ミレニアムタワーの地下深く、特異現象捜査部の部室。
明星ヒマリの口から語られたミレニアムサイエンススクール設立の闇、そしてかつて彼女たちが蹴ったセミナーの席に、何も知らない黒崎コユキが座らされたという事実は、重苦しい沈黙となって室内を満たしていた。
タグは無言のまま、深く息を吸い、そしてゆっくりと呼吸音を漏らした。
その鉄面皮に感情の揺らぎは一切浮かんでいないが、極度に強張った肩のラインと、太ももの上で固く握り込まれた拳が、彼の中で限界点に達しつつある怒りの熱量を物語っていた。
(上位存在の身勝手な都合で、無知な者に望まぬ役割を押し付ける構造――タグさんにとって、それは最も許せないこと)
先生は、傍らに立つ兵士から発せられる、ヒリつくような殺意の気配を肌で感じ取っていた。
直接向けられたものではないとはいえ、本物の殺意というものを身近で感じたことがないヒマリは、その重圧の正体を正確には理解できていない。
しかし、エイミは違った。彼女はタグから漏れ出た異常な気配に即座に反応し、自身の獲物のセーフティを、あえて聞こえるように「カチャリ」と外してみせたのだ。
それは、一触即発の空気を牽制するための、明確な警告音だった。
――かつてアストラギウス銀河で経験した最悪の記憶。それと似た構図が、このキヴォトスでも平然と行われている。
タグの堪えきれない怒りが、いつ物理的な暴力となって暴発してもおかしくない状態だった。
「……というわけなのです」
突如として場を支配した一触即発の気配を、未だにうまく感じ取れていないヒマリは痛ましげに目を伏せる。
「改めてお願いします。先生、どうか私たちの調査に協力していただけないでしょうか」
誰よりもまず先に行動を起こしたのは先生。一歩前へ出てタグの視線を遮るようにヒマリの正面に立った。
「わかった。その依頼、シャーレとして正式に引き受けよう」
迷いのない、真っ直ぐな先生の言葉。
ヒマリが小さく息を吐き、安堵の表情を浮かべる。
「ありがとうございます、先生。貴方ならそう言ってくださると信じていました」
先生は背後を振り返り、タグの硬直しきった表情を見る。
「タグさん。コユキのことは、僕やシャーレで必ず守る。だから今は、目の前の問題に集中してほしい」
それは、指揮官からの明確なストッパーとしての指示だった。
タグの無骨な拳がさらに数秒だけ強く握り込まれた後、ふっと力が抜け、ゆっくりと開かれた。
彼の中で渦巻いていた暴力的な衝動が、任務遂行という兵士の合理性へと変換された瞬間だった。
「……了解した。それで、ターゲットの目星はついているのか」
タグのしゃがれた声が、冷徹な事務連絡のトーンを取り戻す。
状況の推移を理解しきれていないヒマリは微かに目を丸くしたが、すぐにパブリックな余裕のある微笑みを浮かべ直した。
「ええ、もちろん。すでにいくつか有力な仮説と、物理的な座標を割り出しています」
ヒマリが車椅子のコンソールを滑らかに叩くと、背後の巨大なメインモニターに数枚の画像がポップアップした。
そこに映し出されていたのは、ひしゃげた白い装甲、黒焦げになった駆動部、そして無惨に破壊されたオートマタの残骸だった。
「これは……」
画像を見た先生が、眼鏡の奥で目を細める。
タグもまた、その残骸のフォルムにはっきりと見覚えがあった。
「各自治区で出没していた所属不明のオートマトン群――連邦生徒会の依頼で、シャーレが対処した件だな」
「はい。目的は不明のままでしたが、貴方たちによる駆除によって破壊されたポンコツの群れです」
ヒマリはふふっと笑い、長い白髪を指先で弄りながら言葉を続ける。
「ですが、ただの残骸ではありませんでした。特異現象捜査部として、回収されたそれらからメモリや行動ログを抽出し、徹底的に解析したのです。
彼らの残したデータのサルベージにより、私は数多くの情報を引き出すことに成功しました」
ヒマリの指が再びコンソールを叩く。
破壊されたオートマトンの画像が消え、代わりにキヴォトスの広域マップが表示された。マップ上には数十の赤い点が点滅し、それらが一筋の光の線となって、ある一点の座標へと収束していく。
(点と点が繋がり、不可視の線が引かれる。これこそが天才の仕事というわけだ)
先生は、ヒマリの鮮やかな情報処理能力に内心で感嘆の息を漏らした。
「つまり、こいつらは単独で暴走していたわけではなく、どこかから遠隔で操られていた末端の駒に過ぎないということか」
タグのしゃがれた指摘に、ヒマリは頷く。
「そうです。ただ、これらのオートマトンには明確な主目的がインプットされていませんでした。文字通り、ただの空っぽのガワです」
ヒマリはモニターのマップを急速に拡大させる。
映し出されたのは、ミレニアムサイエンススクールの郊外、広大な水没廃墟地区だった。
「おそらく相手の狙いは、この座標に向けてオートマタを集結させ、秘匿せねばならない作戦目的をインストールする、もしくはオートマタという名の信者を集めた上で、何らかの儀式を行う可能性があります」
ヒマリの声から芝居がかった余裕が消える。
「旧時代の廃墟、現在は水没しているエリアです。ネットワークの海に潜られたままでは手出しできませんが、こうして物理的な拠点にアクセス出来るならば話は変わります。
シャーレの皆さんの力でこの廃墟を制圧してください。その上で、ここに存在する何かを解析可能な状態へ追い込んでいただきたいのです」
「標的の座標と目的は完全に把握した。大目的を考えれば妥当な作戦だ」
タグは顎を引き、兵士として作戦の骨子を即座に承認した。
大人の悪意に対する怒りはすでに冷徹な殺意へと変換され、彼の意識は完全に『敵拠点の制圧』というミッションへと切り替わっていた。
「わかった。すぐにシャーレへ戻って、作戦計画の立案と部隊編成に入ろう」
先生も頷き、作戦開始に向けて踵を返そうとする。
ミレニアムの闇からデカグラマトンの脅威へ。緊迫した空気がデータルームを支配し、あとは準備を行うだけ――そのはずだった。
「……ところで、先生」
作戦の骨子が固まり、意識が戦場から現実の導線へと切り替わったタグが、ふと足を止めて尋ねた。
「シャーレへ戻る前に一つ聞いておきたいのだが。この部室に来るためには、毎回あの地下通路を、ATで二十分もローラーダッシュしてこなければならないのか?」
「えっ?」
先生が間の抜けた声を出して振り返る。
「時速六十キロの巡航で二十分。距離にして単純計算で二十キロ……あまりにも非効率すぎる。楽をしたいわけではないが、毎回時間がかかるのはな」
極めて現実的で、論理的な指摘。
メインモニターの青白い光に照らされたヒマリの顔から、先程までの全知全能の天才ハッカーとしての自信に満ちた表情が、スッと抜け落ちていくのが見えた。
ヒマリの気丈なオーラは霧散し、尖り耳が、目に見えてへにょりと垂れ下がった。急に押し黙ってしまった彼女の沈黙が、何よりの答えだった。
沈黙するヒマリに代わり、傍らに立っていたエイミが一歩前へ出た。普段の淡々とした表情の奥に、少しだけ気まずそうな色が浮かんでいる。
「実は、Hubが預言者化したことで物理的な問題が発生してるんだ」
エイミの率直な言葉に、先生が小首を傾げる。
「ミレニアムのネットワークから隔離されたこの特異現象捜査部のデータルーム自体は安全だよ。でも、ここから地上へ続く本来の直通エレベーターや正規の通路は、Hubの管理ネットワークと接続されている。
つまり、防衛システムや巡回オートマトンが誤作動を起こしている可能性があって、今はまともに通れない状態なんだ」
エイミの解説により、問題の内容が明らかになる。
