装甲騎兵ボトムズ -蒼の記録-   作:ジミーボーイ

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遺志・インタルード

激しい戦闘の爪痕を色濃く残したまま、黒い鉄の塊が荒野の夕闇を切り裂き、コンクリートで舗装されたプラットホームへと滑り込んだ。

ブレーキが甲高い悲鳴を上げ、車輪とレールが擦れる焦げ臭い匂いがホームを満たす。

 

D.U.の西端に位置する境界施設、中間駅。

先頭の装甲車両は敵の飽和攻撃と指向性爆薬の直撃を受け、前面装甲が見るも無惨にひしゃげて黒焦げの骨組みを晒していた。自力での走行はとうに不可能であり、最後尾の動力車が文字通り強引に押し出す形で、列車はどうにかこの駅へ到達したのだ。

 

奇跡と呼ぶべきか、それとも執念か。

これほどの激戦と損害を被りながらも、列車の到着時刻は運行予定表の『定刻通り』であった。

 

駅のホームには、ヴァルキューレ警察学校の生徒たちと、スウォーム部隊の傭兵たちが入り乱れて警戒態勢を敷いている。

その一角、冷たい風が吹き抜けるプラットホームの柱を背にして、月雪ミヤコは愛用のサブマシンガンを抱えるようにして立ち尽くしていた。

 

無言のまま、ミヤコは視線の先で二つの群れに分かれていく乗客たちを見つめている。

一つは、バスや別路線の列車に乗り換えて他の目的地へ向かう者たち。

そしてもう一つは、ここからさらに線路の先――女王が支配するブラックマーケットへと向かうため、乗り換えの案内を待つ者たちだ。

 

『乗り換えが必要なことにしてあります』

 

出発前、連邦生徒会の七神リンが語った言葉が、ミヤコの脳裏にひどく空虚な響きを持って蘇る。

D.U.の公的なレールと、無法地帯であるブラックマーケットのレールは、物理的には完全に一本の線で繋がっている。だが、建前上「ここで一度列車を降りて乗り換える」という手続きを踏むことで、連邦生徒会は裏社会との経済的繋がりを黙認し、妥協しているのだ。

 

(これが、上に立つ人達が選んだ政治的な結末。法を守るための、法を欺く行為)

 

ミヤコは銃のグリップを握る指先に力を込める。

正義を志し、過酷な競争を勝ち抜いてSRTのエリートとなった彼女にとって、目の前で堂々と行われている公的な欺瞞は強烈な嫌悪感を抱かせるものだった。

だが、その嫌悪感すらも、今の彼女には己の無力さを誤魔化すための言い訳に過ぎない。

 

視線を下へ落とす。コンクリートの床を見つめる彼女の瞳には、かつて宿していた鋭い光はない。

 

列車防衛戦において、RABBIT小隊は先生の直接指揮下には組み込まれず、遊撃としてのフリーハンドを与えられていた。

切り通しの狭所での、指向性爆薬を用いた敵の奇策による列車の強制停止。

その未曾有の事態に対し、ミヤコは教範に従い、最も視野が広く迎撃に優位な列車の屋根上へと即座に小隊を展開させた。マニュアルに則った、極めて正しい戦術的判断だったはずだ。

 

だが、現実は彼女たちの対応のさらに外側から喉元に食らいついてきた。

屋根へ上がった直後、頭上から濃密な催涙ガスとフラッシュバンが正確に投下されたのだ。

視界を奪われ、呼吸を封じられたミヤコたちは、ただの一度の反撃すら許されず、降下してきた制圧部隊に一方的に蹂躙された。

 

(『ミヤコたちが屋根で敵の主力を引き付けてくれたおかげで、車内の防衛態勢を再編できた。君たちが囮になってくれた功績は大きいよ』)

 

戦闘終了後、泥と煤にまみれた彼女たちへ向けられた先生の言葉は、確かな労いと戦術的な評価を含んでいた。

事実、彼女たちが屋根で敵の降下部隊を釘付けにした数十秒がなければ、車内のスウォーム部隊とヴァルキューレ部隊は体勢を立て直せず、防衛線は崩壊していたかもしれない。

 

だが、ミヤコにとってそれは何の慰めにもならなかった。

 

(結果的に囮になっただけです。私たちは、敵を制圧することも、先生を守り抜くこともできなかった)

 

自力で打開できず、這いつくばり、最終的にタグやホシノといった規格外の戦力に状況を引っ繰り返してもらっただけ。部隊として、彼女たちは完全に無力化されたただの的でしかなかったのだから。

 

 

ミヤコの暗い思考を遮るように、すぐ近くから現実的な声が聞こえてきた。

 

「ねえ、ちょっとこれ見てよ……信じられないんだけど」

 

声の主は、乗客の誘導を行っていたヴァルキューレ警察学校の生徒たちだ。戦闘で汚れ、銃痕が残ったままの制服を纏う彼女たちは、ホームの片隅に積み上げられた物資の山を囲み、呆然としていた。

 

『道中の警護任務、お疲れ様でした。ザス隊長から、ヴァルキューレの皆様への慰労品です。護衛の御協力に大変感謝している、とのことです』

 

スウォーム部隊の傭兵が、洗練された動作で一礼し、立ち去っていく。

折りたたみ式のプラスチックコンテナに詰め込まれていたのは、大量のミネラルウォーターと、高エネルギーのゼリー飲料の山だった。

 

「あ、常温にしてあるから飲みやすい。ウチだと予算に限りがあるから、戦闘直後にこんな物資支給なんてまず無いのよね……」

 

12月の夜は寒い。戦闘で酷使した体に更なる負担にならぬように行われた配慮。そのプロフェッショナルなひと手間に、ヴァルキューレの生徒たちから感嘆の笑みがこぼれる。

 

「スウォームの連中、もう交代して休憩回してるらしいよ。ここは向こうのシマだって言われたらそれまでだけど……なんだかショック受けちゃった」

 

「本当だよ。警察の私たちより、犯罪者の方がよっぽど待遇いいなんてさ。……真面目に転校、考えてみようかな」

 

喉の渇きを癒やしながら、彼女たちは配給された物資を手際よく分け合い、ゼリー飲料を喉に流し込む。

潤沢な物資と余裕のある人員運用を目の当たりにし、警察としてのプライドにヒビが入ったような顔で、自嘲気味な笑いを漏らしていた。

 

その光景を横目で見つめながら、ミヤコは奥歯を強く噛み締める。

法を守る側の人間が、無法者からの施しを前にして容易く取り込まれ、警察としての威厳を失っていく。

そのあまりにも情けなく、しかし抗いがたい『資本の力』に取り込まれていく彼女たちの姿を前に、ミヤコは鬱屈となり始めていた。

 

 

「……RABBIT1」

 

足音が近づき、空井サキがミヤコの傍らに立った。そのヘルメットには戦闘で付着した汚れがまだ洗い落とされておらず、顔には極度の疲労と、何やら呆れ果てたような色が混じっている。

彼女の手には情報端末と、色鮮やかな数枚の紙片が握られていた。

 

「シャーレとヴァルキューレで受け持った分の乗客の誘導はあらかた終わった。それと、ダゴスさんたちから今後のスケジュールと対応についてアナウンスがあったんだが……笑えない冗談だぞ」

 

サキは手にした端末の画面と、紙片をミヤコに向けた。

 

「確認します」

 

ミヤコは感情の起伏を抑えた冷たく張り詰めた声で応じ、手渡された紙片に目を落とした。

 

 

同じ頃。ホームの少し離れた安全な区画では、一般客とともに防弾車両へ避難していたエンジニア部の三人もまた、スウォーム部隊からのアナウンスを受けて深刻な表情を浮かべていた。

 

「……明日の朝6時までに、本拠地であるブラックマーケットから『完全に同一編成の特別車両』を回送させ、列車をまるごと交換するそうだ」

 

白石ウタハが、手元の端末に送られてきたスケジュール表を見つめながら、信じられないものを見るように目を細めた。

 

「列車の修理や、一部車両の切り離しじゃない――どれだけの余剰があるのやら、空恐ろしくなるね」

 

「説明しましょう!」

 

豊見コトリが、丸い眼鏡を押し上げながら早口でまくし立てた。彼女の顔にも、隠しきれない驚愕の色が浮かんでいる。

 

「列車の規格が共通化されているとはいえ、先生が乗っていた高級客車や先頭の装甲車両は、一般規格外の特注品です。それをたった一晩で丸ごと用意できるということは、彼らが平時から全く同じ編成の予備車両を常にスタンバイさせ、複数を運行・維持・管理しているということに他なりません。これはもはや、一つの国家規模の鉄道網と軍事力を、彼ら独自の資本のみで保有していることの証明です!」

 

コトリの解説を聞き、ウタハは端末を握る手に力を込める。

技術者である彼女だからこそ、その事実がどれほど異常なことか痛いほど理解できた。

車両を造るだけではない。それを維持するドック、整備する技術者、そして動かすための莫大なエネルギーと費用。連邦生徒会でさえ容易には捻出できないそれらのリソースを、彼らはただの「予備」として抱え込んでいるのだ。

 

「あの潤沢すぎる資本力と独自のインフラ……」

 

ヒビキが、尻尾を不安げに垂れ下げながらボソボソと呟く。

 

「技術力はともかく、ミレニアムでも真似できないと思う」

 

