季節は十二月へと足を踏み出したころ。
キヴォトスに本格的な冬の冷気が入り込んだ矢先、シャーレビルは目に見えない脅威によって完全に制圧されていた。
――インフルエンザである。
最初の罹患者は戒野ミサキだった。
数日前のトリニティでのミッション中から時折咳き込む姿が見られていたが、クリスマスカード騒動から一週間が経った今日、ついに急激な発熱を伴って倒れたのだ
起床時間が過ぎても私室から出てこないミサキの様子を伺いに来た先生。
ノックで呼び出すが返事はなし。アロナによると退出記録も無いとのこと。
仕方なく管理者用の合鍵で部屋の鍵を開ける。
部屋に入ると、加湿器の湿気と微かに鼻を突く汗の生乾きの臭いが漂ってくる。
(――嫌な感じがする)
その直感に従いすぐさまミサキがいるであろう、部屋の奥のベッドへ向かう。
ベッドの上には身じろぎ一つしないミサキの姿があった。
しかし、勝手に入室したことに対してミサキが何一つ声を上げない事実を前にして、先生の顔から血の気が引いた。
普段の穏やかな笑顔は完全に消え去り、極限の緊張を孕んだ指揮官の顔つきに変わった。
ベッド横に膝を突いてかがみこむと、いまだに目を開けようとしないミサキのシーツをそっとめくる――額や首筋に浮かぶ汗の量が尋常ではない。
(……この熱、そして異常な発汗。ただの風邪と断定するのは危険すぎる)
先生の脳裏に、かつて外の世界で経験した忌まわしい記憶が蘇る。
――世界を覆い尽くした未知のウイルスによるパンデミック。見えない恐怖に怯える人々、そして呼吸器の無機質な警告音。
思い出したくない光景が、眼前のミサキの姿と重なり合った。
「アロナ、救急車両を手配。手配先に『患者は感染症の疑いあり』と伝えて。タグさんはコユキの野営特訓の応援で外泊しているから、今日はシャーレビルに戻らないよう伝えて」
震えそうになる声を強い意志で抑え込み、白衣の内ポケットからシッテムの箱を取り出して即座に起動する。画面が青く発光し、ホログラムのアロナが姿を現した。
彼女は先生の声音とバイタルから事態の深刻さ――先生が明確な『恐怖』を抱いていること――を瞬時に察知し、真剣な表情で頷いた。
『はい、先生。シャーレビル最寄り、複数の病院へ受け入れ要請を送信。同時にタグさんへシャーレへの立ち入り禁止勧告を通知します』
アロナの淀みない応答を聞きながら、先生はミサキの頬を優しくはたく。
「ミサキ、僕の声が聞こえる?」
「……」
よほど苦しいのだろう、声を出す気力さえも枯れているのか、どうにか薄く開けた目から弱々しい視線を先生へと向ける。
「いい? 僕の声がわかるなら瞬きを二回、何もわからないなら一回だけして」
ミサキは時間をかけて、ゆっくりと二度の瞬きをする。
(意識は正常、返答は出来る。となれば次は)
先生はミサキの腕を握る。
元から細腕であるミサキだが、高熱のせいか輪をかけて細く感じられた。
握る力に強弱をつけることを何度か繰り返す。
強く握った時、ミサキは明らかに目尻を寄せた――痛みを訴えているのだ。
(関節痛、あるいは免疫反応による筋肉の痛みあり。強毒性のウイルスによる症状の可能性が高いな……インフルエンザか? それなら潜伏期間はおよそ一日から四日、長くても一週間)
この時、ミサキは熱でぼんやりとした意識の中で気づいていた。
自分の腕を確かめるように握る先生の手が、氷のように冷たく、そして震えていることに。
(……冷たいの、気持ちいいな)
――自分のために、大人が本気で怯えて取り乱しかけている。
そのどうしようもない事実が、苦痛の中で悶えるミサキの胸の奥に、なんだか笑ってしまうような奇妙で温かい安堵をもたらしていた。
先生は握るのをやめて、ミサキの腕を優しくさする。
すると少し楽になったのか、彼女の目尻は元に戻った。
「ミサキ、君は質の悪い風邪に罹っている可能性が高い。今すぐ治療の手配をするから、少しだけ待っててほしい」
ミサキは相変わらず声は出せないままだが、再び二度の瞬きで先生に返事をした。
ミサキの私室から出た先生は、足早に廊下を歩きながら矢継ぎ早に指示を送る。
かつてのパンデミック対応で骨の髄まで染み付いた『最悪を想定した隔離手順』が、先生の口を自動的に動かしていた。
「アロナ、まずこの居住階層をただちに物理封鎖して。可能なら空調システムも他フロアからの物理的遮断、独立稼働による陰圧化を試してみて」
胸の内で早鐘のように打つ心臓の音を無視し、先生は乾ききった喉からかすれた声を絞り出す。
「次にサオリ、アツコ、ヒヨリに『今すぐ自習室に集合して待機』と緊急メッセージを送信。僕が非接触型の体温計を持っていくから、それで体温を測った結果をメッセージで報告させて」
タブレットを操作する指先に、無意識のうちに過剰な力がこもる。
ギリギリの精神状態を強靭な理性で押さえつけながら、迷うことなく緊急度の高い順番に手配を進める。
『居住階層の隔壁ロックおよび空調の遮断、そして提案された陰圧化は可能……プロセスを開始、数分以内に完了します。スクワッドの三名へ緊急通知を送信済みです』
アロナの澄んだ声が、タブレットから間髪入れずに返ってくる。
「次はミカとフウカ。二人には自室待機を命令して、オンライン診療の手配を。それと居住区で預かっているアリウスの子全員の状況確認。各グループの年長者に状況報告をさせて」
『該当二名への待機命令送信完了。同時に、居住区画の大部屋の生徒さん達へ、先生の名前で報告フォームを送信……完了しました』
「タグさんが引率している、RABBIT小隊とコユキ、後から合流したホシノとアリスを含めた七人は今日が特訓の最終日のはずだ。そのまま現場で完全隔離・待機させて。……それとアロナ、今日まで一週間分のシャーレビルに入退室した全生徒、コンビニシフトの子、非常勤の職員にも同様の手配を」
『七名の現場待機を指示しました。次に過去一週間の入退館ログから、該当する全接触者……三百七十二名をリストアップ、オンライン診療の予約キューに登録完了です。先生、これ以上の感染拡散を防ぐために、直ちに防護マスクの着用をお願いします』
「今着ける」
執務室に戻った先生は、壁際に置いてある緊急用のロッカーを開け放つ。
中には護身用の火器類や医療キット、そして目当ての軍用防護マスクが備えられていた。
マスク本体や吸収缶に損傷や劣化がないか素早く目視で確認し終えると、専用の締め紐を緩める。顎をしっかりとカップに収め、マスクを顔に当てた。
下側の紐を首の後ろに回し、続いて上側の紐を頭頂部へ。紐を左右均等に引き、隙間ができないよう皮膚に密着させる。
最後はシールチェックだ。
陰圧法を実行するため、吸収缶の吸気口を手のひらで完全に塞ぐ。
そのまま軽く息を吸い込んだ時、マスクが顔に吸い付き、外周から空気が漏れないことを確認。
これらの手順に何か一つでも不備があれば、マスクは正常に機能しない。訓練で骨の髄まで染み付いた動作を、先生は念入りに、かつ淀みなく実行した。
(シュー……、コー……)
