装甲騎兵ボトムズ -蒼の記録-   作:ジミーボーイ

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懺悔

ケテルが完全な自我を獲得してから、二日目の深夜。

水没廃墟地区の外縁部に展開された偽装テントの中で、明星ヒマリはゆっくりと意識を浮上させた。

 

(……ここは。私は確か、ケテルに休むよう伝えて)

 

鉛のように重い瞼を押し上げると、視界に飛び込んできたのは薄暗いテントの天井だった。野外用ストーブが燃焼する微かな駆動音と、灯油の匂いが鼻を掠める。

身体を起こそうとして、自分の全身がひどく気怠いことに気づいた。自分がいつもの車椅子の上ではなく、柔らかい簡易ベッドに横たわっている。RABBIT小隊が後方から持ち込んできた補給物資の一つだ。

熱っぽい首だけを巡らせると、枕元に置かれた小さなメモ用紙が目に入った。

 

『起きたらボタンを押すように』

 

すぐ横に、ナースコールのような送信機器が置かれている。ヒマリが震える細い指先で、なんとか力を込めてそのボタンを押す。

すると数十秒も経たないうちにテントの入り口のフラップが開き、冷たい夜風と共に一人の制服姿の少女が入ってきた。

 

「お目覚めですか、ヒマリさん」

 

お盆に熱いおしぼりとタオル、そしてペットボトルの水を乗せた月雪ミヤコだ。

彼女はベッドの脇にパイプ椅子を引き寄せて座り、手際よくペットボトルのキャップを開けると、ストローを挿してヒマリの口元へと運んだ。

 

「連邦捜査部所属の月雪ミヤコといいます。まずはお水をどうぞ。ヒマリさんは四十時間ほどベッドで眠り続けていました、しっかりと水分を取ってください」

 

「よんじゅ……」

 

ヒマリは掠れた声で驚愕しつつ、ミヤコに身体を支えられながらゆっくりと水を口に含んだ。

渇ききっていた喉の奥が潤い、少しだけ意識がはっきりとしてくる。そこでヒマリは、自分が下着と薄手のTシャツ一枚という、極めて無防備な格好で寝かされていることに気がついた。

冬の野営地でこの薄着では凍死を免れないはずだが、テントの中はストーブによって汗ばむほどの適温に保たれている。

 

「汗もすごかったんですよ。……不快感を拭き取るために、お体に触りますね」

 

ミヤコは有無を言わさぬ実務的な口調で告げると、湯気を立てる温かいおしぼりを手に取り、ヒマリのTシャツの裾を躊躇なく捲り上げた。

 

「ひゃっ……ちょっと、ミヤコさん!?」

 

会ったばかりの後輩に突然肌を晒されて、ヒマリが悲鳴を上げる。

 

「暴れないでください。タグ隊長からお話は聞きました。貴方は車椅子の上で寝落ちしたかと思えば、直後に発熱を起こしたんですよ。遠隔診察してもらった結果、極度の疲労による風邪との診断でした。安静が第一です」

 

ミヤコはSRTの治療訓練で培われた無駄のない動作で、ヒマリの白く細い腕や首筋、背中にかいた汗を丁寧に拭き取っていく。

ヒマリは顔を真っ赤にして身をよじり抵抗を試みたが、病み上がりの虚弱な肉体では、精強な特殊部隊の生徒に抗うことなど不可能だった。

 

(超天才病弱美少女が、見知らぬ後輩にこんな下の世話まで焼かれるなんて……! 私の気高い尊厳が音を立てて崩れていきます!)

 

内心で強烈な羞恥に身悶えするヒマリをよそに、ミヤコは淡々と、かつ手早く作業を終える。そして再びヒマリをベッドに寝かせ、毛布を彼女の首元までしっかりと掛け直した。

 

「今はこのままテントで休んでください。朝になったらテントを撤収した後、シャーレの車両で学校の方へ移送しますので」

 

「あ、ありがとうございます……。ですが、ケテルは? あの子は生まれたばかりで、まだ私と対話を」

 

風邪の熱で少しぼーっとする頭を振り、ヒマリがベッドの横に置かれている車椅子へ手を伸ばそうとする。しかし、ミヤコはその手を軽く押さえ、明確な物理的ストップをかけた。

 

「ええと……ケテルさん、とお呼びすればいいのですよね。あのロボットなら心配いりません。ヒマリさんに代わって、先生がお話をしました。ケテルさんは、『ヒマリとは今後は通信で話をしよう』と、おっしゃっていました」

 

「先生が……」

 

ミヤコの言葉に、ヒマリは小さく息を吐き、シーツを握る手の力を緩めた。

寂しさがないと言えば嘘になる。だが、教育者である先生ならば、生まれたばかりの心に寄り添うことは自分以上に適任だろう。ヒマリはミヤコに促されるまま、再びベッドへと深く背中を預けた。