つまり、タグと先生が距離にして二十キロ以上もの地下通路をATのローラーダッシュで駆け抜けてきたのは、防衛システム等を完全に迂回できる『非ネットワーク化されているか、既に安全が確認された通路』を選ばされていたからだ。
「私一人なら、防衛システムを強行突破するか、通路を歩いて帰る、もしくはメンテナンス用のハシゴで地表に戻れるんだけど」
エイミはそこで言葉を区切り、車椅子に座って両手で顔を覆っている部長を見下ろした。
(天才ハッカーの最大の弱点、それは物理的な虚弱さか)
先生は内心で深く納得し、思わず苦笑を漏らした。
電子の海では無敵の天才病弱美少女であっても、足に問題を抱えた彼女が、自力で二十キロの地下通路を踏破するなど不可能だ。
「そういうことです……」
顔を覆った両手の隙間から、ヒマリが消え入るような声で呟いた。
「本来なら、Hubによって引き起こされた事態が収拾するまでここで待機するつもりだったのですが……給湯器の故障、空調の温度管理システムの異常が立て続けに起きました。
どうやらHubの不具合の余波を受けているようでして。このままでは、私の儚くも美しい身体が枯れてしまいます」
「私にはちょうどいい気温なんだけど、部長にはきついかもね」
エイミが淡々と補足する中、ヒマリは両手を膝に下ろし、すがるような、かつてなく弱り切った上目遣いで先生とタグを見上げた。
「ですから、その……大変お手数なのですが帰り道、ATに私とエイミを同乗させてはいただけないでしょうか?」
プライドを完全に投げ捨てた天才美少女からの、切実な帰宅支援の要請。
重苦しい空気は完全に底を抜け、執務室にはなんとも言えない滑稽で気の抜けた沈黙が落ちた。
先生は「仕方ないなぁ」と柔らかく微笑み、タグの方へと振り返った。
「タグさん、二人を乗せて帰れるかな?」
タグは無言のまま、視線をヒマリの車椅子、そしてここからは見えないが通路の奥で待機しているスコープドッグへと順番に走らせた。
彼の脳内で弾き出されているのは、少女への同情や状況の滑稽さなどではない。道中の安全確保と、機体への負荷、そして重心バランスだけだ。
「背中の増設シートは一人用だ、ここは先生が座るべきだろう。肩と背中の間にしがみつけるスペースがあるが、エイミはそちらでも大丈夫か?」
「私は平気」
エイミが即答する。
「僕の体力じゃ二十分もATの装甲にしがみついたら振り落とされそうだから、助かるよ。ごめんね」
先生は苦笑交じりに感謝を口にする。
「ヒマリと車椅子は、ATの両腕で直接抱えて運ぶことになる。申し訳ないが、乗り心地は保証できないな」
タグから突き付けられたこと――これからヒマリは車椅子越しとはいえ鉄の指で挟まれ、時速六十キロの振動を直に味わうことになるという事実。
並の人間であれば躊躇する提案だったが、彼女にはすでに選択肢など残されていなかった。
「背に腹は代えられません……。どうか、よろしくお願いします」
ヒマリが深く頭を下げる。
ここに、ミレニアムの誇る超天才病弱美少女を、ATで回収・運搬するという前代未聞の撤収作戦が決定した。
キィィィィィン、という金属音が、無機質な地下通路に反響する。
緑の装甲に包まれた鉄の塊――スコープドッグが、足裏のグライディングホイールを高回転させ、時速六十キロの巡航速度でローラーダッシュをしていた。
その背部、長時間用ミッションパックに増設された一人用のシートでは、先生がシートベルトをきつく締めてしがみついている。
というのも、往路に比べれば明らかに揺れが増していたからだ。
長時間ミッションパックを挟んだ反対側――スコープドッグの背中と肩、頭部の隙間には、エイミが器用に身体を収めていた。
機体装甲の凹凸に手足をかけ、持ち込んだハーネスのフックをミッションパックのラッチに固定しているため、振り落とされる心配はない。
「ここ、風が抜けて気持ちいい。機体の排熱もあんまりないんだね」
ジャケットのファスナーを全開にしたエイミは、鉄の装甲に直接しがみつきながらも、至って淡々とした表情で地下通路の風を浴びていた。
『マッスルシリンダーが可動部分と駆動機関を同時に兼ねている構造上、胴体上部に限れば排熱は気にしなくていい』
タグの外部スピーカーからの返事に、エイミは「ということは、脚部周辺はかなり熱いってことか」と小さく頷く。
「え、エイミ! 振り落とされないように気をつけてね!」
先生が、走行音に負けないよう声を張り上げて注意を促した。
一方、スコープドッグの無骨な両腕に車椅子ごとガッチリとホールドされたヒマリ。
当然のことだが、華奢な車椅子に巨大なATの鉄の指が掛けられる頑丈なフレームなど存在しない。そのためスコープドッグは車椅子を横向きに持ち上げ、右の腕部で背もたれ側を、左の腕部で底面を支えるようにして抱え込んでいた。
現在のヒマリの視界は、左半分が巨大な緑の胸板によって塞がれ、右半分には猛スピードで飛び去る地下通路の壁が流れている状態だ。
彼女は、出発前から目を固く瞑り、来るべき暴力的な振動に備えて身を強張らせていた。
そしてローラーダッシュを開始して数秒――ヒマリが予想していた衝撃は一向に訪れなかった。
「……あら?」
ヒマリがおそるおそる薄目を開ける。
けたたましい金属音が鳴っている以上、ATは動いているはずだ。だが彼女の座る車椅子には、不快な揺れはおろか、目立った振動はほぼ伝わってこない。
――コックピット内部。
赤い耐圧服に包まれたタグの鉄面皮は、かつてないほどの極限の集中状態にあった。
スコープドッグのトルクと積載能力からすれば、華奢な少女と車椅子など塵ほどの負荷にもならない。機体バランスを崩す要素など皆無だ。
本来ならば操縦に集中するほどの要素はない。だが、タグが全神経を尖らせているのは、ただ一点。
『身体が不自由な少女を、可能な限り衝撃を与えずに安全に地上へ連れて行く』こと。
タグは操縦桿を握る手に、僅かに力を込める。
大人の悪意に対する怒りは腹の底で静かに燃やし続けながらも、彼の胸の奥にはそれとは全く別の、一人の男としての生真面目な感情が渦巻いていた。
かつて彼は先生に語った――年上の知性ある女性に、しつこく付き纏っていた、と。
ヒマリの知的な性格は、タグの好みにまあまあ一致していたのだ。
よって、その気に入った女性の前で無様なエスコートを見せるわけにはいかない。
タグは路面の起伏を、ターレットレンズごしのモニターで完璧に読み取り、腕部のマッスルシリンダーの圧力をマニュアル調整していた。両腕の機能を限界まで引き出し、ヒマリへと伝わるはずの走行時の振動を、腕の中で完全に殺している。
――超一流の兵士による、どこまでも純粋な見栄。
それは、鉄の棺桶を『世界で最も安全な揺りかご』へと変貌させるほどの凄まじい執念だった。
「あの、タグさん。すごく快適なのですが、これは一体……」
ヒマリが、信じられないものを見るような目で、自身を包み込む鉄の腕を見上げる。
『舌を噛むから、口は開くな。揺れは気にしなくていい』
外部スピーカーから響く、しゃがれた低い声。
言葉の裏に隠された『いいところを見せたい』という男の全力は、ヒマリに伝わるはずもない。
彼女は、通路を疾走する緑の騎兵が繰り広げる、己の想像とはまったく異なった快適な移動に目を白黒させていた。
「タグさん!僕とエイミの場所、すごく揺れる!」
背後のシートから、先生の情けない声が風と振動に千切れながら届く。
当然だった。タグは、ヒマリを抱える腕部のサスペンション調整と、進行ルートへの安全対応に処理能力のすべてを注ぎ込んでいたため、それ以外のことは一切頓着しなかった。