ヒビキの視線は、中間駅とは呼ばれているが、D.U.中央駅にも劣らない規模を誇る駅舎に向けられている。

技術の粋を尽くしても到達できない、資本という絶対的な壁。エンジニア部の三人もまた、ブラックマーケットという得体の知れない巨大な力の片鱗を前に、背筋が凍るような畏怖を感じていた。

 

 

「驚くのは、その異常な列車の交換手配だけじゃない」

 

ミヤコたちの方では、サキが報告を続けていた。

 

「まず第一に『ご迷惑をお掛けしたお詫び』として、ここで降車する乗客に、この中間駅の各店舗で使える高額ギフト券を無条件で配布する。第二に、私たちと同じく乗り継ぎを待つ客には、ダゴスさんとは別口のスウォーム部隊が警護するホテルでの宿泊手配が無料で行われた」

 

ミヤコは息を呑んだ。乗客の総数は数百を軽く超える。その全員への補償と手配にかかる金額は、かなりの痛手になるはずだ。

 

「女王とその配下にとって、列車の運行で得られる直接の利益なんて微々たるものなんだろうな」

 

サキは紙片をポケットにねじ込み、ホームの奥に停車している半壊した列車を見やって、吐き捨てるように言った。

 

「連中にとって一番重要なのは、このブラックマーケットの物流網が安全だという『信用』だ。乗客を不快なく運んだという実績を買うためなら、これほどの出費も安い必要経費に過ぎないってことだろ」

 

サキの正確な分析が、ミヤコの胸に重くのしかかる。

 

ふと、ホームの端でざわめきが起きた。先ほどの襲撃に対して、スウォーム部隊の兵士に激しくクレームをつけていた商人や富裕層の乗客たちだ。

だが、その怒声はすぐに静まり返った。集団の前に歩み出たダゴスが、洗練された動作で深く一礼し、手に持った拡声器で、今サキが述べた補償の事実を宣言したのだ。

 

そしてダゴスの傍らに控えている部下たちが折りたたみ机をいくつも広げた。机には乗客名簿とギフト券の束、そしてホテルのルームキーと該当するホテルへの地図が書かれたプリント用紙の束が用意される。

実利という最も抗いがたい誠意を前にして、怒り心頭だった乗客たちはたちまち満足げな笑みを浮かべた。

整然と折りたたみ机の前に並び、順番にルームキーやギフト券をもらうと、その後は誰一人文句を言うことなく夜の街へと散っていった。

クレームを金と手回しで完璧に処理したダゴスは、拡声器を部下に渡すと、何人かの別の部下を伴い、先生が宿泊する予定の最高級ホテルへと足早に駆けて行った。

 

法がない無法地帯――そう蔑んでいたはずの場所が、容易く『秩序』を買い戻して見せた。

ミヤコはいらだちを隠すかのように、サブマシンガンのグリップをきつく握りしめる。

 

(お金があれば何でもできる、ということですか)

 

だが、押し寄せる嫌悪感の奥底で、彼女の理性は一つの事実を認めていた。

何が良いか、何が悪いかという単純な二元論ではない。現実の世界において何かを成し遂げるには、ただ正義という『意志』を掲げるだけでは成り立たないのだということ。

ブラックマーケットの善悪は別として、万人が納得する実利的な解決案を即座に提示して見せたダゴスたちは、ある意味で、彼らなりの公平なルールを完璧に守り抜いたようにすら思えた。

 

――ミヤコはまだ気づいていない。

この冷たく乾いた学びが、規則と教範の無菌室で生きてきた彼女にとって、後戻りできない大きな転換点であったことに。

 

明日の朝、この駅を越えれば、そこはもう連邦生徒会の法すら届かない完全な無法地帯だ。

ミヤコの心に、女王が支配する強大な自治区への恐怖と、得体の知れない新しい価値観が、冷たい泥水のようにゆっくりと染み込んでいった。

 

 

 

中間駅のロータリーでは、スウォーム部隊の指揮官であるダゴスが、到着したバスや手配された車両の差配に走り回っていた。

 

齢八十を超える獣人の老兵だが、分厚い毛皮に覆われたその動きに疲労の影は一切見られない。

的確に部下へ指示を飛ばし、クレーム客をなだめ、各方面への補償手配を淀みなく完了させていく。

『現代の電子戦や機動戦についていけないから、現場指揮を降りた』などという先ほどの言葉が嘘のように、裏社会の物流と人心をコントロールするその手腕は圧倒的であった。

 

(頭が老いたのです。せめて体を使ってやることは真っ当でありたいのです。)

 

そんな自説を証明するかのように、彼はエネルギッシュに現場を仕切り続けていた。

 

 

その光景を、はるか上層階から見下ろす視線があった。

駅に隣接する、ダゴスが手配した最高級ホテルのスウィートルーム。華美に装飾された防弾ガラス越しに、先生は眼下の雑踏を静かに観察している。

 

室内に目を向ければ、無駄なほど豪華な調度品と最高級のベッド、ウェルカムドリンクとして高価な酒瓶や果物が並んでいる。

だが、先生にそれらを楽しむつもりはなかった。

 

到着後、先生はダゴスに対し、せめて戦闘記録の精査や、自らの指揮に従ってくれたスウォーム部隊、ヴァルキューレ部隊の事後レポートの確認だけはやらせてほしいと要求した。

しかし、ダゴスは深く一礼し、それを完全に拒絶したのだ。

 

『今日はお休みください。本当に、ご迷惑をおかけしました』

 

深く頭を下げたダゴスの獣の瞳には、裏社会を生き抜いてきた男特有の、深く暗い疑心暗鬼と焦燥が色濃く滲んでいた。

 

これほど大規模な襲撃を事前に察知できず、先生と女王の極秘の会見予定が正確に漏れていたという事実。それはスウォーム部隊の同格、すなわち隊長クラスに「裏切り者」がいるという最悪の可能性をダゴスに確信させていた。

 

敵は外部だけではない。内部の裏切り者が、特使である先生の暗殺や誘拐を企てているかもしれない。

だからこそダゴスは、先生を一切の情報と現場から遮断した。

部外者である先生に疑いの目が向くのを防ぎ、同時に最も防犯設備が強固なホテルに隔離することで、物理的に命を守り抜く。それが彼なりの最大限の安全配慮だった。

 

結果として、それは一切の身動きが取れない『軟禁』と何ら変わらない。

だが、先生はその窮屈な対応の裏にある、ダゴスの必死な誠意と焦燥を正確に汲み取っていた。

だからこそあえて手足を縛られることを受け入れ、この豪華な鳥籠の中で静かに事態の推移を見守っているのだ。

 

――コン、コン。

 

静かな室内に、控えめなノックの音が響いた。先生はバルコニーから室内に戻り、分厚いドアのロックを解除する。

そこに立っていたのは、小柄な少女だった。

 

「先生」

 

アリスだ。

先生の姿を認めると、彼女はぽつりと呟いた。

普段ならば効果音を口ずさみながら飛び込んでくるはずだが、今の彼女にはその元気がない。雪のように白い肌は戦闘の土埃でうっすらと汚れ、うつむき加減の瞳には珍しく暗い影が落ちている。頭上に浮かぶヘイローも、心なしか明滅が弱い。

 

「アリス。どうしたんだい、こんな時間に」

 

先生が優しく声をかけると、アリスはぎゅっと自身のジャンパーの裾を握りしめた。

 

「アリスは……経験値稼ぎに来ました」

 

ひどく大人しい、消え入るような声だった。

列車の防衛戦において最初、アリスはミユと共に屋根の上に陣取った。高い位置から敵を狙い撃つ有利なポジションだと信じて疑わなかった。

しかし結果は、強風による命中率の低下で有効弾を出せず、さらに切り通しでの列車の危機でようやく活躍のチャンスかと思えば、容赦ない催涙ガスと閃光弾の前に何もできないまま完全に無力化されてしまった。

 

「今日のイベント戦闘では、アリスは何もできなかったので、取得経験値も評価点もゼロです。ですから……」

 

アリスは視線を床に落としたまま、自らの思惑を告白する。

 

「この絶対に安全なホテルの中での『先生の護衛』という、成功率100%の反復クエストをこなすことで、少しでも失った評価点を取り戻そうと……」

 

勇者を自認する彼女が、失敗で傷ついたプライドを回復するため、ゲームで言うところの『安全地帯での稼ぎプレイ(レベリング)』に逃げ込もうとしている。

それはある意味で、打算的で小賢しい、勇者らしからぬ振る舞いだった。

 

だが、先生はアリスのその思考を正確に汲み取り、決して笑ったり、茶化したりはしなかった。

むしろ、情緒が幼い彼女が『挫折を恐れ、安全な道で自己評価を保とうとする』という、ひどく泥臭く人間的な弱さを獲得した事実に、心の成長の一端を感じ取っていた。

ゆっくりと彼女の前に身を屈め、目線を合わせる。

 

「そっか。護衛に来てくれたんだね。安全地帯で確実にこなせるクエストを回して経験値を稼ぐのは、RPGの立派な基本戦術だ」

 

先生はアリスの頭にそっと手を置き、埃で汚れた紺色の長い髪を優しく撫でた。

 

「自分の力不足を自覚して、全滅のリスクがない場所で地道にレベル上げをしようとする判断は、間違ってない。それは人として当たり前の行動だよ」

 

その肯定の言葉に、アリスの肩がビクッと跳ねる。

 

「でもね」

 

先生は、俯くアリスの瞳を覗き込むようにして続ける。

 