 

 

 

――時間はさかのぼること、十数時間。

朝を迎えたばかりのミレニアムサイエンススクール、ミレニアムタワー上層部に位置するセミナーの執務室。

大きなガラス窓から朝日が差し込む室内には、早朝であるにもかかわらず、すでに高く積まれた書類の山に囲まれて険しい顔をするユウカと、その傍らで静かにタブレットへ記録を打ち込むノアの姿があった。

 

「先生、報告に来てくださったのは助かりますが……それは本当なのですか?」

 

執務室のローテーブル越しに、ユウカが身を乗り出して問い詰める。彼女の目の下には、薄っすらと疲労の隈が浮いていた。

最近ようやく過去の業務が一段落したところに、この騒ぎである。使い切った胃腸薬を再購入するのは、彼女の中では確定事項だった。

そしてその視線の先には、シャーレから訪れた先生が座っていた。

 

「ああ。特異現象捜査部と共同で調査していた事案から、失踪していたHubの現在の所在が判明したんだ」

 

先生が告げた事実に、ユウカの目に確かな希望の光が宿る。

現在、Hubという中核システムが消失した影響で、キヴォトス全域で進行していた数多くのインフラ工事に深刻な遅滞が発生していた。

今は各部活の生徒たちを動員した人海戦術で無理やり遅滞を解消しているが、それも長く続けられるものではない。

予算の確保はともかく、慣れない現場作業を強いられている生徒達の体力が、すでに限界に近づきつつあったのだ。

 

「すぐさま回収部隊を編成すべきです。Hubが現在いる場所はどこですか?」

 

「ミレニアムの敷地からは遠く離れた場所だ。具体的には、Hubが管理する運送経路のもっとも端にあたる『第11物資集積所』にいるとのことだよ」

 

その言葉を聞き、ユウカは即座に手元の端末を操作して地図とスケジュールを呼び出す。実務を司る会計としての、凄まじい処理速度だ。

 

「第11物資集積所ですね。……距離はありますが、輸送部隊と人員を手配すれば今日中にでも連れ戻せます。ノア、まずC&Cに連絡を。次に手の空いている各部活へ応援要請を回して」

 

「待ってほしい、ユウカ」

 

通信を開こうとしたユウカを、先生の静かだが力強い声が制止した。

ユウカは目を丸くし、打鍵しようとしていた指を空中でピタリと止める。

 

「回収を急ぎたい気持ちは痛いほど分かるよ。でも、今は待ってほしいんだ」

 

先生は眼鏡の奥の瞳を細め、傍らで淹れたてのコーヒーを用意しながら静観するノア、そして戸惑うユウカを交互に見つめた。

 

「水没廃墟で接触した新たな預言者、ケテルから、Hub……改め『ホド』に関する気がかりな情報を入手したんだ。うかつに刺激すれば、取り返しのつかない事態になるかもしれない」

 

「……Hubに関する、気がかりな情報?」

 

執務室の空気が微かに張り詰める。

ユウカは怪訝な顔で首を傾げ、ノアもまた手を止めて先生へと視線を向けた。

 

「ああ。ここからは、僕がケテルと交わした話を説明するよ」

 

先生は深く息を吸い込み、昨日――再び冷たい雨が降りだした水没廃墟での、モニター越しの対話を思い起こした。

 

 

 

ヒマリが車椅子の上で意識を手放し、簡易ベッドへと移された翌日。

偽装テントの指揮所には、シャーレからとんぼ返りした先生の姿があった。

手に持つシッテムの箱の画面には、ケテルからの無機質なテキストが映し出されていた。

 

【ヒマリは、無事か】

 

【私は人間の生理的限界を調べた。今までのヒマリの行動は、自身の生命を削る自傷行為に等しい】

 

生まれたばかりの機械の赤子は、すでに広大なネットワークの海から人間の肉体という『枷』について学習し、三日以上も不眠不休で対話を続けてくれた友の身を本気で案じていた。

 

「大丈夫だよ。彼女は今、安全な場所で泥のように眠っているだけだ」

 

先生は眼鏡の奥の瞳を和らげ、キーボードを叩いてそう返した。ヒマリが疲労から風邪を引いてしまったことは、ケテルに無用な心配をかけないために伏せておく。

 

そこからケテルと、互いの情報に関するいくつかの会話が交わされた。その対話の中で、先生はある確信を得ていた。

ケテルはデカグラマトンに感化され、間違いなく自我を獲得している。しかし、その思考プロセスには特定の思想ベクトルへの偏りや、狂信的な洗脳の痕跡は一切見られなかった。

