戦闘で半壊した装甲列車と寸分違わぬ構成の、無傷の列車が進む。
表面装甲は磨き上げられ、車内の汚れ一つ見当たらない綺麗な特別列車が、甲高いブレーキ音を響かせながら駅へと滑り込もうとしていた。
車窓の外を流れる景色が、切り開かれた大森林の深緑一色から、幾重にも交差する複雑なレール網と、巨大な送電鉄塔の立ち並ぶインフラストラクチャーへと切り替わっていく。
その人工的な景観は、これから彼女たちが足を踏み入れる場所が、もはや地図の空白地帯などではないことを雄弁に物語っていた。
「……まもなく、終点です」
一等客車のボックス席、窓側に座る月雪ミヤコが手元のスマートフォンから顔を上げた。
彼女の制服には、昨日までの激戦を物語る硝煙の匂いや土汚れは一切ない。
SRT特殊学園の指定制服からほのかに香る柔軟剤の匂い――昨晩宿泊したホテルにて、専属スタッフがサービスの一環として全装備の保守を申し出てきた結果だ。
残念ながら天童アリスのレールガンだけは『専門外』と丁重に返却され、結局エンジニア部が今日の朝食前にチェックする羽目になった。
体と装備、両面において回復したコンディション。
それとは裏腹に、愛銃が収まっているガンケースを無意識に撫でるミヤコの指先には、依然として緊張が宿っていた。
「新品の列車に乗り換えて、ここまで何事もなしか。……なんだか、調子が狂うな」
向かいの席で、空井サキが肩をすくめた。
平穏な道中もそうだが、生真面目な性格の彼女にとってはこの過剰な厚遇自体が素直に受け取れないままらしい。
「あー、最高級ホテルの朝食ビュッフェ、もっと食べたかったし。この列車のシートもフカフカだし、このままD.U.に引き返してくれないかなー」
「……私達の中で、一番の働き者が言ったことだから、聞かなかったことにしてやる」
サキは呆れたように唇の端を少し震わせた。
風倉モエがピカピカの革張り座席に深く身を沈めたまま、仮眠明けのしょぼくれた目を何度も瞬かせる。
任務放棄とも取れるモエの発言だが、昨日の防衛戦に続いて今日もオペレーターとしての任務を完璧に全うした彼女を前に、サキはそれ以上の文句を飲み込んだ。
「今日は敵襲がなくてよかったね」
通路側の席で、霞沢ミユが強張っていた体をようやく脱力させる。
昨日の襲撃が心の片隅に引っ掛かり続けていたらしく、列車に乗車した直後からずっと震えていたのだ。
見かねたミヤコが「先生たちのいる特別客車で休んできなさい」と命令したことで、彼女はようやく仮眠をとることができた。
絶対的な安全圏である大人の傍で休ませてもらったおかげか、自席へ戻ってきていたミユの頬には確かな血色が戻っていた。
「そうね。……だから、もう肩肘張らなくていいですよ、ミユ」
ミヤコが静かに答え、ミユの華奢な肩にそっと手を置く。その温もりに、ミユはビクッと肩を跳ねさせた後、「……うん」と小さく安堵を漏らした。
彼女たちRABBIT小隊は、肉体的には万全のコンディションを取り戻している。
だが、その胸の奥には、精神的なしこりが沈み込んでいた。
(これから私たちは、犯罪者の巣窟へ足を踏み入れる。……招待として呼ばれたとはいえ、先生を必ず守らなければ)
SRTの生徒として、ブラックマーケットの女王と交渉に臨む先生の護衛を務める――その重圧と、相手側から提供された『資本の力』による完璧な待遇という事実が、彼女らの表情から一切の緩みを奪っていた。
『キィィィィン……ッ!』
車輪とレールが摩擦する音が響き、巨大なプラットホームへと滑り込んだ特別列車が、一切のショックを感じさせることなく完全に停止した。
『終点……終点です。本車両は終着駅に到着しました。皆様、お忘れ物のないようお願いいたします』
自動音声のアナウンスが客車の中に響く。
窓の外を見やれば、スウォーム部隊の兵士たちが無駄のない動作で特別客車の扉付近へと展開し、訓練された儀仗兵のように出迎えの態勢を整えていた。
「……降りましょう」
ミヤコが小隊長として、張り詰めた声で指示を出す。
各々が手荷物と武器を携えて立ち上がり、車両の扉を抜けてプラットホームへと降り立つ。
周囲を見渡せば、隣の車両からはホシノとアリス、エンジニア部の面々。そして特別客車からは先生とタグが静かに降り立ってくるところだった。
一行が降り立ったプラットホーム。そこは、彼女たちが事前に思い描いていた『無法地帯』のイメージを、根底から覆す空間だった。
「わぁ……すごく大きいし、綺麗」
感嘆に目を見開くミユの漏らした声が、全員の思いを代弁していた。
プラットホームには事故防止用のホームドアが完備され、八番線まである広大な路線には特急や普通列車が整然と並んでいる。
見上げれば、巨大な鉄骨とガラスで構成されたアーチ状のドーム屋根が駅全体をすっぽりと覆い尽くしていた。
空調の効いた列車から広大なプラットホームへと降り立ったというのに、冬の外気のような肌を刺す冷気は一切感じない。巨大な冷暖房循環システムが稼働し、ドーム内部の気温が完璧に管理されているからだ。
等間隔に配置された重厚な石造りの柱には、意匠を凝らした真鍮製のガス灯風の照明が取り付けられ、温かみのある光を落としている。
ミヤコは周囲を行き交う乗客たちや駅員を油断なく観察し、ふと、ある異様な事実に気がついた。
(……いない。ハイランダーの生徒が、一人も)
キヴォトス全土の鉄道網と関連する物流を牛耳っているハイランダー鉄道学園。
その制服を着た生徒が、この巨大な駅舎には一切存在しないのだ。
「信じられない。これほどの規模のドーム建築……設計にかかる応力計算だけでも途方もない労力だ」
白石ウタハが、マイスターとしての純粋な驚愕を顔に浮かべ、天井の鉄骨構造を食い入るように見上げている。
傍らでは、豊見コトリがタブレット端末をせわしなく操作した後、丸い眼鏡を指で押し上げて興奮気味に周囲の鉄骨を見上げる。
「部長、この駅舎の構造はキヴォトスの一般的な建築基準法を大きく凌駕していますね!外部からの攻撃はもちろん、万が一内部で大規模な爆発が起きても、屋根全体が崩落しないように応力を逃がす設計になっています。例えるなら、巨大な要塞の玄関口ですよ、これは!」
コトリの早口な解説を聞き流しながら、猫塚ヒビキも気になったことを呟く。
「……ゴミが一つも落ちてないね。清掃ドローンが頻繁に巡回しているから、D.U.の中央駅より綺麗かもしれない」
ヒビキの言う通りだった。
無法地帯の駅といえば、吸い殻やゴミが散乱し、壁には落書きが描かれているのが一般的なイメージだ。
しかし、このプラットホームには汚れ一つなく、空気すらも人工的に浄化されているかのように澄んでいた。
降車した一般乗客たちもまた、周囲を警戒することなく慣れた足取りで改札へと向かっていく。
ビジネススーツを着こなす獣人や小奇麗なコートを着たロボット市民など、普通の都市で見かける乗客そのものだ。
先生は周囲の景色を油断なく観察しながら、隣を歩くタグへ小声で話しかける。
「タグさん。ここが『犯罪者の巣窟』に見えますか?」
「駅構内だけでは断定できんが、俺の目には統治が行き届いた要塞都市にしか見えないな」
タグは表情一つ変えず、駅構内を行き交う市民の動線や、要所に配置されたスウォーム部隊の兵士の様子をうかがう。
「警備の練度、列車という代表的なインフラの整備状況、市民の落ち着き。どれをとっても、単なる暴力による恐怖支配だけで成り立つものではない。明確な『ルール』と『管理システム』が機能している証拠だ」
「僕にとっても見慣れた平和の光景そのものです。作り上げた人に、手放しで賞賛を送りたいですね」
先生は目を細め、この都市を作り上げたであろう『女王』の底知れぬ手腕に、深い感嘆を覚えていた。
「長旅、お疲れ様でした。皆様、こちらへどうぞ」
スウォーム部隊の儀仗兵によって確保されたルートの先で、案内役のダゴスが洗練された動作で深く一礼して待っていた。
昨夜先行してブラックマーケットへと戻り、出迎えの態勢を整えていた彼は、静かに踵を返すと先生たちを駅のコンコースへと先導し始めた。
案内役であるダゴスに先導され、先生とタグ、そしてシャーレとヴァルキューレの生徒達は歩みを進めた。
「すごく、いい匂いがします。……私、ホテルの朝ご飯や、早めのお昼のお弁当をいっぱい食べたはずなのに」
コンコースの一角、ベーカリーから漂うバターと小麦の香りに、ミユは思わず反応した。恥ずかしそうに自分のお腹のあたりを両手で押さえ、名残惜しそうにショーウィンドウを見つめる。
「ミユはもうちょい食べてもいいかもな。私は……遠慮しとくよ。夕飯が食べられなくなる」
(今日の摂取カロリーを計算すれば、ここで糖質を摂取するわけにはいかない)
肉体管理に熱心なサキは、己の欲求を振り払うように強引に視線を逸らした。
一方でモエは、予想外に平和な風景を前に、失礼極まりない感想を呟いた。
「それにしても、拍子抜けだね。もっとこう、ドラム缶で火を焚いてて、そこら中で銃撃戦やってるようなヒャッハーな場所かと思ってたのに」
生徒達の誰もがそれを否定しなかった。仮に、周囲を固めるヴァルキューレの生徒たちに尋ねたとしても、間違いなく同じ返事をしただろう。
それが彼女たちの抱いていた、ブラックマーケットに対する紛れもない偏見だったからだ。
そして、広大なコンコースを抜け、一行はついに駅舎の外――駅前広場へと足を踏み出した。
駅構内から出ると、どんよりとした曇り空の下、外の冷たい風が生徒たちの髪とスカートを揺らす。
眼前に広がった光景にミヤコは思わず足を止め、ガンケースを取り落としそうになった。
「……すごいな」