完全に装着を終えると、フィルター越しに自身の重く濁った呼吸音だけが耳に響く。
それは、穏やかな日常が完全に断ち切られ、逃げ場のない『パンデミック対応』という非日常の戦場へ再び足を踏み入れたことを、嫌というほど実感させる音だった。
先生は一つ深く深呼吸をすると、シッテムの箱を手に取り画面を確認する。
シャーレ内の詳細なマップと、生徒たちの現在位置を示す無数の赤いピン。
各生徒からの返信ログと、それに対するアロナの追加指示がリアルタイムで処理・送信されている。
指揮官たる大人と、それに完璧に同調するスーパーAI――二人の静かで迅速な連携により、感染症への速やかな一次対策が行われていった。
結論から言えば、初動対応は満点に近いものだった。
病院から駆けつけた救急車両によって、ミサキは迅速にERへと搬送された。
――初期診断結果は強毒性のウイルス性風邪、つまりインフルエンザである。
幸いにも命に別状はないと判断された。しかし症状自体は重く、絶対安静での入院が命じられることとなった。
事態はミサキ一人の発熱では収束しなかった。
その後、数時間のうちに、シャーレビルのエントランスにはサイレンを鳴らす救急車両が次々と到着し、重々しい空気が周辺を包み込んだ。
シャーレの居住区画で保護し、預かっていた四十名のアリウス分校の生徒たちの間でも、次々と急な発熱が認められたからだ。
ここで致命的だったのは、保護されたアリウス生徒たちの免疫不足だった。
最初に発症したミサキは、フウカたちによる食事療法で相応の栄養を摂っていたため、重症化の進行が遅かった。
しかし、慢性的な栄養失調状態から抜け出せていない他の生徒たちの肉体は、強毒性のウイルスに対する防壁を持たず、発熱後の症状の悪化には著しいものがあった。
「ストレッチャー、もう二台お願いします!」
「こちらの子は体温三十九度を超えています、すぐに解熱処置を!」
防護マスクを装着したセリナたち救護騎士団が、病院所属の救急隊員と連携して、発症した生徒たちを搬送していく。玄関から何人も運び出される、ストレッチャーに倒れ伏す生徒達。
玄関横には、ガスマスクを付けたヴァルキューレ警察学校の生徒が警護に当たっていた。
救護騎士団の彼女達は、先生が蒼森ミネに『空気感染を前提としたフル装備での派遣』を要望した結果、こうして現場へ駆けつけたのだ。
凄惨な光景を横目に、先生はシャーレビルの入り口にあるヴァルキューレ詰め所横に立ち、タブレット端末で各地の責任者への緊急連絡を続けていた。
防護マスクのフィルター越しに重い呼吸を繰り返し、額に滲む汗を拭う暇さえない。
だが、こもった声の口調には微塵のブレもなかった。
まずは連邦生徒会、七神リンへの連絡だ。
「リン、状況は聞いている? ……そう、その通りだからまずシャーレビル全体の消毒手配をお願い。パンデミックの可能性が高いからASAPで」
『……ッ! ご自身の体調は大丈夫なのですか』
息を呑む音の直後、冷静な行政官らしからぬ切羽詰まった声が返ってくる。
「僕は今のところ大丈夫、今日中に必ず診察してもらうよ」
通話を切り、一拍の深い呼吸を挟んで、間接的な接触が疑われる各学園へ次々と回線を繋ぎ続ける。
ミレニアムの早瀬ユウカにはコユキの隔離状況を伝え、トリニティの桐藤ナギサやヴァルキューレの尾刃カンナには事態の深刻さと後詰めの手配を迅速に要請した。
端末越しに響く彼女たちの慌てた声や気遣いの言葉に対し、先生は相手を落ち着かせるように短く、しかし確固たる声で相槌を打ち続ける。
ゲヘナ学園の万魔殿、羽沼マコトへの報告では、少しだけ意外な反応が返ってきた。
「ゲヘナ側でも給食部周辺の消毒と体調確認をしてくれるのは助かるよ。……そうだね、細かいことはイロハと相談しておく」
想定外の素早い対応の申し出に、マスクの奥でわずかに目を細める。
さらに、アビドス高等学校の奥空アヤネへ。
「アヤネ、ホシノにインフルエンザ感染の可能性が出たんだ。……うん、現在はシャーレ外部にある宿泊所で待機してもらっている。アビドスのみんなも、念のため体調の変化には気をつけて。僕は大丈夫だよ」
それ以外にも、各方面への事実伝達と根回しを数十分かけて終えると、先生は防護マスクの縁を軽く指で押し上げ、長く、重い溜息を吐き出した。そして最後に一つの連絡先をタップする。
『タグだ。……そっちの状況はどうなっている』
通信の向こう側から、しゃがれた平坦な声が響く。
「やんなるね、本当」
先生は防護マスクの奥で、小さく息を吐いて呟いた。
各学園のトップや、他の大人たちへは決して見せない、唯一の同僚であるタグに対してだけこぼれる、飾らない愚痴だった。
『こちらの状況だが、コユキの応援でここに外泊したのが良かったのか、悪かったのか』
「責任者二人、同時感染は回避したいんですが……まあ様子見ですね。それが終わるまで、シャーレは完全休業にします」
こうしてシャーレは、一日にしてその機能を全停止したのであった。
あれから一週間。シャーレビルを襲った見えない脅威の猛威は、ようやく過ぎ去ろうとしていた。
初期対応の迅速さもあり、感染拡大は最小限に抑えられた。
残念なことに、最初の感染者であるミサキとの接触がもっとも多かった錠前サオリに感染が確認されたことで、アリウススクワッドの面々は長期の休養を余儀なくされることになった。
結果、サオリとヒヨリが行う予定だった『とある大人』との面談も無期延期となっている。
感染のホットゾーンから退避した健康な所属人員――先生、タグ、そしてRABBIT小隊の面々は、連邦生徒会が手配した別施設の仮オフィスへと一時的に拠点を移していた。
無機質なパーテーションで区切られた仮設オフィスの片隅。
月雪ミヤコは、愛用のサブマシンガンを丁寧な手つきで磨き上げながら、小隊のメンバーに向けて静かに告げた。
「アリウスの先輩方は現在、長期休養中です。ここは私たちが、シャーレの実働部隊として完璧な働きを見せなければなりません」
毅然とした声とは裏腹に、彼女の心はひどく揺らいでいる。
母校の閉鎖、生存のために罪を犯す生徒たち、命のために他校の自治権を蹂躙する者、目的のために手段を選ばない大人、そして己が欲望のためなら命を賭すことを躊躇わない天才――この数ヶ月で直面したキヴォトスの矛盾と人のエゴが、彼女の信じてきた『正義』の輪郭を曖昧にさせていた。
(私の考えは、幼すぎるのかもしれない)
立ち止まれば、足元から崩れ落ちてしまいそうだった。
だからこそ、ミヤコは銃のパーツを磨く指先に無意識に力を込める。
アリウススクワッドが機能不全に陥っている今こそ、自分たちが先生の盾となり、『SRT特殊学園は健在である』と証明しなければならない。
その強迫観念にも似た使命感は、ミヤコの背筋を自然と張り詰めさせていた。
「普段通りにやれば、何の問題もない」
横で空井サキが、同じように愛銃を整備しつつミヤコに同意する。
しかし語る言葉とは異なり、整備するその手つきは固く、珍しく手元が狂った。