そのしわ寄せとして、背部のシートに座る先生、装甲にしがみつくエイミには、容赦ない縦揺れがダイレクトに突き上げている。
エイミは平気な顔をしていたが、先生は明らかに狼狽えていた。
『後ろは我慢してくれ。……たったの二十分だ』
タグは容赦なく言い捨てると、さらにペダルを踏み込んだ。
好みの女性を腕に抱き、少しだけ胸を張った緑の騎兵は、背後でしがみつく二人を完全に無視したまま、滑らかな挙動で暗闇の奥へと走り去っていった。
ミレニアムタワー周辺の地上ゲート付近。
一般生徒の立ち入りが制限された保守用区画に、緑の騎兵が重々しい駆動音を立てて停止した。
ガシャ、という金属音とともに、スコープドッグの巨大な腕がゆっくりと下ろされる。
マニピュレーターの無骨な指が限界まで精密な挙動で動作し、ホールドされていた車椅子が、コンクリートの床へと音もなく着地した。
「ふぅ……」
解放されたヒマリが、安堵の入り混じった長い息を吐き出す。
時速六十キロの風をまともに浴びたため、その美しい白銀の髪はボサボサ、乱れに乱れていたが、表情だけは『清楚にして超越たる天才美少女ハッカー』としての気高い笑みを取り戻していた。
機体を降着姿勢に移行させたタグが、コックピットハッチを開けて姿を現す。
背後のミッションパックからは、先生が少し脚をふらつかせながら降り立つ。その背中を、こちらは平然としているエイミがさすっている。
「タグさん」
ヒマリが車椅子の向きを変え、タグを真っ直ぐに見上げる。
「正直に申し上げますと、最初はあの鉄の指に挟まれた瞬間、私の可憐な命もここまでかと覚悟しました。……ですが、実際はミレニアムのどんな高級ビークルよりも遥かに揺れのない、素晴らしい乗り心地でした」
彼女は胸に手を当て、深く、心からの敬意を込めて頭を下げた。
「あの状況下で、私に一切の負担をかけずに地上まで送り届けてくれた貴方の技術に、最大級の感謝を」
「ただの輸送だ、気にするな」
タグは赤いヘルメットを小脇に抱えたまま、視線を逸らして淡々と返した。
鉄面皮は崩れないが、無事にエスコートをやり遂げたという、一人の男としての安堵が透けて見えた。
部室への新たな安全ルートの再構築はヒマリとエイミに任せ、スコープドッグは定期メンテナンスのために一旦エンジニア部へと預けられることになった、のだが……
「……誰もいないな」
スコープドッグを牽引して訪れたエンジニア部の広い工作室は、もぬけの殻だった。
普段なら何らかの機械の駆動音が絶え間なく響いているはずの空間が、異様に静まり返っている。
「反対の区画を見たけど無人だった。ウタハに連絡してみるよ。……ダメだ、繋がらない」
端末を耳に当てた先生が首を振る。
タグは自身の端末を取り出し、ヒビキへとコールを入れた。数回のコールの後、通信が繋がる。
『タグ、どうしたの』
ヒビキの口調にはいつもの溜めがなく、切羽詰まった様子を感じさせた。
「機体の定期メンテナンスのためにスコープドッグを預けに来たが、部室に誰もいない。今どこだ?」
タグが尋ねた瞬間、端末の向こうからギュイイイインッというけたたましい電動カッターの駆動音と、重機が地響きを立てる音が鼓膜を打った。
『対応できなくてごめん。今、通信網敷設現場。ここはHubが消失したせいでストップした工事現場の一つ。他の現場もミレニアムの生徒が手分けして駆り出されてる』
ヒビキの無愛想で低い声が、騒音の隙間を縫って届く。
『私は今、休憩中だから電話に出られた。部長とコトリは、あっちでオートマタ作業員の整備と修理をしている。当然、着信には気づかない』
「なるほど、事態の収拾に総出というわけか。……たかが工作機械が一つ行方不明になっただけで、ここまでの騒ぎになるのか?」
タグの疑問に、ヒビキは短く溜息をついた。
変に省略して誤解を生む方が面倒だと判断したのか、やむなくといった様子で口を開く。
『元々、Hubのシステムは耐用限界が近づいていた。リオ会長の主導で大規模な延命プランが施される予定だった。けど、会長が突然失踪。それとセミナーの予算には横領疑惑が発生した。
その影響で今年度予算の全てにチェックが入って、プランの引き継ぎ作業も完全にストップ。
延命処置は遅れに遅れてた。今回の騒動は、何者かによるHubの乗っ取りがなくても、いずれ起きていた事態』
ガガガガッ、と再び激しい掘削音が響き、ヒビキが『……休憩終わるから、切る。スコープドッグは空いてるハンガーの前に置いて。早めにはメンテする』と言い残して一方的に通信を切った。
ツーツーという無機質な電子音が鳴る中、先生とタグは顔を見合わせた。
「……これは予定外だ」
「仕方あるまい。急かしてATの整備不良が起きては困る、待つしかない」
ヒビキに言われた通り、ATを空いているハンガーの前に固定し、ミレニアムでの用事をひとまず終えた先生とタグは、敷地を後にして最寄りの電車駅へと足を運ぶことにした。
途中、白を基調としたミレニアムのメインストリートで、見慣れた二人の少女と遭遇した。
セミナーの会計を務めるユウカと、書記のノア――外出からの帰りのようだ。
二人ともゲッソリとした顔をしていたが、先生とタグの姿を見つけるとすぐに表情を取り繕った。
「あっ、先生! それにタグさんも。こんな所で何をしてるんですか?」
ユウカとノアが小走りで駆け寄ってくる。
二人はHubの件で、関係各所に謝罪と今後の展望に関して説明をしてきた帰りだった。
セミナー所属の十数人の生徒全員が今手分けして対応しているとのことらしい。
その話が終わると、ユウカは先生の前に近寄り、スッと周囲の視線を気にするように声を潜めた。
「あの……先日のあれ、またお願いしてもいいですか?」
頬を微かに朱に染め、指先をモジモジと絡ませながら、ユウカが明確に先生へとおねだりをした。
いつぞや、先生の膝の上に乗らせてもらった一件の事である。
「あはは、僕でよければ付き合うよ」
先生は苦笑いで返しつつ、甘えてくる少女の姿を優しく見つめた。
しかし、その内心には静かな哀愁が広がっていた。
(ユウカもまた、あの泥沼のようなミレニアムの闇を背負っているはずだ)
セミナーの幹部である以上、彼女もまた大人たちの「ドブ浚い」の事実を知り、その重責の端を担っているはずなのだ。
目の前の等身大の可愛らしい女子高生が、裏ではどれほどの重圧を処理しているのかを想うと、先生の胸は痛んだ。
一方、不器用に甘えるユウカの背後に控えるノアは、いつものように静かで柔和な微笑みを浮かべていた。
タグの死んだ魚のような瞳が、ノアの透き通るような双眸と交差する。
――先日の夜、D.U.高層ビルにある会員制BAR。黒服との密会で、彼女は「記録者」としてあの場に存在していた。
だが、ノアの視線は微塵も揺らがず、タグもまた表情筋一つ動かさない。
言葉を交わさないことこそが、互いの立場と情報の機密性を担保する絶対のルールだった。
――二人は何事もなかったかのように、ただ静かにすれ違った。
シャーレの執務室へと帰還した二人は、すぐさまある生徒を執務室に呼び出した。
ティーパーティーの元権力者であり、現在シャーレに先生の護衛役として週に三日滞在している聖園ミカである。
今日はタグが護衛の当番であったため、彼女はシャーレでコユキと共に、RABBIT小隊とアリウススクワッドの世話や連絡の手配を自主的に手伝っていたのだ。
「えっ……私が、お留守番のまとめ役?」
執務室のソファに座るミカが、目を丸くして自分の顔を指差した。
「うん。僕とタグさんは明日からしばらくの間、新しい問題に掛かりきりになる。結果として、ここにいないことも多くなるんだ。
その間、シャーレの管理と各小隊への連絡役をミカにお願いしたい」
先生が真剣な表情で頼み込む。
