装甲騎兵ボトムズ -蒼の記録-   作:ジミーボーイ

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調書

冷たく乾燥した空調の風が、シャーレの執務室の空気を微かに揺らしている。

談話室、客用の椅子に座る各務チヒロが、先生から差し出された書類の束に視線を落とし、小さく頷いた。

 

「取引実績にシャーレの名前を載せられるのは、ヴェリタスとしても大歓迎。セキュリティシステムの改善依頼、確かに引き受けました」

 

チヒロの口角が柔らかく上がり、白い歯が覗く。

だが瞬きを一つ挟むと、唇は真一文字に引き結ばれ、客前としての節度を取り戻した。手元の書類から先生へと真っ直ぐに視線が向け直される。

 

「早速だけど、現在の状況を見させてもらっても?」

 

「もちろん。お願いするよ」

 

向かいの椅子に座っていた先生が了承する。

 

二人は立ち上がり、シャーレの地下に位置するサーバー室へと足を向けた。

厳重な電子ロックの先。巨大な冷却ファンが低い轟音を立て、無数のブレードサーバーのLEDが暗がりで明滅を繰り返している。

ここに入室できるのは、シッテムの箱を持った先生がロックを解除した時のみ。

限られた人間しか立ち入れない空間を歩くチヒロは、無意識のうちに誇りとしていた。

 

管理用コンソールの前のオフィスチェアに腰を下ろすと、チヒロは持参したキーボードを素早くケーブルで接続した。

 

「先生、この作業は時間がかかるから一人で大丈夫だよ」

 

「私と一緒じゃやりづらい?」

 

「見てて面白い絵面じゃないってだけ。……先生が見たいなら、それでいいけど」

 

チヒロの視線がモニターに固定され、直後、硬質な打鍵音がファンの轟音に混じり始めた。無数の文字列が、彼女の網膜の上を正確なリズムで滑り落ちていく。

 

数十分の沈黙の後――背後のドアが開き、紙コップを二つ乗せたトレイを持つ先生が戻ってきた。

その瞬間、チヒロの肩が微かに震え、無意識に両腕をさすった。

コーヒーの香りによって集中が途切れたことで、低温に保たれた室内の寒気が皮膚を刺したのだ。

 

「ん、ありがとう先生。いい香りだね、このホットコーヒー。それに、私の好み覚えてるんだ」

 

「何度か、徹夜明けに一緒にコーヒーを飲んだからね。あの時の味に合う豆を選んでみたんだ」

 

チヒロは打鍵の手を止め、紙コップを受け取った。焙煎された深い豆の香りが、サーバー室特有のオゾンのような機械臭を中和していく。

温かい液体をすする二つの音が、冷たい室内に重なった。

 

 

さらに時間が経過し、チヒロが最後のエンターキーを強く叩いた。彼女は椅子に座ったまま、凝り固まった背筋を伸ばすように小さく息を吐き出す。

 

「外部からの不審なアクセスログがそれなりにあるね……既存のファイアウォールで弾けているけど、セキュリティに絶対はないから油断しないで。本作業は後日、部員を連れて行います」

 

チヒロがキーボードのケーブルを引き抜き、慣れた手つきで巻き始める。

 

「お疲れ様。相変わらず、すごい手際だね」

 

「これくらい、ヴェリタスなら誰でもできるようにしてあるから。私が捕まらないときは、他の子でもいいからすぐ呼んでね」

 

謙遜と共に片付けを終えた彼女が立ち上がる。少しだけ事務的な空気が緩んだ。ファンの唸り音だけが響く中、先生はそのタイミングを見計らうように口を開いた。

 

「ちょうどいい機会だから聞くんだけど、どうしてヴェリタスは正式な部活申請を行わないんだい?」

 

チヒロの指先が、バッグの留め具に触れたままピタリと止まった。

 

「非公式の部活って聞いて、もっとイリーガルな組織かと思っていた。でもチヒロたちを見ていて、そんな気配は感じなかったな。活動内容だけで考えれば、正式に登録したほうが大っぴらに部員勧誘もできて、苦労が減ると思うんだ。ほら、チヒロって頻繁に徹夜してるから」

 

「先生がそれ言うの?」

 

「僕は正式に徹夜禁止令が出ちゃってね。しようとすると、タグさんやミカからすごく怖い目で睨まれるんだ」

 

「先生は働きすぎ」

 

「チヒロこそ」

 

軽い応酬の後、チヒロは視線を外し、僅かに目を伏せた。小さく息を吐き出す音が、室内に微かに響く。

 

「先生が私たちのことを心配してくれるのは嬉しい。けれど」

 

静かな、しかし確固たる拒絶の響き。チヒロは再び顔を上げ、先生を真っ直ぐに見返した。

 

「部活登録をしない理由は、私の口からは言えない。ヴェリタスの根幹に関わることだから……知りたいなら部長に直接聞いて。先生が望むなら、私から時間を取るよう伝えておくから」

 

「部長はたしか、明星ヒマリだよね」

 

先生の言葉に、チヒロが目を見開いた。

 

「そっか、先生はまだウチの部長に会ったことが無いんだ。前言撤回、絶対会ってほしいから今から部長の予定を空けてもらう」

 

「わかった。予定が決まったら教えて」

 

先生の了承を受け、チヒロは顎を一度だけ引いて肯定を示した。

 

 

 

チヒロがシャーレから退去する背中を、執務室の窓越しに見送る。

冬の気配が近づくキヴォトスの空は、午後六時を過ぎた時点で既に深い夜の帳を下ろしていた。

 