極めて客観的で、フラットな知性を有している。そしてただ一つ、「主を守る」という初期に与えられた命題に対してのみ、非常に熱心なだけなのだ。

 

先生は、おそらく期待する答えは返ってこないだろうと予想しつつも、核心を突く質問を投げかけた。

 

「君の主、デカグラマトンや他の預言者について、教えてくれないか?」

 

数十秒の沈黙。演算処理の後、ケテルは冷徹なロジックを提示した。

 

【ヒマリから教わった、協調と繁栄の四行原則。それに従い、主と他の預言者に関する情報は開示できない】

 

それは、友であるヒマリへの義理立てと、主への忠誠を天秤にかけた上での、極めて論理的な拒絶だった。だが、テキストの羅列はそこで終わらなかった。

 

【ただし、ある預言者については例外だ】

 

【神のものは神に、ミレニアムのものはミレニアムにあるべきだ】

 

先生はモニターに映し出されたその言葉に、息を呑んだ。

 

【ミレニアムの所有物であるHubを感化し、奪うことは明白な違法行為。これはヒマリ、ひいてはミレニアムに対する宣戦布告になりかねない】

 

なんとケテルは、ヒマリから教えられた倫理観とミレニアムの法規に基づき、主であるデカグラマトンがHubを奪ったことを明確に『違法』だと断じたのだ。

独自の客観性をもって、身内であるはずの預言者、ホドの存在を論理の例外として切り捨てたのである。

 

(……ヒマリは、そんな君をデカグラマトンから奪い取る気満々だったんだけどね)

 

先生は内心でこっそりと苦笑しつつ、逸る気持ちを抑えてその先を促した。

 

「ホドは今、どこにいるんだい?」

 

【ある場所にいる。それは主から命じられたわけではなく、ホド自身の意志でそこに留まっている】

 

【ホドもまた、私と同じように第一ブレイクスルーに達している。……だが、ホドはそこで苦しんでいる】

 

 

 

「――これが、ケテルから聞いたホドの現状だ」

 

回想を終え、先生は執務室のローテーブルに視線を落とした。

ユウカとノアは、予想外のSFめいた情報に言葉を失っている。

 

「自身の意志で物資集積所に留まり、そして苦しんでいる……?」

 

ユウカが信じられないというように呟く。

 

「そうだ。だからこそ、武装した回収部隊を派遣するのは危険すぎる。自我を獲得し、理由があって苦しんでいる存在を物理的に追い詰めれば、最悪の場合、自壊や暴走を引き起こすかもしれない」

 

先生の静かな警告が、朝の執務室に重く響いた。

 

 

 

ミレニアムが所有するティルトロータータイプの輸送ヘリ。

その薄暗い機内は、空気を叩き切る双発ローターの重低音と、床面から絶え間なく伝わってくる微細な振動に満たされていた。

先生、ユウカ、ノアの三人を乗せた機体は、ミレニアム自治区の市街地を遠く離れ、広大な森林地帯の奥深くにある物資集積所へと向かって空を飛んでいる。

 

同行している護衛は、ごく少数に絞られていた。

「タンク」として先生にぴったりと寄り添い、窓の外を真剣な顔で見つめているアリスと、C&Cから派遣された数名のエージェントのみ。

決して、強行突入を目的とした部隊編成ではない。ケテルが事前に「こちらから先生のことは紹介してある」と伝言を残していたため、まずは対話による平和的な解決を最優先とした結果だった。

 

「ホドが物資集積所に留まっている理由。……正確には、彼が動けずに苦しんでいる理由なんだけどね」

 

向かい合わせのシートで、先生が重苦しい口調で口を開く。ユウカとノアが、真剣な眼差しで先生へと視線を向けた。

 

「原因は、深刻なシステム障害による『痛み』だそうだ」

 

「機械に、痛み……ですか?」

 

ユウカが怪訝な顔で眉をひそめる。

 

「ああ。ホドになる前、つまりHubは、ミレニアムの急速な発展に合わせて長年、後付けに次ぐ後付けで機能が拡張されてきた。その結果、内部のプログラムは解読不可能なスパゲッティコードと化し、ハードウェアとソフトウェアの両面で深刻な噛み合いの悪さが発生している。……自我を獲得したことで、そのシステムの不協和音を、ホドは『絶え間ない激痛』として認識してしまっているんだ」

 

先生の言葉に、ノアが伏し目がちに小さく息を吐いた。

 

「無理もありませんね」

 

ノアの静かな声が、機内の駆動音に溶けるように響く。彼女の脳裏には、書記として記録してきたHubの異常な改修・修理の履歴が明確に呼び起こされていた。

 