「あんま力まずにいこうぜ」
風倉モエが、飴玉を口の中で転がしながらも笑っている。
手元には最近支給されたばかりのポンプアクション式グレネードランチャー。
整備をするその姿に気怠さは見当たらない。彼女も無自覚に気を張り詰めているのだ。
その三人の様子を無視しているわけではないが、無言で愛銃の整備をする霞沢ミユ。
良い意味でいえば、彼女は自身のポジションに熱心である。悪い意味で言えば彼女を突き動かしているのはプロ意識などではない。
自分が少しでもミスをすれば、小隊の皆の足を引っ張り、致命的な迷惑をかけてしまう。
――そんな自傷的な考えが、彼女を集中状態へと追い込んでいた。
そんな彼女たちの四者四様の張り詰め方を、タグは観察し続ける。
彼は向かいのテーブルで、パソコンを相手にしてデスクワークをしていた。
やがてキーボードから手を離し、口を開いた。
「すこし気張りすぎではないか?」
「ご心配なく。私達は常在戦場で待機しています」
ミヤコは、タグへ冷ややかな視線を向けて返した後に、思わず目を見開く。
彼が優しさで声をかけてくれていることは理解している。
だというのに最初に反発心で対応してしまったことに、ミヤコは強い嫌悪感が湧いたからだ。
「……すみません、隊長の言う通り、気張りすぎでした」
目を合わぬまま謝意を示すミヤコ。
会った当初に比べれば、心のトゲはすり減ってきていたが未だに形が残っていた。
タグもそれ以上何も言わず、ただ無言で顎を引いた。
――連邦生徒会の執務室から先生が戻ってきた。
その傍らには、連邦生徒会の首席行政官であるリンの姿もある。
先生の表情は、いつになく険しかった。
「みんな、聞いてくれ。リン行政官から直々の依頼だ」
先生の言葉に、RABBIT小隊は瞬時に作業の手を止めて、立ち上がろうとする。
しかし先生はそれを手で制する。
タグは、入力中の書類を保存し終えてから先生のほうへ視線を向けた。
まず最初に、リンが静かに口を開いた。
「D.U.から遠く西、大陸中央付近に広がる広大な廃墟都市をご存知でしょうか。その廃墟都市を基礎とする『ブラックマーケット』についてです」
リンの説明によれば、その場所の歴史は数十年に遡るという。
最初は、行き場を失った一人の生徒が、生活の為にジャンクパーツをかき集めるための倉庫を建てたことから始まった。
倉庫の次は出荷場、飯場、宿舎、中間倉庫、警備塔――徐々に拡張されていく。
時が経つにつれ、無制限に外からの者や物を受け入れ続けて――法に守られない者や物まで集まり始めた。そうして拡大を繰り返した結果、今や巨大なブラックマーケットへと成長したのだった。
「そのブラックマーケットを発祥の時から率いてきた『女王』から、連邦生徒会へ秘密裡に接触がありました」
リンの言葉に、ミヤコたちの間にピリッとした緊張が走る。
犯罪者の巣窟を統治する長。もしSRT特殊学園が健在であれば検挙リストのトップに掲載されるべき対象だ。
「女王から提案は唯一つ。支配下にあるブラックマーケットを、正式な学園として連邦生徒会に登録したいというものです」
「なっ……!?」
サキが思わず声を上げた。ミヤコも信じられないといったように目を見開く。
「犯罪者の住み家を、公的な学園として認めるというのですか? 万一にも学園として認めた場合、ブラックマーケット当時に犯した犯罪を追及するのが極めて難しくなりますよ!」
ミヤコは感情を抑え込んだつもりだが、他者から見れば明らかに上ずった声で、学園化を真っ向から否定した。
「ええ。本来であれば『前向きに考えましょう』と連邦生徒会として返答し、有耶無耶にするところです」
リンは冷静に頷く。
「しかし、彼女は『自分はもう長くはない』と伝えてきました。彼女の死後、あの巨大な市場が完全に統制を失い、次の支配者を巡る抗争が起きれば、ようやく安定してきたD.U.の物流に致命的な打撃が入ります」
「あー、そういえばあそことレールで繋がってるんじゃん、D.U.って」
趣味の関係で、数多くあるブラックマーケットの事情に詳しいモエが思い出したように呟く。
「はい。乗り換えが必要なことにしてありますが、レールの上では直通となっています。
市場規模も大きく、仮にこことの流通に齟齬が出れば、今までシャーレの皆さんが築き上げてきたものが一瞬にして塵と帰ってしまいます。そのような事態を防ぐために、ブラックマーケットを自治区という枠組みにはめ込み、学園法を制定させたい――女王はこちらの考えを見透かした上で、今回の提案を持ち掛けています」
リンは手元の端末を操作し、地図の座標をモニターに表示させる。
「実態調査と、彼女の真意を測るため、先生に特使として向かっていただきたいのです。
……立場上、本来は女王自身が出向くべきところですが、高齢で足が言うことを聞かないとのことでした」
「あ、あの……す、すみません。女王って、おいくつくらいなんですか?」
ミユが、高齢という言葉が気になって尋ねる。
「本人の証言を鵜呑みにするならすでに齢は百を超えています。連邦生徒会が正確に把握している分には八十は超えていますね」
ミユはその答えに思わず絶句し、モエが「へえ、生きた化石じゃん」と面白そうに飴玉を転がした。
「断る理由は無いし、何よりもせっかく積み重ねてきたものがご破算になるのはよくないからね。
僕はこの依頼を受けることにした」
先生は、自身も広げていたタブレットの地図を閉じ、前を向く。
「出発は準備期間を含めて明後日早朝を予定する。人員と装備は今から相談して決めるよ」
先生が振り返り、タグとRABBIT小隊の面々を見渡す。
ミヤコは唇を強く噛み締めた。
犯罪者と交渉を行うなど、彼女の正義感、ひいては一般的な倫理観にも真っ向から反する行為だ。
――しかし、これは先生の命令であり、D.U.およびキヴォトス全体の治安を守るための重要な任務である。
(これは必要なことなんです、やらなきゃもっと酷い事態になるんです)
焦燥感と一応の納得が、なんとか迷いを押さえ込んだ。
「了解しました。RABBIT小隊、これより準備を行います」
ミヤコ達は、二人へ真っ直ぐに敬礼を返した。
準備は極めて順調に終わった――皮肉なことにシャーレが一時的に業務停止していたため、他の業務への影響を一切加味する必要がなかったからだ。
出発当日。
D.U.中央駅のホームには、今回の調査に同行する面々が集まっていた。
十二月ということもあり、全員が寒い冬を耐えられる暖かい恰好をしている。
「インフルエンザにならなくて本当によかったよ。一週間部屋に缶詰めは流石に退屈だったからねぇ」
小鳥遊ホシノが、大きく伸びをしながらあくびを噛み殺す。
彼女も潜伏期間を無事に乗り越え、先生の警護に復帰していた。
ホシノの隣では、レールガンが収まっているケースを背負った天童アリスが目を輝かせている。
「アリスも新しい町にワクワクしています。おまけに未知の遺跡探索クエストもあるだなんて!」
潜伏期間中は退屈でしかなかった彼女にとって、今回の調査に同行出来ることは喜びであった。
