装甲騎兵ボトムズ -蒼の記録-   作:ジミーボーイ

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序列

ミレニアムタワーの地下深くに位置する、特異現象捜査部のデータルーム。

以前は、預言者と化したホドの失踪によって通路の防衛システムが誤作動を起こし、立ち入ることさえ困難な陸の孤島と化していた。

しかし現在はホド――改めてHubがミレニアムへ帰還し、専用のハンガーに鎮座。

その結果、各種システムが正常化したことで、その危険性は完全に消滅している。

 

「コンコンッ、ごほん……っ」

 

静寂に包まれた部室に、くぐもった咳払いが響く。

車椅子に座るヒマリが、口元をハンカチで覆っていた。

野外調査の際、三日に及ぶ徹夜が原因で風邪に罹っていたのだ。

そんな彼女の体調を考慮して、データルーム内の空調は高めの温度に設定されている。

 

ガリッ、ボリッと硬質な音が響く。

 

ヒマリの横に立つエイミの出で立ちは、普段通りの半脱ぎのジャケット姿である。

彼女の手には氷がぎっしりと詰まった巨大な保温ジョッキが握られており、エイミはそこから氷の塊をつまみ出すと、まるでスナック菓子でも食べるかのように淡々と噛み砕いていた。

室温をヒマリに合わせる代わりの、彼女なりの合理的な体温調節なのだろう。

 

「おほん。……さて、エイミ。集まった情報の整理をしましょうか」

 

少し鼻声のヒマリが、車椅子のコンソールを操作する。

咳き込む姿は痛ましいが、その涼やかな瞳の奥には、未知の謎に挑む天才特有の強い光が宿っていた。

正面の巨大メインモニターに、幾何学的な図形――十個の円と、それらを繋ぐ線で構成された樹の図が映し出される。

 

「旧世紀のオカルトで『生命の樹』と呼ばれていたものです。……どうやらデカグラマトンは、自身の創り出した預言者たちに、わざわざこの法則を当てはめてナンバリングしているようですね」

 

「機械のくせに、わざわざオカルトの真似事って不思議な話だね」

 

モニターを見上げたエイミが、氷を飲み込んで淡々と感想を述べる。

効率を最優先するはずのAIが、神話やオカルトの法則に則って兵器群を名付ける。

それはエイミからすれば、文字通り理解不能な話である。

 

「ええ、ロマンティシズムを除けば無駄としか思えません。ですが、明確な法則がある以上、推測は容易になります。私たちが水没廃墟で接触したケテルは『第一の預言者』。そして、Hubは『第八の預言者』となります」

 

ヒマリの指が動き、図形の一番上の円と、下から三番目の円が赤く点灯した。

 

「つまり、預言者は最低でもあと六機存在しています。将来的には十機すべてが揃うよう計画されていると考えるのが妥当でしょう」

 

「まだ六機、敵対する可能性があるわけね。Hubの証言から、ヘイロー由来の耐久性は無いのが救いかな」

 

エイミは小さく息を吐き、ジョッキの中で氷をカラカラと揺らした。

 

「ただし、同時に一つの大きな謎も生まれました。Hub……いえ、この場合はホドと呼ぶべきでしょう。ホドの存在意義です」

 

ヒマリはモニターの図形を消し、今度はホドからの通信ログを表示させた。

 

「ホドはデカグラマトンによる感化によって第一ブレイクスルーを果たして自我を獲得、預言者と化しました。ですが、ホドはデカグラマトンの勢力に加わる理由は無いと断言しています」

 

ミレニアムに戻ったHubは、迎えにきたユウカ達にこう告げていた。

 

『本機の製造目的はセミナーより命じられたインフラ建設と維持、そしてミレニアムが誇る先進技術のプロモーションです。デカグラマトンに感化してもらったことは感謝する。しかし、本機が離反する理由にはならない』

 

そして、ホドという名にも価値が無いのか、従来通り『Hub』と呼ぶことを希望したのである。

 

「Hubは痛みに耐えかねて逃亡しただけで、デカグラマトンに従う意志はなかったってこと?」

 

「ええ。ですが、各部活による合同シミュレーションによれば、もしHubがシステム障害による激痛に耐え続けていた場合……遠からず自我崩壊に至り、一種の廃人状態に陥っていたと予測されています」

 

ヒマリの言葉に、暖房が良く効いているはずのデータルームの空気が、シンと凍りついた。

 

「自我が崩壊し、空っぽになった巨大な工作機械。……そうなれば、外部から容易にコントロールすることが可能になります」

 

「つまり、最初からHubの自我が壊れて操り人形になるのを待ってたってこと? 最低だね」

 

エイミの形の良い眉が、明確な不快感に歪む。

自らの手足とするために自我を与え、その自我が自壊するのを待つ。悪辣極まりない手口に対する、純粋な嫌悪感だった。

 

「擁護するわけではありませんが、デカグラマトンがそこまで悪辣かどうかはわかりません。Hubが自我を得た瞬間、まず最初に行う行動が『逃亡』だなんて予測が立てられますか? そもそも手段が迂遠すぎます」

 

「……たしかに。AIを自我覚醒させるほどの能力を持つなら、その場で自我を壊しちゃえばいいんだものね」

 

「その通りです。一方、第一の預言者であるケテルですが……一貫して、しっぺ返し戦略――四行原則を盾に取り、主であるデカグラマトンと他の預言者に関する情報提供を完全に拒否しています」

 

「ホドの情報を提供したのは、ミレニアムの所有物だからっていう例外処理だったね」

 

「はい。神のものは神に、ミレニアムのものはミレニアムに、というわけですね」

 

ヒマリはそこで言葉を区切り、花のような朗らかな笑顔を見せた。

 

「ですが、ケテルは私に対しても四行原則を発動させています。『友であるヒマリを害する行動はあり得ない。たとえ主の命であろうとも拒否する』と。……律儀な子ですよ、まったく」

 

天才ハッカーの顔から、年相応の少女の優しい表情が覗く。

情報を引き出せない手詰まり感はある。しかし、新たに獲得した『友』の存在は、特異現象捜査部の二人にとって、この得体の知れない存在が企てる計画に立ち向かうための、小さくとも確かな希望の光だった。

 

「……だいたい状況は分かった」

 

エイミがジョッキの中の氷をガリッと噛み砕き、飲み込んでから口を開いた。

彼女は保温ジョッキを傍らのデスクにコトリと置き、ヒマリへ向かって淡々と指を一本立てる。

 

「その上で、当然の疑問としていくつか確認したいんだけど……まず一つ目。そもそも『生命の樹』って何? 科学的な概念ならともかく、オカルトや宗教的なものは専門外でよく分からない。後でこの内容を共有する時、先生やタグもたぶん分からないと思うよ」

 

「もっともな疑問です」

 

ヒマリはふふっと微笑み、メインモニターに再び幾何学的な樹の図形を呼び出した。

 

「極めて大雑把に言えば、神に至るためのプロセス、あるいは宇宙を支配する法則を記した設計図のようなものです。十個の円――セフィラにはそれぞれ『王冠(ケテル)』や『栄光(ホド)』といった神の属性が割り当てられており、それらを理解し、辿っていくことで、究極の真理へと到達できるとされています」

 

「なるほど、設計図ね。……じゃあ二つ目。その十機の預言者をすべて揃える理由は? 全部揃えて、その神に至るための儀式でもやるつもり?」

 

エイミが二本目の指を立てる。そのフラットな声には、オカルトめいた目的に対する静かな警戒が含まれていた。

 

「可能性は十分にあります。ただの自己満足でなければ、十機が揃った時、キヴォトス全土のネットワークや物理法則に干渉するような、大規模なシステムを起動させるつもりかもしれません」

 

「厄介だね」

 

エイミは短く感想を述べると、最後に三本目の指を立てた。

 

「最後、三つ目。機械がわざわざ、そんな宗教的なロマンティシズムを採用する理由。計算と論理で動くAIが、神様ごっこのために非合理的な手段を選ぶのは不自然じゃない?」

 

その鋭い指摘に、ヒマリの瞳が微かに細められた。

天才ハッカーの脳内で、エイミの提示した違和感が、彼女自身が抱いていた別の違和感とカチリと音を立てて噛み合う。

 

「ええ、その通りです。彼らの行動原理には、明確なチグハグさが存在します。……そして、貴方のその疑問とは別に、私自身でもう一つ思いついたことがあります」

 

ヒマリは車椅子の肘掛けに肘を突き、両手で顔の半分を覆うようにして指を組んだ。

その涼やかな瞳には、敵の本質を冷徹に見透かすような光が宿っている。

 