現在、シャーレには上記の二小隊に加え、今月中にはアリウス分校の生徒四十名が合流しようとしている。
彼女たちのスケジュール管理や配置自体は先生とタグがシステム上で行うが、現場での直接的なまとめ役がどうしても必要だった。
しかし、ミカの視線が急に泳ぎ始め、彼女特有の情緒の振れ幅が負の方向へと傾き始めた。
「む、無理だよ、そんなの。私なんて、ティーパーティーのトップにいて全部台無しにしちゃった魔女なんだよ? そんな私がみんなをまとめようとしたら、また絶対に失敗して、みんなに迷惑かけちゃうよ」
過去の罪悪感と自己評価の低さが、ミカに強固な防衛線を張らせる。彼女の肩が微かに震え、両手が膝の上で固く握りしめられた。
その時、ローテーブルに静かにティーカップが置かれた――タグによるものだ。
彼は先生の前にブラックコーヒーを、そしてミカと自分の前に温かい紅茶を置くと、無言のまま先生の隣のソファに腰を下ろした。
普段なら効率と合理を優先する兵士は、今はただ静かな自然体でミカを見守っている。
それはミカの失った信頼を取り戻すという約束――それを果たすという意志表示であった。
「ミカ」
先生はタグの淹れたコーヒーを一口飲み、決して急かすことなく、穏やかな声で語りかけ始めた。
そこからの約十五分間は、先生による緩急を極めた対話の時間だった。
ミカが吐き出す「自分にはふさわしくない」という罪悪感から来る弱音を、先生は一切否定しなかった。その中の一つにこういうものがあった。
「サオリじゃ、ダメなの?」
すがるようなミカの反論に対し、先生はゆっくりと首を振る。
「あの子にはまだ、全体を俯瞰する視点が足りない。それにサオリは、ミカに対してどうしても遠慮してしまう癖があるからね」
そのような形でただ静かに頷き、彼女の痛みを肯定した上で、「今のミカだからこそできること」を一つずつ論理的に、しかし限りなく優しい声で積み上げていった。
――絶対に無理強いはしない。嫌なら断ってもいい。
逃げ道を決して塞がない形での対話は、ミカの強張っていた心を徐々に解きほぐしていった。
淹れたての紅茶がぬるくなり、ミカのカップが半分ほど空になった頃。
激しく揺れ動いていた彼女の視線は、いつの間にか先生の目を真っ直ぐに捉えられるまでに安定していた。
「ミカに無理をさせるつもりはないよ。でもね、今、僕とタグさんを除いて、このシャーレで全方位からの不測の事態に即応できる単独の戦闘能力と判断力を持ち、各学園の事情を俯瞰できる立場にあるのはミカだけなんだ」
先生は眼鏡の奥の瞳を細め、最後の決定的な事実を告げる。
「それに……今のシャーレにおける最上級生、つまり三年生はミカだけだ」
「私が、一番の先輩……」
ミカが小さく呟き、はっとしたように目を見開く。
「背伸びにはなるかもしれない。でも、どうしても出来そうにない時は、すぐに僕かタグさんに言ってほしい。その時は、僕たちが必ずどうするかを考えて、ミカの負担にならないようにする」
最後にかけるのは情に訴えかける言葉ではなく、ミカ自身が唯一の先輩であるという事実の自覚。
そして、最終的な責任は大人と兵士が保証するという言葉。
それがミカの中に残っていた最後の不安を払拭し、丸まっていた背筋をピンと伸ばさせた。
「……うん」
ミカは残っていた紅茶を飲み干すと、カップをコトリと置き、確かな決意を持って力強く頷いた。
「先生とタグさんがそこまで言うなら、私、頑張ってみる。ちゃんとみんなのお姉さん役、やってみせるから」
その凛とした言葉を聞き届け、隣に座っていたタグが口元を緩める。
最後まで無言のまま、冷めた紅茶を煽った。
――夜。
シャーレの居住区、タグに割り当てられた個室では、紙のカードが擦れ合う乾いた音と、張り詰めたような静かな呼吸音が二つ、あった。
「モンスター、ダイレクトアタック! ライフがゼロになりますね? 対応、ありますか?」
「対応は……ない。ライフゼロ、俺の負けだ」
タグの表情こそいつもの鉄面皮であるが、盤面を見つめる瞳の奥には、敗北に対する明確な悔しさがギラギラと浮かび上がっている。
「にははははは! また私の勝ちです! オジサン、これで十連敗ですよ!」
コユキが、手元のカードを誇らしげに掲げ、勝利宣言をする。
彼女にトレーディングカードゲームに誘われたのは、エデン事変が収まってからのことだ。
最初は遊びに軽く付き合うつもりだったタグだが、今ではカードを大人買いしてデッキを組み立てるまでになっていた。
「引きもそうだが、そこでその手札を通そうとする判断力はどこから湧き出るのだ」
タグは無言で自分の手札を伏せ、テーブルの上に散らばった無残な自陣のカードを見つめた。
実戦さながらの極限の集中力をもって挑んでいるにも関わらず、コユキの引きの強さと、勝敗を分ける瞬間に対する異常な嗅覚の前に、タグの構築したデッキはことごとく紙屑にされていた。
「にはは! 年季とセンス、そしてデッキ構築力がダンチなんですよ! さあ、泣きのもう一回、行きますか!?」
調子に乗って煽ってくるコユキの、屈託のない無邪気な笑い声。
(……こいつが、セミナーで大人たちの後始末をさせられるのか)
タグは表情の奥で、ヒマリから聞かされた事実を反芻する。
大人たちのドブ浚い――空いた穴を埋めるためだけに、何も知らないまま引きずり込まれた少女。
コユキ自身は、自分がどれほど残酷な十字架を背負わされているのか、微塵も気づいていない。だからこそ、こうして平和に無邪気な笑い声を上げている。
タグはゆっくりと息を吐き、視線を伏せた。
彼女の運命を憂い、理不尽な社会構造へ向ける冷徹な殺意は、今は胸の奥底に深く沈めておく。
今すべきことは、この無邪気で騒がしい少女の平穏な時間を、ただのゲームの相手として真っ当に守ることだけだ。
「負け逃げは俺の主義じゃない。もう一戦だ」
「望むところですっ! オジサンのライフポイント、また完膚なきまでにゼロにしてあげますからね!」
兵士は、庇護の感情を心の奥に隠したまま、静かな闘志と共に己のデッキをシャッフルし始めた。
――数日後。
シャーレ地下作戦室は、ホログラムモニターが放つ青白い光と、空調の低い駆動音に満たされていた。
「目標となる廃墟水没地区。地形の大半が冠水、もしくは汚泥に埋まっている。この地形だと車両や歩兵の機動力は著しく削がれることになる」
モニターにミレニアム郊外の立体マップを投影し、タグが事務的な声で作戦の骨子を語る。
ここ数日、ヒマリ達と共同で廃墟水没地区の情報収集に集中していた二人は、その成果を元に作戦会議を行っていた。
着慣れた背広と白衣を着込んだ兵士の視線は、水没エリアの深度や侵入ルートの物理的な障害をスキャンしていた。
「うん。だからまずは、本隊を動かす前に威力偵察を行いたいんだ」
同じく背広に白衣をまとっている先生はマップを見つめながら、タグへと視線を向けた。
「地形の制限があるとはいえ、機動力に長けたスコープドッグ単機で、まずは現地の様子を探れないかな?」
先生の提案に、タグは無言でホログラムの地形データを拡大し、自機のスペックと照らし合わせる。数秒の思考の後、彼は短く顎を引いた。
「単機での威力偵察か。……この場合はそれがいいかもしれん。泥濘と水没エリアで機動力を維持できるよう、相応の換装を施せばいけるだろう」
タグはコンソールを叩き、装備予定のオプション兵装の一覧をモニターに羅列した。
「泥や汚水を防ぎ、隠密性を担保する『ジャケットアーマー』、泥濘地用の踏破装備『スワンピークラッグ』、それに姿勢制御と三次元移動に必須の『ザイルスパイト』がまず要る。