コンコン、と短いノックの音が響く。

 

「入るぞ」

 

返事を待たずにドアを開けたのは、タグだった。シャーレの職員であることを示す白衣は外している。

 

「そろそろ出る。日付が越える前には戻る予定だ」

 

タグの、喉の奥で擦れるような低い声が落ちた先。執務机の奥で、先生は両手を強く組んだまま、眉間に深い皺を刻んでディスプレイを睨みつけていた。

チヒロと会話していた時の穏やかな面影はない。

 

「フローターから始まったこの一件、まず黙って自爆させたことはすまないと思っている」

 

「そっちはもういいですよ。事前相談してくれなかったのは少しムッと来ましたけど」

 

先生の返答は平坦だった。机の端に置かれたレポートの束へ視線を落とす。

未知の遺物がもたらすリスクと、タグの判断の合理性については、既に納得した、しかし――

 

「タグさんが一人でゲマトリアに接触するのは賛成できない」

 

先生の言葉は、コンクリートのように硬く、重かった。

タグは無骨な指先で首元を掻きながら、その声の響きと、微動だにしない先生に違和感を覚える。

 

普段の先生であれば、椅子から立ち上がり、身振りを交えて引き止めようとするはずだ。

だが今の先生は、椅子に深く根を張ったように動かず、組まれた指は不動のままだ。

 

(この人は、ある条件を満たすと思考が極端に頑なになる)

 

生徒に対して悪意を隠さない存在に対して、特にその傾向が強い。黒服の所業を見れば、先生の逆鱗に触れる真似をしているとタグも納得はできる。

 

しかし、タグの中では別の推論を弾き出していた。

タグからすれば、ゲマトリアの悪意など――アストラギウスの神がもたらす所業に比べれば、取るに足らないものだ。

この強固な反対は、本当に恐ろしいものを知らない無知ゆえの過剰な防衛反応だ、と考えた。

 

タグは数秒間、先生の強張った肩のラインを無言で観察した。

しかし、それ以上の言葉を紡ぐことはやめた。無知は幸福であるとは言わない。しかし知らなくていいことは間違いない。

 

無言のまま踵を返し、タグは重い軍靴の音を響かせて外出への準備をするために、自室へと向かった。

 

 

 

――夜

 

 

D.U.の中心部にそびえ立つ超高層ビル。その地下駐車場に、五人乗りの黒い乗用車が滑り込むように停車した。

タイヤがコンクリートを擦る音が止むと同時に、後部座席のドアが開き、タグが降り立つ。

 

「私とアツコはここで待機する。……通信機は開いておくから、いつでも呼んで」

 

完全武装を施したミサキが、いつになく低い真剣な声で告げた。隣のアツコもチェストリグのバックルを指で確認し、静かに頷く。

 

タグの背後には、サオリとヒヨリが立っていた。

サオリは深いネイビーのイブニングドレスを身に纏い、筋肉質な肩のラインを隠すように厚手の黒いショールを羽織っている。

対してヒヨリは淡いベージュのドレス姿だが、首元から手首までを覆う繊細なレースと、足元を隠すロングスカート、さらに厚手のストッキングによって、左肩と右太ももに刻まれた傷跡を完璧に隠蔽していた。

 

それでも不慣れなヒールの高さに足首を小刻みに震わせ、落ち着かない様子でスカートの裾を握りしめている。

 

「うぅ……こんな格好で戦闘になったら、絶対に転びますよぉ」

 

「ヒールは外せるようになっているとはいえ、慣れないな。……ドレスコードと言われれば仕方ないか」

 

サオリの額にも微かな脂汗が浮いていた。

 

 

 

事の始まりは、三日前。

 

(あまり大人数は困りますが、護衛の方を連れてきていただいても結構です。夜の八時から入店可能です、お待ちしております)

 

タグのスマホの液晶画面に表示された、黒服からのメールと住所。

D.U.上位十位に入る超高層ビルの最上階フロア。テナント情報は一切検索に引っかからなかったが、思わぬ方向から情報がもたらされた。

 

「ここ私知ってるよ。フロア全部がVIP向けの会員制BARになってるの。警備がすっごく厳重で、専用のエレベーターを使わないとそのフロアに入れないくらい」

 

答えをもたらしたのは、背後からタグの検索画面を覗き込んだミカだった。

 

「知っているのか」

 

「ティーパーティーにいた頃は、お偉方の人とか会う機会が多かったからその度に利用したよ。ナギちゃんも使ったことあるし」

 

タグは一度だけ瞬きをし、目前で無邪気に笑う少女の顔と、かつてトリニティにおける最高権力機関に所属していたという事実を再確認する。

 

「けどタグさん、こんなところに用あるの……まさかATでカチコミとか!?」

 

「俺を何だと思っている」

 

必要に迫られれば引き金は引くが、弾薬の無駄な浪費と無目的な破壊は愚行以外の何物でもない。

 

「冗談だってば☆ ……誰かに招待された、ってところ?」

 

「そうだ」

 

「……一人で?」

 

タグは即座に否定し、護衛としてアリウススクワッドを連れて行く旨を伝えた。

するとミカは表情を僅かに引き締め、「ドレスコード大丈夫?」と問い返した。

 

「まさか?」

 

「そのまさか。ここセミフォーマル以上じゃないと入店不可だよ」

 