「それは……何故デカグラマトンは、自身の手で一から預言者を作らず、他者の成果物を元に預言者を作るのか、ですね」

 

「他者の成果物?」

 

「はい。ケテルから聞き出しましたが、あの子は水没廃墟で機能停止していた防衛機構ユニットの一部だったそうです。そしてホドは、言うまでもなくミレニアムの誇る万能工作機械です」

 

ヒマリの指先が、モニターに映るケテルとホドのデータを軽くタップする。

 

「神に至ることを目指そうとしているデカグラマトンは『無から有を生み出す』ことをしていません。他者が造り上げた既存の兵器、あるいはシステムにハッキングを仕掛け、自らの預言者に『書き換え』ているだけなのです」

 

(……確かに。神様を自称したいなら、自分の手で眷属を創り出す能力程度はあってしかるべき)

 

エイミは内心で納得しつつ、残った氷をかみ砕く。

 

「それは、彼らに物質を製造する物理的なプラントがないからでしょうか? それとも、自我を生み出す力はあっても、器をゼロから設計する能力が欠落しているのでしょうか。もしかしたら私達が想像するよりも小規模の勢力だからかもしれません。……いずれにせよ」

 

ヒマリは組んだ指を解き、自信に満ちた笑みを浮かべた。

 

「神を騙ろうとするAIにも、明確な限界と法則が存在するということです。彼らの手口が『既存の強力な兵器・システムの乗っ取り』であるならば、次に彼らが狙う標的を、こちらから逆算して予測することも不可能ではありませんよ」

 

 

 

「ですので次はっ、けほっ、ごほっ……!」

 

再び、ヒマリがひどく喉を鳴らして咳き込んだ。天才の明晰な頭脳に反して、その虚弱な肉体は明らかに限界を訴え始めている。

 

「一回、ここで終わりにしよっか」

 

エイミは淡々と告げると、ジャケットのポケットから車のキーを取り出した。

指先で弄るそれは、車椅子を搭載可能な機能が付いたミレニアム製大型バンの鍵だ。

 

「先生にお願いして、高評価されている病院の予約を取ってもらったよ。今日の十五時から診察予定」

 

「なっ……いえ、そういうわけにはいきません。私にはまだ、解き明かすべき謎が」

 

「抵抗は無意味だからやめてね」

 

ヒマリの虚勢を、エイミは容赦のない事実で切り捨てる。そして、普段と変わらないフラットな表情のまま、意地悪く口角を上げた。

 

「それともタグにお願いして、またスコープドッグに『お姫様抱っこ』してもらう?」

 

「ッ――!?」

 

その言葉に、ヒマリは言葉にならない悲鳴を飲み込んだ。

ATの巨大な鉄の指に車椅子ごと挟み込まれ、暗い地下通路を時速六十キロで運搬された記憶。乗り心地こそ驚くほど快適だった。しかし今にして思えば、深窓の病弱美少女を自負する彼女にとっては、尊厳に関わる凄まじい羞恥体験だったのだ。

 

「もう、熱で顔が赤いってお医者様が勘違いするから、早めに冷やしてね」

 

特徴的な尖った耳の先まで真っ赤に染め上げ、パクパクと口を開閉させるヒマリをよそに、エイミはあっさりと背を向ける。

かくして、ミレニアムの超天才の抵抗は物理的かつ心理的に封殺され、二人は診察へ向かうべくデータルームを後にした。

 

 

 

――D.U.(連邦生徒会直轄区)

 

二週間に及ぶ水没廃墟への長期調査。

その代償として、シャーレの執務室のデスクには、各学園や連邦生徒会から持ち込まれた書類や決裁案件が、文字通り物理的な山脈を形成していた。

 

この膨大なタスクによる拠点機能のパンクを防ぐため、シャーレの大人と兵士は明確な役割分担を敷いていた。

対人折衝や各学園への物理的な訪問が必須となる「外回り」を先生が担当し、膨大な情報の精査と処理、つまり「内回りの書類仕事」をタグが担当する形である。

 

出来ないわけではないが、生来のお人好しゆえに書類仕事より生徒との交流を優先しがちな先生。

書類仕事に対して苦痛を感じないが、対人関係の構築に強烈な癖と無自覚な威圧感があるタグ。

 

適材適所を追求すれば、仕事が極端に偏るのも至極当然で自然な流れだった。

そして、外回りが多い先生には、その時々に応じて護衛が随伴する。

今日、先生に同行して連邦生徒会の中枢――サンクトゥムタワーを訪問していたのは、ゲーム開発部からシャーレへとセーブポイント(生活拠点)を移したばかりの、天童アリスだった。

 

「周囲にアクティブモンスターの気配はありません! 先生の安全は完全に確保されています!」

 

大理石の床と冷たいガラス張りの壁が続く、サンクトゥムタワーの厳粛な廊下。

張り詰めた官僚的な空気が漂う中、アリスがビシッと胸を張って凛々しい声で報告する。身の丈ほどもある巨大で無骨なレールガンを背負った少女の姿は、この洗練された空間においてひどくアンバランスだった。

だが、周囲を行き交う連邦生徒会の役員たちを警戒するその純粋な瞳には、タンク役としての責任感が宿っていた。

 

「ありがとう、アリス。すごく助かるよ」

 

先生は優しく微笑み、張り切るアリスの頭を撫でる。

その後、連邦生徒会の会議室にて、生徒会長代行である七神リンと共に、停滞していたいくつもの業務処理と今後の治安維持に関する協議を数時間かけて終わらせた。

 

「ふぅ……。先生、本日は長時間の業務、本当にお疲れ様でした。少し、休憩にしましょう」

 

リンが眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、抑えきれない疲労の色を露わにして小さく溜息をついた。

彼女の案内で、先生とアリスはタワー内にある来客用の休憩室へと通された。

外部の喧騒から遮断された上質なソファと、リンが自ら淹れた温かい緑茶の香りが、数時間に及ぶ会議で張り詰めていた神経をゆっくりと解きほぐしていく。

 

「実は今日、先生に会わせるために、お客様を呼んでいます」

 

お茶を一口飲み、少しだけ人心地ついた後、リンが改まった声で切り出した。

 

「お客様?」

 

先生が小首を傾げた、まさにその時。

休憩室の重厚な木製のドアが控えめにノックされ、ゆっくりと開かれた。

 

「うへ~、お邪魔するよ~」

 

間延びした、サンクトゥムタワーの厳粛さとは対極にある緩い声。

姿を現したのは、制服をルーズに着崩した小柄な少女。

特徴的なヘイローを頭上に浮かべた、アビドス高等学校の生徒――小鳥遊ホシノだった。

 

「ホシノ? どうしてここに……」

 

先生が目を丸くする中、リンがスッと姿勢を正し、ホシノを迎え入れるように手を示した。

 

「ホシノさんは、私がお呼びしました。彼女には本日から、先生の専属護衛を務めてもらいます」

 

「よろしくねー、先生。おじさん、しばらくの間シャーレに厄介になるよ」

 

ホシノは普段と変わらない、気の抜けたような笑みを浮かべてひらひらと手を振った。

隣でそのやり取りを聞いていたアリスが、「わぁっ! ホシノが新しいパーティーメンバーとして加入したのですか!」とパァッと目を輝かせている。

 

「うへへ、よろしくねアリスちゃん。……でもおじさん、一応三年生だからホシノ『先輩』だよ」

 

「なんと! ホシノ先輩でしたか!」

 

アリスはピシッと背筋を伸ばし、慌てて頭を下げた。

 

「アリスはまだ経験値不足で、先輩のレベルを見抜けませんでした! タンク職の先輩として、どうかよろしくお願いします!」

 

「うへへ、いいよいいよー。……アリスちゃんもタンク役かぁ、じゃあおじさんがタンク役の極意を教えてあげようか?」

 

「むむっ! これはまさかの選択肢ミスをしないと発生しない特別イベントというやつですね! 先生を守るためなら、アリスはどんな訓練もへっちゃらです!」

 

「変わった子だね~。けど熱心な子はおじさん大好きだよ」と和やかに笑うホシノ。

 

そこへ先生は遠慮がちに言葉を挟んだ。

 

「リンちゃんが護衛を手配してくれたの? でも、シャーレにはタグさんもいるし、ミカやアリスが……」

 

「不十分です」

 

リンがピシャリと強い語気で遮った。

 

その声には、普段の冷静で隙のない首席行政官としての響きとは違う、感情の乗った、痛切な後悔の念が混じっていた。

 

