彼の視線が、不自然なほどゆっくりと、自身のジャケットの内ポケットに収まる何かへと落とされる。

 

数秒の静止。

 

そして、彼が再び顔を上げ、街の雑踏へと視線を巡らせながら長い沈黙を破った。

 

タグの口が動くたび、セリナの表情が劇的に変化していく。

驚愕。哀惜。そして――

 

モニターの中で、セリナの目から大粒の涙が零れ落ちた。

彼女は両手で顔を覆い、肩を震わせる。

 

執務室に、息を呑む気配が複数重なった。

ウイが悲鳴のような声を漏らす。ミネは席を立ち上がりかけた。

 

だが、画面の中の男は、泣き崩れる少女に対して手を差し伸べるでもなく、肩を抱くでもなかった。

彼の右手が宙を彷徨い――おもむろに、テーブルの端から紙ナプキンを数枚引き抜き、無骨な動作でセリナの顔の前に突き出した。

 

(なぜそこでナプキン!?)

 

モニターを見る全員の意見が一致した瞬間だった。

しかし、予想外の反応に対して、ナプキンを素直に受け取るセリナ。

涙をぬぐった顔には、もう絶望や無力感の影はなかった。泣き腫らした目元を赤く染めながらも、彼女は信じられないほど晴れやかな、満開の花のような笑顔を咲かせている。

セリナが何かを力強く宣言し、胸の前で両手を組む。

それに対し、タグが少しだけ視線を落として思考を巡らせた後、短く言葉を返す。

セリナの顔が驚きに見開かれ、次いで、弾むような笑顔と共に何かを要求した。

タグは短く頷くと、残っていた飲み物を一気に飲み干した。

 

「……音声無しの判断、正解でしたね」

 

ナギサが、ふうっと長く、安堵の息を吐き出して背もたれに体重を預ける。

 

「私もそう思います」

 

ミネもまた、固く組んでいた手を解き、モニターに映る二人へ向けて小さく頷いた。

 

 

壁面のモニターの中で、石畳に落ちる街路樹の影が長く伸びていた。

空を染め始めた茜色の光が、オープンテラスの二人を包み込んでいる。

タグがゆっくりと立ち上がり、それに合わせてセリナも軽やかな革靴の音を立てた。二人の間に、穏やかな解散の空気が漂い始める。

 

 

「どうやらお二人は解散のようです。ところで皆さま、お茶のお代わりは?」

 

ナギサが周囲を見渡す。

ミネ、サクラコ、セイア、ツルギ、そしてウイ。

各派閥のトップという公的な建前を抜きにして、偶然にも一堂に会することになった三年生たちと、一人混ざった二年生。

 

ナギサが静かに立ち上がり、新しい茶葉で淹れたティーポットから、全員のカップへ琥珀色の液体を注いでいく。

サラサラという滑らかな水音を合図にするように、誰からともなく、昔の他愛のない記憶がこぼれ落ちた。

モニターの電源は落とされた執務室で、普段は重い責任を背負って立つ彼女たちが、ただの少女として思い出話に花を咲かせる、穏やかな時間が流れ始める。

 

 

――以降、季節が巡るたびにタグとセリナの二人は、連れ立ってトリニティの名所を訪れることになる。

その裏側では、必ずこの執務室のモニターに火が灯る。そしてトリニティの首脳陣の面々が、無声の映像を警護という名目で鑑賞するのだった。

 

 

 

シャーレのオフィスフロア。

エレベーターの扉が開き、タグの重いウォーキングブーツの足音が廊下に響く。

ロビーのソファでタブレット端末を操作していた黒崎コユキが、その足音に反応して顔を上げた。

 

「あ、オジサン! おかえりなさーい!」

 

タグは歩みを止めず、片手に提げていた高級感のある紙袋を無造作にコユキの胸元へ放り投げた。

慌てて受け取ったコユキが、カサカサと音を立てて紙袋の中を覗き込む。

トリニティ自治区の有名店による、色鮮やかなケーキの詰め合わせ。包装の隙間から、甘い砂糖とバターの重厚な香りが微かに漏れ出していた。

 

