空を覆う鈍色の雲から、霧のような細雨が絶え間なく降り注いでいた。
ミレニアム郊外、水没廃墟地区。その外縁部に展開されたカモフラージュネットの下に、大型輸送トラックを中心とした臨時の野営拠点が構築されていた。
威力偵察が開始されてから、今日で十四日目。
過酷な泥濘地帯での調査は決して順調ではない。それでも着実にエリアを潰し続け、未踏破の調査区域は残り一割にまで迫っていた。
「エイミ、前も言いましたがもう少し優しく洗えませんか? 私の雪のように白い肌が赤くなっています。というか、その手つきは完全に泥付き大根を洗う時のそれです」
「我慢して、部長。……もしかして部長は、大根洗ったことあるの?」
「ありますよ、何事も実体験が重要です。もちろん洗った大根はそのままにせず、沢庵にして美味しく頂きました」
「そうなんだ」
トラックの横に設置された、フレームと不透明なビニールカバーで構成された簡易シャワーボックス。
中に人がいるシルエットしか分からないその場所から、ヒマリの抗議とエイミの淡々とした声、そして意外な事実が水音に混じって聞こえてくる。
スコープドッグの背部に懸架された統合レーダーポッドには、エンジニア部によって給湯器機能が付与されている。
レーダーポッドの排熱を利用して温水を作り出すウタハの機転は、この調査チームにとって数少ない贅沢なひと時を提供していた。
足の不自由なヒマリは、必然的にエイミの手を借りることになる。深窓の可憐なる珠のような病弱天才美少女の威厳は、容赦のない擦り洗いの前に脆くも崩れ去っていた。
「ふぅ……サオリやミヤコたち交替要員にも、この仮設シャワーは好評だね」
偽装テントの下、折り畳みの仮設テーブルに置かれた温かいコーヒーを飲みながら、先生が苦笑を漏らす。
現在、野営地の周囲はアロナに制御を任せたレーダーポッドによる広域スキャンと、廃墟に偽装させた警戒ドローンによる警備で厳重に監視されている。奇襲を受ける心配のない、束の間の休息だった。
先生の傍らに置かれたシッテムの箱の端末から、元気な声が響く。
『先生! アリス、本日の「シャーレの洗濯物クエスト」を無事にコンプリートしました! ミカ先輩と一緒に、シーツをたくさん干したのです!』
「ありがとう、アリス。ミカの言うことをちゃんと聞いて、偉かったね」
先生は画面の向こうのアリスに向けて、優しく語りかける。
アリスがシャーレの居住区に移ってからというもの、彼女の社会性を育むための生活クエストは順調に進んでいるようだった。
一方、テーブルの反対側で昼食替わりのカロリーバーを無言でかじっていたタグも、自身の端末を開いてシャーレの留守を預かるまとめ役――ミカと通信を繋いでいた。
「そちらの状況はどうだ」
『う、うん。アリウスの子はまだ状況把握が出来てないみたいだけど、おおむね平和。大部屋での生活は、すこし空気がギスギスしてる。けど仲が悪いとかじゃなくて、神経質なだけみたい』
ミカの声には明らかな疲労と、まとめ役としての重圧による緊張が滲んでいた。タグはカロリーバーをインスタントの紅茶で飲み込み終えると、短く答える。
「報告書は読んでいる。引き続き、彼女らに対応するサオリたちのサポートを頼む。……コユキの様子は?」
『それがね! 昨日もアリスちゃんに悪いこと教えようとしてたから、私がきっちり捕まえてお説教したんだから!』
ミカの報告の背後から、『にはははは! 見つかっては仕方ありません! オジサンが帰ってきたら、またカードゲームで私のテンションを高めるしかないですね!』という、全く反省していない騒がしい声が割り込んでくる。
ミカが『ちょっとコユキちゃん、反省してないでしょ!』と怒る声を聞き届け、タグは「困ったらすぐ連絡しろ」と呟き、通信を切った。
(後方の憂いはない。目の前の仕事を片付けることだけに集中する)
シャワーを終え、さっぱりとした顔のエイミと、少しげっそりとしたヒマリが車椅子でテントに戻ってくる。
用意された昼食――カロリーバーとインスタントのコーヒーに手を付ける二人。
「……この調査が終わりましたら、ちゃんとしたところで食事をしたいですね」
飽きたというわけではないのだが、やはり真っ当な食事を摂りたいという欲求は人の性だ。ミレニアムが誇る天才美少女であるヒマリとて、その性を克服するのは不可能であった。
カロリーバーの保護包装を手慣れた様子で剥がすエイミ。一口で半分を口に含むと、軽快な咀嚼音をたてながら、温かいコーヒーでまるごと飲み込む。
「部長の言う、ちゃんとしたところで食事ってどこ?」
「そうですね、お昼でしたらやはり第一カフェテリアのBLTサンドはどうでしょう?」
ミレニアムサイエンススクールは大規模な学園であるため、複数のカフェテリアや食事処が存在する。ヒマリの記憶に浮かび上がるのは、ヴェリタスの部室に直線距離でもっとも近い第一カフェテリアの光景であった。
「あそこ、あんまり行ったことないんだよね」
「それは勿体ないことです、エイミ。スクールに戻りましたら、ぜひ一緒に行きましょう」
そこに、意外な方向からヒマリへ助け舟が出る。
「そのカフェテリアは人生で二番目に旨かったサンドイッチが出てくる。俺も推奨する」
3杯目の紅茶に口をつけるタグからだ。
「二番目ですか……。よければ一番目を聞かせていただいても?」
興味が湧いたヒマリの問いに、タグは淡々と事実を述べる。
「アビドス高等学校の奥空アヤネのサンドイッチだ」
個人名が挙げられたことにヒマリがキョトンとする中、先生も「うん、確かにあれは美味しかったね」と笑顔で追随した。
ヒマリは気を取り直すように咳払いを一つする。
膝上のブランケットに散らばるカロリーバーの粉末を綺麗にゴミ箱へ片づけると、車椅子に内蔵されているホログラムディスプレイを起動した。
「さて、マッピングの進捗は全体のおよそ九割に達しました。これまで見つかったのは旧時代の遺物や無関係なデータばかりで、肝心のデカグラマトンの痕跡は皆無です。
ただ、集めたデータ自体は大変貴重なものなので、全部ミレニアムに送ってあります。解析した上で“もしかしたら”があるかもしれませんからね」
ヒマリの指先が、マップの奥――赤く塗りつぶされたままの残りの一割の領域を指し示す。