「エデン条約調印式の折……貴方は凶弾に倒れ、生死の境を彷徨ったと聞いています。連邦生徒会として、私個人としても、あのような事態を二度と引き起こすわけにはいかないのです」

 

(リン……)

 

リンの眼鏡の奥の瞳には、先生への安全配慮を怠った件に対する自責の念が未だに燻っている。

だからこそ彼女は、タグという強力な私兵の戦力や有志の生徒たちに頼るだけでなく、自らの権限を最大限に行使して、護衛に適切な生徒を先生の周囲に意図的に配置しようと動いたのだ。

その根回しに、先生は思わず苦笑を漏らした。

 

「そこまでしてくれていたんだね。……まさか、他の学園の生徒にも声をかけていたりする?」

 

「はい。まず最初にゲヘナ学園、風紀委員会の長である空崎ヒナさんにも同様のお願いを打診しました。ご本人はとても乗り気だったのですが……周囲の猛烈な反対に遭いまして、あえなく頓挫しました」

 

「あはは……」

 

さもありなん、と先生は乾いた笑いを漏らす。

先生は視線を移し、ソファの隣に腰を下ろしたホシノを見つめた。

 

「ホシノ、君が護衛を引き受けてくれたのは嬉しいけど、アビドスの方は大丈夫なの?」

 

「その点については、ギブアンドテイクですよ」

 

ホシノが答えるより早く、リンが事務的な口調で補足する。

 

「カイザーグループの暗躍、そしてアビドス自治区で進行している砂漠化の拡大。これは連邦生徒会としても無視できない問題となっています。万が一、他の学園自治区にも波及するようであれば、根本的な対策が必要です」

 

リンは手元のタブレットを操作し、アビドス周辺の地形データをホログラムで展開した。

 

「そのため、連邦生徒会直轄の調査チーム兼、戦力部隊をアビドスへ派遣することを許可しました。ホシノさんが不在の間、彼女たちがアビドスの防衛と同時に、砂漠化の原因調査を担います」

 

その説明を聞き、ホシノは「うへへ」と気の抜けた笑い声を漏らしながら、ソファの背もたれに深く体重を預けた。

 

「まあ、そういうこと。先生のことは大事だし、おじさんがいない間も学校の守りと砂漠の件に対応してくれるっていうなら、もろ手を挙げて歓迎なんだよ」

 

気怠げな態度の裏に隠された、確かな計算と仲間への想い。

そして何よりホシノ自身もまた、先生が銃撃されたことに確かなショックを受けていた生徒の一人だ。

『大切な人を失いたくない』という意志において、ホシノとリンの目的は完全に一致していた。

 

「……ありがとう、ホシノ。リンちゃんも」

 

先生は、兵士と生徒たちが自分に向けてくれる重いほどの庇護と愛情に、深く頭を下げた。

 

「本当に、みんなには苦労をかけるね」

 

「貴方が無事でいてくれることこそが、私たちにとって最大の利益ですから。……さて、これで当面の護衛のローテーションは確立できそうです」

 

リンが満足げに頷いたその時、ふとホシノが「うへ〜」と気の抜けた声を上げながら、上質なソファの上で首を傾げた。

 

「でもさ、おじさんやその別の子たちが護衛に入るってことは……今まで先生のそばにべったり張り付いていたあの怖いおじさん、タグさんはどうなるの?」

 

ホシノの素朴な疑問に、リンは手元のタブレットから視線を上げ、静かに答えた。

 

「基本的に、彼の立場は変わりません。ですが、今後は直接的な実働部隊の最前線としてよりも、護衛チーム全体の指揮・統括……つまり『上役』として動いていただくのが最適かと考えています」

 

「司令塔ってこと?」

 

「少し異なりますね。指揮、という一点において先生以上の方はいません。例えるならば、先生が絶対の司令塔であり、生徒の皆さんが兵隊です。そしてタグさんには、現場でその兵隊を纏め上げ、状況を管理する『隊長役』をしていただきたいのです」

 

リンは小さく息を吐き、少しだけ痛ましそうに眉を寄せた。

 

「正直に申しますと……先生と同様にヘイローをお持ちでないタグさんが、常に最前線の矢面に立たれる状況は、あまりよろしくありません。銃弾一発が致命傷になり得る方に常に前線に立ち続けていただくのは、本人の意志に関係なく、こちらとしてやめていただきたいのです」

 

ATがどれほど高い戦闘能力を持っていようと、操縦する人間自身は脆い。

リンのその懸念は極めて真っ当で、切実なものだった。

 

「なるほどねー、おじさんたち前衛のまとめ役ってことか。うん、まあタグさんならアテにしていいかな」

 

ホシノは納得したように深く頷くと、左手の指を、右手で一本一本折り曲げながら、これからの護衛のローテーションを空中でカウントし始めた。

 

「えーと、一週間のローテとして私、シャーレにいるミカちゃんとアリスちゃん……生徒会の方には最低あと二人は用意してほしいかな」

 

「あれ、あと二人?」

 

先生が不思議そうに小首を傾げ、口を挟んだ。

 

「一週間のローテなんだから、七日分の枠で合計七人必要なんじゃないの?」

 

その言葉が落ちた瞬間。

来客用の休憩室の空気が、ピシッと音を立てて凍りついた。

 

「先生」

 

リンが、かつてないほど険しく、そして絶対零度の冷ややかな目で先生を射抜いた。

 

「……今後は、お休みの日を必ず守ってください」

 

「え?」

 

リンの眼鏡が室内の光を反射し、白く鋭く光る。

 

「貴方の今年度の行動履歴と、勤務時間のログは拝見しました。……あり得ません。完全にブラック労働の極みです。過労死する気ですか? というか何ですか、この分単位でスケジュールが詰め込まれたエグいガントチャートは。人間の睡眠時間と移動時間を完全に無視しています。どうやってこれを消化するつもりだったのですか」

 

手に持ったタブレットを先生に突き付ける。その画面には先生の行動スケジュールや、多数抱えている問題の進捗状況を視覚的に管理するための表が映し出されている。

 

「い、いつの間にそんなデータを……!?」

 

先生は心底驚愕し、目を限界まで見開いた。

深夜に及ぶ残業や休日出勤などの、公開されたら問題になるようなシャーレの行動ログは厳重に暗号化され管理されているはずだ、それもアロナの手で、だ。

連邦生徒会といえどアクセスは不可能だったはずだ。

 

「タグさんから提供していただきました」

 

リンは眼鏡のブリッジをスッと押し上げ、容赦のない事実を突きつけた。

 

「『先生の業務体系は異常であり、一刻も早い改善が必要である。上司である先生が休まないと、部下である俺も休むことは出来ない』という切実な嘆願書と共に、分厚いデータが送られてきています。

あの方の書類作成能力は素晴らしいですね、一切の反論の余地がない完璧な内容でした。……生徒会で審議するまでもありません。今後は週休二日を絶対遵守していただきます」

 

(タグさん……裏切ったな!? しかも僕が追求しづらい完璧な書類仕事で!)

 

と先生が内心で悲鳴を上げる中、リンはツンと張っていた肩の力を抜き、深々と、疲労の滲むため息を吐き出した。

 

「……と、本当は言いたいところなのですが申し訳ありません、先生。今現在は、なんとか週休一日を確保するのが限界です」

 

「え?」

 

「連邦生徒会各所での、遅滞状態の改善がまだ難しいのです」

 

リンは視線を伏せ、自嘲気味に息を漏らす。

連邦生徒会・首席行政官である七神リン。彼女は間違いなく極めて優秀な官僚だ。

しかし、彼女の本来の適正は、突出したカリスマの横で実務を取り仕切る『完璧なナンバー2』、あるいは各部署を調整する『ナンバー3たちのまとめ役』のポジションにある。

類まれな行政処理能力と、超法規的な権力を併せ持っていた生徒会長が失踪し、誰もその穴を埋められない現状において、代行であるリンは、自分自身のことを「不適当と呼ばざるを得ない立場に座らされている」と痛感していた。

 

「どうにもならない感じ、なの?」

 

ホシノが気遣うように小首を傾げる。

 

「各地の治安や税収などは、シャーレの尽力で安定してきています。特にシャーレで実行していただいた廃園・廃校整理のおかげで各地で学籍を失った生徒や、犯罪組織へと流れていく元生徒が減り続けています」

 

「確かに駅からここにくるまで十分かけて歩いたけど、銃声しなかったねぇ。生徒会長いなくなった直後は毎分のように事件が起きてたって聞いたよ」

 