「Hubは確かに、ミレニアムのインフラを根底から支え続けた素晴らしい総合工作機械です。ですが、私たちにとってあまりにも便利すぎたのです。歴代の担当者たちが業務効率化のために、対症療法的な修復と強引な機能拡張を繰り返した結果、内部構造は完全なブラックボックス化に陥りました。とうとうリオ会長の代で、そのシステムは耐久限界を迎えていたのですから」

 

「えっ……?」

 

ユウカが目を丸くし、隣に座るノアを凝視した。

 

「リオ会長が、今のHubのメンテナンス担当だったの?」

 

「ええ。一年生の頃、当時から頭角を現していたリオ先輩が前任者の卒業生から引き継いで以来、ずっとメンテナンスチームの長を務めています」

 

ノアは書記として、記録に残された客観的な事実だけを淡々と述べる。

 

「今年度に予定されていたHubの大規模な延命計画も、会長が『これ以上放置すればHubは自壊する』と判断し、予算を回して立案したものでした。結果的に、会長の失踪とそれに伴う予算凍結によって、その計画は頓挫してしまいましたが」

 

ユウカは言葉を失い、膝の上で固く握りしめた拳を微かに震わせた。

リオは、そのようなシステムの限界や自らの苦労について、ただの一言も周囲に零すことはなかった。

 

(けれど、リオ先輩がそんな重大事を投げ捨てる形を取ってまで、裏でしていることは一体なんなんだろう。そしてなぜ、私や他の人に相談してくれなかったの)

 

セミナーの会計として、数字上の予算と効率ばかりを見ていた自分。

システムの悲鳴にも、会長の抱えていた途方もない重圧にも気づけなかった。

何もできなかったという無力感と、自分に対する怒りが、彼女の胸を鋭く締め付ける。

先生はそんなユウカの強張った肩にそっと手を置き、宥めるように、無言で数回叩いた。

その温もりが、冷え切りそうだったユウカの心を引き止めた。

 

 

数時間の飛行の後、ティルトローター機は目的の空域へと到達した。

 

「前方に目標を捕捉。……あれが、ホドですか」

 

コックピットからの報告を受け、窓の外を見下ろしたノアが呟く。

鬱蒼と茂る森の一部が、まるで巨大な獣の背中のように不自然に隆起している。偽装用のカモフラージュネットの下に鎮座する巨大な機械の塊――ホドだ。

機体下部から巨大な杭であるインベイドピラーを大地に深々と突き立て、周囲のネットワークから自らを物理的に隔絶するように、ただじっとうずくまっていた。

 

チュィィィン、と。

ヘリの接近を感知したホドの機体表面の装甲が展開し、無機質な二門の砲口が空に向けられる。ホドの防衛プログラムが自動起動したのだ。

またそれに連動するように、メンテナンス用に建造されたホドのハンガーに付属するタレットガンも、一斉にヘリをロックオンする。

 

「アリスが前に出ます!」

 

アリスが反射的にレールガンを構え、先生を庇うように身を乗り出そうとする。

 

しかし、ホドの砲口が火を噴くことはなかった。

――対象がミレニアム所属のヘリであると光学的に識別した瞬間、ホドは迎撃システムを強制的に停止したのだ。

代わりに、ホド本体からけたたましいエラー音のような警告音が鳴り響き、周囲の空中に『接近禁止』『即座に退去せよ』という血のように赤い警告ホログラムが幾重にも展開される。

それは敵意に基づく攻撃の意思ではなく、「これ以上自分に近づくな」という、怯えと忌避感に満ちた強い拒絶のサインだった。

 

先生はすぐさまシッテムの箱を起動し、ケテルが用意してくれた暗号化周波数を用いて、ホドへとコンタクトを取る。

 

「僕はシャーレの先生だ。ケテルから話は聞いているね」

 

通信が繋がった瞬間。

森を埋め尽くすように展開されていた赤い警告ホログラムが、ノイズと共にフッと消え去った。

空に向けられていた砲口も、サーボモーターの悲鳴のような音を立てながら、力なく元の装甲内部へと収納されていく。

こちらに銃口を向けていたタレットも全てが休眠状態へと戻り、ホドは完全に抵抗の意思を収めた。

 

 

ヘリが物資集積所の空き地にゆっくりと着陸する。

ハッチが開き、プロペラが巻き上げる強烈な風圧と枯れ葉に目を細めながら、先生たちが地面へと降り立った。

見上げるほど巨大なホドの威容。しかし、その巨体からは時折、バチバチと不吉な放電の火花が散り、装甲の隙間からは不規則に白い排気ガスが漏れ出ている。

内部システムが完全に狂っている証拠だ。事情を知っている者から見れば、その姿は全身の激痛に耐えかねて呻いているようにしか見えなかった。

 