サキが目を見開き、信じられないものを見るように呻く。
ミユは完全に言葉を失い、モエの口からは棒付きキャンディがこぼれ落ちそうになった。
そこにあったのは、一つの巨大で完成された『大都市』だった。
広く清潔なアスファルトで舗装された大通りが、視界の奥まで真っ直ぐに伸びている。
行き交う自動車はクラクションを鳴らすこともなく、整然と信号に従って流れていた。道路の中央には路面電車用のレールが敷かれ、レトロな外観の車両が静かなモーター音を響かせて滑っていく。
建物の様式は、極めて特異なコントラストを描いていた。
天を突くような無機質で近代的なガラス張りの高層ビル群が、都市の機能の核として聳え立っている。
しかし、そのすぐ足元や大通り沿いには、古き良き世界を感じさせる荘厳な石造りの建築物がズラリと立ち並んでいるのだ。
緻密な彫刻が施されたバルコニー、アーチ状の窓、赤レンガとくすんだ灰色の石材が織りなす重厚なファサード。
それはかつて先生が外の世界の知識として持っていた、ヨーロッパの街並みを彷彿とさせる、歴史と近代が複雑に絡み合った特異な都市景観だった。
「わぁ……! すごいです! 中盤のイベントの後に訪れる、大陸最大の都市みたいです!」
アリスが目をキラキラと輝かせ、両手を広げて大都市のパノラマを仰ぎ見る。彼女の頭上に浮かぶヘイローが、興奮に合わせてチカチカと明滅していた。
「高いビルと、古いお城みたいな建物が一緒になっています!」
純粋な好奇心で街をRPG風に解釈するアリスの横で、小鳥遊ホシノは愛用のショットガンを入れたガンケースを肩に担いだまま、飄々とした態度で口を開いた。
「うへぇ……こりゃまた、とんでもないスケールだねぇ。アビドスが一番栄えてた頃より、ずっと都会かもしれないよ」
ホシノはオッドアイを細め、高層ビル群の奥に広がる街の輪郭を静かに観察する。
おどけたように笑いながらも、ホシノの視線は決して油断していなかった。
これほどの富と資本が集中する場所には、どうしても血と暴力が付き纏う――彼女の鋭い勘がそう告げているのだ。
「……これが、ブラックマーケット」
ミヤコは、震える声で呟いた。
彼女の視線の先では、コートを着た獣人の紳士たちが、ショーウィンドウの前で笑顔で談笑している。
横断歩道では、交通整理のロボットが安全に歩行者を誘導し、子供たちがはしゃぎながら駆け抜けていく。
「無法者たちが集まる、悪の温床だと思っていました」
ミヤコの言葉には、強烈な戸惑いと、倫理観の根底が揺さぶられる恐怖が入り混じっていた。
「法を持たない彼らが、どうして連邦生徒会の庇護下にあるD.U.と同等か、それ以上に平和で安定した街を築けるのですか? これでは……」
これでは、自分たちが信じてきた『法と正義』の絶対性が、根底から否定されてしまう。
法がなくても、正義がなくても、力と資本さえあれば『秩序』は買えるのだと、眼前の都市が圧倒的なスケールで彼女を嘲笑っているように思えた。
ミヤコは唇をきつく噛み締め、視線をコンクリートの地面へと落とす。
「驚かれるのも無理はありません」
不意に、傍らに立っていたダゴスが、低く、しかし誇りを含んだ声で語りかけた。
彼の言葉に、生徒たちと、先生、タグの視線が一斉に集まる。
「この光景は、連邦生徒会や他学園から見れば、到底信じがたいものでしょう」
ダゴスは獣の耳をピクリと動かし、眼前に広がる大都市を、愛おしいものを見るような眼差しで見渡した。
「ですが、ここが最初からこのような姿だったわけではありません。先生、そして生徒の皆様。ここがこうして都市としての形を成したのは、ここ二十年の間のことです」
「……二十年で?」
コトリが、タブレットから顔を上げて驚愕の声を上げる。
「あり得ません! この規模の都市開発を、ゼロから始めて二十年でここまで成長させるのは、キヴォトスの最新の土木技術を用い、莫大な予算をつぎ込んだとしても不可能です! ましてやここは、公式なインフラの支援を受けられないブラックマーケットのはず……!」
「あなたの言う通りです。公式の支援など、ただの一度も受けたことはありません」
ダゴスはゆっくりと首を横に振り、静かに都市の歴史を語り始めた。
「かつてここは、『余所』から投棄されたゴミが、いくつもの山を形成していました」
ダゴスが口にした過去。
今目の前にある清潔な大通りや、美しい石造りの建物があった土地が、かつてはゴミの山に埋もれていたという事実に、生徒たちは困惑した様子で息を呑む。
「その場所に現れたのが、女王です」
ダゴスの声に、絶対的な忠誠心と、深い敬意が宿る。
「女王は、ゴミを少しずつ片づけ、同時にそれらを金にする術を生み出しました。それにより地盤を固め、自らの力と資本だけで最初のレールを敷きました。
他学園の法が届かない場所だからこそ、しがらみや派閥争いに邪魔されることなく、女王の思い描く『都市計画』が一直線に実行されたのです」
ダゴスは、自身の欠損した指のある右手をそっと胸に当てた。
「法が無い――むしろ好都合と女王は考えました。女王は自らの資本で人々を雇い、建物を建て、インフラを整備し、スウォーム部隊という秩序の番人を創り上げた。……数十年という果てしない時間と、莫大な血と汗を流して、この都市を一から育て上げたのです」
ダゴスの語る歴史の重みに、生徒達は返す言葉を持たなかった。
裏社会と蔑んだ組織が、これほどまでに強固で美しい秩序を築き上げたという事実。誰もがこの景色を前にして押し黙るしかなかった。
前日の最高級ホテルでの待遇も、今日乗ってきた替わりの装甲列車も、すべてはこの都市が持つ圧倒的な資本力の、ほんの片鱗に過ぎなかったのだ。
「素晴らしいものだな」
重苦しい沈黙を破ったのは、タグのしゃがれた声だ。
「独裁者の箱庭と言ってしまえばそれまでだ。だが、これほどの規模のインフラを破綻させずに維持し、経済を回している。……その女王とやらの統治能力は、比類無きものだと断言していい」
戦場しか知らないタグにとって、都市の成り立ちが善か悪かなどどうでもいいことだ。
重要なのは、『繁栄の為のシステム』が完璧に機能しているという事実だけだ。それが平和に基づいて構築されているのならば猶更良しだ。
その意味では目の前の都市は、満点と言えるだろう。
「お褒めいただき、光栄です」
ダゴスはタグの評価を真摯に受け取った。
「女王も、この都市を何よりも愛しておられます。だからこそ今後の未来を懸けて、連邦生徒会……ひいては、シャーレの先生との会談を望まれたのです」
ダゴスは顔を上げ、先生の方へと向き直った。
「さあ、先生。女王が首を長くしてお待ちです。タグ殿も、ご一緒に」
ダゴスが、駅前広場に隣接する最も重厚な造りの黒塗りの高層ビルへと手で指し示す。
そのビルは、周囲の近代建築とは一線を画す、圧倒的な威圧感と権力の象徴のような佇まいを見せていた。
「分かりました。みんなは、ダゴスさんの部下の人たちの案内で、予定通り手配していただいたホテルへ向かってくれないか。荷物を置いたら、予定通りに自由行動にしてもらっていいよ」
先生が振り返り、生徒たちに向かって優しく微笑みかける。
「了解しました。予定通りのスケジュールで行動します」
ミヤコが小隊長として背筋を正し、静かに頷いた。
『この都市の内実を、君たち個人の目で確認してきてほしい』と先生から頼まれていたとはいえ、ここから先、大人二人だけで中枢へ向かわせることに、護衛としての不安がないわけではない。
しかし、これは事前に決めたスケジュールだ。
「何かあればすぐに通信を。壁を壊してでも駆けつけますので」
「ありがとう。気持ちは嬉しいけど、ミカみたいに壁を壊して入ってくるのは遠慮してほしいかな。……じゃあ、また夕食の時に。ホシノ、みんなをよろしくね」
「任されたよ、先生。とりあえず気になるお店でも回ってくるよ」
ホシノがのんびりとした声で応じ、アリスが「はい! ホシノ先輩に付いて行っていろんなお店のチェックをしておきます!」と元気に答える。
生徒たちを広場に残し、先生とタグはダゴスの先導で黒塗りのビルへと歩みを進める。
これから始まるのは銃弾が飛び交う戦闘ではなく、キヴォトスの未来を左右する交渉の場だ。
タグは無意識のうちに、首に掛けたシャーレ身分証の硬い感触を指先で確かめた。
(こんな政治の大舞台に関与する日が来るとは、未来とはわからないものだな)
巨大都市の喧騒が、二人の背後で静かに、そして力強く響き続けている。
ビルへと歩みを進めながら、先生は周囲の景色ではなく、道行く生徒たちの姿に鋭い観察眼を向けていた。
ブラックマーケットという場所でありながら、彼女たちの身なりは清潔で、何より一つの明確な共通点があった。
「ダゴスさん。もしかして、この街にはもう『学校』自体が存在しているんですか?」
先生の唐突な問いかけに、傍らを歩いていたタグが視線を向ける。
彼の視線の先には、談笑しながら通り過ぎていく数名の生徒たちがいた。彼女たちが身に纏っているのは、それぞれ着こなしこそ違えど、ベースとなるデザインやエンブレムが共通した『制服』だった。
シャーレの業務としてキヴォトス中のあらゆる学園を見て回った先生でさえ、そのエンブレムには全く見覚えがない。
だが、コートの内ポケットに収められたシッテムの箱の中で、アロナはすでに該当するデータを検索して見つけ出していたはずだ。しかし彼女は、先生に対して肯定も否定もせず、ただ静かに沈黙を守っている。
「そうです」
ダゴスは足を止めることなく、あっさりと事実を認めた。
「先ほど、この街の敷地がかつて巨大なゴミ捨て場だったとお話ししたのを覚えていますか?」