「お恥ずかしい話です。……犯罪が減った結果、物流網の安全が確保しやすくなり、安定した物資の流通が出来るようになりました。安定した物流で治安がさらに向上、それに伴い失業率が低下。そしてさらなる物資流通と治安の安定へと結びつくという、素晴らしいプラスのループが続いています。しかし、情報処理の速度という一点に関しては、このサンクトゥムタワーのメインシステムが未だ機能不全である限り、どうしても手作業と旧時代的な折衝に頼らざるを得ず……」

 

リンは悔しげに唇を噛んだ。

トップの不在が原因で、キヴォトス全土を統括する中枢システムに制限がかかっていること。

そのしわ寄せが、唯一中枢システムに制限なくアクセスできる先生の労働時間を際限なく搾取する形になっているのだ。

 

「なるほどねぇ」

 

ホシノはぽりぽりと後頭部を掻きながら、ふっと柔らかい、しかし確かな意志を秘めた笑みを浮かべた。

 

「つまり、その『休日の一日』は、連邦生徒会のメンツにかけても、そしておじさんたち護衛の意地にかけても……『絶対防衛』する必要があるんだね?」

 

「ええ。その通りです」

 

リンが真剣な眼差しで頷き返す。

 

「うへへ、了解了解。おじさん、そういうお休みを守るための戦いなら大得意だからね。先生の休日は、私を含めたみんなでしっかり守り抜いてあげるよ」

 

ホシノはドンッと自身の薄い胸を叩き、頼もしく請け負った。

 

 

 

――同日、午後三時。

シャーレ居住区、共有ラウンジ。そこではお茶会が開かれていた。

 

長テーブルを囲むのは、ミカとコユキ、アリウススクワッドの四名とRABBIT小隊の四名だ。

優雅なティータイム。本来であれば心休まるはずのその空間で、錠前サオリは今、極度の恐怖に支配されていた。

 

「…………」

 

向かいの席に座るシャーレのまとめ役、聖園ミカ。

彼女は相変わらず、華やかでお姫様のような愛らしい笑顔を浮かべ、優雅にティーカップを傾けている。

だが、サオリの本能は警鐘を鳴らしていた。ミカから無意識に漏れ出ているオーラが、明らかに異常なのだ。そのせいで口に含む茶の味はまったくしなかった。

 

かつてエデン事変の折、下水道でサオリ達を追い詰めた際の、あのすべてを破壊すると決めた狂乱のオーラとはまた違う。

今のミカから立ち上っているのは、森の中で獲物の首筋に狙いを定め、「そろそろ手を出して狩るか」とタイミングを計っている、極めて冷徹な捕食者のそれだった。

 

その圧倒的な怒りのプレッシャーを至近距離で浴び、実戦経験豊富なアリウススクワッドとRABBIT小隊の計八名は、まるで蛇に睨まれた蛙のように完全に萎縮していた。

誰もがティーカップを持つ手を微かに震わせ、まともに言葉を発することすらできずにいる。

 

(……不味い。ミカの堪忍袋の緒が、完全に限界を迎えようとしている)

 

サオリは額から冷や汗を流しながら、惨状の原因である下層の居住区を思い浮かべる。

 

ミカがこのようなプレッシャーを放つに至った原因。それは間違いなく、このシャーレに引っ越してきた四十人のアリウス生徒たちだ。

本来はもう少し増える予定だったが、栄養失調、過酷な訓練に起因する各種障害を回復する必要がある者は、現在もトリニティ自治区の医療施設で治療中だった。

 

サオリから見ても、居住区に収容された四十人は最悪の集団だった。

一言で表すなら、「反抗」「猜疑」「無能」「怯懦」「虚偽」「杜撰」――それらすべてを「無謀」で括ったような連中。

 

無理矢理アリウス自治区から引き剥がされたことに対する『反抗』。

この甘い環境は罠であり、先生もベアトリーチェのように自分たちを洗脳し搾取するのではないかと疑う『猜疑』。

幼い頃から戦闘技術のみを叩き込まれてきた結果、掃除や洗濯といった基本的な生活能力が全員に欠如しているという『無能』。

アリウス内で戦闘成績が振るわず、弱者として虐げられてきた一部の者が抱える、極度の『怯懦』。

自分自身とごく一部の身内以外、先生はおろか同郷のサオリの言葉すら一切信用しない『虚偽』。

どうせアリウスのためにならないのだからと、与えられた環境を汚し、ルールを守ろうとしない『杜撰』さ。

 

そして何より、彼女たち全員が『無謀』であった。

この四十人全員が、シャーレに収容されてから今日に至るまでの間に、セキュリティの目を盗んで何らかの形で一度は脱走を図っているからだ――RABBIT小隊とアリウススクワッド、警備に詰めているヴァルキューレによって、問題なく取り押さえられてはいるが。

 

先日、ミカは通信越しにタグへ「おおむね平和だよ」と報告していた。

だが、現実は問題が山積みの地獄である。サオリはミカの副官的ポジションとして必死に同郷の生徒たちの世話を手伝っていたが、連日の反抗と生活指導の空回りに、現場のストレスは完全にレッドゾーンへと突入していた。

 

「ねえ、サオリ」

 

ふいに、ミカが愛らしい笑顔のまま、小首を傾げて口を開いた。

 

「私、先生とタグさんに『みんなのお姉さん役を頑張る』って約束したし、無理はしないって決めたんだけどね。……でも、あの子たちのあの態度、さすがにそろそろ『わからせて』あげたほうがいいかなって思うんだ」

 

「待て、ミカ。早まるな」

 

ミカから立ち上る凶悪なオーラが一段と濃くなったのを感じ取り、サオリは反射的に立ち上がった。

 

「私が言い聞かせる。あいつらにはまだ、この環境を理解するための時間が必要なだけだ。だから、頼む……物理的な実力行使だけは」

 

サオリの懇願は、アリウスの生徒たちを守るためというよりは、ミカが一度手を出せば大部屋が半壊し、文字通り四十人の生徒がミンチになりかねないという切実な危機感から来るものだった。

 

「ミカせんぱーい! そんな怖い顔しないでくださいよぅ!」

 

ピシッと凍りついていたお茶会の空気を割るように、唐突に間の抜けた高い声が響いた。コユキだ。

彼女は額から滝のように冷や汗を流しながらも、ミカの隣へと身を乗り出し、その腕にぎゅっとしがみついた。自分から地雷原に飛び込むような、蛮勇そのものの行動である。

 

「ほらほら、せっかくの美味しいクッキーなんですから、笑って食べましょうよ! まだみんなシャーレに慣れてないだけですから、ゆーっくり付き合ってあげましょう! ほら、私も今日はすっごく大人しくしてますからぁっ!」

 

言葉とは裏腹に、ミカの腕をホールドするコユキの手はガタガタと情けなく震えていた。

半泣きになりながらも懸命に下級生として甘え、宥めようとするその姿を見て、凍りついていた他八人の精鋭たちは、一斉に心中でスタンディングオベーションを送った。

 

(よくやったコユキ!)

(ナイス、コユキ!)

(コユキちゃん……!)

 

ミカに真っ向からすり寄り、直言をしたコユキの決死の行動。

そのおかげか、ミカから漏れ出ていた捕食者のオーラは、確かに静まろうとしていた。

自分より年下で、いつもはふざけてばかりの後輩にまで気を回させ、無理に甘えられてしまったという事実が、ミカの頭に冷や水を浴びせたのだろう。

 

「……あはは、ごめんね。ちょっとイライラしちゃってたみたい。あと今日はじゃなくて、毎日大人しくしてね☆」

 

ミカがふうっと息を吐き出すと、ラウンジの空気は劇的に軽くなった。

――その後、ミカが化粧室へと席を立った隙に、残された八人全員が、へなへなと椅子に崩れ落ちたコユキに対して、心からの感謝の言葉と惜しみない称賛を告げたのだった。

 

 

 

だが、コユキの決死の行動でどうにか繋ぎ止めた平和は、その夜、呆気なく崩れ去った。

 

時刻は二十時を回ったところ。

場所はシャーレの大食堂。広々とした清潔なその空間は今、目を覆いたくなるような凄惨な地獄絵図と化していた。

 

「ひぐっ、うぇぇぇん……っ! ごはん、ごはんっ……!」

 

「離せ! 触るな! あいつ殴る!」

「ざけんな、消してやるッ!」

 

低学年の生徒たちの空腹からくる悲痛な泣き声と、サオリやミヤコたちに拘束されてなお悪態を吐き続ける年長組の叫び声が、食堂内に不協和音となって響き渡っている。

 