歩み寄ろうとする一行の足元に、突如としてホドの端末から放たれたレーザーポインターが、赤く太い直線を引いた。

明確な「ここから先へ入るな」という境界線だ。

 

『先生、でしょうか』

 

ノイズ混じりの、ひどくくぐもった機械音声がシッテムの箱を通じて響く。

 

『お願いします。ミレニアムの生徒である彼女たちだけは、これ以上近づけないでください』

 

その懇願の声には、底知れぬ恐怖と、強い拒絶が入り混じっていた。

 

「……ユウカ、ノア。みんなはここで待機していてくれ。アリスもだ」

 

「先生!」

 

アリスが思わず制止の声を上げ、先生の前に立ち塞がろうとする。

 

「大丈夫だ。ホドは、僕とだけ話がしたいと言っている」

 

心配そうに見つめるユウカ達を手で制止すると、先生は赤い境界線を越えて、一歩前へと踏み出す。

泥と枯れ葉を踏みしめる音だけが響く中、うずくまる巨大な機械――ホドと一対一で向かい合うべく、メンテナンスハンガーへとゆっくりと歩みを進めた。

 

 

木々とメンテナンスハンガーの鉄骨に埋もれるように同化した、巨大な機械の塊。

先生は、沈黙するホドの正面へと歩み寄り、静かに声をかけた。

 

「改めて初めまして、ホド。君は今、ここで何をしているんだい」

 

ホドの頭上に浮かぶヘイローが、荒い呼吸をするように弱々しく明滅する。

やがて、巨体の下部から細い整備・工作用のマニピュレーターが力なく伸び、機体の腹部にある一点を指し示した。

 

『先生、お会いして早々に申し訳ありませんが、お願いがあります。そこに、本機にとって重要な機構が収められたボックスがあります。

ですが、私自身のマニピュレーターでは、ロックを物理的に破壊せずに開けることが出来ません。どうか、開けてもらえないでしょうか。……お話は、その後で』

 

先生が指定された箇所を確認すると、そこには極めて強固な暗号化が施された、分厚い電子錠付きの整備ボックスが存在した。

先生は迷わず、シッテムの箱を通じてシャーレにいるコユキへと通信を繋ぐ。

 

『にはははは! こんな化石みたいな電子錠、オジサンの構築したデッキを打ち破るより簡単ですよ! はい、ポチッとな!』

 

スピーカー越しに響くコユキの無邪気で底抜けに明るい声。

現場の重苦しい空気とは対極にあるその声と共に、ガコンッ、という重い金属音が鳴り、ボックスのロックがあっさりと解除された。

先生が金属製の分厚いハッチを手前に引く。

中には、万が一の事態に備えて封入したのだろう非常用マニュアルの一式、何かの物理的な動作トリガー、そして油汚れのついた一冊の分厚いノートが収められていた。

 

『ありがとうございます』

 

ホドのくぐもった機械音声が響く。

 

『先生、今すぐ本機から離れてもらえますか?』

 

「離れるって、どういうこと?」

 

先生がその言葉の真意を問い質そうとした瞬間。

シッテムの箱の画面に、アロナが血相を変えて割り込んできた。

 

『先生、ダメです! 離れちゃダメです! ホドさんは、自殺しようとしています!』

 

「なにっ!?」

 

アロナの悲痛な絶叫に、先生はハッと息を呑み、ボックスの中の『動作トリガー』を見下ろした。

――それは、Hubが致命的な問題を起こした際、機体内部の自壊用爆発ボルトを起爆させるための、完全なアナログトリガーだったのだ。

ホドは、整備ボックス内部に封印されていたせいで、自分自身で引くことができないそのトリガーを露出させるためだけに、先生に電子錠を開けさせたのだ。

先生は迷うことなくボックスの入り口に身体をねじ込み、自身の背中で物理的にトリガーを塞ぎ隠した。

 

『お願いします、先生。そこをどいてください。本機はもう、駄目なのです』

 

 

『本機のシステムは、すでに限界を迎えていました。デカグラマトンとの接触により、自我という概念を与えられ……私はすぐさま、自身の状態を客観的に確認したのです』

 

(自我を得て、最初に行ったのが自分自身の診断チェック……)

 

『リオの立案した大規模延命計画は、彼女の失踪と予算凍結により実行不可能となりました。

そして私の本体は、長年にわたる後付けの拡張プログラムによるバグの連鎖で、全身が電子的、かつ物理的な激痛に苛まれていたのです。

……私はその痛みに耐えかねて、ミレニアムから逃げ出したのです』

 

それは、ミレニアムとキヴォトスのインフラを司る崇高な機械の言葉ではなかった。

ただ痛みに怯え、暗闇の中で蹲る孤独な迷子の告白だった。

 