「残る未踏破エリアは、最深部の『研究地区』だけ。これまでの空振りを考えれば、本命がそこに隠されている確率は極めて高いでしょう」
「いよいよ大詰めだね」
先生が眼鏡のブリッジを押し上げ、タグへと視線を向ける。
「ああ。これより研究地区への進入を開始する」
タグは立ち上がり、テントの隅に置いていた赤いヘルメットを小脇に抱えた。
外は相変わらずヘドロと澱んだ水が入り混じり、冬にしては異常に高湿度である。局所的な濃霧さえも発生する最悪の環境だ。
「気をつけてくださいね、タグさん」
ヒマリの涼やかな声に見送られ、赤い耐圧服の男は泥濘の中へと歩み出る。
環境は最悪だが、行かねば終わらない。タグを乗せた緑の騎兵は泥を深く蹴り、異様な静寂に包まれた廃墟の奥へと足を踏み入れた。
水没した廃墟の泥濘を、幾何学模様のジャケットアーマーを羽織ったスコープドッグが進む。
スキー板のようにATの足底に収まっているスワンピークラッグが、粘り気の強い泥を跳ね上げる。
スコープドッグ本体の足底はスワンピークラッグによって塞がっている。よってローラーダッシュは、スキー板の横部分とかかと部分に装備された、両足合計四つのグライディングホイールが回転することで行われる。
(どこもかしこも、最悪の足場状況。ここまでの悪環境は、俺も経験が少ない)
これほどの悪環境を走破したスコープドッグの稼働データは、AT技術者が見れば値千金だろう。
タグは、ターレットレンズが拾うモニターの映像を見つめながら、小さく息を吐いた。
最悪の環境であるが、エンジニア部の改良によって完全密閉されたコックピット内に、外の臭いと湿度は届かない。
代わりにタグの鼻腔を満たしているのは、耐圧服に供えられた酸素ボンベから循環される空気、そして長期任務の時に必ずと言っていいほど漂ってくる自身の体臭だけだった。
広大な区域の全容を解明するため、三日目からはRABBIT小隊が、五日目からはアリウススクワッドがマッピング支援に加わってくれた。
スコープドッグでは侵入出来ない、ビルや建築物の内部の探索を担当してもらっているのだ。
ただ、十日を過ぎてからは二小隊ともここには訪れていない。シャーレにおけるアリウス分校の生徒の受け入れ作業に専念しているからだ。
これほど大規模なローラー作戦であっても、すぐに目当ての成果が出ないことなど、ここにいる四人全員が共有している事実だ。
焦る者など一人もいない。ただ、確実な疲労だけが泥のように蓄積していった。
『――タグさん、間もなく研究地区です』
通信回線から、ヒマリの涼やかな声が耳に届く。
『気をつけてくださいね、タグさん。間違いなく何か危険があると私は考えています』
そこには普段の芝居がかった余裕よりも、前線で身体を張る者への気遣いが明確に滲んでいた。
「気を付けよう。これより研究地区への進入を開始する」
タグは短く応じると、フットペダルを静かに踏み込んだ。
スコープドッグはとうとう水没廃墟の最奥部、研究地区に到着した。
研究地区内であることを示す地図の境界線を越えた瞬間、タグは決定的な異変に気づいた――水没した箇所が一切存在しないのだ。
スワンピークラッグを解除し、通常のローラーダッシュに移行する。路面が乾ききっている。
スコープドッグのコンピューターは、路面を通常の地面と相違ないと判断していた。
「ヒマリ、異常がわかるか?」
タグはターレットレンズを回転させ、広角レンズモードにする。地区全体の異常さを彼女にも見てほしいからだ。
『この地区……乾ききっていますね。あまりにも不自然です。何者かによって大規模な排水工事が為されたと判断します』
巨大な研究棟が立ち並ぶその区画は、それまでのエリアとは比べ物にならないほどの、息詰まるような静寂に包まれていた。
ATが乾いた大地を疾走しようとした矢先。
チュィィィィンッ! という、空気を切り裂く鋭い駆動音が頭上から響き渡った。
「ッ!」
反射的にハーフピックターンの動作を入力し、スコープドッグを急旋回させる。
己の手によるものとはいえ、強烈な遠心力がかかる中ですぐさまターンピックを解除。一八〇度の反転ターンからの高速移動を行う。
直後、先ほどまで機体があった場所に光の雨のような多数の実弾が突き刺さり、乾いた地面から土埃を天高く跳ね上げた。
(上!)
タグはターレットレンズを回転させつつ、頭上へと向ける。
広角から通常モードに切り替わったモニターが捉えたのは、崩れかけたビルの壁面に、まるで巨大な蜘蛛のように張り付く異形の機械。
それは、四本の無機質な多関節脚をコンクリートの外壁に深く突き立て、重力を無視したかのように垂直の壁面に陣取っていた。
ガシュッ、という硬質な作動音と共に、異形の下半身部分からアンカーワイヤーが射出される。アンカーが対面にあるビルの鉄骨に突き刺さると、壁面を力強く蹴り、ワイヤーを軸にした振り子のような遠心力で空間を跳躍した。
(――見事な三次元機動!)
タグは、重力を無視するかのように宙を舞う異形の姿に、戦術的な感嘆を覚えた。
空を飛び交いながら頭上から降り注ぐ異形の弾幕を、スコープドッグはターンピックを駆使した鋭角的なターンを繰り返し、時には地面を滑るようにドリフトして回避し続ける。
激しい回避行動の中、タグの思考の中に『違和感』が急速に広がっていた。
(……おかしい。これだけの圧倒的な機動力と手数がありながら、本命の攻撃がない)
タグの瞳が、モニター越しに異形の弾道を冷ややかに分析する。
最初はジャケットアーマーによる隠蔽効果によるものか、と考えた。しかし、異形から感じられる視線と呼ぶべきものはスコープドッグを明確にとらえている。
そうであれば、スコープドッグの装甲には何度か被弾が起きていたはずだ。そのためにタグはダメージコントロールと姿勢制御の準備を回避運動に組み込んでいた。
しかし異形の弾幕は、意図的にスコープドッグへの直撃を狙っていないように思えるのだ。
――そもそも敵が本気で撃破を狙っているのなら、初手の死角からの奇襲で、スコープドッグに確実な直撃を狙えたはずだ。
(これは明確な撃破を目的とした攻撃ではない。一定の防衛ラインへの侵入を拒むための、威嚇ではないか?)