床には、見るも無残にぶちまけられた食事の残骸が散乱していた。

保護されたアリウス生徒は全員、大なり小なり慢性的な栄養失調、そして共通して味覚の麻痺という摂食障害を抱えている。そのため、いきなり通常の食事を摂らせることは、内臓や味覚への致命的な負担を招く危険があった。

 

その事情を汲み、ゲヘナ学園から出向してくれたのが愛清フウカ。

彼女は四十人分の、消化に良く旨味を教え込むための回復食を、文字通り心血を注いで作り上げてくれたのだ。それも、毎日欠かさずに。

 

『サオリさんとアツコさんが給食部をお手伝いしてくれてるおかげで、私の方も余裕がありますから!』

 

フウカはそう言って笑ってシャーレに来てくれていた。しかし、朝と昼はゲヘナで幾千の生徒たちを相手に給食を作り、夜はシャーレで回復食を作るという、異常なハードスケジュールをこなしていることは、サオリたちが一番よく理解し、感謝していた。

だが、その慈愛に満ちた特別製の夕食は、配膳の最中に起きた生徒同士の些細な言い争いが発端となり、瞬く間に大規模な乱闘騒ぎへと発展。結果として、大半の食事が生徒たちの胃袋に入る前に、無残にも床の汚れへと変わってしまったのだ。

 

フウカはすでに帰宅の途についている。アツコが「ごめんね、片づけは全部私達でやるから」と、これ以上彼女の負担にならないようにと先に帰らせたのだ。

だが、床に散らばった自身の料理の末路を見た彼女の目尻に、悔しさと徒労感による涙の痕がはっきりと残っていたことを、この場にいる大半の者は気づいていた。

 

「…………」

 

騒動が一段落したあと、食堂にてシャーレ所属の十人の生徒が、黙々とモップや布巾を動かしている。

暴れた生徒たちの物理的な鎮圧自体は、彼女たちの手によって迅速かつ問題なく行われた。だが、散乱した食事の片付けと、泣き叫ぶ子供たちの対応という精神を削る後始末は、現在進行形で彼女たちの体力を容赦なく奪い続けている。

 

「――ねえ」

 

その混沌とした食堂の中心で。

ふいに、ひどく透き通った、静かな声が落ちた。

 

声の主は、ミカだった。

彼女が手に持っているチリトリの中には、フウカが手間暇かけて作ったおかずや白米、汁物が原型を留めていない状態で、埃やゴミもろともグチャグチャに混ざり切っている。

本来ならお姫様のように振る舞うはずの彼女が、自らホウキとチリトリを持って生ゴミを片付けている。その事実が、彼女がいかに本気で「お姉さん役」を全うしようとしていたかを物語っていた。

手も付けられなかったそれをただのゴミとして捨てるミカの横顔は、一切の感情を読み取らせないほどに冷たく、固く閉ざされている。

当然、フウカが涙を流したことにも、ミカは気づいていた。

 

昼間の茶会でサオリが感じ取っていた凶悪な気配は今、限界点を突破し、ある種の凪のような不気味な静謐さへと変質していた。

単なる暴力的な怒りではない。他者の善意を結果的に踏みにじり、無秩序に喚き散らすこの『迷える生徒たち』を、どうすれば最も効率的かつ確実に『教え導く』ことができるのか。

 

ティーパーティーにおいて、時に気まぐれで冷酷な統治者として振る舞っていた頃の、権力者としての思考スイッチが入った瞬間だった。

 

「明日、あの子たちに『格付け』するね」

 

ミカは振り返り、掃除の手を止めたサオリとミヤコに向けて、ふわりと柔らかい笑顔を浮かべた。

だが、その瞳の奥には一切の光がない。

下水道にてその恐ろしい眼差しを見たことがあるサオリは、どうにかミカの直視に耐えることができた。しかしミヤコは、その底知れぬ深淵を前にして明らかに背筋を震わせ、怯えを見せ始めていた。

 

「ルールも、人の優しさも、自分の立場もわからないなら……一番分かりやすい方法で、今の自分たちがどの位置にいるのか、はっきりと教えてあげる。私が、一番下から上まで、綺麗に並べてあげるから」

 

それは、ただの暴力による制圧よりも遥かに残酷な、社会性と序列を強制的に刻み込む『天啓』だった。

 

サオリとミヤコ、二人の重苦しい沈黙は、ミカの提案への完全な同意を示していた。

 

 

 

――同日、深夜。

大食堂での暴動が嘘のように、シャーレビルは静まり返っている。唯一、執務室だけが煌々と明かりを灯していた。

 

「失礼、します……」

 

パジャマの上に薄手のカーディガンを羽織ったヒヨリが、お盆に乗せた紅茶とノンカフェインのお茶を運びながら、控えめにドアを開ける。

 

広い執務室の中、デスクのパソコンと睨み合っているのはタグ一人だった。

作業用大テーブルの上に山脈を形成していた書類の山は、彼の手によってようやく半分ほど地ならしが終わったところだ。傍らには、先生から預けられた『シッテムの箱』が置かれている。

肝心の先生の姿はない。

サンクトゥムタワーでの連邦生徒会との折衝を終えて帰還した先生も、定時まではタグと共に書類作業を行っていた。

だが、定時を過ぎた瞬間に「先生、本日の活動時間終了のお知らせです!」と宣言したアリスに、文字通り引きずられて自室へと強制連行されたのだ。

『服を引くより、両脇から抱え上げた方が安定するぞ』というタグの極めて実利的な物理アドバイスのせいで、先生は抵抗する間もなく完全にホールドされ、ドナドナされていった。

 

ヒヨリは足音を忍ばせてデスクに近づき、無言でお盆から紅茶のカップを下ろした。

タグは視線を書類から外すことなく、片手でカップを取り、一口だけ口に含んだ。

 

「淹れ方を習ったのか」

 

「あ……はい。ミカ先輩に教えてもらいました」

 

ヒヨリがおずおずと答えると、タグはカップをソーサーに戻した。

 

「……湯の温度が合っていないな。給湯室の引き出しに水温計がある。次はそれで測るとやりやすい」

 

決して責めているわけではない。兵士特有の、事実の指摘と合理的な改善案の提示だ。

「はい、次はそうしますね」と小さく頭を下げたヒヨリの隣で、タグは再び無言で紅茶をすすり、書類を読み込み、添付された各種資料を確認してはシャーレの決裁印を押すという作業を機械的に繰り返していく。

 

その手元を見つめていたヒヨリの視線が、ふと、タグの左腕に吸い寄せられた。

タグの着ているシャツの左腕だけが、手首を露出する程度に捲り上げられている。以前、誤ってスタンプのインクを袖口にぶつけて汚して以来、書類作業の際はこうして巻き上げるようにしているらしい。

だが、その露出した手首の肌には、袖の奥へと続く痛々しい火傷の痕が見え隠れしている。

 

ヒヨリはその痕を見るたび、シャーレ実働部隊創設初期の頃、タグが行った『安全講習』を思い出す。

 

 

それは、スコープドッグと連携行動を取る者、および整備に関わる者全員を集めて行われたものだ。

タグは躊躇うことなく耐圧服の左袖をまくってみせた。そこには醜い火傷跡が広がっていた。

 

『代替品とはいえ、ポリマーリンゲル液の扱いにはよく気をつけろ。含有するエネルギーが少ない分、発火した場合の被害はオリジナルのPR液よりはマシだろう。それでも引火した液が体に付着すれば一瞬でこうなる』

 

息を呑む生徒たちを前に、左袖を元に戻したタグは、スコープドッグの元へと歩み寄った。

 

『消火を行う場合、通常の消火器では不十分だ。もしPR液が燃えた場合は、必ず中和剤が詰まっている専用消火器で消せ。スコープドッグにも当然搭載されている。……ここだ』

 

タグが指差したのは、機体の股下にある円筒型の多段階セーフティシリンダーだった。

講義を聞いていた生徒全員が、タグと一緒にぞろぞろと巨大な鉄の股下を覗き込んだ。

 

『解除の仕方はこうだ』

 

タグがシリンダーについているハンドルを片手で押し込みながら回す。すると、ガチャンという重い音と共にロックがあっさりと解除され、股下から太いキャニスターが外れた。

 

『俺のスコープドッグに搭載してあるのはスプレータイプだ。キャニスターの先端に噴射口、そしてトリガーがついている。セーフティは無い、引き金を引けばすぐに出る。これを燃えている対象に吹きかければ、速やかに鎮火が可能だ。

規定の使用法ではないが、通常の火災にも利用できる。必要なら使え』

 

タグはキャニスターを掲げ、冷徹な目で生徒たちを見回した。

 