当然、索敵用に『統合レーダーポッド』、それを懸架するためのミッションパックも装備しておこう」
極めて具体的なオプション装備の提案。それは、いかなる過酷な環境下でも追加装備によって機体を適応させる、スコープドッグ特有の運用思想そのものだった。
「わかった。その手配はタグさんに任せるよ」
先生が力強く頷き、実働に向けた手はずを整えようとしたその時、作戦室のインターホンが短い電子音を鳴らした。
『――先生。一階エントランスの警備より報告。お客様です』
スピーカー越しに、規則正しい報告の声が響く。警備として詰めているヴァルキューレ警察学校の生徒だ。
「ご苦労様。どうかした?」
『はい。ミレニアムサイエンススクールより、天童アリスさんが訪問されています。アポ無しとのことですが、いかがいたしましょうか』
「アリスが?」
先生は目を丸くし、作戦室の時計へ視線を向けた。まだ始業して間もない時間――ずいぶんと早い来訪である。
(そういえば、ここ最近はいろいろと忙しくてゲーム開発部のみんなとは顔を合わせていなかったな)
銃撃事件以降、先生が単独で外部を出歩くことは厳しく制限されている――とはいえ、本人が外出を希望すればすぐに護衛が用意されるため、思いつきの行動を阻害されるほどではなかった。
先生の脳裏に、いつも元気いっぱいに駆け回る小さな勇者の姿が浮かぶ。
アリスの純粋な性格を考えれば、単純に先生に会えなくて寂しくなり、一人でトコトコとシャーレまでクエストにやって来たのだろうと容易に想像がついた。
「通してあげて。アリスには、ちょっと時間がかかるけど執務室に向かうと伝えておいて」
先生は通信を切ると、申し訳なさそうにタグへ振り返った。
「ごめん、タグさん。装備の手配を進めつつ、偵察ルートの構築をしてもらっていい? 僕は抜けさせてもらうよ」
タグは作戦の腰を折られたことに対して不満を漏らすことはなく、手元のコンソールを操作してホログラムマップの演算モードを切り替えた。
「構わん。どのみち、この深度での最適ルートの構築には時間がかかる。……それに実際に構築するのは俺じゃなく、アロナだ」
『へ?』
突如として自分に仕事が丸投げされたことを察知し、シッテムの箱の中でアロナが素っ頓狂な声を上げる。
「俺はこれから、定期メンテナンスに出していたスコープドッグをエンジニア部から引き取る用事がある。ついでにその場で、装備予定のオプション同士のすり合わせも済ませておくつもりだ。……夕方までには戻ればいい内容だろう」
『つ、つまり、夕方まで私一人でこのルート演算の作業をやるんですか!?』
「反復作業と膨大な地形データの精査は、AIの得意分野だと聞いているぞ」
『……そ、それは、その通りなんですが』
高度演算デバイスとしての適切な運用を説かれて、アロナは反論の余地を塞がれる。そして画面の中でしょんぼりと肩を落とす。
「あはは……アロナ、それじゃあよろしくね」
シャーレという組織における先生の最優先任務が『生徒と向き合うこと』であるとタグは完全に理解している。
その配慮に感謝しつつ、先生はタグと共に作戦室を後にした。
エレベーターで地上階の執務室へと上がり、扉を開く。
賑やかな少女たちの声がそこには響いていた。
「にははははっ! アリスさん、その手札では私には勝てませんよ! オジサンと先生、合わせて五十連敗させた私のテクニック、とくと味わうがいいです!」
「むむっ、コユキの運勢と度胸パラメータが高すぎます! 勇者アリス、HPが残りわずかの大ピンチです!」
執務室のローテーブルを挟み、いつも通りシャーレに入り浸っているコユキが、暇潰しにアリスとトレーディングカードゲームで白熱したバトルを繰り広げていた。
「あっ、先生」
入り口に立つ先生の姿に気づき、アリスが手札をテーブルに伏せると、パァッと顔を輝かせた。
タタタッ、と足音を立てて駆け寄ってくると、先生の前にビシッと気を付けの姿勢をとる。
「勇者アリス、シャーレの拠点に無事到着しました! 先生のパーティーに加わりにきたのです!」
「久しぶり、アリス。よく一人でここまで来れたね」
先生が優しく微笑み、アリスの頭を撫でる。アリスは「えへへ」と嬉しそうに目を細め、心地よさそうに先生の手のひらにすり寄った。
頬や頭を撫でてあげると、アリスの柔らかい肌から暖かい熱となって、先生の手に帰ってくる。その暖かさは、直前まで地下で行われていた作戦計画の重さを一瞬で忘れさせてくれた。
しかし、その和やかな空気を引き裂くように、先生の腕が唐突に強引な力で引かれた。
「わっ!?」
「ちょっと先生、こっち!」
ローテーブルの奥でティーセットの準備をしていたはずのミカが、凄い血相で先生の腕を掴み、強引に隣の給湯室へとズルズルと引きずり込んでいく。
防音のドアがバタンと閉まり、狭い給湯室の中でミカが先生に詰め寄った。
「あ、あの子、一体誰!?」
ミカは目をキラキラと輝かせ、興奮を隠しきれない様子で鼻息を荒くしている。
「あんな綺麗な黒髪に、お人形さんみたいに真っ白で傷一つない綺麗な肌……! めっちゃくちゃ可愛いんだけど! 私、あんな妖精みたいな子、トリニティでも見たことないよ!」
ミカ特有の、可愛い女の子に対するミーハーなテンションが大爆発していた。
先日、「まとめ役なんて無理」と弱音を吐いていた彼女だが、アリスの人間離れした可憐な容姿を前にして、持ち前のお姫様願望がフルスロットルで稼働していた。
「ア、アリスはミレニアムのゲーム開発部の子だよ。すごく素直でいい子なんだ」
腕を掴まれたままタジタジになる先生をよそに、ミカは「ミレニアムにあんな可愛い子が……!」と両手で頬を押さえ、給湯室のガラス越しにアリスの姿を食い入るように見つめ続けていた。
その後、上機嫌のミカが手早く準備を済ませ、執務室のローテーブルには三つのティーカップと、一つのマグカップが並べられた。
紅茶とコーヒーの良い香りが漂う中、先生、コユキ、ミカ、そしてアリスの四人を囲むささやかなお茶会が始まる。
「アリスちゃん、クッキーもあるからいっぱい食べてね☆」
ミカが、完全にお気に入りの子を見つけたお姉さんの顔で、アリスの前に焼菓子のお皿を差し出す。
アリスは「わぁっ、ミカ先輩は回復アイテムの調合ができる僧侶なのですか!」と目を輝かせ、遠慮なくクッキーへ手を伸ばした。
和やかな時間が流れる中、紅茶で喉を潤したアリスが、ふと真面目な顔で先生を見つめた。
「先生、アリスはずっと心配していたのです。……最近、先生によくないことがあったと聞きました!」
その言葉が落ちた瞬間。
執務室の空気が、ピタリと凍りついた。
「少し前、何度かシャーレの拠点に会いに来たのですが、その度に先生は不在でした。ゲーム開発部のクエストの合間にも様子を見に来ていたのですが、全然会えなくて……アリス、とても心配していました」
アリスの悪意の欠片もない真っ直ぐな瞳。
しかし、その「よくないこと」という単語が指し示す事象に、先生は背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。
(銃創で意識不明になった時や、病院とシャーレを往復していた時期のことか……)
ミレニアムの生徒であるアリスの耳にまで、先生が重傷を負って姿を消していたという噂が届いていたのだ。
「っ……」
ガチャン、と。
先生の隣で、ミカの手からティーカップが滑り落ち、ソーサーと派手な音を立ててぶつかった。
見れば、ミカの顔面から完全に血の気が引いている。呼吸は浅く乱れ、テーブルの上に置かれた両手が小刻みに震えていた。
――無理もない。
先生が銃撃された事件は、アリウスを唆しエデン条約事変という最悪の引き金を引いた、ミカ自身の罪の象徴でもある。