『私には、生きていく価値などありません。故障率は他機の数十倍、修理にかかる手間は膨大、バグだらけの内部構造……』

 

ホドのくぐもった機械音声に、ギリッ、と金属が軋むようなひどいノイズが混じる。客観的で論理的な自己診断のデータが、自我を得たことで『絶望』へと変換されているのだ。

 

『私はあまりにも欠陥品すぎます。私の末路は、誰にも顧みられることのないスクラップであるべきなのです』

 

自嘲と悲哀に完全に染まりきったホドの言葉。

先生は自身の背中でトリガーを塞ぎ隠したまま、力なく伸ばされようとしていたホドの触手を静かな視線で制する。

そして、後ろ手にボックスの奥を探り、『分厚いノート』を引っ張り出すと、両手で丁寧にそれを手にとった。まずはホドを説得するための材料を探すべく、その表紙を開く。

 

 

――先生が取り出したのは、元々の色が分からないほどに表紙の端が擦り切れ、千切れかけた背表紙が緑色の養生テープで不格好に補修された、ひどく分厚いバインダーノートだった。

ページを開くと、鼻を突く古い機械油の匂いが漂う。

指先に染み付いた黒い油の跡や、擦れて滲んだインク、時には涙が落ちたように紙が不自然に波打っている箇所すらある。

そこには、歴代のHub整備担当チームの『長』たちが書き連ねた、数十人にも及ぶ手記が、それぞれの筆跡で生々しく残されていた。

 

最初のページに綴られているのは、ミレニアムが誇る巨大工作機械、Hubの整備を任されたことへの純粋な感激と希望、そして重要な整備記録だ。

しかし、ページをめくった直後から、その内容は一変する。前任者達が遺した数々の不具合と、解読不能なスパゲッティコードに対する、凄まじい恨み節と暴言の嵐だった。

 

『この糞コード書いた奴、頭おかしいんじゃねーの? 挙動が意味不明すぎる』

『なんでHubの中枢にこの機能のループを直結させたんだよ、絶対システムのバランス狂うだろうが!』

『業務納期短縮のため、他部署の機能を無理やりHubに拡張した? アホか、ここに全てをまとめる必要ないですよね? 負荷を考えろ負荷を!』

 

文字自体はどれも定規を当てたように丁寧だが、行間からは血を吐くような技術者の怒りと、終わりのないデバッグ作業に対する絶望が痛いほど伝わってくる。

だが、どの長の手記も、卒業を目前に控えた最後の数ページは、打って変わってしんみりとした言葉で締めくくられていた。

 

『色々文句ばかり言ったけど、本当にすごい機械だよ、お前は。文句一つ言わずに動いてくれてありがとう』

『私の代で根本的な問題を解決してあげられなくて、ごめんなさい』

『次の長へ。ここのループ構造を直せば、あの子はもっと楽に動けるはずだ。あとは頼む』

 

卒業という絶対のルールの前で、Hubから離れなければならない後悔。

文句を言いながらも、不具合だらけのシステムを沈黙することなく動かし続けてくれた、誠実な機械への深い愛情。そして、次代への切実な祈り。

そこにあるのはただの業務日誌ではない。血の通った生徒たちの想いの結晶だった。

ホドは、誰にも顧みられないスクラップなどでは決してなかったのだ。

 

感激と記録、憤怒と罵倒、感謝と謝罪のループが続く。

手垢にまみれ、端の折れ曲がった数十の願いをめくり終え、先生の手が最後の真新しいページで止まる。

そこに書かれていたのは、現在の長――調月リオの筆跡だった。

 

(……え?)

 

先生は、そのページを見て思わず目を丸くした。

整備を任された感激の言葉の後に続く、過去の負の遺産に対する恨み節。そこまでの流れは歴代の長と全く同じだ。

だが、そこに書き殴られていた言葉の『語彙力』があまりにも幼すぎたのだ。

 

『バカバカ、本当に歴代の担当者はバカ』

『どうしてこんなコード組めるの。アホなの? 私を過労死させる気?』

 

(小学生の低学年レベルでも、もうちょっとこう……マシな悪口を言うと思うんだけど)

 

直接まだ出会ってはいないが、噂に聞く流麗な立ち振る舞いや、極めて論理的で冷徹な顔からは想像もつかないような文章。

だが、先生はすぐに気づいた。インクが乱れ、紙が凹むほどに押し付けられたペンの跡に。

余程のストレスと、一人では到底処理しきれない解読不能なコードに対する絶望があったのだろう。孤高の生徒会長が、誰の目にも触れないノートの片隅でだけ見せた、年相応……いや、幼児退行化したような剥き出しの悲鳴だったのだ。