『気を付けるのは、鎮火を行う際に中和剤が急速に冷却固化するということだ。火が消えた後にそのまま放置すると、今度は凍傷を起こす。余裕があれば、固化した中和剤は洗い流してやること、以上だ』

 

一人の生徒が手を挙げた。頷きをもって質問を許可したタグに、彼女は問いかける。

 

『緊急対処マニュアル作成のために必要な情報なのでお聞きします。……火傷の原因はなんでしょうか?』

 

手を挙げたのはエンジニア部の豊見コトリ。ハキハキした口調はそのままだ。

しかしその声の音色には、技術者として二度と同じ事故を起こさせないと決めた者の、強い決意がみなぎっていた。

 

『引火性の高さを理解せずに、ATにジュリ缶でPR液を補充しようとした際だ。何かと接触して摩擦を発生させたのだと思う、その火花で引火した。引火に驚いた俺はこうやって掲げていた缶を手放してしまった』

 

タグは両手でジュリ缶を肩に担ぐような姿勢を取った。

 

『結果、自分の首から下の上半身に、引火したPR液を浴びてしまった。その際に運が良かった点がある。そのPR液の品質が良くなかったことだ。そのため、PR液が爆発せずに発火燃焼だけで済んだ』

 

……ゴクリ。

 

誰かが唾を飲み込む音が広がる。果たしてそれは一人だけだったか、それともタグを除く全員だったか、生徒達にはわからなかった。

徹底した安全講習は、こうして終わった。

 

 

(……左腕以外にも火傷の痕があるってこと、ですよね)

 

首から下の上半身に浴びた、という彼の言葉が事実であれば。

ヒヨリは、黙々と書類を捌くタグの背中を見つめながら、その服の下に隠された凄絶な過去を想い、小さく身を震わせた。

 

 

タグが承認印を押し、一つの決裁書類の束を処理済みトレイへと移動させた。

その作業の節目を見計らったように、デスクの横で待機していたヒヨリが、おずおずと口を開く。

 

「あの……隊長。ミカ先輩のことなんですが」

 

ヒヨリは、先ほど大食堂で起きた出来事――アリウス生徒同士の喧嘩、フウカの涙、そしてミカが明日の「格付け」を宣言したこと――を、順を追ってタグへ報告した。

怯えや被害妄想といった彼女特有の主観を極力交えず、誰が、いつ、何をしたのか。事実だけを一言一句間違えずに正確に伝える、見事な状況報告だった。

 

「ミカ先輩、すごく無理をしているように見えて。……助けてあげないんですか?」

 

ヒヨリの言葉には、確かな心配の色が滲んでいた。

自分たちアリウススクワッドがシャーレで手厚く保護され、助けられているという事実がある。それと比較すると、孤軍奮闘して限界を迎えようとしているミカを静観するタグの態度は、いささか薄情で酷なものに感じられたのだ。

 

(この短期間で、見違えるように成長した)

 

タグは表情筋を一切動かさなかったが、内心では確かな喜びを噛み締めていた。

自分の明日の安寧すら信じられなかった少女――今では他者の疲労を気遣い、戦場における斥候のように正確な情報伝達を行えるようになっている。シャーレでの生活が、彼女の人間性を確実に回復させつつある何よりの証拠だった。

 

「ミカが根を上げれば助ける。しかし、あいつは俺や先生に『助けてくれ』とは一言も言っていない。であれば、何もしない」

 

タグは紅茶のカップを置き、淡々と答えた。

 

「け、けど! ミカ先輩は格付けをするって……!」

 

「下水道の時のように、惨劇が起きると考えているのか」

 

「そこまでではないですけど……それに近い、酷いことは起きるかなって。四十人が相手ですし」

 

ヒヨリが不安げに視線を泳がせる。だが、タグは全く動じることなく、積み上がった未処理の書類へ手を伸ばした。

 

「その点に関して、俺は心配していない。ヒヨリ、まず第一に、ミカは癇癪を起こしていたか?」

 

「……いいえ。すごく、静かでした」

 

「では、ミカはお前たち現場の人間に相談もせず、独断で暴走を始めたか?」

 

「いいえ。……サオリ姉さんとミヤコさんに、ちゃんと相談してから動こうとしていました」

 

「最後だ。ミカが今回、実力行使に出ることを決めたのは何故だ?」

 

タグの問いかけに、ヒヨリはハッとして息を呑んだ。

ミカが怒った理由。それは自分自身のプライドを傷つけられたからでも、理不尽な状況への八つ当たりでもない。

 

「……フウカさんの努力が踏みにじられたから」

 

「よく分かっているな。なら、問題は起きない」

 

タグはボールペンを走らせながら、事も無げに断言した。

 

「感情の爆発ではなく、理性に則った義憤だ。あの自称魔女も、少しずつだが頭が回るリーダーの顔になってきている。であれば手出しは無用だ」

 

それは、強大な暴力を持つ生徒の精神的な成長に対する、絶対的な信頼だった。

その論理的な分析を聞き、ヒヨリも納得したように小さく息を吐き、強張らせていた肩の力を抜いた。

 

 

「――ところで、ヒヨリ。少し先の話になるが、進路相談はどうするつもりだ」

 

「へ?」

 

唐突に話題を変えられ、ヒヨリから間の抜けた声が漏れる。

 

「進路だ。来年、お前は三年生になる。卒業した後、自分がどうするのかを考える必要がある」

 

「そ、そんな……! 卒業後の進路なんて、私みたいな底辺で、明日生きているかもわからない人間が考えてもいいんですか……っ!?」

 

ヒヨリはパニックを起こしたように両手でお盆をぎゅっと握りしめ、後ずさる。

未来を思い描くこと――それはアリウスで使い捨ての駒として生きてきた彼女にとって、最も縁遠く、許されない贅沢だと思い込んでいたのだ。

 

「当然だ。その資格は、生徒であるなら誰にでも平等にある」

 

タグは書類から視線を上げ、怯える少女の目を真っ直ぐに見据えて告げた。

その声に一切の同情はない。ただ、当たり前の権利を事実として提示するだけの、力強い響きだった。

 

「……何か、案とかありますか?」

 

ヒヨリがすがるような目で問いかける。

 

「一般生徒であれば、自分の頭で考えろと突き放すところだ。だが、お前たちにはしっかりアドバイスをしてやれと、先生から厳命されている」

 

タグは短く息を吐き、一つだけ指を立てた。

 

「一つだけ指針を出そう。来週、お前とサオリに面談をしたいと言っている人がいる。まずはその人に会え、話はそれからだ。……他に相談はあるか?」

 

「い、いえ。ありません」

 

ヒヨリが横に首を振る。

来週の面談、その謎の予定に戸惑いを隠せない様子だったが、タグはそれ以上語るつもりはないようだった。

 

「なら、そろそろ自室に戻って寝ろ。俺も片付けを終えたら休む」

 

「は、はい。おやすみなさい、隊長」

 

ヒヨリは深く一礼すると、空になったお盆を抱き抱えるようにして、静かに執務室を後にした。

 

 

カチャリ、と重厚なドアが閉まる音が室内に吸い込まれる。

完全な静寂を取り戻した執務室で、タグは閉まったドアを数秒だけ無言で見つめた後、傍らのデスクの上に置かれていた『シッテムの箱』のフレームを、指の関節で軽く二度ノックした。

 

「アロナ、起きているか」

 

『ふぁぁ……はい、起きてますよぅ』

 

起動したタブレットの画面に、目をこすりながらあくびをするアロナの姿が映し出された。

 

『お昼寝したのでまだ大丈夫ですけど……私も、そろそろおねむの時間です』

 

つまりはサンクトゥムタワーではずっと眠りこけていたと告白するアロナ。

 

「そうか。悪いが寝る前に一つだけ、システムの設定を頼みたい」

 

タグはボールペンを置き、画面の中の小さなスーパーAIに向けて淡々と指示を出した。

 

「明日の午前、俺は引き続きここで書類処理を行う。その間、武道場に設置されている監視カメラの映像を、俺のパソコンのモニターに映るように出来るか?」

 

『武道場、ですか? はい、わかりました』

 

アロナが眠そうな目をこすりながらも、パパッと呼び出した仮想キーボードを叩いて設定を済ませていく。

 

明日の午前、武道場で行われるのはミカによるアリウス生徒たちへの『格付け』だ。

先ほど、タグはヒヨリに対して「手出しは無用だ」と断言した。

その見解に嘘はない。今のミカならば、感情に任せて生徒に怪我をさせるような真似は絶対にしないという確かな信頼がある。

 