「うわぁ! トリニティの高級ケーキじゃないですか! オジサン、気が利きますね!」

 

コユキのピンク色のツインテールが激しく跳ねる。

 

「ちょうどオヤツが欲しかったところなんですよ! これ、シャーレのみんなで分けちゃいますね! にゃははは!」

 

歓喜の声を上げるコユキを一瞥しただけで、タグは短い返事すら返すことなく廊下の奥へと進んでいった。

 

 

シャーレの休憩室。

コーヒーメーカーが低い駆動音を立てる室内で、先生がソファに深く腰を沈めていた。

タグは無言で入室すると、ジャケットの内ポケットから冷たいタブレット端末――シッテムの箱を取り出し、テーブルの上へ滑らせた。

硬いプラスチックがガラス天板を擦る音が響く。

 

「正直に言う。俺はアンタの業務を心のどこかで舐めていたということを自覚した。とんでもない難題だった。……今後は、俺も出来る範囲でそちらに協力しよう」

 

タグはソファの向かい側に腰を下ろし、襟を指で少しだけ緩めた。

先生はテーブルの上のシッテムの箱を手に取り、タグの顔を真っ直ぐに見つめる。

 

「それだけですか?」

 

タグの指先が、膝の上で微かに動く。

脳裏を掠めたのは、マロン・ショの熱、震える少女の肩、そして自身が差し出した紙ナプキンを濡らした涙の記憶。

タグは視線をテーブルの上にあるマグカップへ逸らし、小さく息を吐いた。

 

「……人に心配されるということがどういうことか、思い出したよ」

 

しゃがれた、平坦な声。

先生は微かに口角を上げ、手元のマグカップに口をつけた。

 

「上手くやれたようでよかったです。今後も相談役をやってみませんか?」

 

「俺も先生になれと?」

 

タグは口の端を歪めてみせた。

先生は静かに微笑んだまま、温かいコーヒーをゆっくりと喉へ流し込んだ。

カップをテーブルに置いた時、その目から先ほどの穏やかな笑みは消え去っていた。そして静かな声で告げる。

 

「ずっとATのパイロットを続ける、というわけにはいかないでしょう」

 

タグはソファの背もたれに体重を預け、天井のLED灯を見上げながら短く返した。

 

「そうだな」

 

「セカンドライフとしてどうです? いけると思いますよ」

 

タグの視線が天井から下がり、正面に座る先生へと真っ直ぐに向けられる。

彼は自身の手のひらをゆっくりと開き、今度はそちらを無言で見つめ続けた。

 

「その前に、したいことがある」

 

確かな意思を持った声で断る。

先生の右手が、次にコーヒーを口へ運ぼうとした空中でピタリと止まる。明日のことや業務以外のことで“未来への展望”をこの男の口から聞いた事実に、先生は微かに目を見開いた。

 

タグは開いていた両手をゆっくりと握り込み、静かに告げた。

 

「俺も、学びたい」

 

タグの口から紡がれた言葉に、先生はマグカップを持ったまま小さく瞬きを繰り返した。

 

「……学校に、通った経験は無いのですか?」

 

タグは視線を落とし、テーブルの上の何もない空間を見つめながら、淡々と事実だけを音声にする。

 

「俺は電磁気学も無い文明で育った――あの銀河じゃよくある未開惑星生まれだ、学校なんて高尚なものは、惑星を離れてから知ったよ」

 

最初、タグが口にした言葉が何を意味するのか、先生は理解が出来なかった。

 

「子供はすこし大きくなれば、すぐに職につくのが当たり前の文明だった。もっとも俺が最初に就いた職は、故郷を占領したバララントに対するゲリラだったがな」

 

何一つ情報を飲み下せないまま、ただ聞くだけの先生。

 