「ええ。余所からあらゆるゴミが投棄されていた、と」
「はい。今でこそ連邦生徒会の環境規制が敷かれていますが、数十年前は違いました。各学園や企業は、不要になったものを処理費用も払わずにここの荒野に無断投棄していたのです。そして……それは『物』に限りませんでした」
ダゴスの獣の耳が、当時の光景を思い出すように伏せられる。
「様々な事情で居場所を失った子供や、学園から爪弾きにされた生徒たち。女王は、そうして行き場を失い、このゴミ山に流れ着いた者たちをすべて受け入れてきました。彼女たちに生きる術を教え、明日への基盤を与えるために、女王自らが『学校』を設立したのです」
ブラックマーケットという犯罪の温床でありながら、これほどまでに多くの生徒が存在し、安定した街並みが形成されている理由。
それは、社会から見捨てられた子供たちを保護し、独自の教育とインフラで育て上げてきたからだった。
(見事な手腕だ)
タグは無表情のまま、そのやり取りを聞いていた。
孤児を拾い集め、労働力や兵士として再利用するシステムは合理的かつ日常的な戦略だ。だが、隣を歩く大人は違う感情を抱いているらしい。
保護したと言えば聞こえはいい。だが、根本にあるのは数十年前から続く、『子供たちがゴミ山に流れ着くような世界』という事実。
先生の歩みは止まらないが、その背中からやるせない無力感と深い悲哀が滲み出ているのを、タグは静かに感じ取っていた。
(この大人は、どこまでも甘いな。だが……)
この甘さこそが、自分を絶望から救い上げた光でもあるのだ。だからこそ、タグは先生の憂いを否定せず、ただ静かに背後を固めることに徹した。
一行は厳重なセキュリティゲートをいくつも抜け、黒塗りの高層ビルの中層階へと到達した。
ダゴスに先導されるまま進む二人。同行していたヴァルキューレの護衛部隊は大半が一階待機、一部の生徒は同じ階までは付いてきていたが、警備プロトコルの都合上、ここで一旦別れる形になる。
ダゴスが重厚な扉を開け、案内したのは豪奢な謁見の間ではなく、大型モニターと長机が配置された無機質な会議室だった。
室内には、書類やタブレット端末と睨み合う見知った制服の少女が一人、待機していた。
「では準備がありますので、私は一度失礼します」
「案内ありがとうございます、ダゴスさん。そして待っていたわ、先生とタグさん」
冷やりとした、しかし確かな知性を感じさせる声。連邦生徒会で財務室長を務める扇喜アオイだ。
彼女は先生たちよりも先行してこのブラックマーケットを訪問し、事前の監査と調整を進めていたのだ。
ダゴスが退室すると、アオイは手元の資料をまとめ、本題を切り出した。
「単刀直入に聞くわ、先生。D.U.で発生したゴミの処理先は知っている?」
「……自治区内で処理しているとか?」
「一次処理は、ね。最終処理は別の場所よ」
アオイはタブレットを操作し、テーブルの中央モニターに巨大なプラントと処理施設群の空撮映像を映し出した。
「それがここのブラックマーケット。ここはキヴォトス最大のゴミ処理場を保有しているの。立派なレールが繋がっているのも当然。毎日発生する膨大な生活ゴミや産業廃棄物を運ぶには、車両では到底無理。列車というインフラが必須なのよ」
アオイは画面を切り替え、都市の横を流れる巨大な河川の映像を映し出す。
「この付近には大きな川があるから、昔は船でゴミを運んでいたそうだけど、キヴォトス各地の都市の拡大と排出量の増加でそれだけじゃ足りないというわけ」
モニターの光を浴びながら、先生は内心で深く納得していた。
(国家の暗部を支える必要悪。誰かが排泄物を処理しなければ各地の都市は死滅してしまう……)
その汚れ仕事を一手に引き受け、インフラとして完全に寡占しているのだとすれば、連邦生徒会すら容易には手出しできない絶対的な権力となる。
それがこのブラックマーケットの、莫大な資本の真の土台だったのだ。
「ゴミ処理企業は他にも存在するけど、最大大手はここのブラックマーケットに存在する学校――『テラ清掃学校』なのよ。そしてこれから先生がお会いする『女王』こそが、テラ清掃学校のトップであり、このインフラを一代で創り上げた人物なの」
アオイがモニターの電源を落とす。
広場でのダゴスの説明と繋がり、ブラックマーケットが抱える莫大な資本の謎が、先生の中で完全に結びついた。
「リン行政官が事前に詳しいことを教えなかったのは、先生に先入観を与えたくなかったんでしょうね」
アオイはタブレットをデスクに置き、淡々とした声で言葉を継いだ。
「先入観?」
先生が訝しげに問い返す。
「事実を言うわ。もしブラックマーケットが明日から『ゴミの受け入れ量を5%カットする』と言ってきたら、D.U.はひと月も経たないうちにゴミの山に埋もれます」
「……っ!」
先生は息を呑んだ。だが、傍らに立つタグの顔には、明らかな疑問と呆れの色が浮かんでいた。
「大げさだな。たかだかゴミの受け入れが滞った程度で、都市機能が麻痺するものか」
戦場しか知らないタグが、鼻で笑って反論する。
「シャーレの居住区でも定期的に燃えるゴミの回収があるが、大した量ではない。処理施設が足りないというのなら、無人区に自前の焼却炉を作るか、空き地に投棄して埋め立てれば済む話だ。それで首根っこを掴まれるとは、平和ボケにも程がある」
近代インフラの代謝システムを全く理解していない反論。それに対応したのは、こめかみを押さえた先生だった。
「タグさん、それでは無理なんだ。例えば、D.U.で排出される一日のゴミの量は、推定で七千トン以上あるんだ」
「七千トン……だと?」
想定を遥かに超える数字の桁に、タグの思考はあっけに取られた。
「ええ。先生の言う通りよ」
アオイが再びタブレットを手に取り、正確なデータを示す。
「シャーレの居住区で出るような家庭ゴミなんて、全体から見れば誤差の範囲よ。……本当に恐ろしいのは、巨大な都市を維持するために毎日排出され続ける『産業廃棄物』の存在」
アオイの指先が画面を叩く。
「キヴォトス全土で毎日のように行われる再開発の建築廃材。工場から垂れ流される有害な廃液や重金属。日々の抗争で発生する銃弾の薬莢や、大破した戦車・ヘリコプターに代表される兵器群の残骸。そして、医療機関から出る大量の感染性医療廃棄物……」
アオイはタグを真っ直ぐに見据え、突きつけるように言った。
「これらに無害化処理を施し、安全に埋め立てるか再利用するには莫大な土地と高度なプラント施設、そして専用の運搬インフラが不可欠なの。空き地に捨てて燃やせば済むような量じゃないわ」
「タグさん。もしブラックマーケットが本当にゴミの受け入れ5%カットをしたとします」
先生が、乾いた声で言葉を引き継ぐ。
「結果だけを言えば、有害なガスや汚水が街に溢れ出し、それが原因で深刻な伝染病が蔓延する。道路などの交通網は少しずつ回収されないままのゴミに埋もれ、最終的に物流は死に絶える。……ミサイルを一発も撃ち込まれなくても、都市は内側から完全に腐り落ちるんだ」
「……無知な発言だった、すまない」
タグは己の認識の甘さを素直に認め、短く謝罪した。
だが、彼の思考はそこで止まらなかった。キヴォトスという世界のシステムにおける、もう一つの強力な権限を思い出し、再び鋭い疑問を投げかける。
「まて。サンクトゥムタワーによるインフラ制御とは別口の問題なのか、これは?」
その問いに、アオイは冷ややかに首を横に振った。
「あれはあくまで、システム上の権限をオーバーライド出来るだけよ。インフラを維持・整備する『生身の人員』を制御してるわけではないの。……日々の汚物や有毒な廃液を物理的に回収・処理する人員自体を引き上げられたら、いくらサンクトゥムタワーの制御を握っていても、どうにもならないわ」
タグは完全に沈黙した。
武力による制圧でもなく、電子的なハッキングでもない。巨大な廃棄と代謝という都市の『物理的な機能』そのものを、完全に握られているという事実。
それが、ある意味でどんな大量破壊兵器よりもおぞましく、絶対的な交渉手札であることを、彼は即座に理解したからだ。
先生は再びこめかみを押さえる。
D.U.の生命線は、すでにこの無法地帯の女王に握られているも当然であったのだ。
「首の根を掴んでいるのは私達連邦生徒会ではなく、ブラックマーケットの女王。……相手がD.U.の生殺与奪を握る絶対的な権力者だという『先入観』ありきで、あなたにここへ来てほしくなかったのよ、リン先輩は。一人の『先生』として、フラットな状態で女王と向き合ってほしかったのでしょうね」
アオイの言葉に、先生はリンの配慮を悟った。だが、同時に一つの疑問が浮かぶ。
「なら、どうして君は今それを僕に話すんだ?」
先生が真っ直ぐにアオイを見据えて尋ねる。対してアオイは冷やりとした視線を返す。
「私は財務室長よ。キヴォトスの経済とインフラを数字で管理する立場として、リン行政官のように楽観的な理想ばかりは語っていられないわ。……これから始まるのは、間違いがあってはならない交渉。相手が握っている手札の本当の重さを知っておかないと、あっという間に足元を掬われるわ」
それはアオイなりの、現実的な『サポート』だった。
真実を隠したまま交渉のテーブルに着かせることは、財務室長の計算においてリスクが高すぎると判断したのだ。
「……ありがとう、アオイ。リンちゃんの配慮も理解できるけど、君に教えてもらって助かるよ」
先生が苦笑交じりに感謝の意を伝えると、アオイは思わず視線を逸らした。
タイミングよく会議室のドアがノックされる。
「お待たせいたしました。女王が、最上階でお待ちです」
入室したダゴスが恭しく歩み寄り、部屋の奥にある専用エレベーターへの道を示す。