「絶対に勝てるスライムばかり狩っていても、いつかレベルは上がらなくなるし、何より冒険がただの退屈な作業になっちゃう。それに、今日の戦いはアリスが悪いわけじゃない。敵の司令官が用意した初見殺しのギミックが厄介だっただけだ」

 

アリスが、恐る恐る顔を上げる。

 

「見慣れないギミックに引っかかった後、そこで全滅を避けて、無事にセーブポイントまで帰ってこれたんだ。だから、今日のクエストは『大成功』だよ」

 

顔を上げた彼女の瞳には、ゲーマーとしての共感と、先生の対しての確かな肯定が映っていた。

 

「僕のほうは大丈夫。アリス、まずお風呂はどうかな? 同室のホシノも帰ってきているはずだから、一緒にお風呂に行ってくるといいと思うよ。その後で、先生と一緒にご飯を食べに行こう」

 

「けど、アリスはそんなリワード(報酬)を貰う資格がありません」

 

なおも俯こうとするアリスに対し、先生はわざとらしく、ひどく大仰な身振りで両手を広げてみせた。

 

「じゃあ、僕が一緒にアリスとご飯を食べたい。あー! 先生、今日はたくさん頭を使ったから、アリスと一緒にご飯を食べるご褒美がほしいなー!」

 

あまりにも見え透いた大人の道化芝居。

そのわざとらしい言い方に、緊張の糸をプツリと切られたアリスが思わず「ぷっ」と吹き出す。ぎこちないが、確かな笑顔が顔に浮かんだ。

アリスの心に張り詰めていた自責の念が解け、入れ替わるように安堵が広がったからだ。

 

そしてアリスの笑顔に触発されるように、先生はもう一度彼女の頭を優しく撫でる。

先生の温かい手に撫でられ、アリスはこらえていた息を細く吐き出した。完全に晴れたわけではないが、彼女の顔に張り付いていた暗い影が、薄らいでいく。

彼女のヘイローが、本来の明るさを取り戻して明滅した。

 

「はい。アリス、一度自分の部屋に戻ります。ホシノ先輩と一緒にお風呂にいってきます」

 

小さく、だがしっかりとした声で答え、アリスはぺこりと頭を下げた。

彼女が自室へと戻っていく小さな背中を見送りながら、先生は静かにドアを閉める。

 

安全なホテルのスウィートルームで、先生はアリスを帰らせた後、再び窓越しに外の夜景を見下ろしていた。

その目はまだ外で活動している生徒たちを見つめ、そしてもう一人の大人であるタグと、彼を乗せているATの姿を、夜の帳の中に探し続けているのだった。

 

 

 

冷たい夜風が吹き抜けるプラットホームの一角で、ミヤコはサブマシンガンを抱え、サキと共に割り当てられた区画の警戒を続けていた。

限界に近い疲労を誤魔化すように、サキが時折、固まった足を解すための軽い屈伸運動をしている。

 

その時、レールの続く先の暗がりから、重苦しい駆動音が響いた。

 

闇の中から姿を現したのは、泥茶色の装甲騎兵――バウンティドッグだった。

瞬く間に距離を詰めたATは、ミヤコとサキのすぐ傍らで、相変わらずの滑らかな動作でピタリと足を止める。

 

『RABBIT小隊、現時刻を以って任務解除とする。休め』

 

外部スピーカーから響く、いつもと変わらない平坦なタグの声。

中間駅外郭の周辺偵察に当たっていたという機体には、列車での戦闘時には装備していなかった統合電子戦センサーポッドが左肩越しに存在感を主張している。

 

だが、ミヤコとサキは返事をする前に、眼前の機体の凄惨な有様に息を呑んだ。

 

D.U.中央駅を出発する前には汚れ一つなかった装甲は、今や煤や土汚れに完全に覆われ、数えきれないほどの跳弾痕が刻み込まれている。

一番目立つのは機体の左脚部側面だ。

敵の装甲列車が放った110mm連装砲の徹甲弾が掠めたのだろう。分厚い装甲が半円型に大きく抉り取られている。

断裂した装甲の奥からは、むき出しになった骨格フレームと、血液の代わりであるPR液の管、そして人工筋肉たるマッスルシリンダーが痛々しく露出していた。

 

それは単なる機械の破損でありながら、まるで内臓が飛び出しているかのような、生々しい肉体の欠損を連想させる。

ヘイローを持つキヴォトスの生徒であれば、致命傷には至らなかったかもしれない。だが、この紙細工のような装甲の向こう側にいるのは、ただの生身の人間なのだ。

ミヤコの胸に、傷口を直視したことによる生理的な嫌悪よりも先に、乗り手であるタグへの強烈な心配が沸き上がる。

 

(一歩間違えれば、隊長は死んでいたかもしれない……)

 

「命令、了解しました。……その、スコープドッグは大丈夫なのですか?」

 

ミヤコは視線をわずかに泳がせながら、絞り出すように尋ねた。

彼女の生真面目さとまだ残っている反発心が、素直に「怪我はないですか」と聞くことを邪魔し、あえて機体の名前を出して体面を保とうとしたのだ。

 

コックピットの中、タグはゴーグルバイザーの奥の瞳を僅かに細めた。

 

機体を気遣うふりをして、パイロットの安否を確認する。その回りくどいやり方に、タグの脳裏で一人の男の姿がフラッシュバックする。

かつて共に死線をくぐり抜けた、無口な友――キリコ・キュービィー。

彼もまた、他者を心配する際には素直に言葉にできず、こんな風に質問の意図をずらす問いかけをする男だった。

 

タグは操縦桿から手を離し、小さく息を吐き出す。

ミヤコという少女の抱える面倒な心の殻を、彼は難なく解き明かしていた。

 

『心配はいらない。駆動に支障はなし、PR液の漏れもない』

 

淡々とした、一切の感情を交えないしゃがれた声。

機体の状態を報告するその言葉は、裏を返せば『俺は無傷で、元気だ』という、彼なりの不器用な優しさに満ちた返答だった。

 

「隊長、お疲れ様です。……それじゃあ、自分たちは休みます。行こうぜ、ミヤコ」

 

サキとミヤコ、二人は張り詰めていた肩の力を抜き、安堵の表情で互いに深く頷く。

 

『ああ。モエとミユもタイミングを合わせて戻るはずだ。合流しろ』

 

冷たい夜風が吹き抜ける駅の片隅で、教範には載っていない、兵士と少女の静かな気遣いが交差していた。

 

 

冷たい夜風が吹き抜ける中間駅のホームを離れ、スウォーム部隊の案内でホテルへと向かうミヤコとサキ。

重い足取りの二人の前に、指揮車両に詰め込んでいた風倉モエが、あくびを噛み殺しながら合流してきた。

 

「お疲れ。アタシはさっきまでスウォームの連中と戦闘レポートの整理をしてたよ」

 

モエは口の中でガムを噛みながら、気怠げに首の骨を鳴らす。

彼女の卓越したオペレート能力と情報処理の手腕は、スウォーム部隊においても舌を巻かせるものだった。

 

「通信担当から最後まで付き合ってくれって泣きつかれたけどさ。明日も一緒なんだから勘弁してよねって、適当に切り上げてきちゃった」

 

悪びれもせずに笑うモエに続き、上空からヘリのローター音が近づき、少し離れた広場に着陸する。

強風に煽られながらヘリから降りたのは、霞沢ミユだ。

 

「あ、あの……ただいま戻りました。スウォーム部隊のヘリに乗せてもらって、明日の進行ルートの目視確認をしてきたんですけど」

 

ミユは両手を胸に抱え込み、ひどく不安げに視線を泳がせる。

 

「夜間用ゴーグルを使いましたし、見える範囲は全部チェックしたつもりです。でも、私が何か見落としてたらどうしようって、すごく心配で……」

 

その弱々しい言葉に、ミヤコは何も言わず一歩踏み出し、ミユの華奢な肩をそっと抱き寄せた。

小隊長としての確かな労わり。ミユはビクッと肩を跳ねさせた後、安心したように小さく息を吐き出してミヤコの温もりに身を委ねた。

 

 

彼女たちにあてがわれたのは、先生やタグが宿泊するのと同じ、駅に隣接する最高級ホテルだった。

案内された部屋のランクこそ先生たちのスウィートルームには落ちるものの、それでも一介の生徒が泊まるにはあまりにも過剰な広さと調度品が揃えられている。

 

「……なんつーか、金があるって偉いんだな、って考えちゃうな」

 

ふかふかの絨毯を踏みしめながら、サキが天井の豪奢なシャンデリアを見上げてぽつりとこぼした。

四人部屋のファミリールームとはいえ、巨大なベッドが四つ用意されており、窮屈さなど微塵もない。むしろ、一人一部屋という孤独を強いられるより、仲間と同じ空間にいることの方が、失敗続きの今日を生き抜いた彼女たちにとってはひどく気が楽だった。

 

荷物を置き、埃と汗を洗い流すために部屋を出た四人は、廊下で同じくタオルの入った籠を抱える三人組と鉢合わせた。

 

「おや、君たちもこれから大浴場かい?」

 

ウタハが、着替えの入ったポーチを持ち、気さくに声をかけてきた。その後ろには、コトリとヒビキの姿がある。

彼女たちエンジニア部もまた、招待客扱いとして同じく立派な三人部屋を手配されていた。

 

「ん……立派な部屋を用意されると、逆に落ち着かなくて。ぐっすり眠れるか、ちょっと心配」

 