「次の職は、故郷の支配者が変わった時だ。支配者側の正規軍、ギルガメスの兵士になった」

 

先生は手元のマグカップをゆっくりとテーブルに置き、ミカ達によっておめかしをされたタグの全身と鉄面皮をじっと見つめた。

ようやく情報を飲み込めた先生の視線は数秒間、タグの全身を上から下までスキャンするように動き、やがてピタリと止まる――学生服を着て教室の机に向かうこの男の姿を、脳内で正確にレンダリングし終えたのだろう。

先生は表情の筋肉を一切動かさず、極めて真顔のまま、真剣な声色で問いかけた。

 

「今すぐには望まないのですか?」

 

「まだその時じゃない」

 

タグは短く鼻で息を吐く。

 

「何を学びたいかも決まっていない。それに、アリウスの件もまだ片付いていないし、RABBIT小隊の訓練過程も残っている。何より……アンタの仕事がもう少し楽になってから提案するさ」

 

タグはそれだけ言い残すと、背を向けて休憩室のドアへと歩き出す。

自動スライドドアを開けたところで、振り返らずに一度だけ立ち止まった。

 

「今日は本当に疲れた。早々に休ませてもらう」

 

ウォーキングブーツの足音が廊下へ遠ざかっていく。先生は背もたれに深く体重を預け、閉まっていくドアの向こう側へ向けて小さく頷いた。

 

 

数分後、パタパタという軽快な足音と共に、休憩室の自動スライドドアが再び開かれた。

 

「あれー? オジサン、もういなくなっちゃいました?」

 

大きなお盆を両手に抱えたコユキが、首を傾げて室内を見渡す。

お盆の上には、先ほどタグが持ち帰った有名店のケーキが乗った小皿が三つと、湯気を立てる紅茶のカップが二つ並べられていた。

甘い砂糖とバター、そして茶葉の香りが、休憩室に充満していたコーヒーの焦げた匂いを上書きしていく。

 

「タグさんなら、自分の個室に戻ったよ。ノックして尋ねてごらん」

 

先生がソファから身を起こして告げる。

 

「りょーかいです! じゃあ先生、これおすそ分けです!」

 

コユキはテーブルの上にケーキの皿を一つカチャリと滑らせると、お盆のバランスを取りながら再び足早に廊下へと駆け出していった。

 

 

静寂が戻った休憩室。

先生は、テーブルの上にポツンと残された色鮮やかなケーキと、冷めかけた自分のマグカップを交互に見つめた。

――脳裏に蘇るのは、先ほどのタグの声だ。

 

『電磁気学も無い文明で育った』

 

先生は両手で顔を覆い、指の隙間から深く、長く息を吐き出した。

 

「……電磁気学がない。つまり、夜の明かりは火を灯すしかなく、遠くの誰かと話す通信機すら存在しない世界だ」

 

誰もいない室内に、微かな震えを帯びた独白が落ちる。

 

「そんな環境から突然、宇宙を股にかける戦争に放り込まれ、ただATの扱いと戦争のやり方だけを叩き込まれた……だから、学校の存在すら知らない」

 

先生は顔を覆っていた手をゆっくりと下ろし、砂糖細工で飾られた色鮮やかなケーキをじっと見つめた。

彼がこれまでの人生で奪われてきた「当たり前の時間」の質量に、呼吸が浅くなる。

 

「確かに僕は助けが欲しいと願った、生徒によらない力が欲しいと。……けど、タグさんはそれ以前の人じゃないか」

 

静まり返った休憩室に、先生の絞り出すような呟きが溶けて消えた。

 

 

 

 

浪漫と悪意が同居する悪魔との会合 それは逃れられぬ闇の契約

会合に呼び出されたるは 感情を殺した白亜の書記官

ただ静かに 冷たく 言葉を公正なる証書へと刻み込んでいく

乾いた唇から紡がれるのは アストラギウス七千年の歴史

次回「調書」

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