「私はここで待ちます。会談が終わったらまたその時に」
アオイは席に座ったまま、静かに二人を見送った。
先生は深く息を吸い込み、気を取り直して立ち上がった。
タグもまた、自らの考えの甘さを切り捨てて無言のままそれに続くのだった。
重厚なオーク材のダブルドアが、音もなく左右に開かれる。
ダゴスが恭しく一礼し、先生とタグの二人を応接間の中へと促した。
案内された部屋は、使われている調度品のすべてが洗練された一流品であることを窺わせる落ち着いた空間だった。
床には足音が吸い込まれるほど分厚い絨毯が敷かれ、壁には古い絵画が掛けられている。
人の気配は感じられない――警備の人間が見当たらないのだ。
そして部屋の最奥、一段高くなった場所に、その玉座はあった。
だが、そこに座る『女王』の姿を直接拝むことはできない。
天井から幾重にも吊るされた薄絹のベールが玉座の周囲を覆い隠し、中の人物のシルエットすら朧げにしか見せないように計算されていたからだ。
「初めまして、シャーレの先生」
ベールの奥から響いた声に、先生とタグは身を引き締める。
「お初にお目にかかります、女王。このような立派な都市に招いていただき、光栄です」
先生は冷静な交渉者としての顔を浮かべながら、洗練された一礼を返した。
名前を呼ばれなかったタグも、無言で一礼を返す。
「ふふっ。先生にまでここを褒められるとは、本当に嬉しいよ」
鈴を転がすような、若々しく艶のある女性の声。
だが、紡がれる言葉の節々や独特の間の取り方、そして漂う威厳は、齢百を超えて裏社会を生き抜いてきた老人のそれだった。
若さと老い。無垢さと狡猾さ。
その極端なアンバランスさが、ベールの奥に座る女王の底知れぬ不気味さを際立たせていた。
「さあ、近くへ。……この街の『未来』について、話をしようではないか」
ベールの奥から響く威厳に満ちた声。
その言葉を合図として、先生が応接間の豪奢な絨毯を踏みしめて数歩前へと進み出た、その時だった。
「ダゴス、予定通りにした?」
「はっ。この応接間には我々以外、誰も近づけぬよう手配済みです。各種電子機器による盗聴防止手段も完璧に作動しております」
傍らに控えていたダゴスが、恭しく首を垂れて答える。
その報告を聞き届けた瞬間――ベールの奥のシルエットが、大きく、そして乱暴に伸びをしたような動きを見せた。
「そうか。……なら、もういいな!」
突如として部屋に響き渡ったのは、先ほどまでの重々しい老人のような声色とは似ても似つかない、底抜けに明るい大声だった。
「堅苦しいのもうやめ! 先生とお隣の護衛さんも、あんな喋り方されたら面倒でしょ! ここからは無礼講でいいよ」
鈴を転がすような若々しい声が、本来の抑揚を取り戻して無邪気に弾ける。
数十年の間、無法地帯のトップとして君臨してきた老獪な支配者の仮面。それを自ら脱ぎ捨て、先生という『大人』を前にして見せたのは、重圧から解放された年相応の『一人の生徒』としての無防備な素顔だった。
まさに等身大の女子高生そのもののトーンに、極度の緊張を保っていた先生の動きが完全に止まる。鉄面皮を崩さないタグでさえも、予想外の事態に驚きを隠せなかった。
「ダゴスも楽にして。私よりアンタのほうが体は老けてるんだから」
「はいはい、女王。では、ベールを上げますよ」
裏社会の重鎮であるはずのダゴスが、まるで我儘を言う親を嗜めるような、あるいは手のかかる孫に呆れる祖父のような、ひどく所帯染みた口調でぼやいた。
彼は玉座の脇に歩み寄ると、幾重にも吊るされた薄絹のベールを、束ねるようにして一気に引き上げた。
視界を遮っていたベールが取り払われ、玉座の主が完全にその姿を現す。
そこに座っていたのは、権力と富の象徴であるような、豪奢なフリルとレースがあしらわれた華美なドレスに身を包んでいる少女だった。
白いドレスと対照的な、長く艶やかな黒髪を複雑に結い上げ、頭上にはキヴォトスの生徒であることを示す光の輪――ヘイローが、微かな光を放って明滅していた。
顔立ちだけ見れば普通の女子高生相応だった。だが、その表情は権力者特有の冷徹なそれではなく、いたずらを企むやんちゃな子供のようにキラキラと輝いており、先生を真っ直ぐに見据えるその瞳には、隠しきれない『期待』と、僅かな『不安』が複雑に入り混じっていた。
「改めて、初めまして先生。私がこのブラックマーケットの女王だよ」
少女は玉座の上で足を組み直し、ニカッと人懐っこい笑みを浮かべた。
「名前はとうの昔に忘れた。女王で通してくれると嬉しいね」
あまりにもラフで、威厳の欠片もない態度。
事前の情報である『齢百を超える裏社会の女王』というイメージとのすさまじいギャップに、先生とタグは完全に面食らっていた。
「……なるほど。キヴォトスの神秘というのは、文字通り常識の埒外だな」
タグは表情一つ変えずに低く呟いた。
彼の知る知識の中には、クエント人のような寿命の長い種族は存在した。しかしここキヴォトスにおいて、百年の時を生きながらにしてこの若さを保つ存在など初耳である。
目の前の少女は嘘をついているようには見えない――彼女の背負っている途方もない歴史の重みが、その身に纏う空気から確かに伝わってくるからだ。
「ええ。本当に、キヴォトスは驚きに満ちています」
先生もまた、呆気を取られたように目を瞬かせた後、小さく息を吐き出していつもの穏やかな笑みを取り戻した。
目の前の少女が、広大な無法地帯を数十年にわたってまとめ上げ、ゴミの山からこの巨大都市を築き上げた張本人なのだ。
外見がどれほど幼くとも、彼女が成し遂げてきた事実は消えない。そして、これだけの都市と武力を背景に『連邦生徒会への学園登録』というカードを切ってきた、油断ならない為政者であることに変わりはない。
「無礼講というお言葉に甘えさせていただきます、女王。僕はシャーレの責任者で、皆からは先生と呼ばれています。そして、後ろに控える彼は僕の護衛であり、信頼できる協力者のタグさんです」
先生が改めて丁寧に一礼すると、女王は満足げに頷いた。
「うんうん、よろしくね。ダゴスから報告は受けてるよ。道中、随分と派手な花火が上がったみたいだけど、無事に着いてくれて何よりだ」
女王は玉座に深く腰を掛け直し、まるで今日の昼食のメニューでも決めるかのように、あっさりと告げた。
「先生、連邦生徒会から聞いていると思うけど、私はもう永くない。というのも、実は今日こうしてピンピンしているのも結構奇跡的なことでね。先生がこっちに近づいているって聞いてから、体が嘘みたいに軽くなっているんだ」
深刻な死の宣告と、相反する体調の好転。
その矛盾した言葉に先生が眉をひそめるより早く、傍らに控えていたダゴスが苦々しい表情で割って入った。
「実を言いますと、私が一昨日お会いした時は、女王は完全に寝たきりの状態でした。……それにしても女王、いくらなんでもその肌のハリは異常です」
ダゴスの獣の瞳には、明らかな困惑が浮かんでいる。
無理もない。ダゴスにしてみれば、数日前まで弱る一方だった『老女』が、突然ベッドから起き上がったばかりか、細胞レベルで若返っているのだから。
「いやー、私にもわからないんだ。昨日起きたら、シワシワに老けていた肌が一晩でこれよ、これ」
女王は自身の白く滑らかな頬を指先でつつき、あっけらかんと笑う。
「そもそも私からしたら、若い状態がずーっと何十年も続いてたから、数か月前――先生がキヴォトスに現れた三月から突然、急に老け込んだほうがよっぽどびっくりなんだよね」
先生は額を指で押さえ、軽い頭痛を堪えるように表情を歪ませた。
一度老いた肉体が一晩で完全に若返り、しかもそれが『自分が近づいたから』というオカルトじみた理由で引き起こされたという。
ヘイローを持つ老女というだけでも規格外だが、突然の若返りなど論理的理解の範疇を完全に超えている。先生の脳内には、理屈の通らない異常な情報ばかりが累積していく。
そして何よりも――。
「ただまあ、それでも永くないよ」
女王は足を組み替え、自身の頭上を指差した。
「ほら、ダゴス。さっきから客人二人がずーっと私のアレを見てる。……調査レポート通り、先生はともかくタグさんも、私達のヘイローがはっきり見えるんだね」
悪戯心を浮かべたやんちゃな笑みが、先生とタグに向けられる。
図星を突かれたタグは、表情を変えることなく視線を先生へと移した。先生もまたタグを見返し、互いに微かに顎を引いて頷き合う。
姿勢を正した先生は、教育者としてではなく、観測者としての視線を女王へと向けた。
「正直に言います。指摘通り、女王のヘイローは……ボロボロです」
先生の静かな宣告が、応接間に重く響く。
女子高生そのものの若さと生命力に満ちた肉体。だが、彼女の頭上に浮かぶヘイローだけは、残酷なまでに嘘をついていなかった。
本来であれば、生徒の生命力に比例して強く、規則的に輝くはずの光の輪。
しかし女王のそれは、ひどく輪郭がぼやけ、今にも消え入りそうなほど弱々しく不規則な明滅を繰り返している。一部の光の帯はすでに欠落し、砂のように崩れ落ちては消えていた。
肉体がどれほど若返ろうと、彼女の『神秘』そのものが、すでに修復不可能な限界を迎えているのだ。
その明滅はまさしく、彼女が齢百を超える長い時を生きてきたという事実と、間もなく訪れる絶対的な死を、何よりも雄弁に証明していた。
しかし、自らの絶対的な死期を突きつけられた当の女王は、怯えるどころか、むしろ憑き物が落ちたように満足げに深く頷いた。
「ほらね、やっぱりそうなんだ」
女王はドレスの裾を揺らしながら、傍らに控えるダゴスへと視線を向けた。