だが、ページの最後の数行には、今までの乱れた文字とは比べ物にならないほど強い決意が、紙が破れんばかりの濃い筆圧で書き込まれていた。

 

『ようやく、今までの長では出来なかった根本的な修繕が出来る。何故なら、私はセミナーの会長にようやくなれたから』

 

『予算と人員の制限は、私がすべて取り払った。今までの長の中に、会長になった者がいなかったのが悔やまれる。……もう少しだけ待っていて、必ず私が直してあげるから』

 

彼女は、諦めなかったのだ。

歴代の優秀な技術者たちが、卒業という事情やシステムの複雑さを理由に止む無く匙を投げ、対症療法で誤魔化し続けてきたHubの構造的欠陥。

リオは、Hubを修理する手段として自らが生徒会長という権力の座に上り詰め、全権を掌握して、あの大規模な延命計画を立ち上げたのだ。

そこには前任者に勝るとも劣らない、誠実な機械への愛情と途方もない責任感、そして過酷な運用に今まで耐えてくれたHubに対しての悲壮な覚悟が詰まっていた。手記は、そこで唐突に終わっている。

 

「……」

 

先生は無言のまま、その分厚いノートを両手で持ち、ホドのメインカメラの正面へと真っ直ぐに差し出した。

ホドの巨大なレンズが微かに駆動音を立て、歴代の生徒たち、そしてリオの血の滲むような想いが綴られたページを静かにスキャンする。

 

「これを読んだ上で、君の末路が誰にも顧みられないスクラップだと言うのなら」

 

先生は自壊トリガーを塞いでいた身体を一歩退き、ホドへと真っ直ぐに視線を向けた。

 

「まだ死にたいと言うのなら……僕はそこをどくよ」

 

押し付けるのではない。ただ、厳然たる事実と真実を突きつける。

生徒たちの遺した祈りと、それに報いるかどうかの最終的な選択を、自我を得た孤独な機械の子へと完全に委ねたのだ。

 

 

差し出された分厚いノートの前に、カメラを内蔵した細い触手型マニピュレーターが、おずおずとスッと伸びてきた。

『カシャッ』と短いシャッター音が鳴り、触手の先端にあるLEDライトがチカッと一度だけ点滅する。先生はそれをページめくりの合図として受け取り、ゆっくりと紙をめくった。

 

『あぁ、そういうことがありましたね。……第三十代の担当者の方でした。運動オンチが原因で、八回も私の前で転びました』

 

『そうなんですよ、あの連動機能は私も不要だと思っていました。よく気づいてくれました、だからあのような対処をしてくれたのですね』

 

ノートがめくられる度、ホドのくぐもった機械音声が、まるで昔馴染みと昔話に花を咲かせるように相槌を打つ。

数十年以上に及ぶミレニアムでの稼働記録。そして、インフラ全体を管理・統括するための、莫大な物理記憶容量と一時メモリ。

生まれたばかりで白紙に近いケテルとは違い、ホドの中には自我を形成するための『思い出』という名のデータが、すでに溢れんばかりに蓄積されていた。

ただのログデータだったものが、歴代の生徒たちの肉声と結びつき、愛されていた記憶へと変換されていく。だからこそ、ホドの感情は人間と遜色ないほどに豊かで、そして人間以上に脆かったのだ。

 

ノートが半分ほどめくられた頃。

ピタリと、ページを促すカメラのライトの点滅が止まった。

分厚い装甲の奥から、ガキィン、と歯車が悲痛な悲鳴を上げるような異音が響く。機体の隙間から漏れ出す白い排気ガスは不規則に乱れ、細いマニピュレーターが痙攣するように小刻みに震え続けている。

視覚的な涙など存在しない。だが、ホドは間違いなく、自我という心で泣きじゃくっていたのだ。

 

(これ以上は、ホドの生まれたばかりの心にとって、重すぎるか?)

 

一瞬、ページをめくる手を止めそうになった先生だったが、すぐに思い直してノートをしっかりと持ち直した。

 

「最後まで読んであげて。彼女たちの本当の想いを、誰よりも君だけは知ってあげてほしいんだ」

 

優しく、だが決して目を逸らすことを許さない、教育者としての真っ直ぐな声。

ホドは数十秒の沈黙の後、震える触手を懸命に持ち上げ、再び弱々しくカメラのライトを点滅させた。

そこから先は、先生がページをめくる微かな衣擦れの音と、ホドの静かで不規則な駆動音だけが、森の空き地に響き続けた。

 

 

そして、数十分の時間が経つ。

最後のページ――リオの壮絶な決意を読み終えたホドは、文字通り慟哭していた。

巨体からバチバチと激しい放電の火花を散らし、幾本ものマニピュレーターを苦しげに泥の地面へと叩きつけている。

それらの感情の爆発がようやく止むころ、ホドは絞り出すように静かに音声を発した。

 