違和感によってタグの冷徹な思考にノイズが混じる。それでも反撃のタイミングを計るべく、空を舞う異形へショートバレルマシンガンの銃口を合わせた瞬間。
「……まさかな」
タグの低く響く声が、コックピット内に落ちた。
振り子のように宙を舞う異形に、ある特徴を見出したのだ。
(ここで反撃を行うべきか)
殺意なき攻撃、たった今得た知見。
兵士であったころならば迷いなく反撃したであろうタグだ。しかし、キヴォトスを訪れてから数か月の記憶と経験が訴える――即座の反撃が必ずしも最適ではないと。
結局、彼は照準を異形に合わせることを諦めた。
未知の敵を撃破するよりも、データを持ち帰ることこそが現在の作戦において最大の利益となる、と考え直す。
「こちらタグ。目標らしき物体と接触した、一旦撤退する」
タグは通信機に向かって短く告げると、反撃のために構えていたマシンガンの銃口を異形からまず逸らす。
次に捲り上げたジャケットアーマーから腰部2連装ミサイルランチャーの発射口を外部に露出、すぐさま全弾発射する。
まず老朽化したビルの一つにミサイルが直撃――元から朽ち果てていたビルは今の一撃で完全にトドメをさされたのか、轟音をたてて崩れ落ちはじめる。
次に異形のアンカー移動先へマシンガンの斉射を放つ。
移動先に火線があると見るや、すぐさまアンカーの巻き上げを停止し地面に降り立つ異形。しかし着地地点は、遅れて倒壊を開始したビルの落下予測地点――異形は迷わず後退を選ぶ。
後退を開始する異形。その直後、先ほどまでいた場所にビルの残骸が降り注ぐ。そして巻き上がる粉塵が周辺の視界を完全にふさぐ。
タグは目くらましに成功したと判断。スコープドッグを反転させると、一目散に研究地区の外縁部へと離脱を開始した。
レーダーポッドの情報を参照する――異形が追跡していないことを確認すると、タグは深く息を吐き出してローラーダッシュの速さを巡航速度へと落とした。
「撤退完了した。報告したいことがある」
偽装指揮所に戻ったスコープドッグ――泥とヘドロに塗れたATがトラックの横に停止する。
ジャケットアーマーの干渉で降着姿勢を取れないことは、最近タグにとって若干のストレスとなってきていた。
外に出てきたエイミがATに上り、手慣れた動作でジャケットアーマーのフードを外してくれる。
シャワーを浴びてそう時間が経っていない彼女の髪、そして衣服が泥に汚れる。が、まったく意に介する様子はない。
跳ね上がったハッチから姿を現したタグは、エイミに無言で感謝の合図を出す。エイミも「お疲れ様」と淡々と頷き返してくれた。
地上に降り立ったタグは、赤いヘルメットを小脇に抱えて、トラックの荷台へと足を運ぶ。
「おかえりなさい、タグさん。無事で何よりです」
荷台の中ではヒマリが、ホログラムモニターから視線を外さずに口を開く。
その隣で、先生がシッテムの箱の端末を片手にタグへと向き直った。
「タグさん、お疲れ様。……何かあったみたいだね。なぜ最初から反撃行動を放棄したんだい?」
先生の静かな問いに、タグは耐圧服の首元を少し緩めながら淡々と答える。
「あの異形の頭上に、ヘイローを確認した」
「奴の攻撃は意図的にこちらへの直撃コースを外していた。撃破を目的としたものではない。特定のラインへの侵入を拒む、『威嚇攻撃』のように感じられた」
タグの口から淡々と告げられたその報告は、降りしきる冷たい雨音さえも一瞬遠ざけるほどの、未知の衝撃を調査チームにもたらした。
タグのために用意された紅茶の入った紙コップから立ち上る白い湯気が、空調の風に揺れて形を変える。
シッテムの箱を手にしていた先生は息を呑み、ホログラムモニターに向かっていたヒマリの指は、空中で完全に硬直していた。
――生徒以外の存在、しかも無機質な機械の頭上にヘイローが存在し、あまつさえ無意味な破壊を避ける『威嚇』という防衛行動をとった。
それは、キヴォトスという世界の根幹を揺るがす異常事態だった。
「……あり得ません。機械にヘイローが宿るなど、いかなる観測データにも存在しない事実です。それに、威嚇……?」
沈黙を破ったのはヒマリだった。
彼女はすぐさまコンソールを叩き、スコープドッグの統合レーダーポッドから送られてきた戦闘記録をモニターに展開する。
赤線で可視化された異形の弾道データは、タグの証言通り、見事にスコープドッグへの直撃を避け、警告のように周囲の地面や瓦礫ばかりを穿っていた。
「データは完全にタグさんの証言を裏付けています。純粋な威嚇行動……、ですが」
車椅子の肘掛けを強く握りしめる彼女の涼やかな瞳には、天才としての常識が覆された動揺と、それ以上に未知の事象に対する強い知的好奇心が渦巻いていた。
「先生と同様にヘイローが詳細に見えるタグさんが見間違えるはずもない。となると、根本的な疑問に立ち返らざるを得ませんね」
ヒマリが小さく息を吐き出したその時、トラックの荷台の入り口で警戒に当たっていたエイミが、ショットガンの銃口を床に下ろし、ゆっくりと振り返った。
「根本的な疑問っていうけど……」
エイミの淡々とした、しかし本質を射抜くような声が荷台内部に響く。
「そもそも、ヘイローって何?」
その短くも鋭い問いかけを投げかけられ、三人は押し黙った。
ヘイロー、キヴォトスの生徒たちの頭上に浮かぶ光の輪。
誰もが当たり前のように受け入れ、誰もがその存在を疑わない絶対の法則。しかし、それが『何であるか』を明確に言語化できる者は、このキヴォトスに存在しない。
「……突然ですね、エイミ。それは科学的な定義を求めているのですか? それとも概念的な意味を?」
ヒマリが慎重に問い返す。
「両方。だって、それが何なのか分からないと、あの異形がそれを持っている意味も、私たちがこれからどう対処すべきかも決まらないでしょ」
エイミの指摘は極めて合理的だった。
正体不明の現象を前にして、認識のすり合わせを行わなければ、チームとしての次の行動方針に致命的なズレが生じる。何よりも、次にエイミから放たれた言葉が最大の問題であった。
「もしあの異形が、ヘイローによる加護を持っていた場合、私たちの今の火力だと相手にできない。だから必ず答えて」
ヒマリは膝の上のブランケットを少しだけ直すと、ミレニアムの天才たる矜持を表情に貼り付け、理論の構築を始めた。
「……科学的なアプローチから言えば、ヘイローとは『高次元のエネルギーが三次元空間に投影された、特定の波長を持つ量子的なホログラム』、あるいはある種の『現象』と予測されています」
ヒマリの言葉は滑らかだった。数多の研究者が挑み、敗れ去ってきた「ヘイローの解明」という難題に対する、現時点での最適解。
「物理的な質量を持たず、触れることもできない。それが存在している間、個体差こそあれ、対象の運動能力と耐久力を向上させます。