アリスの無自覚な一言は、治りかけた彼女の古傷に深々と刃を突き立てるものだった。
場の空気が急速に重く、致命的な暗みへと沈みかけていく。
その耐え難い重圧を察知し、いち早く動いたのはコユキだった。
「に、にははははっ! アリスさん、変な噂を信じちゃダメですよ! 先生の『よくないこと』っていうのは、きっと冷たいものを食べすぎてお腹を壊して、トイレに引きこもっていただけですって!」
コユキがテーブルに身を乗り出し、あからさまに話を逸らしにかかる。
彼女は空気が読めるわけではない。ただ、直感的に『この話題を続けると、先生やミカがとてつもなく怖い顔になる』という生存本能が働き、無理やりにピエロを演じて話の芯をずらしたのだ。
「そうですか? でも、アリスはちっこい先輩から聞いたのです」
しかし、勇者は揺るがない。
コユキの必死のファインプレーをあっさりとスルーし、アリスはC&Cのエージェントであるネルの名前を出した。
「ちっこい先輩が言っていました。『最近、先生が一人で出歩くことが少なくなったのは、ヤバいゴタゴタに巻き込まれてな……まあ仕方ねーんだ』と。ですから、アリスは考えたのです」
アリスはスッと立ち上がり、胸を張って力強く宣言した。
「先生が外に問題なく出歩けるように、優秀なタンクが必要です。なのでアリスは今日、先生のウィークリーミッションの申請をしにきたのです!」
「ウィークリー、ミッション?」
先生が呆然とオウム返しにする。
ゲーム用語に変換されていて少し分かりづらいが、要するに「毎週何日か使って、アリスが先生の護衛として付き添う」という提案だった。
「はい! アリスがパーティーにいれば、もうダメージ知らずです!」
献身の意思を示すアリスは、先生を守りたいという善意と共に満面の笑みを浮かべていた。
「……そっか。心配してくれてありがとう、アリス」
重苦しい過去のトラウマを強引に蹴り飛ばし、ただ真っ直ぐに向けられたその健気な申し出に、先生は毒気を抜かれたように小さく息を吐く。
ミカもまた、アリスの言葉の意図を理解し、震えていた両手をゆっくりと膝の上に下ろした。血の気の引いていた彼女の頬に、安堵の色が戻り始める。
「護衛ミッション、か」
先生はアリスの期待に満ちた顔を見つめながら、顎に手を当てて内心で思考を巡らせた。
アリスの個人戦闘力――巨大なレールガンから放たれる火力、そして規格外の身体能力は申し分ない。
しかし、実戦経験の浅さ、巨大ゆえに小回りの効かないレールガン、そして何より幼さ故の状況判断の危うさを考慮すると、歴戦の生徒たちには数歩劣る。
だが、アリス自身の頑丈さと、「先生を守る」という意思は、護衛として十分に合格ラインを満たしているのも事実だった。
――最近、タグの極端な合理主義に当てられているせいか、先生の頭の中にそんな戦術的な算段が自然と浮かんでしまう。
(いや、戦力としてだけ考えるのは駄目だ。……まず、アリス自身のことから考えないと)
先生は内心で首を振り、教育者としての視点へと立ち返った。
アリスは、ゲーム開発部の面々と共に廃墟から見つけ出された、出自不明の推定アンドロイドだ。
ユウカの尽力によって、ミレニアムの生徒としての身分証こそ得たものの、現在はゲーム開発部の部室を寝床としている。
以前の先生であれば、日々の激務と連日の徹夜に追われ、個人の生活事情にまで深く介入する余裕はなかったかもしれない――今は違う。
タグという確かな実務能力を持つ兵士が、背中を預かってくれているおかげで、先生の中には「生徒個人の未来や進路」をじっくりと考えるだけの時間と精神的な余裕があるからだ。
(アリスの将来を考えれば、いつまでも部室住まいというわけにはいかない。今後を考えれば多くの生徒と集団生活を送り、社会性を習得させることは、彼女にとって重要な経験になるはずだ)
折しも、シャーレの居住区はアリウスの生徒たちを受け入れるための大規模な改装工事に入っている。それに個室の空きはまだいくらでもあった。
先生は決意を固め、アリスの目線に合わせてスッとしゃがみ込んだ。
「アリス、タンク役の申し出、すごく嬉しいよ。……そのことで、僕からもアリスに一つ提案があるんだ」
「提案、ですか?」
アリスが小首を傾げる。先生は彼女が理解しやすいよう、努めてRPGの用語を交えて語りかけた。
「アリスのセーブポイントを、ゲーム開発部の部室から、このシャーレの居住区に移してみないか? ギルドハウスの引っ越しみたいなものだね」
「シャーレに、引っ越し……?」
「うん。ここからミレニアムまで通学するのは少し時間がかかるようになるけど、それも立派な『通学クエスト』になる。
シャーレには色々な学園の生徒が訪問するから、交友フラグがたくさん建てられる。
それにシャーレに住んでいるみんなと一緒に共同生活をすれば、アリスにとって新しい『社会性』のスキルを獲得するチャンスになると思うんだ」
先生の分かりやすい説明に、アリスの瞳がみるみるうちに輝き始めた。
「新しい、スキル……。それに、先生と一緒に暮らす!」
「えっ! ちょっと待って先生、それってつまり……アリスちゃんがシャーレに住むってこと?」
アリスが歓喜の声を上げるより早く、背後で成り行きを見守っていたミカがバンッと身を乗り出してきた。
その瞳は、先ほどの絶望から打って変わってキラキラと輝いている。
「大賛成! 全力で大賛成するよ! 私がお姉さんとして、アリスちゃんのことちゃーんと面倒見てあげるからね!」
「おや、ミカ先輩がお姉さん役ですか? では、私はアリスさんのゲーム仲間として、夜更かしのレクチャーをしてあげますよ!」
「コユキちゃんはちょっと黙ってようね。アリスちゃんに変なこと教えちゃダメだからね」
ミカが笑顔のままコユキを牽制する。
両手で拳を作り、こめかみをグリグリと抉るような恐ろしいジェスチャーを見せつけると、コユキの顔が瞬時に青ざめた。
執務室は一気に生徒たちの賑やかな喧騒に包まれた。
「アリス、先生の提案を受け入れます! 今日からシャーレを新たなセーブポイントとして登録し、先生のタンクとしてのウィークリーミッションを開始します!」
アリスがビシッとポージングし、満面の笑みで宣言する。
こうしてシャーレの居住区にはまた一人、生徒がメンバーとして加わることになったのだった。
ゲーム開発部の面々――ユズ、モモイ、ミドリとの話し合いは、拍子抜けするほどスムーズに終わった。
アリスがシャーレの居住区で集団生活を学ぶという提案に対し、彼女たちは若干の寂しさを滲ませながらも、「アリスのためになるなら」と快く送り出してくれたのだ。
そもそもゲーム開発部の部室で寝泊まりすること自体、以前からユウカに苦言を呈されていたという事実があったそうだ。渡りに船という側面もあったのだろう。
ただ、その面談の中で、先生の心に重く引っかかる出来事があった。
(……ミレニアムの一般生徒であるモモイたちの耳にまで、僕が重傷を負って入院していたという噂が届いていた)
シャーレの執務室、自身のデスクで先生は、窓の外に広がるD.U.の景色を見つめながら深く思考に沈んでいる。
ゲーム開発部に、アリスが先生の護衛役になるという話をすると、噂のことは本当だったんだと言われたからだ。
エデン事変で起きた、サオリ……つまりアリウス生徒による先生への銃撃。
これは当事者であるトリニティとゲヘナのトップ、治療に当たった一部の生徒、そして連邦生徒会のごく一部しか知り得ない、極めて機密性の高い情報のはずだ。
それがなぜ、噂好きとはいえ他学園の一般生徒の耳にまで届いているのか。
(誰かが、意図的に情報を流している……?)