少し離れた場所には、キャリーバッグを転がすエンジニア部の三人の姿。
三人を迎えたのは、タグだ。
「ようやくHub関連の業務穴埋めの日々が終わったからね。慰労を兼ねて、思い切って休暇を取ることにしたのさ」
白石ウタハは、朝用の缶コーヒーを片手にしている。
「目的地であるブラックマーケットの地下には、数十年経った今でも規模不明なままの先史文明遺跡が広がっていると聞いています! エンジニアとして、その技術的価値を確かめずにはいられません!」
豊見コトリが早口でまくし立てる。今回の調査に一番熱心なのが彼女であった
猫塚ヒビキは「……おはよう、タグ。私達を誘ってくれてありがとう」と感謝を示す。
「来てくれて助かる。こちらとしても整備スタッフが現地にいてくれることは都合がいい。身の回りや宿の安全保証にかかるコストに比べれば、安いものだ」
とエンジニア部を誘った張本人であるタグは、背広の上にコートを纏った姿で応じた。
先生、タグ、RABBIT小隊、エンジニア部、ホシノ、アリス――総勢十一名は、貨物と客車が連結された長距離列車へと乗り込んだ。
乗り換えを含めれば、二日がかりの長旅。夜は、中間駅のホテルで宿泊という予定になっている。
そして列車は定刻通りに出発した。窓の外ではD.U.の景色が流れていく。
貨物車両には、整備と装備換装を終えたATが厳重に固定され、静かにその時を待っている。
車輪が軋む音とともに、列車はゆっくりとD.U.を離れ、西の荒野へと滑り出した。
一等客車のボックス席、窓際に座るミユが旅のしおりに書かれている予定表を見つめながら口を開いた。
「あ、あの……こんなに時間がかかるなら、ヘリや飛行機で行ったほうが早かったんじゃ」
向かいの席でモエがタブレット片手に、呆れたように肩をすくめる。
「出発前に隊長と相談したんだけどね。ヘリでATを宙吊りにして飛ぶのは目立ちすぎるし、飛行機だと重量限界や積み込み物に制限あるから無しってことになったの。……あとは先生の気晴らしって理由」
モエの隣、通路側の席に座るサキが、右手に薄い紙束――ミユが持っていたものと同じ物――である手製の旅のしおりを掲げる。
「ホシノ先輩がさ、『先生あんまり顔色良くないから』って言い出すから、一緒にこれ作ったんだ。それを先生に見せたら、すごく顔輝かせちゃってさ。……今回のインフル、メンタル方面で一番ダメージ受けているのは先生だからな」
「先生、最近塞ぎこみがちだから、たしかによかったかも……」
ミユは、ここからでは見えない専用客車にいるだろう先生の方へ、そっと目線を向けた。
「……列車の上とはいえ、警戒は怠らないように」
ミヤコが小隊長としての張り詰めた声で、場を引き締める。
「こっちは西側ですけど、東側のほうでは列車強盗犯罪が多発しているとの情報もあります。こちら側でもあって当然と思うべきです」
「ゲヘナとトリニティの間とか、アビドス砂漠の迂回ルートとかはマジで酷いんだよねぇ」
モエが、ガムを噛むのを一旦やめて答える。
「D.U.でようやく犯罪率が減ったと思ったら、主な犯罪者連中は外にシノギを移したってことか。まあ、そいつらもそろそろ狩られる運命だがな」
サキがニヤリと好戦的な笑みを浮かべた。
「え?」と、ミヤコが訝しげに首を傾げる。
「ああ、隊長と世間話してた時に知ったんだ。スコープドッグ用の『サンドトリッパー』っていう砂漠走破用の脚部ユニットが完成したら、今度は砂漠で列車強盗する連中を検挙するらしいぞ」
サキの発言に、ミヤコは自分の記憶を確かめるように確認を取る。
「砂漠戦なら、たしかバーグラリードッグという形態があったと思いますが?」
「ありゃ不整地走破用だ、砂漠には特化してはいない。あとバーグラリードッグは、ローラーダッシュで砂塵を大量に巻き上げて目立つから、追跡に向いてないのが難点だってさ」
「そっか、砂漠の迂回ルートを襲っている連中って、警備隊が来ると砂漠の奥に逃げ込んで追えなくなるんだっけ。……奥まで追跡して列車強盗本隊の一網打尽を狙ってるわけね」
モエの言葉に、サキが我が意を得たりと頷く。
「アビドス砂漠は電磁波の通りが悪いからな。現地に詳しい案内人がいないと、GPSが役に立たなくてあっという間に迷子だ。そして警備隊にいつも案内人がいるわけじゃない。だから泣く泣く追撃を諦めてたんだ。……悔しいだろうな」
その言葉尻には、強い同情が込められていた。
「じゃあ『さんどとりっぱー』が完成するのを待たないでゲヘナ=トリニティのほうから先に検挙すればいいんじゃ……?」
思わずミユが疑問に思う。それに答えたのは、先生とタグの意図を理解したミヤコだ。
「ミユ、それじゃ駄目です。もしゲヘナ=トリニティ区間のほうを先に抑えたら、強盗たちの次のシノギはどこになりますか?」
「……アビドスルート?」
「その通りです。ミユ、だからこそアビドスルートを先に抑える必要があるんです。
仮にゲヘナとトリニティは、自領の主要ルートの安全を確保し終えたら、それ以上の捜査からは手を引くでしょう。そうなれば、手薄になったアビドスルートの被害が酷いことになります」
ミヤコは一切の感情を交えず、大学園の冷酷な政治的打算を淡々と分析した。
「そ、そんな見捨てるような酷いこと、しないんじゃ」
「します。残念ですが、他校を無償で助けるほどの義理は彼女たちにはありませんから」
怯えるミユの甘い期待を、ミヤコはここ数ヶ月で直面した為政者と大人のエゴという冷酷な事実で切り捨てた。
「なるほど、アビドスルートを先に抑える形にすれば、最後まで三大学園の援護が期待できるってわけか」
サキは腕を組み、先生と兵士の戦略的判断に感心したように深く頷いた。
「まあそういうわけで、この任務が終わったら次はそっちに駆り出されるかもねー」
モエは手元のタブレットから視線を外し、ガムを口内の端に寄せた。
「アタシ、ヘリ勤務がいいな。冬でも砂漠なんて暑そうだし、汗かくの最悪じゃん」
「聞いて驚け。アビドスは十二月でも日中は二十度超えだ」
サキがサバイバル知識を披露するように、得意げな口調で告げる。
「それに、これはあくまでアビドス高等学校の敷地内での観測データだ。遮るもののない砂漠のど真ん中は、三十度を軽く超える。だから砂が靴底を焼くくらいには熱を持ってるぞ」
「マ?」
モエの気怠げな表情がサッと引きつり、ガムを噛む動きがピタリと止まる。灼熱の砂漠での行軍という地獄を想像したのか、彼女は心の底から嫌悪するように低く吐き捨てた。
「……絶対に、ヘリ勤務する。エアコンが効いてないところなんて、死んでもごめんだからね」
一方、遠方への任務へ赴いた本隊を見送った後、シャーレに残った者たちにもそれぞれの役目があった。
ミカはシャーレに残り、健康な子たちの世話をしながら先生の帰りを待つという。
綿マスクをつけながら、「私頑丈だから!」と通信越しにナギサへ告げるミカ。
アツコとヒヨリもまた同じくシャーレに残り、ミカの作業を手伝っている。