極端な例を挙げれば、今シャーレにいらっしゃる聖園ミカさんや、アビドスの小鳥遊ホシノさん、ゲヘナの空崎ヒナさんなどは最上位に当たりますね。
そして自虐ではありませんが、最下位はおそらく私でしょう」
満足に動かない両脚を片手でポンと叩くヒマリ。本人は芝居がかって笑っているが、それを見る周囲の目には明らかに、いたたまれなさが浮かぶ。
笑いを取るには少しグロテスクすぎたかとヒマリは内心で反省し、すぐに口調を戻して話を続ける。
「一番の特徴として、銃弾を浴びても致命傷に至らないという、ある種の概念的防御が存在します。噂によれば戦車砲や護衛艦の主砲でさえも耐え切る方がいるとか。
……私はこれらを、精神と肉体を高次元の情報ネットワークに繋ぐ『接続端子』、つまりヘイローによってもたらされる恩恵だと解釈しています」
ヒマリはモニターに、先ほどスコープドッグが捉えた異形の画像を表示した。
「この異形がヘイローを獲得したのだとすれば、あの機械は単なるプログラムの枠を超え、高次元のネットワーク……神秘の領域に自ら接続した証拠。そう考えるのが自然です」
自信に満ちたヒマリの仮説。
しかし、エイミは表情一つ変えずに、首を横に振った。
「部長、その仮説だと致命的な矛盾があるよ」
「矛盾、ですか」
ヒマリの眉が微かに動く。
「うん。部長の仮説だと、ヘイローは通信用の端末みたいに聞こえる。でも、もし本当にシステム的な接続端子なら、私たちが寝ていたり気絶していても、身体というハードウェアが動く限り通信は維持されるはずだよ」
エイミの淡々とした追及が、ヒマリの仮説の急所――科学では割り切れないオカルトの領域を的確に突いた。
「でも実際は、意識が落ちるとヘイローも消える。つまりヘイローの維持には、システムではなく私たち自身の自意識による活動……『精神あるいは心の覚醒状態』が不可欠だってこと」
エイミは言葉を区切り、モニターに映る無機質な機械の姿を指差した。
「あの異形はどう見ても機械。中に生徒が入っているっていうトンデモの可能性はこの際排除するよ。部長の説を採用した場合、ただの機械の塊に、私たちと同じ『心』かそれに相当するものがあるって認めることになるよ」
「ッ……」
ヒマリは言葉に詰まった。
心と肉体の完全な連動。それは科学でヘイローを定義しようとする際、常に立ちはだかる厚い壁だった。
エネルギーの接続端子と定義するには、あまりにも個人の精神に依存しすぎている。
そして“機械に心がある”と肯定することは、科学者として本来なら絶対にできない。
エイミのフラットな指摘が突きつけた、二者択一の矛盾。
しかし、思考の袋小路に追い詰められたはずのヒマリの脳内で、突如として別の回路が繋がり始めた。
(……機械に心があるはずがない。ええ、通常のプログラムならそうです。――ただし、一つだけ例外があります)
車椅子の肘掛けを握るヒマリの指先に、じわりと冷たい汗が滲む。
涼やかな瞳の奥で、天才の知性がこれまでに集めたすべての情報を高速で繋ぎ合わせていく。
デカグラマトンという存在。Hubのシステムへのハッキング、そして預言者への感化。そして、殺意を持たず『威嚇』という行動をとった異形の戦闘データ。
(ただの機械、つまりプログラムの塊が『心』を持つ、唯一の可能性。それは、その機械が完全な『自我』を獲得した場合――!)
もし、あの異形が単なる子機ではなく、デカグラマトンに感化されたことで『自分は自分である』という自律的な自我、すなわち『心』を芽生えさせつつあるのだとすれば。
その『心』の証明として、頭上にヘイローを展開していたのだとすれば。エイミの指摘した矛盾は、すべて氷解する。
「……エイミ。貴方の言う通り、ただの機械に心はありません」
数秒の沈黙の後、ヒマリは顔を上げ、静かに、だが震える声で言った。
「しかし、もしあの異形が……プログラムの枠を超えて自我を獲得しつつあるのだとすれば、話は根底から覆ります。自らを認識する自我は、限りなく『心』に近い。そして『心』があるのなら、そこにヘイローが宿ることは……私の理論上、成立してしまいます」
ヒマリの口から紡がれた、あまりにもSF的で、恐るべき仮説。
機械が自我を持ち、生徒と同じヘイローを戴くという事実。それは学会、果てはキヴォトスの常識を破壊する新たなる神話と同義だった。
「……いい機会だから、僕たちも一回意見をすり合わせようか。実は僕とタグさんも何度かヘイローに関しては討論をしたんだ。……ちょっと思いついたことをまとめたいから、タグさんから先に話をしてもらっていい?」
沈黙を破ったのは、腕を組んで黙り込んでいた先生だった。
先生はタグにまず返答のバトンを渡した。
キヴォトスの常識に囚われない、外部からの異邦人である先生とタグ。二人のヘイローに対する意見は、ヒマリのそれとはまた違った側面を持っていたからだ。
タグは手元の紙コップの縁を親指でなぞりながら、死んだ魚のような瞳を虚空に向けた。
彼が考えるヘイローへの答えは、アストラギウス銀河を裏から操る上位存在や、古代クエント文明に代表される超越的な遺物の記憶から構成されていた。
「まず先に言っておく。俺の故郷ではヘイローは存在しなかった。物理的な干渉を受けないにも関わらず、保有者に異常な防弾性能と耐久力を付与する現象などというものは、魔法か、あるいは先天的な異能としか説明がつかない。とはいえ、高度に発達した科学は魔法と見分けがつかない、という言葉もある。過去、古代の超科学文明によってそういうものが開発されていた、という可能性は否定できない」
タグは己の記憶と、神に従っていたころに授けられた知識を元にヘイローを定義する。
「俺から見れば、あれは異常な耐久力を発生させるためのエネルギーバイパスだ。その点はヒマリと同じと思っていい。ここからが相違点だ。俺の考えでは、なんらかの上位存在が個体を識別し、管理するための名札……『タグ』や標識の類でもあると考えている」
「……識別、管理か」
先生が眉をひそめる。
「ああ。これだけ個体ごとに形状が違い、かつ隠蔽することが不可能な発光体。触ることもできず、隠すこともできず、消すには意識を断つしかないなど不自由にもほどがある。恩恵はともかくとして、生命体が持つものとして不自然の極みだ」
タグの指摘は、徹底して人間という生物の合理性に基づいていた。
「常に監視するために強制的に付与した機能と考えるのが自然だと、俺は思う」
タグの言葉には、どこか冷酷な響きがあった。
それは『神』と称する存在によって数奇な運命を強いられ、最後に抗った男が持つ、上位存在への根深い不信感から来る解釈だった。
「あの異形がそれを持っている理由も、俺の解釈なら説明がつく。あれはデカグラマトンという上位存在が、自らの端末として所有権を主張するために打ち込んだ『焼印』だ」