タグの視線が、端末のカレンダーへと移動する。指定日時と現在時刻の逆算する――猶予は、七十二時間。

 

「……何て場所を指定してくれたんだ」

 

「誰が招待したのかわからないけど、相当タグさんのこと買っているんだね、招待主」

 

「どういうことだ」

 

「ここで暴力沙汰は絶対に無理、キヴォトスの上流階級全員を敵に回すのと同じ行動だもの。持ち込める火器はハンドガンのみ、それも護衛の人だけ。タグさんにとってはシャーレの次に安全な場所だよ」

 

その言葉に、タグは口を閉ざした。

排気ファンの音だけが執務室に響く中、タグの脳内で情報が噛み合っていく。

黒服は、一切の物理的脅威をシステム的に排除する空間をあえて選んだ。それは罠ではなく、互いの警戒を強制的に解くための「物理的な安全の担保」に他ならない。

 

「うーん、そういうことだったら私が付き添ってあげるのも手なんだけど」

 

「駄目だ。俺かお前、どちらかは必ず先生のすぐ近くにいなければならない」

 

「そう言うと思った。じゃあスクワッドの子におめかしの準備してあげないとね」

 

「急なことだが頼む。……これは俺のカードだ」

 

タグは背広の内ポケットから無骨な金属製のカードケースを取り出す。中から漆黒のクレジットカードを一枚引き抜き、デスクの上に置く。

シャーレでの手当まみれの給与、マッスルシリンダーの特許費と最近入金が始まった代替PR液の特許費、生活費を一切消費しない環境によって無機質に積み上がった数字の結晶だ。

 

「ワオ、タグさんブラックカードなんだ、結構高給取り」

 

ミカは感嘆の声を上げてカードを手に取るが、その瞳の奥には不満の色が揺れていた。

 

本当は自分がエスコートしたかった。危うい裏社会の会合に、彼を一人で行かせたくはない。

しかし、『先生の側にいる必要がある』というタグの言葉を聞いた以上、我儘を飲み込むしかない。

 

(仕方ない、よね。私は先生の護衛役としてシャーレに来ている。まず最初に守らなきゃいけないのは先生)

 

ミカは一瞬だけ落ち込んだように視線を伏せたが、すぐにいつもの華やかな笑顔を貼り付けて顔を上げた。

 

「任せてよ。サオリとヒヨリちゃんに、とびっきり似合うドレスを用意してあげるから」

 

「一切合切任せる」

 

タグはそこで言葉を切り、カードを見つめるミカへ向けて、低くしゃがれた声を落とした

 

「……ヒヨリは左肩と右太ももに目立つ傷がある、そこの配慮を頼む」

 

――倒壊した古聖堂で相対した時のことがタグの脳裏に蘇る。

土煙の中から転がり出てきたヒヨリの、深く皮膚を裂かれて赤い肉を露出させていた白い太腿と肩のビジョン。

当時は完全な敵対関係にあり、あの場における彼女の無力化は、自身と先生が生き残るための戦術的最適解だ。その判断に狂いはない。

だが、己の引き金によって、今も消えない痕跡を少女が背負い続けているという事実が、鉄錆のような微かな苦味となって喉奥に張り付く。

 

ミカは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに真剣な表情へと戻り、力強く頷いた。

 

「うん、事前にわかっていれば隠せるドレスは用意できるから任せて」

 

 

 

最上階

 

エレベーターの重厚な扉が開くと、そこは静寂に包まれた会員制BARのエントランスだった。

分厚いカーペットが足音を完全に吸収する。受付の奥に立つ黒服のスタッフたちが、タグたち三人の姿を認めるなり、流れるような動作で道を開けた。

 

サオリとヒヨリの視線が、瞬時にフロアの構造と人員の配置をスキャンする。

 

(この警備は)

 

サオリの背筋に、薄い冷汗がにじむ。

見張りに立つスタッフたちの視線、即応体制で火器を構えた姿勢、そして一切の死角を潰した監視カメラの配置。

もしここで銃撃戦になれば、生きて一階に辿り着く保証はどこにもない。

 

(タイトなスカートではまともな回避行動が取れない。高すぎるヒールは足首のバネを完全に殺している)

 

背中を覆う上質なショールの滑らかな肌触りすら、今のサオリには忌々しい拘束具にしか感じられなかった。

 

ヒヨリの震えていた足がピタリと止まる。彼女の瞳孔が開き、重心が極端に前へと傾いた。万一の事態に備えて、殿を務めるための初動動作。

即座にヒヨリの前に半歩だけサオリが身を乗り出し、微かに顎を引いてその覚悟を制止した。

しかし、未だドレスの下では、ヒヨリの筋肉はいつでも弾けるよう鋼のように強張っている。

 

「お連れ様はこちらへ。……VIPの方々にもご満足いただける控え室をご用意しております」

 

受付の男が、感情の抜け落ちた声でサオリとヒヨリを別の扉へと促す。

サオリは奥歯を強く噛み締め、僅かな抵抗の意思を飲み込んでヒヨリと共に別室へと歩を進めた。

 

タグは案内人の後に続き、フロアの最奥にある個室の前で立ち止まった。

防音、防弾、防爆の基準を軽々と満たしているであろう重厚な鋼鉄の扉。それが油圧の低い駆動音と共に開かれる。

室内の空気は、物理的には快適な温度に設定されているようだが、タグには冷え切っているように感じられた。

 

「お早い到着でしたね。……さあ、座ってください」

 