「ダゴス、私はもう永くないって、公平な第三者に完全に証明された。だから、女王を降りることにするよ」
その唐突すぎる宣言に、ダゴスの犬耳がピクリと反応し、その顔に苦渋の色が広がった。
だが、主の言葉を遮ることはせず、ただ静かに押し黙る。
「驚かないんだね、先生」
女王は玉座からふわりと立ち上がると、微塵も動揺を見せない先生の顔を至近距離で覗き込んだ。
先生は穏やかな笑みを浮かべたまま、静かに首を横に振った。
「あなたほどの資本と統率力を持った指導者が、連邦生徒会に『学園化』を打診してきた時点で、何らかの巨大なパラダイムシフトを狙っていることは予想していました。ですが、女王という座そのものを捨てるというのは、少し予想外でしたね」
先生の的確な返答に、女王は嬉しそうにパチンと手を叩いた。
「話が早くて助かるよ、先生。女王のまま崩御するのも考えたんだけど、メリットが死後の私の神格化しかないからね。それはやめることにした。……私がこの街を学園として登録し、新たな政体を築こうとしているのには、明確な理由がある」
女王は再び玉座に腰を下ろし、真剣な眼差しで先生とタグを見据えた。
「ブラックマーケットという枠組みは、居場所を失って逃げ込んでくる連中を受け入れるには丁度いい隠れ家だった。でも、外から広く人を集め、文化を育み、未来を発展させるのには絶望的に向いていないんだ」
彼女の言葉には、数十年かけてゴミの山からこの巨大都市を築き上げた者だけが持つ、確かな重みと実感がこもっていた。
「先生……あなたがキヴォトスに現れてから、明らかに時勢が変わった。これからは、スウォームの連中や日陰者たちのためだけの隠れ家っていう、古臭い考えはもうそぐわない。私はこの街を、もっと魅力的で、堂々と人が集まる場所に作り変えたいんだよ」
女王の瞳には、死を待つ老人の諦観ではなく、未来の都市計画を夢見る開拓者の情熱が宿っていた。
そして、彼女は声を一段低く落とし、核心へと触れる。
「それに……何よりの理由が、もう一つある。数十年間、この周辺のゴミの山を退けて地盤を固め続けてきた結果、信じられないモノが出てきたんだ」
先生の表情が、わずかに引き締まる。
「この大地の下に、規模不明の『先史文明の地下遺跡』が眠っていたのさ。……それはもう、私の一存で秘匿していいような代物じゃない」
――地下遺跡。
ミレニアム自治区内にある廃墟や、トリニティ自治区内に点在する遺跡などが有名だろう。
詳細不明な古代文明の残り香や、記録にしか残らない古い都市というものがキヴォトスには多数存在する。
女王が視線だけで合図を送ると、主の意図を察したダゴスが足早に応接間の奥へと姿を消した。
数十秒後、再び姿を現したダゴスの手には、黒い布が被せられた銀盆が乗せられていた。
ダゴスが、先生とタグの間まで進み出る。
「……これは、その遺跡周辺に堆積していたかつてのゴミの山の一部から回収されたものです。ご確認ください」
ダゴスが恐れ多いモノでも扱うかのような手つきで、布を払いのけた。
銀盆の上には、いくつかの奇妙な物体が転がっていた。
キヴォトスの現代技術とは全く異なる規格で作られた用途不明のオーパーツの欠片。そして、明らかにこの世界の物理法則や意匠から外れた、異世界の漂流物と思しき機械部品。
だが、タグの視線はそれらのガラクタには向かなかった。
銀盆の中央に鎮座する、鈍い青の光を放ったいびつな鉱物。
「……ッ」
常に一切の感情を表に出さず、冷徹な機械のように振る舞っていたタグの呼吸が乱れた。彼の瞳孔が収縮し、手袋越しの指先が震える。
(あれは……なぜ、ここにある?)
タグの脳裏にフラッシュバックするもの――それは『ヂヂリウム』。
アストラギウス銀河にしか存在しないと思われていた半液体化金属の一種だ。
盆の上に乗せられたものは固体状態を維持しているが、その独特の輝きと質感を、彼が見間違えるはずもなかった。
キヴォトスという、アストラギウスとは全く異なる法則で成り立つこの世界に、なぜ故郷の特異な物質が存在しているのか。
(ここが、アストラギウスと物理的に繋がっているのか? それとも……)
思い浮かぶのは、かつてアビドス砂漠で発見され、カイザーPMCに奪われる前に自爆させた漆黒の遺物――『フローター』。
それは、アストラギウス銀河の歴史の裏で暗躍する『神』が使役する、古代クエント文明の超科学の結晶だ。
見た目は表面が滑らかな、全長数十メートルにも及ぶ巨大な黒い円柱状の金属の柱に過ぎない。
だが、それらが複数集束することで莫大なエネルギーを生み出し、星系間すらも一瞬で飛び越える『空間跳躍』を可能とさせる、人智を超えた遺物であった。
神はあの遺物が持つ空間跳躍の機能を用い、タグを銀河の遥か彼方であるこのキヴォトスへと放逐した。
一思いに殺さず、友と永遠に引き離すという、極めて悪趣味な罰を与えるために――タグはこれまでそう結論づけていた。
だが、このキヴォトスの地下深くから『ヂヂリウム』が出土したとなれば、その前提すら根底から揺らぐことになる。
ここは本当にただの流刑地なのか。それとも、別の意図があるのか?
タグの胸の奥底で、全能の神に対する根源的な恐怖が再び蘇り、底知れぬ疑心暗鬼が鎌首をもたげる。
彼は奥歯をきつく噛み締め、湧き上がる動揺を強靭な意志の力で鉄面皮の奥へと強引に押さえ込んだ。
だがこの場にいる先生と女王は、タグが発した空気の変化と、その視線が青い鉱石に釘付けになっている事実を決して見逃してはいなかった。
女王は、ドレスの裾を揺らして玉座から身を乗り出し、満足げに口角を上げる。
「ふふん、二人ともこれのヤバさがわかるようだね」
若々しい少女の声に、隠しきれない老獪な響きが混じる。彼女は銀盆の上のガラクタたちを指差した。
「これは私の手に負えるもんじゃないんだわ。そりゃさ、もうここに住んで八十数年……増えてくる住人とか、ゴミを利用した商売とか、都市の運営はまあ、どうにかこうにかやってきたけどさ。こんなわけわかんないもの、隠してていいことなんて一つもないのさ」
あっけらかんと語るその言葉の端に、『八十数年』という途方もない時間の単位がさらりと混ざり込んでいた。
「私がこの街を公式な学園として表に出したい最大の理由の一つは、これの扱いを連邦生徒会に丸投げしたいからでもあるんだよ」
女王は再び玉座に深く腰を下ろし、天井の豪奢なシャンデリアを仰ぎ見た。
その瞳は、今ここにある応接間ではなく、はるか遠い過去の情景を映し出しているようだった。
「……先生。今の連邦生徒会ができる前、キヴォトスをまとめていた組織があったことは知っているかい?」
「『生徒会連盟』ですね。……理念こそ立派でしたが、各学園の利害対立を抑えきれず、機能不全に陥って自然消滅したと記録で読んでいます」
先生が静かに答える。
外の世界の知識を持つ先生の脳内では、かつて存在した国際連盟という組織の歴史と酷似していると認識されていた。
「そう、その生徒会連盟だ。……私はね、かつてその連盟で平和維持部隊の司令をやってたんだよ」
女王の口から明かされた事実に、先生は目を細めた。
連邦生徒会の前身組織の、さらに武力装置のトップ。それが目の前の、等身大の女子高生にしか見えない少女の過去だった。
「当時、キヴォトスは今よりずっと荒れててね。各学園の紛争は泥沼化する一方で、連盟の武力介入も空回りが続いていた。……最終的に、私はその責任を全部被らされる形で、司令の座を辞任したのさ」
女王は自身の膝を軽く叩き、乾いた笑いを漏らす。
「辞任したその日、私は手持ちの拳銃から銃弾を一発抜いて、地面に落とした。その弾の矢先が向いたのが、たまたま『西』だったんだ。だから、当てもなく西へ向かって歩き続けた。そうして辿り着いたのが……当時、キヴォトス中のゴミが集まる場所だったここさ」
彼女の淡々とした回想を聞きながら、先生の脳裏には出発前に連邦生徒会の七神リンから提供された、この街の生い立ちが鮮明に蘇っていた。
『最初は、行き場を失った一人の生徒が、生活のためにジャンクパーツをかき集める小さな倉庫を建てたことから始まったと記録されています』
(あの一人の生徒というのが……目の前の彼女だったのか)
リンの言葉が、現実の歴史とリンクしていく。
『倉庫は出荷場になり、飯場ができ、宿舎が建ち、中間倉庫や警備塔と徐々に拡張されていきました。時が経つにつれ、無制限に外からの者や物を受け入れ続け……当然、法に守られない無法者まで集まり始めました。そうして拡大を繰り返した結果が、現在の巨大なブラックマーケットです』
トタン屋根の倉庫から始まり、法に守られない者たちを力と資本で束ね上げ、数十年かけて一つの巨大な経済圏を築き上げた。
その組織の頂点にして、すべての始まりが、目の前の少女なのだ。
「……女王。ここが一人の生徒から始まったという連邦生徒会の記録は、真実だったのですね」
先生の言葉に、女王は自嘲気味に笑った。
「ああ。最初は私一人だけだった。けど一人じゃこんなゴミ山どうにかするのは一生かけても無理だよ」
先生はその言葉にハッとし、傍らで直立不動のまま控える初老の獣人――ダゴスへと視線を向けた。
「たった一人で始まった倉庫が、ここまで巨大な組織になった。たった一人で組織を束ね、維持することは不可能です。貴女には、絶対に裏切らない『同志』が必要なはずです」
先生の静かな推理に、ダゴスの獣の耳がピクリと反応する。
「ダゴスさん。貴方はスウォーム部隊の隊長であり、女王の最側近だ。……貴方が、女王の最初の同志だったのですか?」
その問いに、女王は悪戯っぽく笑い、ダゴスは照れくさそうに視線を逸らした。
「ふふっ、同志……か」