感染の恐れはまだあるが、それが彼女たちの手と足を止める理由にはならなかった。
そして、潜伏期間を無事に乗り切りミレニアムへと帰還した黒崎コユキは――現在、絶望の淵に立たされていた。
「黒崎コユキ。……貴女には私と一緒に、ホワイトハッカーの基礎をみっちりと学んでもらいます」
ヴェリタスの部室。
風邪から立ち直った明星ヒマリの口調には、いつもの『超天才清楚系病弱美少女ハッカー』といった大仰な自画自賛は一切含まれていなかった。
車椅子に座る彼女の顔には微笑みが張り付いているが、その瞳の奥には氷のような冷たい怒りが沈んでいる。
先日コユキが引き起こした事件は、一歩間違えれば三大学園同士による全面抗争の引き金になりかねない、極めて致命的なやらかしだったのだ。ヒマリが内心でどれほど激怒しているか、その静けさが雄弁に物語っていた。
対するコユキは、オフィスチェアの上でガタガタと震え、隠しきれない威圧感を放つ先輩の姿に完全に狼狽えていた。
「え、あの……特訓を全部こなしたらやらなくていいって約束は……」
その弱々しい口調からは、普段の生意気な活発さは完全に消え去っている。
「ええ、ユウカによるマンツーマンの指導は確かに取りやめました。――ですが、他の者が指導を行わないとは一言も言っていません」
ヒマリが、感情の温度を一切感じさせない平坦な声で逃げ道を完全に塞ぐ。
さらにコユキの側頭部には、冷たい金属の感触――ショットガンの銃口が容赦なく押し当てられていた。
「逃げてもいいけど、その場合遠慮なく撃つよ。……もし逃げたら、その度にタグへ連絡が入るからお勧めしない」
和泉元エイミが、室内の凍りつくような空気に同調するように無感情な声で告げる。
その「タグへ連絡が入る」という一言は、弾丸以上の威力でコユキの心臓を撃ち抜いた。
気前の良い兵士であり、自分の能力を頼りにしてくれるオジサンに愛想を尽かされることだけは、今のコユキにとって何よりも避けたい事態だったからだ。
「期間は、どれくらいで……?」
置かれた状況に対して完全に観念したコユキが、涙目でようやく絞り出した問い。
「私が『合格』と言うまでです」
ミレニアムの『全知』からの、有無を言わさぬ死刑宣告が、コユキの心に真っ直ぐに突き刺さった。
連邦生徒会とブラックマーケットの女王、双方からの好意と打算により用意された特別列車は、キヴォトスの一般的な規格を大きく凌駕する豪勢な造りだった。
重厚なマホガニー調の木材がふんだんに使われたVIP用の特別客室。
革張りの深いソファに腰を下ろした先生は、窓の外を飛ぶように流れていく西の荒野の景色を眺め、静かに息を吐いた。
「列車での長旅というのは、実は初めての経験なんですよ」
向かいの席に座るタグへ向けて、気負いのない声で話しかける。
コートを脱いで背広だけを羽織ったタグは、客車添乗員から出されたばかりの温かい紅茶のカップをテーブルに置き、平坦な声で返した。
「俺は軍の作戦で、列車で長距離を輸送された経験なら何度かある。だが、このような柔らかいシートに座って移動するのは初めてだ」
先生のほうは、温かい緑茶の入った陶器のカップを手にしている。この後仮眠を取るつもりで、コーヒーを控えたのだ。
「軍の輸送列車ですか。乗り心地はあまり良くなさそうですね」
「運が良ければ貨物室の床で他の兵士と一緒にごろ寝。悪ければ、出撃に備えて何時間もATのコックピット内で待機させられる。どちらにせよ、快適とは程遠い」
淡々と語られる記憶に、先生は「それは大変だ」とだけ短く同情を示した。
暖房が良く効いた列車、そして快適なシートで運ばれる経験に、兵士が少し姿勢を緩めるのも無理はないかと先生は考える。
現在の列車の警備体制は、極めて特殊かつ綱渡りのような状態にある。
後方車両には、D.U.の治安維持を担うヴァルキューレ警察学校の生徒たちが乗車している。
そして前方車両には、ブラックマーケット側から出迎えとして派遣された『スウォーム部隊』が控えている。
正規の警察機構と裏社会の武装勢力が同じ列車に乗り合わせている異常事態だ。
両者が顔を合わせて不要な摩擦が起きないよう、中間車両にはミヤコ率いるシャーレの部隊が緩衝材として配置され、相反する二勢力との連携を取っていた。
――特別客室の分厚いドアが控えめにノックされた。
「どうぞ」
タグの短い応答とともにドアが開き、一人の大人が姿を現した。
仕立ての良いビジネススーツを隙なく着こなしているが、その頭部には犬の耳があり、顔の構造も獣のそれだ。キヴォトスには一定数存在する獣人である。
「お初にお目にかかります、シャーレの先生。私はスウォーム部隊の一席を預かる指揮官、ダゴスと申します。今回は女王の誘いに乗っていただき、心より感謝申し上げます」
ダゴスは深く、洗練された動作で一礼した。
しかし、その丁寧な振る舞いとは裏腹に、スーツの懐が不自然に膨らんでいるのを先生とタグの目は見逃さなかった。大口径の拳銃が隠されている。
さらに、ダゴスの獣の顔には斜めに走る深い刃物の傷跡があり、ピンと立った右耳は根元から数cmのところで千切れていた。長年、暴力と背中合わせである裏社会を生き抜いてきたことの、何よりの証明だった。
ダゴスが一歩進み出て、先生へ向けて握手を求めて右手を差し出す。
――その手は、小指と薬指の第一関節から先が欠損している。
普通の生徒や一般的な大人であれば、その生々しい欠損と彼が纏う血の匂いに顔を引きつらせるか、わずかに躊躇する場面だ。
だが先生とタグの二人は、その手を見ても顔色をまったく変えなかった。
立ち上がった先生は、一切のためらいなくダゴスの欠損した右手をしっかりと握り返した。
「ご丁寧な挨拶、痛み入ります。道中の警備、よろしくお願いしますね」
タグもまた立ち上がり、一言添える。
「手厚い警備に感謝する」
欠損した部位へ視線を落とすような無粋な真似はせず、相手がくぐり抜けてきた死線への敬意を示すように、ダゴスの手を力強く握り返した。
その一瞬のやり取りで、ダゴスの細められた瞳に明らかな驚きと、そして強い歓喜の色が浮かんだ。隠しきれないのか、スーツの後ろから覗く犬の尻尾が、機嫌よく左右に揺れている。
(この大人たちも、鉄火場を知っている)
言葉を交わさずとも、彼らは互いの背景にある『匂い』を正確に嗅ぎ取っていた。
「……恐縮です。ところで、先生」
ダゴスは機嫌の良さを隠し切れない声で、客室のドアの外、通路に直立不動で控えている自身の部下たちを手で示した。
「先ほど、警備の配置を確認して回りました。我がスウォーム部隊は、生徒による短期雇用の傭兵と生え抜きのオートマタ兵士による混合編成です。先生の目から見て、我が部隊の仕上がりはいかがでしょうか」
率直な問いかけに、先生は列車搭乗時にすれ違った部隊の姿を思い浮かべる。
そこには、武装した生徒たちと機械兵が、一切の私語を発することなく、完璧な死角のカバーリングを維持して配置に就いていた。