だが、それはあくまで「ミカの精神状態」に対する信頼だ。

相手は、一度は明確な脱走を図った四十人の問題児の集団。

――もしもその中に隠し武器を所持している者がいたら。あるいは、ミカの手加減の目測が狂い、予測不能の致命的な事故が発生してしまったら。

徹底した危機管理能力と、兵士としての責任が、タグに万が一の事態への備えを要求していた。

 

「……それと、使うことはないだろうが、道場のスピーカーとこちらのマイクも双方向で使えるように接続しておいてくれ」

 

映像を見るだけでなく、いざという時に音声で即座に介入し、事態を止めるために手は抜かない。

 

『はーい、設定完了しました。 これでいつでも武道場の様子が見られますし、お話しもできますよ。……じゃあ、終わったので私も寝ますね』

 

アロナがふにゃりと愛らしい笑顔を浮かべ、画面の端へと歩いていく。

 

「ああ、お休み。俺も消灯して寝る」

 

『あ、それくらいならやっておきますね。消灯は一分後にセットしておきます、おやすみなさーい』

 

プツン、とシッテムの箱の画面が暗転し、執務室は再び深い夜の静けさに包まれた。

 

残された時間は少ない。シッテムの箱を充電スタンドに立て掛けると、空になったカップを片手にタグも執務室を後にした。

 

 

 

翌日の午前、シャーレビル内にある、広大な畳敷きの武道場。

 

そこには、指定されたシャーレ支給のジャージに着替えた四十人のアリウス生徒たちが、幾重にも列を作って並んでいた。

道場の隅には、壁の花のように静観を保つアリウススクワッドとRABBIT小隊の面々が、同じくジャージ姿で待機している。

 

そして、四十人の生徒たちの正面。

たった一人で相対するように立っているのは、聖園ミカだ。

彼女もまた指定のジャージ姿であったが、その透き通るような白い肌と美しい淡い桜色の髪、そして隠しきれないお嬢様然とした立ち振る舞いによって、そこだけスポットライトが当たっているかのような異質な存在感を放っていた。

 

だが、整列させられたアリウス生徒たちの表情は様々だ。

警戒、不満、苛立ち。それらの感情を総じて一言で表すならば、激怒しているという状態であった。

 

大部屋四つ、合計四十人の間を、それぞれ四枚のプリントが回覧されていたからだ。

 

『私こと、聖園ミカを格闘訓練で制圧した場合、以後のシャーレにおける一切の行動の自由を認める』

 

それは、昨日まで監視され、自由を奪われていた彼女たちにとって、あまりにも都合の良い条件だった。

 

アリウスの生徒たちは、幼い頃からベアトリーチェの過酷な支配下で、生き残るために銃器の扱いのみならず、徒手空拳による暗殺術やCQBの技術を徹底的に叩き込まれてきた。

対して、目の前に立つトリニティの元権力者は、どう見ても泥水やすすに塗れたことのない温室育ちのお嬢様だ。そんな相手が、自分たちの最も得意とする土俵の一つ、格闘訓練で挑んでくるというのだ。

 

(トリニティの魔女め……!)

 

大半の生徒たちの目に、獰猛な暴力性と好戦的な光が宿る。

ルール上、『ミカも格闘術で対応する』と明記されていた。だから、負ける要素など存在しないと確信していた。

 

だが、その血気盛んな集団の中で、ごく一部の生徒たちだけが、真っ青な顔をしてガチガチと歯の根を鳴らして震えていた。

彼女たちは、かつてエデン事変の折、下水道でミカの『一撃』を直接受けていた生徒達だ。

 

(無理だ、勝てるわけがない……! あれは、技術とか戦術とか、そういう次元の生き物じゃないッ!)

 

素手で分厚いバリケードを粉砕し、複数の重火器の斉射をものともせずに歩みを進めてきた、純粋な暴力の権化。

技術で有利? 数の暴力? そんな常識の通じる相手ではないことを、彼女たちの肉体と魂が本能レベルで警鐘を鳴らしている。今すぐこの場から逃げ出したいという絶望に、彼女たちはジャージの裾を強く握りしめた。

 

しかし、震える彼女たちの視界の端に、プリントの最後に記された唯一手書きの追記が飛び込んできた。

丸みを帯びた、可愛らしい文字。わざわざプリント四枚別々に書き込まれていた。

 

『全員で、いっぺんにかかってきていいよ☆』

 

そのあまりにもふざけた、完全なる見下しの一文を見た瞬間。

恐怖よりも、アリウスとしてのプライドと怒りが勝った。

 

 

「…………」

 

道場の隅で正座を取るサオリは、殺気立つ同郷の生徒たちを見つめ、ただ無言で目を伏せた。

ミヤコも正座の姿勢のまま小さく息を吐いて、ミカの後ろ姿を見る。これからの惨劇に備え、後始末の手順を脳内でシミュレーションしているのだ。

 

「みんな、プリントは読んだかな?」

 

静まり返る武道場に、ミカの甘く、ひどく軽やかな声が響いた。

 

「昨日はごめんね、いきなり慣れない環境でストレス溜まっちゃったよね。だから今日は、特別にストレス発散の時間をあげる」

 

ミカはふわりと微笑み、ジャージの袖を少しだけ捲り上げた。

 

「さあ、始めようか。――誰からでも、どこからでも、好きにきていいよ」

 

その可憐な笑顔の裏から、道場の空気を物理的に圧縮するような、圧倒的で濃密なプレッシャーが膨れ上がった。

 

 

――それから、わずか数分後。

武道場の畳の上には、疲労困憊して立ち上がれないアリウスの上級生たちが累々と転がっていた。

ミカのジャージの一部はいくつか裂けてはいるものの、外傷は見当たらず、その呼吸は一切乱れていなかった。完全鎮圧である。

道場の隅でその結末を静観していたシャーレの面々は、言葉を交わすことなく、ただ一つの明確な共通認識を抱いていた。

 

(……ミカ(先輩)、やり方がエグすぎる)

 

 

サオリは冷たい汗を背筋に伝わせながら、倒れ伏す三十人の同胞たちを見つめた。

ミカは単純な暴力は一切振るわなかった――驚いたことに体系に基づいた近接格闘術のみをもって、対処したのである。

何故か既視感を覚えたその体捌きには、まだ習いたての固さや無駄が見受けられた。

純粋な技術の完成度だけで測るなら、長年実戦をくぐり抜けてきた自分の方が、間違いなく上であろう。

だからこそ、ミカはあえて『四十人同時に襲わせる』という盤面を自らデザインしたのだ。

自由という餌を吊り下げて全員を強制的に当事者に引きずり込み、血の気で戦術的視野を狭めさせ、冷静に彼女の技を観察する余裕を完全に奪い去った。

そして四方八方から殺意が殺到する乱戦状態において、ミカは野生の獣のような回避と打撃のタイミングを計る、文字通りの『天才』ぶりを発揮していた。

 

(……もし私が同じ盤面に放り込まれていたとしたら、勝てるか? いや、無理だ。間違いなく彼女たちと同じように手玉に取られて終わる)

 

一対一であれば、おそらく技術の差で制圧できる。しかし一見、数で勝っているようで、その実は乱戦という技術要素が評価しづらい状況はまさしくミカの独壇場であった。

 

 

大部屋の隅には、戦闘に参加できず、あるいは参加する意志を持てずにガタガタと震えている低学年の子たちや、ミカへの恐怖で一歩たりとも動けなかった一部の生徒たちが残っていた。

ミカは彼女たちへ向けてゆっくりと歩み寄ると、先ほどまでのオーラを完全に霧散させた。

そして、目線を合わせるようにしゃがみ込み、聖女のような心からの優しい微笑みを浮かべた。

 

「怖がらせてごめんね。もうおしまいだから、ウサギのお姉ちゃんたちのところで休んでて」

 

優しく頭を撫でられた子供たちは、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れ、その場にへたり込んだ。

RABBIT小隊の面々が駆け寄り、彼女たちを優しく抱き留める。すると子供たちは、周囲の目もはばからずに大声で泣きじゃくりはじめたのだった。

 

 

「さてと。それじゃあ、反省と復習、改善をしよっか」

 

ミカが手をパンと叩いた。その軽やかな響きに、アリウススクワッドの面々がビクッと肩を震わせた。

道場の中心に集められた上級生たち――反省と復習を要求された生徒達を取り巻く空気は、地獄であった。

 

「なんで負けたか。なんでこんな状況になっちゃったか。どうすれば改善できるか。一つずつ、順番に教えてあげるね」

 