ヒビキが、犬の耳を少しだけ下げてボソボソとぼやく。

タグの乗るATという共通の繋がりこそあれど、平時においてSRTとミレニアムの技術者が顔を突き合わせて話す機会などほとんどない。

だが、共に激しい襲撃を生き抜き、シャーレという同じ傘の下に集う者という連帯感が、七人の間の垣根を容易く取り払っていた。

 

そして、案内された大浴場の扉を開けた瞬間。

七人の少女たちは、その常軌を逸したスケールを前に完全に言葉を失った。

 

「……これ、お風呂じゃなくて、屋内プールじゃないのか?」

 

サキが呆然と呟いた通り、メインの浴槽だけで25メートルプールが四本は優に入るほどの莫大な広さを誇っていた。

立ち上る湯気の中には、薬湯、打たせ湯、ジェットバスといった種類違いの風呂が点在し、壁際には女性向けの本格的な石窯サウナまで完備されている。この場に無い浴室施設を探す方が難しいほどの充実ぶりだ。

これだけ巨大な施設でありながら、空間が広すぎるせいでまるで貸切のように錯覚してしまう。

 

少女たちはこびりついた汚れを念入りに洗い流し、広大なメイン浴槽の隅に集まって肩まで湯に浸かると、自然と、お互いの『身体』についての生々しい会話を交わし始めた。

 

「あー、もう最悪。砂埃やら硝煙やらで髪の毛ギシギシじゃん。備え付けのトリートメント、半分くらい使っちゃったよ」

 

モエが火照った顔に凍ったペットボトルを当てながら、愚痴をこぼす。

 

「硝煙くらいならまだマシですよ」

 

コトリが、湯気で曇る眼鏡を指で拭いながら、ひどく疲れた声で反論した。

 

「私たちは非戦闘員として装甲車両に避難していたんですが、突然の急加速で車内は荷物も乗客もひっくり返って、文字通りの大惨事だったんです」

 

「ん……尻尾の毛に、乗客のお茶とか、お酒とか、おつまみの匂いが染み付いてゴワゴワ。洗うの、面倒」

 

ヒビキは湯船の縁に顎を乗せ、お湯に浸からないように持ち上げたふさふさの尻尾を恨めしそうに見つめる。

 

「全く、物理的な怪我がなかっただけマシとはいえ、アルコールや食べ物の匂いを落とすのには骨が折れたね。おまけに酔っ払い客の介抱までさせられたよ」

 

ウタハもやれやれと肩をすくめ、深い溜息を吐き出した。

 

「私はもう、重装備で動き回ったせいで肩も腰もバキバキだ。……あー、ジェットバスの泡、すっげぇ効くわ」

 

サキがお湯の中で大きく伸びをし、凝り固まった筋肉をほぐす。

その引き締まった肢体を、ウタハがマイスター特有の感嘆の眼差しで見つめた。

 

「それにしてもサキ、見事な腹筋だね。日々過酷な鍛錬を積んでいるSRTならではの肉体美だ。骨格を支える筋肉の理想的な配置……技術者として魂を刺激されるよ」

 

「ウタハ先輩。その言い方、誉め言葉なんだと思いますけど、恥ずかしいです……」

 

サキは顔を真っ赤にして、お湯の中に口元まで沈み込んで身を隠す。

 

「あ、あの……ミヤコちゃん。なんだか変な匂いが染み付いちゃって。何度も洗ったんだけど、落ちてる?」

 

ミユが自身の肩口の匂いをクンクンと嗅ぎながら、涙目でミヤコを見上げる。

 

「大丈夫です、ミユ。ちゃんと石鹸のいい匂いがしますよ」

 

ミヤコはミユの濡れた髪を優しく撫でながら、ふと、お湯に透ける自分の太ももや二の腕に視線を落とした。

透き通るような白い肌には、銃弾を浴びたことで出来た青痣がいくつも残っていた。

他の六人も同様だ。ヘイローという神秘に守られているとはいえ、彼女たちが血の通った生身の女の子であることに変わりはない。

 

「……こうして温かいお湯に浸かって、みんなの傷や無事な体を見ていると」

 

ミヤコが、お湯の中で自分の腕をそっと抱きしめるようにして呟いた。

 

「私たちがちゃんと生きて帰ってこられたんだって……すごく、実感します」

 

その言葉に、全員が静かに頷く。

熱いお湯に溶けていく疲労と、肌に刻まれた小さな痛みが、彼女たちに『命の温かさ』をひしひしと伝えていた。

 

 

七人が静かな湯気の中で生身の命を実感している頃。

広大な大浴場の遥か向こう側、濃密な湯気に霞む対岸のジェットバスのエリアから、ひどく無邪気で騒がしい声が響いていた。

 

「あははっ、広い! 広すぎじゃん、最高ーっ!」

「これならいくらバタ足しても怒られないねー!」

 

水しぶきを上げる音と、二人の笑い声が響く。

あの切り通しの罠を強引に突破し、エンジニア部にお酒とつまみの雨を降らせた元凶――特別列車の双子の車掌姉妹だった。

二人も当然の権利として、このホテルへの宿泊が認められていたのだ。

 

 

 

広大なスケールを誇る大浴場で、身体の芯まで蓄積していた疲労を洗い流した七人。

火照った身体を冷ましながらロビーへと出てきた彼女たちを待ち受けていたのは、初老のホテルマンだった。

 

「順番が前後してしまい、誠に申し訳ございません。こちらが皆様のお食事用のチケットとなります」

 

ホテルマンは深々と、それこそ全身全霊のお詫びを体現するような見事なお辞儀をした。

 

「当ホテル内、およびチケット裏面に掲載されている店舗でご利用可能となります。本当は皆様がお体を清められる前にお渡しするべきところ、ご案内が遅れてしまい大変申し訳ありませんでした」

 

列車襲撃というイレギュラーな事態が起きたのだ。ホテル側の案内や手配に遅延が生じるのは当然のことだと、七人は理解している。

そのため誰も気を荒立てるようなことはせず、やれやれと肩をすくめてチケットを人数分受け取った。

 

「すまない、このチケットはどう使えばいいんだい?」

 

年長者であるウタハが、代表して使い方を尋ねる。

ホテルマンは顔を上げ、営業用の完璧なスマイルで答えた。

 

「お食事を終えられた後、ご精算時にそちらのチケットを店員にお渡しください。それで処理はすべて完了いたします」

 

――つまり、どの店でどれだけ飲み食いしようと、このチケット一枚で上限なしのフリーパスになるということだ。

 

「え、ちょっと待って。つまり好き勝手に注文していいってこと?」

 

モエが、手元のチケットとホテルマンを交互に見比べる。

 

「……ブラックマーケットの連中から施しを受けるのは、って思ったが。列車の弁当やこのホテルのことを考えると、今更か」

 

サキが、生真面目な性格ゆえに戸惑いを見せる。ミヤコもまた、一瞬だけ思案するように視線を落とした。

激戦を潜り抜け、大きなお風呂で体力を消費した彼女たちの胃袋は、すでに限界を訴えている。

 

「……私たちは、敵対してここへ来たわけではありません」

 

ミヤコは顔を上げ、どこか吹っ切れたような、凛とした声で宣言した。

 

「一応は、招待された特使の護衛として来ている味方です。出されたものをありがたくいただくのは、決してマナー違反ではないはずです」

 

「そ、そうだな! それはそれ、これはこれだ。腹が減っては戦はできないしな!」

 

サキがミヤコの言葉に力強く頷き、見事なまでの手のひら返しを見せた。

極限の状況下でも決して失われない、高校生らしい現金さと図太さ。

どれほど心が疲労していようと、タダで美味しいものが食べられるという事実の前では、小難しい政治も正義も一時休戦である。

遠慮という言葉は、すっかり彼女たちの辞書から消え去っていた。

 

「ど、どこいく? どの店も今スマホで見てるけど、めちゃくちゃよさげよ!」

 

モエがさっそく情報通らしくスマートフォンを操作し、ホテル内のレストラン情報を検索し始める。

 

「お店の説明をしましょう……と言いたいところですが、こんな機会は滅多にありません! 今日ばかりは栄養学的な観点は置いておいて、一番高価で美味しいものを摂取すべきです!」

 

コトリもまた、チケット裏面の店名リストとスマートフォンの画面を忙しなく見比べながら息巻いた。得意の解説すら後回しにするほどの熱量だ。

 

「私、お肉がいい。……いっぱい食べたい」

 

ヒビキが、期待に尻尾をパタパタと揺らしながらリクエストを出す。

 

「私もそれがいいな。みんなで一番美味そうな肉を出しそうな店を探すのはどうだい?」

 

ウタハが笑いながら加わり、七人の少女たちはスマートフォンの画面を囲んでワイワイと盛り上がり始めた。

先ほどまでの疲労感や無力感はどこへやら。美味しい食事の予感に目を輝かせながら、彼女たちは十分ほど真剣な協議を重ねる。

そして満場一致の結論を出し、ホテル内部にある最高級の『すき焼き屋』へと、連れ立って足を踏み入れるのだった。

 

 

 

ミヤコたち七人が、限界を迎えた食欲によってホテル内の高級すき焼き店へと吸い込まれていった頃。

先生は約束通り、アリス、タグ、そしてホシノの三人を連れて、同じホテル内の別の飲食店に足を踏み入れていた。

 

「ホシノは食べたことがあるかもしれないけど、タグさんとアリスは初めてだろうから、ちょうどいい機会だと思うよ」

 