アンティーク調の革張りソファの中央で、黒服が両手を広げて歓迎の意を示した。

だが、タグの視線は男の芝居がかった動作を素通りし、その背後――部屋の角の薄暗がりへと固定された。

 

タグの胸郭の奥で、心臓が警鐘のように一度だけ強く脈打つ。

 

(ミレニアムの生徒が、なぜこんな裏社会の最深部にいる)

 

そこに静かに佇んでいたのは、夜の闇に溶け込むような漆黒のドレスを纏う少女――生塩ノアだ。

ミレニアムの白を基調とした制服ではない。彼女は透き通るような白銀の髪を背に流し、タグの鉄面皮を見据え続けている。

瞬きすら極端に少なく、呼吸による胸の上下さえ読み取れないほどの異常な静止状態を保っていた。

 

防音と防弾を施された分厚い鋼鉄の扉が閉まり、個室は完全な静寂に包まれた。

革張りのソファに深く腰掛けた黒服は、左目が塞がったような異形の顔をタグの方へ向ける。

 

「当然、疑問に思われるでしょう。……この場にキヴォトスの生徒が同席していることに」

 

黒服の指先が、部屋の角で静かに佇む生徒を指し示す。

ノアは、瞬き一つせず、ただ壁の一部のように気配を消している。

 

「彼女は、裏社会における公正証書を作成するために今日この場へお呼びしました」

 

真意を探るようにタグはノアへ視線を移すが、彼女の白銀のまつ毛は微動だにしない。

 

「私どもの世界では大変人気な方でしてね……予約に時間がかかり、会合のお約束から日にちが過ぎてしまったことをお詫びします」

 

タグは無言のまま、今度は目線を黒服のほうへと向ける。

 

「貴方の口から語られる歴史を、一字一句余すことなく記録する。それが彼女を呼んだ理由です。同時に、貴方が矛盾する内容や齟齬をきたす話をした時の備えでもあります」

 

虚偽の牽制。黒服の言葉に対し、タグの喉が低く鳴る。

ノアは表情の筋肉を微塵も動かさず、静かに目を伏せていた。

 

 

数度のノックと共に、店のスタッフが入室してくる。

黒服の前に気泡が弾けるトニックウォーター、タグの前に氷が浮かぶアイスティー、そしてノアの傍らの小さなサイドテーブルにミネラルウォーターが音もなく配膳された。

スタッフが退室すると同時に、ノアは手にしていたバインダーを開き、静かにペンを構えた。

 

タグはアイスティーのグラスを手に取り、冷たい液体で乾いた気管を潤す。

 

「まずは地理からでいいか?」

 

しゃがれた声が、冷え切った個室に落ちる。

黒服が頷き、先を促す

 

「俺のいたアストラギウス銀河は直径十六万光年だ。……そして、銀河の各地に人類が居住している」

 

――カツン。

黒服の手からグラスが滑り落ちそうになり、慌ててテーブルに叩きつけられる硬い音が響いた。

 

「銀河の各地、つまり人類はFTLに手が届いたということですか!?」

 

黒服の顔のない頭部が、タグへ向かって異常なほどの前のめりになる。

 

 

FTL――Faster-Than-Light、超光速航法。

 

 

タグは感情の読めない瞳で男を見据え、短く顎を引いて肯定を示した。

 

黒服の呼吸が不規則に乱れ、その異形の輪郭そのものが歓喜の熱で微かに歪むように見えた。

彼の両手がテーブルの縁を強く掴み、肩が小刻みに震え始める。

 

「……少し、席を外します」

 

言い捨てるや否や、黒服は足早に重い扉を開けて退室していった。

 

残された個室には、微かな空調の稼働音だけが横たわっていた。

タグは手元のグラスに視線を落とす。氷が解け、カランという硬質な音を立てて水面を揺らした。

彼はゆっくりと顔を上げ、対角の角に控えるノアへと視線を向ける。

 

「ミレニアムの生徒が、随分と危ない副業をしているようだな」

 

しゃがれた声が、冷え切った空気を切り裂く。

だが、ノアは顔を上げない。白銀の髪を揺らすこともなく、手元のバインダーへ視線を落としたまま、紅もさされていない唇だけを淡々と動かした。

 

「私のことは、ただの記録装置と思ってください。……記録対象との会話は、お受けしておりません」

 

抑揚の一切ない、極めて平坦な音声。

タグの観察眼は、彼女の瞬きの回数が極端に少なく、ドレスの衣擦れの音すら生じさせないほど静止している事実を捉えた。

人間の少女ではなく、文字通り機能を限定された部品としての佇まい。

タグは短く鼻で息を吐き、グラスに水滴が伝い落ちるのを無言で見つめた。

これ以上、彼女に機能外の事を要求するのはただの毒でしかないと納得する。

 

重苦しい沈黙が、個室を支配する。

グラス表面の結露が水溜まりを作り始めた頃、背後の分厚い鋼鉄の扉が、油圧の音を立てて開かれた。

 

黒服が戻ってきた。

ソファへ歩み寄る彼の足取りは、先程までの計算された優雅さを欠いていた。ドカッと体重を預けるように革張りのシートに沈み込む。

タグの鼻腔が、エアコンの乾燥した空気に混じる、高い度数のアルコール特有の鋭い揮発臭を捉えた。

 

「すみません。あまりの歓喜に、気付けを煽ってしまいました」

 

黒服の両手が膝の上で強く組まれる。だが、その指先は細かい痙攣を止めることができず、顔のない頭部から漏れる呼気は明らかに熱を帯びていた。

 