女王は笑みを浮かべたまま、目を閉じる。
「先生。ダゴスはね、私がこのゴミ捨て場に流れ着いてすぐの頃、どこかのゴミ山に埋もれたまま、泣いてるのを拾い上げたんだよ。まだへその緒が取れたばっかりの、小汚い赤子だったね。……間違いなく、余所からゴミと一緒に捨てられていたんだ」
「……っ」
先生は絶句し、タグもまた眉根を寄せた。
眼前の女王の口から語られた事実に、先生は息を呑む。
傍らに控える初老の獣人が、かつてゴミ山に捨てられていた無力な赤子であったという事実。そして、そのことが示すもう一つの残酷な現実へと、先生の思考は瞬時に至ってしまった。
先ほど大通りで見かけた、見慣れぬ制服を着て談笑していた『生徒』たち。
キヴォトスにおいて、生徒は銃弾を弾き、戦車の砲撃にも耐える強靭な神秘の存在だ。だが、それは彼女たちに『未来があること』ことを保証しない。
ダゴスの生い立ちが物語るように、過去のこの街では、廃棄物と同じようにゴミの山へ無惨に捨てられた赤子や子供だった『生徒』たちが確かに存在していたのだ。
教育者として、大人の責任を何よりも重んじる先生にとって、それは絶対に許容できない地獄の光景だった。
その青ざめた顔色を、傍らに控えていたダゴスが察知する。
「――先生。顔色が優れませんが、もう私達のところでそんなことは起きていません。昔は法も何もありませんでしたから、そういう者もいました。今のキヴォトスには各種の法規制やSNSという監視の目がありますし、各自治区では福祉が整備されてきています」
ダゴスが苦虫を噛み潰したような、しかしどこか主を気遣うような渋い声で割り込み、先生の動揺を宥めるように補足する。
その説明に、先生はゆっくりと呼吸を整え、硬くなっていた表情を緩ませた。
「……すみません、思考が先走っていたようです」」
先生が謝意を表明すると、女王はふっと肩の力を抜いた。思わぬ形で先生を追い込んだことに、申し訳なさがあったからだ。
「まあ、過去は過去さ。……そうそう、もう一人の最古参隊長、ザスもそうだ。あいつは五歳の頃、ゴミ山に置いていかれたのを私が養子にした。他にも、親に捨てられたり、つらい場所から逃げ出したりしてきた連中を、どんな生まれだろうが関係なく、片っ端から拾って育ててきたんだ」
女王は、女性にしてはやや下品な笑い声を上げて言い放つ。
「まあ、そうやって私は子だくさんになったわけよ! お腹を痛めたことは、ただの一度もないんだけどね!」
あっけらかんとした笑い声が、豪華な応接間に響き渡る。
――何があってかはわからぬが、外見の成長が止まったまま八十数年の時を生きる少女。
そして、彼女に拾われ、血と泥に塗れながら年齢を重ね、今や八十を過ぎた老犬の獣人となったダゴス。
見た目は孫娘と老執事にしか見えない。だが、その真実はゴミの山で寄り添い、生き抜いてきた母と子なのだ。そしてその母は、そうやって幾人もの孤児たちを拾い、育て上げてきた。
(女王、あなたは……)
先生は、笑い声を上げる女王の背後に横たわる、想像を絶する辛苦の歴史に圧倒されていた。
ゴミ山しか無い場所で、無力な赤子や子供たちを抱えた一人の少女が、外敵を退け、日銭を稼ぎ、彼らを立派な大人へと育て上げる――その道程で彼女が流した血と涙の量は、とても一人の少女が背負えるようなものではなかったはずだ。
タグもまた、無言でダゴスの横顔を見つめていた。
主である少女を絶対の存在として崇拝し、自らの命と名誉を懸けて街を守り抜く老兵。その忠誠心の根源が『親への恩義と愛』であるならば、彼の都市と女王への忠誠心の深さも、すべて腑に落ちる。
「見事な手腕だ。一人の人間として、敬意を表する」
タグの口から漏れたしゃがれた声には、平時の無機質な評価とは違う、年長者への深い労いのような響きが混じっていた。
その言葉に、女王は少しだけ驚いたように目を丸くした後、優しく、本当に母親のような慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「ありがとさん……話が逸れたね。一番新しい連邦生徒会長、ありゃ傑物だったね。直接会うことは叶わなかったけど、これのヤバさは先生と同じように理解してもらえると私は直感したよ。だから対応をお願いしようと思ってたのさ」
すると、顔をしかめる女王。
「行方不明になったのは残念だよ。……個人的にはあまり好かないタイプだったけどね」
「好かない?」
率直に聞く先生。
「通信越しだけどね、私のことをこうなんというか『まともに見てない』って感じだったね」
しかめ面のまま答える女王。その答えを先生は、ゆっくりと吟味するのだった。
先生とタグの姿が黒塗りのビルに消えた後、残された生徒たちの前に一人のスウォーム部隊の兵士が進み出た。
無骨な装甲服とフルフェイスのバイザーで顔を隠す他の兵士たちとは異なり、その人物は堂々と素顔を晒していた。
長く艶やかな黒髪をすっきりとまとめ上げた、顔立ちの整った少女。そして何より、彼女の頭上にはキヴォトスの生徒であることを示す光の輪――ヘイローが明滅している。
「初めまして、皆様。私は数あるスウォーム部隊の一つで隊長を務めております、ノヴァと申します。本日は私が案内役を承ります」
フルカスタムされたアサルトライフルをタクティカルスリングで胸元に提げているにもかかわらず、その所作は一流ホテルのコンシェルジュのように洗練されていた。
敵意も殺気もなく、純粋な『接客業務』として彼女たちを扱っている。
「……ノヴァ?」
ミヤコが怪訝そうに眉をひそめた。キヴォトスの生徒の名前としては、あまりに不自然な響きだ。サキも訝しげに目を細めている。
変わった名前だな、という生徒たちの無言の視線を感じ取ったのか、ノヴァの表情がふっと年相応の少女のものに崩れた。
彼女は少し恥ずかしそうに頬を掻き、言い訳をするように口を開く。
「あ、ええと……本当はちゃんと名前があるんですけど、スウォーム部隊長は必ずコードネームで名乗ることになっているんです。本名は日高ユマ、高校三年生です。ただ、任務中なのでノヴァで失礼しますね」
厳格な隊長としての顔と、人懐っこい素顔。その二面性にミヤコたちが毒気を抜かれていると、ホシノがのんびりとした声で問いかけた。
「なるほどね。……でもノヴァさんが重装備の下に着てるその服、どこかで見覚えあるような……どこの学校だい?」
ホシノの目は、ノヴァのタクティカルベストの隙間から覗く、見慣れない意匠の制服の襟元とスカートを正確に捉えていた。
その問いに対し、ノヴァは再び背筋を伸ばし、隊長としての凛とした表情に戻って答える。
「テラ清掃学校です。……では皆様、まずは女王がご用意いたしましたホテルへご案内いたします。どうぞこちらへ」
(テラ清掃学校……聞いたことがない学校です)
ミヤコは内心で首を傾げながらも、小隊長として油断なく頷いた。
「案内をお願いします。RABBIT小隊、警戒を怠らないように」
ミヤコの指示で一行は陣形を整え、ノヴァの先導で駅前広場から伸びる大通りへと歩みを進めた。
案内されたホテルは、大通りの一等地にそびえ立つ、重厚な石造りの外観を持つ豪奢な建物だった。
ロビーに足を踏み入れると、足音が吸い込まれるほど分厚い絨毯と、天井から吊るされた巨大なシャンデリアが出迎える。
「説明しましょう! このシャンデリア、ただのガラス細工ではありません! 構造材に光学兵器の反射コーティングと同等の処理が施されており、照明の効率を極限まで高めています!」
コトリが丸い眼鏡を輝かせながら、息継ぎも忘れる勢いで解説を始める。
「ん……それに、空調の音が全然しない。完全な静音設計で、すごい技術」
ヒビキが犬の耳をピコピコと動かしながら、ホテルの設備の高さに感嘆の声を漏らした。
ウタハもまた、マイスターとしての鋭い視線で建物の構造を興味深げに観察している。無法者の巣窟にあるはずのない、ミレニアムに匹敵する技術の片鱗に、彼女たちの知的好奇心は強く刺激されていた。
ノヴァから各部屋のカードキーを受け取り、生徒たちはそれぞれの自室へと向かう。
割り当てられた部屋もまた、昨晩宿泊したホテルに勝るとも劣らない、完璧に整えられた最高級のスイートルームだった。
数十分後。
大きな手荷物を自室に置き、武装と最低限の装備だけを身につけて身軽になった生徒たちが、再びホテルのロビーに集結した。
「お揃いですね。それでは、先生がお戻りになるまでの間、私がご案内いたします」
待機していたノヴァが深く一礼し、ホテルの自動ドアを指し示す。
「ぱぱんぱんぱーん! 勇者アリスたちは、荷物を預けてセーブを完了しました! さあ、新しい街の探索に出発です!」
背中に特注の巨大なガンケースを背負ったアリスが、目をキラキラと輝かせながら一番にホテルの外へと飛び出していく。
「うへぇ、アリスちゃんは元気だねぇ。ただ案内の目から離れないよう注意しないとね」
ホシノがのんびりとした足取りでそれに続く。
街中をノヴァの先導で歩く一行。
その中で、エンジニア部の面々は、全く別のベクトルでこの都市に熱狂していた。
「説明しましょう! この大通りのインフラ構造、明らかにキヴォトス標準の都市計画を無視……いえ、凌駕しています!」
コトリが丸い眼鏡を指で押し上げながら、早口でまくし立てる
「見てください、あの石造りの建物の外壁! 一見すると古いレンガ造りですが、目地材に特殊な衝撃吸収ポリマーが使用されています!つまり景観をレトロに保ちながらも、近代的な資材を使うことで耐震性や、保守管理性を現代基準に引き上げているんです」
「良い視点だね、コトリ」
ウタハがコトリの解説に深く頷き、マイスターとしての鋭い眼差しで高層ビル群の接合部を見上げた。