夕食はあらかじめここに決めていたという先生の足取りに、迷いはない。

 

たどり着いたのは、周囲の喧騒から完全に隔離されたような、静謐な和風の店構えだった。

白木の美しい引き戸をくぐり、打ち水がされた飛び石の廊下を進む。

案内されたのは、ほのかに酢と醤油、そして檜の香りが漂う『カウンター形式の寿司屋』である。

 

「回らない寿司は久しぶりだなー」

 

先生はコートを脱ぎながら能天気な声を上げ、磨き上げられた白木のカウンター席の中央に腰を下ろした。

 

その傍らで、アリスは背負っていた巨大なレールガンを入り口の銃器スタンド横に預ける。そして目をキラキラと輝かせながら、物珍しそうに店内を見回した。

 

「……なんの香りでしょうか? 嗅いだことのない、不思議な匂いがするお店です」

 

純粋な好奇心に満ちたアリスとは対照的に、タグは表情一つ変えずに周囲の構造と退路、そして職人たちの死角を瞬時に確認していた。

染み付いた習性による安全確認を終えると、彼はアリスの隣に静かに座る。彼にとっても「スシ」という単語は知識のどこにも存在しない、完全に未知の領域だった。

 

そして、残る一人。

今日の列車防衛戦において、閉鎖空間で数十人の傭兵を単身で制圧し、『暁のホルス』としての凄絶な暴力を見せつけた少女、ホシノ。

彼女もまた先生の隣に座っていたが、まるで借りてきた猫のように背筋をピンと伸ばし、完全に固まっていた。

入り口に近い方からタグ、アリス、先生、ホシノという並びである。

 

(……どうしよう、どうしようこれ)

 

ホシノの心中からは、普段被っている『飄々としたおじさん』のペルソナが完全に剥がれ落ちていた。

視線が、壁に掛けられた木製の札をひどく泳いだままなぞっている。

 

確かに、寿司という食べ物自体が初めてなわけではない。

学園で、あまり豪勢ではない手作りのちらし寿司や、スーパーの惣菜コーナーで手に入れた半額シールの貼られたパック寿司なら、何度か口にしたことはある。

 

壁の木札には『トロ』『ウニ』『アワビ』といった品名が達筆な筆文字で書かれているだけで、肝心の『値段』がどこにも記載されていないのだ。

アビドス高等学校が抱える莫大な借金の返済に追われ、清貧を貫いてきた彼女の金銭感覚にとって、メニューに価格表が存在しない店は地獄の予兆そのものだった。

 

「あ、あのさ、先生……これ、完全に場違いなお店に来ちゃってない?」

 

ホシノは先生の袖を軽く引き、周囲に聞こえないような小声で必死に訴えかける。

列車で見せたあの圧倒的な余裕はどこへやら。今の彼女はどんな銃や爆弾、機動兵器よりも、この重厚で高級そうな店が放つプレッシャーに完全に呑み込まれていた。

 

「大将、僕以外はこういう形式は初めてだから、お手柔らかにお願いします」

 

先生はホシノの切羽詰まった抗議を笑顔で受け流し、カウンターの奥で待ち構えていた職人へと声をかけた。

 

「わかりやした。では、お任せでいいですかね?」

 

白衣とねじり鉢巻きを身につけた、寿司職人の姿をしたロボットが、威勢よく軽やかな声で答える。

 

「それでお願い」

 

先生が迷いなく頷くと、若い衆の格好をした別のロボットが奥から現れ、人数分の温かいおしぼりと、分厚い湯呑みに注がれたお茶を手際よく置いていった。

 

湯呑みから立ち上る、濃い緑色の湯気。

タグは出されたおしぼりで無造作に手を拭くと、湯呑みを手に取り、その熱と香りを静かに確かめる。

一口、ゆっくりと口に含む。

 

「……少し苦味が強いか。これが、緑茶というやつか」

 

タグは琥珀色の紅茶とは全く異なる風味を、脳内で静かに分析し、飲み干した。

キヴォトスに来てからというもの、ナギサの淹れる極上の紅茶を知り、すっかり茶の味に造詣を深めていた彼にとって、この緑茶の持つ独特の渋みと後味の甘さは、極めて興味深い新しいデータだった。

 

一方、タグの隣で湯呑みを両手で抱え込んだアリスは、恐る恐るお茶に口をつけて、すぐに顔をくしゃくしゃにしかめた。

 

「むぎゅぅ……アリスには苦いです。耐久値が減るお味です」

 

その子供らしい素直な反応に、先生は小さく笑い声を漏らす。

 

「すみません、ジュースを一つ……いや、二つで」

 

先生が職人に注文を追加した。

視線の先には、出されたおしぼりにもお茶にも一切手を付けず、両手を膝の上で硬く握りしめているホシノの姿があった。

彼女は、出されたものを口にした瞬間、後で途方もない金額を請求されるのではないかという極限の疑心暗鬼に囚われているのだ。

 

「い、いやいやいやいや、おじさん水でいいよ!」

 

ジュースという単語を聞いた瞬間、ホシノが弾かれたように両手を振って慌てふためく。

 

「っていうか先生、冗談抜きでやばいって! 時価だよ、時価! 私たちのバイト代を一か月分かき集めても足りないかもしれない金額を請求されたらどうするのさ! 借金がこれ以上増えたら、シロコちゃんに銀行強盗の言い訳を与えちゃうよ!」

 

涙目で早口にまくし立てるホシノ。

その必死な姿は、敵に無慈悲な視線を向けた『暁のホルス』と同一人物とは到底思えない。

先生は懐から、事前にダゴスから渡された黒いチケットを一枚取り出し、ホシノの目の前でヒラヒラと揺らしてみせた。

 

「大丈夫だよ、ホシノ。このホテルでの食事は、すべてこのチケットで無料になるんだ」

 

「む、無料……?」

 

「そう。ダゴスさんが、僕たちに不便をかけたお詫びとして用意してくれた最高の接待だ。だから、遠慮なくお腹いっぱい食べていいんだよ」

 

先生はホシノの頭にそっと手を置き、宥めるように優しく撫でた。

 

「敵意がない相手からの厚意なら、限界まで搾り取るのが大人の作法ってやつさ」

 

「……先生、そういうセリフは悪役が言うやつだからね」

 

ホシノは呆れたように息を吐き出したが、肩に入っていた強張りが一気に抜け、姿勢がぐんと崩れた。

金銭的な恐怖から解放されたことで、彼女の腹の底から「ぐぅぅ……」という、極限まで戦い抜いた肉体が求める正直な空腹の音が、静かな店内に鳴り響いた。

 

 

「はい、お待たせしやした! まずはヒラメからになりやす」

 

職人のロボットが、美しい手捌きで握られた艶やかな一貫を、タグたちの前に置かれた黒塗りの付け台の上へと静かに置いた。

 

タグは、目の前に置かれた『白い米の上に、生の魚の切り身が乗っている』という未知の料理を、少しだけ目を細めて観察した。

 

(生魚を、そのまま食うのか)

 

アストラギウス銀河においても、水脈を持つ一部の文明圏などでは生魚の切り身を食す習慣があると聞いたことはある。

事実、かつて在籍したレッドショルダー基地でも、故郷の味を懐かしむ同僚が配給された冷凍の魚肉を解凍し、美味そうに頬張っていた記憶がタグの脳裏の隅に残っていた。

だが、タグ自身にとっては生の魚肉を口にするという行為は、ある意味で劇薬を煽るよりも恐ろしい未知の領域だった。

 

しかし、大将の流れるような所作、一切の無駄を省いたその動きには洗練された美しさがあった。

 

タグは横目で、先生が手で寿司をつまみ、そのまま口に運ぶ動作を確認する。

そして見様見真似で、指先でヒラメの握りをつまみ上げ、職人があらかじめハケで塗ってくれた醤油の香りを確かめてから、一息に口へと放り込んだ。

 

咀嚼した瞬間、タグの動きがピタリと止まる。

 

人肌ほどの温度を持った、白酢のシャリ。その透明感のある鋭い酸味が、白身魚が持つ微細なアミノ酸の旨味を引き立てながら口の中でほどけ合う。

それは極めて精緻で合理的な味覚情報の奔流だった。

それから数十分の間。

静かな檜のカウンター席には、奇妙な沈黙と咀嚼音だけが断続的に響いていた。

 

タグは無表情を崩さないまま、次々と付け台に置かれる握り――スミイカ、赤貝、サヨリ――を、まるで目前の敵を処理するかのような正確で淀みない動作で口へと運び続けていた。

彼の脳髄は、ネタの歯ごたえ、シャリの温度、そして合間に提供される温かい茶碗蒸しや煮ダコといったサイドメニューがもたらす『味覚のリセット効果』を、極めて精緻なガストロノミーとして分析していた。

未知の美味に対する驚愕は確かにある。しかしまず無心に味わうことに彼は集中していた。

 

(……タグさん、さっきから一言も喋らないね。息、してる?)