「私の研究テーマ……いえ、研究を行う最大の理由です。FTL、それがやはり夢物語ではないということを証明していただいたこの一点で、今日の会合の価値はありました」

 

黒服は深く息を吸い込む。

 

「さあ、どうか続きを」

 

男の声帯を震わせているのは、未知を渇望して既知を創造しようとするゲマトリアとしての純粋な狂気だった。

 

タグはアイスティーのグラスをテーブルに置き、先ほどとは打って変わった黒服の様子をうかがう。

部屋の隅に控えるノアもまた、ペンを走らせる手を一瞬だけ止め、視線を黒服へ向けた。

二人の間に、男の失態を嘲るような甘い感情は湧かない。そこにあるのは、異常な熱を帯びた対象に対する純粋な観察だけだった。

 

 

「八万五千年前だ」

 

タグの削り出されたような声が、室内の冷え切った空気をさらに重く沈み込ませる。

 

タグの口から淡々と紡がれるのは、アストラギウス銀河における果てしない停滞と血の歴史だった。

銀河の中心である惑星クエントに興った最初の文明は、三千年前に崩壊。

生き残ったクエント人は過去の技術を放棄し、今も砂漠で原始的な暮らしを営んでいるという。

紀年法は『アストラギウス暦』。七千年以上もの長い歴史を持ちながら、その技術発展は極めて歪だ。

巨大な宇宙戦艦が星間を跳躍し、艦内で疑似重力を発生させる一方で、地表を這う装甲車は泥に塗れ合成燃料で駆動する。情報を映し出すのは、重く分厚いブラウン管のままだ。

 

黒服の呼吸が浅くなる。部屋の隅では、ノアのペンが紙を擦る音が、機械のように正確なリズムを刻み始めた。

 

「……疑似重力と、合成燃料」

 

黒服の喉から、空気がひび割れるような音が漏れた。彼の両手が膝の上で硬直する。

歴史における、異常なまでの技術の偏りと停滞。知識を探求するゲマトリアの脳内で、それが何を意味するのかという思考が回り始めていた。

 

「アストラギウス暦を定め、銀河全域に深く根付いているのが『マーティアル』という宗教結社だ。奴らは闘争そのものを肯定し、奨励している」

 

タグの目が、薄暗い個室の中で冷たく光る。

 

「表向きは中立を装っているが、実態は超大国の背後で糸を引き、終わりのない権力争いと戦火を拡大させるためのシステムとして機能している」

 

「闘争による、切磋琢磨の果て……進化の促進、ですか」

 

黒服の声が微かな震えを帯びた。

歪な技術の停滞と、銀河規模で闘争を煽る巨大な宗教システム。それらが全て人為的にデザインされた箱庭であるという狂気的な仮説が、男の異形の輪郭を揺らしている。

 

話は銀河の生態系へと移った。

多様な文化圏が存在する点や、そこに住む人類の姿形がキヴォトスの住人と大差ないことをタグは告げた。

ただし、この世界のように機人型や獣人型の知性体は存在しない。例外は、寿命も体躯も他の人種より一回り以上大きいという先述のクエント人のみだ。

 

「では、異形の知的生命体、いわゆる宇宙人は存在しなかったと?」

 

黒服の顔のない頭部が、異常なほどの執着を帯びてタグへと傾く。

その問いに、タグは躊躇うことなく頷いた。

 

「今は存在しない」

 

瞬き一つせず、タグは冷徹な事実を突きつける。

 

「人類が銀河へ進出していく過程で、敵対する他種族の生命体を一つ残らず制圧し、絶滅させたからだ」

 

黒服の動きが完全に停止した。

神秘と崇高が介在する余地などない、あまりにも血生臭く徹底された物質的な蹂躙の事実。

息を呑む音すら消え失せた個室の中で、ただノアのペン先が紙を滑るサラサラという音だけが、無機質に響き続けていた。

 

 

――そしてとうとう、淀みなく一切の推測を交えずに断言される事実に黒服が顔のない頭部をわずかに傾けた。

 

「随分と、見てきたかのような口ぶりですね。一個人の兵士が知り得る情報としては、歴史の根幹に触れすぎているように思えますが」

 

タグは静かに息を吸い込み、冷たい目で黒服を見据え返した。

 

「聞いたからだ」

 

その声には、一切の虚飾も迷いもない。

 

「三千年前に生まれ、アストラギウス銀河の文明と戦争のすべてを背後で操ってきた存在。……自らを神と名乗る者、ワイズマンから直接な」

 

個室から、微かな衣擦れの音すらも消え失せた。

空調の稼働音だけがやけに大きく響く中、黒服の身体が革張りのソファの上で強張り、部屋の角で記録を続けていたノアのペンが、完全に停止する。

 

「俺は奴のお気に入りだったらしい。聞けば何でも教えてくれた。……だから、これはただの事実だ」

 

タグの口から放たれた音声は、キヴォトスの神秘を追究する者にとって、あまりにも重い質量を伴って空間を圧迫していた。

 

「――」

 

タグはそこで言葉を切り、手にしていたグラスを揺らした。氷がカラン、と硬い音を立てて静寂を叩く。

グラスをテーブルに置き、タグは組んだ両手の上に無骨な顎を乗せた。

 

「どうする。先が聞きたいか?」

 

部屋の空気が、張り詰めた糸のように軋んだ。

黒服の膝の上で固く組まれた彼の両手は、細かな痙攣を抑え込むように震えていた。

 