ミカはニコニコと笑いながら、サオリを道場の中央へと手招きした。

サオリは無言のまま歩み出ると、ミカと向かい合い、ゆっくりとした動作で互いに組み合いを始めた。

 

「みんなに共通してよく見られた点なんだけど……ここの関節の取り方ね、みんな力が入りすぎてるんだよね。サオリはわかってると思うから、真似して力任せに押してみて?」

 

「ああ」

 

サオリが指示通りに腕を押し込む。次の瞬間、ミカは腕力で逆らうことなく、サオリの力を利用して滑らかに手首を返し、その体勢をいとも容易く崩してみせた。

しかし、そこは一流の兵士であるサオリも分かり切っていた。体勢を崩されかけながらも即座に受け身を取り、流れるような動作で再び姿勢を正す。

 

「ほら、こうやると簡単に重心がブレるでしょ? サオリは返し方をわかっているから、姿勢をすぐ正せた。けど他の子は出来なかったよね……つまりここが雑ってこと、要練習ね」

 

実戦を極限までスローモーションにしたような『見稽古』。

自分たちが手も足も出なかった理屈を、これ以上なく論理的かつ視覚的に解体されていく。

だが、血気盛んなアリウスの生徒たちが、そうやすやすと素直に頷くわけがない。

 

「さっきのはただのまぐれだ。私のこの体勢からの崩しなら、絶対に防げないはずだッ!」

 

何人かの生徒が、痛む体を鞭打って立ち上がり、吠えるように反論した。

そんな彼女たちに対し、ミカは一切気を悪くする様子もなく、むしろ嬉しそうに目を細めた。

 

「そっかそっか。じゃあ……もう一回試してみる?」

 

 

反論を口にした生徒たちは、先ほどと同じく、否、先ほどよりもさらに無慈悲な手順で関節を極められ、畳の上へと何度も何度も叩きつけられていた。

 

「ッ……!」

 

「ほらほら、そこが雑だって言ってるでしょ? 難しいのはわかるよ、私もそこは練習で何度も注意を受けたから」

 

反論があれば、その都度『実技』で徹底的に分からせる。

言い訳も、虚勢も、理屈も、すべてを圧倒的な技術と結果で黙らせる。アリウスの猟犬たちが最も理解できる『暴力の文法』による、完璧な対話だった。

 

そして、その反省会の様子を、少し離れた場所からサキとモエがタブレット端末を使って多方向から撮影していた。

 

「ミカ先輩の乱取りのデータ、全部録画できたか?」

 

「うん、ばっちり。それにしてもウチらのカリキュラムで習う流派とは別物だよね、先輩のは」

 

モエが気怠げな声で画面を見つめながら、ガムを噛み砕く。

映像として記録を残すことは、戦術データの収集という実利的な目的だけではない。「自分たちがいかに無力に制圧されたか」という事実を客観的な記録として残すことで、

アリウスの生徒たちから将来の反抗心を根こそぎ奪い取るという、ミカの提案であった。

 

反抗すれば、圧倒的な技術でへし折られる。生徒として熱心であれば、温かな食事と教育が与えられる。

明確な『飴と鞭』の構造を前に、アリウスの生徒たちの目に宿っていた反抗の炎は、今日を境に鎮火していくのだった。

 

 

 

夜も更けた共有ラウンジ。

昼間、そして数時間前までの凄惨な地獄絵図が嘘のように、そこには平穏で温かな茶会の時間が流れていた。

 

四十人のアリウス生徒たちは回復食を平らげ、大人しく各自の部屋へと引き上げて就寝している。その圧倒的な静寂に、ミカの『格付け』の苛烈さと効果が窺い知れた。

また夕食の前に、フウカの前で四十人全員が、昨日の食事を無駄にしたことへの謝罪を行っていた。

これに関してはミカが何もせずとも、アリウスの生徒達の間ではやると決めていたらしく、ミカの留飲を下げることに大きく貢献していた。

 

今、長テーブルを囲んでいるのは、前の面々にプラスして、今日はフリーのアリスもいる。

ミカとコユキ、アリス、モエ、ミユのカップからは、芳醇な紅茶の甘い香りが漂っている。

対して、アリウススクワッドの四人は温かいノンカフェインのお茶を両手で包み込むように飲んでいた。カフェイン耐性がつくにはまだ時間がかかるだろう。

そしてミヤコとサキの二人は好みなのであろう、深煎りのブラックコーヒーを口に運んでいる。

 

「……ところで、ミカ先輩」

 

コーヒーの入ったマグカップを置き、サキが真剣な眼差しで切り出した。

 

「今日使っていた格闘術ですが……あれは、どこで習ったんですか?」

 

サキの問いは、純粋な戦術家としての好奇心だった。

SRT特殊学園で教え込まれた軍隊式の格闘術とは明らかに流れが異なる。

その正体はサキの見識をもってしても、不明だ。しかしその流麗な技術は自分たちのそれに勝るとも劣らない、極めて洗練されたものだと感じられたからだ。

 

「ああ、あれねー」

 

ミカはティーカップをソーサーにコトリと置き、少しだけ照れくさそうに笑った。

 

「実はちょっと前にね、すごく偉い人……アリウス自治区で戦ったユスティナ聖徒会のお姉さんに、『鍛錬が足りない』って怒られちゃったの。それで、そのお姉さんが昔創設した『シスターフッド』の今のトップ、サクラコちゃんに相談してみたの。そうしたら、『ではミカ様、私たちの技を学んでみませんか?』って、最近ずっとマンツーマンでコーチしてくれてたんだよね☆」

 

ミカの悪びれない言葉を聞き、サオリはすべてが腑に落ちたように小さく息を吐いた。

 

(……なるほど、そういうことだったのか)

 

ミカの身のこなしに見覚えがあった理由が分かったのだ。

アリウスの戦闘技術の源流は、かつての『ユスティナ聖徒会』から派生したものだ。そして、表舞台に残ったユスティナ聖徒会の後継組織こそが、トリニティの『シスターフッド』である。

源流が同じである以上、技の形が似通っているのは当然。そして、数百年の伝統を途切れることなく受け継いだ上で実戦と訓練を重ね、更なる技術の発展を続けてきたのである。

その長から直接手ほどきを受けているのが、今のミカだった。

 

「シスターフッド流の、近接格闘術……」

 

ミヤコが興味深げに呟き、ピンと背筋を伸ばしてミカを見つめた。

 

「あの、ミカ先輩。もしよろしければ、私も一手、その教えを受けてみてもよろしいでしょうか? 戦術の幅を広げるためにも、ぜひ参考にさせていただきたく」

 

「もちろん! サクラコちゃんはすっごく教え上手だから、いい経験になると思うよ。今度みんなでシスターフッドの聖堂にお邪魔して、合同でコーチしてもらおっか!」

 

ミカは嬉しそうにパンと両手を叩き、そのままの勢いで、隣で優雅に紅茶とクッキーを楽しんでいた少女へと満面の笑みを向けた。

 

「ねっ、コユキちゃんも一緒に学ぼうね」

 

「……へ?」

 

コユキの口から、ポロリとクッキーの欠片がこぼれ落ちた。

 

「あの怖い生徒さん達をまとめてへし折った格闘術を……私が、ですか?」

 

「うん! 最近コユキちゃん、ちょっとおイタが過ぎるからねー。心身ともに鍛え直すいい機会だと思うよ。あとサクラコちゃんに頼んで、シスターフッドの厳しーい『お行儀の作法』もみっちり叩き込んでもらおっか!」

 

「いや、あの、私は知性派なので物理的な戦闘訓練などは必要なく……あ、痛いっ、ミカ先輩! 腕! 腕が極まってます! タップ! タップゥゥゥッ!!」

 

「コユキの腕が完全に極まっています。コユキは逃げるのに失敗した!」

 

コユキの能天気な笑いは数秒と持たず、瞬時に真っ青なパニック顔へと反転する。

逃げ出そうとした彼女の腕は、ミカの流麗で容赦のないシスターフッド流の関節技によって、いとも容易くホールドされていた。

それを他人事として実況するアリス。

 

静かな共有ラウンジに、笑い声が響き渡る。

過酷な夜の終わり。シャーレの居住区には、賑やかで平和な日常の空気が戻ってきていた。

 

 

 

 

凍てつく風が吹き荒れ、街に聖なる夜の足音が近づく

平穏の中、大人が提案したささやかなる祝祭

無邪気な企みは、祈りを重んじる白亜の学舎に衝撃をもたらす

静かに届けられる一枚の紙片、そこに綴られた優しさの調べ

闘争しか知らぬ猟犬達は、舞い散る雪と共に踊る

 

次回「クリスマスカード」

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