 

ホシノが、サイドメニューのウニとイクラの茶わん蒸しを頬張りながら、隣で黙々と寿司を平らげていくタグの無機質な横顔を見て考える。

 

(……隊長、味覚情報の処理でCPUのリソースを100%使っている状態と見ました。 話しかけるとエラーを吐くかもしれません)

 

アリスがジュースを片手に、タグの異常な集中状態を観察する。

偶然二人の考えによる会話が成立していたが、実際はずっと口の中で咀嚼し続けているので声には出てない。二人とも寿司を味わうことに全力集中しているのだ。

 

 

やがてコースが中盤に差し掛かると、大将はシャリが入ったおひつを別のものへと手際よく交換した。

 

「ここからはシャリの温度を上げ、赤酢で握りやす。大トロです」

 

付け台に置かれたのは、細かな脂のサシが入り、微かに炙られた本マグロの部位だ。

タグがそれを口に含むと、先ほどまでの白身魚とは全く異なる物理的計算が脳髄を殴りつけた。

 

(シャリの温度が……先ほどより高いという意味はこういうことか!)

 

約40度に設定された、温かい赤酢のシャリ。

その熱が、魚肉中に含まれる不飽和脂肪酸の融点を正確に超え、口に含んだ瞬間に脂を滑らかに溶かし出しているのだ。

熟成された酒粕の芳醇なコクと濃厚な脂質が、完璧な計算のもとに統合され、一つの完成されたコンビネーションのように味蕾を制圧していく。

 

キヴォトスという世界が持つ暴力的なまでの食の豊かさに、タグは誰にも聞こえないほどの微かな、静かな感嘆の息を漏らすのだった。

無表情を崩すことはないが、手で次々と寿司を口に運ぶその正確で淀みないペースが、彼の内心の驚きと歓喜を雄弁に物語っていた。

 

「……っ」

 

ジュースで口直しをしたアリスが、大トロを口にして目を輝かせる。彼女もまた声を出すよりもまず先に、舌先で味わうことに全神経を集中させているのだ。

 

 

コースも終盤に差し掛かってきていた。

ホシノもまた、出されたジュースで喉を潤すと、ついに覚悟を決めて15番目の握り――ウニの軍艦巻きを口へと運んだ。

若干温度が下げられた結果、人肌温度になった赤酢のシャリが、ミョウバン不使用のウニの濃厚なクリーミーさと磯の香りを下支えし、彼女のオッドアイが幸せそうに細められる。

 

言葉など不要――戦闘において、ときたまそう宣う傲慢な奴らを幾人もなぎ倒してきたホシノは、今ここでようやくその言葉の真意を理解した。

この最高の料理の前では、薄っぺらな言葉で表現することなど愚かな行為でしかない、と。

 

静かな檜のカウンターで、大将が握る寿司の心地よい音が響く。

外の世界の喧騒も、明日待ち受けるであろうブラックマーケットの闇の深さも、今この瞬間だけは美味しい食事の前では意味を成さない。

 

先生は、美味いものに出会って目を輝かせる生徒たちと、黙々と寿司の構造を解析しながら平らげていく異邦の兵士の姿を横目で見ながら、温かいお茶を静かに啜った。

 

 

 

最高級のすき焼きに舌鼓を打った後、割り当てられたホテルのゲストルームへと戻ってきたミレニアム・エンジニア部の三人。

広々とした室内には、満腹感と微かな後悔が入り混じった空気が漂っていた。

 

「ちょっと反省。食べ過ぎたね」

 

ウタハが、ふかふかのソファに深々と身を沈めながら天井を仰ぐ。

その向かいでは、ヒビキとコトリがはち切れそうになったお腹をさすりながら、幸せそうに、しかし苦しげに息を吐いていた。

 

「仕方ありませんよ。お肉はもちろんですが、お米まであんなに美味しいとは思わなかったんですから」

 

「ん……デザートの抹茶アイスも、限界だったけど頼んで正解だった」

 

満腹で動けない後輩たちを見て、ウタハは仕方ないなと口元を緩める。

しかし、マイスターの眼差しはすぐに鋭さを取り戻し、傍らのテーブルに置かれたタブレット端末へと向けられた。

 

「二人とも、寝るにはまだ早いよ。そろそろ戦闘データの精査を始めないと」

 

「あ……そうですね。AI処理によるノイズキャンセリングも終わったようですし、ちょうどいいタイミングです」

 

コトリが居住まいを正し、丸い眼鏡を指で押し上げる。

ルームサービスで頼んだ香り高いブラックコーヒーが三人の前に並べられると、彼女たちの表情から女子高生の緩みが消え、技術者の顔へと切り替わった。

 

ティーテーブルを囲む三人。タブレットの画面には、昼間にタグがバウンティドッグを駆って行った戦闘データが、波形や数値となって表示されている。

タグ自身によるパーソナルな加筆修正が入っていない生のデータ群。だが、機体の隅々にセンサーを取り付けた彼女たちにとっては、これだけでも情報の宝庫だった。

 

「うーん……やはり『ラグ』と言えばいいのかな。動きにどうしても遅さが目立つね」

 

ウタハが、モニターに映る機体の機動軌跡を指差して指摘する。

 

「コトリ、ここの関節部の入力と実際のレスポンスの遅延、どう見る?」

 

「はい。これは機体の『スタビライジング機能』とパイロットの入力がコンフリクトを起こしている証拠です」

 

コトリはタブレットを操作し、別の資料を並べて表示させた。

 

「ミッションディスク形式……私たちの文明で言えば、外部記録媒体に機体駆動制御プログラムと複数動作パターンを記録させ、状況に応じて読み込ませることで操作の簡易化を目指したのが、ATという兵器の基本構造です。

二足歩行兵器にとって『転倒』は致命的な隙を生むため、機体のバランス維持……つまりスタビライジングが最優先で自動化されています。しかし、戦闘行動における急激な回避や攻撃モーションは、機体安定を崩す相反する入力になることが多い。その『演算処理の遅れ』が、このラグの正体ですね。正直……かなり古臭い形式です」

 

コトリの解説を聞き、ヒビキがコーヒーのカップを両手で包み込みながらボソボソと呟く。

 

「ん……タグに言わせると、コストダウンを最優先した結果らしい。でも、兵器の制御系としてはあまりいいとは思えない」

 

「とはいえ、褒められる点もある」

 

ウタハはコーヒーを一口飲み、鋭い視線をデータへと戻した。

 

「確かに基本動作の遅さは目立つ。だが、タグ自身が直接入力操作する瞬間のデータを見てごらん。そのラグを無視するかのように、機体の反応が異常に鋭くなっている部分がある」

 

ウタハの指し示したグラフの頂点。それは、タグが敵の装甲列車の110mm連装砲の射線を完全に読み切り、回避した瞬間のデータだった。

 

「パイロットの入力受付の優先順位だ。スタビライジングの安全マージンを無視して、パイロットの直感的なマニュアル入力が制御システムの命令を上書きしている。

つまり、この機体は『パイロットの技量をダイレクトに反映すること』を第一に設計されているんだ」

 

その指摘に、コトリの表情からいつもの得意げな色が消え、工学者としての純粋な『違和感』が浮かび上がった。

 

「……本当に、変な話です。低予算で大量生産される歩兵用の兵器なら、未熟なパイロットでも一定の戦果が出せるように、自動制御や安全補助システムを充実させるのがセオリーのはずです」

 

コトリはタブレットの画面を次々とスワイプし、機体の構造データを展開する。

 

「なのにATは、フルスペックを発揮するためにはパイロットの技量と経験が不可欠です。未熟な兵士を乗せて量産する兵器の開発思想として、根本的に矛盾しています」

 

その言葉が、静かな室内に重く響いた。

三人はこの数ヶ月、スコープドッグという異世界の機体に携わってきた。

装甲の薄さ、脱出装置の欠如、そして被弾すれば即座に炎上するPR液の危険性――それらの『狂った設計』は、単なるコストダウンや人命軽視という言葉だけで片付けられるものではないという違和感が、今、彼女たちの中で限界値に達しようとしていた。

 

「……ミッションディスク」

 

ヒビキが、ふと核心を突くような低い声を漏らした。

 

「ミッションディスクには、パーソナルデータが蓄積される機能がある」

 

ヒビキは手元の端末を操作し、ミッションディスクの解析データを表示させる。

 

「パイロットの操作特性を記録して、機体の学習機能に依存せずに使い慣れた感覚を再現する。……つまり、生き残って戦い続けるパイロットのデータだけが、ひたすら洗練されていくシステム。コトリの言う『矛盾』の答えは、これじゃないかな」

 

その言葉に、ウタハの目が大きく見開かれた。彼女の脳内で、バラバラだった設計思想のパズルが、一つの恐るべき絵を完成させようとしていた。

 

「……なるほど。だが、残念なことに、それはあくまで個人用にカスタマイズされたデータだ。他の新兵の機体へ共有することは出来ない、文字通りのパーソナルデータだ」

 

ウタハは立ち上がり、窓の外の夜景を見つめた。

マイスターとしての彼女の背筋に、氷のような悪寒が走る。

 

「機体が破壊されパイロットが死ねば、その洗練されたデータも完全にロストする。……装甲は紙切れ同然、引火性の高い燃料、脱出装置はない。そして、機体の限界性能はパイロット個人の技量でのみ引き出せる……」

 

ウタハは振り返り、後輩たちへ向けてその恐ろしい仮説を口にした。

 

「これは、兵器の完成形を目指した設計じゃない。巨大な『実験装置』だ」

 

「実験装置……?」

 

コトリが息を呑む。

 

「そうさ。安価に大量生産し、使い捨ての兵士を乗せて地獄のような戦場へ放り込む。大半は死ぬだろう。だが、その過酷な条件をすべてねじ伏せ、絶対に死なずに帰還し続ける優秀な個体が、数千、数万の中に外れ値として必ず現れるはずだ」