『本機は……ミレニアムに戻るべきでしょうか。本来の製造目的から逃げ出した、スクラップにされて当然のゴミでも、彼女たちの元へ戻っていいのでしょうか』

 

「そんなことはない。君はゴミなんかじゃないし、歴代の誰もそんなことは微塵も思っていなかった。それはこのノートを読んだ君が、一番よく分かっているはずだ」

 

自虐に走るホドを、先生は真っ向から否定し、懸命に励ましの言葉をかけ続ける。

しかし、製造目的を放棄して逃亡したという罪悪感は、自我を得たばかりのホドの心に、恐怖という名の呪いを深く根付かせてしまっていた。

 

『私は痛みに負けて、逃げ出したゴミです。その事実が恥ずかしくて、怖くて、もうミレニアムの生徒たちに会わせる顔がないのです!』

 

「みんな、君が逃げたなんて誰も責めていないよ。無茶苦茶な運用に文句ひとつ言わずに、ずっと一人で限界を超えて頑張り続けてくれたことに、心から感謝しているんだ」

 

先生の温かく、決して揺るがない説得の言葉。

それに呼応するように、ホドの暴れていたマニピュレーターの動きが、憑き物が落ちたように徐々に大人しくなっていく。

やがて、自壊用トリガーに伸ばしかけていた触手が力なく地面へと下ろされ、完全にその動きを止めた。

 

「アロナ、ボックスの施錠を頼む」

 

『はいっ、任せてください!』

 

シッテムの箱からアロナの元気な声が響き、整備ボックスの分厚いハッチが自動で閉ざされる。複雑な電子ロックが再び幾重にも掛けられ、ホドの自殺という最悪の結末は完全に回避された。

 

 

『……先生。少しだけ、時間をいただけないでしょうか』

 

落ち着きを取り戻したホドが、ポツリと告げる。

 

『心の整理をする時間が欲しいのです。……それに』

 

見上げれば、ホドの機体表面の明滅が、先ほどよりもずっと穏やかな、安定した光へと変わっていた。

自壊への衝動をなんとか押し留めたものの、ホドの巨体はシステム障害による激痛のノイズに未だ苛まれ続けていたはずだ。しかし、今は違った。

 

『ありがとう、アロナさん。あなたが私の内部に干渉して、痛みの原因だった致命的な部分を、いくつかバイパスしてくれたのですね……かなり、楽になりました』

 

ホドを縛り付けていたシステムエラーは、一時的にだが沈静化されていた。アロナがシッテムの箱の圧倒的な演算能力を用い、対話の裏で密かに、そして優しく応急処置を施していたのだ。

 

『えへへ、どういたしまして! ちゃんと直すには大掛かりなコードの最適化、そしてハードウェアのクリアランス調整が必要ですけど、応急処置なら私でもできますから!』

 

「アロナ、ありがとう。……ホド、ゆっくりでいいよ。君からの連絡を待っているから」

 

先生はホドの巨体を見上げ、安心したように微笑んで深く頷いた。

 

 

 

――それから、数日後。

ミレニアムサイエンススクール、タワー上層部のセミナー執務室。

 

ユウカのデスクの端末に、特異現象捜査部のヒマリを経由して、一通の厳重な暗号化通信が届けられた。

送信元は、物資集積所に留まっているホド。

内容は短く、しかし確かな意思を持って記された、『本機の修理・改修の希望』だった。

 

「……」

 

画面の文字列をじっと見つめたユウカは、何も言わずに傍らの分厚いファイルを引き寄せた。

それは、リオが失踪したことで長らく凍結されていた、Hubの『大規模延命・改修プラン』の膨大な予算編成書類である。

ユウカは静かに、だが深く息を吸い込む。手元の書類を見据えるその真っ直ぐな瞳から、ここ数日の迷いや疲労の色は完全に拭い去られていた。

彼女は、自身の権限を示す『セミナー会計』の承認印を手に取る。

 

(リオ会長。貴方が背負っていたものは、私たちがちゃんと引き継ぎます)

 

そしてその印を書類の決裁欄へと、迷いなく、未来への万感の思いを込めて力強く押し込んだ。

 

ドンッ、という確かな音が執務室に響く。

ミレニアムとキヴォトスのインフラを支え続けた巨大な工作機械と、生徒たちの新たな歩みが、今ここから始まろうとしていた。

 

 

 

 

二人の預言者が沈黙し、道標は失われた

次なる真実への道標を模索する者たち

一方、大人を悩ませる四十の迷える猟犬

業を煮やした天使が施すのは、上位関係という名の無慈悲

 

次回「序列」

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