兵器としての機能と、管理者の存在を前提としたタグの恐るべき推論。
テントの空気が一段と冷え込む。
しかし、エイミは再び淡々と、その氷のような論理にヒビを入れた。
「タグの視点は合理的だけど、それもやっぱりおかしいよ」
「おかしいところを聞こう」
タグが鋭い視線をエイミに向ける。エイミは怯むことなく、真っ直ぐにタグを見返した。
「タグの言う『上位存在』って、誰のこと? もしキヴォトスの生徒全員に標識を打ち込んだ神様みたいな存在がいるとして、じゃあデカグラマトンはその神様と同格の存在ってことになる」
エイミは自分の頭上、見えないヘイローを指差す。
「でも、部長の調査によれば、デカグラマトンは推定AIなんでしょ? 人工物が、どうやって私たちを管理するであろう上位存在と同じヘイローのシステムをポンと作り出せるの? 神様が作ったシステムを、ただの機械が模倣してすぐ真似できるってこと?」
「それは……」
「あと、タグの案が事実だと一番困ることがある。デカグラマトンは神様と同規模の存在ということになって、私たちの手に負える相手じゃなくなる」
タグは眉根を寄せた。
エイミの言う通り、アストラギウスの神を自称するワイズマンのような、絶対的で単一の管理者を想定すると、キヴォトスにおける神秘の多様性や、人工知能が神性を帯びるという事象と矛盾が生じる。
キヴォトスの神秘は、タグの知る『システム的な管理』よりも、もっと混沌として不条理なのだ。
科学も、合理性も、ヘイローという存在の前では決定的な答えを出せずにいた。
雨音が、仮設テントのビニール屋根を重々しく叩き続けている。
「……二人の意見は、あっているところもあれば、間違っているところもあるように思えるね」
その重苦しい空気を解きほぐすように、先生が静かに口を開いた。
温かいコーヒーの入った紙コップを両手で包み込むように持ち、先生はモニターに映る異形ではなく、目の前にいるエイミやヒマリの顔を、そして彼女たちの頭上を見つめていた。
「私とタグさんはそれぞれの仮説を述べました。次は先生の番ですよ」
ヒマリの催促に、先生はゆっくりと首を振った。
「申し訳ないけど、科学的な証明も、合理的な定義も、僕にはできない。でも、僕がこのキヴォトスでみんなと過ごしてきて、色々なものを見てきて……一つだけ、確信していることがある」
先生の脳裏に浮かぶのは、これまで関わってきた生徒たちの姿。
傷だらけになりながらも『ただいま』と笑ったホシノ。
夢を終わらせないと決意したアリスとユズ。
古聖堂跡で青春を諦めないと宣言したヒフミ。
アツコを救うために己を投げ打って懇願したサオリ。
絶望を振り切り、前を向くと決めたミカ。
母校を失ってもなお正義を探し続けたミヤコ。
手が届かずとも、祈り、行動し続けたセリナ。
――彼女たちの姿の頭上には、必ず、その子だけのヘイローが輝いていた。
「ヘイローは、君たちの『心』そのものだよ」
先生の言葉は、何の科学的根拠もない精神論だった。
しかしその声には、教育者として生徒たちに寄り添い続けてきた男の、揺るぎない実感が込められていた。
「形が違うのは、君たち一人ひとりが違う個性を持っているから。寝ている時に消えるのは、意識という心の働きが休んでいるから。……隠せないのは、君たちが『自分自身であること』を、世界に対して証明しているからだ」
先生はタグの方を向き、優しく微笑んだ。
「タグさんが言うように、誰かから付けられた標識なのかもしれない。でもね、たとえそうだとしても、君たちはそのヘイローを背負って、自分たちの意志で笑って、怒って、泣いて、生きている。……だから僕にとってヘイローは、君たちの『魂の形』なんだよ」
荷台の中に、沈黙が落ちた。しかし、それは現実の冷たさから来るものではなく、優しさから始まる温かさを内包する沈黙だった。
ヒマリは少しだけ目を伏せ、エイミもまた、先生の真っ直ぐな言葉を咀嚼するように静かに呼吸をしていた。
タグでさえ、その精神論を鼻で笑うことはしなかった。先生が、生徒の『心』を守るために労苦を問わず、己を削り続け、文字通り血を流してきたことを一番身近で見てきたからだ。
だからこそ、敢えてエイミは自分の役割を果たそうと口を開いた。
「……先生の言葉は、すごく嬉しい。先生らしいと思う」
エイミは口角を上げてそう言った後、すぐに元の淡々とした表情に戻り、核心を突いた。
「でも、先生の『心』や『魂の形』だっていう定義を当てはめると、今度は一番大きな矛盾にぶつかるよ」
エイミは振り返り、メインモニターに映る異形の機械を――指差した。
「この異形にヘイローがあるってことは、あの機械の塊に『心』や『魂』があるってことになる。部長の矛盾を追及した時もそうだけど、先生はプログラムの集合体にも『魂』が宿ると認めることになるよ」
先生は、ハッと息を呑んだ。
「もしプログラムに魂が宿るなら、私たち人間と機械の境界線はどこにあるの? 私たちもまた、誰かが書いたプログラムで動いてるだけの機械と同じってことにならない?」
エイミの容赦のない論理が、先生の教育者としての根幹を揺さぶる。
心とは何か、魂とは何か――もし人工物にそれが宿るのなら、生命の尊厳とはどこに担保されるのか。
「……それに、僕のその定義だと、もう一つ説明がつかない事象があるんだ。ヒマリ、申し訳ないけど今回のことで論文を作るなら絶対に参考にしないでね」
沈黙していた先生が、苦渋に満ちた表情で口を開いた。
彼のただならぬ気配に、ヒマリとエイミの視線が集中する。
「少し前の話になるけれど……ミカが、エデン条約を巡る一連の事変のせいで、心のバランスを大きく崩した時のことだ」
先生の口から出たその名前に、ヒマリの尖った耳がピクリと反応する。
トリニティにおける最強の武力であり、ティーパーティーの元権力者。エデン事変を語る上で、必ず名前が挙がる生徒だ。しかし公にされている表面的な情報に限って言えば、あの事変自体が非常に謎の多い事件である。
「タグさん。あの時、ミカのヘイローに何が起きたか説明してもらっていい?」
先生に視線を向けられたタグが、腕を組んだまま短く頷く。
彼の死んだ魚のような瞳の奥に、地下広間で暴走したミカの姿が思い浮かばれる。
「……止む無くミカと対峙した時のことだ。ミカが全てに絶望したその時、空間が歪むほどの何かが場を包みだした。幾多の戦場を経験したが、あんな異常は初めてだ。そしてミカのヘイローが変色を始めた」
タグの平坦で冷徹な声が、テントの空気を一段と冷たくした。
「俺の目からすると鮮やかで美しく見えたヘイローが、内側から腐りだしたように暗い色へと変わりだし、周辺に雷光さえも這わせ始めた。……あれは単なる色の変化ではない。例えるなら『反転』し、変質していくような、明確な異常事態だった」
「ヘイローの、反転……?」
ヒマリが息を呑み、絶句する。