 

ウタハはタブレットの画面に映るスコープドッグの無骨な姿を指差した。

 

「この機体は、死と生のふるいだ。意図的にパイロットに過大な負荷と死のリスクを押し付け、淘汰の果てに残った『異常な確率で生き残る優秀な兵士』を効率よく生み出し、選別するためだけに作られたシステムだ」

 

ウタハの導き出した戦慄の結論が室内に重くのしかかった瞬間。

その言葉の意味を頭の中で咀嚼したコトリが、たまらず丸い眼鏡の奥の目を限界まで見開いて叫んだ。

 

「部長! そ、それはおかしいですってば!」

 

コトリはティーテーブルに身を乗り出し、明らかに論理の破綻したその異常な設計思想に対して、工学者として、いや、一つの社会で生きる人間として激しく反論する。

 

「戦争なんですよ!? 互いにかき集めた物資と……人命を消費しあって、最終的な政治的決着をつける最後の手段なんですよ、これ!? 統計的にも、兵器開発におけるコストパフォーマンスの観点からも、そんな歩留まりの悪い個体選別の実験を実戦に組み込むなんて、非合理的すぎます! なんでそれを、個体選別の実験の一環として行うんですか!?」

 

コトリの声が、かつてないほど大きく震えている。特に「人命」という単語を発した瞬間、彼女の顔から完全に血の気が引いていた。

 

死という概念が極端に忌避され、強靭なヘイローに守られているキヴォトスにおいては、戦争あるいは紛争といえど、イコール命が消費されることを意味しない。

大怪我を負い、意識不明の重体になる者はいる。しかし、アストラギウス銀河における『溶鉱炉に投げ込む勢いそのままに、命が数万単位で消滅していく』という現実に比べれば、キヴォトスのそれはあまりにも生易しい表現に過ぎないのだ。

 

「そんな実験のために戦争を長引かせて、自分が滅びたらどうするんですか! 取り返しのつかないものを、たくさん消費するんですよ、戦争って!」

 

国が滅び、星が燃え、文明が後退してでも、『何か』を見つけ出すために、兵器を作り、人を乗せ、殺し合わせ続ける――あまりにもスケールの狂った、命の浪費。

コトリの倫理観と論理回路は、その想像を絶する冷酷なシステムを完全に拒絶していた。

 

その悲鳴のような抗議を聞きながら、ヒビキは自身の腕を抱きしめるようにして震えていた。

恐怖のあまり尻尾は完全に足の間に丸まり、犬の耳がペタンと伏せられている。

 

(国、星、数えきれない命を犠牲にしてまで……そこまでしないと探せない、物……?)

 

ヒビキの明晰な頭脳に、一つのひらめきが閃光のように走る。

不足していた情報が繋がり、残酷すぎる結論が導き出された。

 

「ん……つまり、そこまでしないと探せない物って。どんな環境に置かれても……絶対に、死なな、あっ」

 

無意識に口から出かかったその言葉を、ヒビキは自身の両手で口を塞ぐようにして強引に飲み込んだ。

大きく見開かれた瞳が、虚空をさまよう。

 

もしこの推論が正しければ、タグの背負ってきた過去は、ただの『悲惨な戦争体験』という言葉すら生温い。

彼は巨大な実験場の中で、殺し合いを強要されてきたことになる――戦争を終わらせるためでも平和を求めるためでもなく、ただ特異な個体を探すためだけのふるいの上で。

 

(そんなこと……言葉にするだけでも、酷すぎる)

 

「……ごめん、いまの無しで」

 

ヒビキは視線を床に落とし、震える声でそう絞り出した。

これ以上、彼の尊厳と壮絶な過去を好奇心や推論で暴いてはならないという、彼女なりの痛切な優しさと庇護欲からの撤回だった。

 

 

静まり返った室内、コトリの荒い呼吸と、ヒビキの後悔の沈黙だけが満ちる。

その重苦しい空気を断ち切るように、ウタハがパンッ、と一度だけ手を叩いた。

 

「ヒビキの言う通りだ。これ以上の推論は、我々技術者の領分を超える」

 

ウタハはここで区切りをつけるように、タブレットの電源を落とした。

 

「今日のミーティングはここまで。頭を冷やして、しっかり睡眠をとるんだ。明日も早いからね」

 

解散を宣言した。しかし、コトリもヒビキも席を立たない。

この世のどこかに、常軌を逸した地獄があるという事実の前に、彼女たちの冴え渡る脳髄は完全に冷却を拒否していた。ベッドに入ったところで、眠りにつけるはずがないのだ。

 

重苦しい沈黙が、数十秒ほど部屋を支配した。

ウタハは仕方ないな、と大きく息を吐き出す。

 

「……話を本筋に戻すよ」

 

ウタハは伏せていたタブレットを再び手元に引き寄せた。

眠れぬ夜を過ごす後輩たちにやむなく付き合うと決めつつも、その声音からは先ほどの畏怖を強靭な理性で押さえ込み、マイスターとしての頼もしい響きを取り戻していた。

彼女たちを恐怖から救い出すには、得意分野である技術の思考へ引き戻すしかないのだ。

 

「設計思想の裏にある悪意がどれほど深くとも、我々の本分は目の前のハードウェアをどう直すかだ。彼が明日も生き残れるように、機体を完璧に仕上げる。……本題にだけ集中するよ」

 

ウタハの言葉に、後輩二人の顔にサッと生気が戻る。

恐ろしい真実から目を逸らし、得意分野である技術論へと逃げ込むように、彼女たちは思考を急加速させた。

 

「問題は、スコープドッグをどう改修、もしくは新造するかだ。現状の制御システムは、キヴォトスの基準で見れば底が浅すぎる。まず、あの物理ディスク形式のミッションディスクだ」

 

ウタハが画面にディスクドライブの構造図を呼び出す。

 

「記憶媒体としての容量に限界がある上、アクセス速度も遅い。そして何より、ただでさえ狭いATのコクピットの容積を無駄に圧迫している原因の一つだ」

 

「それに操縦系統も、洗練されていませんよね」

 

コトリが丸い眼鏡を指で押し上げ、早口で追従する。

 

「コックピットに分散配置されたコントロールシステムは、たしかに安価に製造でき、被弾時の交換も容易です。しかし……生存性が極端に低いATに限って言えば、コストダウン以外の何物でもありません。被弾すれば機体ごと全損する前提なのですから」

 

コトリは空中に展開したホログラムモニターに、スコープドッグの内部構造図を映し出し、狭いコックピッドに収めようと散らばっている制御ユニットを赤くハイライトした。

 

「これらをすべて廃止し、ミレニアム製の小型・高性能なメインコンピューターによる『集中配置形式』に一本化した方が、よほど良い結果を出せるはずです。情報伝達のラグも消えますし……何より、無駄な配線やユニットが消えることで、あの狭すぎるコックピットに決定的な余剰スペースが生まれます」

 

「ん。居住性の確保は、パイロットの生存率と直結する。大賛成」

 

ヒビキが深く頷き、尻尾を微かに揺らした。ミッションディスクの廃止と、分散制御から集中制御への移行。それだけでも機体のポテンシャルは劇的に向上する。

 

だが、コトリの思考はすでにその先へと到達していた。彼女はホログラムの機体図をじっと見つめ、ふと首を傾げる。

 

「……というか、根本的な疑問なんですけど。スコープドッグって、小さすぎませんか?」

 

その一言は、まさにコロンブスの卵だった。

 

ウタハとヒビキが、虚を突かれたように目を瞬かせる。

全高約3.8メートル。それがアーマードトルーパーという兵器の絶対的な規格であると、彼女たちは思い込まされていたのだ。

 

「少しサイズアップしても、運動性能は維持できるはずです!」

 

コトリはホログラムの機体図の「上半身」を選択し、指先でほんの少しだけスケールアップさせてみせた。

 

「具体的には、コックピットが収まる上半身部分ですね。現在の脚部マッスルシリンダーの出力と代替PR液の積載限界を見ても、重量増への積載限界はまだ十分に余裕があります。重量増による機動力の低下は、各パーツの精度を引き上げれば問題ありません。制御に関しても、集中制御式を前提にするのであれば、関節のリーチが変わってもソフトウェア側で一瞬で対応できます」

 

コトリの指先で再構築された新たなスコープドッグの設計図。

外観のバランスを崩さない程度に、ほんの一回りだけ胸部から背面にかけての容積が拡張されている。

 

「なるほど。相手の世界の規格に、私たちが付き合ってやる義理はない、か」

 

ウタハの口元に、獰猛な笑みが浮かび上がった。

狭く、息苦しく、パイロットを消耗させるためだけに作られた鉄の棺桶。その外殻を物理的に広げ、キヴォトスの技術で満たしてやる。

狂った設計思想に対する、ミレニアムからの最高の意趣返しだ。

 

――だが、三人にとって残念なことに、『コックピットの大型化と制御系の集中コンピューター化』というアプローチは、決して彼女たちだけの独創的な発想ではなかった。

 

アストラギウス銀河。

あの気が狂うような長きにわたる戦争の歴史の中にも、狂った選別システムのためではなく、純粋に『兵器としての完成度とパイロットの生存性』を追い求めた、正常な思考回路を持ったAT開発者たちは確かに存在したのだ。

そして、彼らの手によって生み出された『次世代AT』は存在していた。

 

『ATH-FX グラントリードッグ』

 

『ATM-AFX-01 グローリィドッグ』

 