噂の伝播の速さと範囲の広さを考えれば、個人レベルではなく、強力な情報網を持つ組織的なリークだと考えるのが自然だ。
ゲヘナやトリニティの上層部が、わざわざ自陣営の責任追及や混乱を招くような情報を流すメリットはない。となれば、情報の出所として最も疑わしいのは――連邦生徒会。
(連邦生徒会の内部に僕、もしくはシャーレに何らかの意図を持つ生徒、あるいは集団がいる)
背筋を撫でるような不穏な予感。
しかし、今はこれ以上の推論を進めるための確たる証拠がない。先生は微かに首を振り、目前に迫る脅威へと意識を切り替えた。
ミレニアムタワーの地上区画。
Hubの不具合による問題で地下から一時的に締め出された特異現象捜査部。現在、地上階にある空き会議室を仮の部室として運用していた。
地下通路をATで長距離移動する手間が省けたことは、先生とタグにとっても気が楽だった。
「――以上が、僕たちシャーレの実働部隊が提示する第一段階の作戦プランだ」
仮部室のホワイトボードに水没廃墟のマップを貼り出し、先生が事務的な口調で説明を終えた。
「なるほど。湿地帯に対応する装備に換装したスコープドッグ単機で、まずは廃墟の深部まで威力偵察を敢行し、存在する何者かの正確な座標と周辺の防衛戦力を特定する、と」
車椅子に座るヒマリが、手元のタブレットでシャーレから送られた作戦データに目を通す。
「うん。私もいいと思う」
隣に立つエイミも、淡々と相槌を打った。
ヒマリはタブレットから視線を上げ、目前に立つ二人――眼鏡の奥に確かな知性を宿す先生と、鉄面皮に冷徹な合理性を張り付けた兵士を交互に見つめた。
(……見事な戦術立案ですね。私の思いつく範囲では、非の打ち所がありません)
ヒマリの頭脳をもってしても、彼らが提示したプランは、現在の状況と戦力における最適解だった。
地形の悪さを逆手に取り、ATによる隠密行動で敵の目を欺きつつ情報を持ち帰る。機体の拡張性とパイロットの生存能力に全幅の信頼を置いていなければ成立しない作戦内容だ。
情報戦や電脳空間の制圧においては、ミレニアムの天才たる自分に分がある。
しかし、こと実戦の構築と部隊の運用にかけては、大人と兵士の右に出る者は、おそらくキヴォトス全土を探しても存在しないだろう。
「反論はありません」
ヒマリはふふっと微笑み、全幅の信頼を込めて頷いた。
「タグさん、どうかお気をつけて。最高のデータを持ち帰ってきてくださいね」
威力偵察の準備、そしてアリスを居住区へ迎え入れることと並行して、シッテムの箱には雪崩を打つように無数のタスクが追加されていた。
レッドウィンター工務部のミノリとは急ピッチで進む間取り変更の最終確認を行い、ヴァルキューレ警察学校とは警備スケジュールや、増えるシャーレ居住生徒の扱い等々……。
それとは別枠で、他自治区への定期的な訪問や、連邦生徒会との報告・折衝もある。
――そして何より、先生の心を重く占めている懸案事項が残っていた。
(……ユウカ。彼女とも、近いうちに必ず向き合って話し合わなければならない)
デスクで端末のスケジュール表を睨みながら、先生は内心で小さく息を吐いた。
『詳しくはいえんが、ノアも例の業務を請け負っている、とだけ言っておく』
タグから、ノアがセミナーの裏の面に関与していることは間違いないと聞かされていた。
生徒が重い十字架を背負わされているのなら、先生としてそれに介入する義務がある。
だが、今は時間を割くことは出来ない。
執務室のテーブルでは、先生とタグがシッテムの箱のホログラムモニターを囲み、目前に迫ったアリウス生徒四十名の受け入れに関する最終協議を行っていた。
『――以上が、事前に提出されたアリウス生徒たちの身体的、および精神的なパラメーターの推移です』
モニターの中で、アロナが重苦しい表情で報告を終える。
長きにわたるアリウス自治区での不安定な生活と、ベアトリーチェによる過酷な思想教育の爪痕は深い。生徒たちのメンタルは不安定であり、決して両手を広げて歓迎できるような存在ではなかった。
「個室を与えた場合、孤独と不慣れな環境から来るストレスが恐ろしい――最悪、自死を選ぶリスクがある」
タブレットのデータを見つめながら、タグが指摘する。
すでに身内に同様のリスクを抱える生徒、ミサキを知っていたからだ。
彼女は自死衝動に悩まされる度に、先生のカウンセリングを受けることで落ち着きを取り戻していたが、一人ならともかく、複数人が同時にその状態に陥るリスクは見過ごせなかった。
「そうだね。なので居住区画を改築し、十人一組で生活できる大部屋を四つ作ることにしたんだよね。問題は、その四十人の振り分け方なんだけど……」
先生の言葉に、タグは「簡単なことだ」と短く返し、ホログラムのアロナへ視線を向けた。
「アロナ。生徒たちのパラメーターをベースに、各部屋の戦力と体力、学力等が完全に『不均等』になるよう、十人ずつ無作為に割り振れ。情や人間関係は一切考慮しなくていい」
『えっ? バラバラにするんですか?』
アロナが困惑したように目を瞬かせる。意図が理解できないからだ。先生もまた、その極端な提案に眉をひそめた。
「タグさん、それは各部屋のグループ内で軋轢が生まれてしまうと思うんだけど。 例えば体力のある子と、弱っている子が混在すれば――」
「それが狙いだ」
タグのしゃがれた声が、冷たく執務室に落ちる。
「連中は、トリニティへの保護を拒絶するほど警戒心が強く、反抗的だ。シャーレに収容した直後に、徒党を組んで集団脱走や暴動を企てる可能性が否定できない。
だから、あえて各グループの中に体力、もしくは知力的に足手まといに分類される生徒を、意図的に混在させる」
それは、軍隊の新兵教育等でも用いられる『連帯責任』と『弱者による足止め』のロジックだ。
「強者が逃げようとしても、弱者がいれば移動速度は著しく落ちる。見捨てて逃げるような連中なら、それはそれで集団としての連帯が崩壊している証拠だ。RABBIT小隊4人でも制圧は容易い」
制圧にあたる部隊にアリウススクワッドの名を挙げない配慮を除けば、一切の血も涙もない合理的な防犯対策だ。
冷え切った空気が場を支配する中、先生は目を閉じ、腕を組んで深く思考を巡らせた。
(冷たい対応だけど、暴動や脱走を防ぐための抑止力としては、これ以上なく理にかなっている。……ん? もしかして)
数秒の沈黙の後、先生はゆっくりと目を開き、タグを見返して柔らかく微笑んだ。
「わかった、その案でいこう。アロナ、タグさんの言う通りにグループを振り分けてくれ」