スラムのゴロツキのような無軌道さも、ヘルメット団のような乱暴さもない。極めて統制のとれた、軍隊そのものの練度だった。
先生は少しだけ目を細め、教育者ではなく、一人の指揮官として抑揚のない声で事実を告げた。
「極めて優秀です。索敵の視線移動、銃の保持角度、カバーリングの緻密さ、どれをとっても隙がありません。……正直なところ、敵に回したくない相手ですね」
「最大級の賛辞、光栄の至りです。……女王も、先生とお会いできるのを心待ちにしております。では失礼します、何かあればお呼びください」
ダゴスは満足げに深く一礼すると、足音一つ立てずに客室を辞していった。
ドアが閉まり、再び列車の走行音だけが部屋を満たす。
タグはソファに座り直し、座席の保温板で温められた紅茶を一口飲んだ――この設備一つをとってもこの客車が豪奢であることの証明であった。
「ただの歓迎の挨拶ではないな」
「ええ。女王からの、明確な戦力の誇示です」
「この規模の部隊を複数抱えているわけか。手綱が効いているうちはいいが、統制を失えばどうなるかは考えたくもないな」
先生もまた席に戻り、険しい顔で窓の外に視線を向けた。
これほどまでに精強な私兵部隊を組織し、統率するブラックマーケットの女王。
彼女が連邦生徒会に提示した『学園化』という要望は、単なる老い先の思いつきなどではない。
キヴォトスの勢力図に一定の影響を与えることになるだろうという確信を、二人は共有していた。
特別列車は険しい山脈を越え、鬱蒼とした森林を抜け、赤茶けた荒野を切り裂くように西へと走り続けていた。
昼頃までは、文字通り快適な旅となった。客室の温度は適切に保たれ、車体の揺れすらほとんど感じさせない。
何より特筆すべきは、提供された『食事』であった。
まず特別客車。
先生とタグが座っているテーブルには純白のクロスが敷かれ、なんと専属の給仕によって本格的なコース料理が振る舞われたのだ。
前菜からメインの肉料理、食後のデザートに至るまで、完璧なタイミングで運ばれてくる。
「……随分と豪勢な歓迎ですね」
「先生。豪勢という一言で済ませていいのか、これは」
先生はフォークを置き、向かいに座るタグと顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。
生徒には無条件の信頼を寄せる彼だが、女王からの過剰な厚遇には、どうしても疑いの目を向けてしまう。
(これだけの接待を用意するということは、それだけこちらに『飲ませたい条件』があるということだ。……高くつかなければいいけどね)
打算と警戒心を、極上のソースの味と一緒に飲み込む。
対するタグもまた、内心で深い溜息をついていた。
出された肉料理を咀嚼する――溢れる肉汁、そして歯を使うまでもなく舌の上で溶ける肉の感触に危うく思考が停止しそうになる。
(ギルガメス軍の将官クラスでさえ口に出来るかどうかだな、これは)
かつて自分がいたアストラギウス銀河の、貧相な食糧事情を思い出す。
不意に湧き上がる故郷への愚痴を、美味すぎる食事と共に胃の腑へと流し込んでいた。
一方、彼らを護衛する生徒たちが待機する一等客車でも、別の意味で静かなパニックが起きていた。
RABBIT小隊とアリス、ホシノに支給されたのは、黒塗りの重厚な木箱に漆の装飾が施された『超高級駅弁』であった。
しかも蓋を開ければ、高級そうな肉や色鮮やかな海鮮、いかにも手間をかけましたという惣菜が目一杯敷き詰められた三段重である。
「……これ、本当に私たちが食べていいものなんですか?」
「い、一食で私たちの食費が何日分飛ぶんだ、これ……」
ミヤコとサキはようやく言葉を絞り出した。
RABBIT小隊の四人は、先日、聖園ミカが体操マットを素手で叩き壊したのを目撃した時とは全く違うベクトルの恐怖で、顔面蒼白になって固まっていた。
日頃から栄養面を第一にしているとはいえ、基本的に節制している彼女たちにとって、この弁当はもはやオーパーツに等しかった。
ミユは弁当のあまりの豪奢さに、思わず目が虚ろになりかけている。
モエは苦笑いを浮かべながら、震える手でスマートフォンを取り出した。
「しゃ、写真……とりあえず写真、撮ろっか?」
極度の緊張状態にあるSRTの面々をよそに、アリスとホシノの二人は目を輝かせて豪華な弁当箱を開いていた。
「わぁ! 宝箱を開けたらすごいアイテムがたくさん入っていました! アイテム図鑑のグラフィックでも見たことが無いような、とても綺麗な食べ物です!」
「うへ~、こりゃすごいねぇ。おじさんもこんな立派なお弁当はさすがに想像外だったよ」
ホシノは慣れた手つきで殻付き海老の身を箸でつつく。
意外にも彼女は、この弁当に対して驚きこそしているが、それだけだった。
(ノノミちゃんが、たまにこれと似たような『お弁当』を持って登校してきたことがあったからねぇ。あのお嬢様の規格外な振舞いのおかげで、多少は免疫があるんだよね)
心の中でかつての日常に感謝しつつ、対面で歓喜するアリスへ優しく微笑みかけた。
「……アリスちゃん、このお弁当箱はしっかりした木で出来てるから、食べ終わった後に洗えば普通に使えるよ。捨てちゃダメだからね」
「ホシノ先輩が物知りで助かりました! アリスもこの立派な宝箱を捨てるのは勿体ないと考えていたので、とっておきます!」
無邪気に笑い合う二人を見て、ミヤコたちはさらに胃が痛くなるのを感じていた。
そして、隣のボックス席に陣取るエンジニア部も、全く同じような反応を示していた。
「……原価計算をするのが恐ろしいね。木目の入り方からして、この容器は使い捨ての安物じゃない。これの加工費だけで、ちょっとした家電が買えそうだ」
「使われている食材の市場価格と、冷めても味が落ちない高度な調理技術を持つ料理人の人件費を計算すると……いえ、やめておきましょうか!」
ウタハが冷や汗を流しながら箸を止め、コトリは早口で捲し立てた末に、潔く計算を放棄することにした。今はこの異常な弁当に大人しく舌鼓を打つのが最適解だからだ。
ヒビキだけは無言で黙々と惣菜やら肉、米を口に運ぶ。
当然だが、弁当は冷えているというのに食材の柔らかさは保たれている。
冷めた脂の嫌な食感や生臭さなどとは一切無縁。口に含む度に未体験の衝撃が舌を襲ってくる。
ヒビキの背中では尻尾が落ち着きなくパタパタと揺れ続けており、隠しきれない動揺を雄弁に物語っていた。
一方、前方車両に待機しているヴァルキューレ警察学校の生徒たちにも、同じ豪華な弁当が配給されていた。交代で食事休憩に入った彼女たちは、配られた重厚な木箱の蓋を開けた瞬間、一様に息を呑んで固まっていた。
「ねえ。私たち、もしかしてこれから死地に送られるの?」
「バカ言わないでよ。でも、このお弁当見たらそう思っちゃう……お肉が、光ってる!」
「これ、本当に食べていいんだよね? 後からお給料から天引きされたりしないよね!?」
身にまとう装備を傍らに置いた彼女たちは、箸を持ったまま信じられないものを見るように弁当を囲んでいる。このような高級食材は、テレビや雑誌の向こう側の存在でしかなかったからだ。