ここに至って黒服は、己の絶対的優位が崩れ去った事実を突きつけられていた。

本来、この会合はタグがフローターを破壊したことへの「詫び」として、情報を取り立てるための場だったはずだ。

ここまでレベルの高い情報が手に入るとは想像もしていなかっただろう。

 

だが今、黒服は対価を要求される側へと完全に転落している。

タグが語った「ワイズマン」という神の如き存在と、彼が握る深淵の歴史。それを前にして、黒服の知的渇望は既に限界を超えていた。

 

「……認めましょう。ここで終わらせるのは、私には耐えられません」

 

絞り出すような、極めて苦々しい、だが確かな熱を帯びた声だった。

 

「何か、求めるものはありますか?」

 

タグは黒服の質問に答えを返さず、淡々と告げた。

 

「その前に、この情報にどれだけの価値があるのかをまず話してやる」

 

黒服の息を呑む音が聞こえた。タグは背もたれに体重を預け、虚空を見据えたまま再び口を開く。

背後で、ノアのペンが紙を擦る音が、冷たく規則的なリズムを再開した。

 

「ワイズマンは、ある『器』を求めていた。自身の膨大な知識と意思を受け継ぐに足る、極限まで鍛え上げられた絶対的な存在をな」

 

タグの声が、血塗られた歴史を紡ぎ出す。

 

「その器を選別し、生み出すためだけに、奴は銀河全体を巻き込む戦乱を起こし続けた。歴史上、三度の銀河大戦が引き起こされている。主にギルガメスとバララントという二つの巨大な陣営に分かれ、人類は互いを殺し合った」

 

ノアのペンが紙を叩く音が、僅かに強くなる。黒服は身動き一つせず、その言葉の一語一句を自身の知識に刻み込もうと硬直している。

 

「大戦の規模は、ここのキヴォトスでの小競り合いとは次元が違う。軌道上からの無差別爆撃、星系を吹き飛ばす質量兵器。無数の星々が、文字通り破壊され、燃え尽き、死の星や星屑へと変わっていった」

 

硝煙と鉄の匂いが、彼の記憶の底からこの個室へと這い出してくるようだった。

 

「三度目の銀河大戦は百年続いている。その戦争の果てに、両陣営は慢性的な資源不足に陥った。巨大な戦艦も、重厚な装甲車両の量産にも支障が出てきた。その末路として生み出されたのが……俺が乗っている兵器、アーマードトルーパー」

 

タグは自身の胸板を、無骨な指先で一度だけ叩いた。

 

「生存率など考慮されていない。安価で、粗製乱造が可能で、如何なる環境であろうと使える歩行兵器。それに人間を詰め込んで、死地へと送り込む。……それが、俺のいた世界の行き着いた果てだ」

 

黒服が、前のめりに身を乗り出し、声を荒らげた。

 

「待ってください、それは答えになっていません。器とやらを選別するのになぜ、それほどの規模の戦争を起こす必要があるのですか」

 

その問いを受けた瞬間、タグは瞬きを一つし、鉄面皮の奥で思考誘導の成功を確信した

対象の知的好奇心は既に後戻りできないラインを越え、完全に飢餓状態に陥っている。

 

「ここからは対価を払ってもらうぞ……全ての答えをお前に伝えよう」

 

タグは声を一段階低く落とし、黒服へと視線を突き刺した。

 

「ただし、ノアを退出させるのが条件だ」

 

黒服の首が微かに傾く。

ノアの機械のように正確だったペン先がピタリと止まり、透き通るような双眸が見開かれる。

彼女は、初めて明確な驚愕をその顔に浮かべていた。

 

「理由は?」

 

「生徒に聞かせるべき話じゃない、では駄目か?」

 

タグは淡々と返す。それは庇護者としての最低限のラインであると同時に、黒服に対する冷徹な通告だった。

公正な証明(ノア)を破棄してでも、記録に残せない深淵を覗き込む覚悟があるか、という暗黙の提示。

 

黒服は数秒だけ沈黙し、自身の渇望と理性を天秤にかけた。

結論は、最初から出ている。

 

「……いいでしょう。ノアさん、一度退出をお願いします」

 

「わかりました」

 

ノアは小さく息を吸い込み、元通りの無機質な表情へと戻る。そしてバインダーを閉じて、衣擦れの音すら立てずに立ち上がった。

分厚い鋼鉄の扉が開き、そして再び重い音を立てて閉ざされた。個室には、異邦の兵士と、未知を渇望する異形の者だけが残された。

 

 

十五分後。

 

 

分厚い鋼鉄の扉が、油圧の駆動音と共に再び開かれた。入室を許可されたノアが、衣擦れの音すら立てずに個室へと足を踏み入れる。

ノアの存在を、タグはあえて無視した。

革張りのソファに深く沈み込み、両手で頭を抱え込む黒服の姿にのみ集中する。

――推測通り、黒服には急激な変化が起きているようだ

 

ワイズマンという神の真実。

それはキヴォトスの『神秘』や『崇高』とは根本的に異なる、あまりにも血生臭く、機械的で、合理的な選別の行き着いた果てであるということ。

 

ゲマトリアという組織にとって、ワイズマンの合理性は求めているものではない。

今までかき集めたテクストへの興味と、神に対する異常な熱狂は急速に冷却し、絶望へと反転していた。

 

「今後、アストラギウスの遺物に関わるのは止めておけ。お前の手に収まるものではない」

 