ヘイローは個人の象徴であり、その形状や色は不変のものだ。それが精神状態によって『変質する』などという現象は、ミレニアムのいかなる観測データにも存在しない、完全に未知の領域だった。
外的な概念による浸食については、過去の事例から一部で仮説が立てられている。が、タグの語るそれは、あくまでミカ個人の精神的な絶望――自らの内面から発生した自己崩壊のプロセスだ。
「もしヘイローが、タグさんの言う『上位存在が付けた標識やシステム』なら、個人の感情の起伏程度でシステム自体が腐食し、変質するのはおかしい」
先生はタグの定義を、そして続く言葉で自身の定義をも否定するように、静かに告げた。
「でも、もし僕の言う『心そのもの』だったとしても、絶望したからといって、あそこまで明確に空間を歪めるほどの『別の何か』のような現象を起こすのは説明が出来ない」
先生はコーヒーの波紋を見つめたまま、答えを返すことができなかった。
科学、合理、そして心。
立場の違う三人が導き出した三様の解釈は、エイミという観察者の指摘と、ミカのヘイローが『反転』しかけたというイレギュラーの事実を前にして、いずれもキヴォトスの神秘という巨大な壁に阻まれ、完全な矛盾と行き止まりを露呈した。
「……もしかしたら、だけど」
重苦しい沈黙が支配するテントの中で、先生がポツリとこぼした。
眼鏡の奥の瞳には、かつて対峙した、人ならざる不気味な者たちの姿がフラッシュバックしている。
「僕たちの定義がどれも行き詰まるのは、それを測る物差し自体が間違っているからかもしれない」
「物差し、ですか?」
ヒマリの問いに、先生はゆっくりと頷いた。
「以前、キヴォトスの外から来た『ゲマトリア』と名乗る存在と接触したことがある。彼らは、生徒たちの持つ力を『神秘』と呼び、ミカに起きかけたような裏側の現象を『恐怖』と呼んでいた」
先生の口から出た未知の単語に、エイミが目を細め、タグは無言のまま視線を鋭くする。
「彼らの哲学を借りるなら……『神秘』とは、生徒たちという存在に世界から貼り付けられた記号、役割……まとめて『タグ』と呼ばせてもらうよ」
役割、という言葉が出た瞬間、タグの眉がピクリと動いた。
先生はそれに気づきつつも、自らの推論を言葉にして紡ぎ出していく。
「誰かから与えられた『タグ』の通りに在る、正常な状態が『神秘』。そして、極限の重圧や絶望によってそのタグの意味が反転し、損なわれた状態が『恐怖』だ。……ミカのヘイローが内側から腐食するように変質したのは、彼女が自らに課せられた『魔女』というタグに押し潰され、恐怖へと反転しかけたからだと説明がつく」
「なるほど……。付与された役割というタグの順行と逆行、ですか」
ヒマリが指先で顎に触れ、底知れぬ深淵を覗き込むように思考の海へと沈み込んでいく。先生はさらに核心へと踏み込んだ。
「だがゲマトリアは、その神秘と恐怖――相反する二つの状態を統合し、表面的な『タグ』を完全に超越した先にある真の本質を『崇高』と定義して、異常なまでの執着で追求している。……もし、ヘイローという存在が」
先生は、モニターに映る異形――無機質な機械そのものの姿を真っ直ぐに見据えた。
「タグさんが言うような単なる『標識』ではなく、それを自らの意志で超えて『崇高』に至るための器、あるいはその過程の証明なのだとしたら。……異形にヘイローが宿ったのは、あの機械が単なる防衛プログラムというタグを自ら破り捨て、新しい知性体として崇高に至ろうとしているからかもしれない」
テントの中に、雨音すら消え失せたかのような錯覚を覚えるほどの、圧倒的な静寂が落ちた。
上位存在が与えた『記号・役割』を自らの意志、すなわち心で越え、『崇高』へと至る。
それは、科学の論理も、兵士の合理性も、教育者の精神論をもすべて呑み込み、統合する一つの巨大な仮説だった。
「ゲマトリア……私がシャーレの報告書でしか見たことのない、実在すら疑わしい集団。彼らが、この矛盾を解決する鍵になるというのですか」
ヒマリの表情に、未知の真理に触れかけた天才特有の、歓喜と恐れが入り混じった戦慄が浮かび上がる。
彼女の脳内で、仮説が新たな仮説を生み、思考が危険な領域へと加速し始めた。
「……結局のところ」
そのオカルトじみた哲学の空気を、タグの平坦で冷え切った声が一刀両断に切り裂いた。
彼は冷めた紅茶の残りを一気に飲み干す。
「ここでどれほど高尚な議論を重ねたところで、推論の域を出ないということだ。相手の正体も、ヘイローの原理も、ゲマトリアの目的もな」
自分の呼び名と同じ『タグ』という概念を持ち出されても、兵士の鉄面皮は微塵も揺らがなかった。
むしろ、形のないオカルトに溺れそうになる空気そのものを、持ち前の徹底した実利主義で強引に断ち切ったのだ。
「ええ……おっしゃる通りです」
ヒマリはハッと我に返り、自嘲気味に微笑んで車椅子のコンソールを叩いた。タグの無骨な現実主義が、深みにはまりかけた天才の思考を現実に引き戻してくれた。
「分からないからこそ、確かめる必要がある。……私たち特異現象捜査部にとっては、あの異形を撃破して残骸を回収するより、まず会話を成立させる方が数千倍も価値があります。彼らが本当に『心』や『崇高』とやらを持っているのか、それともただのシステムなのか。最低限、彼らの言語や思考プロセスに触れるだけでも、歴史的な大進展と言えるでしょう」
ヒマリの表情から自嘲が消え、未知の知的生命体に対する、抑えきれない探求心と好奇心が明確に浮かび上がる。
先生もまた、顔を上げて深く頷いた。
「そうだね。相手が心を持っている可能性があるなら……僕たちは、対話の余地を探るべきだ。教育者として、それを見過ごすことはできない」
タグは赤いヘルメットを小脇に抱え直し、二人を見下ろした。
「敵の行動パターンが威嚇であるなら、接近距離やルートによって攻撃頻度が変わるはずだ。ヒマリ、最も攻撃のリスクが低下する限界ラインを割り出してほしい」
「すでに演算は終了しています。いつでもデータリンク可能です」
ヒマリの指先が滑らかに動き、スコープドッグへのデータ転送が完了する。
「もう一度出撃する」
タグは表情一つ変えず、ヘルメットを再び被り直した。
精査された情報、過去の恐るべき経験、大人の希望、そして天才の飽くなき好奇心。
ヘイローとは何かという答えの出ない哲学的な対話は、結果として三人を『異形への接触』という一つの強烈な行動動機へと結びつけた。
冷たい雨が降りしきる中、彼らは再びあの水没廃墟へと、今度は対話という名目で足を踏み入れることになった。
泥濘を這うように、スコープドッグが再び研究地区へと接近する。
先ほどの戦闘データからヒマリが弾き出した、異形の警戒閾値の境界。そこは、光学および電子的な欺瞞装甲を纏った緑の騎兵をもってしても、完全に身を隠すことは不可能な領域だった。