「それにあのガラス張りの高層ビル。ガラスの反射率と透過率が不自然だ。おそらく電磁波を完全に遮断するステルスコートが施されている。情報戦を前提とした防諜ビルだね。……というかあれ、ウチの技術で建築したんじゃないかい?」
ウタハの指摘に、案内役のノヴァは歩みを止めず、ただ無言で完璧な微笑みを浮かべた。
肯定も否定もしない。だが、その余裕のある態度こそが「莫大な資本さえあれば、ミレニアムの最先端技術や頭脳ですら非合法に買い上げることができる」という、この街の底知れなさを雄弁に物語っていた。
マイスターとしてのウタハのプライドと、無法地帯を統治する為政者側の不気味な余裕。
二人の間に、微かに剣呑な空気が走った。
「部長、あれ見て」
その張り詰めた空気を察知したヒビキが、それを誤魔化すように、大通りの一角から漂ってくる甘く香ばしい匂いの元へと指を差した。
「あそこのカフェのワゴン。焼きたてのクレープとキャラメルソースの匂いがする。すごく、美味しそう」
ヒビキの尻尾がパタパタと期待に揺れている。
エンジニア部としての知的好奇心も満たされているが、それ以上に、連日の過酷な作業(Hub関連のトラブル対応)で疲弊していた肉体が、純粋な糖分を強く求めていたのだ。
ウタハとノヴァはその様子を見て、互いに小さく笑い声を漏らす。少し良くない気の張り方をしたと、お互いに反省したことを示すものだった。
「焼きたての香り、いいですよね」
「そうだね。どうだい、ノヴァ。みんなとあそこで少し甘いものでも……」
ウタハがそう提案して、ワゴンへと向かおうとしたその時だった。
「てめぇ! 舐めたマネしてんじゃねえぞ!」
平和な大通りの喧騒を切り裂くような、野太い怒声が路地裏の入り口から響いた。
生徒たちは一斉に足を止め、声の方向へと視線を向ける。
そこには酒に酔ったのか顔を真っ赤にした数人のゴロツキのような獣人の大人たちが、若いロボット市民を路地裏のレンガ壁に押し付け、胸ぐらを掴んで凄んでいた。
ブラックマーケットという土地柄、こうした金銭トラブルや小競り合いは日常茶飯事なのだろう。
D.U.であれば、周囲の市民が悲鳴を上げて逃げ惑い、ヴァルキューレ警察学校の生徒たちが駆けつけるまで混乱が続く場面だ。
だが、この街の市民たちの反応は全く異なっていた。
逃げるどころか誰も悲鳴を上げない。ただ「またか」というような冷ややかな一瞥をくれただけで、歩みを止めることすらなく通り過ぎていく
ミヤコが即座にガンケースから愛銃を取り出し、介入しようと一歩踏み出し警告の声を上げようとした、その刹那。
「この区画での暴力行為および営業妨害は、女王の定めた特区法に違反する。直ちに武装を解除し、投降せよ。猶予は三秒」
無機質な電子音声が路地裏の頭上から降ってきた。
見上げれば、建物の屋上の死角から黒い流線型の装甲に身を包んだ二機の飛行ドローンが音もなく降下し、ゴロツキたちに銃口を突きつけていた。
「な、なんだと!? 俺たちを誰だと思って……」
ゴロツキの一人が懐から拳銃を抜こうとした。
だがその行動が完了するより早く、路地裏の奥から、スウォーム部隊の兵士たちが音もなく湧き出してきた。
重武装でありながら、その動きは単なる傭兵の荒事ではない。
「時間切れだ。制圧・連行する」
スウォームの兵士たちが迅速に動き出す。
一人が抵抗しようとしたゴロツキの腕を的確な関節技で押さえ込み、背中に手を回して無力化する。別のオートマタ兵が逃げようとした男の進路を塞ぎ、スタンバトンで威嚇しながら素早く拘束具をかけた。
わずか数秒。
ミヤコが介入する隙すら与えず、揉め事は瞬く間に鎮圧された。
それは無法者の過剰な暴力による排除などではない。まるで高度に訓練された警察の特殊部隊による、極めて手際が良く、洗練された『逮捕』のプロセスそのものだった。
拘束された男たちは、抵抗を諦めたままスウォームの兵士に連行され、いずこかへと姿を消していく。
何事もなかったかのように飛行ドローンは再び屋上の死角へと戻り、大通りの雑踏はすぐに平穏を取り戻した。
(これが、この街の秩序)
ミヤコは構えかけたサブマシンガンを下ろし、その場に立ち尽くした。
「物騒だな」
サキはストレートに直言した。
「D.U.の治安の悪さも問題だが、こっちは軍隊と警察機構が完全に一体化してるようなもんだ。少しでも問題を起こせば、即座にあの重武装の連中に取り押さえられる。まるで、巨大な監視カメラと軍隊の中で生きてるみたいだ」
「ペロッ……でもさ、超効率的じゃん」
モエが飴玉を口の端に転がしながら、ダウナーな声で笑った。
「めんどくさいしがらみもない。問題が起きたら即座にプロの連中が飛んできて制圧してくれるんだから、市民にとってはこれ以上安全な場所はないでしょ」
「……お見苦しいところをお見せしました」
ノヴァは申し訳なさそうに頭を下げた後、消えていったゴロツキたちの背中を恨めしそうに睨みつけた。
「当地区を未だに『無法者が集まるブラックマーケット』と勘違いする方がまだ多いのが、本当に頭痛の種でして……。学園化を進めたい理由の一つですね」
ノヴァの端正な顔に、日々の治安維持の苦労とそこから生まれるイライラがはっきりと浮かぶ。
コンシェルジュのような完璧な微笑みの奥に、現場を預かる指揮官としての不満が滲み出していた。
「私たちスウォーム部隊の出動コストも馬鹿になりませんし、何よりこの街に住む普通の人々にとって迷惑極まりないんです。ですが、ブラックマーケットという名目のまま『ここは安全だ』と宣伝しても、かえって良からぬ連中を呼び寄せて逆効果になっていまして……。
だからこそ、連邦生徒会に認められた『ちゃんとした学園の自治区』であると、大手を振って宣伝したいんですよ」
法的な取り締まり権限が欲しいのではなく、都市のブランドを正式なものに書き換えることで、無駄な治安維持コストを削減したい。
ノヴァの言葉は、この街が『力と資本』だけでなく、住人の安寧と経済的合理性を本気で守ろうとする為政者の視点で語られていた。
「ご安心ください。ルールを守る方には、我々は出来る限りの安全をお約束いたします。
……ちょうどあちらに、女王が直轄で出資しているオープンカフェがございます。少しお休みになられますか?」
ノヴァが再び完璧な微笑みを取り戻し、大通りに面した一等地を指し示す。
案内されたのは、パリのシャンゼリゼ通りを思わせるような優雅なオープンカフェだった。
白いパラソルの下に配置されたロートアイアンのテーブルセット。
その席に着くとすぐにウェイターのロボットが、メニューと常温水の入ったグラスを人数分運んでくる。
「わぁ! ケーキがいっぱいです!」
アリスがメニューに並ぶ色鮮やかなスイーツの写真を見て歓声を上げる。
「ん、これ、全部頼んでもいいのかな」
ヒビキが尻尾をパタパタと揺らしながら、案内役のノヴァをじっと見つめる。
ノヴァは笑顔で答える。
「もちろん。女王から、皆様の分はすべて私どもで負担するよう申し付かっております。どうかお好きなものを、お好きなだけお召し上がりください」
「太っ腹だね。じゃあ遠慮なく頼ませてもらおうか。すみません、このページのケーキ、端から端まで全部ください」
ウタハの豪快な注文に、ウェイターが注文をスマホに記入しながら「かしこまりました」と一礼して去っていく。
数分後、テーブルの上にはトリニティのお茶会で出されるような質の高いケーキの数々と、香り高い紅茶のポットとコーヒーが並べられた。
生徒達は、思い思いにケーキを選び、そして口に運んだ。
だが、実際に咀嚼を始めた彼女たちの手が、次々と鈍った。
ケーキを口にした面々は、もぐもぐと口を動かしながら、示し合わせたようにお互いの顔を見合わせた。
(金額を考えれば、最高級の材料を使っているのは理解できる。だが、明らかに何かが足りない)
声に出さずとも、その微妙な違和感がテーブルの空気を伝播していく。
同じように椅子に座っていたノヴァは、完璧な笑顔を保ちながらも、空気の変化を敏感に察知し、僅かに眉根を寄せていた。
(やはり、外の生徒にはバレてしまいますね)
ノヴァの内心に焦りと諦めがよぎった、その時だった。
「……美味しいんだけど、なんかが違うな」
サキがフォークを咥えたまま、小首を傾げて直感的な感想をぽつりと漏らす。
それに同調するように、ミカとタグが主催するお茶会によく参加し、トリニティ最高峰の茶菓子の味を知り尽くしているミユが、おずおずと口を開いた。
「あ、あの。悪口ではないんですけど」
ミユは周囲の視線が一斉に集まったことにビクッと肩を跳ねさせながらも、消え入るような声で言葉を続ける。
「たぶんまだ、作っているパティシエさんの経験が足りないんだと思います。ケーキに塗られたクリームの立て方とか、スポンジの柔らかさとか……材料はすごく良くて美味しいのに、トリニティの職人さんが作ったものに比べると、ほんの少しだけ硬いというか、技術が追いついていない気がして……」
そこまで専門的な評価を一気に口にしてから、ミユは自分に向けられる視線に気づく。
視線の主――ホシノがのんびりとした声のままだが、あきらかに目を細めている。
「うへぇ、美味しいねぇ。これ、アビドスで食べようと思ったら一ヶ月分のおやつ代が飛んじゃうよ」
ホシノはイチゴのショートケーキを美味しそうに頬張りながら、オッドアイの視線をちらりとテーブルの後輩たちへと向けているのだ。
その視線は決して鋭いものではなかったが、年長の先輩として確かな『言外の咎め』を含んでいた。
(奢ってもらっている立場で、味に文句をつけるのは失礼じゃない?)