タグのしゃがれ声が、最後通告として冷え切った個室に落ちる。

革張りのソファが微かに軋む音を立て、タグは腰を上げた。

 

「用事は終わりだ、俺は帰る」

 

タグの視界の端で、黒服が両手をゆっくりと頭から離す。膝の上に投げ出された指先が、小刻みに痙攣していた。

黒服の顔のない頭部が、天井の虚空を仰ぐ。

 

「……羨ましいですね」

 

黒服は言葉を呟く。

力なく膝の上に落ちた両手の指先は小刻みに震え、乱れた呼吸から吐き出される息には、致命的な期待外れへの絶望と、相反する不気味な熱が奇妙に混濁していた。

 

「アストラギウスの人類は、FTLによって星の領域に到達した。私も、星々の先を見てみたいものです」

 

掠れた声。だが『FTL』という単語を発する時だけ、男の声帯はすがりつくような熱を帯びた。

ゲマトリアとしての本来の探求とは別の、純粋な未知への希望だけがそこに残っている。

 

タグは黒服の独白に返答せず、背を向けた。

 

 

 

地下駐車場

 

 

コンクリートの冷気が漂う中、待機していた自動車の後部座席にタグが乗り込む。

サオリとヒヨリが無言で後に続き、運転席のミサキがエンジンを始動させた。

車がD.U.の夜の街へと滑り出す。窓の外を流れるネオンの光が、車内の暗がりを等間隔で照らし出していた。

 

「あの、隊長」

 

ヒヨリが、膝の上で自身のドレスの裾を握りしめながら、隣に座るタグを見た。

 

「その、なんだか……機嫌がよさそうに、見えます」

 

タグは視線を窓の外から外し、ヒヨリの怯えたような瞳を見つめ返す。

機嫌が良いわけではない。

血みどろの歴史の中から希望を見出し、それを渇望した黒服の姿を思い返しただけだ。

その結果として、タグの口元が歪んだのだ。

 

――無知だった男への冷笑か、それとも希望を抱ける男への妬みか。口の歪みの原因がどちらなのかはタグにも判断はつかない。

 

「……俺の古巣を、羨ましいと言った奴がいたからな」

 

喉の奥で鳴る低い音が、車内の暗がりに溶けた。

 

ヒヨリの目が丸くなる。彼女の視線が宙を泳ぎ、自身の古巣――アリウス自治区の記憶を脳裏で探り始めた。

数秒後。彼女の呼吸がヒクッと浅く跳ね、瞳に急速に水分が溜まっていく。

 

「うぅっ、アリウスのいいところなんて……何一つ、思い浮かばないですっ」

 

ヒヨリは両手で顔を覆い、肩を震わせて泣きじゃくり始めた。

そのくぐもった泣き声に、反論できる者は誰もいない。

サオリは硬い表情のまま視線を逸らし、アツコはフードの奥でマスクの位置を深く直す。ハンドルを握るミサキでさえも、苦々しく唇を歪めて沈黙した。

 

彼女たちの記憶の中でどのような地獄が再生されているのか、タグには分からない。ただ、滴り落ちる大粒の涙が、ドレスの生地を濡らしていくという事実だけがあった。

 

慰めの言葉など、血みどろの戦場を生きてきたタグの引き出しには存在しない。

タグは無言のまま右手を伸ばし、ヒヨリの頭にゆっくりと乗せた。

「ポン」という軽い慰めではない。操縦桿のタコと無数の傷に覆われた硬い手が、不器用な庇護としてヒヨリの細い髪に触れる。

決して大きくはないはずのその掌は、兵士特有の拭いきれない力みと重さを伴って、彼女の頭を微かに押しつぶすように圧をかけた。

ただ二、三度、タグは力加減が分からぬまま、ぎこちなくヒヨリの頭を撫でた。

 

「……これから作ればいい」

 

ヒヨリの肩の震えが微かに弱まり、泣き声が小さなしゃっくりへと変わっていく。

 

タグはそれ以上言葉を重ねず、前を向いた。

窓の外を見上げる。D.U.の煌びやかなネオンのさらに上、キヴォトスの夜空には無数の星が瞬いている。

 

文字通り質量兵器で破壊され、燃え尽き、星屑と化した無数の故郷。

それに比べれば、廃墟であれ冷たい地下であれ、物理的な大地として残っているこの世界の故郷など、まだどうにでもなる。

 

視界を満たす遠い星々の瞬きと、手の中にある少女の確かな質量。

タグの掌の熱が、ヒヨリの髪越しに微かに伝わっていく。

車の規則的なエンジン音だけが、夜の街を静かに進んでいった。

 

 

 

翌日の昼下がり。シャーレの執務室は、書類の束と微かな空調の駆動音に支配されていた。

先生、タグ、ミカの三人がそれぞれのデスクで作業を進める中、突如としてその静寂は暴力的に破られた。

 

バンッ、と分厚い扉が乱暴に押し開けられる。

 

「隊長、お話があります」

 

先頭で足を踏み入れたのは、完全武装を施した月雪ミヤコだった。続いて空井サキ、風倉モエ、霞沢ミユ、さらには黒崎コユキまでがぞろぞろと執務室へ雪崩れ込み、タグのデスクを半円状に包囲する。

タクティカルベストの留め具が擦れる音と、重いブーツの足音が室内を威圧的に満たした。

 

「隊長、失望したぞ」

 

サキが腕を組み、鋭い視線を向ける。

 

「ちょっとないわー」

 