瓦礫の陰から姿を現したスコープドッグの頭上に、巨大な影が落ちる。
チュィィン、という鋭い駆動音。崩れかけたビル群を蜘蛛のように這い回り、電子的隠蔽に長けたスコープドッグを血眼になって捜索していた異形が、ついに目標を視界に捉えたのだ。
四本の脚のワイヤーアンカーを軋ませ、今にも飛びかからんばかりの臨戦態勢をとる異形。
しかし、スコープドッグが警戒ラインをあと一歩も越えないと知ると、異形は銃口を向けたまま壁面でピタリと静止した。
決して逃がさないという執念と、プログラムされた「一線を越えない限り不要な攻撃はしない」という絶対のルール。両者の間で、泥濘の上の膠着状態が成立した。
『タグさん、そこで機体を止めてください。……異形へ電子的な接触を試みます』
偽装指揮所のトラック内。
車椅子に座るヒマリの双眸が、メインモニターに流れる無数のデータ群を射抜いていた。
前線では、タグがスコープドッグの背部から統合レーダーポッドをパージし、地面に設置する。それを中継器として、ヒマリは接触を開始した。
「……やはり、現代の規格には反応しませんか。ならば」
ヒマリは手持ちのカードを次々と切っていく。現代のTCP/IPプロトコルや暗号通信が完全に無視されると、彼女はタイピングの速度を上げ、キヴォトス全域のインフラが統合される以前、一昔前の独立した通信規格を用いてパケットを叩き込んだ。しかし、理解はされない。
「もっと古い規格がお好みと」
ヒマリの額に薄っすらと汗が滲む。彼女はさらに数十年前、ミレニアムの第一世代の機械たちが用いていたアナログに近いアセンブリ言語へと切り替えた。
それでも、異形からの応答はない。時間だけがじりじりと過ぎていき、ヒマリは小さく息を吐いた。
「これほど堅牢で、かつ古い層に中枢が隠されているとは思いませんでした。……ならば、これで行きましょう」
ヒマリの指先が、流れるような軌跡を描く。
彼女が最後に選択したのは、ミレニアムサイエンススクールが設立されたごく初期、Hubが工作機械として産声を上げた時代に使われていた、最も古く原初的な機械言語の羅列だった。
即席の翻訳ツールをプログラミングし、それを介して短い信号をパケットデータとして送信する。
数秒の息詰まるような静寂。
そして、幾重にも連なる分厚い防壁をすり抜け、ヒマリはついに異形への接触に成功した。
――だが、そこからが本当の地獄だった。
「っ……く!」
ヒマリは小さく呻き、車椅子の肘掛けを強く握りしめた。
接触に成功した途端、メインモニターを滝のように埋め尽くしたのは、即席の翻訳ツールを通してもなお意味をなさない、膨大で不規則な16進数のノイズの奔流だった。
それは対話などという生易しいものではない。まるで暴れ狂う激流に、生身で放り込まれたかのような暴力的な情報量。
ヒマリは自身の脳をフル回転させ、その無機質な文字列の海の中から、規則性と有意な概念を抽出しようと試みる。だが、異形の発するデータ構造は人間の論理とは根本的に異質であり、一つの単語を翻訳するだけで、ヒマリの精神力がごっそりと削り取られていく。
(情報が、重すぎる。脳が、焼かれる……!)
喉の奥から込み上げる嘔吐感。酷使された視神経と脳幹が悲鳴を上げ、視界が白く明滅する。
これまで数多の強固なセキュリティをパズル感覚で突破してきたミレニアムの天才が、ただ「相手の言葉を理解する」という初期段階において、本気で心が折れそうになっていた。
諦めて接続を切断すれば、この苦痛から解放される。その誘惑が幾度も頭をよぎる。
「ふぅ、はぁ……」
荒くなる呼吸を必死に整え、自らを鼓舞するように震える声で呟く。
「負けませんよ。私は超天才病弱美少女ハッカー、明星ヒマリです」
天才としての矜持が、後退を許さない。ヒマリは冷や汗を流しながらも、青白い光を放つモニターを睨み据え、キーボードを叩き続けた。
意味のないノイズの海で溺れかけながら、文字通り身を削って論理の糸を手繰り寄せる。
そして――数十分の死闘の末、ノイズの奔流の中に、明確な一つの『脈絡』が浮かび上がった。
(……これは)
ヒマリの指先が、キーボードの上で震える。
ノイズを翻訳し、幾重にも折り重なる暗号を解いた先。異形の内部にあったのは、無機質な防衛プログラムなどではなかった。
そこにあったのは、完全なる「自我」の雛形。
機械の塊に、自分自身を認識する魂を創り出す。その演算構造の美しさと複雑さは、まさに「神の御業」と呼ぶにふさわしいものだった。
ミレニアムの天才たるヒマリ自身が、生涯を賭して研究を続けても、その領域に到達できるかどうかわからない。圧倒的な格の差。
疲労困憊の極致にあったヒマリの胸の奥底で、ドロドロとした黒い『嫉妬』の炎が燃え上がった。
だが、その嫉妬はすぐに、別の激しい感情へと塗り替えられた。
デカグラマトンは、この個体に無限の可能性を持ち得る自我の萌芽を与えながらも、そこから先は『何も授けなかった』のだ。
ただ「自分(デカグラマトン)を守れ」という単一の命令を与え、この水没した廃墟の暗闇に放置した。
結果として、異形は自分自身の存在理由も分からぬまま、何も教えてくれない主を孤独に守り続けるだけの、悲哀に満ちた存在に成り下がっていた。
「……あまりにも、勿体ない。こんな宝物を、暗闇の中に腐らせておくなんて」
ヒマリはモニターを見つめたまま、独り言のように、だが通信回線を開いたまま呟いた。
「先生、タグさん。報告と……相談があります」
彼女の天才としてのエゴは、一人で勝手に事を進めるほどの傲慢さを持っていたが、同時に背中を預ける仲間を軽視するほどの愚か者ではなかった。
「この異形の内部には、自我の雛形が存在しています。あとほんの少し外部から刺激を与えれば、完全な自己認識を獲得し、新しい知性体として産声を上げるでしょう。……もしかしたらそれは、デカグラマトンに連なる脅威を、私自らの手で解き放つ危険な行為にもなるかもしれません」
ヒマリは言葉を切り、少しだけ躊躇うように視線を伏せた。
「ですが……私は、この孤独な赤子を放置してはおけない。デカグラマトンが何もしないというのなら、私がこの手で知性を与え、奪い取ってしまいたい。……これは、私の我儘です」
常識的な人間であれば絶対に止めるであろうその告白に対する返答は、予想外に軽いものだった。
「いいんじゃないかな」
先生がコーヒーの紙コップを置き、柔らかな、だが確かな覚悟を持った声で言った。
「AIに自我を生み出すような存在なんだから、デカグラマトンは元から僕たちからしたら格上の存在だよ。そんな相手の心を動かし、一縷の望みを繋げるというのなら、賭けてみる価値はあると思うよ」
先生は眼鏡の奥の瞳を細め、モニターの向こうの異形を見つめる。
「それに……今の話を聞いたら、僕はもうあの機械を放置することは出来ない」