「シャーレの先生の護衛任務だから? それとも、依頼主のブラックマーケットの女王様って人がすごい太っ腹なのかな……」
「どっちでもいいよ! 冷めてるのにこんなに柔らかいお肉、初めて食べた。……うぅ、一生この任務が続けばいいのに!」
感極まって涙ぐむ者や、一口ごとに大げさなため息を漏らす者。
普段は激務に文句をこぼしがちな警察学校の生徒たちだが、この弁当一つで彼女たちのモチベーションは完全に限界を突破していた。
朝の挨拶を最後に、スウォーム部隊の指揮官であるダゴスが先生たちの前に姿を見せることはなかった。
単に彼が先生の相手をする暇もないほど多忙であったというのも理由の一つだ。
だがそれ以上に、ミヤコが指摘した『列車強盗の多発』という懸念が、警備部隊のトップである彼の心中を騒がせていることは明白だった。
見えない緊張感が、前方車両を中心に静かに充満し始めている。
当のダゴスは今、前方車両の一角に設置された、鉛筆ほどの隙間もない防諜用の狭い通信カプセルの中にいた。
外部とのあらゆる電波を遮断・暗号化するその息苦しい空間で、彼は本拠地であるブラックマーケットと秘密裏に通信を交わしている。
『ダゴス、どうやら嗅ぎつけられたようだ。列車を狙う連中がいくつか動き出している』
通信機のスピーカーから聞こえてきたのは、ダゴスの同僚であるタヌキ型獣人、ザスの声だった。
彼も別口のスウォーム部隊を率いる部隊長だ。
『私のほうで鼻先を叩いて回ってはいるが、漏れが無いとは言い切れないな』
「反対派のリークか」
ダゴスは狭いカプセルの中で腕を組み、低く唸るように尋ねた。
「……ザス、やはり『懸念』を捨てきれない者が多いのか」
通信の向こう側で、ザスが短く息を吐き、苛立ちを隠そうともせずに声を荒らげる。
『捨てられるものか。三月にあの先生がキヴォトスへ現れてから、女王の体調は緩やかに、だが確実に悪化している。偶然だと言い切るには、あまりに出来すぎたタイミングだ。
物理的に二人の距離が近づくことで、女王が更なる干渉を受ける可能性を否定できない。
呪いか、それとも共鳴か……どちらにせよ、これ以上女王を衰弱させるわけにはいかんと考えるのは当然だ。俺も立場が無ければ参加していた』
立場が無ければ、と吐露する同僚の心の叫びに、ダゴスは言葉が無かった。
もしやザスも反対派なのではないか、と懸念がもたげる。思わず、自身の欠損した指の先を、無意識になぞった。
そして決心したかのように告げる。
「ザス、この通信は俺とお前だけだ。お前は、どういう終わりを考えている?」
通信の向こう側で、ザスが沈黙する。静寂の中、聞こえるのは列車がレールを走る音だけだ。
『……女王が、穏やかに眠れることだけを望む』
絞り出すようなザスの答えに、ダゴスの胸に渦巻いていた『裏切り者』という最悪の予想がふっと溶けていく。
「俺は、最後くらいは女王に玉座から離れてもらい、自由な一市民にもどってもらいたいと考えている」
互いの本心――女王の安寧を第一とする忠誠心――をテーブルに乗せた数秒後。
通信機の向こうで、ザスが毒気を抜かれたように短く鼻を鳴らした。
『俺とお前、両立は出来るな』
「なら、信じよう」
ダゴスは通信を切り、カプセルの重いロックを解除した。
昼食を終え、ティータイムのコーヒーと紅茶を楽しんでいた先生とタグの前に、ダゴスが再び姿を現した。
その顔には朝の柔和な笑みはなく、特別列車の総責任者としての険しい表情が浮かんでいる。
「先生、ご心配をおかけして申し訳ありません。……おそらくこの列車への襲撃が起きる可能性があります」
客室内に走る緊張。
ソファに深く腰掛けていた先生は、コーヒーのカップをソーサーに戻す。
冷徹な指揮官の顔つきに変わった彼は、動揺する代わりに、極めて静かに問いを返す。
「襲撃の相手は、誰なのか予測が立っていますか」
自分たちの命が脅かされるという通告に対し、一切の狼狽を見せないその胆力。
ダゴスは内心で深く満足しながら、自身の予測を語り始めた。
「おそらく、ブラックマーケットの支配権を奪いたい他企業や、別のブラックマーケットの者でしょう。先生と女王が出会うことで、現在の支配体制に変化が訪れることを恐れている者がいます」
(外部の敵、ね。……それにしては、敵の初動の対応が早すぎる。内部からの情報漏洩を疑うべきだが、彼はあえて身内の恥を隠したか)
先生はダゴスの言葉の裏にある不都合な事実を瞬時に察しつつも、あえてそれに触れる無粋な真似はせず、静かに話を合わせた。
「支配者の健康に陰りが出てきた今を狙っているんだね」
先生の的確な、しかし核心を外した指摘に、ダゴスは安堵したように獣の耳を伏せた。
「……お恥ずかしい話ですが、女王は日に日に弱っております。それを狙い目と考える者が、女王が弱りゆくごとに増える毎日です」
隠すべきトップの弱みを自ら開示したダゴスの誠意。
それを受けて、タグが背もたれから上体を起こし、しゃがれた声で口を開いた。
「自衛の準備もしてある。……互いに変なしこりは作りたくない。襲撃があればこちらも手を貸そう」
タグの提案は善意からのものではない。
自分たちの身の安全を確保しつつ、ここで貸しを作っておくことが、今後の交渉において最も合理的なカードになるという判断だ。
その提案に、ダゴスは目を見開き、深く頭を下げた。
「……! そのお申し出、心より感謝します」
そして、その時は来た。
太陽が西へ傾き、時計の針が午後三時を回ろうかという頃。列車に搭載された軍用規格のレーダー、その一次警戒ラインの端に、微かな反応が点滅した。
「……来たか」
先頭から二両目に位置する中央指揮車。薄暗いモニターの光に照らされたダゴスの犬耳が、ピクリと反応を示す。
襲撃そのものは避けられなかったという事実に落胆を覚えつつも、彼の口元には獰猛な笑みが浮かんでいた。
「こっちのレーダー手は、今日のために最高の人員を用意したのが正解だったな」
ダゴスは、見えない敵に対してこちらが完全に先手を取れたというアドバンテージに、指揮官としての歓喜を隠そうとしなかった。
中央指揮車には、ダゴスの要請で先生が招かれていた。
壁面に並ぶ無数のモニター群を前に、ダゴスは目前の盤面と「このゲームのルール」を端的に説明する。
「先生。今回の防衛戦における我々の敗北条件は、先頭と最後尾、計二台の動力車の機能停止です。逆に言えば、それさえ死守できれば走り抜けられます。……敵による、進行先のレールの直接破壊はあり得ないと断言していいでしょう」
その説明を聞き、先生は腕を組みながらモニターに視線を走らせた。
「そこが疑問なんですが……。僕が相手の指揮官なら、この先のレールを適当に爆破して、列車を強制的に脱線・遅滞させるのが最も確実だと思います」
軍事的なセオリーに則った先生の指摘。しかし、ダゴスは首を横に振った。
「理屈はそうですが、二車線のレールで構成されたこの輸送網は万人にとって特別でして。レールを二列とも破壊し、物流の大動脈を完全に絶つことは、多方面に深刻な悪影響を及ぼします。