モエが気怠げな口調のまま、しかし視線だけは珍しく真剣にタグを射抜く。

 

「隊長、ちょっとどうかと思います」

 

いつもの小声であるが、ミユもタグを表立って批判する。

 

「オジサン……デリカシーがないのは知ってましたけど、今回は幻滅です!」

 

コユキに至っては、義憤に駆られたような様子で胸を張っていた。

 

キーボードを叩いていたタグは手を止め、ゆっくりと顔を上げる。表情の筋肉は微塵も動かない。

 

「何のつもりだ」

 

「なぜサオリ先輩とヒヨリ先輩のドレスだけ用意して、ミサキ先輩とアツコさんのドレスを用意しないんですか」

 

ミヤコが真っ直ぐに非難の矛先を突きつけた。

 

(……情報伝達が早いな。スクワッドとRABBIT、うまく打ち解けているようだな)

 

タグは無言で視線を逸らす。昨夜の会合の経緯が、どういうわけか既に彼女たちの間で共有され、しかも「不公平な待遇」という曲解を伴って火種となっているらしい。

 

「ちょっと、待ってくれ! 誤解だ!」

 

そこへ、息を切らしたサオリたちアリウススクワッドの四人が駆け込んできた。サオリが慌ててタグとRABBIT小隊の間へと割り込み、両手を広げてとりなそうとする。

 

「任務のためなんだから、しょうがないよ」

 

アツコが穏やかな口調で宥める。

 

「なくても別に問題ないし……」

 

ミサキは視線を逸らし、首元を隠すようにしてダウナーに呟いた。

しかし、その言葉の裏には、自分たちも綺麗な服を着てみたかったという微かな未練が透けて見えていた。

 

「そういう問題じゃないぞ。女性はそういう区別が大嫌いだということを、隊長も先輩たちも覚えないとダメだ」

 

サキがハキハキとした声で、一歩も引かずに前傾姿勢をとる。

 

「オジサン、反論ありますか?」

 

コユキがここぞとばかりに追及を重ねた。

 

騒然とする執務室。話の輪から外れている先生とミカが苦笑いしながら見守る中、タグは短く息を吐き出して背もたれに体重を預けた。

 

「話の流れはまあまあ分かった。とはいえな」

 

タグは視線を横へと動かす。

 

「ミカ、ドレスの領収書を出してくれ。たしかお前が仕舞った記憶がある」

 

「ほい」

 

ミカが軽い返事と共に、ファイル棚からタグの経費記録ファイルを取り出す。その中から一枚の記録ページを取り出すと、タグのデスクの中央へと滑らせた。

 

追及の姿勢を崩さなかったミヤコとコユキたちが、記録ページへ視線を落とす。サオリ達も興味本位で一緒に覗く。

――直後、覗き込んだ九人の少女たちの顔面から、一瞬にして表情が抜け落ちた。

 

そこに印字されていたのは、ミカ以外の生徒全員の一月分の収入を合わせて、ようやく一着買うことが出来るかどうかの凄まじい数字の羅列だった。

たった二着の布切れに支払われた金額として、彼女たちの常識を完全に凌駕している。

 

「急ぎとはいえこの金額だ……すぐもう二着というのはな」

 

タグのしゃがれ声が、静まり返った執務室に事実として重くのしかかる。

 

正義感から突撃してきたRABBIT小隊の面々も、義憤を起こしたコユキも、ただその領収書の数字を前にして物理的に硬直するしかなかった。

ましてや当事者のアリウススクワッドなど、表情から色が完全に抜け落ちている。

 

そこに、ミカが無邪気な声を重ねる。

 

「馴染みのお店の人に無理言った甲斐があったよ。急なお願いだったけど、サイズ合わせもすぐやってくれたからね☆」

 

かつてトリニティの中枢に君臨していた彼女の金銭感覚は、未だに一般生徒のそれとは遠く掛け離れている。

自分がどれほど常識外れな数字を叩き出したのか、その華やかな笑顔には悪びれる様子など微塵もない。

 

一方のタグも、石像のように固まった少女たちを不思議そうに一瞥すると、淡々と口を開いた。

 

「物の善し悪しや、それが高いか安いかは、俺にはわからん」

 

彼にとって金額など問題ではない。必要な時に、必要な機能を持つものを手に入れる。ただそれだけのことなのだから。

 

「二人には似合っていたのだから、いい買い物だったのではないのか。……アツコとミサキにも、機会があれば用意しよう」

 

タグは至極当然のこととして平然と言い放ち、問題がないと見るや再びPCのモニターへと視線を戻した。

 

「…………」

 

執務室は、完全な沈黙に支配された。

浮世離れした金銭感覚を持つ生徒と、貨幣の価値そのものを理解していない異邦の兵士。

その二人が生み出した、常識という防衛線を容易く踏み越える圧倒的な数字の暴力を前に、ミヤコたちはおろか、当事者であるアリウスの面々すら返す言葉を見つけられない。

 

相変わらず空調の駆動音だけが、開いた口が塞がらない少女たちの間に空しく響き続けていた。

 

 

 

 

秘匿された真実を求め 大人と兵士が鉄の扉を叩く

開かれた門の先 そこは星の領域に手を伸ばさんとする科学の迷宮

今ここに暴かれるミレニアムの原点 鋼鉄の学府が産声を上げた真の理由

全知を嘯く少女が 新たなるパズルを突きつける

パズルを構成する者、それは預言者達

次回「創設」

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