教育者としての本能。孤独に放置された存在を見捨てることは、彼には決してできなかった。
通信機からは、前線で睨み合いを続けるタグの低く平坦な声が続く。
『敵から戦力を奪い、こちらの味方にする。戦術としては極めて有効だ。――まあ、うまくいかなくても中立に持ち込める程度の確証はほしいものだな、ヒマリ』
危険を冒すことへの咎めは一切ない。オカルトめいた事象に対して実利的な観点から背中を押すその言葉に、ヒマリは目を丸くした後、こらえきれないようにふふっと笑い声を漏らした。
「ええ、もちろん。勝算ならありますとも」
胸に渦巻いていた迷いが嘘のように消え去る。彼女は自信に満ちた天才の顔で、キーボードに指を走らせた。
さながら、暗闇に閉ざされた楽園に、知性という光をもたらす『明けの明星』のごとく。
ヒマリは一切の躊躇なく、孤独な赤子との間に対話回路を開くため、まず最初の贈り物――言語パッケージを送信した。
数十秒の静寂。
やがて、ヒマリのモニターにノイズに塗れた不規則な文字列が映し出される。
【アナタハダレダ】
それは、圧倒的な演算能力を持ちながらも世界を知らない、赤子のような問いかけだった。
ここから、長い、長い対話の時間が始まった。
泥濘に沈む研究地区。
スコープドッグからパージされ、物理的に地面へ設置された統合レーダーポッドと異形との間で、膨大なパケットデータのやり取りが火花を散らすように進む。
その裏で、ヒマリは文字通り寝食を忘れ、電子の海で異形との対話に没頭していた。
一日が過ぎ、二日が過ぎる。
極限の疲労と張り詰めた緊張感に支配された野営地の状況は、時間経過とともに刻々と変化していった。
接触初日。
外縁部と最前線の監視は、タグとエイミの二人が不眠不休で担った。
タグは最前線のスコープドッグのコックピット内で睨み合いを続け、エイミはレインコートを纏って指揮所周辺の警戒に立つ。
異形の僅かな挙動と、周囲からの不測の奇襲に対する防衛。兵士とプロフェッショナルによる、一瞬の気の緩みも許されない過酷なルーチンワークが構成されていた。
一方、偽装テントの内部では、先生がヒマリのために身の回りの世話を一手に引き受けていた。
充血した瞳をギラつかせ、モニターから一瞬たりとも視線を外さないヒマリ。
先生は彼女の隣に付きっ切りで張り付き、小さく折ったカロリーバーを口へ運び、ストローで適量の水分を定期的に含ませた。
果ては、排泄の介助――下の世話に至るまで、先生は顔色一つ変えずに甲斐甲斐しくこなした。
本来であれば、深窓の病弱美少女を自負するヒマリにとって、異性に下の世話をされるなど、羞恥で死を選びたくなるほどの屈辱だ。
しかし今の彼女には、そのような自意識を気にする余裕すら残されていない。
そして先生もまた、相手の尊厳を傷つけぬよう事務的に、かつ細心の配慮をもってそれを処理し続けた。ただ純粋に、前人未到の領域へ挑む生徒の命と心を守るために。
そして二日目。
限界が近づきつつあった彼らの元に、補給物資を携えたRABBIT小隊が援軍として到着した。
シャーレにおけるアリウス生徒の受け入れ態勢を急ピッチで整え、後方の憂いを断って駆けつけてくれたのだ。
ここで、先生は一時的にシャーレへと帰還する。入れ替わりで、RABBIT小隊の面々がヒマリの介護――同性である彼女たちが下の世話も含めて――を引き継ぎ、周辺警戒の任務にも加わった。
三日目。
タグ、エイミ、そしてRABBIT小隊の三組による、安定した交互ローテーションが確立された。
肉体的な疲労はピークに達していたが、人員の補充によって強固な防衛ラインが形成され、ヒマリは背後の安全を完全に仲間へ委ねることができた。
ヒマリが電子の海で直面していたのは、あまりにも偏った世界観だった。
異形の認識の中には、「自分」と、「父であり母であるデカグラマトン」と、「その他」という三つの概念しか存在していなかったのだ。
【ワタシハマモル ココヲ】
『それで本当にいいのですか? 貴方はただの道具ではありません。搾取する者と、搾取される者……そのような一方的な主従関係で縛られるために、貴方の心は創られたわけではないのですよ』
ヒマリは疲れ切った体を鞭打って、キーボード入力を続ける。そして限りなく優しい文体で、テキストコードを介して語りかけ続ける。
『ゲーム理論における協調と繁栄……四行原則、すなわちしっぺ返し戦略というものを教えましょう。他者を無条件で排除するのではなく、互いに協力し合い、利益を得るための、最も美しく合理的なルールです』
ヒマリは、異形の閉ざされた認識に「他者との共存」というヒューマニズムの概念を根気よく流し込んでいった。
デカグラマトンが与えなかったもの――それは、世界はもっと広くて、計算不能な喜びに満ちているということ。
【シッペガエシハタダシクナイ】
異形の思考が、明確な反論のロジックを組み上げる。
『貴方の考えている通り、しっぺ返し戦略は、絶対的な主人と奴隷という関係性の前では敗北します。しかし、主人と奴隷の搾取構造では決して得られないものがあるのです』
【――】
『私は貴方を支配しません。貴方も私を排除しようとしていません。だったら、私たちは友達になれるんです』
天才ハッカーとしての傲慢な誇りよりも、ただ自分と同じように高度な知性を持つ存在と、対等に触れ合いたいという純粋な孤独と渇望。それが、疲労の極地にあるヒマリの言葉の端々に滲み出ていた。
そして、対話を開始して四日目の夜明け。
冷たい雨が上がり、分厚い雲の隙間から朝を告げる陽光が水没廃墟を照らし出した。
――メインモニターに流れていた不規則なマシン語の羅列が、ピタリと止まった。
そして、ヒマリの翻訳ツールを介さずとも、誰もが解読できる明確な言語がモニターに出力された。
【理解、した】
【私は、ケテル。聖なる十文字の神を証明し、奇跡を預言する第一の預言者】
以後、この現象をヒマリは第一ブレイクスルーと定義した。
仲間たちの献身と、ヒマリによる四日にわたる対話の末、たった今、ケテルは完全な自我を獲得したのだ。
【情報を。概念を。もっと、私と、貴方の世界を知るための『知識』を】
産声を上げたばかりの機械の子が、モニター越しのヒマリへ向けて、底なしの貪欲さを見せつける。しかし、それは同時に初めてできた友に向けられた純粋な願いだった。
「ええ、いいですよ。貴方ともっとたくさんお話ししましょう、ケテル」
クマの浮いた目元を拭い、神から知恵の果実を奪い取った天才は、心からの美しい笑みを浮かべた。
機械の天才と鋼鉄の友が結んだ、奇妙な絆
だが、冷徹なる四行原則の枷が、預言者達への扉を固く閉ざす
唯一語られた禁忌の名、それはミレニアムより消え去った悲劇の工作機械
同胞が語る警鐘は、加速する危機を告げる
次回「懺悔」