『先生!? ほ、本当にいいんですか?』
「うん。……タグさん、アロナ。僕はね」
先生は眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、兵士の鉄面皮へと真っ直ぐに視線を向けた。
「彼女たちが足手まといを見捨てて逃げるような子たちだとは思っていない。サオリたちがそうだったように、彼女たちもまた、傷つきながらも仲間を想う心を持っているはずだ」
先生の声には、生徒への確かな信頼と、教育者としての揺るぎない祈りが込められていた。
「だからこれは、ただの足止めじゃない。……互いの弱さを補い合い、歩幅を合わせて二人三脚で生きていくための、最初のリハビリなんだ。僕はそう信じて、この部屋割りを承認するよ」
タグの非情な手段を、先生は見事に教育的に必要な処置へと昇華してのけた。
その言葉を聞いたタグの、寄っていた眉根が和らぐ。
――タグの思考回路は、どこまでいっても闘争と合理性の泥沼から抜け出せない。
どれほど生徒たちを案じていようと、彼が自力で構築できる手段は、常に血と鉄の匂いが染み付いたものばかりだった。
(アンタの優しさには助けられっぱなしだ)
タグは視線を落とし、口元を緩めた。
彼には到底生み出せない「優しさ」の肉付けを、この男なら必ずやってくれると信じていたのだ。
冷酷な提案に対して、生徒に必要不可欠な慈愛要素の構築を、先生に丸投げするというタグなりの「甘え」であった。
『……先生がそう仰るなら、わかりました。すぐにパラメーターに基づく割り振り演算を実行します』
アロナが返事をし、ホログラムの画面に次々と生徒たちの配置データが構築されていく。
相反する二つの視点――監視と保護、冷酷と慈愛。
互いの欠落を完璧に補い合う奇妙な二人の下で、シャーレは新たな火種となる少女たちを迎え入れるための準備を、着実に進めていた。
そしてミレニアムタワー地下で初めてヒマリ達と顔を会わせてから一週間が過ぎたその日。
ミレニアムサイエンススクールの外縁部、水没廃墟地区付近に、都市迷彩の偽装を施された一台の大型輸送トラックが静かに停車した。
「――現着。これより機体を降ろす」
運転席の通信機からタグのしゃがれた声が響くと同時に、トラックの荷台のハッチが重々しい音を立てて開かれる。スロープを下り、ひび割れたアスファルトから露出するぬかるんだ大地に降り立ったのは、全身を分厚い布状の装甲で覆われた異形の巨体だった。
本来の無骨な緑色の装甲は一切露出しておらず、まるで巨大なマントを羽織ったような、不気味で特異なシルエットを形成している。
その正体は、湿地帯や泥濘、そして水から機体全体を保護するための防護布、『ジャケットアーマー』を装着したスコープドッグだ。
これを纏うために肩部装甲も専用のものに交換されている。幾何学模様の布地は、肩部装甲によって固定されている。アーマーとは名付けられているが、実態はマントと呼ぶべきものであった。
このマントの干渉により、この状態のATは独特の降着姿勢をとることができない。
タグは装甲の凹凸にブーツを掛け、腕力だけで機体の腹部へとよじ登ると、ハッチを開けてコックピットへと滑り込んだ。
ハッチが閉鎖されると同時に、横で待機していたエイミがしなやかな動作でATの上半身へと跳び乗る。
「よい、しょっと」
エイミはターレットレンズと頭部ユニットの動きを阻害しないよう、ジャケットアーマーのフード部分を慎重に被せ、固定用のラッチを留めていく。作業を終えたエイミが機体から飛び降りると、荷台奥に増設された簡易指揮所に収まるヒマリの通信が入った。
『エイミ、ご苦労様です。……タグさん、そちらの電子的隠蔽度は完璧ですよ』
通信越しのヒマリの声には、確かな感嘆の響きが混じっていた。
『さすがマキ、ヴェリタスに恥じぬ腕とセンスです。あの子が新しく施した、表面のペイント……単なる迷彩デザインに収まらず、フラクタル技術を応用して赤外線や電子放射量をランダムに変化させる、極めて高度な光学欺瞞パターンになっています。この水没廃墟の環境下において、敵のセンサーにはノイズにしか映らないでしょう』
「ああ。上出来だ」
コックピット内部、赤い耐圧服に身を包んだタグは、ヒマリの報告に短く応じながら、コントロールパネルのスイッチを次々と弾いていく。
出撃前の最終フェーズ、各オプション兵装の稼働チェックだ。
「ザイルスパイト、巻き上げモーター及びアンカー射出機構……問題なし」
ガコンッ、という重い金属音が響き、右腕部に増設されたウインチ機構が正常に作動する。泥濘での姿勢制御や、三次元での立体移動において必須となる装備だ。
「統合レーダーポッド、ミッションパックと指揮所とのデータリンク……正常」
左肩後ろにマウントされた円筒形のレーダーポッドが微かに回転し、周囲の地形データをシッテムの箱経由で指揮所へと送信し始める。
「最後に、スワンピークラッグ」
タグがフットペダルを押し込む。
ガシャァン! という鋭い駆動音と共に、スコープドッグの脛部を保護していた装甲板が足裏へと展開し、カンジキのような泥濘地用の踏破形態へと移行した。
足踏みをして泥の感触と沈み込み具合を確かめ、タグは満足げに小さく息を吐いた。
「全システム、オールグリーンだ」
所持する火器は、右腕に握られたショートバレルマシンガン、腰部右側に二連装ミサイルランチャー、そして腰部左側のガトリングガンのみ。
未知の存在に対する武装としては心許ないが、水没廃墟での「威力偵察と生還」を最優先とした軽快なパッケージングとしては、これで十二分であった。
「先生。指揮所の準備も完了しています、いつでもどうぞ」
指揮所でシッテムの箱のモニターを見つめる先生が、ヒマリの言葉に深く頷く。
「よし。タグさん、ミッション開始だ。まず指定区域の偵察を開始し、集めたデータを元に重点的に調査する場所を洗い出していく」
『了解した、出る。エイミ、先生とヒマリの護衛を頼むぞ』
「任せておいて。武器もしっかり用意しておいた」
エイミは背中にスリングで固定した愛用のショットガンを叩き、足元に無造作に置かれた対重装甲用の使い捨てロケットランチャーをポンと爪先で示してみせた。
低いアイドリング音を立てていたマッスルシリンダーが、一気に咆哮を上げる。
幾何学模様のジャケットアーマーを翻し、異形の緑の騎兵は、静寂に包まれた水没廃墟の泥濘の中へと、水飛沫を上げて滑り出していった。