万一、下手人であることが割れれば、キヴォトス中のあらゆる組織から袋叩きにされるでしょう。ハイリスクすぎます」
「なるほど……。列車の動力を破壊して一車線だけを塞ぐ程度なら、あなた達の抗争では『許容範囲』というわけですね」
「そう思って頂いて結構です」
暗黙のルール、あるいは戦争の作法。それを瞬時に理解した先生の適応力に、ダゴスは満足げに頷いた。
「ところで、タグ殿は?」
「すでに後方貨物室のATに搭乗し、スタンバイしています。合図があれば、いつでも出られますよ」
「……先手を仕掛けたいと考えています。まさかこの列車に、陸戦用の機動兵器が搭載されていると考える酔狂者は、相手の指揮官も含めてまずいないでしょうから」
「僕も賛成です。では、初手の用意を」
ダゴスは無言で頷き、直ちに全車両へ向けて迎撃準備の号令を下した。
号令と同時に、列車全体が巨大な要塞へと変貌していく。
一般乗客たちは、スウォーム部隊の誘導に従い、最も装甲の厚い中央部の防弾・防爆車両へと速やかに移動を開始した。平時であれば一両しか用意されていないため、移動を告げられた瞬間、立ち乗り覚悟のすし詰め状態を誰もが予想していた。
しかし、女王からの手配であったこの特別列車は、万が一の事態を想定していたのか、避難用車両が二両も連結されている。
乗客は、床に座る形を含めても全員が足を伸ばせるだけのスペースが確保されていることに安堵の息を漏らし、不満の声を上げることもなくすんなりと移動を完了させた。
空になった客車では、ヴァルキューレ警察学校の生徒とスウォーム部隊の兵が、窓を全開に放ち、機銃用のラックを手際よく窓枠に増設していく。
その銃座の一角、SRTの制服に身を包んだサキとミヤコも配置に就き、銃座と一体化した愛銃の最終点検を行っていた。
中央指揮車では、モエが情報端末の一つを貸してもらい、その前に陣取っている。
端末画面を睨む瞳は鋭い。シャーレの生徒全員が送ってくる各種データと外部センサーの情報を並列処理し、完璧なオペレート環境を構築していた。
「RABBIT4、およびアリスちゃん。……屋上配置、完了、しました……!」
通信機から、激しい風切り音に負けまいと、必死に声を張り上げるミユの報告が入る。
「フィールドギミック『強風』による命中率ダウンのデバフが発生しています! ですが、ここはスナイパーや勇者にとって高所ボーナスが得られる有利ポジションです!」
続いてアリスの元気な声が重なる。高低差を利用した自由な銃座として、二人は車両の屋根に伏せ、吹き荒れる風の中でそれぞれの得物を構えていた。
狙撃に自信のある兵や生徒も、同様に屋根に上ってきている。
最後尾の貨物車両。
薄暗い空間で、装甲騎兵は低いアイドリング音を響かせ、降着姿勢のまま待機していた。
その丸い左肩の装甲の上には、タグとともに遊撃戦力として期待されているホシノが器用に跨っていた。防弾シールドを背中に回し、ショットガンを構えている。
コックピット内のタグから、外部スピーカー越しに平坦な確認の声が飛ぶ。
『ホシノ、ハーネスと機体の連結は大丈夫か?』
「オッケー、完璧だよ」
ホシノは身にまとったハーネスから、背面のミッションパックへと伸びる命綱を掴み、ぐっと体重をかけて接続の強度を確かめた。
「急旋回で振り落とされても、こっちのことは気にしなくていいよ。自力でよじ上るからさ」
三度目の共闘。二度目の時に比べると、その態度にはタグへの信頼感が増していた。
『了解した。振り落とされないよう、配慮はする』
タグは短く返し、操縦桿を握り直す。
各員が準備を完了し、轟音を立てて走る列車に、不可視の戦意が急速に迫りつつあった。
エンジニア部の三人もまた、スウォーム部隊の誘導に従い、一般乗客たちと共に後方の防弾車両へと移動を完了させていた。
防弾車両の内を見渡せば、その顔ぶれは実に多様だ。
高級な仕立てのスーツを着込んだ富裕階級のビジネスマンから、油や泥に塗れた作業着姿をした下層階級の労働者、そしてどこかの学園から乗り合わせてきた他校の生徒たち。
本来なら相容れない階級の客たちが一つの狭い箱に押し込められている状況だ。
しかし、車内に棘々しい空気やパニックは一切存在しなかった。彼らにとって、移動中の銃撃戦や襲撃といったトラブルは、キヴォトスという世界において『少し長引く通り雨』程度の日常茶飯事に過ぎないのだ。
「おい、そこのあんた。その缶ビール、まだ開けてないなら一つ譲ってくれないか。こっちの高級サラミと交換でどうだ?」
「おっ、いいぜ。ちょうど塩気が欲しかったところだ」
下層市民のロボットが持ち込んでいた安酒の缶を開ける音が響くと、隣に座り込んだ富裕層の獣人が手持ちのつまみを差し出して取引を持ちかける。
ロボットはあっさりとそれに同意し、車内のあちこちで同じようなささやかな物々交換と談笑が広がり始めた。
戦闘がすぐそこまで迫っているというのに、彼らの逞しさは不気味なほどに健在だった。
車両の隅、壁を背にして床に座り込んだエンジニア部の三人も、その奇妙な安堵感の中にいた。
「ん……はい、これ。あっちの学校の子たちと、ポテチと引き換えに交換してもらった」
ヒビキが、抱え込んでいた袋の中からチョコレートの小箱を取り出し、ウタハとコトリに差し出す。受け取ったコトリが、丸い眼鏡を指で押し上げながら小さく息を吐いた。
「ありがとうございます。しかし、皆さん本当に落ち着いていますね。……群衆心理学的に見ても、パニックによる二次災害の発生確率が著しく低下しているのは、防衛側にとってはこれ以上ないほど好条件です」
コトリは理屈っぽく状況を分析して見せるが、その膝の上で組まれた両手は、祈るようにきつく握りしめられていた。
「それがここの人たちの作法なんだろうね」
ウタハは受け取ったチョコレートを一つ口に放り込み、防弾ガラスで覆われた小さな窓の外へと視線を向けた。これから始まるのは、自分たちのような技術者が立ち入れる領域ではない、純粋な暴力と火力の応酬だ。
「……タグ、大丈夫かな」
ヒビキが膝を抱え、ボソボソとした声でこぼす。彼女の腰の辺りで、尻尾が不安げに力なく垂れ下がっている。
「心配ないさ、ヒビキ」
ウタハが、愛用のレンチを握るように拳を固め、力強く言い切った。
「彼が乗っているのは、他の誰でもない、この私たちが持ちうる技術と情熱を注いで調整したATだ。……私達のマイスター魂に懸けて、ミスター・タグにはいつも通り『問題はなかった』と言って帰ってきてもらうさ」
ウタハの言葉に、コトリがこくりと頷き、ヒビキの垂れ下がっていた尻尾が持ち上がる。
「……そうだね、絶対に彼を守ってくれる」
遠く、前方の車両から衝撃と、金属が擦れるような音が響き始めた。
いよいよ、見えざる敵の刃が列車に届こうとしている。
エンジニア部の三人は、口の中に残るチョコレートの甘さを噛み締めながら、前線に立つシャーレの仲間たちと、装甲騎兵の無事を静かに祈り続けた。