アプローチこそ異なれど、コンピューターとマッスルシリンダーの更なる高性能化、そして内装機器の近代化に合わせて機体を一回り大型化させるという設計思想。

それは、今まさにキヴォトスの天才少女たちが辿り着いた考えを、まさしくそのまま反映した機体たちであった。

ミレニアムの叡智が、異世界の次世代技術と完全にリンクした瞬間である。

 

「考え方はまとまったね。……うむ、今回の旅でもしかしたら一番の成果物になるかもしれないよ、これは」

 

ウタハが満足げに頷き、ホログラムの設計図を保存する。

そして改めてウタハが「今日はもう寝よう」と宣言すると、頭が冷えた部員二人はおとなしくその指示に従うのであった。

 

 

 

ミレニアムの少女たちが熱狂に沈む、同じ頃。

ホテルの上層階、先生と同様にタグもVIP待遇として扱われていた。そして宛がわれたスウィートルームでは、一切の物音が絶えていた。

 

豪奢な天蓋付きのベッドには皺一つない。

室内の照明はすべて落とされ、窓から差し込むD.U.の夜景の光と、テーブルの上に置かれたタブレットの青白い発光だけが、部屋の主の横顔を照らし出していた。

 

タグは、柔らかすぎるソファに浅く腰掛けたまま、黙々とタブレットの画面を注視している。

 

そのタブレットの入力端子には、一本の特注ケーブルが接続されている。ケーブルの先にはキヴォトスの規格には絶対に存在しない『物体』が繋がれていた。

 

それは、高密度のデータが幾重にも書き込まれたホログラムシートを集積した、記憶媒体の金属ケース。

現在、その金属ケースは専用の読み取り機の中にカチリと納まっている。

洗練されたミレニアムの電子機器とは異なり、無機質な匂いを感じさせるその読み取り機を所有する者は、このキヴォトスには一人として存在しない。

 

当然だ。それはアストラギウス銀河の産物であり、向こうの世界であっても、これを所持している人間は数えるほどしかいない。

なぜならこの読み取り機は、銀河の意志たる『神』から、手駒である彼に直接拝領された物の一つだからだ。

 

(……)

 

タグは無言のまま、画面に次々と展開される文字列を目で追っていく。

 

この金属ケースは、タグにとってアストラギウス最後の戦場となる星、サンサで手に入れたものだった。

そこに記録されているのは、ある一人の男の生涯と、その狂気じみた研究のすべてである。

 

男の名は、ヨラン・ペールゼン。

 

ギルガメス宇宙軍第10師団、メルキア方面軍第24戦略機甲歩兵団所属、特殊任務班X-1――通称『レッドショルダー』の創設者にして、最高責任者。

『理想の兵士のみで構成された理想の部隊』を生み出そうとした男。

 

そして、タグの目の前にあるこの金属ケースの本来の持ち主は、ペールゼンではない。

ペールゼンの右腕として苛烈な忠誠を誓い、レッドショルダーの部隊長として君臨していた男――インゲ・リーマンのものであった。

 

タブレットの冷たい光が、タグの瞳に過去の幻影を呼び起こす。

 

サンサの赤い大気の中、むき出しの殺意をぶつけ合った二機の、赤い肩のスコープドッグ。

ワイズマンの命令に背き、友であるキリコを救うため、リーマンと死闘を演じたタグ。

最終的にリーマンを殺した結果として、この記憶媒体を手に入れたのだ。

 

『……閣下は、レッドショルダーを見切ってしまった。あの方はキリコへの執着から、逃れなかったのだ。俺も、だかな』

 

死闘の後、死の淵にあったリーマン。

タグによってせめてもの情けとして投与された痛み止めに酔いながら、どこか満足げに語る。

 

レッドショルダー基地で起きた暴動の後に起きた『何か』により、リーマンとペールゼンの間には決定的な亀裂が入った。

その亀裂を引き起こしたのは、己の不忠であることに悔やんでいたリーマン。

だが彼は、皮肉にも『ひたすら絶えざる訓練と精神の強化により生まれる』という、ペールゼンから啓発され、自らが信奉した理想――その完成形であるタグに敗れたことを、最期に『幸福である』と笑って死んでいったのだ。

 

タブレットの画面をスクロールさせるタグの指先が、止まる。

表示されているのは、ペールゼンの哲学、思想、そして『理想の兵士』を創り上げるための非人道的なカリキュラムと手順書――いわば、レッドショルダーの「ハウツー本」とも呼ぶべき記録だ。

それだけに留まらず、ペールゼンがレッドショルダーというイレギュラーな組織を生み出すために軍内部で行った様々な合法・非合法活動を詳細に記録しているものである。

 

ファイルの容量は、絶望的なまでに膨大だった。

シャーレでの数多くの業務を抱えている今のタグの生活リズムの合間を縫って解読を進めたところで、すべての情報を整理し、全容を把握するには年単位の時間が必要になるだろう。

 

最初、タグはこのファイルを、キリコに関する情報を探るためだけに読み始めた。

もう二度と会えるかわからない、友の残滓を感じたいがために。

だが、ページをめくり、内容を読み続ける内に、タグの心境には明確な変化が訪れていた。

キリコに勝手に期待し、勝手に絶望していった男、ヨラン・ペールゼン。

リーマンの言葉を鵜呑みにすれば、ペールゼンは狂気に陥っているはずだ。

だが彼に対して、タグは今、強い『共感』と『尊敬』すら覚え始めていたのだ。

 

ペールゼンが軍に入った理由――国家や思想に囚われず、ただ純粋に『兵士としての極限』を追い求めたその理念。

彼が記録に残した行動と言葉の数々は、感情や倫理という曖昧なものを削ぎ落とし、ただ勝利と生存という結果のみを追求する、文字通り『理想的な軍人』としての在り方そのものだった。

それは、8歳からゲリラとして戦い、12歳で兵士となり、常に死と暴力に晒されてきたタグの虚無的な精神に、恐ろしいほどに深く突き刺さり、符合した。

 

(この男の考えは、極めて論理的だ。一度話をしてみたかったな)

 

タグは、画面に並ぶ文字を眺めながら、内心でそう評価を下していた。同族としての静かな感嘆だ。

 

だからこそ、一つの巨大な矛盾が、タグの興味を強く惹きつけていた。

 

これほどまでに完成された哲学を持ち、完璧な軍人としての生き方を貫こうとしていたペールゼン。

己の創り上げた最強の部隊(レッドショルダー)を見切り、右腕であったリーマンと確執を生み出してまで追求したもの――キリコという一人の男。

なぜ、たった一人に異常なまでの『執着』を見せるようになり、変質してしまったのか。

 

(……キリコ。お前はとんでもない奴ばかりに目をつけられるな)

 

始まりは、本当にただの監視だった。

神の手先として秘密結社に属していたタグに下された、一人の少年兵を監視せよという命令。

当時、すでに高い技量を認められ、貴重なナップケルテ星産のスコープドッグを駆ることを許されていたタグにとって、その命令はひどく奇妙なものだった。

監視対象として指定されたのは、わずか14歳の新兵――キリコだったからだ。

 

当時、タグの手元に渡された結社の資料によれば、キリコはアストラギウス暦7196年7月7日生まれ。そしてギルガメス軍に入隊したのが7211年4月。

ギルガメス軍の正規の入隊制限は16歳だ。にもかかわらず、キリコが入隊できたのは、軍におけるある不文律のためだった。

 

『入隊の際、年齢を問題なくごまかせるのは2年までとする』

 

百年戦争と呼ばれるほど、長期化した戦争は慢性的な兵力不足を引き起こしていた。

徴兵という名の人狩りはあらゆる惑星で横行していたので、頭数はどうにか揃えられた。

それでも『己の意志で軍に入隊する者』は貴重であり、最優先で優遇すべき存在であった。

ギルガメス軍において、ATの操縦技能か、最低限銃を撃てる程度の肉体的能力があれば、年齢詐称を見て見ぬふりをして入隊を許可される。

キリコは入隊制限をごまかすため、明確に年齢詐称をしていた。そして彼の場合、ATの操縦技能ではなく『銃を撃てる程度の肉体的能力』という、後者の理由で入隊を許可されたのだ。

 

(よくもまあ、あんな細腕で上手くごまかしたものだ)

 

タブレットの画面を眺めながら、タグは当時のことを思い出し、微かに失笑する。

実を言えば、タグ自身も同様に年齢をごまかして軍に入隊した口だ。

タグの場合はすでに『ATの操縦技能』を保有しており、軍にとっては喉から手が出るほど欲しい即戦力だった。ただ銃が撃てるだけの新兵とは、根本的に価値が違ったのだ。

 

キリコとの最初の出会いは、特に特別なものはなかった。

ベテラン兵として新兵の面倒を見てやれ、と上官に言われるまま先任者として指導することになったのだ。

 

よくある戦争被害者独特の希薄な感情。銃の撃ち方しか知らない青臭い少年兵。

ただし、どれだけ上官に『修正』されようが一切卑屈さを見せない気概と反骨心だけは一人前に持ち合わせていた。

それが、監視を続けるうちに、いつしか互いの背中を預け合う友となり、レッドショルダーという地獄を共に潜り抜け、最後には神の命令に背いてまで助け出してしまう存在に変わっていった。

 

タグはタブレットの冷たい光の中で、遠い銀河に置いてきた不器用な友の顔を思い浮かべることができたことに、一抹の安心を覚えていた。

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