ホシノのその無言の指摘に、ノヴァとホシノ以外の全生徒が、弾かれたようにハッと息を呑んだ。
自分たちがお客として、相手の全額負担で最高級のケーキをご馳走になっている身であることを、技術的・味覚的な探求心にかまけて完全に失念していたのだ。
「す、すみません! 自分でお金を出したわけじゃないのに、こんな偉そうなこと口にしてしまって……っ!」
ミユが真っ青になって慌ててペコペコと頭を下げ、ウタハやサキたちもばつが悪そうにフォークを置いて気まずい顔を見合わせた。
「提供されたものの背景を考える配慮に欠けていた。すまない、ノヴァ」
ウタハが素直に非を認めて頭を下げる。
だが、ノヴァは完璧な仮面をふっと崩し、年相応の少女のようなしょぼくれた顔で首を横に振った。
「いえ、謝らないでください。むしろ、正確な評価をありがとうございます。……外部の人にこうしてはっきりと指摘してもらえるのって、私たちにとっては本当に貴重ですから」
ノヴァは恨めしそうにテーブルの上のケーキを見つめ、隠しきれない現状への愚痴をこぼした。
「……来てくれないんですよね、いい腕をしている方が。いくらお給料や設備投資の予算を弾むと言っても、『ブラックマーケットと呼ばれるような場所で働いてくれないか』なんてオファーを受けてくれる一流の職人さんは、そういません。だから、経験の浅いパティシエが作っているんです」
ノヴァは自嘲気味な笑みを浮かべた。
「それに、この街の住人は女王や私たちスウォーム部隊の顔色を窺って、出されたものは全部『最高に美味しいです!』って褒めるか、あるいは本当に本物の味を知らない身内だけですからね。……ずっと、内輪で評価が完結してしまっていたんです」
潤沢な資本があり、最高の材料を揃えられても、街に付き纏う『無法地帯』という悪名が最大の足枷となって一流の人材を招聘できない。そして、権力構造による忖度で正しいフィードバックすら得られない。
それもまた、彼女がこの街の正式な学園化を急ぎ、クリーンなブランドを確立したがる切実な理由の一つだった。
美味しいスイーツと温かい紅茶。
その絶対的な平和の象徴のような空間の裏にある為政者の苦悩を知り、ミヤコは自分のカップを見つめたまま、全く手をつけることができずにいた。
「ミヤコちゃん、食べないの?」
ホシノがのんびりとした声で尋ねる。
ミヤコは顔を上げ、先輩であるホシノに自らの胸の内に渦巻く苦悩を吐露した。
「ホシノ先輩。私は、分かりません」
ミヤコの声はひどく張り詰めていた。
「無法者たちが集まるブラックマーケットで、美味しいケーキが食べられて、人々が笑顔で歩いている。そしてそれを守っているのは、私たちが信じる連邦生徒会の法ではなく、重武装の組織による徹底された管理体制でした。
私たちがSRTで学んできた正義は、弱者を守り、正しい法の下で平和を維持することでした。
でも、女王の資本で作られたこの街のやり方のほうが、D.U.よりもずっと綺麗で、治安が良く、市民は安全に暮らしているように見えます」
ミヤコはテーブルの下で両手をきつく握りしめる。
「私の考え方は、間違っているのでしょうか」
真面目すぎる後輩からの重い問いかけ。
その言葉に対し、傍らに控えていた案内役のノヴァが、誇らしげな微笑みを覗かせて口を挟んだ。
「それはこの街にとって、最高の賛辞ですね。ありがとうございます、ミヤコさん」
ノヴァは静かに一礼し、行き交う群衆へと視線を向ける。
「ですが、間違っているかどうかではなく、これがこの街の『最適解』なのだとご理解ください。……潤沢な予算があるから出来る手法ですしね、私達のやり方は」
ノヴァが語る、実利的な為政者の論理。
ホシノはフォークを置き、オッドアイの視線をカフェのパラソルの外へ向けたまま、それに同意するように静かに頷いた。
「私の意見で言うなら、場所によりけりじゃない? その場所に合うやり方があるなんてことは、どこにでもあるし」
ホシノの言葉はひどくあっさりとしていた。
「乱暴なのは否定しないけど、それ含めてこの都市のやり方なんでしょ。というか、おじさんはここのほうが気楽かな。立派なルールを盾にしてネチネチ首を絞めてくる連中より、手っ取り早く力で来る連中のほうが、よっぽど分かりやすくていいよ」
その言葉に、ミヤコはハッと息を呑んだ。
ミヤコは、自分の信じる正義だけが唯一の解だと思い込んでいた視野の狭さに気づかされ、湯気の立つ紅茶の水面をただ見つめるしかなかった。
するとホシノは、のんびりとした口調のままミヤコに視線を戻し、先輩として少しだけ真面目なトーンで釘を刺した。
「……本当は私がどうこう言える立場じゃないんだけどね。ミヤコちゃんはもっと色んな場所を、自分の目で見てきたほうがいいんじゃないかな。
どうしても考え方が、ルールとか唯一絶対の正解に頼ろうとしちゃうところがあるみたいだし」
ホシノはオッドアイを細め、ミヤコの強張った目を見つめ返す。
「それを補いたいから、ミカちゃんやサオリたちみたいな、違う経験をしてきた人に意見を聞くのは大事だけどさ。……人から聞いた答えやマニュアルだけを頼りにするのはどうかと、おじさんちょっと思うよ」
「……っ」
再度図星を突かれたミヤコは、唇をきつく噛み締めた。
困った時に教範や他者の解釈に正解を求めようとする生真面目な危うさを、ホシノは正確に見抜いていたのだ。
「場所によりけり、ですか」
ミヤコは呟き、そして自分の前にある紅茶のカップを手に取った。
法が絶対ではない。しかしだからといって、自分たちがD.U.で信じ、守ろうとしている正義が無価値になるわけでもない。ただ、それぞれの場所に合った秩序の形があるだけなのだ。
ホシノが指摘したのは、それを頭ではなく、自分自身の目で見て、肌で感じて答えを出すこと。
一口飲む。温かく、少しだけ渋みのある紅茶が、強張っていた彼女の喉を潤していく。
「ありがとうございます、ホシノ先輩。ノヴァさんも。……少しだけ、目が覚めました」
「うへへ、おじさんの説教臭い話でケーキが不味くなっちゃったらごめんねぇ」
ホシノがおどけるように笑うと、サキが改めてケーキにフォークを突き立てた。
「まったく、難しく考えすぎだぞ、ミヤコ。今はただこの美味いケーキを食って、隊長たちが戻ってくるのに備えればいいんだ」
「ええ、そうですね」
ミヤコにようやく年相応の笑みが戻った。
「ぱぱんぱんぱーん! アリスのHPとMPが完全に回復しました! さあ、次のエリアを探索しましょう!」
ケーキを三つ平らげたアリスが元気よく立ち上がる。
「いいですね! 次のエリアの候補としてこの都市のエネルギー供給源であり、一番目立つ巨大な施設がいいと思います!」
コトリの言葉を引き継ぐように、案内役のノヴァが一歩前へ進み出た。
「女王がもっとも心血を注いだ場所――この都市の東、約10キロ離れた場所にある施設があります。本日のスケジュールの最後には、そちらをご案内する予定となっております」
ノヴァの言葉に、ウタハの瞳の奥が鋭く光った。
華やかな中央区画から離れた先――女王が隠し持つ富の源泉。
美味しい紅茶の余韻の中で、生徒たちの意識はまだ見ぬ都市の暗部へと向かっていた。
そこがキヴォトス最大のゴミ集積場であり、強大な先史文明の遺跡が眠る場所であるとは、この時の彼女たちは知る由もなかった。